11章 戦後瀬学生運動6期その2 1961(昭和36)年
 マル学同全学連の確立

 (最新見直し2008.9.11日)

 これより前は、「6期その1、ブントの大混乱」に記す。

 (れんだいこのショートメッセージ)
 ここで、1961(昭和31)年の学生運動史を概括する。これを仮に「戦後学生運動6期その2、マル学同全学連の確立概略」と命名する。詳論は「マル学同系全学連の確立と対抗的新潮流の発生」、概論は「マル学同全学連の確立」に記し、ここでは枢要な事件を採り上げ解析する。全体の流れは、「戦後政治史検証」の該当年次に記す。 



【この時期の全体としての政治運動】
 この時代の政治闘争の枢要事を眺望しておく。学生運動史の予備知識として知っておく必要がある局面を抽出する。

 1961(昭和36).1月、ソ連共産党第22回大会におけるフルシチョフの公然たるアルバニア批判と周恩来のそれへの反論によって中ソ論争が公然化している。
 アメリカで ケネディー大統領が就任している。
日共が綱領草案を決定、反対派駆逐に乗り出す
 3月、日共党内では綱領草案の討議が進行し、3.28日、綱領草案が多数決で決定された。以降、党中央は、党大会に向けての大会代議員の選出に前代未聞の露骨な介入をしていくこととなった。反対分子の多いと見られる地方組織に主流派幹部を派遣して締め付けをはかった。府県から地区に至る党会議や委員会総会は全て草案を踏み絵として党員を点検する検察の場と化した。大会代議員の選出は、選考委員会によって推薦名簿の段階で厳重にふるいにかけられ、批判意見を持つ代議員候補者は故意に落とされた。「中央は絶対に正しい」、「中央に忠実な機関は又正しい」とする代議員のみが選ばれ、、綱領反対派又は反中央分子とみられるものはほぼ完全に排除され、799名のうちわずか10数名が反対派と見られたに過ぎない結果となった。

 4.12日、アカハタは、「さしあたってこれだけは」のアピールの発起人としての責を問われた関根弘(除名)と武井昭夫(1年間党員権停止)の処分を中委書記局声明「関根弘ならびに武井昭夫の規律違反に関する決定の発表にあたって」をページ全面に発表した。こうして、初代全学連委員長時代宮顕に最も信頼を寄せていた武井氏は、紆余曲折を経て最終的に斬り捨てられることとなった。4.17日、アカハタは、このアピールに賛成して中央の説得に従わなかった数名の同志が規律違反の処分を受けた顛末を報 じた。数名の同志とは、主に「新日本文学会」派の作家、評論家たちであった。7.10日、安東仁兵衛が離党届を都委員会に送付する。
綱領草案が発表され、踏み絵と化す
 4.29日、中央委員会が「綱領草案」を発表した。以降、この綱領が絶対的な基準になり、綱領を踏絵として受け入れるのかどうかの問題のみが残され、論議は「既に全て解決済み」論理で排斥されていくことになった。 

 これについて、筆者はかく思う。この過程の問題点は、宮顕党中央が、徳球時代の党運営を家父長制的権威主義として批判をしていたにも拘らず、自らが党中央になるやその徳球式のそれよりも排他的な党運営をし始めていたにも拘らず、党内反対派の批判が弱かったことにあった。宮顕の非を暴きだすためには、かって宮顕の口車に乗って徳球党中央に敵対した自らの過去の非をも自己切開することなしには為しえなかったからであると思われる。つまり、春日(庄)派、志賀派その他の御身大事の態度が宮顕党中央の暴虐に抗し得なかった要因ではなかったかと思われる。

【池田政権が「政治暴力防止法案」を国会に上程、廃案になる】
 5.17日、池田政府は、「政治暴力防止法案」(政暴法)を国会に上程した。右翼テロを口実として暴力行為を取り締まる名目で団体規制を強化しようとするものだった。日本左派運動は総力で潰しに掛かり、遂に法案は継続審議に追い込まれ、その後廃案になった。

綱領草案を廻る党中央の押し付けと抵抗

 6.9−10日、日共の第17中総で中央反対派の意見発表中止を決めた。これは先の16中総の申し合わせで反対派意見書の「党報」掲載が決議されていたのを、「16中総」の決定をゆがめて伝える恐れがあるとの理由で反故にしたことになる。大会直前に発行された前衛8月号は、志賀、袴田、松島、米原らの草案支持の論文をずら り揃えた上で、内藤、内野(壮)、波多らの反対意見書を投稿扱いで載せた。6.12日、アカハタは、「大会での討議は議案への賛否をあらわすことではなくて、議案の正しい理解によって各自の誤りをただすことである」という語るに落ちる党官僚の放言を掲載していた。

 7.1日、党内の反対派の千代田地区細胞が、綱領問題に関する意見として「日本人民と党の未来のために」の声明を党の内外に公然とアピールした。次のように批判していた。
 概要「綱領草案は、復活した日本帝国主義と真正面から対決し、その反動的企画を阻止し粉砕しつつ、社会主義日本を打ち立てる道を日本人民の前に指し示そうとせず、それを日本革命の根本問題として提起することをことさらに回避しています。労働者階級の社会主義的指導性を強め、平和と中立と民主主義革新を通じて独占の支配権力を打倒していく闘いの道を指し示すという課題をも果たしていません」。

春日(庄)派の離党
 7.7日、中央統制監査委員会議長春日(庄)は離党届けを出し、7.8日夜、記者団を前にして離党声明「日本共産党を離れるにあたっての声明」(「春日意見書」)を公表した。文面には、次のように書かれていた。
 概要「私は今回、先輩、同僚等と共に、戦前戦後を通して40年近い間、その旗のもとに活動してきました日本共産党を離党しました。綱領草案の基本的な誤りだけでなく、反対派代議員の選出の組織的排除や反対意見書の発表の一方的中止措置などの反対派への一方的中止措置などの反対派への弾圧によって、党内民主主義が踏みにじられ、原則的な党内闘争による改善の見込みはなくなった。我が党は現在、宮本、袴田君を中心とする幹部会の独裁のもとにあり、これが全党の正しい発展を害していると考える。上級への無条件服従による自己瞞着の体系、すべての判断と創意を圧殺する政治的腐敗の体系、滅私奉公的軍隊的規律に上に成り立っている。自己の綱領に異常な執着を持つ幹部独裁の体系を打破することなしには、我が党は大衆的前衛政党になることは不可能です」。

 7.10日、アカハタで野坂が、「春日(庄)の反党的裏切り行為について」、 7.17日、「党破壊分子の新たな挑発について」で応戦した。その後、全国各級機関にわたって、「反党的行為、裏切り分子、分派主義者、党破壊の策謀、修正主義者、悪質日和見主義」等々の大々的非難攻撃キャンペーンを開始した。これについて、筆者はかく思う。今日、野坂がスパイであったことが明らかにされている。とするならば、この時党中央は、そういうスパイの指導の下に反党中央派の締め出しを行っていったことになる。その系譜にある現党中央不破−志位執行部は、この辺りをどう総括するつもりなのだろうか。知らぬ存ぜぬで頬被り為しえることだろうか、疑問としたい。

 7.15日、山田六左衛門.西川義彦.亀山幸三.内藤知周.内野荘児.原全五の中央委員会少数派が連名で、14日付けの「党の危機に際して全党の同志に訴う」声明を発表した。大会を前にして現職の統制監査委議長が離党し、中央委員グループが公然と中央批判したことは前代未聞であった。7.19日、新日本文学会の党員作家.評論家グループは、中央委員会あてに、「中央は綱領草案の民主的討議を妨げたから、党大会を延期せよ」とする意見書を提出した。

 7.20日、党中央は、第18中総で春日・山田六左衛門等7名の除名を規約を無視して決定した。この時、波多は綱領草案に対する反対意見を、神山は保留の態度をそれぞれ撤回した。党中央は、この前後に多数の地方機関役員その他を処分した。反対派への大々的カンパニアが展開された。

 7.22日、「新日本文学会」の党員グループは21名連署で党の内外に宮顕派指導部非難のアピール「真理と革命のために党再建の第一歩を踏み出そう」を発した。「今日の党の危機は、中央委員会幹部会を牛耳る宮本.袴田.松島らによる党の私物化がもたらしたものである」として、彼ら派閥指導部の指導の誤りと独裁的支配、規約の蹂躙と党組織の破壊の事実を挙げ、言葉激しく非難した。

 7.23日、野田弥三郎.増田格之助.山本正美.芝.西尾.武井ら6名の旧東京都委員会グループが、「派閥的官僚主義者の党内民主主義破壊に対する抗議」と題する声明を発表した。7.24日、増田格之助.片山さとし等が連署で離党声明を公表した。山田も。各地方の反対派の離党声明や中央攻撃声明など続々と発表された。大会を前にして党主流の派閥支配に対する怒りと不満が爆発して党の分裂状況が生まれた。 

 7.24日、党中央は、武井、9.2日大西、9.6日、針生.安部らを除名。大会までに発表された被告処分者は、除名28名.党員権制限9名で、被除名者には中央委員7名.中央部員2名.元都委員8名.県委員1名.理論家及び編集者グループ10名が含まれていた。その他地方組織において、府県委員以下の離党又は処分が大量に見られた。


日共の第8回党大会
 7.25−31日、日共の第8回党大会が開かれた。これについては、別途「日本共産党第8回党大会考」に記す。 党創立77周年記念講話で、不破委員長が満場一致で現綱領が採択されたと自画自賛したお気に入りの大会であるが、満場一致に至るからくりは上述のような経過を伴っていたことが知られねばならない。以下これを俯瞰してみることにする。

 大会の眼目は、新綱領の採択にあった。大会は、「春日庄次郎一派の反党的、反階級的裏切り行為の粉砕にかんする決議」を全員一致で採択した。反対派が全部排除されたため、議案は全て全員一致で採択された。中央役員の選出は、中委原案通りにしゃんしゃんの全員一致で決定した。反党的潮流を日和見主義として全面的に批判し、綱領とそれに基づく政治報告を決議した。数十万の大衆的前衛党建設の目標を提起。党勢拡大と思想教育活動の総合2カ年計画を全党的につくり、取り組むことを決定した。

 万一綱領反対者が発言しないかと恐れた中央は、大会運営の厳重な統制をはかり、大会発言者には全て事前に発言の要旨を文書で提出させ、綿密に審査した後大会幹部団の指名によって発言を許可するということにした。野坂の政治報告、宮顕の綱領草案報告は、拍手又拍手の中で行なわれ、それらの討論は中央に忠誠を誓う儀式とかわりなかった。

 その後の大会討議においては、反対意見は姿を消し、綱領草案についてもこれの実践的検証を誓う没理論的発言か、草案反対派との闘争を手柄話にするお茶坊主発言が相次いだ。この時、1964年に放逐される事になる志賀、神山、中野、波多らは綱領草案支持を表明し、かって反独占社会主義革命を主張した中西、鈴木らも自己批判して草案支持を明らかにした。こうして議案は綱領以下全て全員一致で採択された。

 この大会で、宮顕−袴田体制が確立した。流れから見ると、志賀が完全に干され、野坂も実質上棚上げされた格好となった。これに代わって宮顕−袴田という「戦前の党の最終中央コンビ」が指導権を握り、その周辺に旧来からの宮顕忠誠派の蔵原.松島、米原、聴濤(きくなみ)、寝返り忠勤派の春日(正)、紺野、伊井らが配置された。松島、聴濤、鈴木、伊井、高原らは戦後組合運動の指導者として登用されていた。その他安斎、土岐度などの旧満鉄グループがおり、ともに中央主流を形成することとなった。こうして宮顕盤石体制が確立した。


 こうして、六全協以降の椎野.志田グループ追い出しに次ぐ春日(庄)派の粛清となった。ちなみに、この抗争は単なる宮顕派による春日(庄)派の追い出しに過ぎなかった。なぜなら、その後の日共路線は、外皮を宮顕系の民族的民主主義革命から始まる二段階革命論とするものの中身を構造改革系の「平和・民主・独立・生活向上の為の闘争」に向かう「一国社会主義」的「平和革命」的「議会主義」的革命運動へとのめりこむからである。こうなると、宮顕−不破系党中央には弁明責任があると云えようが、これについての説明は未だに為されていない。

 8.31日、ソ連は58年から停止していた核実験を再開した。平和擁護運動は混乱に陥った。それまでソ連を平和の砦としていた日本の左翼内にあった傾向からして大いに当惑させられることとなった。日本共産党はソ連核実験の支持声明を出した。
 9.5−11.3日、宮顕書記長を団長とする日共代表団が朝鮮、ソ連、中国を訪問。 9.12日、宮顕書記長が北朝鮮労働党第4回大会で演説。 9.19日、モスクワでソ連共産党スースロフ幹部会員らと会見。予定されているソ連共産党第22回大会におけるソ連共産党綱領草案の日本に関する部分が、党の新綱領の現状規定と異なっていた為摺り合わせが行われた。会談に参加した志賀は、ソ連草案支持を表明した。志賀は帰国後党指導部の会議で厳しく批判されることになる。
 10.7−9日、前年の日本共産党第8回党大会前後の経過で「反党分子」として除名され集団離党することとなった春日(庄)ら離党組は、社会主義革新運動(社革)準備会の創立総会を開いた。議長・春日(庄)、副議長・山田六左衛門.事務局長・内藤知周を選出した。しかし、内部対立が終始続き結局のところ組織分裂を向かえることになる。

【この時期の学生運動の流れ】
 この時代の学生運動の枢要事を眺望しておく。

 この期の特徴は、三派(社学同、マル学同、民青同)に分裂した全学連内の分裂の動きが止められず、全学連執行部と反執行部が非和解的に対立し始めたことに認められる。ブントは大混乱したまま収束がつかず、その過半が革共同全国委系に合流して行った。これにより、全学連は、革共同全国委系マル学同の指揮下に入ることになった。以降、全学連は、マル学同と、これに反発する日共系民青同派、同派から分立した構造改革派、第二次ブント創出派、この頃設立された社青同派の都合五派によりそれぞれの活動に向かい始める。やがて、構造改革派、第二次ブント創出派、社青同派が三派連合を形成し共同戦線化する。

【第1次ブント解体】
 2月、ブント戦旗派(労対派)は、革命的戦旗派を経て、革共同全国委のオルグを受け入れ、大部分が革共同全国委へ向かった。4.20日、組織を解散させての合同決議を行ない正式に合同した。田川和夫グループはこの流れである(田川氏は、後の革共同全国委分裂の際には中核派に流れ、さらに後の対革マル戦争の路線対立時に中核派からも離党することになる)。

 ブント革通派は、池田内閣打倒闘争の中で破産を向かえた。この派からの移行は記されていないので不明。ブントプロ通派も戦旗派に遅れて解散を決議し、有力指導者ら一部が合流した。ちなみにプロ通派から革共同に移行したメンバーには現在も中核派最高指導部に籍を置く清水丈夫氏、北小路敏などがいた。次のように記述されている。
 「北小路・清水ら旧プロレタリア通信派は、マル学同からまだ自己批判が足らぬとされ、北小路は全学連書記長を解任された。彼らはその後遅れてマル学同へ加盟する」。

 革通派の林紘義一派が独立して「共産主義の旗派」を結成するなど、こうしてブントは四分五裂の様相を呈することとなった。こうして社学同からマル学同への組織的移動がなされ、結局ブント−社学同は結成後二年余で崩壊してしまった。結局ブントは、綱領も作らぬまま、革命党として必須の労働者の組織化にほとんど取り組まないうちに崩壊したことになる。60年始め頃から露呈し始めていたブントの思想的理論的組織的限界の帰結でもあった。

 4.5日、全学連第27回中央委員会が開かれた。この会議は唐牛ら5名の中執によって準備され、彼らの自己批判的総括とともに、篠原社学同委員長から、「ブント−社学同の解体」が確認され、「マル学同−革共同全国委への結集」が宣言された。こうしてマル学同はブントからの組織的流入によって飛躍的に拡大し、一挙に1千余名に増大することになった。これによって、全学連指導部はマル学同が主導権を握るに至った。

 社学同委員長篠原は、当時の早稲田大学新聞紙上で次のように述べている。

 「共産主義者同盟(ブント)の破産という中で、やはり革共同全国委員会というものが我々の問題として出てきているし、そういったものに結集する方向に社学同を指導するし、共産主義者同盟に指導されていたという社学同というのは解体して、全国委員会の指導のもとにある活動家組織としてのマル学同に個人的にはなるべくすみやかに現実の闘争の中で吸収されていくという方向を、僕は指導して生きたいと思っているんですね」。

 とはいえ、明大や中大ブントは分裂せずに独自の道を歩んだ。東京ブントは分裂模様を見せたが、「関西ブント−社学同」は独自の安保総括を獲得して大きな分裂には至らなかった。この流れが後の第二次ブント再建の中心となる。ここまでの軌跡を第一次ブントと云う。


【第1次ブント解体考】
 これについて、筆者はかく思う。かくして第1次ブントは解体された。史実は雪崩を打って革共同に吸収されていったが、果たしてそれで良かったかどうか。ここで、ブントと革共同の間に横たわる思想的な根本的差異について考察する。

 ブントの解体の要因について考察しておきたいことがある。元々ブントと革共同の間には、深遠なる融和しがたい相違があったものと思われるが、史実は雪崩をうつかの如く革共同への移行がなされた。これは、結成間もなく60年安保闘争に突入していかざるをえなかったという党派形成期間の短さによるブントの理論的未熟さにあったものと思われる。60年安保闘争の渦中でそれを島−生田指導部にねだるのは酷かもしれないとも思う。

 私見は、ブントと革共同の間には単に運動論、組織論、革命論を越えた世界観上の認識の相違があったように捉えている。言うなれば、「この世をカオス的に観るのか、ロゴス的に観るのか」という最も基本的なところの相容れざる相違であり、ブントはカオス派であり革共同はロゴス派的であろうとより一層組織形成しつつあったのではなかったのか。この両極の対立は、人類が頭脳を駆使し始めて以来発生しているものであり、私は解けないが故に気質として了解しようとしている。

 実際、この両極の対立は、日常の生活に於いても、政治闘争も含めたあらゆる組織形成、運動展開においてもその底流に横たわっているものではなかろうか。ユダヤ−キリスト教的聖書にある箴言「初めに言葉ありき」はロゴス派の宣言であり、日本の神道的「森羅万象における八百万的多神観」はカオス派のそれのように受けとめている。両者の認識はいわば極と極との関係にあり、ブントと革共同は、この相容れぬそれぞれの極を代表しており、相対立する世界観に支えられて極化した運動を目指していたのではなかったか、と思う。島氏的観点−ごった煮的カオス的な善し悪しさ−が、当時のブントに伝えられていなかったことを私は惜しむ。それは、「60年安保闘争」に挫折したにせよ、ブントのイデオロギーは護持されていくに値あるものと思うから。本来革共同に移行し難いそれとして併存して運動化し得るものであったと思うから。

 どちらが良いというのではない。そういう違いにあるブント思想の思想性が島氏周辺に共有できていなかったことが知らされるということである。ブントのこの己自身の思想的立場を知ろうとしない情緒的没理論性がこの後の四分五裂化につきまとうことになる。あるのは情況に対する自身の主体的な関わりであり、ヒロイズムへの純化である。このヒロイズムは、状況が劣化すればするほど先鋭的な方向へ突出していくことで自己存在を確認することになり、誇示し合うことになる。惜しむらくは……というのが私の感慨である。

【「全自連」に構造改革派の影響が及ぶ】

 この頃、「全自連」指導部が構造改革派の影響を受けることになった。東京教育大学.早大.神戸大.大阪大などの指導的活動家が構造改革派へ誼を通じていくことになった。黒羽.田村.等等力らは学生運動研究会を組織し、3月に「現代の学生運動」なる書を公刊した。ここには、学生運動を「反独占統一戦線」の一翼として位置づけ、構造改革路線に基づく独自の政治方針を展開した。党は、トロツキスト学生追いだしの後今度は構造改革派学生の反乱を受けることとなった。


【島の「黒寛派の全学連無血占領」批判】

 この頃の島氏の動向が「未完の自伝―1961年夏のノート」に次のように記されている。

 「ともかく60年8月のブント大会から始まった日本の左翼の思想的再編は、今年の4月、プロ通派・革通派の解散、戦旗派の黒寛派への移行、黒寛派の全学連無血占領によって新しい段階に入った。日本左翼にとって、このブントの分解に見られる思想的混乱は、戦後最大のものである。因みに50〜51年の、56〜58年のそれと比較してもすぐ分かる」。
 「目標は反黒、反日共の革命的左翼のケルンの結集。その為に、ブントの中で最も優れた部分の結集、あるいは各方面での思想運動。第三にブントの全面的(思想的、政治的)批判。第四にマル共の分裂の促進(第8回大会を控えて)。第五に経済的基礎の確立。第六に学生運動史資料の整備。以上の目標を決めて始めた。そして2ヶ月たった」。

【政防法闘争】
 5月頃、政治的暴力行為防止法案(政防法)が国会に上程された。右翼テロを口実として暴力行為を取り締まる名目で団体規制を強化しようとするものだった。5.21日、日共系全自連は非常事態宣言を発し、5.31統一行動を設定し、東大教養をはじめ多くの大学でストライキを決行させている。遂に法案は継続審議に追い込まれ、その後廃案になった。

 この間、マル学同下の全学連の動きは、1・ポスト安保で闘争疲れしていたこと、2・池田内閣の高度経済成長路線が支持され始めだしたこと、3.ブント全学連的華やかさがなかったせいによってか、諸闘争に取り組むも数百名規模の結集しか出来ぬまま低迷していくことになった。その中にあって、6.6日、3千名が政暴法粉砕の決起大会に結集。6.15日、「6.15日一周年記念総決起集会」に3千名結集。

 6.15日、6.15日、樺美智子葬一周年のこの日、マル学同全学連は3000名を結集し、国会デモに向かった。機動隊とのもみ合いの後共立講堂で「樺美智子追悼集会」が為された。集会の主宰者には、全学連.社会党.総評.社青同.文化人らが名を連ねていた。
【全学連第17回大会、マル学同全学連の誕生】
 全学連大会の時期を迎えて、マル学同と反マル学同が思惑を絡めていくことになった。7.6−7日、日共系全自連が「7全代」を開催し、全学連大会への参加条件について、1.平等無条件参加、2.権利停止処分撤回、3.大会の民主的運営の3項目を決議した。

 マル学同に移行しなかった旧ブント−社学同と革共同関西派と社青同はマル学同のイデオロギー的、セクト主義的な学生運動に反発し、反マル学同で意見の一致を見て、大会前夜に飯田橋のつるや旅館で対策を講じた。これをつるや連合と云う。各派とも全学連の主導権を狙って画策したということであろう。

 マル学同は、反対派を暴力的に閉め出す動きに出た。全自連に対しては、自治会費の未納を理由に全学連から完全に排除し、つるや連合に対しては代議員の数を削減したりして対応したようで、マル学同派による指導部独裁体制を企図した。この手法は前々回、前回の全学連大会より既に見られているので、このやり方だけを見てマル学同を批判することは不当かも知れないが、こうした暴力的手法の常習癖が革共同全国委系にあることはこの後の経過によっても窺い知れることになる。

 こうしたマル学同のやり方に反発して、つるや連合側は早朝より会場を占拠して対抗。マル学同はピケを張るつるや連合に殴りかかったがらちがあかず、角材を調達して武装し襲撃した。こうして会場を奪還したが、これが学生運動上の内部抗争で初めて武器が登場した瞬間であった。この角材ゲバルト使用を指揮したのが清水丈夫全学連書記長であったと云われている。これは清水氏のゲバルト好きのしからしめたものともみなせるし、遅れて革共同に入った清水氏が汚れ役を引き受けさせられたとも受け取れよう。

 興味深いことは、その乱闘の最中に全自連が会場に入って来ようとすると、マル学同とつるや連合は乱闘を中止して、一緒になって全自連を追いだし、全自連が去るとまた乱闘を開始したと云う。これが本当の話であれば、この感覚も一体何なんだろう。この乱闘は二日間にわたって行なわれ、最終的にはマル学同以外は大会をボイコットし、それぞれが大会を開くことになった。 

 全学連第17回大会はこうした状況の中で開催され、マル学同派の単独開催となった。代議員は282名と発表されている。実質は150名以下であったとも云われている。一切の他の党派を暴力的に閉め出した体制下で、大会議長を自派より選出し、議案を採決するというまさにマル学同の私物化された大会となった。大会はブント出身の北小路敏を委員長に選出し、全学連規約を改正して、全学連の活動目的に前衛党の建設を学生運動の基本任務とする「反帝反スタ」路線を公然と打ち出した。

 つるや連合は、7.9日夜、代議員123名の連名で「我々の退場により、大会は流会したので民主的な大会の続行を要求する」旨決議した。全自連は、67大学125自治会、276名の代議員が集まり、7.10日、教育大へ結集した。ところがこの時詳細は分からないが、全自連指導部は全学連第17回大会指導部と「ボス交」の結果全自連解散を為し、全学連再建協議会を結成したとのことである。恐らくこの時の指導部は構造改革派系であり、全学連の統一を切に願っていた構造改革派とマル学同派に何らかの合意が成立したものと考えられる。

【宮顕の学生活動家対策】
 日共は、7月の日共第8回党大会後、民青同に対し第8回党大会で強行決議された党綱領によって路線修正するよう指示し、従わない同盟幹部を排除し、民青同を日共のスローガンをシュプレヒコールする自動連動装置(ベルト)に替えた。これを「ベルト理論」と云う。明らかな党による民青同の引き回しであったが、これにより民青同の党に対する盲従が惹起し青年運動に大きな桎梏となっていくことになった。

 第8回党大会で採択決議された党の綱領が「民族独立民主革命」を明確に戦略化させたところから、社会主義を目指す闘争は抑圧されるか後退することになった。日本における社会主義の展望、客観的必然性を青年に示して日常の闘いと社会主義への志向とを結びつける本来の左派運動を視野から遠ざけ、社会主義について沈黙を守る雰囲気が支配的になった。

 これは、日共が、「改良・改革」を「革命」と規定するというすり替えから発生しているものと思われる。「二つの敵」を経文のように繰り返すことにより、イデオロギー活動が不燃化させられる要因となった。その結果、同盟員の理論的水準は低下し、その下部組織はサークル化傾向に沈潜していくこととなった。

 8.30日、日共党中央は、主要都道府県学対部長会議を開いて、次のような指導をなしたようである。「過去二回の集団転落を生んだ当時の学生党組織の欠陥、弱点を克服して、厳密な学生内党組織の建設を進める為に」と称して次のように定式化している(広谷俊二著現代日本の学生運動)。
 マルクス・エンゲルス・レーニンの古典と日本共産党の綱領、大会、中央委員会の諸決議の系統的学習。トロツキズム、現代修正主義のえせマルクス・レーニン主義の本質を見分ける能力を身につける学習。
 労働者的規律を重んじ、特に党費の納入、中央機関紙を読むこと、細胞会議に出席することなど、党生活の原則を確立し、党中央の諸決議を積極的に実践する。
 地区委員会の指導を強め、学生細胞は必ず地区委員会に集中する。
 学生の共産党への入党は、民青同盟の活動の中で鍛えられ、試された者を認める。
 従って強大な共産党を建設するためにまず民青同盟を拡大し、その活動を活発にし、同盟員のマルクス・レーニン主義の基礎の学習と労働者規律を強める。

 これについて、筆者は思う。宮顕の指導になると、なぜこうまでして青年運動の自主性を削ぎ、社会主義意識の培養をしにくくするよう努力するのだろう、と疑問を沸かさずにはおれない。

【ソ連が核実験を再開、マル学同の抗議闘争】

 8.31日、ソ連は58年から停止していた核実験を再開した。それまでソ連を平和の砦としていた日本の左翼内にあった傾向からして大いに当惑させられ、平和擁護運動が混乱に陥った。日本共産党はソ連核実験の支持声明を出した。革共同関西派は対応が割れた。革共同全国委=マル学同は、「反帝反スタ」の立場から精力的に抗議運動を展開していくこととなった。「日本の反スターリン主義運動」は次のように述べている。

 「1961年秋のソ連核実験再開に直面させられて完全に混乱の渦中にたたきこまれ、何らかの反対運動をも展開することができずに自己破産を義黒した原水協並びに社共両党の、この腐敗を公然と暴き出し弾劾し、のりこえつつ推進されたわが全学連の『米.ソ核実験反対』の反対闘争は、1962年の春のアメリカ太平洋実験に対する激烈な反対闘争として受け継がれ、そして日本原水協の完全な無活動的腐敗や第8回原水爆禁止大会における社共両党の衝突の茶番性を大衆行動をもって暴露したことなどを通じて、同時に国際的な反戦統一行動を生み出しながら、今や確固とした地歩を築き上げた。さらにそれは、闘う労働者自身による反戦闘争の行動化を促す触媒としても働きつつある」。

 9.1日、全学連中執、ソ連核実験に抗議声明を発表。 9.4−5日、マル学同は、全学連27中委を開き、「ソ連核実験反対・反戦インター創設・プロレタリアによる学生の獲得路線」の方針を決議した。9.8日、全学連、政暴法粉砕・ソ連核実験反対闘争第一波、芝公園に50名結集、米ソ大使館にデモ。社学同系学生70名は独自にソ連大使館デモ。9.15日、全学連第二波統一行動、50名が氷川公園に結集、新橋までデモ。夜、夜間部学生80名も集会・デモ。社学同系80名は東郷公園に結集、新橋までデモ。9.22日、再建協、政暴法粉砕・完全軍縮要求第一波統一行動、芝公園に350名結集、八重洲口までデモ。社学同系120名は氷川公園に結集・国会デモ。

【構造改革派系「青学革新会議」の結成】
 9月、日共の第8回党大会における綱領問題と官僚指導に反対し、離党・除名された民青同盟内の党綱領反対派の活動家と、全自連中央の活動家(早大、教育大、神戸大、立命館大、法政大、東大など)を中心として、構造改革派の青年学生組織として青年学生運動革新会議(「青学革新会議」)が結成された(10.6日ともある)。
 
 その背景にあったものは、構造改革派の「宮顕式の不当な干渉によって民青同を共産主義的青年同盟に発展させる可能性がなくなった」という認識であった。「青学革新会議」は、この認識に基づくマルクス・レーニン主義の原則に立脚する青年同盟の創設課題提起により生み出された。同派の特徴は、この時期日共が指導していた新たな全学連の創出を画策するのではなく、粘り強く学生運動の統一を目指していたことにあった。

 但し、この方針はマル学同の独善的排他性に対する認識の甘さを示しており、遂に叶えられることのない道のりとなる。青学革新会議は、この経過をさし当たりブント急進主義派と社青同との統一戦線を志向しつつ活動していくこととなった。なお、青学革新会議は、「層としての学生運動論」を採用しており、この時期一層右派的な方向に変質させられつつあった民青同に比較すれば幾分かは左派的な立場にあったといえる。

 なお、青学革新会議グループもまたこの後、構造改革派が春日(庄)らの統一社会主義同盟と内藤派に分裂するに応じて、この動きに連動していくことになる。春日派は翌62.5月、社会主義学生戦線(フロント.東大教養、神戸大等)、内藤派の系統として63.8月、日本共産青年同盟(共青.教育大等)へと続く。

【マル学同全学連が「反帝反スタ」路線を打ち出す】
 9.4−5日、マル学同は、全学連27中委を開き、ソ連核実験反対闘争の方針を決議した。10.15−16日、全学連28中委では、「反帝・反スタ」路線を全面に押しだし、社学同残留派をブント残党派と言いなし、これら諸派を右翼分裂主義者と決めつけ、これと絶縁することを確認した。

【島が「Sect6」立ち上げに動く】

 10月頃、共産主義者同盟書記局・島成郎他の連名で召集状が届けられた。10.24日、九段の雄飛寮の集会室に集まり、ブントの再結集を目指した秘密会議が開催された。席上、島が、旧書記局の統一見解としてブントを再建すると述べている。次のように不満を吐露している。

 「この1年半の分派活動の首謀者達は、みな小者ばかりでトレランスに欠ける。その理論に至ってはチマチマして中小企業のオヤジの床屋談義よりも程度が低いくらいだ、といった」。

 こうして社学同の再建が始まり、12.5日、社学同全国事務局機関誌「Sect6」の立ち上げに繋がる。しかし、求心力は戻らず困難を極めることになる。社学同残留派は、社青同派、構造改革派とともに反マル学同の三派連合を形成して行く。この三派連合が火山化していくことになる。


 12.15日、全学連第18回大会。
 これより後は、「6期その3、全学連の三方向分裂固定化 」に記す。



(私論.私見)