今日右派系論者からは、民主主義、人権、「民主的」なるものの評判が良くない。八木秀次氏の「人権は『国民の常識』を超えるか」曰く、「これを突きつけられると誰もが黙り思考停止させられてしまう黄門様の印籠のような効果を持つ『魔語』と化している」と揶揄されている。ここでは、この謂いの正当性と問題性を検証してみたい。
歴史的に観て、憲法秩序を基調とする「戦後民主主義」は、日帝の敗北によりもたらされた。このことは二つのことを意味している。一つは、人民闘争により戦前支配権力打倒の闘いを通じて勝ち取られたものではないということ。一つは、戦後のGHQ権力の発動によりもたらされた僥倖であったということである。戦後憲法が生み出される過程でのこの二つの特質が「戦後民主主義」の価値を落とし込めてきたように思われる。
19世紀ドイツの法学者イェーリングは、「権利の為の闘争」の中で、概要「『権利』という概念の最も本質的な永遠の内在的要素は『闘争』である」と喝破している。つまり、「権利の生命は闘争」であり「勝ち取る」ものだと指摘していることになるが、この観点に照らせば、「戦後民主主義」は世にも珍しい「お上から与えられた」という生い立ちを見せていることになる。
だがしかし、そういう陰りを持つ「戦後民主主義」ではあるが、その内実たるや世界史的価値を持って輝いている賢法であることはそのままに踏まえられねばならないのではなかろうか。戦後憲法は、近世の曙光を担ったルネサンス運動、以降の西欧市民革命、アメリカ独立運動、日本の明治維新、ソ連邦革命等々の流れの正統嫡出子として生み出されてきている点に偉大な価値を持っている。人類史が辿り着いた最新の市民社会法となっていることをもっと着目すべきだろう。
それは恐らく戦後を規定する冷戦構造とも関係している。進駐してきたGHQ権力は、日本をして二度と西欧権力に立ち向かわせない、悲惨な戦争を起こさないという二面的ながらもかなり合理性のある歴史的意思に沿って戦前社会の軍事的統制的要素を排斥する諸規定を設けた。これはマッカーサー治世の歴史に特記すべき功績であった。今日この史実が、米日当局者双方から歴史的に埋没させられているのは皮肉なことである。
この時、マッカーサーは、戦後日本をアメリカを盟主とする資本主義陣営に取り込むためであろうが新憲法策定を促し、そこに敵性国ソ連邦の憲法のそれよりもはるかに進んだ市民社会的諸規定を意図的に詠った形跡が認められる。最大の懸案は天皇制であったが、象徴制という離れ業で便宜的に解決せしめた。総合的に見れば、結果、最も秀でた民主憲法となり、この市民社会原理がその後の廃墟からの日本再建過程に果たした役割は特筆に価する。今日この観点が、我らが官僚独裁とその取り巻き知識人たちによって意図的に隠蔽されているのは犯罪的なことである。
「戦後民主主義」にまつわるこの両面の特性が複眼的に見られないまま、「戦後民主主義」はその後次第に形骸化せしめられてきた。戦後日本の権力構造は、政権与党自民党内の内ゲバ史に如実に反映している。自民党史とは、戦後たまさか保守本流となったハト派が隆盛し、その鬼才田中角栄が放逐されて以降次第に後退を余儀なくされ、元の木阿弥で戦前並みのタカ派系列によって乗っ取られる過程としてみなしうる。
着目すべきは、読売新聞を筆頭とするメジャーマスコミがこの転換を後押ししてきていることである。もう一つ、社共的サヨ運動もハト派系列の金権腐敗には滅法厳しく、タカ派系列とは是々非々路線を敷いているという内通性がある。これを腐敗といわずして何と云おうか。
かくて、「戦後民主主義」は、今や最終的解体過程に突入している。こたび2002.4月に上程された「有事法3法案」、「メディア規制3法案」策動は、明白に戦後憲法原理とは異なる別系統の論理によって貫かれており実質的な憲法改正となっている。小泉首相云うところの構造改革路線とは、反動的復古策動と対米隷属傾向が合体したものであることがますます明々白々となりつつある。曰く、郵政省の民営化、曰く、道路公団の民営化、曰く、石油公団の廃止、曰く、住宅金融公庫の廃止、曰く、奨学金制度の卑小化、曰く、自衛隊派兵あぁもううんざりだ。それらはなべて、「戦後民主主義」が保持していた歴史的高みからの転落であり、国策的に見ても益するものは何もなかろう。
こうした状況にあって為すべきことは次のことであろう。「戦後民主主義」の負の面の強調に対してその論にかすめとられてはならない。むしろ、「戦後民主主義」の典拠である憲法がその後どう息づいてきたのか、はたまた形骸化させられたのかの実証的な考察を通じて、「戦後民主主義」の復権と再生へ向かうべきであろう。それが実践的に見て有効であるように思われる。
なお且つ、憲法改正がしきりに云われ始めている昨今においては、あらためて憲法そのものの価値を見直して見ることが一刻も早く必要なのではなかろうか。護持に値するのか、そうではないのか、仮に改定が勢いとしても何を譲ってはならないのか、死守せねばならぬのはどこなのか、これらのことを確認する意味が極めて重要な局面に至っているように思われる。
2003.7.31日再編集 れんだいこ拝
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