ほんみち分派考 |
更新日/2019(平成31→5.1栄和改元)年.4.6日
(れんだいこのショートメッセージ) |
【ほんみち分派考】 |
大西を生神、天啓者、人間甘露台としたほんみちは、大西以降次から次へと自称甘露台を生んだ。天理三輪講を開いた勝ひさのの安子韓露台、天理神之打開場所を開いた渡辺そよによる政子甘露台、天理神之口開場所を開いた山田梅次郎の根株甘露台(梅の木甘露台)、大西の娘であるや大西玉を真正甘露台とする天理みろく会(現ほんぶしん)等々陸続している。 山田梅次郎は、1899(明治32)年に病気を契機として天理教に入信し、その後天理教の教師も務めたが、1912(大正元)年に突然の神懸りをし、霊力を得たとされる。その後梅次郎は大西の天理研究会を初めとして、当時成立していた幾つかの天理教系の教団を遍歴する。この頃から梅次郎は神の言葉が得れるようになり、梅次郎の天啓を求めて人々が参集して来るようになる。梅次郎は天啓により、信者に「甘露水のさづけ」と呼ばれる救済の秘儀を行い、合わせて当時すでに天理教内に於いて公式的には廃止されていた「扇のさづけ」、「息のさづけ」による直接的な癒しを行っていた。「甘露水のさづけ」を受けた者は、修行と心がけ次第で誰でも「扇の伺い」ができるものとされた。1937(昭和12)年、自らを善兵衛の生まれ変わりであるとして天啓者「根株甘露台」(梅の木甘露台)を名乗り教団を開いた。しかし1938(明治13)年、天理神之口開場所関係者の検挙、結社禁止処分、続いて1941(昭和16)年の梅次郎の死によって教団は壊滅的な打撃を被ることにになった。 その有力神者や梅次郎の子供たちがそれぞれ独自に活動を再開し、それらの中でも代表的な教団が、江上寿胤を教祖とするおうかんみちである。江上は、1928(昭和3)年に神の導きにより天理教に入信。以後大西愛治郎同様に天理教の布教師として単独布教に尽くし、やがて天啓者不在の天理教信仰に疑問を抱くようになり、そうした折に山田梅次郎の「根株甘露台」(梅の木甘露台)の下に参集し、天理神之口開場所の信者として信仰を続けていくことになった。江上は、「根株甘露台」(梅の木甘露台)の後継者、自らが「ひょうたんの木甘露台」であるとの霊能を得て次なる甘露台と自覚するに至った。梅次郎の死後、新たな天啓者として教団を確立していく。 |
(私論.私見)