10期その1 19780年代 1980年代の諸闘争

 (最新見直し2008.6.22日)

 これより前は、9期その3、70年代後半期の諸闘争に記す。

 (れんだいこのショートメッセージ)
 ここでは、1980年代の学生運動史を概略する。詳論は「10期その1、戦後学生運動の考察/80年代の学生運動」、概論は「1980年代の諸闘争」に記し、この時期の枢要事件を採り上げ解析する。全体の流れは、「戦後政治史検証」の該当年次に記す。

 1980年代に入って、学生運動は「層としての学生運動」の態を為さなくなった。その要因はいろいろ考えられよう。誰しも挙げるのは、1・連合赤軍事件、2・中核派、社青同と革マル派との党派間ゲバルトの悪影響だろう。確かにそうだが、もう一つ理由が有りはすまいか。

 筆者は、70年代後半のロッキード事件、80年代に入っての中曽根政権の登場により、日本政界がハト派から売国奴系タカ派にシフト替えさせられ、彼らの信奉するネオ・シオニズム的強権支配及びそのイデオロギーによるタガハメが奏功し、社会全体から左派的活力が封殺された結果ではなかろうかとも思っている。80年代から、左派の街頭デモが急速に萎み、代わって右翼の街頭マイクが聞こえるようになった。「タカ派支配による戦後日本の構造改革」は、思ったより諸影響が大きいのではなかろうか。

 もう一つ。当局操作に拠る「穏和系に対する日共、急進系に対する革マル派を主軸とするその他諸々の梃子による「『左』から左を制する反革命的策動」が奏功し、燃え盛った左派運動の火を沈静せしめたのではないかと思っている。但し、この場合は、沈静せしめられた方の能力が足りなかったということでもあり、我々はそこを主体的に内省せねばならないであろう。


【1980年代の全体としての政治運動】
 この時代の政治闘争の枢要事を眺望しておく。

【ハト派政治流産の経緯】
 1980.2月、日共が第15回大会で、「田口・藤井理論に象徴される自由主義、分散主義との闘争と全党的克服」を決定した。

 5.18−26日、韓国全羅南道の中心都市.光州で反政府蜂起暴動が発生した。5.18日未明、全土戒厳令が敷かれ、金大中が連行される。市民ぐるみの蜂起に発展、連日市街戦が展開された。数千人が犠牲になった。これを「光州事件」と云う。政情の違いと云うべきだろうが、戦後日本に於いては軍が民衆暴動を鎮圧し、数千人を虐殺すると云う事例は無い。 

 6.12日、大平首相が参院選挙中、心筋梗塞のため死去。この間、娘婿の森田一が付ききり、「角さんに会いたい」を受け連絡をとる。地元新潟で遊説中の角栄は直ちに帰京したが、駆けつけたときは息を引き取った後だった。角栄は大平の遺体に向かって号泣ししたと伝えられている。この時、田中は、「31年にわたり兄弟付き合いをしてきた。非常に慎重な性格で、自分と合わせて二で割りば丁度良いのにと笑いあったりしたかだが」といって涙を流した。

 7.17日、大平後継として鈴木善幸が急浮上、第10代自民党総裁に選出され鈴木内閣が発足した。和の政治を提唱、大平内閣以来の行政改革と財政再建を課題とした。80年の国債残高は70兆5098億円、国債異存率は32.6%に達していた。翌81年には82兆円を突破することになる。鈴木は、元々社会党公認候補で衆院初当選1947年、田中と同期である。49年に吉田茂率いる民自党に鞍替えし、その後自民党総務会長を9期務めていた。

 8.23日、新聞各紙の夕刊は、一面トップで、伊藤律の生存ニュースを報じた。8.30日、党中央は、「伊藤律の帰国を廻る問題について」と題する次のような広報部発表をしている。

 概要「日本共産党中央委員会が、伊藤律の身柄を中国側に預かってくれと依頼した事実はありません。伊藤律への措置は、1950年の分裂の後、徳田球一を中心とした『一方の側』の『亡命者の政治集団』が、勝手にやったことで、伊藤律の帰国が今日の日本共産党に何らかの重大な影響を与えるかの如き論評は、まったく的外れのものです」。

 9.3日、伊藤律帰国。密航以来29年ぶりの帰国であった。伊藤律幽閉の当事者であった野坂は、「伊藤律の問題について」で苦しい弁明をしている。9.26日、赤旗は、宮顕の「戦後史における日本共産党」講演を掲載した。宮顕は、この講演の中で伊藤律に触れて次のような人格批判を繰り広げている。

 概要「伊藤律は警察につかまっては警察の機嫌を取り(笑い)、また党に入っては家父長的な幹部の機嫌を取るというような点で、出色の才能をもっていた(笑い)。伊藤律はそのまわりで幹部の不和を煽ったり、おべんちやらをいって徳田書記長の誤りを助長した」。

 9.11日、党本部で都道府県委員長会議が開かれ、宮顕委員長が、異例の公開で会議を取り仕切った。宮顕は、冒頭挨拶の中で次のように述べている。

 「伊藤律は明らかなスパイだった。数多い同志を売ったばかりでなく、特高とも連絡をしていた。除名は律の供述と十分な傍証をもって確認した。この発表についてはこの30年間、本人からの異議は受け取っていない。律がマスコミで大変な大物扱いされ、律の口次第で歴史が変わるかのように云われている。分裂の状況に乗じて律がうまく立ち回ったという点はあっても、律が党史の重要な曲がり角をつくりあげたものはない。我々は、党から除名された者を拘束する権限は一切無い。だから律の帰国にも介入していないし、今後の私生活を『平和な老後を過ごしたい』というなら、それも彼の勝手である」。

 これについて、筆者はかく思う。宮顕がこうもあからさまに伊藤律スパイ説を唱えている以上、筆者が宮顕スパイ説を唱えるのに何の憚りがあろう。

 11月、宮顕が、文芸評論集第一巻の長大なあとがきで、戦前の自己のプロレタリア文学運動とその理論を、蔵原惟人批判、鹿地亘批判を含めつつ、全面正当化した。それによって、「プロレタリア文学運動」の「戦後的総括」を試みた。

 1981.1.25日、中国で江青、張春橋に死刑判決。

 3.6日、荒畑寒村死去。3.7日付け朝日新聞は、荒畑が瀬戸内寂聴に語ったという次の記事を掲載している。

。「革命家として生きてきたが、ソ連や中国の現状を見ていると、失望するばかり。日本の革新政党もダメになり、何が何だか分からなくなった。一日も早く死にたい」。

 3.16日、臨時行政調査会(第2次臨調)初会合。経団連前会長の土光敏夫氏が会長に就任。土光氏は、会長を引き受ける条件として、4項目の申し入れをしていた。1・答申を必ず実行するという決意、2・増税無き財政再建、3・行政の合理化、簡素化、4・3K(国鉄、米、健保)の赤字解消、特殊法人の整理、民営化を極力はかり民間の活力を最大限に生かす。 3.18日、鈴木首相、行政改革に「政治生命をかける」と表明。

 5月、共産党が「社会党抜きの統一戦線組織」として「全国革新懇」結成。平和.民主主義.革新統一を進める全国懇話会、地域「革新懇」241、参加人員415万人。松本清張、羽仁説子、真下信一、寺島アキ子、松浦総三などの文化人を代表世話人として表に立てて、世話人110名からなる組織。社共統一戦線の障害になるとの反対意見も根強かったが宮顕議長の肝いり秘書グループが推進した。

 1982.5.27日、ロッキード事件全日空ルートの橋本登美三郎・佐藤孝行に一審有罪判決。

 7月、日共の第16回党大会が開かれ、宮顕議長、不破哲三委員長が誕生した。これにより野坂議長が名誉議長となった。不破が書記局長から委員長に昇格した。

 10.12日、鈴木首相が突然辞意表明「次期総裁選に出馬しない」と発表した。10.23日、中曽根康弘、河本敏夫、安部晋太郎、中川一郎の4名が立候補し、自民党総裁公選予備選がスタートした。11.24日、自民党予備選の結果、中曽根が勝利し、中曽根が第11代自民党総裁に指名される。11.25日、中曽根内閣誕生。11.27日、第1次中曾根内閣が発足。「仕事師内閣」をうたった。

 人事に関して、田原総一朗氏の「法王の恐怖政治」(月刊「諸君」、2002.5月号)で次のように中曽根首相自身が述べていることが注目される。

 「田中曽根内閣」と烙印が付けられたことに対して、「あれは、実は私の内閣の手法だったのです」と語り、「なぜ田中派が多くなったのか、理由は明快で、最大派閥の田中派は人材が豊富で、圧倒的に仕事師が揃っていたのです。例えば官房長官は自派から起用するのが慣例になっていたのを、私のほうから後藤田君に頼んだのです。内閣の最大の課題である行財政改革を敢行するに当たって、各省の抵抗、つまり官僚の抵抗をうまく抑えられるのは彼しかいないと読み、大仰でなく後藤田君に私の政治生命を預けたのです」。

 中曽根は、政権を手中にしたときのことを後に次のように回顧している。

 「艱難辛苦の末、ようやく手に入れた政権である。その権限をあますところなく駆使して、思い残すことのないようにやる決意である。政権とはいったん手に入れたら後はこちらのもので、公器を預かる者として歴史の審判を受けるのみである」(学研「実録首相列伝」の「中曽根康弘」の項)。

中曽根首相は、首相就任初の施政演説で次のように語った。

 「戦後政治の総決算」を謳い、「戦後政治を総合的に見直し、21世紀に向かっての基本的路線を策定する」と強く表明した。その意味するところは次のようなものであった。「一本の柱は、吉田政治からの脱却でした。私に云わせれば、エセ一国平和主義ですよ。憲法改正・防衛軍創設などを求める鳩山一郎や三木武吉、河野一郎などに対抗するためでもあり、日本弱体化を狙っていたアメリカの政策にともかく迎合するのが得策と考えたこともあるでしょう。国家像の構築や安全保障は棚上げして経済重点主義に走った。それが結果として国民精神を歪めて、国民の中に国家意識が無くなってしまった。池田さん、佐藤さん、角さんと、いずれも吉田路線を踏襲した。私はその路線から脱却して、新しい国家像を構築し、歴代首相が逃げ腰だった防衛問題に真っ向から取り組むことにしたのです」、「はっきり云えば、マッカーサーの占領政策がそのまままかり通ってきて、国際的には常識である防衛問題を論じることがタブーになっていた。私はそれを叩き壊そうとしたのです」。

 83年度予算案は、一般会計1.4%増で50兆円の乗せたが、一般歳出が前年比マイナスの超緊縮財政の中で、防衛費だけ6.5%増で突出、GNP比率0.978%、聖域化を強めた。「福祉国家よさようなら、安全保障国家よこんにちは」と云われた。ODA(政府開発援助)は8.9%増で、韓国訪問の手土産に使われた。国債発行額は、13兆3450億円(建設国債が6兆3650億円、赤字国債は6兆9800億円)で、前年度当初より2兆9050億円多く、国債依存度は26.5%に上がった。 

 12月、「日本共産党の60年」が刊行された。この中で、次のような記述が加えられた。

 「(1950年代の半ばに)党内には自由主義、分散主義、個人主義、敗北主義、清算主義の傾向や潮流が新しくあらわれた。過去の誤りへの批判の自由ということで、党内問題は党組織の内部で討議・解決するという原則から外れ、党の民主集中制や自覚的規律を無視する傾向は、党内外に様々な形で現われた」。 

 この槍玉に挙げられたのが当時副委員長の上田耕一郎、幹部会委員長の不破哲三(上田健二郎)兄弟の1956年の著作「戦後革命論争史」(大月書店)だった。イタリア共産党の「構造改革理論」の影響を受けていることが指摘され、「お前たち2人は、26年前、自由主義、分散主義、分派主義の誤りを犯した」と断罪された。両名は、翌年の8月号前衛に自己批判文を載せることになる。

 1983.10月、田中元首相一審実刑判決。

 1.17日、中曽根首相が、アメリカに対して武器技術の供与を決定した。それまで、武器輸出三原則により、日本はどの国に対しても武器輸出はもちろん技術供与も禁じられていた。アメリカは、前政権の鈴木首相時代にも同盟国として武器技術の供与を強く求めていたが応じていなかった。中曽根は今日次のように述懐している。

 「アメリカから武器そのもの、そして軍事技術もたくさん供与してもらっているのに、こちらからは一切供与しないというのは不合理極まりない。内閣法制局の解釈を変えさせるのに苦労しました」。

 1.19日、中曽根首相初訪米。「日米は太平洋をはさんでの『運命共同体』であり、同盟関係にある」と中曽根は述べている。「ロン」・「ヤス」と日米首脳がファースト・ネームで呼び合うなど親密さを演出することに成功した。この時、中曽根首相は、ワシントン・ポスト紙のグラハム社主等との朝食会で、「わが国の防衛に関しては、私なりの見解を持っている。それは、日本列島を不沈空母のように(ソ連の)バックファイアー爆撃機の浸入に対する巨大な防衛の砦を備えなければならないということだ」と発言し、物議を醸している(「日米運命共同体」、「日本列島不沈空母」等の発言)。ニューヨーク・タイム紙が、「中曾根首相、日本列島を不沈空母に」と発言を掲載。中曾根→否定の後に肯定。

 1.26日、ロッキード裁判丸紅ルートの論告求刑公判。東京地裁701号法廷で、検察側は、田中に対して受託収賄罪の最高刑を求刑。懲役5年、追徴金5億円を求刑。

 4月初め、党中央は、民主文学4月号掲載の小田実寄稿文の「野間宏を団長として、中国訪問した」記述“5行”と編集後記の中野健二編集長の寄稿謝辞にイチャモンをつけ、発売とともにするのが慣わしであった赤旗広告掲載を拒否した。党中央は、文学同盟常任幹事の党グループ会議を招集した。党中央の文化関係幹部5那の幹部、書記局次長宇野三郎(常任幹部会員)、小林栄三(常任幹部会員)、西沢舜一(幹部会員)、津田孝(幹部会員)、高橋芳男雅出席し、4月号の問題だけでなく、民主文学同盟の活動全般にわたって批判した。これについては、宮地健一氏の「第2、民主主義文学同盟『4月号問題』事件1983年」に詳しい。

 5月、党中央は、第4回中央委員会総会を開いた。そこでは、中国の干渉問題と「日市連」の問題をとりあげて、文学運動だけでなく、一般知識人のあいだにも思想の風化がひろがっているので、イデオロギー活動の強化が必要だと強調した。中央委員会総会後、宮顕議長の指揮で、文学同盟の責任追求が執拗に行われ、中野編集長を擁護してきた役員たちが辞職した。中野健二が編集長を、霜多が議長を、山根献も事務局長を辞退し、3人は同時に常任幹事を辞任した。そして常幹22人中、松崎晴夫、中里喜昭、上原真、井上猛、武藤功、飯野博、平迫省吾らを合わせて10人のメンバーが、常任幹事を辞任した。編集部員の織田洋子と荒砥例は退職した。党中央は、混乱の指導責任を問うとして、西沢文化局長を辞任させた。

 8月、日共の中央委員会政治理論誌前衛8月号に、副委員長の上田耕一郎、幹部会委員長の不破哲三が自己批判文を載せた。前年の12月に刊行された「日本共産党の60年」での両氏の1950年代半ばの動きが批判され、これに応えた形となった。筆坂秀世氏は著作「日本共産党」の中で次のようにコメントしている。

 「30年近く前の、しかも既に絶版になっていた著作の自己批判を公表させるなどというのは、宮本氏の力をもってする以外にありえないことだった」。

 9.7日、ロッキード裁判で田中元首相に懲役五年の求刑。

 10.12日、東京地裁のロッキード事件丸紅ルート第一審有罪実刑判決。田中元首相は、検察側の主張どおりに受託収賄罪などで懲役4年、追徴金5億円、榎本も有罪とされた。贈賄側は丸紅社長の檜山広が懲役2年6ヶ月、伊藤宏専務が懲役2年、大久保利春専務が懲役2年・執行猶予4年。田中は直ちに保釈の手続きをとった。

 この一審有罪判決直後の21日朝日新聞は、元最高裁長官・藤林氏のコメントを載せ、「一審の重みを知れ。居座りは司法軽視。逆転有罪は有り得まい。国会に自浄作用を求める。元最高裁長官が『田中』批判」と見出しに大書している。元OBによる変調な論旨による露骨なオーバーコミットメントであった。

 角栄は判決に激怒した様子を伝えている。

 「判決では、嘱託尋問で聞いたコーチャンの証言ばかりが取り上げられている。こんな馬鹿なことがあったら、誰もがみんな犯人にされてしまう。最高裁が嘱託尋問などという間違ったものを認め、法曹界を曲がった方向に持っていってしまったんだ」、「この裁判には日本国総理大臣の尊厳もかかっている。冤罪を晴らせなかったら、俺は死んでも死にきれない。誰がなんといってもよい。百年戦争になっても俺は闘う」と述べている(佐藤昭子伝)。

 この日の夕刻、田中の秘書である早坂茂三が「田中所感」を読み上げた。

 「本日の東京地裁判決は極めて遺憾である。私は総理大臣の職にあったものとして、その名誉と権威を守り抜くために、今後も不退転の決意で闘い抜く。私は生ある限り、国民の支持と理解のある限り、国会議員としての職務遂行に、この後も微力を尽くしたい。私は根拠の無い憶測や無責任な評論によって真実の主張を阻もうとする風潮を憂える。わが国の民主主義を護り、再び政治の暗黒を招かないためにも、一歩も引くことなく前進を続ける」。

 当夜、中曽根首相の田中宛親書が上和田義彦秘書官を通じて佐藤昭子まで届けられている。議員辞職を要望する内容であった。これに対して、佐藤は次のように答えている。

 「この手紙は田中に見せません。だって田中は、ありもしない事件、不当な裁判と命がけで戦って無実を勝ち取ろうとしています。不当な裁判で無茶苦茶な判決が出たからといって、はいそうですかと引き下がる必要は全くないではないですか」。

 一審判決後、国会は田中の議員辞職勧告決議案を廻って紛糾した。特に日共の追撃が尋常でなく、後のダグラス・グラマン事件の際の追及と比較して見ても際立って激しいものとなった。これにつき、筆者はかく思う。ここにも「闇」があると窺う。

 判例事報で、中央大学法学部の橋本公亘名誉教授が、「ロッキード裁判の法的問題点」と題して連載をはじめたが、5回連載したところで打ち切っている。これを考究させない隠然とした圧力があったことが予想される。この闇も深い。
この頃、マスメディアはこぞって角栄の議員辞職を求めた。福田や三木元首相も「田中が辞職しないと自民党政権が維持できない」と主張した。

 10.28日、ホテルオークラの902号室で、田中角栄、中曾根首相会談が行われ、中曽根は何とかして角栄の議員辞職を引き出そうと試みた。だが角栄は「私は無罪だ。この屈辱を何とか晴らしたい」と司法と戦う決意を示し、結局「自戒自重」の談話を発表することになった。11.1日、中曽根は自民党総務懇談会で、「10.28会談」を報告し、「進退は自分で決めることだ。返事は聞く必要ない。『よく考えてくれよ』と善処を要望した」と報告している。

 中曽根内閣の84年度政府予算案は、 一般会計0.4%増で引き続き50兆円に乗せたが、一般歳出が前年比マイナス0.1%の緊縮財政の中で、引き続き防衛費だけ6.55%増で又もや突出、GNP比率0.991%。ODA(政府開発援助)は9.7%増。「福祉国家よさようなら、安全保障国家よこんにちは」傾向が一層強められた。

 国債発行額は、12兆6800億円(建設国債が6兆2250億円、赤字国債は6兆4550億円)で、前年度当初より6650億円減、国債依存度は25%になった。国債費が9兆円を超えて、歳出の18.1%を占め、1位の社会保障費に続き2位となり地方交付税を抜いた。 

 1984.1.5日、中曾根、首相として戦後はじめて靖国神社に年頭参拝。

 2月、日共が、田中角栄に対する議員辞職決議案を衆院に提出。

 5月、自民党、防衛費のGNP比一%枠見直し作業開始。

 この時、「原水協古参幹部粛清事件」が発生している。詳細は、
原水禁運動に対するデタラメ指導について「原水禁運動に対するデタラメ指導と詐術総括について」に記した。要点は、党中央による又もや振り下ろされた闘う人士、団体に対する弾圧であった。この時の弾圧で、原水協の代表幹事吉田嘉清.草野信男、日本平和委員会の事務局長・森賢一、会長・小笠原英三郎、理事長・長谷川正安ら、及び古在由重ろ、江口朴郎らの取り巻き知識人ら党歴30数年の学者党員たちが「党中央の指示に従わぬ」という理由で、除名された。

 これを報じようとした日中出版社の長崎肇・著「原水協で何がおこったか、吉田嘉清が語る」出版に対し、前代未聞の出版指し止め画策をしている。これら一連の経過が伏せられているが、まさに犯罪的であろう。

 11月、民主主義文学同盟辞任メンバーは、雑誌「葦牙(あしかび)」を創刊して、抵抗した。宮顕私的分派・側近グループは、1985年4月以降、徹底した「葦牙批判キャンペーン」を民主文学、文化評論、赤旗で行った。それに対して、次のような動きで論陣を張った。

@ 霜多正次  霜多正次は、『ちゅらかさ―民主主義文学運動と私』を発行し、そこで「4月号問題」とその経過を克明に分析、発表した。
A 中里喜昭  中里喜昭は、『葦牙』誌上で、党中央の『葦牙』批判キャンペーンへの反論・批判文を書いた。
B 武藤功  武藤功は、キャンペーンへの反論文だけでなく、『宮本顕治論』を発行し、そこで宮顕の「あとがき」内容を詳細に分析、批判した。
C 山根献  山根献は、党中央の第20回大会前後の丸山真男批判大キャンペーン(丸山のプロレタリア文学運動論への批判も中心の一つだった)に抗し、「丸山真男追悼集」で、「政治の優位性」論への批判を、丸山の見解と対比しつつ、緻密に展開している。

 12.3日、ロッキード事件全日空ルートの控訴審第1回公判が東京高裁刑事5部で開かれた。橋本登美三郎元運輸大臣(一審は懲役2.6ヶ月、執行猶予3年、追徴金500万円の有罪判決)は、一審と同様に請託、金銭授受の容疑全て否定した。佐藤孝行元運輸政務次官(一審は懲役2年、執行猶予3年、追徴金300万円の有罪判決)は、請託と「賄賂性の認識」の関係につき、「仮に受け取ったとしても政治献金かご祝儀としか思えなかった」と抗弁し、無罪を主張した。

 12.20日、衆議院本会議で、電電改革3法案が成立した。以降、初代社長を廻る綱引きで、真藤恒総裁を推す中曽根首相、金丸幹事長派と北原安定副総裁を推す角栄派とが熾烈な対立を深めていくことになる。

 1985年度政府予算案は、一般会計3.7%増で引き続き50兆円に乗せたが、一般歳出が前年比マイナス*.*%の緊縮財政の中で、4年続きのマイナス・シーリングの中で引き続き防衛費だけ6.9%増で突出、遂に3兆円を突破した。GNP比率0.997%。昭和51年11月の閣議決定(三木内閣)の「GNP比率1%を超えないことを目途とする」の線まで89億円を残すだけとなった。ODA(政府開発援助)は10%増。「総合安全保障」傾向が一層強められた。

 国債発行額は、11兆6800億円(建設国債が5兆9500億円、赤字国債は5兆7300億円)で、前年度当初より1兆円減、国債依存度は22.2%になった。年度末の国債残高は133兆円と見込まれ、国債費は10兆円を超えて、歳出の**.*%を占め、1位の社会保障費を抜き、支出項目の第1位に踊り出た。

 1985.2.7日、幹事長・竹下登、金丸信による政策勉強会「創政会」旗揚げ。後に、「竹下派七奉行」と呼ばれる、小渕恵三、橋本龍太郎、小沢一郎、羽田孜、梶山静六、奥田敬和、渡部恒三ら40名が参加した。表向きは、政策勉強会であったが、実際は、竹下総理総裁を目指す「派中派」であり、田中派の亀裂が鮮明化した。これが「経世会」の前身となる。

 2.22日、「日共の出版妨害事件」の渦中の人物であった柳瀬、安藤氏が除名された。2.24日赤旗に、「柳瀬宣久の除名処分について」が掲載された。一方的に都合のよい「党規律違反の概要」が書きなぐられていた。次のように罵倒している。
 「まして、前衛党たる日本共産党の場合、党員は、党の政策や方針に反対する見解を党外で勝手に表明することを明確に禁じた規定を含む党規約を自ら承認して入党しているのであって、党員にとってはその規約を守ることが、党にとってはその規約を守らせることが、すなわち『結社の自由』の重要な内容なのである。この党規約を認めて入党する以上、党員が自らの出版や言論の自由をこの『結社の自由』と両立させつつ積極的に行使することは、本来、外部からの強制ではなく、本人の自発的意思である。(なお、党の政策や方針に対する意見、異見は、党内で表明する道が党規約で保障されている)前衛党の党員が、『出版の自由』ということで、党攻撃を目的とした出版が勝手にできるなどという柳瀬の議論は、党の上に個人を置くことを求めるだけでなく、党破壊活動の自由を党自身が認めよというものであり、綱領と規約の承認を前提に自覚的に結集した前衛党を解体に導く途方も無い誤りの議論である。それは、前衛党の『結社の自由』のあからさまな否定に他ならない」。

 これについて、筆者はかく思う。これは、宮顕の戦前日共党中央委員小畑リンチ致死事件の際の居直り弁明時のそれと瓜二つである。つまり、宮顕は、同事件に対して何の反省もしていないことになる。「党員にとってはその規約を守ることが、党にとってはその規約を守らせることが、すなわち『結社の自由』の重要な内容なのである」とは、入党後の個人は煮て食われようが焼いて食われようが、党中央に対して何ら文句言えないとする恐るべき誓約を強いらることを示唆している。それが、「結社の自由の法律的意味である」とまで云う。無茶苦茶な論法であるが、これが罷り通っているみとの方が不思議だ。互いに頭がおかしいに違いない。

 2.27日、田中角栄元首相脳梗塞で倒れる。東京逓信病院に入院(5.5日判明)。以降、長期療養生活に入ることになった。「政界の田中支配終焉」となる。 

 7月、この頃東大院生支部の「宮本解任決議」騒動が発生している。宮地健一氏の「共産党、社会主義問題を考える」の「」で詳述されているのでこれを参照する。東大院生支部指導部が、11月に開催予定の第17回大会に向けて「宮本解任決議案」を東京都委員会に提出した。宮顕解任理由は、議長宮顕が1・1977年の第14回大会後から誤りを犯し、国政選挙10年来停滞の指導責任がある。2・敗北主義、分散主義等党員にたいする様々な「思想批判大キャンペーン」をする誤りの責任があること等を問うものであった。その根底には、第14回大会以降の「民主集中制の規律強化」.「自由主義、分散主義との全党的闘争」を推し進め、ユーロコミュニズム・先進国革命とは逆方向に向かう宮顕路線への批判が反映されていた。

 10月、東大大学院全学支部総会が開かれた。都党会議の代議員枠2人枠に対して4人が立候補した。結果は、宮顕勇退派1名、党中央派1名で、党中央の宮顕勇退派落選工作は失敗した。宮顕はこの動きを断じて認めらなかった。11.5日、東京都常任委員会は、宮顕勇退派の査問、権利停止処分、Y氏の代議員権を剥奪した。11.11日、都党会議が開かれた。上田が党中央を代表して、「Yと伊里一智一派の分派活動なるもの」を批判する大演説をし、上田の宮顕忠誠派の本質を曝け出した。以後“上耕人気”は急速に低落することとなった。

 この粛清では、志位和夫と河邑重光幹部会委員・赤旗記者が大活躍した。この時志位は、宮顕との直通ルートでひんぱんに連絡し、指示を受けた。そして、宮顕勇退勧告派の動きを、「分派の自由を要求する解党主義、田口富久治理論のむしかえし」ときめつけた。河邑は、伊里一智批判の大キャンペーンで、「負け犬」、「ビラまき男」とするレッテルを貼り、伊里一智の思想的人格的低劣さをねつ造する記事を“大量生産”して名を挙げた。

 宮顕は、志位をその論功行賞で、次回の第18回大会で「最年少の准中央委員(33歳)」にした。さらに、第19回大会では「中央委員、新書記局長(35歳)」に“超・超・大抜擢”をした。志位は、宮顕から、宮顕擁護とあらば、いかなる卑劣なでっちあげも平然と行い、それに基く粛清をも手がけ、「汚れた手」になるのも、いとわない、最も党派性(=自分への盲従性)の高いヤングマンとの「お墨付き」を頂戴した。第20回大会では、河邑が「常任幹部会委員」に抜擢された。これが「宮顕―不破―志位の重層的指導体制」誕生秘話である。戦前のリンチ仲間宮顕−袴田コンビのそれに劣らない。


 去る1984.8.9日、日中出版社が、党中央の妨害を跳ね除けて「原水協で何がおこったか、吉田嘉清が語る」を緊急出版したが、この頃この出版に関与していた日中出版社の党員に対する査問が開始されていった。この経過を見ておく。

 昨年の出版騒動からほぼ9ヶ月になる6.17日、日中出版(代表・柳瀬宣久)の女性編集者・安藤玲子宅に、「日本共産党中央委員会」名の配達証明便が届けられた。「通知」書が封入されており、「党勢委員会は、党規約第33条に規定する権限にもとづいて、貴同志の規律違反について調査することを決定した。よって、左記に指定する日時に出頭されたい」と記載されていた。規律違反容疑として、党中央の意向に反して「原水協で何が起こったか、吉田嘉清が語る」を出版した「柳瀬の反党活動に協力するという重大な規律違反」を挙げ、「こうした貴同志の行為は、重大な規律違反として、党規約にもとづく処分はまぬかれない」とあった。同様通知書が、日中出版社員に送付されていた。

 6.26日、安藤氏は、「日本共産党中央委員会統制委員会」宛に返信した。概要「既に離党していること、今更『同志』として決定を知らされても驚きと疑問を感じざるを得ないこと。『出頭』はしないし、こうした『通知』は今後一切貰いたくない」旨記していた。7.6日、統制委員会より新たな通知書が日中出版気付で送られてきた。概要「統制委員会は、このような貴同志の裏切り行為に対して、党規約にもとづいて厳重に処分することを決定し、党規約第69条にもとづき、弁明の機会をあたえることにした。よって、左記に指定する日時に出頭されたい」、続けて、党規約では離党届を提出すれば離党となるのではなく「貴同志が党機関との話し合いを拒否しているため、この手続きは完了していないことを指摘しておく」と記されていた。

 これについて、筆者はかく思う。これによれば、「党員には離党の自由が無い」ということになる。今でもこのような党規約にされているのであろうか、恐ろしい事ではある。

 7.9日、安藤氏は、「祈るような思いで」日本共産党中央委員会宛てに「改めて『出頭』して弁明する必要もありませんので、右、書面にて、お断りする次第です」としたためて投函した。

 篠崎氏も同様の遣り取りをしているが、篠崎氏の方が明確に答弁していることもあって、この方は争点があからさまとなっている。「基本的人権をも党は拘束できるとしているが、これは出版人としての私には許容できないものです。私は、柳瀬宣久氏の除名処分は撤回されるべきものと考えています」(6.15日付け「通知に対する返書」)。これに対して、統制委員会は、7.4日付け「通知」で、「反党分子に転落した柳瀬とともに党を攻撃するという、極めて悪質な規律違反であり、党と階級の利益を裏切るものである」と罵倒している。篠崎氏も負けていなかった。7.12日付けで返書し、党中央の出版差し止め騒動こそ自己批判すべきであり、柳瀬氏の除名処分は撤回されるべきであり、党規約第3条第4項で「党員は、中央委員会に至るまでのどの級の指導機関に対しても質問し、意見を述べ、回答を求めることができる」と定めていることを指摘し、「私が率直に自分の考えを述べたことが、『極めて悪質な規律違反』に問われることは納得できない。この点に関する統制委員会の明確なご返答を文書にて寄せられるようお願い申し上げます」と記した。

 しかし、何の回答も為されぬまま、8.17日付け赤旗に、「篠崎泰彦、安藤玲子、矢田智子ら3名の反党分子の除名について」論文が掲載された。7段3分の1を費やす「公示文」になっていた。これまで分析してきた通りの駄文を繰り返して、党中央への拝跪論理を振り回している。日中出版の「出版の自由」に対して、「前衛党を解体に導く途方も無い謬論」として、「以上に述べた篠崎、安藤、矢田ら3名の党規律を真っ向から蹂躙した行為は、その変節、転落、堕落が救いがたい状態に到達していることを示すものである」、「よって、除名処分する」としていた。

 奇態なことは、これらの経過に見合うかのような宮顕の次のような言及があることである。
 「(党員の処分にあたっては、)事実の綿密な調査と深い思慮が必要だということです。この思慮を欠いてことを行うならば、事実に合わず、道理に合わないことになって、その決定は当事者の苦しみはもちろん、党にとって有害なものにならざるを得ません。‐‐‐先入観にとらわれず、機関及び被処分者の申し立てなどを事実に基づいてそれぞれつき合わせ、それぞれの側にただしてまず事実を明確にすることが特に重要であるという点であります」(第11回党大会における宮本報告)。

 これについて、筆者はかく思う。こういう言葉を弄びながら、確信的に裏腹のことをやるという宮顕の陰険な性癖に対して、我々は氏をどう評価すべきだろうか。異常性格か、もしそうでなければスパイ特有の三枚舌文言として見ておくべきかと思われる。

 6.24日、国鉄総裁の仁杉巌氏が辞任。角栄派的な隅田国武理事をはじめ全理事が退陣した。中曽根は自著「天地有情」の中で、「仁杉、隅田両君のクビを取ったから改革がスムーズに運んだ」と述べている。仁杉の後任には、前運輸事務次官の杉浦喬也が就任。杉浦は国鉄分割民営化に励み、干されていた松田昌士、井出正敏、葛西敬之を中枢ポストに呼び戻した。87.4.1日JR7社が誕生していくことになる。

 8.15日、中曽根首相及び政府閣僚の多数が、戦後の首相として初の靖国神社に公式参拝し、日本の野党、民間団体がこれに強く反対。中国の世論は日本の閣僚が侵略戦争を美化したものと批判。9月、反日デモ。

 9.22日、「先進5カ国(米・英・西独・仏・日)蔵相・中央銀行総裁会議」(「G5会議」)がニューヨークのプラザホテルで開かれ、日本からは竹下大蔵大臣、澄田智日銀総裁、大場智満財務官の一行が出席した。国際金融局長の行天豊雄は、「米欧の10人くらいの仲間と隣の部屋にいた」。「プラザ合意」が為され、「各国通貨の対ドル相場の秩序ある上昇」を目指す為替市場協調介入強化が合意された。日本はその後、バブル時代に入る。

 11.19日、第17回大会会場入口で、伊里一智は、東大院生支部の「宮本解任決議案」問題の経過を書いたビラを配った。1986年1月、党中央は、伊里一智を査問し、除名した。「伊里一智」に対し党中央側のキャンペーンを河邑記者が行った。河邑は、東大全学60%における宮顕逆路線批判共同意志問題を隠蔽し、伊里一智一人だけの、気狂いじみた「ビラまき男」問題に矮小化させた。実に“赤旗・ペンの力は偉大である”。1977年第14回大会以来の宮本逆路線を批判する、最初の組織行動という、この問題の性格は、志位と河邑の宮本直接指令を受けた大奮闘によって、「負け犬の、ビラまき男による党大会会場入口事件」にすり替えられ、一人の気狂い党員の行動として、葬り去られた。

 1986.4.26日、ソ連チェルノブイリ原子力発電所で大規模事故。

 4.15日、英国の基地及び地中海に集結していた第6艦隊から出撃した米空軍の爆撃機が、リビアのベンガジとトリポリの二大都市を爆撃した。リビアの最高指導者カダフィ大佐は無事だったが、家族を含む多数のリビア人が死傷した。この攻撃は、西ベルリンのディスコ爆破テロ事件をリビアの最高指導者カダフィ大佐を黒幕とする犯行と断定した米国政府による報復行為であった。レーガン政権は、カダフィ大佐を狂犬とみなし、空襲を正当化した。

 中丸薫・氏は、「闇の世界権力構造と人類の進路」の中で次のように記している。

 「(私が直接リビアで彼に会ったとき、レーガンについて以下のように答えている) レーガン大統領は政治教育を受けておらず、政治に関して無知である。彼は国際政治については何も知らないハリウッドの役者に過ぎず、娯楽と政治を混同している。それこそ、演技と現実の政治を混同しているのかも知れない。ただの無知ならともかく、武力をもって世界の人々を威嚇するような政策は、世界規模の核戦争を起こす危険さえもたらす。レーガンはあくまで役者をやっていればよいのであって、米国大統領などの権限をもつべきではない」。

 5月、東京で、主要国首脳会議(サミット)が開かれた。

 11.28日、国鉄分割・民営化関連八法成立

 12.30日、政府の87年予算で76年三木内閣が決定した「防衛費GNP1%枠」をはじめて突破し、撤廃された。

 1987.1月、在日米軍労務費特別協定を閣議決定。

 4.1日、JR六社発足。4.14日、国鉄民営化。JR7社(北海道、東日本、東海、西日本、四国、九州、貨物)が誕生。松田昌士はJR東日本、井出正敏はJR西日本、葛西敬之はJR東海の社長に就任。

 4月、不破委員長が「党改革意見書(到改革に関する基本構想についての若干の提言)」を宮本議長に提出、宮本議長は中身を読んで激怒、結局、不破委員長は6ヶ月間の機関活動停止処分を受ける身となった。村上弘副委員長が委員長代行に就任。

 7.4日、竹下登自民党幹事長が、田中派140人中、大部分の113名を引き連れて、自民党最大派閥「経世会」を旗揚げする。その背景には、創政会の旗揚げ、解散、二階堂グループによる中曽根後継総裁選出馬の動きがあった。田中派内の二階堂と竹下の両グループの対立に対し、これと闘うという反二階堂つまり反田中運動的面があった。「経世会」は、ポスト中曽根後の政界主流となり、竹下、宇野、海部、宮沢の各政権誕生の原動力となる。その特徴は、自民党最大派閥として政局に大きな影響を与えつつ中曽根、旧福田系タカ派との協調政治を目指していったことにある。代表は、竹下登→小渕恵三→橋本龍太郎に受け継がれていくことになるが、この途中、小沢一郎、羽田孜、鳩山由紀夫らが分派しており、こちらも政局に大きな影響を与えていくことになる。

 7.29日、ロッキード事件丸紅ルート控訴審判決で田中元首相側の控訴棄却→田中ら4被告上告

 8月、国際緊急援助隊法成立。

 10月、FSXを日米共同開発とすることで合意。

 中曽根康弘総裁の任期満了に伴う後継総裁選び。有力候補はニューリーダーと呼ばれた竹下登(田中派→竹下派)・安倍晋太郎・宮澤喜一(鈴木派→宮澤派)。10.19日夜、中曽根首相が竹下を後継に指名した。10.20日、自民党総裁3候補(竹下、宮沢、安倍)は中曾根に調整を白紙委任で一任→中曾根総裁は後任総裁指名権を得て竹下を指名。

 中曽根が竹下を総裁に指名した理由は次の通り。

 概要「最も大きな理由は消費税の導入です。私はそれをやり損なった。これは残念でならない。政治的にもダメージを受けた訳で、何としてもこれを実現してくれる人物、これが第一条件。となると税制に詳しく、野党、特に公明、民社ともうまくやれる人物ということになった。宮沢、安倍君より竹下君の方がうまいだろうと。実績もあるしね。私の目は間違っていなかった」(「諸君」2002.6月号、田原総一朗「田中支配の終焉」)。

 10.31日、竹下登が自民党臨時大会で第12代総裁に竹下登を選出。前総裁指名、安倍幹事長、宮澤副総理に迎え、強力な挙党一致内閣が成立。自民党はここから、「経世会支配」による、総主流派体制が始まっていくことになる。

 11.25日、日共の第18回党大会が開催され、宮顕議長、不破副議長、村上弘委員長、金子満広書記局長体制が発足した。

 11.28日、大韓航空機ミャンマー(旧ビルマ)沖で爆破。11.29日、金賢姫ら大韓航空機爆破事件。12.16日、韓国大統領選,盧泰愚が当選。

 1988(昭和63).2.7日、衆院予算委員会で、テレビ放映中継下での共産党の正森成二議員の質問中、浜田幸一委員長が割って入り、共産党議長宮本顕治氏を殺人者呼ばわりし紛糾。委員会室は一時騒然となった。これにつき、「補足・ハマコー(浜田幸一元自民党代議士)の貴重な事件分析」に記す。

 3月、赤報隊が朝日新聞静岡支局にピースカン爆撃。3.14日、赤報隊が中曽根元首相事務所に脅迫状。靖国神社公式参拝や教科書問題に触れていた。3.17日、赤報隊が竹下首相の実家(島根県掛合町)に脅迫状。消印は中曽根元首相への脅迫状と同じ日。事件は公表されず、極秘に捜査された。

 4.10日、瀬戸大橋開通→「陸続きになった日本列島。

 6.18日、朝日新聞横浜支局スクープによるリクルート疑惑が川崎市で表面化した。「日本の株式市場のゆがみを利用して政・財・官界など特権階級の人々の金儲け主義(錬金術)が白日の下にさらされ」、事件が中央政界を巻き込むことになった。

 7月、各国の金融当局などで構成する国際決済銀行(BIS)のバーゼル銀行監督委員会が開かれ、銀行の自己資本比率に関する国際的な統一基準を示した。これにより、国際業務を行う銀行は、貸し出しの8%以上の自己資本を持たねばならないということになった。これを「1988年BIS規制」と云う。イギリスやアメリカは長期資金を貸し出ししない国柄であるので規制にあまり影響を受けなかったが、日本やドイツの銀行はそれまで4%程度で運営していたため影響を強く受けることになった。

 ドイツは反対したが、日本は英米に同調した。しかし、これにより日本経済は影響を受けることになった。規制の狙いは、銀行が経営体力を上回るようなリスクを抱えて、経営の健全性を損なうのを防ぐことにあったが、自己資本が比較的薄いにもかかわらず積極的な融資を展開し、資金量で世界の上位をほぼ独占した邦銀の存在感に欧米諸国が警戒感を抱いたことが背景事情にあったとされている。事実、BIS規制の導入後、邦銀は融資内容の見直しを迫られ、邦銀が融資を引き揚げることによりますます経済活動が圧迫され、株価下落の原因となっていく。98―99年の金融危機では大手行でもBIS規制での自己資本比率8%の維持が難しくなり、公的資金注入につながった。

 BIS(Bank for International Settlement=国際決済銀行)は、スイスのバーゼルに本拠地を置く、世界の中央銀行を束ねる国際機関で、元々は第一次世界大戦後のドイツ賠償処理機関として設立され、IMF設立時に廃止されるとされていた。それがそうはならず、引き続き大きな権限が与えられ金融政策に関与していくことになった。 

 7.20日、最高裁が、殖産住宅事件に判決。この事件は、72年に東郷民安会長ら経営陣が東京地検に逮捕、起訴されたものであったが、初決文は「一般に入手困難で値上がりすることが確実な新規上場株を公開価格で取得する機会を得ること自体が賄賂に当たる」とあった。

 7.23日、自衛隊潜水艦「なだしお」と「第1富士丸」衝突。

 7.29日、消費税導入を柱にした税制改革関連法案が国会に上程される。

 11.21日、リクルート疑獄事件に関して、国会で事件の証人喚問始まる。リクルートの創立者の江副浩正が、値上がり確実のリクルートコスモス株を、政治家や大企業のトップクラス、高級官僚、大手新聞トップを含むマスコミ幹部らに、大量に不正入手させた前代未聞の贈賄疑獄事件。衆議院リクルート特別委員会、江副・高石邦男・前文部事務次官・加藤孝・前労働事務次官を証人喚問→江副証言と宮沢蔵相との釈明食い違いが判明。宮沢は、それまで「秘書が友人に頼まれて秘書の名義貸しをした」と説明していた。

 12.21日、参議院委員会で消費税法案が自民党による単独強行採決。12.24日、参議院本会議で消費税法など税制改革関連6法案が可決される。

 12.27日、竹下改造内閣発足。宮沢の後任に宮沢派の村山達雄。法務大臣に就任した長谷川峻はリクルート社から政治献金を受け取っていたことが判明し、12.29日辞任。

 1989.1.7日、天皇裕仁(昭和天皇)87歳で崩御。昭和(62年と2週間=22,660日)の時代終わる。元号が平成に改められる。中国の楊尚昆国家主席と李鵬総理が昭和天皇の逝去で竹下登首相あてに弔電。 

 1.18日、TC(日米欧三極委員会)の幹部たちがディビッド・ロックフェラーに率いられて、モスクワのクレムリン宮殿・奥の院に集結し、ゴルバチョフと極秘会談した。参加した幹部の名は次の通り。元米国国務長官ヘンリー・キッシンジャー、元フランス大統領ジスカールデスタン、日本の元首相中曽根康弘その他。

 2.13日、江副浩正リクルート前会長ら2名をNTT法違反(贈賄)容疑で、日本最大の企業NTTの元取締役・式場、長谷川寿彦ら8名を逮捕。更に、3月辰已雅朗・リクルート元社長室長、NTT会長真藤恒(ひさし)、元労働次官加藤孝、元労働省課長鹿野茂、前文部次官高石邦男らが事情聴取され、3月に収賄容疑で逮捕、5月には第2次中曽根内閣の官房長宮であった藤波孝生(たかお)代議士と池田克也公明党代議士らを受託取賄容疑で在宅のまま取り調ベを行った。

 
こうして事件は元閣僚、元代議士、事務次官2名、NTT元会長らをリクルートコスモス社未公開株収受による収賄容疑で起訴及び宮沢大蔵大臣辞任、竹下内閣崩壊というスケールに拡大した。疑惑のコスモス株を秘書または家族名義を含めて9人の閣僚級政治家が密室の財テク的収受をしていた政府自民党幹部、中でも中曾根前内閣中枢に強い疑惑が集中した。国会の証人喚問などでも追及されたが、多くの「灰色高官」たちの立件は行われないまま事件は幕引きとなり、結局、戦後の他の大疑獄同様、核心の解明なしで終結、国民の間には、「政治不信」だけが残こることとなった。(田村氏の「リクルート事件の概要」

 2.9日、常任幹部会の席上で、宮顕議長が村上委員長を失脚させた。その背景として、村上委員長が旧全逓系、関西系の自派系人事を強行して宮顕秘書軍団と対立、宮顕議長の鶴の一声で村上追放となった。村上はその夜、「こんなことで委員長の首を飛ばすなら、誰がやっても務まらんよ。この悪習を放っておいて良いのか」と憤懣を漏らしたと伝えられている。

 4.1日、消費税3%導入。

 4.25日、竹下内閣退陣。予算成立の後に国民の政治不信の責任をとって辞任すると表明した。その翌朝、竹下氏の腹心の秘書(金庫番)青木伊平氏が自殺。次のように解説されている。
 「リクルート事件に関しては、当時、党内は総主流派体制であり、しかも、次期総裁候補をはじめとする、党の有力政治家のほとんどが関与していたため、竹下の責任を追及し、経世会を攻撃する派閥がなかった。これは、ロッキード事件等の一連の金脈問題で、田中角栄、あるいは、田中派が、三木武夫や福田赳夫に激しく攻撃されたのとは、大きく異なる。また、田中が、金脈問題で退陣した後、自民党は、クリーンなイメージの三木を総裁に選び、国民に対して鮮やかなイメージチェンジを図ったが、リクルート事件の際は、有力者が、全て、事件に関与していたために、自民党政治そのものが、汚染され、制度疲労を起こしている状態になった。このことは、リクルート事件をきっかけにして、政治改革の必要性が、政治内部と国民の双方で高まった原因として考えられる」。

 6.2日、予算成立後、リクルート問題に関連して竹下登総裁が辞意表明。後継総裁には宇野宗佑外相(中曽根派)が自民党両院議員総会で異例の「起立多数」で選出される(第13代自民党総裁)。派閥の領袖でない者が総裁になったのは初めて。6.3日、宇野宗佑(中曽根)内閣誕生。

 この間、中国で天安門事件が発生している。
その経緯は次の通り。4.15日、胡耀邦・前総書記死去。 4.16日、天安門広場の人民英雄記念碑に北京大学生らが胡氏を悼む花輪を捧げ始める。4.17日、同広場で、学生等が胡氏の名誉回復を求めてデモ。4.22日、党・政府による胡氏追悼集会。4.24日、北京の各大学が無期限授業ボイコットに突入。4.26日、人民日報社説が「旗幟(きし)を鮮明にして動乱に反対せよ」発表。5.19日、趙紫陽総書記が同広場でハンストを続ける学生の説得を試みる。5.19日、趙紫陽総書記がゴルバチョフソ連共産党書記長と会談、その席で「最も重要な問題については、依然ケ小平同志の舵取りを必要としている」との党内事情を暴露し、党の重要決定がケ小平氏の一存によって諾否されていることを明らかにした。

 5.20日、北京市中心部に戒厳令。6.4日、未明に中国人民解放軍戒厳部隊が戦車と装甲車で天安門広場に入り、学生・市民に発砲、死者数百人(天安門事件)。
6.9日、ケ小平氏が、事件後初めて中央テレビに登場、戒厳部隊と接見の様子が放映される。6.23(24)日、中国共産党中央委員会総会が、趙紫陽総書記の全職務解任、後任に江沢民・上海市党委書記政治局員を選出。

 6.8日、第5中総で、宮本議長が、「村上委員長から、5.29日に病気辞任の申し出があったので、これを受理し、新委員長として不破哲三同志を提案したい」と、委員長交替を告げた。これに全員沈黙で了承し、こうして、不破の委員長返り咲きが決定したと伝えられている。

 8.7日、伊藤律死去。「ぼくは身の潔白を証明する為に生き長らえてきたんじゃないんだ。曲がりなりにも日本共産党の政治局員という責任ある地位にいた者として、今やらなければならないことがあるんだ」。

 10.14日、田中角栄、政界引退を表明。

 11月、統一労組懇に決集して活動してきた共産党系労組が、ナショナル・センターとして「全労連(全国労働組合総連合)」を結成した。加盟労組は、29単産、42地方組織、約140万名であった。

 11.21日、総評解散、日本労働組合総連合(連合)連合発足。

 12.21日、ベルリンの壁取り壊し作業始まる。

 12.25日、ルーマニアのチャウシェスク政権が崩壊した。ルーマニア特別軍事法廷が、チャウシェスク夫妻を、6万人の大量虐殺と10億ドルの不正蓄財などの罪で起訴、形だけの軍事裁判で即刻銃殺刑の判決を下し、その場でチャウシェスク大統領夫妻を処刑した。この様子はビデオで撮影され、フランスを含む西側諸国でただちに放送された。数日後ルーマニア国内でも処刑の様子が公表された。

【この時期の学生運動の動き】
 この時代の学生運動の枢要事を眺望しておく。

【1980年の動き】 「戦後史80年当時」

【中核派、社青同解放派、革マル派の絶対戦争のその後の経緯】

 中核派、社青同解放派の革マル派攻撃が続く。

 10.30日、大田区南千束の区立洗足池図書館前の路上で、中核派が革マル派の5名を殲滅した。69年から続く内ゲバ事件で80人目の被害者となり。1度の内ゲバで5人が死亡というのは最多となった。この事件について、中核派は次のように声明している。

 概要「我が革命軍はクマルジャックの集団を捕捉し、壊滅的打撃を与えた。5人は3.14本多書記長殺害の下手人である。反革命革マル派に対しては、さらに第二、第三の”10.30”を敢行する」。

【1981年の動き】 「戦後史81年当時」

【社青同解放派の革労協内が分裂】
 6月、革労協−反帝学評で、1977年に書記長を殺害されてから徹底報復を主張する軍事武闘路線の狭間嘉明らの学生活動家出身グループ「狭間派」と、大衆闘争・労働運動を重視する佐々木慶明率いる労働者グループ「反狭間派」(滝口系労対派)が対立し分裂した。狭間派は反対同盟・北原派を、労対派は反対同盟・熱田派を支援した。

【1982年の動き】 「戦後史82年当時」

【連合赤軍被告に判決下される】
 6.18日、東京地裁で連合赤軍メンバーに判決が為された。永田洋子死刑、坂口弘死刑、植垣康博懲役20年。

【1983年の動き】 「戦後史83年当時」

【「三里塚芝山連合空港反対同盟」が北原派と熱田派に分裂】
 2.27日、「三里塚芝山連合空港反対同盟」が北原派と熱田派に分裂。支援党派も系列化される。中核派が北原派を、第四インターは熱田派を支援。

【1984年の動き】 「戦後史84年当時」

中核派による第四インターへのゲバ事件発生
 中核派による第四インターへの内ゲバ事件が発生している。これは成田空港反対同盟の分裂による支援党派の二分解に起因していた。中核派が北原派を応援していたが、熱田派を支援する第四インターを脱落派と決め付けての攻撃だつた。

 9.19日、中核派が、自民党本部へ無人トラック攻撃。


 11.27日、中核派が、時限発火装置で千葉県知事、浜田幸一代議士らの事務所攻撃。


【1985年の動き】 「戦後史85年当時」

【中核派対革マル派の抗争】

 2.5日、和光大学構内で内ゲバ。中核派8人、革マル派1人が負傷した。


 5.20日、日本赤軍の岡本公三が、パレスチナゲリラとイスラエルの捕虜交換によって釈放される。


 7月、よど号赤軍から、中曽根首相、藤波長官宛て無罪帰国についての意向打診書簡届く。


 9.4日、よど号赤軍メンバーの吉田金太郎がピョンヤンで病死。


【1986年の動き】 「戦後史86年当時」

【中核派対革マル派の抗争】

 1.20日白昼、京大教養学部構内でオルグ活動中の中核派全学連委員長代行福島慎一郎氏(25歳)が待ち伏せしていた革マル派数名に襲われて後頭部乱打により死亡。革マル派は「中核派『軍団』の敵対を完全に粉砕した」などと犯行を自認。


 2.8日、中核派が、成田空港工事に関係している鹿島建設作業所などを時限発火装置で焼く。



【1987年の動き】 「戦後史87年当時」

【中核派対革マル派の抗争】
 2.23日午前7時頃、茨城県茎崎町の路上で、出勤途中の動労中央本部副委員長が、待ち伏せしていた白、青色ヘルメットの6人くらいの男に襲われ、鉄パイプ、バールなどで滅多打ちにされ両手両足骨折の重傷。中核派が犯行を自認。

 5.18日午前7時20分頃、東京・武蔵野市内の駐車場で、動労拝島運転区渋い院長がJR武蔵境駅まで歩いて出勤中、ヘルメット姿の5、6人の男にハンマー、鉄パイプなどでおそわれ、両手両足骨折の重傷。翌日、中核派は「動労=カクマルへの正義の赤色テロである」と記載したビラを都内数カ所に巻き、犯行を自認。

 7.1日、京大教養学部構内で内ゲバ。中核派8人が負傷した。 

 8.29日午前7時半頃、千葉県船橋市の路上で、東日本鉄道労連、・千葉支部副委員長が自転車で出勤途中、ヘルメット姿の数人の男で鉄パイプで襲われ、両手、両足、顎骨折の重傷。中核派が犯行を自認。

【「新日和見主義事件関係者15年ぶりの集いの会」弾圧】
 「新日和見事件」 から15年後の1987年4月上旬、なつかしさのこみ上げてきた元民青同中央常任委員・小山晃は、同事件の被処分者にあて、「5.30日15年ぶりの会」と銘打って再会の呼びかけを発した。この動きは、手紙を受けた者の一人が「おおそれながら」と訴えでたことにより、党中央に知られるところとなった。党中央は直ちに全国的な調査を開始した。「とにかく党員は『会』に行くべきでないというのが党の見解です」と言いながら、党中央は何とかして会を中止させようと介入した。この指図に現執行部不破が無関係ということは有りえない。説得と指導を受けた小山は、「誰かの指示かだと?どうしてあんたがたはそう言う風にしか人間を考えられないのか。自分の書いた手紙の通り、かっての友人達と15年ぶりの再開を果たしたいのだ、それ以上でも以下でもない」と言い切り、離党届で始末を付けることを決意させた。

 当日、党の妨害を乗り越えて「15年ぶりの会」が開催された。党中央は、この会を認めず、会終了後判明した参加者に対して、下部組織を使って「参加者の氏名や会の模様を文書で報告せよ、党事務所に出頭せよ」などと執拗に要求してきた。それは不参加者や元中央委員でない者にまで及んだ。追求はこの年いっぱい続いた。この指図を見ても不破らしい、無関係ということは有りえない。ここまで至ってさすがに嫌気の世界を誘発させたようである。新日和見主義者達は、これまで「党の内部問題は、党内で解決し、党外に持ち出してはならない」という規約に従ってきた。被処分者の側から反論文書が公表されることもなく、「党員は出版などの方法で党と異なる見解を公表できない。もし、それを行えば規律違反で処分される」ことを恐れて「羊たちの沈黙」を守ってきた。しかし、党中央は、処分した側に警察のスパイがいたという諸事実が判明したにも関わらず事件見直しに着手することも無かった。「新日和見主義者」達は、この間主体的に自ら等が手塩で育てきた民青同の瓦解的現象にも横目で見過ごすことしか出来なかった。

 9月、成田空港反対同盟の二期用地内の4戸が北原派から離脱、小川派を結成。

 1987年現在、新左翼は、5流27、8派。その活動家総数は約14400名、動員総数約19900名、シンパ層を含めた総勢約35000名と公安当局調査。各党派の系譜と勢力は次の通り。

革共同系 中核派 3420名
革マル派 1930名
第四インター 1010名
ブント.共産同系 1640名
戦旗.共産同
共産同戦旗派
蜂起派
社会主義労働者党
赤軍派
革労協系 1100名
解放.狭間派
同労対派
その他 5330名
構造改革派系 プロ青同
フロント
日本の声
日共左派系 日本労働党
日本共産党行動派

【1988年の動き】 「戦後史88年当時」

【中核派対革マル派の抗争】
 3.3日、中核派が、群馬県渋川市で革マル派且つ東日本旅客鉄道労組高崎地本委員長を就寝中を襲い死亡させた。

【1989年の動き】 「戦後史89年当時」

【革労協の内部抗争】
 この頃から中核派と革マル派に関する内ゲバ事件自体は急速に減少する。それにかわって革労協の内部抗争が深刻になる。

 6.25日、元革労協(狭間派)の最高幹部であり実質ナンバー2だった永井啓之(43歳)が襲撃され惨殺された。6.28日、革労協(狭間派)が都内で記者会見し、内部抗争であることを認め次のように発表した。
 「わが党、同盟によって昨年除名、その後敵前逃亡し、加重処分の対象となっていた永井が、永井をめぐる組織防衛上の過程で肉体的に変調をきたし、放したが、その後、マスコミ報道によると死亡した」。

 7月、成田空港反対同盟熱田派の最大支援党派の戦旗共産同が熱田派と決別。


【中核派、革労協の革マル派襲撃】
 9.1日、中核派が大阪、兵庫、埼玉の6ヶ所で、国鉄労組幹部宅を襲撃。この同時多発襲撃事件で、革マル派且つ真国労大阪地本書記長・前田正明(37歳)を兵庫県伊丹市で就寝中を襲い乱打死亡させた。夫人にも全身打撲の重傷を負わせた。他8人の組合幹部とその家族が重軽傷を負った。

 当時、国鉄では、「分割・民営化」を支持する真国労・勤労・鉄労・全施労と、これに反対する中核派の対立が続いていた。中核派は5月に襲撃を予告していた。9.2日、警察は中核派の関西拠点を殺人未遂容疑で家宅捜索し、犯行を認めるビラや鉄パイプを押収した。

 10.30日朝、ラッシュ時の赤羽駅構内で、出勤途中のJR東日本の職員が、鉄パイプやハンマーで襲われ、両足と頭蓋骨骨折などの重傷を負った。革労協狭間派は「反革命革マル…を徹底せん滅し、再起不可能状態を強制した…」などと犯行を自認。

 12.2日、解放派が埼玉県大宮市の路上でJR総連総務部長を襲い、死亡させた。

 11月、解放派最高幹部狭間嘉明が他のゲリラ事件などの容疑とともに逮捕された。同派では内部対立が深刻化。
 11.7日、北海道帯広市で革労協の女性活動家が列車内で腹を切って死亡自殺した。
【赤軍派元議長の塩見氏が出所】
 12.27日、赤軍派元議長塩見孝也氏が刑期満了で出所した。

 これより後は、10期その2、1990年代の諸闘争に記す。





(私論.私見)