1964年 | 全学連運動史第6期その3
新三派連合結成、民青系全学連の「再建」 |
更新日/2022(平成31.5.1栄和改元/栄和4)年.4.7日
これより前は、「」に記す。
(れんだいこのショートメッセージ) |
全学連の全的統一を目指した構造改革派が抜け落ち、社学同再建派・社青同・中核派の新三派連合が誕生する。こうして、学生運動内部にはマル学同と民青同と新三派連合系という三大潮流が生まれ、その他に構造改革派系・「日本の声−民学同」派系・革共同関西派系等々という様々な支流が立ち現れることになった。この間旧ブント系の対立は治まらず合同−再分裂と目まぐるしく推移しつつ二度と求心力を持てなかった。この間の主要な動きについて見ておくことにする。当時の政治状況については「戦後政治史検証」の「1964年通期」に記す。 |
1.11−12日、全学連第三十六回中央委〔渋谷本町会館・高円寺会館〕、従来の活動方針を全面的に自己批判、日韓会談粉砕・原潜寄港阻止・中国核実験反対の方針等を決定。
1.17日、全学連主流派(中核派)、日韓会談粉砕・原潜寄港阻止全都学生総決起集会〔清水谷公園〕、六十名参加、のち日比谷公園までデモ。
1.24日、日韓会談反対都学連集会〔芝公園〕、社学同系・中核派系四百名参加、のち新橋土橋までデモ。
2.1日、日韓会談粉砕・FlO5配備反対全都学生決起集会〔清水谷公園〕に中核派系百名参加、のち日比谷公園までデモ。
2.6−11日、社青同第四回全国大会〔国労会館〕、梼改派にかわり協会派・解放派が執行部掌握、階級闘争路線を確立。
【東京社学同、マル戦派とML派に分裂】 |
2.12日、東京社学同が、10.31東大教養ストをめぐり、マル線派、ML派、独立派、関西派に分裂する。マルクス主義戦線派(マル線派)は、「岩田世界資本主義論」を掲げた岩田弘をイデオローグとして始発することになる。マルクス・レーニン主義派(ML派)は、2.15日、社学同内ML派の理論機関紙「マルクス.レーニン主義」第2号で猪雪彦の「帝国主義列強の抗争の新局面−日韓闘争と革命闘争の勝利の為に」論文を発表し、理論的基礎とする。 |
2.20日、平民学連・東京沖縄学生会・民青同東京都委共催・クイック・リリース作戦反対・キャラウェイ高等弁務官来訪抗議全都青年学生集会〔清水谷公園〕に百名参加、のちデモ。
2.25日、社学同・マル学同中核派、日韓会談粉砕の統一行動に350名参加〔清水谷公園〕。のち日比谷公園までデモ。
3月、平民学連主催の第1回全国学生文化会議開催。150大学、1810名が参加。
3.20日、マル学同中核派・社学同、韓国特使金鐘泌の来日に反対、羽田で実力阻止闘争に350名警官と激突、十名逮捕・負傷者多数。
3.21日、共産同マル戦派結成。
3.21−22日、マルクス主義戦線委員会、共産同再建大会開催、共産同マル戦派発足(6月19日機関紙「黎明」創刊)。
3.22日、平民学連第三回全国代表者会議〔東京〕、日韓会談反対・日中国交回復要求を中心とする運動方針決定。
【「新三派(社学同、社青同、中核派)連合」結成】 |
3.25日、社学同、社青同、中核派が全国学生自治会代表者会議を開催〔明大和泉〕し、新三派連合が確立された。五十二大学三百五十名参加、全学連再建問題を討議、韓国学生の日韓会談反対闘争支持アピール採択。 |
【「4.17ゼネストが日共の反動的立ち回りで分解する】 |
この年総評・公労協は全年来からの長期的な計画と準備の下に大幅賃上げ要求を掲げ、4.17日全国半日ゼネストを計画していた。90万以上を結集する交通運輸共闘会議(国鉄労組を始めとする私鉄・都市交通・全自交など)を芯にして公労協・金属労協等公・民を網羅する600(250万とも)万人のゼネスト計画であった。その規模と影響力から見て47年の「2.1ゼネスト」計画に匹敵またはこれを上回る戦後空前のストとなる筈であった。4.2日、総評は、太田薫議長.岩井章事務局長の布陣の下で決起大会的な意味を持つ第25回臨時大会を開き、最大のヤマ場を目前にして闘争態勢を堅め直した。「太田ラッパ」が鳴響いた。 この息詰まるようなせっぱ詰まった状況の中、日共は突如4.9日付アカハタ(「4.8声明」)で、責任主体を記さない単に「日本共産党」の名義のままの幹部会でも中央委員会名でもない声明文「全民主勢力と団結し、挑発を排して、頑強に、ねばり強く戦い抜こう−春闘を闘う全労働者に訴える」という論文を掲載し、4.17ゼネストに対する警戒を指示した。 声明文は、春闘を支持するといいつつ、「4.17半日ストの方針には『深い憂慮をしないわけにはゆきません』」、「総決起は危険でありその方針を再検討せよ」と提議していた。 この声明は、ゼネストに向けて態勢の準備と確立に余念がなかった多くの組合幹部・活動家を憤激させた。総評事務局長岩井は、直ちに談話を発表し、「統一闘争の態勢を分裂させる者であり、階級政党として根本的に誤った態度である」と非難した。社会党の河上委員長は、4.17ストを断固支持するとし、共産党の態度を「労働者の気持ちを無視したやり方」と非難した。 にもかかわらず、日共は、次々と同様指示を飛ばし続け、次第にスト反対を打ち出していった。労働戦線は大いに混乱し、4.17ストは挫折させられることとなった。公労協を始めとする総評は、日共に対し「組合破壊分子」.「スト破り」という一斉攻撃を浴びせることになった。(これについては「4.17スト問題について」で更に検証する) |
4.18日、中核・社学同マル戦派系二百名、日韓・新暴力法に反対して決起集会〔清水谷公園〕、国会デモに向うが規制され三名逮捕。
4.28日、マル学同中核派・社学同・社青同・構改派など日韓会談反対・新暴力法粉砕の統一行動〔芝児童公園〕に1000名がデモと坐り込み。京都府学連集会〔立命館大〕に四百名結集・デモ等全国動員二千名。
5.1日、第三十五回メーデー、反日共系各派千六百名は実行委の指示を無視して中部コース〔芝公園〕へ参加、国会前坐り込みに放水で排除さる、平民学連は北部コース〔飛鳥山公園〕に千三百名参加。
5.15日、都学連(三派系)、日韓会談粉砕・国会会期延長阻止統一行動、社学同ML派・社青同系二百名が清水谷公園に結集、のち外務省デモ。
【日本共産党(日本のこえ)結成政変】 |
5.15日、日共の志賀義雄衆院議員が、党議に反して部分的核実験停止条約の批准に賛成。その後除名。 |
6月、志賀が日共の参院議員鈴木市蔵と日本のこえ同志会を結成。日共正統派を標榜し、日共中央を批判。 |
11月、日共、第九回大会で志賀らを支持した中央委員神山茂夫、中野重治を除名。 |
12.2日、志賀、鈴木ら以上4名で日本共産党(日本のこえ)結成。 |
5.20日、全学連・都学連(三派系)全国統一行動、中央集会〔日比谷公園〕に革マル派・中核派・社学同マル戦派系千名参加、のち清水谷公園までデモ。
5.22日、平民学連、日韓会談粉砕・日中国交回復全国統一行動、集会〔清水谷公園〕に千二百名参加・デモ。
5.29日、反日共系各派全国統一行動、東京では千五百名が清水谷公園に結集、のち外務省デモで機動隊と衝突、四名逮捕・数十名負傷、京都府学連千五百名、集会〔同志社大〕・デモ、大阪府学連千名、集会〔扇町公園〕・デモ。
5−6月、自治会選挙では、平民学連が全国規模で進出した。
6月、全寮連が民青系執行部を選出した。
6.4日、中核派、韓国学生デモ支援集会〔法政大〕、四百名参加し在日韓国代表部に抗議デモ、機動隊と衝突・五名逮捕。
6.6−7日、平民学連第四回全国代表者会議、七十大学三百名参加、日韓間争強化・七月学生集会(平民学連第二回全国大会)開催等を決定。
6.13日、新三派連合により「統一都自代」が開かれ〔東大教養〕、ここで都学連再建が確認され、更に全学連の再建を目標とすることが協議された。都内十一大学二十自治会代表・十八大学活動家有志参加、七月都学連再建・再建都学連と京都府学連を中心に全学連再建を確認。
6.16日、青年学生団体代表者会議(民青同・平民学連等三十八団体)主催・南朝鮮青年学生の反米愛国闘争支援・日韓会談粉砕青年学生総決起集会〔日比谷野音〕、民青五千名・平民学連千五百名参加、のち国会請願デモ。
6.19日、憲法改悪阻止・日韓会談粉砕全国統一行動。
6.19日、三派連合・構政派、日韓会談粉砕・改憲阻止全国統一行動、全都学生総決起集会〔日比谷野音〕に二千五百名結集、デモで四名逮捕、京都・大阪・兵庫三府県学連の全関西学生総決起大会〔円山公園〕に五千名参加、デモで十五名逮捕、その他九州学連〔福岡〕等全国各地で集会・デモ。
6.24日、三派連合・構政派、改憲阻止全国統一行動、京都府学連千二百名、集会〔同志社大〕・デモ、一名逮捕、大阪府学連六百名、集会〔大手前公園〕・デモ、護憲連合の府民集会に合流。
6.27日、平民学連第五回全国代表者会議〔豊島公会堂〕、全学連の年内再建を決議。
【四派連合が早大革マル派へ殴りこみ「7.2事件」】 | ||
7.2日、翌日に予定された憲法調査会の答申に対する反対デモの計画を練るため早大構内に集まっていた革マル派約80名に対して、中核派.社学同.社青同.構改派(フロント)各派の連合勢力約100名が、ヘルメットに身を固め、棍棒と石をもって夜襲の殴りこみをかけた。3時間の激闘が展開された。これを「7.2事件」という。 早稲田大学一文学部の自治会権力をめぐる争いが原因となっていた。奥浩平氏の「青春の墓標」で次のように明らかにされている。
そうした状況の中で、自治会自治委員選挙が行われ、「フロント(構造改革派)の諸君が、一文の学生委員を圧倒的に固めた」。フロント40〜50名、M戦(社学同)15名、Y派(革マル派)15〜25名という内訳となった。形勢不利な革マル派は、委員総会を「正当な委員だけで開かねばならない」という口実で自派だけで開いて切り抜けようとしていた。フロントは各派に支援を要請し、中核派その他がこの要請に応じ、一文自治会再建目指してオルグ団を派遣した。しかし、革マル派はこれら活動家に対する公然テロを開始した。7.2日夜、中核派.社学同.社青同.構改派(フロント)各派の連合勢力が、「徹底的自己批判を迫る」ことを決意し乗り込んだ、という経過であった。 奥浩平氏は、「青春の墓標」で次のように記している。
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7.3日、三派連合・構政派、改憲阻止全国統一行動、憲法調査会の最終答申に抗議して決起集会〔清水谷公園〕、革マル派も合流し五派九百名が結集、調査会〔虎ノ門〕前坐り込みで五名逮捕、京都府学連集会〔同志社大〕に六百名結集・デモ。
7.10日、革マル派全学連第21回大会開催。
7.10−13日、全学連第二十一回全国大会(委員長・根本仁)、七・二事件に対する抗議決議採択、八・六反戦集会・学生戦線統一等を決議。
7.11日、三派連合、都学連再建準備大会〔練馬公民館〕、東大教養・法大一経・早大一政・明大中執で準備校会議を構成、十月中旬に準備校会議と都学連執行委共同招請による再建第二回大会開催等を決定。
【「平民学連」が全学連再建アピール】 |
7.18−20日、第2回平民学連学生集会が開催された〔台東体育館〕。三千八百名参加、全学連の年内再建を決議、アピール発表。。現在時点で、平民学連に結集ないし、民主化している自治会224・マル 学同27・社学同22・社青同21・構造改革派38という力関係になった。占有率67%ということになる。民青同系が急速に支持を増やしていることが知れる。この頃、共産党内で志賀グループが造反したが、学生党員の中に動揺はおこらなかった。京大と中央大の学生細胞の一部が呼応した。平民学連は、いよいよ全学連の再建が具体的日程に上ってきている段階と位置づけた。9月初め「全学連を再建しよう」という「全国学友への呼びかけ」 発表。 |
7.30−31日、全学連主流派全国大会〔京都民政会館〕、中核派系二百五十名参加、十月都学連・十二月全学連再建を決議。
【トンキン湾事件勃発】 |
8.2、4日、トンキン湾事件勃発。北ベトナムの魚雷艇3隻が、米国海軍駆逐艦マドックスが北ベトナム領海を侵犯したとして攻撃したと発表した(1971.6月、8.4日の北ベトナムの再攻撃はでっち上げとの米国防総省の秘密文書が暴露される)。 8.5日、米国海軍機が報復として北ベトナム海軍の魚雷艇基地を爆撃。8.7日、アメリカの上下両院が、「東南アジア於ける行動に関する議会決議」いわゆる「トンキン湾決議」を採択し、ジョンソン大統領に戦争権限を与えた。 |
8.2日、日韓会談粉砕・憲法改悪阻止全国労働者学生反戦集会〔大阪・国民会議〕、関西共産同・共産同・共産同マル戦派・革共同全国委・革共同革マル派・第四インター日本支部・国際主義青年共産同盟・マル青労同・社青同学協・京都府学連・全電通労研・三菱長船社研の共催で千六百名参加。
8.28日、原潜寄港抗議集会〔明大〕に中核・革マル・MLの各派百名結集、米大使館デモに向かい警官隊と衝突、マル戦派三十名ほ社会党議員団とともに首相官邸に抗議デモ、のち他派と合流し外務省にデモ。
8.29−30日、社革全国学生会議、教育大・中大二部等六十名参加、構改諸派の統一行動強化方針を決議。
9.1−2日、全学連第三十八回中央委〔中央区新富町区民館〕、他派との統一行動の積極的推進を決定。
9.3日、原潜寄港反対・ベトナム侵略反対全都学生集会〔清水谷公園〕、ML派・構政派百五十名参加、日比谷公園までデモ、社会党・総評の統一集会参加の社青同・中核・マル戦と合流、三百二十名参加。
【中核派・ブント・社青同は、新三派連合を結成】 |
9.7−8日、中核派・ブント・社青同は、新三派連合を結成した。だが、この新三派連合結成後まもなくブントの内部対立が生じた。特に平民学連に対抗するためにも、従来の政治闘争主義に対する自己批判が必要とする少数派(マ ルクス主義戦線派=マル戦派.独立社学同)と、そうした観点に反発する多数派(マルクス・レーニン主義は=ML派)とに分裂して、ブントの勢力は急速に衰えていった。 |
9.8日、米原潜寄港阻止、アメリカのインドシナ侵略抗議、安保共闘再開要求の総決起大会。1200名の隊列を組んで参加。
9.8−9日、平民学連第六回全国代表者会議〔国労会館〕、全学連再建のための世話人会″を選出。
9.9日、民学同第三回大会、組織の全国化をはかる。
9.15日、原潜寄港阻止全国学生統一行動、都決起集会〔清水谷公園〕に平民学連系を除く各派千名結集、のち日比谷公園までデモ、外務省へ抗議に向かおうとして機動隊と衝突、六名逮捕。
9.27日、社会党・総評系の原潜寄港阻止東日本集会〔横須賀〕に反日共系各派二千名結集、基地ゲート前で機動隊と衝突、西日本集会〔佐世保〕に九州学連、京都・大阪府学連、兵庫県学連など参加。
10.3日、新三派連合は、「全学連再建準備全国学生集会」を開 いた。これに先立って中核派は、都学連再建を企図したが、革マル派の妨害で失敗した。
10.7日、全国地方学連代表者会議〔立命大〕、都学連・京都府学連・大阪府学連・兵庫県学連・九州学連が参加、原潜寄港阻止連絡会議結成を申合わせ、準備のため東大・京大・大阪大・神戸大・九大の五校を幹事校に選出。
10.10日、アジア初となる第18回オリンピック東京大会が開催した。参加94か国、参加選手5541名であった。開会式のテレビ視聴率は85%にのぼった。オリンピックで、日本は堂々とした戦後復興ぶりを世界に示した。日本は16個の金メダルを獲得した。この年の日本の実質経済成長率は12.5%で、戦後日本の復興を象徴する国家的イベントとなった。
10.16日、反日共系各派、社会党・総評主催の原潜寄港阻止全国統一行動に各地で参加、中央集会〔日比谷野音〕に千五百名結集、デモで十名逮捕。
10.17日、中国核実験緊急抗議行動、革マル派中心に二百名が新橋ステージ前に結集、華僑総会に向かうも機動隊に阻止さる、根本全学連番員長ら六名逮捕。
【民青系が全自代開催】 |
10.17−18日、民青系が全自代開催。正式参加自治会150、オブザーバー自治会35、その他個人オブザ ーバー35名が参加した。川上徹が委員長に選出される。全学連再建のための基準提案が決議された。1・過去のいきさつに関わらず、2・無条件で、3・全ての学生自治会が参加でき、4・全学連規約に従って、再建大会を開催しよう。提案は、賛成128・反対14・
保留4で可決された。 この時反対派の様子が明らかにされていないが、構造改革派とこの頃誕生していた志賀グループの「日本の声−民学同」派の影響下の学生グループであったようである。彼らは、民青同系全学連を新たに創る方向に向かうのではなく、諸潮流との統一を主張し、急進主義者む(トロツキスト)を含めた統一を模索するべきであり、その根回しのないままの全学連再建は時期尚早であるという全学連再建時期尚早論を主張したようである。川上徹著「学生運動」では、「それは惨めな失敗に終わった」とある。 |
【全学連再建の動き】 |
10.19日、平民学連の呼びかけが出され、学生の中でそれが討論されてくるに及んで、新三派連合も革マル派も構造改革派も含めて連合して「原潜阻止全国学生連絡会議」を結成した。この流れで全学連再建が議題に取り上げられたが、革マル派は一切の全学連再建は認めないという立場に固執し、新三派は自分たちだけでも即時全学連再建を主張した。構造改革派は、この時も諸潮流の統一を主張したようであるが、さんざん野次られた挙げ句暴力的に発言を阻止された。 |
10.19日、反日共系各派、全国自治会代表者会議開催〔葛井公会堂〕、原潜寄港阻止連絡会議を結成、一〇・二九全国統一行動を決定。
10.29日、原潜寄港阻止連絡会議、原潜寄港阻止全国統一行動、全国各地で二万名がスト・授業放棄で集会・デモに参加、中央決起集会〔清水谷公園〕に三千名参加、大蔵省前坐り込みで十一名逮捕。
【党中央が、民主連合政府構想を発表】 | |
11月、日共第9回党大会が開催され、民主連合政府構想が発表された。この大会で党は、「学生大衆との結びつきを強め、反共分裂主義者と有効に闘い、機の熟しつつある学生運動の組織的統一を成功させるように援助しなければならない」と述べ、「学生運動が、全人民的政治課題に積極的に取り組むと共に、学生の生活上、勉学上の要求、文化、スポーツなどの要求にも十分な注意を払い、広範な学生を結集しつつ民族民主統一戦線の一翼として発展するよう、努力しなければならない」と強調した。
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11.2日、日共系の原潜寄港阻止統一行動、中央集会〔日比谷野音〕に平民学連二千五百名参加・デモ。
11.5日、原潜寄港阻止連絡会議、緊急抗議行動、日比谷野音に千百名結集・デモで六名逮捕。
11.6日、安保破棄神奈川県実行委(日共系)呼びかけの横須賀大集会〔臨海公園〕に平民学連千六百名参加。
11.7日、社会党・総評系の東日本決起集会〔横須賀〕に反日共系各派三千名結集、米軍基地ゲート前で機動隊と激突、三十一名逮捕・百数十名負傷。
11.9日、原潜寄港阻止連絡会議、全都学生決起集会〔清水谷公園〕 に千六百名結集、デモで九名逮捕。
11.11日、社会党・総評統一行動、中央集会〔日比谷野音〕に反日共系各派千五百名参加、国会デモで機動隊と衝突、衆院議面前で坐り込み・七名逮描。
11.12日、新3派連合が原潜寄港阻止全国緊急行動。原潜入港に全国で緊急抗議行動、全都緊急抗議集会〔日比谷野音〕に二千名結集、外務省への無届デモで三名逮捕。
11.13日、原潜寄港阻止連絡会議、全国統一行動で六千三百名を動員、中央集会〔三河台公園〕に千五百名結集、米大使館へ向かおうとして機動隊と衝突・十名逮捕、佐世保派遣の大阪・京都府学連二百名、集会の後、基地突入をはかり機動隊と衝突、平民学連全都統一行動〔清水谷公園〕に四千五百名参加。
11.14日、社会党・総評系の原潜寄港阻止集会〔清水谷公園〕 に社青同系学生五百名参加、国会請願デモ、同二波〔日比谷野音〕に中核・マル戦系四百名参加、夜三波〔日比谷野音〕に構改系二百五十名参加。
11.15−17日、社青同第五回全国大会〔社会文化会館〕、階級闘争路線の堅持等を決定。
11.18日、都学連再建準備会。
11.19日、原潜寄港阻止連絡会議、全都統一行動〔清水谷公園〕 に二千名結集、のちデモ、九名逮捕。
11.27日、平民学連と全学連再建委員会は共催で、原潜寄港反対、日韓条約反対と学生の諸要求を掲げて、東京で7000名の参加する集会とデモを行った。
11.27日、原潜寄港阻止連絡会議、全都総決起集会〔日比谷野音〕に千五百名参加、集会直後機動隊が介入、四名逮捕、平民学連等十二団体主催の原潜寄措反対中央集会〔宮下公園〕に千五百名参加デモ。
【民青同系全学連の誕生】 |
12.10−11日、民学達第七回全国代表者会議で、民青系全学連が「再建」された。全自連→全学連再建準備 協議→構造改革派の分離→平民学連→全学連の「再建」という流れで辿り着いた。この夜平民学連は第7回全国代表者会議を開き解散を決議した。こうし
て、革マル派全学連に続いて二つの全学連が出現することとなった。71大学、129自治会から代議員276名、評議員182名。 この全学連は順調に発展 し、66年7月には全国の大学自治会の過半数(84大学・189自治会)を結集した。68年2月には国際学連の代表権を回復させた。「(この民主的学生運動こそ)戦前、戦後の進歩的、民主的学生運動の伝統を引き継ぐものであ り、現代の学生運動の真の代表であり、かつ、祖国の独立と平和、民主主義を望む幾百千万の勤労人民の良き息子であり、娘である」(川上徹「学生運動」)とある。その主張は、全学連の課題として、独立、平和、民主主義と生活向上の為に闘い、全学連が統一戦線の一翼となり、教職員と連帯して幅広い統一戦線を結成するという「社会党、共産党の団結を中心に、全ての民主団体、各層人民が統一することは私達学生にとっても切実な要求であり、このために闘わなければなりません」を指針させていた。 |
11.11−13日、全学連(民青同系)再建第十五回臨時全国大会(委員長・川上徹)、全国七十一大学百二十九自治会二百七十六代議員出席、二日目全学連再建宣言″採択、新執行部を選出。
【都学連再建の動き】 | |
東京都学生自治会連合(都学連)は1949(昭和24).9月に結成され、学生運動を推進する上で大きな役割を果たしてきていたが、全学連の分裂と共に都学連も分裂していた。学生運動の主導権を握るために都学連の再建が課題となりつつあった。 12.18−19日、新三派連合による都学連再建準備大会が開催された〔明大〕。28自治会代議員96名・全都活動家258名参加。65.7月をきして都学連再建大会を開くことを決定した。京都府学連がこれに提携し、全学連再建の動きが加速した。 この時の再建派の心情が次のように語られている。
12.20−21日、全国自治会代表者会議〔明大〕、全学連規約に基づく百七十四代議員とオブザーバー四百名参加、学生運動の統一推進について討議、全学連即時再建を主張する中核系と原潜阻止・日韓会談反対全国学生共闘を発展させる″という関西社学同・構改系の意見対立、一致を見ず。 |
1956年に「日本の学生運動」で勇ましく理論を掲げた広松は、その後7年間、表だった言説を発表せず沈黙を守っている。その間、同書の絶版要求をされた際、事態に収拾をつけるために広松は共産党を脱退している。1958.12.10日、安保闘争を領導することになる共産主義者同盟(ブント)が結成されるが、広松は参加を見合わせている。熊野純彦によれば、「ただ、まちがいなく推測しうることがらとしては、広松は五十八年時点では、共産党の党内闘争をなお継続する可能性の側に、運動としての正統性をみとめていたであろうことが挙げられる」。と云う。1960年の安保闘争当時には、広松は全学連主流派と行動をともにしながら、ブント系の研究会「理論集団」に参加している。次に広松が言説を発表するのは、1963.11.20日の「学生運動の現在に思う討論会を司会して」(東京大学新聞)であり、十数回の連載「学生運動の軌跡」に寄稿している。その後、「学生運動の軌跡」で編集部からの要望を受け、“隠遁”した理由を次のように述べている。
19644年に社会主義研究会名義で匿名出版した「現代資本主義論への一視角」末尾でこう述べている。
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10月1日、東京、大阪間を3時間10分でむすぶ最高時速200キロの東海道新幹線が開通した。翌65年には名神高速道路が開通する。
10月10日、第18回オリンピック東京大会がアジアで初の開催となった。参加94か国、参加選手5,541人。開会式のテレビ視聴率は85%にのぼり、日本中が沸きかえった。日本はオリンピックで堂々とした戦後復興ぶりを世界に示した。東京オリンピックには、1兆円の予算が新幹線、地下鉄、高速道路などの建設につかわれた。「オリンピック景気」は24か月続く。
この年5月、平凡パンチが創刊される。
65年11月、日本テレビに「11PM」が登場し気番組になる。
これより後は、「第7期その1、全学連の転回点到来」に記す。
(私論.私見)