ほんみち不敬事件

 更新日/2019(平成31→5.1栄和改元)年.4.6日

 (れんだいこのショートメッセージ)


1928(昭和3)

【大本教の躍進】

 2.1日、大本教の出口王仁三郎の長女・直日が高見元男(後に日出麿)と結婚式を挙げる。3.3日、王仁三郎みろく大祭にて『弥勒下生の宣言』を行う。

  • 今日こそは五十六年七ヶ月みろくの神世の初めなりけり
  • 諸方面、諸ぼさつひきい、弥勒ぼさつ高天原より今日下生せり
  • 万代の常夜のやみもあけはなれ、みろく三会のあかつきよし

 5月、四国巡教『ふたな日記』執筆。7月、東北・北海道・千島・国後巡教、『東北日記』執筆。この間亀岡にては月宮殿を始め諸種の建築物の竣成を見る。


 2.21日、大西の「岩戸古記」が224首で完結した。


【「ほんみち派第一次不敬事件」】

 3月初旬、ほんみち派の「研究資料」が完成する。3.20日頃、大西愛治郎の若宮・愛信が側近の幹部の楠平助に「奈良県庁に『研究資料』を直ちに持って行け」と激しく迫った。3.22日、幹部役員会が開かれ、概要「愛信の所作は、速やかに研究資料を世に公開し、来るべき大国難に備えるべしとの神示」と聞き分け、奈良県庁、警察その他に資料を送付することを決定した。

 3.22日、高田警察、3.23日、奈良県庁、、警察部保安課、3.24日、同内務部、3.26日、一般社会への喧伝開始。研究資料の配布先は、内閣、各省、府県庁、警察署、外国公使館、貴族院衆議院各議員、知名士、有力者に配布された。教内は、「高山に対する神の思惑の打ち出し」と位置づけた。

 4.3日、警察・検察当局が報道管制を敷きつつ摘発に動いた。教義で天皇の神格を否定したとして、研究所を閉鎖し、4.9日、教祖・大西愛治郎夫妻が逮捕されたのを始め、天理研究会員約500名が拘引された。そのうち180名が不敬罪で起訴された。これを「ほんみち派第一次不敬事件」と云う。



1930(昭和5)

 1930(昭和5).2.11日、天理教校よのもと会発会式。


 9.14日、従来、一下り毎に「てんりおうのみこと」と唱えていたのを、今後は「なむてんりおうのみこと」と唱えることになった。


 9.26日、「教祖50年祭、立教百年祭」の公示。「神殿及び教祖殿の改築」を発表。


【「ほんみち派第一次不敬事件裁判の経緯」】
 大西は、懲役4年、他の被告は2年以下の判決が下された。いずれも執行猶予がついたが、大西は承服せず、幹部信徒5名と共に控訴した。二審判決は原判決を支持し、大西はさらに上告し大審院に持ち込まれた。昭和5.12.5日、原判決が破棄され、無罪を言い渡された。大西の精神鑑定の結果、「宗教的誇大妄想、宗教的憑依妄想を主徴とする特殊の精神病者」が心神喪失中に行った犯行であるとの理由で、無罪判決が下された。

 大西は、無罪判決を獲得するや、公然と教団再建に乗り出し、拠点を大阪に定めた。住吉区内を転々とし、昭和8年に西成区松原通りに本邸を定め、昭和10.4月、教団施設を住吉区晴明通りに移し、信徒受付所の看板を掲げた。





(私論.私見)