13章 戦後学生運動6期その4 1964(昭和39)年
新三派連合結成、民青系全学連の誕生

 (最新見直し2008.9.11日)

 これより前は、「6期その3、全学連の三方向分裂固定化」に記す。

 (れんだいこのショートメッセージ)
 ここで、1964(昭和39)年の学生運動史を概括する。これを仮に「戦後学生運動6期その4、民青系全学連の誕生概略」と命名する。詳論は「新三派連合結成、民青系全学連の誕生」、概論は「新三派連合結成、民青系全学連の誕生」に記し、ここでは枢要な事件を採り上げ解析する。全体の流れは、「戦後政治史検証」の該当年次に記す。



【この時期の全体としての政治運動】
 この時代の政治闘争の枢要事を眺望しておく。学生運動史の予備知識として知っておく必要がある局面を抽出する。

 1964(昭和39).3.10日、日共が、論文「ケネディーとアメリカ帝国主義」をアカハタに発表。 
日共の奇妙な「4.17スト対応」
 4.17日、「4.17ゼネスト」を廻って、日共が犯罪的立ち廻りをしている。これについては詳論は「4.17スト問題について」に記す。要するに、総評・公労協が1947年の「2.1ゼネスト」に匹敵叉はこれを上回る戦後空前のストを仕掛けんとしていた時、日共が、概要「4.17半日スト方針を憂慮する。総決起は危険でありその方針を再検討せよ」と公然とスト反対を打ち出していった事件である。

 ゼネストに向けて態勢の準備と確立に余念がなかった総評・公労協の多くの組合幹部、活動家は憤激し、日共の態度を「労働者の気持ちを無視したやり方」と非難したが、日共は次々と同様指示を飛ばし続け、次第に労働戦線は大いに混乱し、遂に4.17ストは挫折させられることとなった。こうして、「日共のスト破り」が歴史に刻印された。

 4.17スト不発後、責任問題が発生することになった。日共の最高幹部がどう対応したか。宮顕と袴田はこの時中国にいたが、「志賀問題」も発生したこともあり急遽帰国し、幹部会を開いた。この総会で、党として「4.17スト」反対への誤りを認め自己批判した。こうして、「あれは党の意志ではなかった。一部幹部の暴走によるもの」と「主要幹部不在中の誤り」として公労協に詫びを入れ一件落着にしている。

志賀派が造反
 5月、日共党内に「4.17スト問題」に続いて「部分核停条約問題」が発生した。これにより、先の春日(庄)派に続き、志賀派が放逐されることになる。その経緯の概要を記しておく。5.15日、衆議院本会議に「部分核停条約」が上程され、採決されることになった。社会党は賛成し、日共党は反対の立場に立った。ところが、志賀が党の決定に背いて賛成票(白票)を投じた。投票総数319のうち反対派共産党の4票だけだったので、志賀の行動が明らかとなり衝撃を走らせた。これを仮に「志賀派の造反事件」と命名する。

 本会議解散後、志賀は、報道陣を前に「みなさんに訴える」の声明文を配り、記者会見した。部分核停条約に対する態度を次のように表明していた。
 「地下核実験を除外しているなどの点でまだ不十分なものだが、大気圏内外と水中の核実験を禁止しており、従って少なくとも核実験による放射能汚染によるこれ以上の被害をくいとめ、また際限のない核兵器開発競争を抑制する点で日本と世界の全ての人民の利害にかなっている」。

 5.21日、第8中総が開催され、志賀問題と「4.17スト問題」の討議が予定されていたが、宮顕は、「志賀問題」に集中し、激しく志賀.鈴木らの「反党行為」を攻撃し一瀉千里に除名方向へとリードした。出席中央委員57名中53名の賛成で、二人を最高処分である除名決定した。反対派志賀.鈴木.中野の3名が反対し、神山は保留した。中委候補34名は全員賛成した。宮顕が異例の記者会見を行って、これを発表した。


 5.22日、志賀と鈴木は、記者会見に応じ、「共産主義者の良心と信念」文書を配布した。文書は、党の条約反対の方針と反ソ傾向を批判し、4.17問題での党中央の責任を問うていた。「これらの正しくない方針を素直に自己批判せよ」と要求していた。5.25日、党を除名された鈴木が参議院で「部分核停止条約」に賛成票を投じた。5.28日、党は、論文「修正主義者のいきつくところ−志賀らの 論拠に反論する」をアカハタに発表した。この経過を通じて志賀グループが様々な理由で 除名されていった。 

 6.11日、党員学者文化人12名の連署で、志賀問題に関する中央指導部への要望書を党中央委員、同候補、中央統制委員全員に郵送した。6.14日、再び12名の連名で、こんどは「声明」を発表し、報道機関等に送付した。これに対し、党中央は、「党規約第2条の(9)に定めている党員の義務に対する違反(「党の内部問題は、党内で解決し、党外にもちだしてはならない」)である」として処分に向かった。

 6.30日、志賀.鈴木は、大阪で記者会見し、政治結社日本のこえ同志会の結成、機関紙週刊日本のこえを発刊する、次期総選挙に大阪から立候補する、などと反党声明を発表した。

 宮顕率いる日共党中央は引き続き、志賀派の処分過程疑義を表明した神山派(神山、中野)の処分に向かっている。7.7日、神山は、中委あてに意見書を提出し、1・民主集中制と党規約が歪曲されていること、2・意見提出の自由や討論の保証が実質的に欠如していること、3・党中央がマルクス.レーニン主義をねじ曲げていること、4・党の言論統制が徳球家父長体制の頃よりひどくなっていること、5・最近のアカハタ論文が反ソ宣伝的挑発的で、綱領規約に違反していること等を指摘し批判している。

日ソ共産党間の論争始まる

 7.11日、日共は、ソ連共産党書簡に返書を送った。 7.18日、ソ連共産党は日共あてに2書簡を公表し、日共もソ連宛書簡を公表する。以後全面的にソ連共産党指導部への批判と攻撃が展開された。7.21日、日共、ソ連非難の書簡発表。8.2日、論文「現代修正主義者の社会民主主義政党論」をアカハタに発表した。

 この時、宮顕党中央は注目すべき詭弁論法を駆使している。その箇所を確認のため記す。

 「なお、あなたがたは、あなたがたが既に一方的に公表したこの書簡の中で、マッカーサーの弾圧−党中央委員会に対する公職追放令によって、我が党中央が非合法下に置かれた時期の両党関係をめぐる諸問題に触れています。これは、今回の会談の内容を公表しないという両党代表団の取り決めを全く無視しているだけでなく、兄弟党が非合法下ないし半非合法下に置かれた時間の非公然の問題を、反動権力の前で無警戒に論じないという、兄弟党間の信義と国際共産主義運動の当然の準則を全く踏みにじるやり方です。我々は、あなたがたがこの問題について述べている内容に同意するものではありませんが、この公開される書簡で、この時期のこれらの問題を更に立ち入って論及することは妥当でないので、ここではあえて回答する必要を認めません」。

 この論法が如何に詭弁であるかを指摘する。切開すべき理論的諸課題を非合法下の諸問題にすりかえている事が第一点である。切開すべき理論的諸課題が、このたびの論争時期のように対象とされる事象の発生後十余年を経過して、なお秘密にされねばならない党的利益は何も無い。ある時期の内部文書が一定期間後公表されていくことは、人民大衆運動の利益に合致する。「反動権力の前で無警戒に論じない」という論理も曲者である。ならば、公党間のテーブル交渉として行い、その結果議論の成果を公表するのかうのかというとそうでもない。「今回の会談の内容を公表しないという両党代表団の取り決め」とあるように、あくまで秘密主義で機密事項として置いておこうとしている。「殊更に秘密めかして自己保身をはかるのは、官僚組織の通弊」(高知聡「日本共産党粛清史」)であり、ここにもご都合主義が垣間見えている。


「トンキン湾事件」発生
 8.2日、米国政府が、北ベトナムのトンキン湾で、米駆逐艦マドックスに対して北ベトナム海軍の魚雷艇が攻撃された、との発表を声明した。続く4日にもマドックスが攻撃を受けたと発表した。これを「トンキン湾事件」(ベトナム魚雷艇による米艦船爆撃事件)と云う。(1971.6月、8.4日の北ベトナムの再攻撃はでっち上げとの米国防総省の秘密文書が暴露された)。

 8.4日、ジョンソン大統領が、トンキン湾事件を口実に北ベトナムを報復爆撃、これを契機に大規模な公然軍事介入に踏み切った。この背景には、社会主義路線を執っている北ベトナムがベトナム全土を統一するとアジア全体が連鎖的に共産化するという「ドミノ理論」があった。

 8.5日、幹部会声明、「アメリカ帝国主義のベトナム民主共和国への公然たる侵略戦争に反対し、アジア諸国人民との共同闘争を強化しよう」を発表。

 10.1日、東京オリンピックにあわせて、東京、大阪間を3時間10分でむすぶ最高時速200キロの東海道新幹線が開通した。翌1965年には名神高速道路が開通する。
 10.10日、第18回オリンピック東京大会が開幕した。アジア初で、94カ国7千余人の選手・役員が参加した。開会式のテレビ視聴率は85%にのぼった。オリンピックで、日本は堂々とした戦後復興ぶりを世界に示した。日本は金16、銀5、銅8という成績を見せた。「東洋の魔女」と呼ばれた日本女子バレーチームの活躍に日本中が沸いた。この年の日本の実質経済成長率は12.5%で、戦後日本の復興を象徴する国家的イベントとなった。
 10.14日、ソ連共産党中央委員会総会でフルシチョフは第一書記を解任され、ブレジネフが選出された。10.15日、フルシチョフは首相(閣僚会議議長)の座からも降ろされ、コスイギンが選出された。新政権は、スターリン死後と同様、集団指導の建前をとった。 ブレジネフ党中央第一書記、コスイギン首相、ポドゴルヌイ党中央委書記の三名によるトロイカ体制が敷かれることになった。
 11.4日、志賀は訪ソを終え帰国するや、志賀、鈴木、神山、中野らで声明を発表し、「日本共産党(日本の声)」を組織した。以降、親ソ派系旧日共活動をしていくことになる。
 12.1日、池田首相の池田三選からわずか2ヶ月後の引退表明を受け、第15回自民党臨時党大会で佐藤栄作が第5代自民党総裁に選出され、首相指名を受けて第一次佐藤内閣が発足する。佐藤内閣は、日韓国交正常化、沖縄返還を政策の基軸に据え、「経済開発とバランスのとれた社会開発」を掲げた。このあと、佐藤内閣は在任期間7年8か月という最長記録をつくる。
 11.17日、宗教団体・創価学会を母体とする公明党が結成された。
日共第9回党大会
 11.24−30日、日共第9回大会が東京大田区民会館、世田谷区民会館で開かれた。 大会の眼目は、宮顕体制確立後の最初の党大会であり、その成果を確認することにあった。民主連合政府構想が発表された。蔵原が「志賀、鈴木、神山、中野の処分承認についての提案」を行ない、大会1日目に全員一致で除名決議を採択した。ソ連共産党の大国主義と現代修正主義批判。教条主義批判を新たに押しだし、自主独立論を中共路線上に名目的に確立する。野坂は84歳という高齢になったことも含めて幹部会員を外されて中央委員会議長という実権の伴わない名誉職に祀り上げられた。これにより宮顕体制を制度的に確立した。


【この時期の学生運動の流れ】
 この時代の学生運動の枢要事を眺望しておく。

 1964年になってマル学同全学連に代わる全学連の創出が動きになってきた。民青同が苦節を経て成功する。これを見て、新三派連合も自前の全学連に向かい始める。

【東京社学同、マル戦派とML派に分裂】
 2.12日、東京社学同が、10.31東大教養ストをめぐり分裂。ブントは「岩田世界資本主義論」を掲げた岩田弘をイデオローグとしていたが、平民学連に対抗するためにも、従来の政治闘争主義に対する自己批判が必要とする少数派(マ ルクス主義戦線派=マル戦派.独立社学同)と、この観点に反発する多数派(マルクス・レーニン主義は=ML派)とに分裂した。ブントはマル戦派、ML派、独立派、関西派に分裂し勢力を急速に衰えさせていった。

 2.15日、社学同内ML派の理論機関紙「マルクス.レーニン主義」第2号で猪雪彦の「帝国主義列強の抗争の新局面−日韓闘争と革命闘争の勝利の為に」論文が掲載され、理論的基礎となる。

【「新三派(社学同、社青同、中核派)連合」結成】

 3.25日、社学同、社青同、中核派が、明大和泉で全国学生自治会代表者会議を開催し、新三派連合が確立された。52大学、350名参加。全学連再建問題を討議、韓国学生の日韓会談反対闘争支持アピールを採択。

 これまでの過程で、あくまでも全学連の全的統一を目指した構造改革派が抜け落ち、中核派、独立ブント、社青同が新三派連合を結成した。こうして、学生運動内部にはマル学同、民青同、新三派連合系という三大潮流が生まれ、その他に構造改革派系、「日本の声−民学同」派系、革共同関西派系等々という様々な支流が立ち現れることになった。


【日韓会談粉砕・改憲阻止闘争】
 6.19日、三派連合と構政派が、日比谷野音で「日韓会談粉砕・改憲阻止全国統一行動、全都学生総決起集会」を開催し、2千5百名結集、デモで4名逮捕される。全関西学生総決起大会が円山公園で開催され5千名参加、デモで15名逮捕される。その他九州学連〔福岡〕等全国各地で集会・デモとなった。

【「早大構内ゲバルト7.2事件」】
 7.2日、翌日に予定された憲法調査会の答申に対する反対デモの計画を練るため早大構内に集まっていた革マル派約80名に対して、中核派、社学同、社青同、構改派(フロント)各派の連合勢力約100名が、ヘルメットに身を固め、棍棒と石をもって夜襲の殴りこみをかけ3時間の激闘が展開された。これを「7.2事件」という。

 早稲田大学一文学部の自治会権力をめぐる争いが原因となっていた。奥浩平氏の「青春の墓標」で次のように明らかにされている。
 概要「これまで日本の戦闘的学生運動にしるした早大一文の意味は計り知れないほど大きかった。安保闘争をはじめ大管法闘争においても早大一文は一千単位の動員を勝ち取ってきた。だがY派(革マル派のこと)が自治会執行部を占拠するや、一文は一挙に凋落して今日の姿になった。クラス討論は行われず、他党派の看板はブチ壊され、ビラ入れは暴力的に妨害された」。

 この状況の中で自治会自治委員選挙が行われ、「フロント(構造改革派)の諸君が、一文の学生委員を圧倒的に固めた」。フロント40〜50名、M戦(社学同)15名、Y派(革マル派)15〜25名という内訳となった。形成不利と見た革マル派は、委員総会を「正当な委員だけで開かねばならない」という口実で自派だけで開いて切り抜けようとしていた。フロントは各派に支援を要請し、中核派その他がこの要請に応じ、一文自治会再建目指してオルグ団を派遣した。しかし、革マル派はこれら活動家に対する公然テロを開始した。7.2日夜、中核派、社学同、社青同、構改派(フロント)各派の連合勢力が「徹底的自己批判を迫る」ことを決意し乗り込んだ、という経過であった。

【平民学連が全学連再建決議】
 10.17−18日、平民学連が全自代開催。正式参加自治会150、オブザーバー自治会35の代表、その他個人オブザーバー35名が参加した。全学連再建のための基準提案が決議された。1、過去のいきさつに関わらず、2、無条件で、3、全ての学生自治会が参加でき、4、全学連規約に従って、再建大会を開催しよう。提案は、賛成128、反対14、保留4で可決された。

 この時の反対派の様子が明らかにされていないが、構造改革派とこの頃誕生していた志賀グループの「日本の声−民学同」派の影響下の学生グループであったようである。彼らは、民青同系全学連を新たに創る方向に向かうのではなく、諸潮流との統一を主張し、急進主義派を含めた統一を模索するべきであり、その根回しのないままの全学連再建は時期尚早であるという全学連再建時期尚早論を主張したようである。川上徹著「学生運動」では、「それは惨めな失敗に終わった」とある。

 10.19日、平民学連の呼びかけが出され、学生の中でそれが討論されてくるに及んでこの日、新三派連合も革マル派も構造改革派も含めて連合して、「原潜阻止全国学生連絡会議」を結成した。この流れで全学連再建が議題に取り上げられたが、革マル派が拒否し、新三派は即時全学連再建を主張した。構造改革派はこの時も諸潮流の統一を主張したが、さんざん野次られた挙げ句暴力的に発言を阻止された。「新三派連合による全学連再建運動の混迷」が続くことになる。
【日共第9回党大会の民青同系学生運動指示】

 11月、日共の第9回党大会が開催され、民青同系学生運動に対し次のような指針を与えている。

 「学生大衆との結びつきを強め、反共分裂主義者と有効に闘い、機の熟しつつある学生運動の組織的統一を成功させるように援助しなければならない」。
 「学生運動が、全人民的政治課題に積極的に取り組むと共に、学生の生活上、勉学上の要求、文化、スポーツなどの要求にも十分な注意を払い、広範な学生を結集しつつ民族民主統一戦線の一翼として発展するよう、努力しなければならない」。

 これが、次のように確認されている。
 「こうして、共産党と民青同盟は、学生運動それ自体の発展のために闘いつつ、学生の多面的な要求に基づく闘いを先頭に立って進め、さらに学生が将来も民主的、進歩的インテリゲンチァとして成長していけるように、長期的観点に立った指導を学生党員、同盟員に対して行なった。また、1960年、61年のトロツキスト、修正主義者との闘いの教訓に学んで、労働者規律と理論学習を強めていった」。

【民青同系全学連の誕生】
 12.10−11日、民青系全学連が「再建」された。全自連→全学連再建準備協議→構造改革派の分離→平民学連→全学連の「再建」という流れで辿り着いた。この夜、平民学連は第7回全国代表者会議を開き解散を決議した。こうして、革マル派全学連に続いて二つ目の全学連が出現することとなった。71大学129自治会から代議員276名、評議員182名が参加していた。民青同系全学連は順調に発展し、66.7月には全国の大学自治会の過半数(84大学・189自治会)を結集した。68.2月には国際学連の代表権を革マル派全学連から奪い取ることになる。

 川上徹・氏の「学生運動」は、この流れを次のように自画自賛している。
 「(この民主的学生運動こそ)戦前、戦後の進歩的、民主的学生運動の伝統を引き継ぐものであり、現代の学生運動の真の代表であり、かつ、祖国の独立と平和、民主主義を望む幾百千万の勤労人民の良き息子であり、娘である」。

【新三派連合による都学連再建の動き】

 12.18−19日、ブント、中核派らが中心になって東京都学生自治会連合(「都学連」)再建準備大会が明大で開催された。都学連は1949(昭和24).9月に結成され、学生運動を推進する上で大きな役割を果たしてきていたが、全学連の分裂と共に都学連も分裂していた。学生運動の主導権を握るために都学連の再建が課題となりつつあった。

 28自治会、代議員96名、全都活動家258名が参加し、65.7月の都学連再建のための準備委員会(議長・山本浩司)を発足させた。京都府学連がこれに提携し、全学連再建の動きが加速した。これに反対する革マル派が二日目の途中から退場し、構造改革派は代表を送らなかった。

 
この時の再建派の心情が次のように語られている。

 「いわゆる『安保後』といわれた分裂と危機の時代から、統一と発展に抜け出る過程に我々は居る。その過程では、安保全学連を乗り越えるための闘いで、いくつかの異なった立脚点が提起されている。それが一つになり、全学連運動を支えるまでには、あと何年かの年月が必要であろう。

 だが、そのことは全学連も又その時まで再建しなくても良い、とか、出来ない、という考え方を何ら意味しないであろう。全学連は一つの溶鉱炉て゛ある。異なった見解も、全学連としての闘いをいかに押し進めていくのか、についての論理と、現実の闘いそのものを薦めていく中で、止揚しなければならないのだ。現実の階級闘争の要請に応えることなくして、いかなる論理も実りあるものとはいえない云々」。

 12.20−21日、全国自治会代表者会議が明大で開催された。全学連規約に基づく174代議員とオブザーバー4百名が参加し、学生運動の統一推進について討議した。全学連即時再建を主張する中核系と、「当面は原潜阻止・日韓会談反対全国学生共闘を発展させるべし」と時期尚早論を主張する関西社学同、構改系の意見が対立し一致を見なかった。

 これより後は、「7期その1、全学連の転回点到来 」に記す。



(私論.私見)