42892 民主主義とは何か考

 (最新見直し2005.7.2日)

【民主主義について】

 これは、「『自由・論争』掲示板」 に、れんだいこが2000.1.18日付けで投稿したものである。一部手直し増補している。
 民主主義というと、完全無欠最高の法精神であり、制度であると思われやすい。私は最近次のように考えるようになった。この認識を突き崩さないと民主主義は維持することも擁護することも出来ないのではないかと。
 
 民主主義というのは一体何なんだろう。「民」を主とする主義として、その対極である君主政治、わが国での天皇制、あるいは封建政治の反対物として捉える観方が本当に民主主義なんだろうか。どうも違うのではないのかという気がしている。
 
 民主主義というのは、デモクラシーの和訳なのだろうが、元来はある種の政治体制に対して冠せられる言葉なのではなくて、あくまで支配者「お上」との拮抗関係の或るレベルから以上の水準に対して表現される統治の仕組みに対して述べられているものなのではなかろうか。してみれば、非常に流動的なボーダレスなか弱いあるいは根強いものなのではなかろうか。
 
 何を言っているのか分かりにくい向きもあるので、言い方を替えれば、民主主義の反対物は君主主義ではなくて、唯々諾々主義なのではなかろうかということを云いたいわけです。つまり、統治体制を言っているのではなくて統治術に対して云われているのではないかということが云いたいわけです。
 
 この区別の実践的意義は次のことにある。民主主義を護れ!と声高にする場合、その呼びかけ人の側には喧喧諤諤の議論が担保されていないと本末転倒になりはしないかということが云いたいわけである。民主主義とは、お上の強権発動による無理難題の押し付けに対して、唯々諾々で従うのではなく、ああでもないこうでもないと意見の表明から抵抗、時には革命権を行使して当局とやりあうことができる、そういう精神と制度の保障であるのではなかろうか。つまり、民主主義の精髄は支配権力との拮抗関係の中にのみあって、その様を表現しているものなのではなかろうか。
 
 ということは、民主主義を護れ!の側の運動主体内の組織に民主主義が貫徹されていないと変なことになる。私が熱心に虚構を暴いている共産党中央の考えは、「民主集中制」という表現だけは無難そうな、内実は党中央による党内強権論理で唯々諾々主義をはびこらせている。その証拠には事欠かないので割愛するが、これっておかしくはないか。

 もし、党内に党中央拝跪型の運営を得手としている政党があるならば、その党が民主主義を護れ!を云うのは背理なのではなかろうか。民主主義を護れ!の側が最も非民主主義的という超常現象の世界を現出させている訳だから。
 
 組織論というのはこれほど大事である。党是が良ければ、あるいは目的が正しければ組織のありようなぞどうでも良いという訳には行かないのではなかろうか。こういう奇態がまかり通っているのは、民主主義に対する的確な認識が出来ていないからなのではなかろうか、というようなことを考えた。このれんだいこ見解はどうだろう。競って同調の士を求む。あるいは異見の士あらば、披瀝を願う。

 れんだいこは、上述の如く民主主義論を措定するので、「民主主義とは手続きの哲学であり、思想なのだ。如何にして公正で透明な手続きが取られるのかが民主主義の成熟度を示している」ことに同意する。

 秦野章・氏の「何が権力か」に同様の観点が披瀝されているのでこれを紹介しておく。秦野氏は次のように述べている。
 「民主主義で何よりも大切なのは、『手続き』なのだから、法の運用などの手順、手続きが独裁的であれば、勇気を持って抵抗しなければならない。私たちは、民主主義という政治制度を選択しているのだから、そして、この制度が今のところ最良のものと考えているのだから、どんなに非効率的でも、どんなにはがゆくとも、この制度をぶち壊すようなやり方は好ましくない」。

民主主義論その二
 これは、「『自由・論争』掲示板」 に、れんだいこが2000.1.22日付けで投稿したものである。
 民主主義というと、完全無欠最高の法精神であり、制度であると思われやすい。私は最近次のように考えるようになった。この認識を突き崩さないと民主主義は維持することも擁護することも出来ないのではないかと。
 
 そろそろ我々は、民主主義が莫大な金食い虫であることを認識すべきではなかろうか。民主主義の精神を鼓舞することにはカネ入らないが、この精神に基づいてシステムを造り、これを維持するためには、官民合わせて相当のハイコストを要するという認識が必要なのではなかろうか。ここを見ずのキレイゴトのみで完全無欠性の民主主義が云われ、主として「革新系」から云われ続けるが胡散臭いのではなかろうか。世の中には良いことづくめの話しはありえない。当然民主主義にも欠点がある。一つは、金食い虫だということ、一つは手続き重視主義による遅滞的であるということ、この思想と制度を継承させるのには長期の教育がいる、その他云々。つまり、民主主義には功罪両面があるということになる。にもかかわらず、我々がなぜ民主主義を擁護せねばならないのか、ここを考える必要がありはしないか。
 
 民主主義は、「民」を主にするという思想であり制度であるのだから、その一人である私から見てこれが悪いわけは無い。この地平において、民主主義に代替しうるシステムがあるだろうか。史上過去へ過去へとズームさせてみても見当たりそうに無い。恐らく、民主主義の良さは、「ぼちぼちでんな」的な良さにあるように思われる。理論上は、合理性の極みから行けば、優秀な官僚集団による護送船団運営のほうが効率的でさえあるように思われし、万が一英邁偉大な指導者が現れた場合彼に唯々諾々した方が万事適切ということも考えられる。
 
 善政が敷かれれば反政府闘争も弱まり、これらを取り締まる警察権力、場合によっては自衛隊、公安活動に出費する費用も相当削減できるだろう。何と言っても一番の金食い虫は議会維持のための費用である。議員に対する手当て、その秘書に対する手当て、議会運営費用、それに選挙費用。これらの総額は一体毎年いくら支出しているのだろう。地方自治体議会から国会までの費用を集計し、これにまつわる民間の費用まで加えると、恐らく天文学的な金額を出費しているはずである。これらの費用を公共投資に向け、社会福祉に向けたほうが良い世の中づくりへのスピードは格段に早いと思われる。
 
 それでも議会は維持されねばならない。何とならば、官僚政治あるいは名君政治の陥穽として悪政へと逆行し始めたとき、その被害が又天文学的に高くつくから。史上この例を枚挙するに事欠かない。特にわが国のように自然に恵まれ、人情の中に相身互い意識、社会貢献を喜ぶ意識を高く持つ国民性を持つ場合、悪政で世の中を変にされたら馬鹿馬鹿し過ぎる。私は、政治の強権力が何もしてくれなかった方が良い国になりそうな稀有な国として日本を観ている。外交と防衛の問題を除き、住民自治で充分ではなかろうかとさえ考えることがある。
 
 それはそれとして、民主主義の成熟度のバロメーターとして機能している議会が、近年急速に民主主義的成果を失いつつあるような気がしてならない。国会の場合、答弁の出来レース、実質審議しない法案の可決、議員の族議員化、国家百年の大計から離れた私心的利権化、名誉か地位を自己目的とした老醜の溜まり場化、これらの諸事実が議会をどんどん無力形式化させているように思えて仕方ない。残る値打ちは閣僚人事か政権騒動しかない。この方面は現在活発化しつつある。国を思い、政策を争い、我が社会の良質的改変に向けての動きであろうと私は勝手に懸想しているが、どうぞそうあって欲しい。
 
 先の投稿で私は、民主主義の精髄が、支配権力との拮抗関係の中にのみあって、その様を表現しているものであると意見発表したが、これを具体的に見れば、生活享受権、自由権として法的、制度的に反映されていることが知られる。これを支える主権者意識として選挙−議会活動が加わることになるが、「絵に描いたような民主主義」なるものは存在せず、国ごとに微妙に違った特質を持っている。つまり、ザ・民主主義と云えるものはないということであろう。で、この民主主義の値打ちはどこにあるのだろうか。金食い虫である事は既に述べた。にも関わらず民主主義が維持されねばならないとする根拠はどこにあるのだろう。ここを深く論議しないと、実態がわからないものを護ることなぞ原義的に出来ないということになろう。現に進行中の形骸空洞化に対して対応できないことにもなる。民主主義なるものをもう一度原点から捉え返さねば、維持することも発展させることもこれをめぐって闘うことも出来ない。
 
 そこで、れんだいこは考えた。民主主義とは、過去の歴史を学んだところから生まれた、システム化された暴君政治掣肘権なのではなかろうか。各国によってシステムが違うのは、暴君政治のありようが違ったからである。それを思えば、日本の戦後民主主義は、戦前の天皇制統治主義に対するカウンターとして生み出されたものとして考えるべきだろう。実際には、日本人民大衆が喧喧諤諤あるいは旧権力者との丁丁発止で戦い取ったものではない。不幸なことにか幸運なことにか分からないが、GHQ権力の指揮のもとに新憲法に結実した。ここには、欧米のデモクラシーの成果を引き継いで、あるいはそれ以上の内容も含んで、旧憲法諸規定との融和もしつつ「新しいレール」として敷かれ、戦後社会はここからスタートして今日へと至っている。
 
 最近思うことは次のことである、戦後社会が重視し、暗黙のうちに推進されていた様々な活動に対して、その不備性が突かれ、どんどんメスが入りつつある。何か事件が起るたび何やら規制法案が増えつつある。斡旋利得処罰法案のことを念頭においていっているのだが、この法案で本当に議員活動の民主主義的促進が為されるのだろうか。私は非常に危惧している。最近公共投資の大幅見直しも云われつつある。中曽根内閣の時には不良採算事業の大幅削除が指令された。国鉄の赤字線の廃止がその最たるものであった。その他民営化が推進された。これらの政策と今日の公共事業の見直し的論理は底流でつながっているが、本当に適切な云いなのだろうか。私は大いに心配している。
 
 憲法見直しの改正試案を見るに、公共性という名のもとの掣肘原理が民主主義的諸権利のことごとくに冠せられようとしており、骨抜きにされようとしている。時代に適合させることの必要性にとやかく云おうとしているのではない。そういう論理で為されようとしている方向が全て旧社会的秩序、旧憲法的方向へ向けてであり、それは我々の生活諸条件維持に対して決して利益にならない方向であるのではなかろうか、ということが云いたい訳だ。
 
 下手なインテリとキレイゴト云い師と建前論者ばかりを掛け合わせて権力握らせると、ろくな世の中にならないような気がしている。そういう意味で、連中の奏でる論理とイデオロギーに対する徹底的な反逆こそ今望まれているのではなかろうか。

中小企業融資違反事件について 
- れんだいこ ( 12/16 22:32:33 )
 └Re:民主党の横路−鳩山論争について 
- れんだいこ ( 12/18 19:49:19 )
  └Re:「保守本流」について 
- れんだいこ ( 12/23 13:36:34 )
   └Re:民主主義について   
- れんだいこ ( 01/18 21:30:29 )
    └-Re:民主主義論その二   
- れんだいこ ( 01/22 19:31:35 )
中小企業融資違反事件について 
- れんだいこ ( 12/16 22:32:33 )
 └Re:民主党の横路−鳩山論争について 
- れんだいこ ( 12/18 19:49:19 )
  └Re:「保守本流」について 

 民主主義には、「たたかいとしての民主主義」「制度としての民主主義」「思想としての民主主義」の三つの側面があると説明されることもあります。
 「たたかいとしての民主主義」は、民主主義の原点であり、核心をなし、「制度としての民主主義」は、人民のたたかいによって獲得された成果であり、所産をなし、同時に、それは「たたかいとしての民主主義」の武器となります。「思想としての民主主義」は、人民のたたかいの中で自覚化され、人民のたたかいをつうじて形成され、同時に、それは人民のたたかいを導き、たたかう人民の心を支え、人民のたたかいを思想的に根拠づけるものです。したがって「制度としての民主主義」の思想的前提ともなります。
 なお、「方法・手続きとしての民主主義」は、「自由な選挙」「多数決」「小数意見の尊重」そしてなによりも「言論の自由」と、「暴力の否定」が原則です。
 「基本方向」でいう「民主主義が感情や感覚、そして生活文化として確立」するとは、前述の「思想としての民主主義」の問題と深く結合しています。「一般に、人間が制度をつくり、また制度が人間をつくるといわれる。そうであるなら、民主的人間主体が民主的制度をつくり、民主的制度が民主的人間主体をつくる」という制度と思想・文化の相関関係を正しく理解する必要があります。
 部落にたいする偏見を克服していくには、「思想としての民主主義」の確立を土台とし、「民主主義が国民道徳、市民道徳としても確立し、民主的な社会秩序が自覚的に形成されること」であり、生活レベルで民主主義が日常化し、国民一人ひとりの血となり、肉となっていくことです。ただ、部落問題を解決していく上での「思想としての民主主義」という場合、前近代的、封建的な意識の克服が、この問題では射程内にあるのであり、具体的には戦後民主主義の定着、前進ということになります。すなわち、現憲法の平和的民主的条項の形骸化、空洞化に反対し、基本的人権などの条項の実質化、内実化をめざすなかで、これを十分会得した人間および社会の創造が求められます。




(私論.私見)