17章 戦後学生運動8期その2 1969(昭和44)年
 全国全共闘結成と内部溶解の兆し

 (最新見直し2008.9.11日)

 これより前は、「8期その1、全共闘運動の盛り上がり」に記す。

 (れんだいこのショートメッセージ)
 ここで、1969(昭和44)年の学生運動史を概括する。これを仮に「戦後学生運動8期その2、全国全共闘結成と内部溶解の兆し概略」と命名する。詳論は「東大闘争クライマックス、全国全共闘結成と内部溶解の兆し現出」、概論は「全国全共闘結成と内部溶解の兆し」に記し、この時期の枢要事件を採り上げ解析する。全体の流れは、「戦後政治史検証」の該当年次に記す。



【この時期の全体としての政治運動】
 この時代の政治闘争の枢要事を眺望しておく。学生運動史の予備知識として知っておく必要がある局面を抽出する。

【「矢田教育差別事件」発生】

 1969(昭和44).3.13日、「矢田教育差別事件」発生。これは、大阪市教組東南支部役員選挙に立候補した日共系の木下氏の挨拶文の内容が原因となった。同挨拶文は、「労働時間は守られていますか」の問いかけで始めて、「仕事に追いまくられて、勤務時間外の仕事を押し付けられていませんか」と続き、「進学のことや、同和のことなどで、どうしても遅くなること、教育懇談会などで遅くなることはあきらめなければならないでしょうか」で結ばれていた。解放同盟矢田支部が、「日共の差別問題認識水準を示すもの」として糾弾闘争に立ち上がった。背景には日共と部落解放同盟(朝田委員長)との抜き差しならない対立があった。

 これに日共党中央が介入し、差別文書ではないと居直り、解放同盟矢田支部の糾弾闘争を暴行罪で警察権力に告訴した。以後、日共と部落解放同盟の抗争がエスカレートした。日共は、部落解放同盟委員長・朝田善之助の個人名を取った「朝田理論」批判に向かい、解放同盟の糾弾闘争を「無法な暴力」として激しく非難した。この対立は、1974(昭和49)年に発生する八鹿高校事件へとつながっていくことになる。これを契機として部落解放同盟正常化委員会が結成された。 


部落解放同盟が第24回全国大会で、狭山事件支援の特別決議を採択

 1969.3月の「解放同盟」(部落解放同盟)の第24回全国大会で、狭山事件支援の特別決議を採択し、組織を挙げての取り組みを指針させた。「解放同盟」は、狭山事件の本質を「差別裁判」と規定し、以降組織を挙げて取り組みことになった。

 しかし、この頃「解放同盟」と泥沼の抗争に突入していた日共はこの「差別裁判規定」に反発し、救援闘争にも陰が差し込み始めることになる。詳論は「狭山事件、裁判考」に記す。


【宮顕の非武装中立論批判】
 4.18日、宮顕は、記者会見の席上次のように社会党成田委員長の主張する非武装中立論を批判した。
 「将来、中立.民主日本が外国から侵略を受けた場合、どういう抵抗をするかということについて、社会党の成田委員長は、国会ではレジスタンスと言っていたが、その後は社会党の方針としてチェコ型の抵抗だというように説明されている。チェコスロバキアの今日の事態は、決して主権と独立擁護が成功的に行われていないどころか、全体として、やはりソ連の武力のローラーのもとに従属状態が深まっている。ああいう道を我々は選びたくない」。

 6.24日、大学運営臨時措置法案が、衆議院本会議で文相の坂田道太により趣旨説明と質疑が行われた。「1・紛争大学の学長は6ヶ月以内で、一時休校とすることができる。2・文部大臣は紛争が9ヶ月以上経過した場合、教育、研究の停止(閉校措置)ができる。3・閉校後3ヶ月を経過しても収拾が困難な場合は廃校措置をとる。4・臨時大学問題審議会を設ける」などが文案となっていた。

 野党、マスコミはこぞって、「大学攻撃に名を借りた治安立法だ」、「大学の自治を侵す」、「大学紛争をますます困難なものにする」と反対の姿勢を示した。田中幹事長が精力的に動き、公明党・矢野じゅん也書記長、民社党・佐々木良作書記長、社会党・江田三郎書記長らと個別会談するも物別れに終わる。

【日共が「べ平連は反共暴力集団」との無署名論文を発表】

 7.11日、日共は「べ平連は反共暴力集団」との無署名論文を発表。


 7.20日、米宇宙船アポロ11号が人類初の月面着陸。
【大学運営臨時措置法案成立】

 7.29日、大学運営臨時措置法案を衆議院本会議で可決し、参議院に送った。8.2日、参議院文教委員会で、田中幹事長が園田直国対委員長を説得し、強行採決に踏み切っている。翌8.3日、議長職権で参議院本会議が開会され、重宗議長の抜き打ち提案で強行採決。 「政府の大学介入である」とする野党の猛反発を尻目に、自民党は大学臨時措置法(紛争が長引けば解校の措置もありうる)を抜き打ちで成立させる。

 8.17日、「大学の運営に関する臨時措置法案」が成立施行された。これにより、それまで機動隊導入に根強い抵抗を感じていた大学側の機動隊出動要請が相次ぎ、各大学当局が積極的に警察力によって事態を収拾しようとする姿勢に転じた。以降、警視庁機動隊は1日平均8.5回も出動している。


 11.21日、ワシントンで佐藤.ニクソンによる日米首脳会談。共同声明を発表し、「安保堅持、沖縄の72.5月『核抜き』、『本土並み』返還」を確認した。第6項には、「両者は、日本を含む極東の安全を損なうことなく沖縄の日本への早期復帰を達成するための具体的な取り決めに関し、両国政府が直ちに協議に入ることに合意した」と書かれていた。
【角栄チルドレンの誕生】

 12.27日、第32回衆院総選挙(師走選挙)が行われ、沖縄返還の信を問う選挙となった。田中幹事長の采配で自民党が303議席(自民党288、無所属12)(←272)の大勝。これは、原敬政友会以来の絶対多数であった。社会党は90議席(←134)に転落、公明党47名、民社党31名、共産党14名、無所属16名。

 この時、後に角栄チルドレンとなる「44年組」(羽田孜、小沢一郎、梶山静六、奥田敬和、高島修、佐藤恵、石井一、斎藤滋与史、小坂徳三郎、綿貫民輔、中山利生、佐藤守義、林義郎、稲村利幸、野中英二、有馬元治、渡部恒三は追加公認)が初当選している。浜田幸一もこの時の当選組であるが田中派入りせず。森喜郎もこの時の初当選で追加公認されたが福田派に入っている。佐藤派は59名と膨張し、参院の46名を加えると史上空前の105名となった。

 日共の不破が初当選。宮顕は破顔一笑して、記者団に、「見ていて下さい。こいつ、バッジつけたら、十人前の働きするから云々」と述べ、子飼いの愛弟子であることを強く印象付けた。


 1969年から70年にかけて公明党.創価学会の「言論.出版妨害事件」起こる。

【この時期の学生運動の動き】
 この時代の学生運動の枢要事を眺望しておく。 

 この年は東大安田砦攻防戦で幕開けし、以降、東工大、早稲田大、京都大、広島大などでも全国学園砦死守闘争が展開された。この経過で「60年安保闘争を上回る70年安保闘争」が課題となり、ノンセクト・ラジカルと反代々木系各派が運動機運を盛り上げようと連携していくことになった。多岐多流の潮流がうねりとなって9.5日の全国全共闘連合になだれ込んでいった。これが69年における70年安保闘争の「正」の面であった。

 この流れに棹差したのが民青同と革マル派であった。こういう拮抗関係に有りながら、この時期は70年安保闘争のクライマックスとなる。つまり、実際の70年はこの69年に及ばなかったということになるが、この経過の昂揚と衰退の陰りの要点を見ておくことにする。このルネッサンス期の花を潰した内的要因について考察することは意味のあることであろう。なぜ「あだ花」に帰せしめられたのかを問うてみようということだ。必ず原因がある筈である。このような問題意識を脳裏に据えつつ以下考察に入る。

【東大で全共闘対民青同のゲバルトにより機動隊が導入される】

 1969(昭和44).1.4日、加藤総長代行による非常事態宣言が発表され、東大闘争が決戦化の流れに入った。1.9日、「7学部集会」を翌日に控えたこの日、東大全共闘が、民青同の根拠地化していた教育学部奪還闘争の挙に出て民青同と激突。これを見て大学当局の判断によって機動隊が導入された。この時の機動隊導入は、学生運動内部のゲバルト抗争に対してなされたものであり、それまでの大学当局対学生間の抗争に関連しての導入ではないという内容の違いが注目される。

 「日本共産党の65年」257Pは次のように記している。

 「東大では、学生、教職員自ら暴力集団の襲撃を阻止し、校舎封鎖を解消する闘いを進め、1.9日には、7学部代表団と大学当局との交渉を妨害する為に各地から2千人をかき集めて経済学部、教育学部を襲った暴力集団の襲撃を正当防衛権を行使して机やいすのバリケードなどで跳ね返した」。
 「党は、これらの闘争が正しく進むよう積極的に援助した」。

【東大で「7学部集会」】

 1.10日、秩父宮ラグビー場で約8000名の学生を集めて東大「7学部集会」が開かれた。医・文・薬学部を除いた7学部、2学科、5院生の学生・院生の代表団と東大当局の間で確認書が取り交わされた。民青同がこれを指導し、泥沼化する東大紛争の自主解決の気運を急速に盛り上げていくことになった。予想以上に多くの学生が結集したと言われている。紛争疲れと展望無き引き回しを呼号し続ける全共闘運動に対する厭戦気分が反映されていたものと思われる。

 「7学部集会」では、「大学当局は、大学の自治が教授会の自治であるという従来の考え方が誤りであることを認め、学生・院生・職員も、それぞれ固有の権利を持って大学の自治を形成していることを確認する」などが確認された。この確認書の内容は、当初全共闘側が目指していたものであるが、全共闘運動はいつの間にかこうした制度改革闘争を放棄し始め、この頃においては「オール・オア・ナッシング」的な政治闘争方針に移行させていた。

 全共闘は、民青同ペースの「7学部集会」に反発するばかりで、制度改革闘争を含めた今後の東大闘争に対する戦略−戦術的な位置づけでの大衆的討議を放棄していた観がある。

 これについて、筆者はかく思う。なぜかは分からないが、運動の困難に際したときに、決して大衆的討議の経験を持とうとしないというのが新旧左翼の共通項と私は思っている。この頃より一般学生の遊離が始まったとみる。それと、全共闘運動がなぜ制度改革闘争を軽視する論理に至ったのかが分からない。果たして、我々は戦後人民的闘争で獲得した制度上の獲得物の一つでもあるのだろうか。反対とか粉砕とかは常に聞かされているが、逆攻勢で獲得する闘争になぜ向かわないのだろう。


【東大安田講堂攻防戦前夜の各派の動き】

 1.12日、東大、民青同と右翼系の手により6学部でスト解除。この頃より安田講堂の封鎖解除を促すために大学当局より機動隊導入が予告された。1.15日、東大全共闘が安田講堂封鎖を強化し、各派から500名が籠城した。こうして全共闘運動は東大安田講堂決戦(東大時計台闘争)でクライマックスを迎えることになった。

 この時の民青同の動きが次のように伝えられている。機動隊の安田講堂突入の事前情報をつかんだ宮顕は、再び川上氏に直接指令を出し、“ゲバ民”側の鉄パイプ、ゲバ棒1万本を一夜の内に隠匿、処分させた。この時の革マル派の動きが次のように伝えられている。同派はこの時他セクトとともに全共闘守備隊に入っていたが、機動隊導入の前夜に担当していた法文2号館から退去、そこに機動隊が陣取ることで封鎖されていた隣の法研・安田講堂の封鎖解除を容易にさせるという不自然な動きを示した。


【東大闘争安田講堂攻防戦】

 1.18日、東大闘争の決戦として安田砦攻防戦が闘われた。この闘いは、東大闘争の決戦としてのみならず、全国学園闘争の頂点として注視の中で戦い抜かれた。全共闘運動はこれ以降、全国全共闘結成により「60年安保闘争」を上回る闘争を指針させようとしていくことになる。

 機動隊8500名出動。二日間にわたって激闘後落城。東大全学学生解放戦線の今井澄氏が午後5時50分メッセージした。

 「我々の闘いは勝利だった。全国の学生、市民、労働者の皆さん、我々の闘いは決して終わったのではなく、我々に代わって闘う同志の諸君が、再び解放講堂から時計台放送を行う日まで、この放送を中止します」。

 この間の様子は全国にテレビ放送され釘付けになった。全共闘の闘いぶりと機動隊の粛々とした解除と学生に対する生命安全配慮ぶりが共感を呼んだ。神田で各派が東大闘争支援決起集会を開き、集会後解放区闘争を展開した。1.20日、東大・文部省会談が行われ入試中止を最終決定する。


【革マル派の果たした役割】
 革マル派は肝心なところで「利敵行為」と「敵前逃亡」という二つの挙動不審(安田決戦敵前逃亡事件)を為したことにより、これ以後全国の大学で同派は全共闘から排除され、本拠=早稲田大でも革マルをはずして早大全共闘がつくられた。

 革マル派は、この事件以降今まで批判していた武闘的闘争を少数の決死隊によって行なうようになったが、アリバイ闘争と非難される始末となった。但し、革マル派の本領はこれから発揮されることになった。以降、いわゆる新左翼内で、革マル派と反革マル派との間にゲバルトが公然と発生する事態となった。いざゲバルトになると革マル派は強かった。街頭での穏健な行動とのアンバランスが却って他党派の怒りを買うことになった。

【社学同全学連の結成】

 3月、社学同が全国大会を開催し、社学同派全学連を発足させた。先に4つ目の全学連として誕生した反帝全学連の内部で社学同と社青同解放派の対立が激化し、社学同もまた自派単独の全学連を結成したということになる。この大会で軍事路線の討議をめぐって対立が起こった。塩見孝也や高原浩之らの関西派グループが、「軍イコール党」−「秋期武装蜂起」など最も過激な軍事路線を主張し、「武装蜂起は時期尚早」とする関東派グループと対立した。


【4.28沖縄闘争】

 4.28日、沖縄反戦デー闘争。社共総評の統一集会、13万人参加(代々木公園)。この時革マル派を除く新左翼各派は約1万名と反戦労働者5千名が共闘して武装デモ。集会の途中、革マル派の参加に対し他党派がこれを実力阻止しようとして内ゲバ起こる。べ平連6月行動委がこれに抗議して主催団体を降りる。東京駅・銀座・新宿・渋谷などの都心部で火炎瓶、投石闘争を展開したが、警察の徹底した取締りが功を奏し前年の新宿騒乱闘争を大きく下回る規模の行動に終わった。べ平連6月行動委など市民団体8千名も銀座・お茶の水・新橋で機動隊と衝突。6行委の隊列から逮捕者4名。重軽傷者各1名。全国で逮捕者965名(女性133名)、逮捕者の中には高校生も多く含まれていた。


【4.28沖縄闘争総括を廻る対立】

 4.28日の沖縄反戦デー闘争の総括をめぐって新左翼内に対立が発生した。新左翼各派は自画自賛的に「闘争は勝利した」旨総括したのに対し、赤軍派を生み出すことになる共産同派は、「67.10.8羽田闘争以来の暴力闘争が巨大な壁に逢着した」(69.10「理論戦線」9号)として敗北総括した。この総括は、やがて「暴力闘争の質的転換」の是非をめぐる党内論争に発展し、党内急進派は「11月決戦期に、これまでどおりの大衆的ゲバ棒闘争を駆使しても敗北は決定的である。早急に軍隊を組織して、銃や爆弾で武装蜂起すべきである」(前記「理論戦線」9号)と主張して、本格的軍事方針への転換を強く主張していくこととなった。この流れが赤軍派結成に向かうことになる。


【1969.5−6月闘争】

 この頃の闘争の目ぼしいものを確認しておく。

 5.17日、新宿西口フォーク集会に機動隊が初出動。群集2千人が集まる。以後毎土曜の西口広場でのフォーク集会が7月まで5000名規模で開催された。

 5.20日、立命館大学内の「わだつみ像」が全共闘系学生によって破壊される。

 5.22日、「6行委」と「6.15実行委」(新左翼党派、反戦青年委、全共闘なども参加)の合同世話人会で、中核派など8派政治組織と15大学全共闘とともに市民団体が6.15日に共同デモを行なうことで一致。

 6.8日、ASPAC粉砕闘争。1万2000名が伊藤駅前に結集。全学連は伊藤警察を攻撃。207名逮捕される。6.9日、現地集結に向かう中核派全員逮捕される。

 6.11日、日大全共闘、日大闘争バリスト1周年全学総決起集会、5000名がデモ。

 6.15日、統一行動。東京で362団体主催の反戦・反安保・沖縄闘争勝利統一集会。労農学7万人が日比谷から東京駅へデモ。 全国72カ所で十数万名が決起。

 6.27日、大学治安立法粉砕闘争。各派1万5000名が国会デモ。

 6.28日、新宿西口広場でフォークソング集会。機動隊導入され64名逮捕。

 6.30日、京大教養部民青同系代議員大会粉砕。3000名結集し、機動隊と民青同制圧、時計台前で大学治安立法粉砕集会。 


【この頃の反戦青年委員会】

 6月の治安当局の調べでは、全国に約490の反戦青年委員会の組織があり、構成人員は2万人以上だった。そのうち、社会党の指導下にあった組織は半分以下にまで落ち込んでおり、その他は新左翼系セクトの指導下になっていた。代表的党派は次の通り。社青同解放派系、共産同系、中核派系、第四インター系、革マル派系。この中にあって反戦青年委員会の組織作りの初期から参画していた社青同解放派がさすがに主流を保っていた。10県反戦連絡会議の中心勢力は、社会党青少年局を中心とする構革左派「主体と変革」グループ(倉持和朗、鈴木達夫ら)、「根拠地」グループ(三田岳、高見圭司ら)であった。


【ブント戦旗内で仏派と赤軍派が衝突】

 7.6日、明大和泉校舎で、共産同戦旗派内で「内ゲバ」が発生し、仏派と関西ブント塩見派が激突した。仏議長が拉致監禁され、駆けつけた機動隊に逮捕される事態になった。その後赤軍派の幹部が逆拉致監禁され、関西派活動家の一人が脱出に失敗して転落死亡するという事件が発生した。


【大学立法粉砕闘争】

 7.10日、大学立法粉砕闘争。早大に8千名結集して国会へデモ。早大で革マル派を除く諸派が早大全共闘結成、全学バリスト突入。


【赤軍派】

 8.28日、塩見孝也、高原浩之らの共産同少数派が共産同戦旗派から離脱し、新たに「共産主義者同盟赤軍派」を発足させた。赤軍派は、その建軍アピールにおいて「革命の軍団を組織せよ!すべての被抑圧人民は敵階級、敵権力に対する自らの武装を開始せよ!」と高らかに宣戦布告した。「前段階武装蜂起」を唱え、学生活動家=革命軍兵士の位置づけで武装蜂起的に「70年安保闘争」を闘おうという点でどのセクトよりも突出した理論を引き下げて注目を浴びた。以降、機動隊に対する爆弾闘争、交番襲撃、銀行M資金作戦等のウルトラ急進主義化で存在を誇示した。9月、「大阪―東京戦争」事件を引き起こした。

 赤軍派の結成に対して、新左翼最大勢力となっていた中核派と革マル派の対応の違いが興味深い。中核派は「他人事と思えない」といい、革マル派は「誇大妄想患者の前段階崩壊」と揶揄した。既に「街頭実力闘争」についても、両派はその評価をめぐって対立を生みだしていた。これを評価する立場に立ったのが中核派、社学同、ML派であり、「組織された暴力=権力の武装という現実に対して闘いを切り開くためには自らも武装せざるをえない。これによって激動を勝利的に推進しうる」というのが論拠であった。これを否定する立場に立ったのが革マル派、構造改革諸派であり、「小ブル急進主義である。組織的力量を蓄えていくことこそが必要」と云うのが論拠であった。

 これについて、筆者は思う。対権力武装闘争の位置づけをめぐってのこの論争は互いの機関紙でなされているようでもあるが、系統的にされていない。後の経過から見れば、「理論の革マル派」と言われるだけあって革マル派の言うことには一々もっともな点が多いと思われる。今後のためにももっとこの種の事に関しての論議を深めておくことが肝心のようにも思う。 


 広大に封鎖解除のため機動隊導入。広大全共闘抵抗する(広島闘争)。京大・九大で連帯集会。
 9.3日、早大闘争で機動隊が導入される。5千名学生が学生会館奪還集会。 
【社青同解放派が、革労協、反帝学評結成】

 9月、社青同急進派の主流を形成していたグループが、「社会党・日本社会主義青年同盟学生班協議会解放派」(以下、「社青同解放派」と記す)、その政治組織として革命的労働者協会(革労協)、学生組織として全国反帝学生評議会連合(反帝学評)を結成した。この流れを創出したのは中原一(本名・笠原正義)、滝口弘人、高見圭司、狭間嘉明らであった。 中原氏が革労協の書記長、社青同解放派筆頭総務委員に就任した。機関紙として「解放」(旧「革命」)を発行する。社青同太田派も事実上の分裂活動を始めた。

 解放派は、学生運動の拠点として東大に足場を築き、早大政経学部自治会を長らく維持していたが、東大紛争の最中に革マル派との束の間の蜜月時代を経てゲバルトに突入。これに敗退、追放された。その後、明治大学を拠点とする。


【全国全共闘結成】

 9.5日、日比谷野音で、ノンセクト・ラジカルと多岐多流のセクト潮流を結合させて「全国全共闘会議」が結成された。こうして「70年安保闘争」を担う運動主体が創出された。全国全共闘は、ノンセクト・ラディカルとして東大全共闘を牽引してきた山本義隆(逮捕執行猶予中)を議長に、日大全共闘の秋田明大を副議長に選出した。これによれば、全国全共闘は、ノンセクト・ラディカルのイニシアチブの下に新左翼各派の共同戦線的共闘運動として結成されたことになる。

 新左翼8派が参加して全国178大学、全国の学生約3万名が結集した。8派セクトは次の通りである。1・中核派(上部団体−革共同全国委)、2・社学同(々共産主義者同盟)、3・学生解放戦線(々 日本ML主義者同盟)、4・学生インター(々 第四インター日本支部)、5・プロ学同(々共産主義労働者党)、6・共学同(々社会主義労働者同盟)、7・反帝学評(々社青同解放派・革労協)、8・フロント(々統一社会主義同盟)。

 これについて、筆者はかく思う。筆者は、この8派セクトに注目する。8派セクトは、共同戦線に与し得る組織論、運動論を持っていることを証左していることになり、それは本来的な左派運動の在り方に忠実なセクトであるということを物語っている。将来、日本左派運動に新たな高揚期が生まれる時には、是非ともこの時の経験を生かすべきだろう。ここまでが「70年安保闘争」の「正」の面であったと思われる。


【全国全共闘のその後】

 全国全共闘は、日本左派運動史上初の共同戦線を成功裡に樹立したと云う功績を持つ。これを評価する目線が乏しいのを如何せんか。ところが、その全国全共闘は結成の瞬間から三方面より70年を待つことなく崩壊していくことになった。一つは、結集した各派セクトが自派の勢力の浸透と指導権をとることに夢中となり、全共闘運動の更なる組織化、全共闘的理念の発展化方向に向かうことなく「野合」となった。つまり、ノンセクト・ラジカルとこれに連合した8派セクトによる共同戦線的運動という未経験の重みに対応し得るものを運動主体側が持ち得なかったということを意味する。

 結集した各派セクトが自派の勢力の拡張と指導権をとることを優先させ、金の卵全共闘運動を自らついばんで行くことになった。ノンセクト・ラディカルが新左翼各派の草刈り場としてオルグられていく面が強まり、まったく不安定な代物へと転化し、翌年には山本議長が辞任し、全国全共闘はセクト中心の機関運営色が濃くなり、そうした傾向が強まると同時にノンセクト・ラディカルが脱落していくことになった。

 これにつき、そういう党派責任に帰すると見るよりも、個々の自立的な運動から始まったノンセクト・ラジカルが組織活動を担わねばならなくなった自己矛盾であったかもしれない。党派性を越えた自立的な運動主体としての個の関わりを重視するノンセクト・ラディカルとセクトの論理が、共同戦線的運動とうまく噛み合わなかったということになるかと思われる。あるいは単に、セクトの責任を問うよりは、寄り集うのも早いがさっと散り得ることを良しとするノンセクトの気まま随意性のせいであったかもしれない。

 全国全共闘自壊要因のもう一つは、結成直前に誕生した赤軍派による更なる突出化闘争の否定的影響があったと思われる。全国全共闘結成大会に、この日はじめて武闘派の最極左として結成されていた約百名の赤軍派メンバーが登場した。マスコミは、全国全共闘の歴史的意義を報ずるよりも、赤軍派の登場を好餌として大きく報道した。

 これについて、筆者はかく思う。赤軍派理論は、学生運動の水準を大きく超えていたことにより、全共闘−ノンセクト・ラディカル−シンパ一般学生の結合に向かうのではなく却って分離化作用を促進した。赤軍派は、この後さまざまな過激な事件を起こして物議を醸して行くが、筆者は「気質的目立ちがりやの所業」であったとみる。但し、この赤軍派が闘争を極化させたことで後々貴重な経験を積み重ねていく事になるので全否定はできない。

 全国全共闘自壊要因のもう一つは、この頃から革マル派と社青同解放派、中核派間に公然ゲバルトが始まり、70年を目前に控えた最も肝心な69年後半期という不自然な時期にオカシナことが起こったことである。これにより、全共闘運動が大きく混乱させられることになった。この時期の革マル派の全共闘二大勢力であった社青同解放派、中核派攻撃は、果たして偶然であったのだろうか。

 これらが否定現象となりつつ、長期化する闘争にノンセクト・ラジカルが脱落し始め、一般学生のサイレント・マジョリティーが闘争収束を願い、民青同の動きを支持し始める流動局面が生まれていった。早くも本番の70年を向かえるまでもなく自壊現象が見え始めることになった。


【中核派に破防法適用】

 9月、警察は、中核派に対して、本多、藤原、松尾氏などを破防法で逮捕し、破防法の団体適用をちらつかせながら締め上げを行っていた。こうした予防拘禁型の検挙に対し、中核派は、「革命を暴力的に行うということは内乱を起こすということで、それなりの覚悟が必要。逮捕を恐れていては話にならない。組織も公然組織だけではダメ」ということで、指導部を公然・非公然の2本立てにし、公然組織を前進社に残して、政治局員のほとんどが地下に潜行した。


【「小西軍曹の決起」】「反戦自衛官小西軍曹の闘い」参照)
 9月、70年安保闘争に対して自衛隊は全国的に治安出動態勢に突入したこの時、航空自衛隊佐渡レーダーサイトに服務していた小西誠・三曹(20歳)らが「治安出動訓練拒否」、「自衛隊に自由を、民主主義を」などと書かれたビラ百数十枚を張り出し、公然反乱した。

 10.18日に分屯基地の営内で始まった治安出動訓練を全隊員の前で拒否。11.1(4ともある)日、小西三曹は自衛隊警務隊に逮捕される。11.22日、自衛隊法第64条違反「政府の活動能率を低下させるサボタージュを煽動した」として新潟地裁に起訴された。

 裁判は70.7月から第一回後半が開始され、75.3月、新潟地裁は憲法判断を回避し、「検察官の証明不十分」という理由で無罪を宣告される。控訴審・東京高裁では「審理不十分」として差し戻し判決が下され、差し戻し審の新潟地裁では、81年、再び小西誠三曹に無罪判決が言い渡される。この判決に検察は、控訴をしなかったため、この判決が確定する。

【1969.10.21国際反戦デー闘争】
 10.21日、国際反戦デー。社共総評、全国600ヵ所で86万人参加。東京では、都公安委員会による一切の集会・デモの不許可に関わらず新左翼系のデモ、各地で警察と衝突各所でゲリラ闘争展開。中核派が新宿・高田馬場を中心に都市ゲリラ型闘争を展開。群衆を交えて市街戦を展開。社学同−全共闘グループは両国・東日本橋で、反帝学評−旧構造改革派グループは東京駅八重洲周辺で、革マル派は戸塚2丁目で。襲われた警察署4,派出所17、一種戦場と化した。逮捕者全国で1508名。そのうち東京1121名。

【赤軍派の「大菩薩峠事件」】
 11.5日、大菩薩峠で武装訓練中の赤軍派53人が逮捕された。これを「大菩薩峠事件」と云う。

 革マル派は、この事件を次のように揶揄している。
 「赤軍派は誇大妄想患者、塩見に煽動され、二百の機関銃隊、三千の抜刀隊による一週間の国会占拠などという超時代的方針をかかげていたが、スパイの内通により『一揆』を前に『前段階崩壊』した」。

 中核派は、次のように評している。
 「われわれは、赤軍派の諸君への権力の反革命的襲撃をけっして他人事として考えることはできない。ましてや、さかしらげにその幼稚さをあげつらうことは断じて正しくない」。

【11.16佐藤訪米阻止闘争】
 11.16日、佐藤訪米阻止闘争。蒲田駅付近で機動隊と激突。全国で2156名逮捕される。この日の闘いを機として運動はやがて一方で武装闘争−ゲリラ戦へと上り詰めていく。蒲田周辺に「自警団」が誕生している。

【革マル派と社青同解放派、中核派間に公然ゲバルトが始まる】
 11.28日、東大闘争裁判支援の抗議集会(日比谷野音)で、半数を占めた革マルと他派がゲバルトを起こし革マル派が武力制圧した。中核派は、革マル派との内ゲバに敗退したことを重視し、反戦労働者をも巻き込みつつ反撃体制を構築していくことになった。

 12.14日、糟谷君人民葬でも、これに参加しようとした革マルと認めない中核派間にゲバルトが発生した。翌12.15日、中核派は革マル派を武装反革命集団=第二民青と規定し、せん滅宣言を出したことで対立が決定的になる。

 この頃から革マル派の社青同解放派、中核派に対する公然ゲバルトが始まり、大きく全共闘運動を混乱させることになった。両派は「70年安保闘争」に向かうエネルギーを急遽対革マル派とのゲバルトにも費消せねばならないことになった。こうして、後に満展開することになる「新左翼セクト間ゲバルト=党派ゲバルト」は、既に69年後半期より突入することになった。

 全共闘運動に対する民青同の敵対は既述した通りであり折り込み済みであったと思われるが、この革マル派による公然ゲバルト闘争化は不意をつかれた形になった。社青同解放派、中核派は、68−69年闘争の経過で激しい武闘を連続させ多数の逮捕者を出し、組織力を弱めていた。特に中核派は逮捕者が多く、11月闘争で多数の逮捕者を出していた。逆に革マル派は組織温存的運動指針によりそれほど逮捕者を出さなかったために相対的に組織力が強化されたことになっていた。

 これについて、筆者はかく思う。筆者は、ゲバルトの正邪論議以前の問題として、70年安保闘争の最中のいよいよこれから本番に向かおうとする時点で党派ゲバルトが発生したことを疑惑している。この時のお互いの論拠が明らかにされていないので一応「仮定」とするが、革マル派が、独特の教義とも言える「他党派解体路線」に基づきこの時期に公然と敵対党派にゲバルトを仕掛けていったのであるとすれば、「安田決戦敵前逃亡事件」と言いこのことと言いあまり質が良くないと思うのが自然であろう。

 つまり、内ゲバ一般論はオカシイということになる。もっとも、これに安易に憎悪を掻き立てさせられ、社青同解放派、中核派両派が70年安保闘争そっちのけでゲバルト抗争に巻き込まれていったとするならば幾分能なしの対応と見る。やはり、こういう前例のない方向において運動路線上の転換を図る場合には、相手が何者かを見据え、的確な理論的総括を得て、大衆を巻き込んだ「下から討議」を徹底して積み上げねばならないのでは無かろうか。その際には事実に基づいた正確な経過の広報が前提にされるべきであろう。

 70年安保闘争はこうして本番の70年を向かえるまでもなく急速に大衆闘争から「浮き」始めていた。筆者は、どこまで意図、誘導されたのかどうかまでは分からないが公安側の頭脳戦の勝利とみる。同時に日本左派運動は本当のところ「自己満足的な革命ごっこ劇場」を単に欲しているのではないかと見る。併せて、いわゆる内ゲバ−党派間ゲバルトについて、それを起こさせない能力を左派が初心から獲得しない限り、不毛な抗争により常に攪乱されるとみる。

【1969年の大学紛争校】
 この年は国立大学75校中68校が、公立大学34校中18校が、私立大学270校中79校という実に全大学の半数(紛争校165校、うち封鎖・占拠されたもの140校)でストライキ−バリケード闘争が頻出した。当時の全国の大学総数の37パーセントの大学で学内にバリケードが構築されたことになる。しかし、大学立法に基づく封鎖解除で70年を待つまでもなく学園は平静に戻り始めた。70年には紛争校46校、うち封鎖・占拠されているものは10校と減じている。

 これより後は、「9期その1、70年安保闘争とその後 」に記す。



(私論.私見)