大西愛次郎履歴

 更新日/2019(平成31→5.1栄和改元)年.8.17日

 (れんだいこのショートメッセージ)
 れんだいこは学生時代に村上重良氏の「ほんみち不敬事件」を読み、天理教を祖として開教された「ほんみち」(以下、「ほんみち」の前にひらがなが表記される箇所につき「*ほんみち」と記して識別することにする)に関して漠然たる憧憬を覚えた経緯がある。そういう意味で、ほんみちが天理教研究の入り口になったことになる。それはそれで済んでいたのだが、その数年後、天理教本部と機縁があり、訳の分からないままその聖地おぢばに誘われ、修養科生として過ごす身になった。れんだいこ27歳の秋頃のことである。結局、修養科生としての3ヶ月を二度重ねて都合6ヶ月過ごした。不思議なことに、お道教理とよほど相性が良く次から次へストンストンと治まった。あいた時間を見つけては教本を読み耽った。おぢばを離れるに当たって、私なりの天理教教祖伝を書き上げることを心定めした。とはいえ世事忙しく、自堕落のままに過ごした時期もありで、その間はむしろ「お道」から遠ざかり、なかなか書き上げられなかった。筆を折り折り休み休みしながら丁度50歳頃までに一応の教祖伝を綴ることができた。こたび書き直しながら、そもそもの機縁となった*ほんみちについても確認しておこうと思った。そういう訳で、本サイトで、れんだいこの*ほんみち論を確立しておこうと思う。

 2007.12.7日 れんだいこ拝


【ほんみち論その1、天理教本部とほんみちの教義的正統考】
 さて、宗派としての*ほんみちをどう位置づけるべきだろうか。天理教教祖中山みきの原教義との関係で、天理教本部と*ほんみちとでは、どちらがより忠実なのだろうか。まずここを明らかにせねばならない。

 左派的には、ほんみちの方だろうと位置づけるのが普通だろう。なぜなら、現象的に見る限り、天理教教祖中山みきの「80歳を越してなお度重なる拘引御苦労のひながた」を踏んだのは*ほんみちであるのに比して、他方、天理教本部は応法化に勤しみ、当局の要請に従い、教祖中山みき教義の核心である「元始まりの話」(「泥海古記」)を隠匿し、その他教義全般を改竄し、教義的に相容れぬ「好戦型皇国史観」(「国胎的な和合型皇国史観」と区別する為にこう表記する)に与し時局に迎合しつつあった。

 天理教本部のこういう動きに対して、ほんみち派は「元始まりの理話し」を毅然と掲げ、結果的に戦前の左派運動が遠く及ばない真っ向勝負の反天皇制運動を繰り広げ大弾圧を喫した。この史実に鑑みると、ほんみちこそが天理教原理派であることは疑いないように思われる。れんだいこは、村上重良氏の「ほんみち不敬事件」でその史実を知らされ、以来*ほんみちを畏敬している。

【ほんみち論その2、天理教本部の応法主義批判】
 ところが事はそう簡単ではない。ほんみちの開祖・大西愛治郎の教理は、天理教教義の核心として天啓教であることを重視しているところに特徴がある。大西は、この観点から、教祖中山みきを後継した本席・飯降伊蔵の「お指図」を極限まで問い詰め、独自の解釈を生み出した。大西は、本席没後以降に於いて天理教本部が天啓者を喪失していることを重視し、1913(大正2)年8.15日の「甘露台人の理の御踏み定め」の体験により大西自身に神がかったことを伝え、「天理教祖の理の跡目相続人」として、「三軒三棟の理」により中宮に迎え入れるよう願い出るところから*ほんみち活動を始発させている。

 その背景にあったのは、教祖中山みきの意向に反して、天理教を中山家を頂点とするいわば封建的な「お家」秩序の下に再編成しようとする動きであり、中山家化に並行して天理教本部の止めどない応法化が進行していた。応法化による教義改竄が上から進められ、教祖の御教えとは逆方向の水戸学系譜&国際ユダ邪式改造天皇制論とも云うべき「好戦型皇国史観」を迎え入れ、折衷混交式に教義展開し始めていた。この頃は、合法化されたことにより教勢をうなぎ上り式に倍化させつつあったが、それは同時に教団内に腐敗と堕落をも醸成して行く道程でもあった。

 大西は、この情況に対して敢然と、「天理教は中山家のものではない」、「応法化は教祖の御教えに反する」、「御教えに帰れ」、「泥海古記が教義の核心であり、隠蔽は許されない」とする諸点から天理教本部に反発し、「逆匂い掛け」運動を開始した。これを仮に「天理教本部の応法主義批判」とすると、大西の指摘には鋭いものがあり、本部に敢然と闘いを挑んだ*ほんみち運動はその限りに於いて正当性を有していた。かく評価されるべきではなかろうか。

 但し、この面に於いては、天理教本部の言い分も聞かなければならないだろう。れんだいこは、当時の応法化があながち責められるべきとは思わない。天理教本部の応法化は、押えに押えられていた教勢の法的保護と信者の安定的囲い込みを図るものであり、応法化には応法化の並々ならぬ苦心惨憺があり、苦吟しつつこの道を切り開いていたという経緯が認められる。これは、その巧拙、良し悪しは別として、一般に教義とは別に組織論として必要とされる財務問題であり、致し方なかった面があると考える。俗化は、恒常的な組織形成がもたらす宿命的な必要悪智恵であり、天理教本部のみが責めを負わされる必要はないと思っている。

 但し、天理教の場合とりわけここが難しい仕掛けになっている。教祖中山みき教義の白眉として人類創造譚があり、これによれぱ親神が人間と世界を創造したのであり、信徒としてはその時の親神の思いを実践するのが最重要であるのに、作られた側の人間つまり子供側が作った法律になぜ縛られる必要があるのか、みきはこう説き続けていた。天理教は、この御教えを廻り、信仰生成期から親神一途の教祖派と世渡り応法派が対立していた。教祖亡き後、高弟の一人であった飯降が本席を継いだが、教義硬派の教祖に比してやや軟派と云う違いがあった。その本席派と真柱派が応法の手法を廻って根深い対立を繰り広げた。本席はナライトを後継指名して没したが、真柱派の絶対権力が確立し、その応法は次第に限度のないものへ深入りし、度を越した教義改竄と腐敗落腐の道へ入り込みつつあった。

 こういう背景を考えると、天理教教祖の神言は他の宗教に比して徹底的に原理的であり、非妥協的なものであったが故に、そういう教義から始まる天理教に於ける内からのなし崩しの応法化は自己否定の道であり、咎められるべきだろう。本席没後、ほんみちが本席派に位置しながら真柱派(本部派)批判を開始したのは正当だったと考える。教内に「長いものに巻かれよ」式の恭順がはびこり始めた時、これに抗議するのは必要なことであったと考える。こういうことは何も天理教内だけのことではなかろうが。

 れんだいこのカンテラ時評354/れんだいこ/2007.12.16
 【ほんみち論その2、天理教本部の応法主義批判】

 さて、宗派としての*ほんみちをどう位置づけるべきだろうか。天理教教祖中山みきの原教義との関係で、天理教本部と*ほんみちとでは、どちらがより忠実なのだろうか。まずここを明らかにせねばならない。

 左派的には、ほんみちの方だろうと位置づけるのが普通だろう。なぜなら、現象的に見る限り、天理教教祖中山みきの「80歳を越してなお度重なる拘引御苦労のひながた」を踏んだのは*ほんみちであるのに比して、天理教本部は応法化に勤しみ、教祖中山みき教義の核心である「元始まりの話」(「泥海古記」)を隠匿し、その他教義全般を改竄し、教義的に相容れぬ皇国史観に与し時局に迎合していった。

 天理教本部のこういう動きに対して、ほんみち派は「元始まりの理話し」を毅然と掲げ、結果的に戦前の左派運動が遠く及ばない真っ向勝負の反天皇制運動を繰り広げ大弾圧を喫した。この史実に鑑みると、ほんみちこそが天理教原理派であることは疑いないように思われる。れんだいこは、村上重良氏の「ほんみち不敬事件」でその史実を知らされ、以来*ほんみちを畏敬している。

 ところが事はそう簡単ではない。以下、その次第を見ていくことにする。

 ほんみちの開祖・大西愛治郎の教理は、天理教教義の核心として天啓教であることを重視しているところに特徴がある。大西は、この観点から、教祖中山みきを後継した本席・飯降伊蔵の「お指図」を極限まで問い詰め、独自の解釈を生み出した。

 大西は、本席没後以降に於いて天理教本部が天啓者を喪失していることを重視し、大正.8.15日の「甘露台人の理の御踏み定め」の体験により大西自身に神がかったことを伝え、「天理教祖の理の跡目相続人」として、「三軒三棟の理」により中宮に迎え入れるよう願い出るところから*ほんみち活動を始発させている。

 その背景にあったのは、天理教本部が、教祖中山みきの御教えに背いて、天理教団を中山家を頂点とするいわば封建的な「お家」秩序の下に再編成しようとする動きであり、それに呼応した応法化であった。この流れにより教義改竄が上から進められ、教祖の御教えとは馴染まない皇国史観を迎え入れ、折衷混交式に教義展開し始めていた。この頃、合法化で力を得た天理教団の教勢が倍化しつつあり、それに応じて教団内に腐敗と堕落がはびこりつつあった。

 大西は、この情況に対して敢然と、「天理教は中山家のものではない」、「応法化は教祖の御教えに反する」、「御教えに帰れ」、「泥海古記が教義の核心であり、隠蔽は許されない」とする諸点から天理教の正統を争い、本部派に逆「匂い掛け」運動を開始した。これを仮に*ほんみちの天理教本部の応法主義批判」とすると、大西が指導した*ほんみち運動はその限りに於いて正当性を有していた。かく評価されるべきではなかろうか。

 但し、この面に於いては、天理教本部の言い分も聞かなければならないだろう。れんだいこは、当時の応法化があながち責められるべきとは思わない。布教の合法化は何としてでも勝ち取らねばならない流れにあり、天理教本部がこれに取り組んだことは当然であった。応法化の眼目は、教勢の法的保護と信者の安定的囲い込みを図るものであり、私利私欲で為したものではない。一口に応法化といってもその過程には並々ならぬ苦心惨憺があり、苦吟しつつこの道を切り開いていったのであり、このこと自体には咎はなかろう。

 この問題は、その巧拙は別として、一般に教義とは別な組織論に関係しており、主として合法と財務問題であり、致し方なかった面があると考える。恒常的な組織形成がもたらす宿命的な別智恵であり、天理教本部のみが責めを負わされる必要はないと思っている。

 但し、天理教の場合特殊にここがややこしい。なぜなら、教祖中山みき教義の白眉として人類創造譚があり、これによれば親神が人間と世界を創造したのであり、信徒としては親神の創造時の思いを聞き分け実践するのが信仰目標であるのに、作られた側の人間つまり子供側が作った法律になぜ縛られる必要があるのか、という問題が提起されている。ましてや、教祖みきは頑なに親神一途の信仰を説き続けていたという経緯がある。

 思えば天理教は、親神一途のこの御教えを廻り、信仰生成期から親神一途の教祖派と世間並みの世渡りを目指す長男秀司を始めとする応法派が対立していた。教祖亡き後、高弟の一人であった飯降が本席を継いだが、本席は、教祖みきの御教えが崩されない範囲での応法を止むなしとしていた。しかし底流で、本席派と秀司の跡目を継いだ真柱派が応法の手法を廻って根深い対立を繰り広げた。

 本席はナライトを後継指名して没したが、ナライトの出る幕は限られ、ナライトが押し込みされて以降、真柱派の絶対権力が確立した。真柱派の応法主義は次第に限度のないものへ深入りし、やがて教義改竄と腐敗落腐の道へのめりこんでいった。

 こういう経緯を考えると、天理教教祖の神言が、他の宗教に比して徹底的に原理的であり、非妥協的なものであったが故に、教団内が絶対矛盾に陥ったことが分かる。常識的には、そういう教義から始まる天理教である以上、なし崩しの応法化は自己否定の道であり、咎められるべきだろう。これが弁えとなるところ、天皇制絶対主義に屈服し、次第に協力の度を深めていったという否定事象が認められる。

 そういう意味で、本席没後、ほんみちが本席派に位置しながら真柱派=本部派批判を開始したのは正当だったと考える。教内に「長いものに巻かれよ」式の恭順がはびこり始めた時、これに抗議するのは必要なことであったと考える。こういうことは何も天理教内だけのことではなかろう。

 2007..12.15日 れんだいこ拝

【ほんみち論その3、近代天皇制批判】
 ほんみちが評価される視座としてもう一つ、当時の天皇制との闘いがある。れんだいこは、ほんみちのこの方面での理論に注目している。近代天皇制との理論的実践的闘いは、天理教教祖中山みき以来の伝統的なものであるが、当時の天理教本部はこの方面に於いてほぼ完全に批判能力を喪失していた。他の多くの教団教派と同様に喧伝される皇国史観圏内に教義を合わせることにより生息を目指しつつあった。これに対し、ほんみちが、近代天皇制の根本原理批判に向かい、数次の弾圧を経てもなお当局と対峙したのは圧巻であった。れんだいこは、そう考える。

 こうなると、ほんみちの近代天皇制批判はいかなるものであったのかを検証せねばなるまい。それは、教祖の比類なき人類創世譚「元始まりの話」(「泥海古記」)に基づき、近代天皇制の在り様がこの原義に照らしてそもそも不正であるとして批判を開始し、明治新政府の目指そうとしている富国強兵型強権政治が誤りであることを警鐘乱打した。この意味に於いて、ほんみちは、中山みき教祖の呼号した「人類創造の親神の思いにかなう世直し、世の立替え」の忠実な実践者であった。

 教祖みき-ほんみちの天皇制批判の秀逸さはもう一つ、明治維新以来の特殊な近代天皇制の異邦人を告発したことにある。れんだいこに云わせれば、この指摘が今輝き始めている。最新の学問的研究によれば、明治維新以来の天皇制はそれまでの天皇制とは明らかに別物であり、流行りの言葉で云えば、ネオシオニズムに拝跪し傀儡と化した変態的天皇制であった。

 王制復古型近代天皇制の好戦型皇国史観に基く、いわゆる天皇制絶対主義は、明治天皇、大正天皇、敗戦後の戦後憲法で象徴化されるまでの昭和天皇の三代に於いて制度化されていたものであるが、押し込められた大正天皇を除き、明治天皇然り昭和天皇はなお然りで明らかにネオシオニズムに懐柔されており、仕立てられたそのシナリオ下で現人神として君臨しつつ猛威を振るった形跡がある。最新の学問的研究はこのことを明らかにしつつある。

 戦前あまたの批判勢力が存在したにも拘らず*ほんみち以外には、近代天皇制を1・強権的天皇制はそもそも人類創造に当たって一列平等とした親神の思いにかなわないとする原義批判、2・今の天皇には天徳なしとする天徳批判、3・世界を唐人が牛耳っており、天皇も唐人であるとする批判の三点で捉え、この体制に毅然と立ち向かった者はいない。

 ほんみちは、これをどのように世に問うたのか。社会主義-共産主義運動が、治安維持法の法網から逃れようと、内輪的な意思統一に汲々としていた折柄、ほんみちは果然、1928(昭和3).3.23日、ほんみちの方から奈良県庁への「昭和3年の打ち出し」を皮切りに、全国的な規模で官庁、府県庁、警察署、知名人、有力者等々に公然と「研究資料」を配布し、宣伝員が臆することなく内容を説いて廻った。

 その背後には、大西には大西の長男・愛信の身上があり、愛信の要請という宗教的事情があったにせよ、こうして*ほんみち側から捨て身の行動に決起している。取締り当局は、衝撃を受け、報道管制を敷きながら内偵を進め、4月初旬、一斉検挙に向かった。約500名に及ぶ信徒が検挙され、そのうち約180名が不敬罪で起訴された。世にこれを「ほんみち第一次不敬事件」と云う。

  「ほんみち第一次不敬事件」から10年後の1938(昭和13).8.12日、ほんみちは、こたびは大西の妻トヲの身上を奇禍として「憂国の士に告ぐ」と題した書信を大阪朝日、大阪毎日新聞社へ届けた。これを「昭和13年の打ち出し」と云う。これを契機に二人一組の説明班を編成し検事局、警察署、憲兵隊に出向き所信を表明した。全国の信徒が約900万部を個別配布した。11.21日、第一次一斉検挙で約1千名の信徒が検挙され、約400名が収監された。昭和14.5月、第二次一斉検挙206名が逮捕され、全部で273名が起訴された。世にこれを「ほんみち第二次不敬事件」と云う。

 宗教的と云えば余りにも宗教的なこの経緯は、右派系左派系歴史書の殆どが記さない史実である。れんだいこは、客観的に見て、近代天皇制に真っ向勝負した稀有な快挙として触れざるを得ない。左派系のインテリジェンスからは理解できない愚挙であったにせよ、黙することは不遜過ぎるのではなかろうか。思えば、こういう恣意式の歴史書、歴史観で、我々の眼はくらまされ続けているのではなかろうか。れんだいこが、れんだいこ史観を打ち出さざるを得ない所以がここにある。

 付言しておけば、れんだいこ史観で云えば、世上云うところの明治維新の概念は正しくない。本来は幕末維新と捉えるべきで、この幕末維新は「上からの幕末維新」と「下からの幕末維新」の二通りから進められたとみなすべきではなかろうか。「上からの幕末維新」は「明治維新」として結実したものの、これを推進したのは国粋派とネオシオニズム派の二派であった。その最大功労者が国粋派内西郷派であり、その西郷派の失脚と共にネオシオニズム派が天下を取り、最終的には西欧化と云う名の下で実は国際ユダ邪の下僕化させられていった。その後の明治、大正、昭和は紆余曲折しながらもネオシオニズム派が次第に地歩を固めていく歴史となった。

 他方、「下からの幕末維新」は、自由民権運動に代表される政治運動と教派神道と呼ばれる宗教運動に分岐して、結局鎮圧された。自由民権運動はその後マルクス主義派、無政府主義派、労使協調派等々に分岐する。他方、ほんみちは、大本教と共に最後の「下からの幕末維新」を打ち上げた。それは「下からの幕末維新」の嫡出子運動だったのではなかろうか。そういう気がする。この観点からの「れんだいこ式幕末維新論」を書き上げてみたいと思っている。

 れんだいこのカンテラ時評353/れんだいこ/2007.12.15
 【ほんみち論その3、近代天皇制批判】
 
 ほんみちが評価される視座としてもう一つ、当時の天皇制との闘いがある。れんだいこは、ほんみちのこの方面での理論に注目している。近代天皇制との理論的実践的闘いは、天理教教祖中山みき以来の伝統的なものであるが、当時の天理教本部はこの方面に於いてほぼ完全に批判能力を喪失していた。他の多くの教団教派と同様に、維新政府の喧伝する皇国史観圏内に教義を合わせることにより生息を目指しつつあった。これに対し、ほんみちが、近代天皇制の根本原理批判に向かい、つまり維新政府の皇国史観と立ち向かい、数次の弾圧を経てもなお当局と対峙したのは圧巻であった。れんだいこは、そう考える。

 こうなると、ほんみちの近代天皇制批判はいかなるものであったのかを検証せねばなるまい。それは、教祖の比類なき人類創世譚「元始まりの話」(「泥海古記」)に基づき、近代天皇制の在り様がそもそも人類創造の原義「一列平等」に照らしてそもそも不正であるとして批判を開始し、明治新政府の目指そうとしている富国強兵型強権政治が誤りであることを警鐘乱打した。この意味に於いて、ほんみちは、中山みき教祖の呼号した「人類創造の親神の思いにかなう世直し、世の立替え」の忠実な実践者であった。

 教祖みき-ほんみちの天皇制批判の秀逸さはもう一つ、明治維新以来の特殊な近代天皇制の異邦人性を告発したことにある。れんだいこに云わせれば、この指摘が今輝き始めている。最新の学問的研究によれば、明治維新以来の天皇制はそれまでの天皇制とは明らかに別物であり、流行りの言葉で云えば、ネオシオニズムに拝跪し傀儡と化した変態的天皇制であった。

 近代天皇制の皇国史観に基く天皇制絶対主義いわゆる王制復古型国家神道は、明治天皇、大正天皇、敗戦後の戦後憲法で象徴化されるまでの昭和天皇の三代に於いて制度化されていたものであるが、押し込められた大正天皇を除き、明治天皇然り昭和天皇はなお然りで明らかにネオシオニズムに懐柔されており、仕立てられたそのシナリオ下で現人神として君臨しつつ猛威を振るった形跡がある。最新の学問的研究はこのことを明らかにしつつある。

 戦前あまたの批判勢力が存在したにも拘らず*ほんみち以外には、近代天皇制を1・強権的天皇制はそもそも人類創造に当たって一列平等とした親神の思いにかなわないとする原義批判、2・今の天皇には天徳なしとする天徳批判、3・世界を唐人が牛耳っており、天皇も唐人であるとする批判の三点で捉え、この体制に毅然と立ち向かった者はいない。

 ほんみちは、これをどのように世に問うたのか。社会主義-共産主義運動は、治安維持法の法網から逃れようとして内輪的な意思統一に汲々としていた折柄、ほんみちは果然、1928(昭和3).3.23日、ほんみちの方から奈良県庁への「昭和3年の打ち出し」を皮切りに、全国的な規模で官庁、府県庁、警察署、知名人、有力者等々に公然と「研究資料」を配布し、宣伝員が臆することなく内容を説いて廻った。

 その背後には、ほんみちには大西の長男・愛信の身上があり、愛信の要請という宗教的事情があったにせよ、こうして*ほんみち側から捨て身の行動に決起している。取締り当局は、衝撃を受け、報道管制を敷きながら内偵を進め、4月初旬、一斉検挙に向かった。約500名に及ぶ信徒が検挙され、そのうち約180名が不敬罪で起訴された。世にこれを「ほんみち第一次不敬事件」と云う。

 1938(昭和13).8.12日、ほんみちは、こたびは大西の妻トヲの身上を奇禍として「憂国の士に告ぐ」と題した書信を大阪朝日、大阪毎日新聞社へ届け「昭和13年の打ち出し」に向かった。これを契機に、二人一組の説明班を編成し検事局、警察署、憲兵隊に出向き所信を表明した。全国の信徒が約900万部を個別配布して廻った。11.21日、第一次一斉検挙で約1千名の信徒が検挙され、約400名が収監された。昭和14.5月、第二次一斉検挙206名が逮捕され、全部で273名が起訴された。世にこれを「ほんみち第二次不敬事件」と云う。

 宗教的と云えば余りにも宗教的なこの経緯は、右派系左派系歴史書の殆どが記さない史実である。れんだいこは、客観的に見て、近代天皇制に真っ向勝負した稀有な快挙として触れざるを得ない。左派系のインテリジェンスからは理解できない愚挙であったにせよ、黙することは不遜過ぎるのではなかろうか。思えば、こういう式の歴史書、歴史観で、我々の眼はくらまされ続けているのではなかろうか。れんだいこが、れんだいこ史観を打ち出さざるを得ない所以がここにある。

 付言しておけば、れんだいこ史観で云えば、世上云うところの明治維新の概念は正しくない。本来は幕末維新と捉えるべきで、この幕末維新は「上からの幕末維新」と「下からの幕末維新」の二通りから進められたとみなすべきではなかろうか。「上からの幕末維新」は「明治維新」として結実したものの、これを推進したのは国粋派とネオシオニズム派の二派であった。その最大功労者が国粋派内西郷派であり、その西郷派の失脚と共にネオシオニズム派が天下を取り、最終的には西欧化と云う名の下で実は国際ユダ邪の下僕化させられていった。その後の明治、大正、昭和は紆余曲折しながらもネオシオニズム派が次第に地歩を固めていく歴史となった。

 他方、「下からの幕末維新」は、自由民権運動に代表される政治運動と教派神道と呼ばれる宗教運動に分岐して、結局鎮圧された。自由民権運動はその後マルクス主義派、無政府主義派、労使協調派等々に分岐する。他方、ほんみちは、大本教と共に最後の「下からの幕末維新」を打ち上げた。それは「下からの幕末維新」の嫡出子運動だったのではなかろうか。そういう気がする。この観点からの「れんだいこ式幕末維新論」を書き上げてみたいと思っている。

 2007.12.15日 れんだいこ拝

【補足、戦前の日共運動の近代天皇制批判の理論的稚拙考】
 歴史書は、戦前の共産党運動の闘いを克明に記し事足りようとしているが、れんだいこの精査するところその理論は稚拙である。戦前の共産党は、イギリス革命、フランス革命に続きロマノフ王朝を打倒したロシア・ポルシェヴィキ運動の王朝観に基づき、天皇制を他の諸国の王朝と同視し、その打倒を企図したが、この理論の致命的な欠陥は、王朝打倒と本来民族主義的な自律自存の国家維持と云う国胎(「体」をこう書き換えることにする)問題を混同しているところにあるように思われる。

 れんだいこに云わせれば、王朝打倒はいわば国内問題政変であるが、国胎問題は国際問題のそれである。近代以降、ネオシオニズム旋風が吹き荒れている時代に於いて、王朝制と国胎問題を混同し同時的解体を目指すことはネオシオニズムのシナリオに基くものであり、国胎的には無謀危険過ぎるものであった。各国人民大衆が「世直し、世の立替え」に向かうなら、王朝制打倒問題とは別にその後の国胎の維持に関心を払うべきであり、それはネオシオニズムの世界支配政策に対抗する策を同時的に講ずるべく両建てで行われるべきであるのに、戦前の共産党運動は国胎維持に全く関心を払わなかった。

 戦前の共産党運動が広く人民大衆に受け入れられなかった要因はこの辺りにあるように思われる。戦前の共産党運動は、ロシア・ポルシェヴィキ的共産党運動がネオシオニズムの両建ての片方としての左派運動であることを見抜けず、ロシア・ポルシェヴィキ的共産党運動即ちコミンテルンの日本支部運動であることを是と位置づけていた。この位置づけの下で、穏健派と急進派が主導権を争うという、まことにもって不毛な運動に終始した。結果的にこの運動は両方とも潰された。戦前の共産党運動史から、そういう経緯を見て取ることができる。

 そういうこともあって共産党運動は一般に、各国在地の支配体制打倒を標榜するが、その後の青写真については避ける傾向が認められる。これほど無責任な政治はなかろうにこれが正義だと喧伝され、これに前途ある若き有能士が列なった。しかしそれは今、複眼的に自己批判せねばならぬことではなかろうか。

 日共運動は、そういう水準での天皇制打倒運動でしかない為に、戦前の治安維持法下の共産党運動は幹部、下部党員を問わず、近代天皇制問答での思想検事との論争に勝利することができなかった。思想検事から国胎問題を提起されると、何らの見識も持ち合さなかった故であった。日共の転向問題は、この敗北から雪崩れていることを見落としてはならない。

 れんだいこは、非転向者が、この問題をどのように回答し矜持を保ったのか知らない。党の元最高幹部である「佐野、鍋山両名による共同被告同志に告ぐる書(「転向声明」)」に対して、当時の党中央は早速に転向そのものの非を衝く批判で対応したが、必要なことは同声明が投げかけた諸問題に対する党中央見解の対置であった。しかしながら、そのような見解が出されたことも、議論が為されたことも形跡がない。れんだいこは、ここに、日本左派運動の理論の誤謬と不真面目さと貧困を見出す。この悪しき体質は戦前も戦後も未だに引きずっていると思っている。

 2007.12.7日 れんだいこ拝

【ほんみち論その4、獄中下での非転向】
 この点で、中山みき-ほんみちの天皇制批判は理論的に勝っていた。思想検事との論争に於いて堂々と所信表明しひるむところがなかった。例えばの話し、こういう逸話が遺されている。
 第二次不敬事件の二審で、岡林裁判長は、大西に「裁判するより自決したらどうか」と勧めたところ、大西は、「私の考えならやめるが、月日様のご命令だから止める訳にはいかない」。これに答えた岡林の弁は、「月日を検挙したり取り調べる訳にはいかない」。

 予審判事・立石金五郎は、ほんみち幹部の小浦芳雄とのやり取りで次のように述べている。
 「君達の主張と行為には君達なりの必然性があることは理解できた。だが立場が違うので認めるわけにはいかない。国家には国家の論理がある。それならば*ほんみちの論理と国家の論理とではどちらが正しいかと議論しても、双方が各々の論理をそれで良しとしているのだから、議論のうえでは決着は付けがたい。決着をつける決め手となるのは、現在行われている戦争の勝敗である。自分達は日本の必勝を確信しているが君達は敗北するという。いずれ歴史が判決を下すことになろう」(梅原正紀「天啓者の宗教ほんみち」209P)。

 近代天皇制は、万世一系の皇統譜と記紀神話の数々で粉飾した皇国史観で正当性を強調し強制していたが、中山みき-ほんみちは、世の在り姿としての天皇制に根本的疑義を発し一蹴した。「天皇には天徳なし」批判も舌鋒鋭く、軍靴の足音高い道へ進みつつある時勢を憂慮する点でも憂国の士であった。ネオシオニズムの傀儡という本質的な観点に立っての批判にまでは至らなかったにせよ、唐人性即ち異邦人性を見抜いており、これらに徹底的な批判を加えた。

 れんだいこは、この方面での批判が殊のほか秀逸ではなかったかと思い始めている。そういう訳で、教団内には偽装転向を別とすれば転向した者がいない。故に教内で転向問題が発生しなかったのではなかったかと思っている。この史実は、日本左派運動に随伴した転向問題と比較して興味深い。日本左派運動の場合、転向の結果、今度は逆にいとも安易に天皇制側に鞍替えし、翼賛運動にのめり込んだ数々の人士を輩出している。そのようには転向しなかった者も、転向自体に忸怩とした思いを抱き続け負い目を背負った者が多い。日本左派運動内には妙なしこりとして転向問題が遺されているように思われる。

 昭和14.10月の「特高特報」は、解散命令後の*ほんみち信徒の実情について次のように記している。
 「信者の邪信妄執(もうしゅう)は極めて頑強にして、警察当局の懇諭説得により、一応転信転宗を誓約せる者といえども、真に国体の本義に徹して皇国臣民たるの自覚に出でたる者は殆ど皆無にして、その多くは単に当局の峻厳なる追及取締りを免れんとして表面転宗を表明せるに留まり、内心密かに盲信を続け、いわゆる甘露台世界の到来を妄想しつつある者も少なからざるやの模様なり」。

 それはともかく歴史は廻る。最新の学問が近代天皇制とネオシオニズムの関係を明るみしつつある。こうなると、近代天皇制の虚構性を理論的に獲得し、実践的にも身命賭して撃った天理棄教教祖みき-ほんみち系譜の闘いを貴重として再検証されねばならないことになるのではなかろうか。この問題の考察はまだまだこれからである。いずれにせよ、れんだいこは、ほんみちの軌跡は貴重であり、不滅の輝きを放っているとみなしている。

 2007.12.7日 れんだいこ拝

 れんだいこのカンテラ時評352/れんだいこ/2007.12.14
 【ほんみち論その4、獄中下での非転向】

 ほんみちその2を書きつける。れんだいこは、ほんみちの獄中下での非転向に注目したいと思う。戦前の日共運動の陰鬱な転向ないし非転向に比して、カラリと晴れた転向、非転向ぶりが評価されるように思う。本来、左派の転向ないし非転向も、こう対応すべきではなかったかと思っている。

 れんだいこは、ほんみちの非転向の背景として、天皇制批判、時局批判が、当時の左派理論のそれよりも、当局の護持理論よりも理論的に勝っていた、という事由があるのではないかとみなしている。近代天皇制は、万世一系の皇統譜と記紀神話の数々で粉飾した皇国史観で正当性を強調し強制していたが、中山みき-ほんみちは、世の在り姿としての天皇制に根本的疑義を発し一蹴した。「天皇には天徳なし」、「唐人」批判も舌鋒鋭く、軍靴の足音高い道へ進みつつある時勢を憂慮する点でも憂国の士であった。

 こういう観点に立つ*ほんみち派は、取締まり当局、思想検事との論争に於いて堂々と所信表明しひるむところがなかった。且つその弁は鋭かった。例えばの話し、こういう逸話が遺されている。

 ほんみち開祖の大西愛治郎は、昭和5.2.5日の第一次不敬事件の結審で原判決の懲役4年有罪が破棄され、無罪となった。その理由は、「昭和3年の打ち出し」事件が、大西の精神鑑定の結果、「宗教的誇大妄想、宗教的憑依妄想を主徴とする特殊の精神病者が心神喪失中に行った犯行」であると認定されたことによる。

 それは、大西を裁こうとすれば、まずはその弁である天啓者論を覆さねばならず、これを為そうとすれば、その論法がそのまま現人神として位置づけられている天皇制批判に横滑りする恐れがあったからであると思われる。次に、その弁である時局認識「近き将来に於いて、大戦起こり、日本は窮地極に達し、いかなる方法手段も通ずるを得ざるべし。その時に当たってこの道なき時は遂に国は破滅すべし」を批判断罪する論拠がなかったからであると思われる。

 次に、天皇制の万世一系批判として指摘していた「皇統連綿と云うたとて誰しも同じこと。続いてあればこそこの世に生を享けて居る」を批判断罪する弁がなかったからであると思われる。

 第二次不敬事件の二審で、岡林裁判長は思い余ったか、大西に次のように迫った。「裁判するより自決したらどうか」。これに対して大西は、「私の考えならやめるが、月日様のご命令だから、止める訳にはいかない」。これに答えた岡林の弁は、「月日を検挙したり、取り調べる訳にはいかない」。

 予審判事・立石金五郎は、ほんみち幹部の小浦芳雄とのやり取りで次のように述べている。「君達の主張と行為には君達なりの必然性があることは理解できた。だが立場が違うので認めるわけにはいかない。国家には国家の論理がある。それならば*ほんみちの論理と国家の論理とではどちらが正しいかと議論しても、双方が各々の論理をそれで良しとしているのだから、議論のうえでは決着は付けがたい。決着をつける決め手となるのは、現在行われている戦争の勝敗である。自分達は日本の必勝を確信しているが、君達は敗北するという。いずれ歴史が判決を下すことになろう」(梅原正紀「天啓者の宗教ほんみち」209P)

 れんだいこは、ほんみちのこのような理論展開での批判が殊のほか秀逸ではなかったかと思っている。今日的なレベルでの近代天皇制護持派が、当時も世界を席巻していたネオシオニズム派の手先であり、その政体は傀儡でしかないという本質的な観点に立っての批判にまでは至らなかったにせよ、近代制天皇の唐人性即ち異邦人性を見抜いており、これに徹底的な批判を加えていたのは、霊能的見地からのものにせよ鋭いというべきだろう。

 そういう訳で、ほんみち教団内には偽装転向を別とすれば転向した者が居ない。故に教内で転向問題が発生しなかった。昭和14.10月の「特高特報」は、解散命令後の*ほんみち信徒の実情について次のように記している。

 「信者の邪信妄執(もうしゅう)は極めて頑強にして、警察当局の懇諭説得により、一応転信転宗を誓約せる者といえども、真に国体の本義に徹して皇国臣民たるの自覚に出でたる者は殆ど皆無にして、その多くは単に当局の峻厳なる追及取締りを免れんとして表面転宗を表明せるに留まり、内心密かに盲信を続け、いわゆる甘露台世界の到来を妄想しつつある者も少なからざるやの模様なり」。

 この史実は、日本左派運動に随伴した転向問題と比較して興味深いことではなかろうか。日本左派運動の場合、転向の結果、今度は逆にいとも安易に天皇制側に鞍替えし、翼賛運動にのめり込んだり、お先棒を担ぎ出した数々の人士を輩出している。そのようには転向しなかった者も、転向自体に忸怩とした負い目を背負った者が多い。中共の場合、どちらかというと*ほんみち的対応しており、日本式転向問題を発生させていないように思われる。それに比して、日本左派運動内には妙なしこりとして転向問題が遺されているように思われる。

 それはともかく歴史は廻る。最新の学問が近代天皇制とネオシオニズムの関係を明るみにしつつある。こうなると、近代天皇制の虚構性を理論的に獲得し、実践的にも身命賭して撃った天理教教祖みき-ほんみち系譜の闘いを貴重として再検証せねばならないことになるのではなかろうか。れんだいこはそう思う。

 この問題の考察はまだまだこれからである。いずれにせよ、れんだいこは、ほんみちの軌跡は貴重であり、不滅の輝きを放っているとみなしている。社会主義-共産主義も、ほんみちも、科学的云々で識別されるべきではなく、どちらも主義者と捉え、主義者の生き様として評されるべきであり、どちらが真っ当だったのか、問われるべきではなかろうか。このように座標を据えたい。

 2007.12.14日 れんだいこ拝

【ほんみち論その5、ほんみちと共産主義者の協働考】
 「ほんみちと共産主義者の協働考その1」、梅原正紀氏は、「天啓者の宗教ほんみち」の184-186Pで次のように記している。
 「昭和3年の*ほんみちへの第一次弾圧事件で、東京・警視庁に勾留された*ほんみち信徒とマルクス史学の立場にたつ歴史家の服部之聡が同じ監房で暮らしたことがあり、戦後になって服部がその追想記を書いている。発表されたのは中央公論の昭和27年八月号である。服部は、ほんみち信徒と監房で知り合ったことを、ごく限られた人々にしか話していなかった。彼の文章によれば、『思想とは無関係に信頼できるいわばうちわの人々』だけにしか語っていなかった。唯物論者が信仰者と意気投合した体験を話すと誤解を招くもとになりかねないと判断したからであろう。服部の眼に*ほんみち信徒の姿はどのように映ったのだろうか。その文章を引用してみよう」。

 服部之聡氏は次のように述べているとのことである。(いずれ原文に書き換えたいと思う、2007.12.11日)
 概要「私は、昭和3年5月だったろうか、9月だったような気もする。---警視庁の監房に二十日あまりいたことがある。初めての経験で諸事印象深く残っているが天理教不敬事件の最高被疑者の一人と同房で暮らした。---この天理教不敬事件は、どうなったのか後の始末は私も知らぬくらいで、記憶の良い人でも覚えている人は少ないだろう。なにしろ珍妙な不敬であった。

 獄中で、『泥海古記』の講義を受け、天理教の手振り(悪しきを払うて助けたまえ天理王の命(みこと)と歌いながらの手振り)を彼から教わった。監房の食事の後、弁当箸を太鼓のむちの代わりに用いて、まもなく私はその手振りを、彼と同様に上手に舞えるようになった。歌も全部覚えた。退屈すると口将棋も指したが、お互いにまるでヘボだった。---その監房は私にとって、たえて悪魔の座ではなかった。

 私の懐旧の念は、彼のおだやかな人柄と共に『泥海古記』に感銘したことにある。被疑者の話によれば、人類は動物から発達して猿を経て人間となったものであり、その見解に於いて彼は近代科学と、及びそれを信奉するマルクス学徒たる同房の隣人と完全に意見を同じくした。更に、天皇は『唐人』であり、日本の統治者となっているが、ほんものが出現したからには簒奪者の治世は終わり、『唐人の寝言』に終止符を打たなければならないと云う。傾聴に値する弁である」。

 この服部の追想記を読んだ宗教学者の山伏哲雄・東北大学教授は、「思想の科学、昭和46.1月号所収」の中で次のように述べている。
 「思想弾圧にもめげずに非妥協的に教理を説く新興信徒の剛直と心意気に対して、彼がまさに踊躍せんばかりに親愛感を吐露している状況が伺える」。

 梅原正紀氏は次のようにコメントしている。
 「マルクス主義者と宗教者との差異をこえて民衆にとって加害者であり、また加害装置である天皇と天皇制に戦いを挑む者の熱い共感が成立した歴史のひとこまが、服部の追想記に証言されているといえよう」。

 れんだいこは、「天皇制に対するマルクス主義者とほんみちの協働」よりも、マルクス主義者の服部氏が、中山みきの「元始まりの理話し」に滅法興味を覚え、共に手踊りしたことに微笑む。補足しておけば、マルクス主義者、ほんみち、その評論士の天皇制批判の薄っぺらさには同調できない。
 「ほんみちと共産主義者の協働考その2」、ほんみち幹部・中山英雄と梯明秀、布施杜生、国領伍一郎の逸話。

 ほんみち幹部・中山英雄は、「ほんみち第一次、第二次不敬事件」で下獄し、この時幾人かのコミュニストと出会っている。昭和13.11月末から翌年の6月まで京都の下鴨署に留置され、人民戦線派の梯明秀と同房している。梯は、ほんみち信徒の家族が面会に来て、互いが励ましあう姿に接し、獄吏から「インテリの負けやな」と云われたことを後に述懐している。

 社会主義派弁護士として知られる布施辰治の三男の杜生とも同房し、布施は、中山の留置事由を知るにつけ「ほう、宗教の方もとうとうやりましたか」と賞賛され、肝胆相照らす親交を温めたと云う。中山は、拷問を受け痛々しい布施に偽装転向を勧めたが布施は断り、昭和19年に未決のまま獄死している。

 中山は、大阪刑務所で、京都の労働運動を指導し、後に党の中央委員として活躍した国領伍一郎と同房している。国領は網走刑務所から奈良刑務所を経て大阪刑務所に移送されており、既に健康を破壊され、重い胃潰瘍と肝臓炎を患っていた。そういう身でありながら、看守が年老いた囚人を苛めていたりすると怒鳴りつけ、庇う姿勢を貫いていた。中山は、国領の生き様に感動を覚えたと伝えている。その国領も昭和18.3月、獄死している。
 「ほんみちと共産主義者の協働考その3」、府中刑務所逸話。

 1945(昭和20).10.10日、、「GHQ」の10.4日の指令「政治犯を10月10日までに釈放せよ」に基き、東京の府中刑務所から徳田球一.志賀義雄ほか金天海、黒木重徳、西沢隆二、松本一三、山辺健太郎、今村英雄、須藤末 雄、広瀬梅次、石川篤、三田村四郎、金天海ら共産党員、他に、朝鮮独立運動家.李康勲、天理ほんみちの団野徳一、桑原幸作、三理三腹元の山本栄三郎の16名が釈放された。

 山辺健太郎の回想記「社会主義運動半生記」は次のように記している。
 「予防拘禁所で偉いと思ったのは、まず天理教の人です。死刑を求刑されたのだと思うけど、どこ吹く風で悠々としていました。それから、在日朝鮮人運動の中心だった金天海です云々」。

 れんだいこのカンテラ時評351/れんだいこ/2007.12.12
 【ほんみち論その5、ほんみちと共産主義者の協働考】

 れんだいこは今、「天理教教祖中山みきの研究」の書き換えに入っており、その余勢で分派分立の*ほんみちの研究にも分け入った。村上氏の「ほんみち不敬事件」、梅原正紀氏の「ほんみち」、「天啓者の宗教ほんみち」を精読している。この過程で、「ほんみちと共産主義者の協働」に気がついたので、これを世に発表しておく。

 資料は上掲三書から取り寄せている。世の多くの強権著作権者は著作権違反だと云うのだろうが、れんだいこが気に入った文を紹介するのに何の憚りがあろう。時代は病んでおり、その病人が、本来真っ当な営為を権利違反だと指弾する変な正義がはびこっている。ジャスラックなぞその典型であるが、無許可で営業的に歌を歌う場所を提供するのならゼニを払えとヤクザ風のショバ代権利を振り回しており、マスコミご一統も似たり寄ったりの権利を主張している。サヨがこれを後押ししており、変な正義が流行りだしている。そういう訳で、何をするにも窮屈な世の中に誘ってくれている。誰も咎めないようなので、れんだいこが一言しておく。そったら馬鹿な理屈があって堪るか。今からでも遅くない阿波踊り式ええじゃないか運動を組織してくれん。

 もとへ。ほんみちと共産主義者の協働」の三例を掲げておく。ほかにも多々あるだろうが、入手次第に書き付けていくことにする。

 「ほんみちと共産主義者の協働考その1」、ほんみち幹部と服部之聡の逸話

 梅原正紀氏は、「天啓者の宗教ほんみち」の184-186Pで次のように記している。

 「昭和3年の*ほんみちへの第一次弾圧事件で、東京・警視庁に勾留された*ほんみち信徒とマルクス史学の立場にたつ歴史家の服部之聡が同じ監房で暮らしたことがあり、戦後になって服部がその追想記を書いている。発表されたのは中央公論の昭和27年八月号である。服部は、ほんみち信徒と監房で知り合ったことを、ごく限られた人々にしか話していなかった。彼の文章によれば、『思想とは無関係に信頼できるいわばうちわの人々』だけにしか語っていなかった。唯物論者が信仰者と意気投合した体験を話すと誤解を招くもとになりかねないと判断したからであろう。服部の眼に*ほんみち信徒の姿はどのように映ったのだろうか。その文章を引用してみよう」。

 服部之聡氏は次のように述べているとのことである。(いずれ原文に書き換えたいと思う。どなたか入手してくれないだろうか)

 意訳概要「私は、昭和3年5月だったろうか、9月だったような気もする。警視庁の監房に二十日あまりいたことがある。初めての経験で諸事印象深く残っているが天理教不敬事件の最高被疑者の一人と同房で暮らした。この天理教不敬事件は、どうなったのか後の始末は私も知らぬくらいで、記憶の良い人でも覚えている人は少ないだろう。なにしろ珍妙な不敬であった。

 私は獄中で、『泥海古記』の講義を受け、天理教の手振り(悪しきを払うて助けたまえ天理王の命(みこと)と歌いながらの手振り)を彼から教わった。監房の食事の後、弁当箸を太鼓のむちの代わりに用いて、まもなく私はその手振りを、彼と同様に上手に舞えるようになった。歌も全部覚えた。退屈すると口将棋も指したが、お互いにまるでヘボだった。その監房は私にとって、たえて悪魔の座ではなかった。

 私の懐旧の念は、彼のおだやかな人柄と共に『泥海古記』に感銘したことにある。被疑者の話によれば、人類は動物から発達して猿を経て人間となったものであり、その見解に於いて彼は近代科学と、及びそれを信奉するマルクス学徒たる同房の隣人と完全に意見を同じくした。更に、天皇は『唐人』であり、日本の統治者となっているが、ほんものが出現したからには簒奪者の治世は終わり、『唐人の寝言』に終止符を打たなければならないと云う。傾聴に値する弁であった」。

 この服部の追想記を読んだ宗教学者の山伏哲雄・東北大学教授は、「思想の科学、昭和46.1月号所収」の中で次のように述べている。
 「思想弾圧にもめげずに非妥協的に教理を説く新興信徒の剛直と心意気に対して、彼がまさに踊躍せんばかりに親愛感を吐露している状況が伺える」。

 梅原正紀氏は次のようにコメントしている。
 「マルクス主義者と宗教者との差異をこえて民衆にとって加害者であり、また加害装置である天皇と天皇制に戦いを挑む者の熱い共感が成立した歴史のひとこまが、服部の追想記に証言されているといえよう」。

 (引用以上)

 れんだいこは、「天皇制に対する」マルクス主義者と*ほんみちの協働よりも、マルクス主義者の服部氏が、中山みきの「元始まりの理話し」に滅法興味を覚え、共に手踊りしたことに微笑む。れんだいこの体験がひとりれんだいこだけのものではなく、その昔に服部氏も同じような興味を抱いたことをうれしく思う。

 「ほんみちと共産主義者の協働考その2」、ほんみち幹部・中山英雄と梯明秀、布施杜生、国領伍一郎の逸話。

 「ほんみち幹部・中山英雄は、ほんみち第一次、第二次不敬事件で下獄し、この時幾人かのコミュニストと出会っている。昭和13.11月末から翌年の6月まで京都の下鴨署に留置され、人民戦線派の梯明秀と同房している。梯は、ほんみち信徒の家族が面会に来て、互いが励ましあう姿に接し、獄吏から『インテリの負けやな』と云われたことを後に好意的に述懐している。

 社会主義派弁護士として知られる布施辰治の三男の杜生とも同房し、布施は、中山の留置事由を知るにつけ『ほう、宗教の方もとうとうやりましたか』と賞賛され、肝胆相照らす親交を温めたと云う。中山は、拷問を受け痛々しい布施に偽装転向を勧めたが布施は断り、昭和19年に未決のまま獄死している。

 中山は、大阪刑務所で、京都の労働運動を指導し、後に党の中央委員として活躍した国領伍一郎と同房している。国領は網走刑務所から奈良刑務所を経て大阪刑務所に移送されており、既に健康を破壊され、重い胃潰瘍と肝臓炎を患っていた。そういう身でありながら、看守が年老いた囚人を苛めていたりすると怒鳴りつけ、庇う姿勢を貫いていた。中山は、国領の生き様に感動を覚えたと伝えている。その国領も昭和18.3月、獄死している」。

 「ほんみちと共産主義者の協働考その3」、府中刑務所逸話。

 1945(昭和20).10.10日、「GHQ」の10.4日の指令「政治犯を10月10日までに釈放せよ」に基き、東京の府中刑務所から徳田球一.志賀義雄ほか金天海、黒木重徳、西沢隆二、松本一三、山辺健太郎、今村英雄、須藤末 雄、広瀬梅次、石川篤、三田村四郎、金天海ら共産党員、他に、朝鮮独立運動家.李康勲、天理ほんみちの団野徳一、桑原幸作、三理三腹元の山本栄三郎の16名が釈放された。


 山辺健太郎の回想記「社会主義運動半生記」は次のように記している。
 「予防拘禁所で、偉いと思ったのは、まず天理教の人です。死刑を求刑されたのだと思うけど、どこ吹く風で悠々としていました。それから、在日朝鮮人運動の中心だった金天海です云々」。

 こうした史実は、マルクス主義者の方からは記さない気風があるようで、思わぬ収穫であった。れんだいこに云わせれば、マルクス主義者の理論も一種の宗教的教義のようなもので、科学的何とかを冠すれば社会主義-共産主義になり、冠せねば宗教になるというご都合なものではなかろう。むしろ、何を云っているかより何を為しているのかを実践的に検証した方がよいのではなかろうか。

 れんだいこは在地型土着的な世界へ拓く日本主義共生思想を創造せんと営為しているので、この立場から見れば、戦前の天皇制批判運動に於いて理論的にも実践的にも勝っていたのは*ほんみちの方ではなかったかと思っている。反権力的歴史学の多くは、マルクス主義の側からばかり記述しているが、いわゆる片手落ちで、幾ら読んでも資料以上の価値を有しない。時々筆者の観点が書き付けられているが貧弱なものであり、鵜呑みにすればするほど馬鹿になる。れんだいこはそういう風に気づいているので、読めば読むほど為になる文献を探すなり創らねば気が治まらない。道は遠いが始めねばなお遠いから、何がしか営為し続けていこうと思う。

 2007.12.12日 れんだいこ拝

【ほんみち論その6、ほんみち教義考】
 いよいよ大詰めに来た。上述で、ほんみちが時代的正当性を有しており、天理教原理派として存在価値を有していたことを確認した。村上重良氏の「ほんみち不敬事件」を通読して、そのように受け止めたれんだいこの理解に間違いがあるとは思わない。但し、れんだいこは今、自前の天理教教祖中山みき研究を経て、当時とは少し違う見解に立っている。ほんみち派の教義が天理教本部のそれよりも教祖の原教義に近いとは必ずしも言えないとみなしている。

 ほんみちを開教した大西愛治郎の教義理解自体が、致し方なかったとはいえ、既に神仏混交的に俗化せしめられた当時の応法教理に染まっており、それは真実の中山みき教義とは随分隔たっていると考えている。「御教えに帰れ」と叫んで始めた*ほんみち教義が、教祖の御教えにいかほど立ち返り、忠実なものであったかどうかは別問題であると考える。つまり、問題意識としての正当性と果実の正当性は叉別の物差しで精査されねばならないと考えている。

 大西の「お道は天啓者宗教である、天啓者に導かれてこその信仰である」とする観点は、宗教的情動としては違和感なく受けいれらるものであるかも知れないが、れんだいこはやはり疑問を抱いている。果たして、教祖の原教義に照らした時、大西流理解が正確だろうかと疑問を持っている。否、この意味では、教祖自身が相応の責任を負っていると云うべきかも知れない。

 結論として、ほんみち的理解はあくまで天理教教義の大西愛治郎的理解に基くものであり、教祖中山みきの教えに忠実かと云うと別物であると思っている。ほんみち教義の特異は、天啓者後継問答ばかりでにあるのではない。因縁諭し論に於いても、天理教が応法過程で身につけた俗化せしめられた神仏混交的因縁論に傾斜しており、開祖みきの御教えとは隔たっているとみなしている。

 教祖中山みきの因縁論は、元始まりの諭し話しに基いており、これを説けば誰しも明るく素直に勇み、積み重ねた埃りを払うて陽気づとめに向かえる、いわば明るい因縁論(仮に「白因縁論」と命名する)であるところに核心がある。世上の因縁論は、前世の祟りだとか積み重ねた業に因るとする諦念論で、聞く者を暗くさせる類いの脅し教義(仮に「黒因縁論」と命名する)で説かれている。この違いを明白にさせるところに、教祖中山みきの因縁論の意義があるところ、そのように説かれているのだろうか。説かれていないとすれば、教祖中山みきが否定した坊主説教に堕していることになろう。

 ほんみちの「越すに越せん関論」は*ほんみちらしいさすがのものではあるが、手放しでは同意し難い。「世界の大掃除が始まる越すに越せん関の日」を念頭に置きながら諸事対策しているのは良いとして、待ち受ける「世界の大掃除」をどのようなものとして認識しているのか、その内実を問いたい。俗流のハルマゲドン思想に堕してはもったいないと考える。「世界の大掃除」の起因するものを自然気象に限定しては視野が狭かろう。政治経済文化総体の唐人的なものとの不断の闘争と、その闘争の決戦的なものとしての「世界の大掃除」と構想し、日々たんのうすべきではなかろうか。

 実のところ、ほんみちについては関係書物数典を通してしか知らないのだが、踏み込んだ書き方をしてしまった。以上で、「れんだいこほんみち論」とする。

 2007.12.7日 れんだいこ拝

 れんだいこのカンテラ時評355/れんだいこ/2007.12.16
 【ほんみち論その6、ほんみち教義考】

 いよいよ大詰めに来た。上述で、「ほんみち不敬事件」が時代的正当性を有しており、天理教原理派として存在価値を有していたことを確認した。村上重良氏の「ほんみち不敬事件」を通読して、そのように受け止めたれんだいこの理解に間違いがあるとは思わない。但し、れんだいこは今自前の天理教教祖中山みき研究を経て、当時とは少し違う見解に立っている。ほんみち派の教義が天理教本部のそれよりも教祖の原教義に近いとは必ずしも言えないとみなしている。

 ほんみちを開教した大西愛治郎の教義理解自体が、致し方なかったとはいえ、既に神仏混交的に俗化せしめられた当時の応法教理に染まっており、それは真実の中山みき教義とは随分隔たっていると考えている。「御教えに帰れ」と叫んで始めた*ほんみち教義が、教祖の御教えにいかほど立ち返り、忠実なものであったかどうかは別問題であると考える。つまり、問題意識としての正当性と果実の正当性は叉別の物差しで精査されねばならないと考えている。

 大西の「お道は天啓者宗教である、天啓者に導かれてこその信仰である」とする観点は、宗教的情動としては違和感なく受けいれらるものであるかも知れないが、れんだいこはやはり疑問を抱いている。果たして、教祖の原教義に照らした時、大西流理解が正確だろうかと疑問を持っている。否、この意味では教祖自身が相応の責任を負っていると云うべきかも知れない。

 ほんみち自身、この生い立ちの秘密が、教団内からの相次ぐ天啓者騒動に巻き込まれることになり、ほんぶしん派から「大西家宗教批判」を受けたりで、相当苦いめに遭うことになった。今日どのように教義化しているのか分からないが、天啓者宗教論は両刃の剣であろう。

 結論として、ほんみち的理解はあくまで天理教教義の大西愛治郎的理解に基くものであり、教祖中山みきの教えに忠実かと云うと別物であると思っている。ほんみち教義の特異は、天啓者後継問答ばかりでにあるのではない。因縁諭し論に於いても、天理教が応法過程で身に付けた、俗化せしめられた神仏混交的因縁論に傾斜しており、開祖みきの御教えとは隔たっているとみなしている。

 教祖中山みきの因縁論は、元始まりの諭し話に基いており、これを説けば誰しも明るく素直に勇み、積み重ねた埃りを払うて陽気づとめに向かえる、いわば明るい因縁論であるところに核心がある。世上の因縁論は、前世の祟りだとか積み重ねた業に因るとする諦念論で、聞く者を暗くさせる類いの脅し教義で説かれている。この違いを明白にさせるところに、教祖中山みきの因縁論の意義があるところ、そのように説かれているのだろうか。説かれていないとすれば、教祖中山みきが否定した坊主説教に堕していることになろう。

 ほんみちの「越すに越せん関論」は*ほんみちらしいさすがのものではあるが、手放しでは同意し難い。「世界の大掃除が始まる越すに越せん関の日」を念頭に置きながら諸事対策しているのは良いとして、待ち受ける「世界の大掃除」をどのようなものとして認識しているのか、その内実を問いたい。れんだいこは、俗流のハルマゲドン思想に堕してはもったいないと考える。「世界の大掃除」の起因するものを自然気象に限定しては視野が狭かろう。政治経済文化総体の唐人的なものとの不断の闘争と、その闘争の決戦的なものとしての「世界の大掃除」と構想し、日々たんのうすべきではなかろうか。

 実のところ*ほんみちについては関係書物数典を通してしか知らないのだが、踏み込んだ書き方をしてしまった。以上で、「れんだいこのほんみち論」とする。何やら日共と新左翼の関係に似ている面がおかしく面白かった。

 2007.12.16日 れんだいこ拝

【ほんみち論その7、政教分離】
 ほんみちは、天理教本部の応法化過程での権力への迎合批判と、時の政治権力による大弾圧の歴史から規定されたと思われるが、政教分離思想を獲得した。それは、政治を忌避するのではなく、教えを曲げてまでの時の体制、権力への接近を拒否する自律を意味する。これを仮に「ほんみち式政教分離思想」と命名する。「ほんみち式政教分離思想」は、日共式浅薄な政教分離論でもなく、創価学会-公明党式政教連携論でもなく、その他多くの宗派の政権与党の集票マシーンとしての政教協力論でもない。いわば、宗教側からの自由、自主、自律的な政教分離であり、評価されるに値するのではなかろうか。

 ほんみちは更に、教内から警察と軍隊への出仕を見合わせている、と云う。やや教条主義とも云えるが、これが「ほんみち矜持」であろう。

【ほんみち論その8、特権腐敗防止規約】
 ほんみちは、天理教本部批判として教会制度の不採用と専従者の自給生活化規約を生み出している。これも大きく評価されることのように思う。ほんみちは、お指図の「この道から教会はあろうまい」を受け教会組織を作らない。教会が大型化するのに連れて各級の教会長が権力を持ち始め宗教貴族化する、天理教本部派の轍を踏まない為の自己規律である。これにより、世上なら尊崇と豪奢生活が保証される内勤者と云われる本部詰め役員の給与が無給となり、家族が誇りと喜びを持って支えるシステムを採っている。「聞いて一つ、通りて一つ、年限重ねて一つの理」を頂く清貧信仰を目指している。

【ほんみちの論その9、白眉教理「越すに越せん関」考】
 ほんみちは、明治21.12.25日のお指図「越すに越せんと云うえらい関は越すに越せんのその関は、皆の心で皆一つに皆寄せて越す」を頂き、「世界の大掃除が始まる越すに越せん関の日」を念頭に置きながら諸事対策している。

【ほんみち論その10、ほんみちの限界と出藍考】
 れんだいこは、ほんみちを以上の諸点から考察する。この考察は同時に、その後の*ほんみちの歩みの限界をも指摘していると自負している。その一は、ほんみち教義が神仏混交式因縁論に染まっており、一刻も早い脱却をめざすべきだということを示唆する。その二は、ほんみちが、教義の継承を廻る天啓者と創始者本家との対立を常に内包しており、これをどう解決するのかという問題が問われている。その三は、政治権力批判の質を高め、ネオシオニズム問題に取り組まねばならないところ、限界を設けていることを示唆している。

 れんだいこの見るところ、この三点を克服した*ほんみちの未来は明るいのではなかろうか。逆は逆となるであろう。ほんみちがみごとに出藍することを期待してひとまず筆を置く。

 2007.12.7日 れんだいこ拝




(私論.私見)