第9期その3 | 戦後学生運動の考察/70年代の学生運動(1976−79) |
(最新見直し2006.10.15日)
これより前は、「第9期その1、70年安保闘争とその後」に記す。
(れんだいこのショートメッセージ) |
【1976年の動き】 | 「戦後史76年当時」 |
76年、毛沢東死去。
1月、竹下登建設相(三木内閣)。
2.4日、アメリカ上院外交委員会多国籍企業小委員会の公聴会で、ロッキード社の贈収賄工作が証言された。日本の場合、小玉、丸紅、全日空、小佐野賢治らを通じて、約36億円の工作資金が流れたといわれた。「ロッキード事件発覚」。
2.28日未明、仙台市の郵政アパートの革マル派の郵便局員方に、覆面スタイルの中核派数人が、あらかじめフキンの電話線を切断し、折りたたみ式ハシゴでベランダから侵入、寝室で寝ていた郵便局員、妻、長男(当時2歳)を鉄パイプで殴り、重軽傷を負わせた。
2月、東北大で、社青同解放派と第4インターが武力衝突。
3月、赤軍派プロ独編と全国委ボリシェビィキ派が統合し、紅旗派を結成。
3.2日、北海道庁爆破、死者2名、負傷者74名。反日武装戦線が犯行声明。
5.23日、狭山上告審闘争。東京・日比谷野外音楽堂。
6.20日、戦旗派がロッキード犯罪弾劾闘争。清水谷公園。
6.30日、ワシントンで三木.フォード会談。
7.27日、田中が為替法違反、受託収賄罪で東京地検特捜部に逮捕された。
7月、第13回臨時党大会「自由と民主主義宣言」。
○期日.会場.代議員数について 10.24−30日第10回党大会を開く。世田谷区民会館、太田区民会館。957人の代議員が参加した。10.26日会場への盗聴器摘発。10.27日政府などに抗議。
○大会の眼目 大会の眼目は、 ○採択決議について
○新執行部について 中央委員は、前回の67名から88名、同候補は42名から49名、中央統制監査委員 は9名から7名を選出した。新しい中央委員会は、議長に野坂.書記長に宮本.幹部会員に野坂.宮本.袴田.岡.春日.河田.蔵原.紺野.西沢.松島.米原の9人、同候補に岩林虎之助.内野竹千代.大淵生気.下司順吉.砂間一良.高原晋一.藤原隆三.吉田資治を、書記局員に宮本.袴田.岡ら16人、書記局員候補8名を選んだ。
宮本−袴田体制の継続確立 宮本体制確立
70年当時の党の方針の特質と要点 ○〈本党大会までの執行部評価〉について
@〈世界情勢に対する認識〉について
A〈国内情勢に対する認識〉について B〈党の革命戦略〉について
C〈党の革命戦術〉について D〈党の具体的な運動方向〉について
E〈党の大衆闘争指導理論〉について
F〈党の機関運営〉について G〈左翼陣営内における本流意識〉について
H〈この時期の青年戦線.学生運動〉について
10.31日、狭山上告審闘争。明治公園。
11.10日、戦旗派が天皇在位50年式典粉砕闘争。清水谷公園。
12.17日、三木が辞任表明。総選挙敗北。
12.19日、叛旗派、「叛旗解体」政治集会。
12.24日、福田内閣発足。
【1977年の動き】 | 「戦後史77年当時」 |
1.12日、江田社会党副委員長、党運動方針案に対する「江田意見書」を提出、中執委に革新・中道連合への決断を迫る。
1.20日、ジミー.カーターが第39代大統領に就任。
2.11日、革労協書記局長で解放派筆頭総務委員・中原一こと笠原正義氏が、茨城県取手駅付近で革マル派に襲われた。車に乗っていたところを乗用車に挟み撃ちされ、降りてきた6名に鉄パイプでメッタ打ちにされて翌12日頭蓋骨骨折で死亡した。事件後革命マル派は、「革労協の最高指導者である中原一に対して、革命的鉄槌を下した。これはあくまでも、我々労働者、学生への彼らの反階級的な襲撃を未然に防ぐための防衛的戦いである」と声明した。
これに対し解放派は、「2.11反革命をとおして、わが革労協と反革命革マル派とは、彼我いずれかの絶滅をもってのみ決着のつく不可逆的な『戦争』関係に突入した」と声明し、中核派をも凌ぐ対革マル派戦争の前面に踊り出ることとなった。
3月、紅旗派分裂。
3.19日、戦旗派が福田首相訪米阻止羽田現地闘争。仲蒲田公園。
3.21日、ワシントンで福田.カーター会談。
3.26日、江田三郎が社会党離党。三宅坂の社会文化会館で離党手続きを行う意思が強かったが党中央はこれを認めず、三番町ホテルで行われた。離党手続きは、訪ねて来た石橋書記長に江田が離党届を手渡しただけ、ドライに短時間にケリがついた。離党した江田は、秘書の矢野凱也だけを連れて国会記者会館四階の大会議室に赴き、百人を越す記者の前で「離党にあたって」を読み上げた。参院選全国区出馬と政治集団「社会市民連合」結成の意向を表明した。
4.15日、解放派が、埼玉県浦和市内で、革マル派4名の乗った車を前後からはさみ打ちにして襲い、金網付の窓ガラスをつるはし、鉄パイプ等で破壊して車内にガソリンをまき、中に閉じ込めたままガソリンで焼殺した(「浦和市内ゲバ殺人事件」、「警察白書」参照)。
革マル派のワゴン車は鉄板や金網が張られた装甲車のようなものだったが、走行中に前方の空き地に停まっていた大型トラックが進路をふさぐように飛び出してきて、さらに後方から追尾していた幌付トラックが追突し、2台に挟まれるように停車した。車から飛び出してきたヘルメットに覆面姿の約10人は、鉄パイプやツルハシでワゴン車を乱打し、ドアを変形させて中から開けられないようにしてから放火した。車が炎上するのを確認した犯人は、幌付トラックの後方にあった車で逃走した。犯人の作業衣や凶器などは翌日に市内の荒川土手で、逃走に使った車は朝霞市内の路上で17日夜に発見された。
4.17日、革労協活動家が犯行声明を出す。「革マル政治局員藤原隆義ら4人を打倒!2.11中原同志暗殺に対する怒りの革命的テロル炸裂!更に、すさまじい革命的テロルの猛攻を黒田ら反革命頭目の頭上に」。
「警察白書」には、「52年の内ゲバ事件をセクト別に分析すると、図8−3のとおりで、極左暴力集団相互間が26件(63.4%)と最も多く、そのなかで革マル派対中核派が14件(34.1%)、革マル派対革労協が10件(24.4%)であり、この3セクトで全体の半数以上(58.5%)を占め、殺人事件もこの3セクトの間で敢行されたものであった」とある。
5.7日、ロンドンで福田.カーター会談。
6.11日、叛旗派、『<叛旗>解体』刊行により、<解体>作業完了。
6.19日、東山薫君虐殺抗議、三里塚空港を廃港へ。
7.23日、文部省は新学習指導要領で、君が代を国歌と規定、告示した。
8.3日、77年原水爆禁止世界大会が14年ぶりに統一大会として開催された。広島。
8.9日、狭山裁判上告棄却弾劾。8.23日、狭山裁判上告棄却弾劾闘争。東京・明治公園。
9.28日、丸岡.和光.佐々木.坂東.戸平の5名の赤軍メンバーが、パリ発東京行き日航機をインド.ポンペイ上空でハイジャック。ヨルダンで拘置中自殺したとされる日高の虐殺への抗議と日本へ強制送還された奥平純三の奪還を目指したものだった。日本政府の「超法規的措置」により奥平.元赤軍派城崎勉.東アジア武装戦線大道寺あや子、浴田由起子、一般無期懲役囚泉水博、懲役10年の刑を受けて控訴中の殺人犯仁平映らが釈放された。泉水.仁平は、獄中で待遇改善要求闘争などを展開している「獄中者組合」のメンバーであった。バングラデシュのダッカ空港で獄中犯6人と身代金600万ドルを日本政府から奪取、6日間の飛行ののちアルジェリアで人質全員を釈放。
10.9日、三里塚空港粉砕、ジェット燃料阻止集会。
10.24−30日、共産党が第10回党大会を開く。10.26日、会場への盗聴器摘発。10.27日政府などに抗議。 大会の眼目は、 1・採択決議について、2・新執行部について。中央委員は、前回の67名から88名、同候補は42名から49名、中央統制監査委員は9名から7名を選出した。新しい中央委員会は、議長に野坂.書記長に宮県.幹部会員に野坂.宮県.袴田.岡.春日.河田.蔵原.紺野.西沢.松島.米原の9人、同候補に岩林虎之助.内野竹千代.大淵生気.下司順吉.砂間一良.高原晋一.藤原隆三.吉田資治を、書記局員に宮県.袴田.岡ら16人、書記局員候補8名を選んだ。宮県−袴田体制の継続となった。
10.27日、世界革命戦線大地の豚が、神社本庁を爆破する。
10.29−30日、「社会市民連合の結成大会」が開催され、社会市民連合が発足した。代表委員として、大柴滋夫、管直人、江田五月を選出。副代表委員に西風勲、安東仁兵衛。事務局長に大柴滋夫(兼任)。田英夫グループと合流し、翌年1月に新党を結成する旨確認。
大会宣言は次のように述べている。「われわれは市民革命が掲げた自由、平等、連帯の諸理念を継承し、資本と利潤が優先される資本主義を確実に制御しつつ、公正、参加、保障、自治を実現する、より自由でより分権的な社会主義をめざす」、「とりわけ二十年余にわたる自民党単独政権を確実に終焉させるときである。これにかわる政権は改革的保守派とも提携する革新的諸党派の連合政権以外はない。この政権こそ、いくつかの選択肢が積極的に競われ調整される過程をつうじて、国民の政治参加と政治的民主主義の活性化をうながし、国民的合意の下に、社会の改革を漸進的に実現するだろう。いま、われわれをゆり動かして止まないものは、新しい革新政党建設への衝動である」、「新しい社会主義、新しい政治、新しい党の暁は明けつつある」。
12.7日、三里塚・岩山要塞棟上げ式。
12.13日、社会党続開大会開催される。飛鳥田一雄氏が委員長に就任。多賀谷真稔氏を書記長に選出する。
怒涛派、中央委派・都委員会派・神奈川県委員会派・臨中派に四分解。
【1978年の動き】 | 「戦後史78年当時」 |
1.27日、解放派は、「2.11反革命一周年決戦へ全党全軍総決起」をうたい、勝田市.水戸市などの茨城県下で革マル派3名を殺害、3名に重症を負わせた。
2.1日、建国記念日の祝賀行事に「総理府後援」の名義使用を認めた。
2.5日、横堀要塞鉄塔建ち上げ 6−7横堀要塞戦。2.6日、三里塚、横堀、要塞攻防戦。二日間にわたる激闘。45名逮捕。
3.26日、三里塚開港阻止決戦で空港突入・管制塔占拠。開港予定日を4日後に控えた成田空港の管制塔に第四インターなどのゲリラ部隊が突入、三里塚空港内に地下排水溝から侵入、管制塔内部を破壊、開港を二ヶ月遅らせる。
5.20日、成田空港。
5.3日、ワシントンで福田.カーター会談。カーター大統領と三度目の日米首脳会談。
6.21日、防衛庁が有事防衛研究着手を表明。
6月、ベトナムがカンボジアに侵入。 8月中国がベトナムに侵入。
7.16日、ボンのサミット会場で福田.カーター会談。
7.27日、福田首相、防衛庁に有事立法と民間防衛の研究を指示。
7.30日、沖縄に本土同様の道路交通法が適用され、車両通行が左側通行に切り替えられた。
8.12日、日中平和条約調印。
8.15日、福田首相が内閣総理大臣の肩書きで靖国神社参拝、署名した。
10.23日、日中平和友好条約の締結。1972年に田中内閣で成し遂げられた日中国交回復の総仕上げとなった。ケ小平中国副首相がやってきた。
11.1日、初の自民党予備選が告示された。これが自民党を二分させる福田と大平の争いの勃発となる。自身万万だった福田は、「予備選の結果を尊重せねばならない。二位のものは本選挙で降りるのが筋だ」と発言する。11.26日投票、27日開票。結果は、大平55万0891票、福田47万2503票、中曽根29万0987票、河本8万8091票。二位に終わった福田は自らの発言に縛られ本選挙を辞退した。ここに大平が総裁に確定した。
12.7日、第一次大平内閣発足。竹下登衆院予算委員長。大平首相の政治哲学が次の様に明かされている。「政(まつりごと)は小魚を煮るが如し」。「政治は小魚を丁寧に煮る慎重さがなければいけない。ともすれば、丁寧に政治をする部分が欠けることになる。自戒せねばならない」。
12.11日、米中国交正常化。
袴田里見除名。
78年以降、党派間ゲバは中核、解放両派の革マル派への熾烈な復讐戦として、一方的に、革マル派の死者が増加する。が、81年以降、次第にそれも減少の方向に向かってきた。それまでの死者の合計80人のうち中核派による革マル派の殺害43名、解放派の革マル派殺害22名、革マル派の中核、解放両派殺害14名、その他1名である。
【1979年の動き】 | 「戦後史79年当時」 |
1.1日、米中が国交回復。米は台湾と断行、相互防衛条約を破棄。
1.26日、狭山裁判再審要求闘争。東京千代田区・日比谷野外音楽堂。
2.11日、日本原基地撤去闘争。岡山県奈義町。
2月、横堀要塞に成田新法適用。
3.25日、三里塚現地闘争。千葉県成田市・三里塚第一公園。3.25集会から2日後、前年3.26ー5.20の開港阻止決戦で逮捕・投獄されていた仲間たちのうち、管制塔被告以外が保釈となり、出獄。
3月、連合赤軍分離公判組の吉野雅邦と事件当時の少年に対しては無期懲役と懲役13年の判決が言い渡された。
3月、赤軍派(プロ革)分裂。塩見グループが「日本社会科学研究所(マルクス・レーニン主義・毛沢東思想)」を結成。
5.2日、ワシントンで大平.カーター会談。
5.23日、狭山裁判再審要求闘争。東京新宿区・明治公園。
5月、 中核派による津市内内ゲバ殺人事件。
5月、成田空港パイプライン工事着工。
6.6日、元号法制化実現。新憲法施行に伴って法的根拠を失い、「事実たる慣習」(法制局見解)にとどまっていた元号が、これにより法的根拠を再建した。
6.15日、成田関連。島寛征のいわゆる6.15協定。
6.23日、東京サミット粉砕・国際連帯集会。
6.25日、東京で大平.カーター会談。
6.28日、東京サミットが元赤坂の迎賓館で開幕。出席者の顔ぶれは、カーター米大統領、ジスカールデスタン仏大統領、シュミット英首相、アンドレオッティ伊首相、クラーク加首相、ジェンキンスEC委員長。東京サミット(先進国首脳会議)粉砕闘争 東京港区・芝公園。
7月、游撃派とマルクス・レーニン主義派と統合して、革命の旗派を結成。
7.17日、防衛庁が防衛力整備五ヵ年計画を発表した。問題は、国防会議や閣議決定を経る事無く決定.発表されたことにあつた。
9月、労共委(怒涛派)が日共(ML)を統合した。
11.2日、戸村一作成田空港反対同盟委員長死亡。
11.16日午後7時10分頃、新宿区愛住町の外苑東通り路上で、若い男2人が10数人のグループに取り囲まれ、大型ハンマーや鉄パイプで全身メッタ打ちにされ、1人が死亡、もう1人も翌日病院で亡くなった。襲ったグループはトラックで逃走、トラックは2km離れた新宿6丁目に乗り捨てられていた。これは10月に横浜市内で盗まれた車両だった。死亡したのは横浜国大教育学部S(26歳)、北大生K(26歳)。所持品などから革マル派の活動家とわかった。
11.19日、第二次大平内閣発足。竹下登蔵相。
11.21日、革マル派が東京、神奈川の革労協アジト3箇所を襲撃。午前4時40分頃、藤沢市大鋸のアパートで、学生2人が黒ヘルをかぶった11人の男に襲われ大怪我。寝こみを襲われたもので、逃げようとして下着姿のまま階段や庭先に倒れていた。また同じ時刻、平塚市南原で、8人の男がはしごをかけてビルに侵入し、中にいた人をメッタ打ちにした。そして午前7時過ぎ、八王子市椚田町でも2人が重傷を負う事件があった。この一連の事件で、革マル派は「革労協の軍事アジトを摘発した」という声明を出した。
12月、ソ連もアフガニスタンに侵入。
これより後は、「第10期その1、戦後学生運動の考察/80年代の学生運動」に記す。
(私論.私見)