これは、「『自由・論争』掲示板」 に、れんだいこが2000.1.18日付けで投稿したものである。一部手直し増補している。
民主主義というと、完全無欠最高の法精神であり、制度であると思われやすい。私は最近次のように考えるようになった。この認識を突き崩さないと民主主義は維持することも擁護することも出来ないのではないかと。
民主主義というのは一体何なんだろう。「民」を主とする主義として、その対極である君主政治、わが国での天皇制、あるいは封建政治の反対物として捉える観方が本当に民主主義なんだろうか。どうも違うのではないのかという気がしている。
民主主義というのは、デモクラシーの和訳なのだろうが、元来はある種の政治体制に対して冠せられる言葉なのではなくて、あくまで支配者「お上」との拮抗関係の或るレベルから以上の水準に対して表現される統治の仕組みに対して述べられているものなのではなかろうか。してみれば、非常に流動的なボーダレスなか弱いあるいは根強いものなのではなかろうか。
何を言っているのか分かりにくい向きもあるので、言い方を替えれば、民主主義の反対物は君主主義ではなくて、唯々諾々主義なのではなかろうかということを云いたいわけです。つまり、統治体制を言っているのではなくて統治術に対して云われているのではないかということが云いたいわけです。
この区別の実践的意義は次のことにある。民主主義を護れ!と声高にする場合、その呼びかけ人の側には喧喧諤諤の議論が担保されていないと本末転倒になりはしないかということが云いたいわけである。民主主義とは、お上の強権発動による無理難題の押し付けに対して、唯々諾々で従うのではなく、ああでもないこうでもないと意見の表明から抵抗、時には革命権を行使して当局とやりあうことができる、そういう精神と制度の保障であるのではなかろうか。つまり、民主主義の精髄は支配権力との拮抗関係の中にのみあって、その様を表現しているものなのではなかろうか。
ということは、民主主義を護れ!の側の運動主体内の組織に民主主義が貫徹されていないと変なことになる。私が熱心に虚構を暴いている共産党中央の考えは、「民主集中制」という表現だけは無難そうな、内実は党中央による党内強権論理で唯々諾々主義をはびこらせている。その証拠には事欠かないので割愛するが、これっておかしくはないか。
もし、党内に党中央拝跪型の運営を得手としている政党があるならば、その党が民主主義を護れ!を云うのは背理なのではなかろうか。民主主義を護れ!の側が最も非民主主義的という超常現象の世界を現出させている訳だから。
組織論というのはこれほど大事である。党是が良ければ、あるいは目的が正しければ組織のありようなぞどうでも良いという訳には行かないのではなかろうか。こういう奇態がまかり通っているのは、民主主義に対する的確な認識が出来ていないからなのではなかろうか、というようなことを考えた。このれんだいこ見解はどうだろう。競って同調の士を求む。あるいは異見の士あらば、披瀝を願う。
れんだいこは、上述の如く民主主義論を措定するので、「民主主義とは手続きの哲学であり、思想なのだ。如何にして公正で透明な手続きが取られるのかが民主主義の成熟度を示している」ことに同意する。
秦野章・氏の「何が権力か」に同様の観点が披瀝されているのでこれを紹介しておく。秦野氏は次のように述べている。
「民主主義で何よりも大切なのは、『手続き』なのだから、法の運用などの手順、手続きが独裁的であれば、勇気を持って抵抗しなければならない。私たちは、民主主義という政治制度を選択しているのだから、そして、この制度が今のところ最良のものと考えているのだから、どんなに非効率的でも、どんなにはがゆくとも、この制度をぶち壊すようなやり方は好ましくない」。 |
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