14章 戦後学生運動7期その1 1965(昭和40)−1966(昭和41)年
 全学連の転回点到来

 (最新見直し2008.9.11日)

 これより前は、「6期その4、新三派連合結成、民青系全学連の誕生」に記す。

 (れんだいこのショートメッセージ)
 ここで、1965(昭和40)年から1966(昭和41)年までの学生運動史を概括する。これを仮に「戦後学生運動7期その1、全学連の転回点到来概略」と命名する。詳論は「全学連の転回点到来」、概論は「全学連の転回点到来」に記し、ここでは枢要な事件を採り上げ解析する。全体の流れは、「戦後政治史検証」の該当年次に記す。



1965(昭和40)年から1966年(昭和41)年の全体としての政治運動
 この時代の政治闘争の枢要事を眺望しておく。学生運動史の予備知識として知っておく必要がある局面を抽出する。

 1965(昭和40).1月、中教審が「期待される人間像」草案を発表。社会規範や愛国心を強調する。
 2.1日、原水禁が結成され、「あらゆる国の核実験反対」を打ち出す。
 2.7日、米国がベトナム北爆開始。3月、米軍がダナンに上陸して地上戦に介入、全学連各派と反戦青年委共同による反戦闘争が激化した。北爆抗議、米原潜エンプラの横須賀寄港阻止が焦点となる。
 2月、自衛隊の三矢研究が暴露される。
 3.3日、宮顕書記長宅の電話引き込み線の盗聴器を摘発。3.4日、岩間正男議員が参議院法務委員会で事実を暴露、政府を糾弾。これについて、筆者はかく思う。これはヤラセか少なくとも公安当局では無い何者かの線として窺うべきだろう。
【べ平連発足】

 4.24日、ベ平連(ベトナムに平和を!市民文化団体連合)が初のデモ行進。 発起人は、小田実・開高健・掘田善衛・高橋和己・篠田正浩など。事務局長古川勇一氏。この頃から セクトの枠にとらわれない一般市民参加型の反戦運動が立ちあがっていくことになった。 

 これについて、筆者はかく思う。このベ平連運動は、今日から見て貴重なメッセージを発信していることが分かる。一つは、ベ平連が闘争課題を「ベトナムに平和を!」と明確にしたことにより、その後のベトナム反戦闘争の巨大なうねりを創出させる発信元となったというプロパガンダ性である。一つは、「セクトの枠にとらわれない」という運動論を創出したことである。ただし、この時点では、セクトが漸くセクト化を獲得しつつ成長していくという「正成長」の時期であったのでさほど評価されることなくベ平連もまたセクト的に立ち上げられていくことになったが、セクト運動が「負の遺産」を引きずり始めた後退期頃よりはかなり合理的な存在力を示しえた筈の見識であったと思われる。とはいえ、ベトナム戦争が終結すると共にベ平連も終息していくことになったのが惜しいと思う。結局もう一つの側面であった先進国特有の一般市民参加型運動の限界ということになるのであろう。しかしそれならそれで今からでも改良の余地は大いにあると私は考えている。


 こうしたベ平連運動創出の頃、社会党・総評系のそれ、共産党系のそれもまた折からの日韓闘争を絡めた統一行動を組織し始め、60年安保闘争以来の大衆運動が動き出していくこととなった。革マル派系、民青同系、新三派系それぞれも取り組みを強めていくことになった。中でも新三派系の動員力が強まり、常時3千名規模の抗議デモを獲得していくことになった。これまで数年の間数百名規模で推移していたことを考えれば様変わりとなった。


 4.10日、社青同学生解放派は、解放創刊号で、「社青同学生解放派結成宣言」。


 4月、社学同関西地方委員会が、「政治闘争、社会政治闘争−第三期学生運動論」を発表。


 6.9日、社会党系の「原潜阻止・全国実行委員会」と共産党系の「安保反対中央実行委員会」の一日共闘が成立し、民青系全学連は1万名結集。新三派系は昼夜で8千名が抗議デモ。


 6.22日、日韓会談が妥結し、日韓基本条約に調印する。賠償請求権については、無償3億ドル、有償2億ドルの政府借款と民間借款3億ドル以上の供与、竹島の領有権問題は棚上げ、という内容であった。日韓関係が正常化されたが、国内の野党勢力はこぞって反対し、社共は「議員総辞職を賭けて闘う」との強硬姿勢を打ち出したため国会審議は難航を極めた。「日韓国交正常化は、アメリカ帝国主義のお先棒を担ぐもので、中国や北朝鮮を敵視するものだ」がその反対趣旨であった。結局、自民党は衆院本会議で強行採決した。 
 9.17日、アカハタは、9.3日に中国共産党の各紙・誌に発表された林彪論文「人民戦争の勝利万歳」を全文掲載した。二週間後の掲載であったが、中ソ論争の最中であることを考えると、この時点までは明らかに中共寄りであったことが裏付けられる。
 9.30夜半、インドネシア共産党の一部勢力が、スカルの大統領の親衛隊大隊長ワトソン中佐と組み、陸軍の首脳を急襲、直ちに革命評議会を樹立し、共産党員を含む閣僚名簿を発表した。しかし、殺害を免れたナスチオンやスハルト陸軍戦略司令官が、陸軍部隊、降下部隊を指揮し、10.1日夜半には革命軍を制圧した。これを契機に、全土にわたって共産党弾圧が始まり、20万人以上以上の党員が虐殺された。インドネシア共産党中央委員会議長・アイジットも射殺された。ジャカルタラインが破壊された。
【日韓闘争】

 10.5日、臨時国会開会冒頭、「日韓条約批准反対総決起集会」を開き民青同系1万人の学生が参加した。日韓条約反対闘争では、安保反対国民会議が再開されず、社共の共同闘争もならず、全国的統一運動は組織されなかった。新三派系の労・学3千名が昼夜デモ。以降次第に数を増していき1〜2万名規模の闘争へと発展していく。この頃から機動隊のデモ規制が厳しくなり、デモ隊の両側をサンドイッチでジュラルミン盾を手に並進していくことになった。

 11.9日、日韓条約強行採決の暴挙に抗議して日韓闘争で初めて社.共共催の共闘方式が実施される。全国329カ所で23万人を動員する。一日共闘が実現し、18万人の大集会とデモ。民青同系1万5千名が結集した。新三派系も連日万余の数で国会デモを展開した。


【「毛沢東・宮顕会談」】
 1966(昭和41).2.9−4.4日、日共の党代表団(団長・宮顕、副団長・岡正芳、団員・蔵原、米原、上田、不破、工藤)が中国、北ベトナム、北朝鮮の訪問を終えて帰国した。この時の「毛沢東・宮本会談」の一部が漏洩されているが、毛沢東の武装革命理論に宮顕が辟易させられ、青くなって逃げるように帰国したと伝えられている。

 この時の日中共産党の対立は反帝国統一戦線問題を廻る対応差にあった。日共がソ連も含めた反帝運動の必要を主張したのに対し、中共は「反米.反ソ統一戦線」でなければならぬと主張した。この問題で深刻な対立が生じることになった。もう一つは、日共の国内での革命の進め方に対する中共側からの批判が為されたことにあった。中共は、議会闘争過評価し、合法的平和的闘争を志向する日共路線を修正主義だと断じて批判した。

【中国で文化大革命発動】
 この頃、中共は文化大革命路線を発動している。以後、日共は自主独立路線工作を強力に推進するようになる。他方、中共は、「アメリカ帝国主義.ソ連社会帝国主義.日本の反動勢力.宮本修正主義集団を打倒せよ」という「四つの敵論」を唱え始め、両党は長年の友好関係から不倶戴天の仇敵関係となった。

 7.4日、政府が突然、新東京国際空港り建設地を、千葉県成田市三里塚と隣接する芝山町に閣議決定する。当初1965.11月に富里に内定していたが、地元住民の反対に遭い変更された。三里塚の住民には事前に何の打診、事前説明、協議も無いままの発表となった。7.20日、閣議決定と同時に、地元の約千戸3千名の農民・住民によって「三里塚・芝山連合新東京国際空港反対同盟」(委員長・戸村一作)が結成された。これが後に成田闘争へと繋がることになる。


 7月末、第12回原水禁世界大会が東京で開催された。この年、中国代表団が日本政府から入国を拒否され、周恩来首相のメッセージのみとなった。ところが大会途中でソ連代表が大会参加を申し込み、これを原水協が承認したことにより、中共の意向を汲んだ外国代表が激しく反発し、この参加問題で二日間激論が交わされ、マレーシア・オーストラリアなど15カ国代表が「分裂主義者の参加を認めない」として退場した。中国は、この退場グループを北京に召集する一方、日本原水協を「ソ連修正主義と結託し、誤まった路線を押し付けた」と強く非難した。これに対し、日共は、赤旗紙上で中国側非難を展開した。大衆団体を舞台にした日中共産党間の代理戦争であり、やがて本格的な両党間の対立抗争に発展していくことになる。 
 8.27日、6中総が開かれ、第10回党大会への報告案を廻って、中共派の中央委員西沢隆二が反対し、西沢は「毛沢東思想」を創刊して宮顕指導部批判に乗り出していくことになった。この頃、原田長司(中央機関紙編集委員)、福田正義らが「日本共産党山口県委員会(日共山口左派)」を結成し、、機関紙「長周新聞」を創刊した。全国の親中国系党員に対して同派への結集を呼びかけた結果、67年中に愛知、大阪、兵庫、福岡、佐賀など八府県で同派組織が結成された。既に10数年前に除名された志田グループの解放戦線派も中共的立場から宮顕指導部に対する批判活動を強めていった。
 日共は、第10回党大会を前後して、中央委員の西沢隆二(ぬやまひろし、故徳田球一書記長の女婿)、中央書記局員の安斎庫治、福田正義ら親中国系分子多数の除名処分を行った。なお、この波紋は、当然のことながら日中友好団体、商社などにまで及んだ。こうして、構造改革系の春日(庄)派、親ソ系の志賀派、神山派に続いて親中派諸派が放逐されることになった。結果的に、「50年分裂」時代の旧国際派のうち宮顕派のみが勝ち残ることになり、宮顕独裁体制が完了した。以降、日共内に語るに足りる路線対立は発生せず、宮顕派内の茶坊主間の内紛のみが椿事として勃発していくことになる。これが日共史の流れであることを踏まえる必要がある。
 10月、「日本中国友好協会」が設立される。これは従来の「日中友好協会」から、宮顕の指示により宮顕指導に服する党員を脱退させ設立されたほぼ同名の新団体であった。当然この二団体は激しく対立していくことになり、以降、「日中友好協会」は紛らわしさを避ける為、「日中友好協会(正統)」と称することとなった。 10.2日、北京で、日共党員両派に分かれ、暴力事件が続出し、日共党中央は、中共支持派を除名した。
【日共第10回党大会】
 10.24−30日、日共は、第10回党大会を開く。10.26日会場への盗聴器摘発。10.27日、政府などに抗議。中共派は代議員から排除された。 大会は、自主独立路線の基本方向を確認し、「30万人に近い党員と、百数十万の機関紙読者を持つ、党の歴史の上で、最大の勢力となることができました」と勝利宣言した。

 この大会で、それまでの中央統制監査委員会を中央監査委員会と中央統制委員会に二分割し、中央監査委員会はこれを大会選出、中央統制委員会は、これを中央委員会の任命とした。従来大会選出であった統制委員会委員の選出が中央委員会の任命制と規約改定された。宮顕党中央の党の私物化体制への道を更に切り開いたことになる。宮顕−袴田体制の継続となった。


 10.25日、第10回党大会の最中、日中友好協会、AA連帯委員会、AA作家会議、日本ジャーナリスト会議、日中貿易促進会などの大衆組織が、日共派と中共派に相次いで分裂した。

 11.12日、「社革新」と「日本の声」 派が合同し、「共産主義労働者党(共労党)」を結成した。議長に内藤知周、書記長にいいだもも氏が選出される。党内には、多様な考えが共存するユニークな「前衛党」であったが、構造改革路線を支持する者が多数であったため、外部からは「構造改革路線の党」と目されていた。



【この時期の学生運動の流れ】
 この時代の学生運動の枢要事を眺望しておく。  

 60年安保闘争以降低迷していた全学連運動が、1965年を迎えて俄かに活性化し始め明らかに転回点到来となった。この期の特徴は、もはや三方向に分化した学生運動の統一機運を最終的に破産させ、学生運動が党派的に新たな出発をしていくことを明確にさせたことに認められる。この頃から大学紛争が始まり、1969年のピークまで連続的に相次ぐ。折からベトナム戦争のキナ臭さが立ち込め始めており、社青同解放派が結成され、べ平連、反戦青年委員会が立ち上がり学生運動と合従連衡する。

 中国で文化大革命が始まり紅衛兵が機運を盛り上げる。日共と中国共産党との亀裂に伴い毛沢東思想の実践を強く主張する親中共系の日共左派系グループが登場し始め、学生運動内にも影響を与えていくことになった。この間ベトナム戦争がエスカレートしていく一方で世界的に反戦闘争の気運が高まり、この影響も加わってわが国の学生運動を一層加熱させていくこととなった。

 日本型紅衛兵運動とも云うべきこの当時の学生運動は、大雑把に見て「五流派」と「その他系」から成り立つ百家争鳴期に入った。「五流派」とは、組織の大きさ順に民青同派、中核派、革マル派、社青同、第二次ブントを云う。「その他系」とは、ベ平連系、構造改革派系諸派、毛派系諸派、日本の声派民学同系、アナキスト系諸派の他ノンセクト・ラジカル等々を云う。これらが混在し70年安保闘争へ向けて競り上げていくことになる。

【大学紛争続発化】
 1965年頃より学費値上げ反対を主因とする大学紛争が勃発し始めた。この背景は次のように考えられる。自民党政府の教育行政政策は、この時期増大し続けるベビーブーマーの大学生化に対して有効な受け入れ対策を為し得ず、私学が受け皿になった。一方で、戦後直後の社会的合意でもあった「大学の自治」に対するお得意の官僚的統制を進めつつあった。「アメリカさんから頂いたものは日本の風土に合わぬ」というばかりの逆コースへシフト替えしつつあった。私学経営者は、「大量入学→マスプロ教育→設備投資→借入金増→学費値上げ→大量入学」という悪循環に陥っていくことになった。自民党政府によるこうした切り詰め教育政策の他方で、財政投融資をはじめ軍事費政策にはどんどん予算を投入しつつあった。

【慶応大学が授業料値上げ反対で初の全学無期限スト突入】

 1965(昭和40).1月、慶応大学で授業料値上げ反対闘争が勃発した。一挙に3倍近い学費値上げが慶応大生を立ち上がらせることになった。1.30日、「初の」全学無期限スト突入。2.5日終結したが、これが学費闘争の先駆けとなった。この経過には高村塾長の「現在の学生に対する値上げではない。お前達には関係無い」という論理での強権的な遣り方が憤激を促したようである。


 2.3日、第四インター日本支部が発足した。2.28日、第4インター統一後3ヶ月、第1回中央委員会が開かれた。太田龍議案が提出されたが採択されなかった。東北と関西がこれに反対し、東京は議案の立場を基本的には支持したが採択に付されなかった。
【社青同解放派が結成される】
 3.30日、社青同解放派が結成されている。この頃社青同学生班協議会は、東大、早大を中心に組織を拡大していく中で中央(協会派)と対立し始め、こうした内部抗争の結果日韓闘争の経過で急進主義運動が分派化し、社青同解放派が結成されたという経過となった。社青同解放派はその後、政治団体として革命的労働者協会(革労協)を結成して、傘下の学生組織として反帝学評をつくることになる。

 もともと社青同は日本社会党が60年安保闘争後に、日共系の民青同的組織を社会党内持つと云う狙いで創設されたものであるが、ここへ新左翼系急進主義派の学生がどんどん加入してきて、これが勢いとなり社青同内部で急進主義派の解放派を結成したというのが史実のようである。解放派は、社青同内部で着々と勢力を伸張させ、東京地本を占拠するまでに至る。なお、第四インター系の加入戦術で解放派を離れた部分もあるが、ブント系に比しての「四分五裂」は少ない。

【全学連各派の日韓闘争】
 6.22日、日韓会談が妥結した。この日、民青同系全学連は6千名結集し、集会と外務省・米大使館にデモを行なった。新三派系も日韓条約本調印阻止闘争、決起集会〔芝公園〕に二千五百名結集、首相官邸に向かうも機動隊に阻止され激しい投石で抵抗・十七名逮捕。昼夜8000名が抗議デモ、とある(革マル派系 も当然取り組んでいる筈であるが手元に資料が無いので割愛する)。

 7.8日、中核派、社学同、社青同解放派の新三派連合が都学連結成に漸く辿り着いた。法政大(経.文).東大(医).早大(二法.二政).東工大など11大学・26自治会が参加していた。日韓条約批准阻止闘争に対する全国学友へのアピールなどの決議と闘争スローガンを採択、大会宣言を発した。これが「マル学同に代わる全学連再建」の橋頭堡となり、年末の三派系全学連の誕生に向かうことになる。
 7.9−12日、革マル派が第22回大会開催(委員長・根本仁)。124自治会から151代議員が参加したと発表されている。委員長には根本氏が留任。早大一文を中心に、札幌医大.秋田大.金澤大.奈良女子大.鹿児島大.東外大等が結集していた。日韓条約批准阻止を中心とした運動方針を決定。
【民青系全学連の動き】

 7.10日、民青系都学連結成大会が開かれ、22大学.39自治会の代議員と400名の傍聴者が参加。委員長に沢井洋紀(東大.文)、副委員長に田熊和貴(東経大)と植田稔(早大.一法)、書記長に金子博(東大.教)を選出した。

 7.23−25日、民青同系全学連委員長・川上徹)が、大阪で再建後の第1回大会を開催。68大学・142自治会、約1500名参加。去る日の全学連第15回大会が暴力によって流会を余儀なくされたという歴史的事情を踏まえて、この大会で先の再建大会を第15回大会とすることに決定した。

 この大会では、学生の身近で切実な要求実現、学園民主化闘争を引き続き闘うこと、政治課題として10.5日の臨時国会開会へ向けて日韓条約批准阻止闘争に全力をあげて取り組んでいくことを決議した。この頃私立大学の学費値上げ反対闘争、反動的寮規則撤廃闘争も取り組まれた。委員長に川上徹(東大教育)、副委員長に梓沢和幸(一橋大法)と山本巨人(大阪外大)、書記長に亘理純一(岩手学大)を選出した。


 7月、第4インターの三多摩の旧ICPの指導的メンバー、徳川、中曾根によって「第四インターナショナルを脱退し、新しいインターナショナルをめざしてたたかおう」と題する文書(「徳川・中曾根提案」)が発表された。この文書は「第四インターナショナルは、死産であった」との主張を展開して次のように述べていた。

 「第四インターナショナルは、ロシア革命がヨーロッパ革命に引きつがれるという展望のもとで組織された。だが現実の世界革命は、ヨーロッパの方向にむかうのではなく、中国革命を突破口としてアジア=植民地革命の方向へ発展した。第四インターナショナルは、革命のこの転進に根づくことができず、土台を失なってしまった。このため、その生誕は一個の死産にすぎなかった。よってわれわれは、第四インターナショナルを脱退すべきだ」

 「徳川・中曾根提案」 は、同盟内部、とくに三多摩の同盟に、巨大なショックを与え、論争は、単なる太田の政治方針の是非をめぐるものから、太田を先頭とする党堅持派と、提案者達の解党派との論争という性格のものに急速に変った。「提案」を太田は大喜こびで利用した。彼は、5.18闘争の失敗を論争の片隅に押しやり、解党主義攻撃を通じて自らの権威を再確立しようとした。

 8月、第二回全国大会が開催された。大会前夜、宮城代議員団は、「提案」の問題提起は、同じ問題意識をもつものとして歓迎し、継続討論に付すべき性格のものであること、しかしその結論についてはいったん撤回する必要があること、また大会の討論の中心を、この間の政治方針、政治闘争の総括にうつすべきことを、徳川、中曾根に申し入れ、意志統一をはかった。これにより、太田路線が粉砕された。


【反戦青年委員会考】
 8.30日、反戦青年委員会が結成された。当時左翼戦線では日韓条約批准阻止のための運動の統一が叫ばれていたが、社会党・総評と党の間は安保闘争の分裂以来の対立が解けず、一日共闘の程度を出ない状態が続いていた。この頃ベトナム戦争が政治課題として急速に浮上し始めていた。そのような状況の中で、社会党青少年局、総評青年対策部、社青同の三者の呼びかけによって、社会党系の青年労働者組織として、「ベトナム戦争反対、日韓条約批准阻止の為の、この闘争目標に賛成する全ての青年学生組織に解放された青年の自主的共闘組織」として反戦青年委員会が結成された。

 反戦青年委員会は、青年労働者の中への影響という「事業」を進め、これに一定の成果を得た点で左翼運動の史実に重要な貢献をしていることが注目されて良いように思われる。反戦青年委員会には日共系を除くあらゆる左翼集団77の団体・個人が参加していくことになった。7月に結成されたばかりの新三派系都学連も加入していた。

 60年代の青年左翼運動は、ほとんど学生運動に限られていたが、この反戦青年委員会が結成されると急速に労働者の間に浸透していった。反戦青年委員会のその後の経過は、次第に地区、職場、学校等に結成され組織も拡大していき、それと同時に急進主義化し始め、社会党及び日共を「議会主義カンパニア派」と罵倒するに至り、「これらとの熾烈な党派闘争とそれを貫徹する独自部隊の結集が革命的左翼の任務である」とするに至り、社会党・総評の統制が及ばないことになった。

 これを見て、川上徹・氏の「学生運動」は次のように記している。
 概要「反戦青年委員会は、新左翼が反戦青年委員会を組織拡大の場として『わたりに舟』で食い入ったものであり、社会党が『ひさしを貸して 母屋を取られる』ことになった。反戦青年委員会の結成は、こうしてトロッキストの息を吹き返させたという点でも、日本の青年学生運動、民主運動の統一の発展のためにとっても、重大な禍根を残すことになった」。

 これについて、筆者はかく思う。果たしてそのように受けとめるべきであろうか。筆者は、こういう評し方こそセクト的なそれであると思われる。むしろ、この当時盛り上がりつつあった青年運動に着目して学生のみならず青年労働者の社会的意識を培養する観点から「公党としての歴史的責任」を社会党が果たしたのであり、むしろ日共及び民青同は、新しい時代の激動期を向かえつつあった際に何らの指導性を発揮しようとしなかったばかりか、社会党系が組織した反戦青年委員会運動にセクト的に敵対さえしていったというのが史実であり、このことこそ反省すべきでは無かろうか。

 なるほど反戦青年委員会はその後の運動の盛り上がりの中で各セクトのオルグや加入などで自立性を失い、新左翼系セクトごとの勢力に分裂し、「全国反戦」はセクトが指導する「地区反戦」へと変貌していくことになった。しかし、だから反戦青年委員会の結成を「重大な禍根を残すことになった」と総括するというのは反動的ではなかろうか。筆者には、「愛されるべき社会党」の真骨頂が垣間見えるように思われる。ここまで整理して分かることは、社会党は右派・左派ごった煮の中で意外と歴史的な役割を果たしてきているということが改めて知らされるということである。

早大で「学館闘争」が再燃化
 11月、この頃から早大で学生会館の管理権問題として学館闘争が再燃化していくことになった。この頃早大では、3派鼎立時代を迎えていた。三派とは、革マル派と社青同解放派と民青同派であり、革マル派が一文.二文を、民青同系が教育.一法を、その他は社青同を中心とした三派系が自治会執行部を掌握していた。各自治会と文化団体連合会.サークル協議会.生協.早稲田祭実行委などによって「学館共闘」が結成された。議長には大口昭彦(第一政経.社青同解放派)が就任した。

 11.30日、本部前抗議集会がもたれ、ここから本格的な闘争が開始されていくことになった。これより先同志社大でも学館闘争が勃発していたが、大学当局の譲歩に拠り妥結していたが、早大大浜学長以下の理事会当局側は強圧的であり、学生側も急進主義的に対応してこじらせていくことになった。12月になると団交決裂→座り込み→機動隊導入へと発展していった。

 そうした事態の中、冬休みを前にした12.20日、学費の大幅値上げが決定され、大浜学長は、記者会見の席上「授業料の値上げは新入生からであり、諸君とは関係無い」、「学生諸君全員が反対しても、授業料は値上げする」と声明した。早大当局の発表した値上げ案は大幅なものであり、入学金、施設費、授業料等で平均50%を越えていた。翌66年早々から早大は紛争のるつぼになって行く。

 1966(昭和41).1月−3月にかけて横浜国大で、学部の学芸学部の学部名変更に反対する紛争がおこり、学生がキャンパスを封鎖、教職員を排除して、学生の自主管理を約1か月余にわたって強行した。この自主管理下のキャンパスでは、学生自治会が編成した自主カリキュラムによる学習が進められるという画期的なものとなった。
【早大で学費値上げ反対闘争始まる】

 1.18−20日、早大で、「学生会館の管理運営権獲得」に加えて学費値上げ反対闘争が始まった。これは、前年の12月に、早大理事会が教授会にも諮らず、学生が冬休みに入ってから大幅な学費値上げを発表したことに対する憤激から始まった。約5ヶ月に亘って続くことになった。

 
広谷俊二氏の「現代日本の学生運動」は次のように記している。

 「『庶民の大学』という伝統に強い愛着を感じている学生たちは、値上げによって授業料、入学金などが慶応大学以上に高くなることに憤激し、また、このような大幅な値上げが、学生はもちろん、教授会にすらはかられることなく強行されたことに憤激して、全学をあげて、ストライキに立ち上がった。三万を越える学生が団結して闘い、多くの学生は、これまでにかってない積極性、創意性を発揮して闘争に参加した」。

 民青同系全学連加盟自治会であった第一法学部と教育学部自治会が無期限ストライキ突入。この時、日共の指導の下で高野孟らが民青同系を指揮している。1.21日までに全学部がストライキに入り、以後150日間全学ストライキ闘争が戦い抜かれた。続いて三派系の全学共闘会議 (大口昭彦議長)も1.20日、一政.一商を無期限ストに導いた。革マル派系の一文、二文も同調。1.21日、理工学部もストに入った。中核派、社学同、ML派も存在したが、自治会執行部を掌握するまでには至っていない。早大闘争は、民青同系と全学共闘会議系が競うように運動を盛り上げていったことに特徴が見られる。しかし、闘争の後半になると、革マル派と社青同解放派が対立し始めている。

 学年末試験は1.24日からであったが、試験はボイコットされた。全学部で入り口にバリケードが為された。ここから連日約5000名の抗議集会が開かれた。

 2.4日、「総長説明会」が開かれたが、1万2千名の学生は強硬挑発的な大浜発言に一層怒りを高めた。この頃、民青同系は、「私学への国庫補助獲得運動」を指針させようとしていたが、2.10日、早大.全学共闘会議学生4百名が大学本部占拠、籠城。国会稲門会の議員も仲介の労をとろうとしたが為す術もなかった。

 かくて2.21日、機動隊が導入されバリケードが解かれた。ところが、ガードマンが鉄条網を張り巡らし始めたことに反発し、本部前で約6千名の学生が「警察官導入抗議」集会が開かれ、再占拠となった。2.22日、二度目の機動隊導入となり、203名の逮捕者が出た。この日ロック・アウト。2.24日〜3.6日、私服警官護衛下で入試。この間大学側は、40数人の処分を強行した。3.25日、自主卒業式。新入生を迎えた4月再びストに突入。4.23日、大浜総長・全理事が辞意表明し、大浜総長は退陣に追い込まれた。新総長に阿部が就任した。6月、最後となった文学部のスト解除で決着を見たが、「早稲田を揺るがした150日(足掛け7ヶ月)」として刻印されている。


【早大闘争に対する各派の理論】
 この背景は次のように考えられる。自民党政府の教育行政政策は、この時期増大し続けるベビーブーマーの大学生化に対して何ら有効な受け入れ対策をなしえず、私学へ追いやってきた。一方で、戦後直後の社会的合意でもあった「大学の自治」に対する介入を強め、お得意の官僚的統制を進めつつあった。「アメリカさんから頂いたものは日本の風土に合わぬ」というばかりの逆行コースへシフト替えしつつあった。私学経営者は、「大量入学→マスプロ教育→設備投資→ 借入金増→学費値上げ→大量入学」という悪循環に陥っていくことになった。 自民党政府によるこうした教育費の切りつめという反動的な大学政策の一方で、財政投融資、軍事費にはどんどんと国家予算を投入していた。これらの動きにどのように対応していくのかが早大闘争の課題であった。

 民青同系は、1.教育機会均等の破壊、2.大学運営の非民主的やり方、教授会及び学生自治会の自治権に対する侵害、3.一部理事による闘争弾圧の為の機動隊導入及び国家権力の介入等への批判を組織していくこ とを指針させた。併せて、4.ひものつかない国庫補助の大幅増額等を要求する学園民主化闘争を指針させていた。

 社青同解放派は、資本と労働の対立という観点からの大学=教育工場論に基づき、闘争を、教育工場を経営する個別権力資本=早大当局と個別労働=学生の闘いであり、教授一般は労働下士官と捉えたようである。こうした「個別資本からの解放」、「産学協同路線粉砕」という理論は、その後学園闘争に対するストライキ、バリケード、武装、コンミューンの樹立へと発展する理論的基礎となった。民青同は、社青同解放派のこうした理論を先鋭理論と位置付け、自民党政府の反動的貧困な大学政策に対する闘いを放棄し、免罪していると批判した。

 革マル派は、国家政策としての大学管理化とこれに呼応する大学当局の産学協同政策に対する闘いとして位置付け、「学問を独占的な産業に従属させ、創造的で自由な、権力に抵抗するような学問を封じ込める結果になる」という立場から批判していた。

 この後明大闘争を担うことになったブントは、この時の早大闘争を次のように総括した。
 概要「各クラス における闘争組織という各自治会学年別連絡協議会方式が指揮系統を混乱させ、ひいては全学共闘の機能をマヒさせた。従って、まさしくあらゆる闘争において、まず第一に要求されるものは、(自治会ではなく)強固な中央集権的な組織の存在である」。

 この理論はやがて「ポツダム自治会破産論」 を導き出していくことになった。こうした諸理論の発展が、後の全共闘運動とその大学解体論の下地をつくっていくことになった。


【東大で、インターン制廃止闘争始まる】

 1.24日、東大医学部自治会、インターン配置問題をめぐって卒業試験ボイコ ット闘争。これが後の東大全学部を巻き込んだ東大紛争→東大闘争に発展していくことになった。「全共闘グラフティー」は次のように記している。

 「東大闘争は医学部における青年医師連合の基本的権利を守る闘いと、医療部門における人民収奪の強化、及び医学部における研究教育体制の合理化−帝国主義的改編への闘いを発端として火の手を挙げた。そして独立資本との産学協同を推進する『国立大学協会自主規制路線』のもとに、この闘いを圧殺しようとした東大当局に対する叛乱として展開される」。

【第二次ブント再建】
 9.1日、 既に昨年4月関西派は、「マル戦派」と「ML派」の一部を結合して「社学同全国委員会」(社学同統一派)を結成していたが、このような曲折ののち更にこのたび「社学同統一派」と「マル戦派(マルクス主義戦線派)」の残存部分との合同がなって、ブントは「第6回共産同再建全国大会」(ブント再建大会)を開催するに至った。ここに、ブントは6年ぶりに組織統一をみるに至った。「社学同統一派」と呼ばれる。 これが、「第二次ブント再建」といわれるものである。

 この経過は次のように簡潔にまとめられている。
 「1962年ころから、共産同の残存者によって、まず社学同の再建が進められ、学生活動家を中心に「東京社学同」と「関西社学同」が結成されました。1963年には、「東京社学同」の一部に、“従来の共産同路線は政治闘争偏重主義であり、日共系学生運動に対抗するためにも、路線の見直しが必要である”と主張する「マルクス主義戦線派」(マル戦派)が台頭してきました。これに対抗して、「東京社学同」の多数派は「新しい前衛党の建設」を主張して、「マルクス・レーニン主義者同盟」(ML派)を結成しました。マル戦派も、ML派も、互いに自派が、共産同の正統派であると主張し、譲りませんでした。

 共産同の関西地方委員会を中心とする「関西グループ」は、このような中央の混乱の影響を受けることなく、結束して活動を続け、1962.4月、「関西共産主義者同盟」(関西派)を結成して「社学同派」の盟主となりました。1965.4月、関西派は、「マル戦派」と「ML派」の一部を結合して、「社学同全国委員会」(社学同統一派)を結成、更に、1966.9月には、「統一派」「マル戦派」の残存者をも結合して、「共産同第6回全国大会」(再建大会)を開催するに至りました。ここに、共産同は6年目にして、組織の統一を果たしました。これを『第二次ブント』と呼んでおります」。

 他方、「ML派」の一部は、こ のブントの統合に反対し、毛沢東の思想である「人民戦線路線」を取り入れ党の路線とし、「帝国主義を打倒するための人民革命」を目的として、68年「日本マルクス・レーニン主義者同盟」(ML同盟.書記長鈴木*夫)、・学生部隊=学生解放戦線を結成し、「第二次ブント」とは違った方向に進むことになる。

 10.20日、新三派系が全学連再建準備会を56自治会で開き、12月再建方針を確立した。全学連(三派系)再建準備会はすぐさま「ベトナム反戦・総評統一スト支援総決起中央集会」を日比谷公園で開き、2千5百名を結集、米大使館に向かい機動隊と衝突、銀座デモで17名が逮捕された。全学連(革マル系)の5百名は日比谷野音に結集、清水谷公園までデモ。全学連(民青同系)は3千名で芝公園で集会・デモ。


 10.24日、紀元節復活公聴会阻止闘争、全学連、東京・大阪・広島・札幌で紀元節復活公聴会阻止闘争。広島大生ら三百名、会場〔広島婦人会館〕にデモ、一部会場内突入で四名逮捕、大阪府学連六十名、会場〔府庁〕内デモ・坐り込みで一名逮捕。


 11.18日、全明大臨時学生大会が開かれ、賛成271.反対138.保留38.棄権1で先制的ストライキに突入した。11.23日、明治大学で学費値上げ反対闘争による和泉校舎封鎖発生。11.30日、明大全学闘争委員会が学費値上げ阻止の大衆団交を行い4千名結集。12.9日、中大自治会が「学費値上げ反対、学生会館の学生管理・処分撤回」を要求して全学スト突入。社学同の指導によって最終的に大学側に白紙撤回の要求を認めさせるという学生側が勝利を飾った。
 12.9日、中大自治会、学費値上げ反対、学生会館の学生管理・処分撤回を要求して全学スト突入。社学同の指導によって最終的に大学側に「学生の自主管理」を認めさせ、処分の白紙撤回を勝ち取るという学生側が勝利を飾った。

 その他にも関西学院大や西南学院大では学部新設反対の闘争が起こり、また各医大ではインターン制反対闘争が続いており、東京医歯大はストに突入といった状況を現出しつつあった。

【全学連(三派)再建大会開催】 

 12.17日、既に三派都学連を結成させていた新三派連合(社青同解放派・ 社学同・中核派)は、明治大学で全学連再建大会を開き、この頃ML派なども合流させた上で三派系全学連を結成 した。これで三つ目の全学連の誕生となった。35大学.71自治会・178代議員他1800名。この時、党派はそれぞれの色のヘルメットを着用した。これが学生運動でヘルメットが着用された最初となった。

 この「全学連再建大会」は結成されたものの呉越同舟的な寄り合い所帯の諸問題をはらんでいた。まず、再建大会を第何回大会として位置付けるかをめぐって対立したことにより明示できなかった。何時の時点で破産したかの認識が異なっていたからであった。なお、60年安保闘争の総括が蒸し返され見解が一致しなかった。こうした対立を乗り越えて、総括を中核派の秋山勝行が、状勢分析を社青同の高橋幸吉が、行動方針を社学同の斎藤克彦という分担制で妥協しつつ何とか「三派系全学連」の結成に漕ぎ着けるという多難な出航となった。

 人事には各派のバランスが図られ、委員長にはブントの斉藤克彦氏、書記長には中核派の秋山勝行氏、副委員長社青同解放派の高橋、社学同の蒲池氏が選出された。中央執行委員数も各派それぞれ9名ずつのバランスを配慮していた。翌 67.2.19日、斉藤氏が失脚し以降中核派の秋山勝行氏が委員長に就任する。

 この時の議案書は次のように宣言していた。

 「全学連とは、結成されてよ り今日まで、どのような紆余曲折があれ、それは日本の闘う学生・人民の砦であった。日本労働者階級、全ての人民の闘いに全学連の旗が立たなかったことはない」、「50年のレッド・パージ阻止闘争を見よ! 56年の砂川を! 60 年の安保を! 全学連の闘いは、常に、日本労働者階級と共にあり、その先頭に立った」、「我々再建全学連は、その輝かしい闘いの歴史に恥じず、今まで以上にその闘いの方向に向かって、怒濤の如く驀進して行くだろう」(新左翼20年史67P)。

 こうして、この時期全学連は、革マル派、民青同、新三派系の三つの全学連を誕生させることとなった。そのうち三派系全学連が最も行動的な全学連として台頭していくことになり、この過程で中核派の主導権掌握がなされていくことになった。この頃よりベトナム戦争が本格化していき、これに歩調を合わすかの如くベトナム反戦闘争に向かうことになった。


【1966年、自治会執行部の争奪の動きとその関連】
 1966(昭和41)年頃の各派全学連と傘下自治会は次のようになっていた。早大闘争が始まり、東大闘争、横国大闘争その他諸闘争を点火していくことになった。
【この頃の各派全学連と傘下自治会】
 この頃の各派全学連と傘下自治会は次のようになっていた。主要党派をゴシック文字で記す。
民青系  以下に記すその他の自治会。
革マル派全学連  早大(一文.二文.一商.二法).金澤大(教養).鹿児島大.宮崎大.奈良女子大.法政(二部).岐阜大.秋田大(学芸)等の自治会を傘下にしていた。
中核派  立命大(経).京大(医).三重大.法政大(文.経).山梨大.横浜国大(教養.経.教.工).広大(教養.工)等の自治会を傘下にしていた。
社学同  東京医歯大.京大(文.教育.農).京都府立医大.桃山学院大.専大.小樽商大.東大(医).中大.明大.同志社大(文.経.商工).滋賀大(経).和歌山大(経).大分大(経).徳島大.香川大(除教育).富山大(教養).法政大(法).お茶の水大等の自治会を傘下にしていた。
社青同解放派  早大(一政.二政).東女大.関大(法).関学大(法)等の自治会を傘下にしていた。
社青同協会派系  長崎大(経.医).佐賀大。
構造改革派.フロント系  立命館大(法.経営.理工.文).法大(社).新潟大。
構造改革派.共青系  神戸大全学部。
構造改革派.民学同系  阪大(除医).大阪市大全学部.岡山大(中執).関学(中執)。

【1966年末時点での各派の勢力図】

 この時点での各党派と掌握自治会数、活動家数、動員力は次の通り。

党派 掌握自治会 活動家数 動員力
中核派 36 2.000 6.500
革マル派 30 1.800 3.500
社学同 41 1.500 4.200
ML系 400 1.300
社青同解放派 19 900 2.800
第4インター系 300 800
フロント(構改派) 38 1.000 13.600

 これより後は、「7期その2、激動の7ヶ月 」に記す。



(私論.私見)