16章 | 戦後学生運動8期その1 | 1968(昭和43)年 |
全共闘運動の盛り上がり |
(最新見直し2008.9.11日)
これより前は、「7期その2、激動の7ヶ月」に記す。
(れんだいこのショートメッセージ) |
ここで、1968(昭和43)年の学生運動史を概括する。これを仮に「戦後学生運動8期その1、全共闘運動の盛り上がり概略」と命名する。詳論は「全共闘運動の盛り上がり期」、概論は「全共闘運動の盛り上がり」に記し、この時期の枢要事件を採り上げ解析する。全体の流れは、「戦後政治史検証」の該当年次に記す。 |
【この時期の全体としての政治運動】 |
この時代の政治闘争の枢要事を眺望しておく。学生運動史の予備知識として知っておく必要がある局面を抽出する。 |
1.28日、中華人民共和国政府は、「プエブロ号」拿捕を支持すると声明を出した。同日、ソ連の「プラウダ」も、日本の対米政策を非難した。また、モスクワ放送は、ワルシャワ条約加盟国が宣言のなかで、北ベトナムが要請すれば義勇軍を派遣する用意があると発表した。
3月、共産党が北方領土返還問題で、「南千島のみではなく北千島をも含めた全千島の日本返還論」を発表している。
3.16日、ソンミ事件。3月、ジョンソン大統領が北爆停止と大統領選不出馬声明。
4.5日、日米両国が小笠原諸島返還協定に調印。6.26日、小笠原返還。
5.2日、沖縄原水協・べ平連のデモ隊、嘉手納基地の武装米兵と衝突。5.7日、べ平連が沖縄などで脱走の米兵6人について記者会見で発表。
【日共が安保破棄から廃棄へと用語変更】 | ||
5月、日共が、70年に向けての基本構想として、「安保条約反対と沖縄返還を目指す、全民主勢力の統一戦線と民主連合政府の対外政策」を発表している。7月に予定されていた参院選に向けてのプロパガンダであった。これに対応して、宮顕書記長が、次のようなテレビ発言している。
5.28日、日共宮顕書記長が大阪での記者会見で、「安保条約反対と沖縄返還を目指す、全民主勢力の統一戦線と民主連合政策」を発表し、翌日の赤旗に掲載された。この頃の党の政策変化として、従来の安保破棄から廃棄へと用語の変更が為されている。その意味するところは、破棄の場合は大衆闘争と実力が伴うものであり、廃棄の場合は議会の手続きを経ての合法主義的なものであるということであった。重要政策における右傾化方向へのステップであった。 6.12日、宮顕は、参院選最中のNHK政党討論会で次のように語っている。
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【日共が、プロレタリアート独裁を執権に用語変更】 | |
7.15日、赤旗が、党創立46周年記念の無署名論文「革命的伝統に輝く日本共産党」を発表。プロレタリアート独裁をプロレタリアート(労働者階級)執権に改めた。次のように述べられていた。
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【チェコで「プラハの春事件」発生】 |
「人間の顔をした社会主義を求めるプラハの春」と呼ばれた党民主化・社会主義国家体制民主化運動が1968年に爆発的に高揚し、8.20日、ソ連などワルシャワ条約機構5カ国軍隊(ソ連・ポーランド・東ドイツ・ハンガリー・ブルガリア)がチェコスロバキアに侵入し、全土を占領するというチェコ事件が発生した(「プラハの春弾圧」)。ドブチェクら党・政府の最高指導者たちはいきなり手錠をかけられ、モスクワに連行された。 |
【この時期の学生運動の動き】 |
この時代の学生運動の枢要事を眺望しておく。 この期の特徴は、今日から振り返ってみて大きな山を画しており、戦後学生闘争のエポックとなった。60年安保闘争で見せたブントの玉砕主義闘争以降最大の昂揚期を向かえ、いわばそのルネッサンス期となった。 1967.10.8日から始まる「激動の7ヶ月」、それに続く東大−日大−早稲田の各闘争が全国の大学闘争を牽引し、全共闘が結成される。1969.1.18日、大学紛争の頂点として東大安田砦攻防戦が闘われた。同9.5日、ノンセクト・ラディカルと八派連合を糾合した全国全共闘が結成され、「60年安保闘争」を上回る闘争を指針させる。 しかしながら、この時点がエポックで、全国全共闘運動は正面から当局機動隊、右から民青同派、脇腹から革マル派、左から赤軍派、背後から公安の重圧を受け翻弄されていく事になる。70年安保闘争を目前に控えた1969年頃から革マル派を策源地とする中核派、社青同解放派との党派間ゲバルト、第二次ブント内での内ゲバが発生し始める。この頃、治安当局の警備能力が一段と向上し、闘争の代価が高くつき始める。この経緯を検証していく事にする。 |
【全共闘運動】 |
この頃泥沼化していたベトナム戦争が解放戦線側有利のまま最終局面を向かえてますます激化していた。68年はこのベトナム戦争を基軸にして国際情勢全体が回っていた形跡があり、その逐一の動向がわが国の学生運動にも反映していたと思われる。この背景には、ベトナム戦争に於ける佐藤政権の加担に対する青年期特有の正義感が介在していた。 1964.11月に成立した佐藤内閣は、ベトナム侵略への協力、加担に深のめりしていった。日本は、日米安保条約の拡大解釈と運用によって兵員や武器の補給基地とされ、日本の船舶まで輸送に使われ、沖縄基地がB52爆撃機の北爆発進基地としてしばしば使われるなど、アメリカ帝国主義のベトナム侵略戦争の前線基地と化していた。日本無しにベトナム侵略は困難と云われるほど、日本はベトナム侵略の総合基地にされつつ、日本は引き続き高度経済成長を謳歌しつつあった。 日本のこの在り方に対する同意し難い感情が反戦闘争を激化させていった。要は儲かれば何をしても良いのかという不義に対する青年の怒りのようなものがあった、と私は捉えている。この時期に、急速にノンセクト・ラディカルが台頭してきた。このノンセクト・ラディカルを主勢力として反代々木系セクト8派と提携し、全共闘運動及び反戦青年委員会運動を生みだしていくことになった。 ノンセクト・ラディカルの台頭の背景にあったものとして「団塊の世代」論が注目されている。「団塊の世代」は丁度この時期大挙して大学生になり、世界的にもベビーブーマー世代の叛乱として共時的なブームを生み出しつつあった。学生運動がこの世代に伝播するや「層としての学生」にマスが加わってパワーを発揮せしめることになり、全共闘運動を創出していくことになった。 今日から見て、全共闘運動の素晴らしさは、それが共同戦線型の運動であったことに認められる。考えようによれば60年安保闘争もそうであった。これよりすれば、一般に運動は共同戦線型の時に発揚し統制型に陥ると共に爛熟すると云う事になろう。そういう経験を与えたのが全共闘運動であり、この時をもって未だに終焉している。そういうことが確認できよう。この運動の意義については、「全共闘運動考」に記す。 |
【中大闘争】 |
1968(昭和43).1.13日、中央大学昼間部自治会が学費値上げ反対全学ストに突入した。2.16日、中大学費値上げ反対闘争が白紙撤回で勝利決着する。 この頃、医学部から発生した東大紛争が次第に全学部へ広がりを見せていくことになった。さらに日大闘争が始まり、東大−日大を頂点とする全国大学紛争が勃発し、政治闘争に重なり相乗していくことになった。 |
【原子力空母エンタープライズ寄港阻止闘争】 |
1.4日、米国政府が、原子力空母エンタープライズが1.17−18日頃佐世保へ寄港を非公式に通告。これにより、「佐世保エンタープライズ寄港阻止闘争」が始まる。 1.15日、佐世保エンタープライズ寄港阻止闘争が羽田闘争に続く歴史的な闘争となり、佐世保現地と東京での闘いが呼応した。以後一週間現地で激闘となる。 |
【三里塚闘争】 |
この頃、三里塚闘争を基軸として佐世保闘争、王子野戦病院設置阻止闘争が闘われている。三里塚闘争関連は次の通り。2.26日、成田空港反対同盟と三派全学連共闘による三里塚空港実力粉砕現地総決起集会、3千名結集、衝突。戸村一作反対同盟委員長ら4百名が重軽傷。3.10日、三里塚闘争。反対同盟1300名を中心に全国から労学農・市民1万人参加。全学連2千名が機動隊と衝突。3.20日、三里塚空港粉砕成田集会。労農学5千名が集会とデモ。3.31日、三里塚闘争。 |
【王子野戦病院設置阻止闘争】 |
2.20日、王子野戦病院設置阻止闘争。三派.革マル.民学同などが参加。以降三里塚闘争と並行しつつ闘われる。
王子野戦病院は、ベトナム戦争の激化の中で、埼玉県朝霞基地の米軍病院だけでは負傷者の収容が不十分となったため、王子キャンプ内に新たな病院を開設しようとしたものだった。地元では、すでに計画の噂が流れていたその1年以上前から、反対運動が続けられていたが、2.27日、王子・柳田公園で開かれた反戦青年委員会主催の総決起集会を皮切りに、地域ぐるみの闘争に、新左翼勢力が積極的に加わり、闘争を激化させた。 それまで農民を支援、共闘してきた日共、社会党は、反対同盟に三派全学連や反戦青年委員会など「過激派」が集まるにつれ、日共は例によって、「トロツキスト」批判を展開して、反対同盟の戦列から離れ、社会党もいつのまにか「条件派」に鞍替えし、地元代議士が千葉県知事と「紳士協定」を結び、農民に条件派への参加をすすめるなど、闘争から脱落した。 3.31日、三里塚闘争。三派系全学連が、成田市の新空港公団分室突入を図り、51名が逮捕される。 4.1日、王子野戦病院設置阻止闘争。三派系全学連が、パトカーを炎上させ、交番襲撃。108名が逮捕される。 2.20日から4.15日まで、学生部隊、反戦青年委員会、それに市民による機動隊との激しい衝突事件は9回にわたり、計1500人以上の負傷者が出た。佐世保エンプラ闘争で出現した市民のたちあがり以上の「闘う市民」の登場が、この一連の王子闘争の特徴であった。 |
【第二次ブント内で関西ブントが台頭】 |
4.3日、ブントマル戦派が共産同労働者革命派結成準備会(労革派)を発足させた。第二次ブントは66年に再建されたものの、戦旗派との対立が依然解消されておらず派閥的な対立抗争が続いていた。前年の共産同第7回大会での革命綱領をめぐる理論対立から、マル戦派は、戦旗派を「小ブル急進主義集団」と攻撃して、大会をボイコットして第二次ブントから離脱していた。この結果、関西ブントが第二次ブント統一派の指導部を握ることとなった。 |
【「4.28日沖縄デー闘争」】 |
4.27日、中核派、ブントに破防法(破壊活動防止法)40条「凶器もしくは毒劇物を携える多衆共同して検察もしくは警察の職務を妨害する罪」が適用され、当日の実行行為に関係なく両派の幹部5名(中核派書記長本多氏と東京地区反戦世話人藤原慶久氏他)が事前逮捕された。 |
【フランスでカルチェ・ラタン闘争勃発】 |
5月、フランス「5月危機」はじまる。3月に始まったソルボンヌ大学のナンテール分校の学生改革要求の大学占拠闘争は、ナチス以来のソルボンヌ大学封鎖となった。学生寮の管理などを廻り学生と対立していた大学側が、パリ郊外のキャンパスを封鎖したのに対し、学生は、カルチェ・ラタンにバリケードをつくって警官隊と対峙した。この要塞化したバリケードをめぐる学生と警官との衝突は激しいものとなった。これに抗議する学生と労働者の運動は、反ドゴールのゼネストにまで発展した。これは6月まで続き、結局、ドゴールに鎮圧された。「五月革命」は、ドゴールの「非常大権」をちらつかせた軍隊のパリ周辺への配置によって、6月末の総選挙の結果、大統領派の圧倒的勝利によって収束させられた。 ジョンソン米大統領が北ベトナム提案を受諾しパリで予備会談を開くと発表。解放戦線が第3次攻勢を開始。パリの学生デモ激化。サイゴン地区で激戦、市街戦。 米・北ベトナム第1回準備会談。 米・北べトナム第1回パリ会談。西ベルリンの学生ゼネスト。 5.11日、西ドイツの首都ボンで、非常事態法に反発する学生約3万名が警官隊と衝突。 |
【アメリカのコロンビア大学で大学占拠闘争勃発】 |
アメリカでも、ベトナム反戦を主張するSDS(民主主義社会のための学生連合)の学生が、コロンビア大学で大学占拠闘争をはじめた。これは「いちご白書」として報告され有名になる。これを契機に、全米に学園闘争が広がっていった。 この頃、アメリカでは、60年代のはじめから黒人の公民権運動が発展し、65年の投票権法などで差別制度を撤廃させていた。さらに、黒人運動は学生運動、ベトナム反戦運動、女性解放運動などと連動して、アメリカ社会に大きなインパクトをあたえていた。 |
5.23日、日大生初の200mデモ。5.27火、日大全共闘結成。
【1968.6.15集会に於けるゲバルトの発生】 |
6.15日、日比谷野音で「アメリカにベトナム戦争の即時全面中止を要求する6.15集会」が開かれる。1万2千名結集。このベトナム反戦青年学生決起集会で、中核派対革マル派−社青同解放派連合という構図での乱闘騒ぎが起こる。全国反戦は以降完全に分裂した。 これについて、筆者はかく思う。この「内ゲバ」は考察されるに値する。こうした「内ゲバ」が統一集会に於いて「70年安保闘争」決戦期前に発生しているという内部的瓦解性の面と、後の展開からしてみて少々奇妙な構図が見える。つまり、中核派対革マル派−社青同解放派連合という構図は、どういう背景からもたらされたのだろうか。衆知のように中核派対革マル派、社青同解放派対革マル派というのが70年以降の構図であることを思えば、この時の経過が私には分からない。 お互い運動に責任を持つ立場からすれば、こうした経過は明確にしておくべきでは無かろうか。いずれにせよ、当面の運動の利益の前に党派の利益が優先されていることにはなる。果たして、安保決戦期前のこの内部対立性(新左翼対民青同、新左翼内のセクト抗争)は偶然なのだろうか。私はそのようには見ていない。こういうことに賢明に対応できないようでは百年かけても左翼運動が首尾良く推移することはないと思う。 |
【中核派と革マル派の理論闘争】 |
この時期中核派は、大衆運動の高揚期には組織をかけてでも闘争をやり抜くという旧ブント的方針で闘争を指導し、支持を獲得していった。この手法は勇ましく人気も出たが、一方逮捕など組織的な消耗が避けられなかった。こうした中核派の闘争指導に対して、革マル派は、大衆闘争上の現象的激動を革命的激動と取り違える妄想と批判した。革マル派は「革マル体操」と揶揄されながらも、ゲバ棒はかついでも機動隊との衝突は極力避けつつ組織温存を重視した。こうした革マル派の闘争指導に対して、中核派は、革命的組織作りはそのような真空中でつくられるのではなく、革命的激動の中で攻撃的に対応することを通じて勝ち取られるものだと批判し武闘路線に邁進した。 これについて、筆者はかく思う。既述したが私には、どちらの言い分が正しいと云うよりは、このやり方の方が自分にとってしっくり合うという気質の差のように思われる。問題は次のことにある。こういう理論闘争は大いに称揚されるべきところ、学生運動史上の珍しい理論闘争となっていることである。定期的にでも設営されて然るべきではなかろうか。 |
【中核派全学連結成、その功罪考】 |
7.14日、中核派全学連大会開催される。こうして中核派は、中核派全学連として単独大会を開催して正式に三派全学連から離脱することになった。101大学・157自治会・127代議員・1500名参加。この数字が正確であるとすれば、中核派の進出もまた凄まじいものがあったということになる。してみれば、ブント−社学同系の分立抗争ぶりとは対照的に元革共同勢が大幅に組織を伸ばしていることが分かる。12.10日、中核派全学連臨時全国大会、委員長に金山克巳氏を選出する。 これについて、筆者はかく思う。この時期、革マル派全学連、民青同全学連に続き中核派全学連が立ち上げられた。時の勢いでもあったが、後の展開から見て真似してはいけない党派独善運動であった気がしないわけでもない。惜しむらくは、全学連の革マル派化、民青同の自前全学連創出は、運動全体の利益を考えるより党派的な利益を優先する体質的なそれであるから是非に及ばずとして、中核派の自前全学連創出はいかがなものであっただろうか。むしろ、共同戦線型の全学連を良しとして引き続き主力となって三派全学連を担い続けるべきであったのではなかろうか。少なくとも中核派の方から自前全学連を創る必要はなかったのではあるまいか。 中核派が安直に革マル派、民青同型を踏襲した事を惜しいと思う。この指摘は、中核派を非難しようとして述べているのではない。日本左派運動の共同戦線型運動に対する軽視ないしは不見識が高揚期の場面になるや現われ、それがやがて運動の衰微を用意していく下地になるという法理を確認したい為である。 こうして、三派全学連から中核派が抜け、反中核派連合の第二次ブント統一派−社学同、ML派、社青同解放派、第4インターなどが反帝全学連を創出する。これで4つ目の全学連が誕生することとなった。その反帝全学連もそれぞれの全学連を創出していくことになる。 筆者が思うに、全共闘運動は元々革マル派、民青同のロゴス派運動とは質の違うカオス派の共同戦線運動として進められたが故に昂揚したのではなかったか。ならば、この昂揚を醸成発展せしめる為にも、引き続きあくまでも共同戦線運動として保持されていくべきではなかったか。思えば、第1次ブント運動の功績も、この共同戦線型の構えであったが故に空前の盛り上がりをみせてたのではなかろうか。第1次ブントが解体されたのは、これを担う連中のカオス型共同戦線運動に対する軽視ないしは不見識によってではなかったか。 日本左派運動のカオス型共同戦線運動に対する見識不足が、この時の中核派全学連、反帝全学連創出に見て取る事ができ、やがてこのツケが自家撞着していくことを見る事になるであろう。 |
【第二次ブントの分裂】 |
この頃、第二次ブントが次々と分裂していった。これを確認しておく。ブントの相次ぐ分裂も、どうやらロゴス型左派運動に傾斜し過ぎの故ではなかろうか。8月、マル戦派は、幹部間の対立から前衛派と怒濤派に分裂した。戦略戦術の総括、岩田理論の評価の対立から、岩田理論の正統継承派を主張する前衛派と、学生活動家を擁し多数派の怒濤派に分裂した。 前衛派は、後に党名を共産主義者党と改称し、青年・学生組織として青年共産同盟を発足させる。岩田理論に基づき概要「68年のフランスの五月危機を契機に世界は不可避的な経済危機に入った」、「資本主義の末期的危機」、「この危機が『階級決戦の原動力』になる」等の主張を基礎理論とし、「工場占拠、ゼネストによる二重権力の創出」、「反合反帝の工場闘争をプロレタリア日本革命へ」と闘争を指針させていた。基本的には議会主義を否定しながらも、手段としての議会進出を認め、労働運動を重視した。更に、国際・国内情勢について、それぞれの時点での問題点を分析し、その都度、闘争の在り方を明らかにしていることが注目される。指導下にある組織としては「首都圏行動委員会連合」(首行連)があり、機関紙`としては「前衛」を発行した。 一方、怒濤派は、後に労働者共産主義委員会(労共委)と改称し機関紙「怒濤」を発行、下部組織として共産主義戦線(共戦)を結成することになる。 |
【日大−東大闘争】 |
9.12日、日大全共闘総決起集会。数万名結集。この頃東大闘争が拡大していくことになり、9.19日、工・経・教育学部もストに突入。9.20日、日大が全学ストに突入。9.27日、東大医学部赤レンガ館を研究者が自主封鎖。民青同との対立が抜き差しならない方向で進んだ。9.30日、日大全共闘3万名が、両国講堂で大学当局と10時間大衆団交。大学側全理事退陣確認書に署名させる。翌日、佐藤首相の批判を受け撤回する。10.1日、東大の理・農・法学部も無期限ストライキ突入。10.5日、秋田明大ら日大全共闘幹部8名に逮捕状が出され、機動隊が導入され各学部のバリケードが解除される。10.12日、東大全学無期限ストに突入。 |
【10.21国際反戦デー闘争】 |
10.21日、国際反戦デー。全国で46都道府県560カ所で30万名参加。31大学60自治会スト決行。全学連統一行動は、中央集会に1万余を結集。新宿・国会・防衛庁等で2万人デモ。機動隊と激突。社学同統一派系1000名は中央大終結後防衛庁突入闘争。社青同解放派系は早大終結後国会とアメリカ大使館に突入闘争。革マル派と構造改革派(フロント)900名(1700名ともある)は東大で終結後国会へ向かう途中で機動隊と衝突。中核派・ML派・第4インター1500名はお茶の水駅前終結後新宿駅へ向かい、労働者・市民2万人と合流した後騒動化。政府は、翌22日騒乱罪を適用指令、769名逮捕される。 |
【東大闘争の激化、全共闘と民青同のゲバルト衝突】 |
11.12日、東大総合図書館前で全共闘と民青同学生が衝突。11.14日、駒場第三・第六本館封鎖をめぐり再び全共闘と民青同学生が衝突。11.19日、加藤総長代行が民青同派と公開予備折衝に入る。11.22日、東大校内で東大・日大闘争勝利全国学生総決起集会。新左翼系約2万名が集結、デモ。民青同系と小競り合い。 |
【「東大・日大闘争勝利、全国学園紛争勝利総決起集会」】 |
11.23日、東大で全共闘による「東大・日大闘争勝利、全国学園紛争勝利総決起集会」が開催される。 |
【跳ねる全共闘、押える民青同の綱引き】 |
12月、この頃より東大のみならず各大学で民青同・右翼グループがバリケード封鎖解除の動き強める。12.29日、坂田文相が東大全学部の入試中止を決定した。 68年末から翌69年にかけて全共闘運動は決戦気運に突入して行くことになった。卒業−就職期を控えて大学当局も全共闘側も年度中に何らかの解決が計られねばならないという事情があった。こうして翌69年1月の東大時計台闘争(安田講堂攻防戦)に向けて全共闘運動はセレモニーに向かうことになった。この間新大管法の施行に伴い、中大、岡山大、広島大、早大、京大、日大等々の封鎖解除も並行的に進行した。 |
【1968年の大学紛争校】 |
68年の紛争校120校、うち封鎖・占拠されたもの39校。69年には、紛争校165校、うち封鎖・占拠されたもの140校となる。当時の全国の大学総数は379校であったから、その37パーセントの大学で学内にバリケードが構築されたことになる。大学当局は管理能力を失い、学生側は代々木系と反代々木系の対立、過激派各派の衝突や内ゲバも繰り返されていくことになり、全くアナーキーな状態が現出した。 |
(私論.私見)