家永教科書訴訟考

 家永氏が旧文部省の不合格処分などを不服として第一次教科書訴訟を起こしたのは昭和四十年六月。教科書検定が憲法で禁じられた「検閲」「学問の自由の侵害」などにあたるとして訴えた裁判だが、当初から政治運動としての色彩を強く帯びていた。末川博氏や中野好夫氏、松本清張氏ら当時を代表する「進歩的」といわれた知識人の応援を受けながら、“教科書裁判の闘士”として偶像視されていった。

 家永氏が第三次訴訟を起こした昭和五十九年以降は、中国や韓国などからの外圧もあって、南京事件や慰安婦について家永氏の教科書を上回る一方的な記述が登場。家永氏は裁判の目的について「勝敗を度外視して正論を世間に訴えることだ」といっていた。その意味では、家永氏の裁判闘争は政治目的を十分に達成したといえよう。

 1965年第一次訴訟。32年間で、家永教科書訴訟は終局を迎えました。

 当事者だった菱村幸彦(国立教育研究所所長・前初中局長)氏は「不毛な争いだった。不毛というのは、この裁判によって教育界に実りをもたらしたものは何一つないと考えるからだ。これからの教育論議は法律の用語ではなく、教育の言葉で真摯に、穏やかに話し合いたい。(朝日新聞8月30日)」。

 この訴訟は第一に文部省の教科書検定制度が日本国憲法第十三条(個人の尊重)、二十一条(表現の自由)、二十三条(学問の自由)、二十六条(教育を受ける権利)、教育基本法十條(教育行政)に違反するかかどうか。第二に教科書検定の際、政府行政が行なう改善意見、修正意見と呼ばれる行政指導が行政の裁量権の範囲を逸脱して不当行為にあたるかどうか。この二点の裁判であった。これは賠償請求訴訟でした。それで制度は合法であるが、行政裁量権の逸脱があって不当行為であるとして国家賠償を行うべきである、と判決したわけです。

−− 行政裁量権の逸脱(不当行為)があったと二審が認容した
@「南京大虐殺」
A「日本軍の残虐行為」
B「草莽(そうそう)隊」
最高裁第三小法廷が認容した
C「七三一部隊」
沖縄戦の「集団自決」をめぐる検定意見の違法性。


計四項目が行政の裁量権の範囲を逸脱した不法行為に当たり、国家賠償を行なうべきである・・・となったわけですね

家永三郎さんは「判決は検定意見が違法を含むものだということを最高裁が認めた。違法としなかった部分でも裁判官の意見は違法、合法で割れている」。

 文部行政には教育基本法十条で「諸条件の整備」が要請されています。ですから、検定制度は「諸条件の整備」にあたると言っていた。これが合憲とされた以上、制度は確立されたと言ってよい。
検定に伴う改善意見、修正意見を政府行政が行なってよいのかどうか。政府行政が行なうことは「不当な支配」になるのではないかと考えられるわけです。
 
 判決文では改善意見、修正意見は文部大臣が行ったとしています。厳密な意味では「不当な支配」にあたりますね。ドイツのように関係国の専門学者による会議制にすべきですよ。


 最高裁の判決文を読むといいですよ。政府行政の裁量権の範囲は「裁量基準」として枠を設けました。学説状況、教育状況についての認識を逸脱しないことと言う解りずらい表現をしています。情報開示がまったく行なわれていなかったことが、その要因ですからね。

 ところが文部大臣の談話は「判決は教科書検定制度の正当性と必要性を確認した上で、検定意見の一部について違法と判断した。」と、まるでゲーム感覚そのものです。
 虚者 菱村幸彦(国立教育研究所所長・前初中局長)にいたっては「この裁判によって教育界に実りをもたらしたものは何一つないと考える。これからの教育論議は法律の用語ではなく、教育の言葉で真摯に、穏やかに話し合いたい。」などとほざいている。なにか、どこかが狂っています。


結審した教科書訴訟

 1980年代の教科書検定をめぐり、書き換えを命じられた家永三郎・東京教育大名誉教授が、国に損害賠償を求めた第3次教科書訴訟の上告審口頭弁論が18日、最高裁第3小法廷で開かれ結審した。提訴以来、13年半にわたった3次訴訟もいよいよ8月29日には判決が出る。

 83歳の家永氏は最後の意見陳述で美濃部達吉博士が1939年「帝国大学新聞」に寄せた一文を読み上げ、長かった裁判闘争を締めくくった。

 「司法権の独立は、単に政府の圧迫に屈しないことによって保たれるものでなく、それより大切なことは、司法当局が進んで政治勢力に迎合するような傾向がいささかなりともあってはならないことである」

 今後、教科書の執筆には携わらないという家永氏の胸中には、戦前の憲法学者として筋を通した美濃部博士の姿勢を忘れてはいけないとの思いが強かったのだろう。明治憲法下の学校教育がすべからく、時の政治権力への同調を目的としていたことを指摘して「痛歎(つうたん=非常に嘆き悲しむこと)の思いを禁じ得ない」と述べた。

 教科書検定制度をめぐり高校用日本史教科書の執筆者が国側を相手に3次にわたって争った家永教科書訴訟は、国内のみならず、アジア近隣諸国からも大きな注目を浴びた。文部省が旧日本軍による「侵略」を「進出」と書き換えるように教科書会社に求めたことから国際問題に発展した。教科書は次世代に歴史を正しく教えるものでないといけない。 


参考資料1 家永教科書裁判の位置付け

教科書検定問題で必ずふれられている事項である家永教科書裁判について触れてみたい。(教科書検定問題の違法性を中心に)

1、家永氏の主張
A、検定は憲法の禁止する検閲(憲法21条)にあたるものであり、結果として学問、思想、表現の自由を侵している。
B、教科書検定制度のような制度を通し、教育内容を国家機関によって一元的に統制することは憲法、教育基本法に反する。

というものである。その後1997年の第3次教科書裁判際高裁判決がでるまでの32年間の間原告は訴えつづけた。

2、教科書判例のターニングポイント
ここでは教科書裁判でポイントとなった判例について考えていく。

一、1970年
杉本判決
 現行検定制度は言えないが、その運用を誤り、審査が教科書の思想内容の審査、学術的研究の成果としての学説の審査、史観、歴史的事象の評価などに及ぶときは違法となるとしている。教育課程その他の教育内容については一定の限度を越えて権力が介入をすることは不当な支配とした。検定を客観的に明らかな誤りやその他の技術的事項にとどめるべきだとした。また教師は、子どもに考える力、知る力、想像する力をつけさせるものであるので教師に学問の事由と教育の自由が保障されなければならないとした。
二、1975年
畔上判決
 杉本判決の影響を受け、文部大臣の検定は、「一貫性、安定性を欠くまま気ままに出た行政行為」とし違法であると判断したのである。
三、1989年
加藤判決
 検定制度については合憲としながらも、「教育内容に対する国家的介入はできるだけ抑制的であること」と結論付けました。また家永教科書の場合には「草莽隊」の記述に関しては異邦としました。
四、1993年
可部判決
 28年続いた1次訴訟の最高裁判決。教科書検定制度を「合憲、合法」とした原審の鈴木判決に最高裁は「看過し難い過誤」はないとして、それまでの文部行政に追随することとなった。
五、1997年
最高裁第三小法廷判決
(家永教科書最後の判決)
 これまでの判決同様検定制度を「合憲」とした。検定制度が必要という合理的な理由としては、子どもの批判能力がまだないこと、教育内容が正確、中立、公正であること、それが全国的に一定の水準であること、教育内容が子どもの心身の発達段階に応じたものにしなければいけないことが要請された。またこの検定制度について、「看過し難い過誤」として従来の「草莽隊」、「南京大虐殺」、「南京戦における婦女暴行」」のほかに、「731部隊」が新たに違法とされたのである。

参考資料
「検定制度に違法あり」(教科書検定制度を支援する全国連絡会著)

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