1961年 【全学連運動史第6期その2
マル学同系全学連の確立と新潮流形成期(第一次ブント運動の解体終焉過程)

 更新日/2022(平成31.5.1栄和改元/栄和4)年.4.7日

 これより前は、「第6期その1、安保闘争総括をめぐって大混乱発生に記す。

 (れんだいこのショートメッセージ)
 この期の特徴は、三派(社学同・マル学同・民青同)に分裂した全学連内の分裂の動きが止められず、全学連執行部と反執行部が非和解的に対立し始めたことに認められる。ブント−社学同指導部の多くがマル学同に移動したことから、全学連執行部はマル学同が掌握することになった。これに対し、民青同は全自連を通じて自前の全学連創出に向かう事になった。他方、ブント−社学同残留組と革共同関西派と新たに生まれた社青同派と構造改革派が新潮流を形成していくことになった。年末には社学同残留組と社青同派と構造改革派による三派連合が結成された。こうして「全学連三国志」の世界へと突き進んでいくことになる。


【1961年の動き】(当時の関連資料)

 お知らせ
 当時の政治状況については「戦後政治史検証」の「1961年通期」に記す。本稿では、当時の学生運動関連の動きを記す。特別に考察したい事件については別途考察する。

 1.1日、革通派、解体。 


【革共同全国委の呼号】

 1.10日、革共同全国委機関紙「前進」第20号に、「革命的マルクス主義者の原則的統一の為に」との見出しで次のように指針させていた。

 「安保闘争.三池闘争の総括として、既成左翼の完全な指導性喪失、革命的前衛党の欠如、他方でのブント系小ブル急進主義運動を敗北の原因とし、これら全ての党派を乗り越えて反帝.反スターリンの世界革命戦略の下に労働戦線の深部に革命的中核を組織するべきである」。

 この頃の島氏の動向が「未完の自伝―1961年冬のノート」に次のように記されている。

 「1.21日(中略)おそらく、俺の一生の中で、昨年8月以降、現在にいたる時期ほど、無内容で、空虚で、動揺的な時期はなかったろう。何一つ生み出すことをせず、その努力をせず、行動の基準はバラバラで、毎日毎日が動揺的な時期。今年に入ってからも、それは変わらない。そしてやがて30歳を迎えようとする。俺の一生がこれから始まるか否かの瀬戸際であるというのに!苦悩し、呻吟し、再生をはかるべきこの時期、俺は何をしたか、それは非難されても然るべきであろう」。

 「過去の歩みの検討から始めよう。それはやはり、昨年の闘いについての厳しい批判から始まるであろう。自己自身への検討は、内省的な、外界から切り離された『自己批判』ではなく、日本人民の歴史的闘いそのものを批判し、そこで決起した民衆の、そしてその先頭に立った組織の、そしてそれを指導した俺自身の闘いへの、仮借なき闘いでなければならない。この批判は、その対象を打倒するまで本質的なものでなければならない。もし、これ回避したり、中途半端に終わらせたとき、俺はやはり死なねばならないであろう。1年掛かっても、2年掛かってもやらねばならない。この批判こそ、現代社会への根本的批判として俺自身への弾劾になるのではないか。そう考えたとき、俺はやはりやるべきことをやっていないのだ。ブントの内部闘争、それはまだ始まりかけたばかりである。『批判』が矮小化されている。1960年のブントの分裂・停滞、それは重い重いものなのに」。

 2月、戦旗派(労対派)は、革命的戦旗派を立ち上げる。その後、革共同全国委のオルグを受け入れ、大部分が革共同全国委へ向かった。


【「全自連」に構造改革派の影響が及ぶ】

 この頃、「全自連」指導部が構造改革派の影響を受け造反した。60年後半期から61年の3月にかけて、日共内の構造改革派の動きに連動した新グループが生み出されることになった。東京教育大学.早大.神戸大.大阪大などの指導的活動家が構造改革派へ誼を通じていくことになった。宮顕系党中央は、トロツキスト学生追いだしの後今度は構造改革派学生の反乱を受けることとなった。

 民青同系の指導幹部黒羽純久全自連議長・田村・等等力らが「現代学生運動研究会」を組織し、3月に「現代の学生運動」なる書を公刊した。ここでは、学生運動を「反独占統一戦線」の一翼として位置づけ、構造改革路線に基づく独自の政治方針を掲げていた。

 
この背景には、この間のブント的運動の評価に関する対立もあった。党中央は、「トロツキストは、その最大の目的が社会主義国の転覆と各国のマルクス・レーニン主義党−共産党の破壊にある。文字通りの反革命挑発者集団であり、また当然にわが国の民主運動の挑発的攪乱者である。彼らの極左的言動は彼らの本質を隠蔽するものに過ぎない。従って、トロツキストは民主運動から一掃さるべきであり、その政治的思想的粉砕は我が党だけでなく、民主運動全体の任務である」(日本共産党第7回党大会.14中総決議)と規定していた。

 が、黒羽らは、「トロツキストは、いわば共産党の『鬼子』」であり、「すなわち彼らの大部分は、共産党内部から共産党に愛想をつかし、あるいは『善意』と『革命的良心』をもって分かれていったのである」(現代学生運動研究会編「現代の学生運動」)として、むしろ共産党の指導の誤りこそトロツキストを生みだした根源であると云う立場をとった。つまり、「60年安保闘争」における党中央の指針に疑義を表明し、ブント全学連急進主義派の戦闘的闘いを好意的に評価している点で、宮顕式党中央の見解と対立したということである。

 補足すれば、党中央は、「トロツキストを米日反動の手先として民主運動の戦列に送り込まれた分裂挑発分子」と規定しており、黒羽ら全自連指導部は、「民主運動、学生運動の見解を異にする一つの潮流」とみなし、学生戦線の統一回復の観点から話し合いが必要であるとの立場に立っていた。こうして、党から見れば、左派系トロツキスト学生追いだしの後今また構造改革派学生からの反乱を受けることとなり、いそがしいことであった。いずれも党指導直下の学生運動指導部の造反であったことが注目される。
これにより、日共と民青同は、構造改革派に握られた全自連の指導権回復に乗り出していくことになる。


 1.12日、全学連百五十名、授業料値上げ反対で文部省に抗議、一名逮捕。


 1.12日、全自連代表、授業料値上げ・国鉄運賃値上げ・新島ミサイル基地化に反対して文部省・国鉄本社・防衛庁に抗議文提出。


 1.14日、全自連都自治会代表者会議、授業料値上げ反対国公立大学共闘会議結成を決議。


 1.15−16日、全学連第二十六回拡大中央委〔衆院第一議員会館・都市センター〕、中執・マル学同派・草共同関西派より各々議案提出、中執案が採択され、大衆収奪政策・治安対策強化・反動政治粉砕を軸とする池田内閣打倒闘争の方針決定、一・二〇全国総決起、一・ニ七全国統一行動を設定。


 1.15日、全自連第六回拡大全国代表委員会、国公立共闘結成を決定、一・ニ〇全国統一行動を設定、全学連に行動の統一を呼びかける。


 1.16日、共産同全国学生細胞代表者会議〔東大駒場〕。


 1.20日、全学連、池田内閣打倒全国総決起、中央集会〔氷川公園〕に三百名参加、新島オルグ団決意表明、のち文部省・大蔵省にデモ。


 1.20日、全自連、授業料値上げ反対・反動文教政策反対・新島ミサイル基地化反対全国統一行動、中央集会〔芝公園〕に七百名参加、虎の門・新橋までデモ、二名逮捕。


 1.26日、全自連、第二波全国学生総決起、全国主要十二都市で集会・デモ、一万名参加、五カ所で乗客大会。


 1.29−30日、全自連第七回拡大全国代表委員会、三月全学連大会開催要求を決議、新島オルグ団強化・新島ミサイル基地化反対闘争全国化等を決定。


 2.3日、全自連、右翼テロ反対抗議で代表団五十名教育大に結集、国会で共産党議員に請願書手交。


 2.15日、日共が中央機関紙「学生新聞」(旬刊)を創刊して、構造改革派に握られた「全自連」の指導権回復に乗り出している。


 2.26日、共産主義者同盟全国労働者細胞代表者会議を京都で開催。参加メンバ―は、プロ通、革通、南部、西部、関西、九州、名古屋の各地区地方市委員会など70余名(学生半数)であった。戦旗派も参加したが、すでに革共同全国委との組織的統一を決定していたという理由で、立場表明を許されただけで退席させられている。

 労細代では、党内闘争の総括を行い、連絡会議の代表4名を決定し、3月を目標に同盟6回大会開催を申し合わせたが、反戦旗派=反革共同という点では一致したものの、総括内容ではなんら一致点を見出すことができず、6回大会を待たずに立消えとなり混迷と挫折の根深さを露呈した。

 しかし、共産同関西地方委員会は第一次ブント崩壊以後も、関西社学同として自立化し、いわゆる「政治過程論」といわれた独自の安保闘争総括によって関西地方における革命的左翼のヘゲモニーを引き続いて堅持して行くことになる。


【戦旗派解体、革命的戦旗派へ。続いて革共同全国委と統一】
 3.7日、共産主義者同盟革命的戦旗派指導部名で、「第六回大会で同盟を革命的に解体し革命的マルクス主義者の原則的統一をかちとれ! 反帝反スターリニズム革命的プロレタリア党の創造とわれわれの現在的任務」を発表し、戦旗派の革共同全国委への合流が指針された。解散決議を経て黒寛派の革共同全国委へ吸収されていった。

 次のように主張している。
 概要「ブントの分裂以後半年間が経過しており、ブントの再建目指して『統一協議会』」結成的な動きがあるが、そうした雑炊的集団、戦術左翼集団―同盟は醜悪腐敗の極であり、『われわれは、あらゆる形での旧同盟復活の試みに対しては、同盟の解体と止揚をめざす第六回大会をもって最後の答えとする』であろう。今やブントを革命的に解体し、戦旗派を中心とする革命的部分と革共同全国委との原則的統一を斗い取ることを、われわれの現在的任務であることを確認することを革命的戦旗派指導部の名において右宣言する」。

 この声明では、ブントの歴史的意義は完全否定され、「同盟はその出発点において破産していたのだ」と黒寛節一色に塗り込められ、次のように宣言している。
 「われわれの統一の対象は、明確に、革命的共産主義者同盟全国委員会以外にない。われわれは、革命的マルクス主義の立場に立ち、『反帝・反スターリニズム』を立脚点として一貫して革命的プロレタリア党のための斗争を斗って来た革共同全国委員会の基本的立場こそ、われわれが現在獲得すべく苦斗しているところの立場と原則的に一致することを確認する。このことは同時にブントを解体、止揚し、一点のあいまいさも残さず非妥協的に斗いぬくであろう」。

 黒寛節は続き、次のようにブント再建派の動きを罵倒している。
 概要「ブント再建派は、自己防衛を唯一の紐帯とする雑炊的雑居集団であり、醜悪な同盟分派斗争の腐敗と堕落のなれの果である」。
 「池田内閣打倒斗争に向かう者は卑小な政治運動屋であり、労働運動に向かった者は『労働者の中に転げ込んだ』だけであり、労働運動の中に没入し戦術左翼の職人根性と戦斗性を革命的プロレタリアートの歴史的自覚と思い違え、無自覚な即自的プロレタリアートの次元に居座り、プロレタリアートに戦斗的号令と教訓を垂れる組合運動屋は、疎外された労働の中で必然的に生み出されるプロレタリアの自己否定的直観を欠いた非プロレタリアでありプロレタリア的自覚の頑固な妨害者として、その役割はまさに反動的・反プロレタリア的である」。
 「自らの醜悪さを自覚しえず、自らの生み出した汚物を直視しえない者には、批判の解剖刀ではなくて、打倒のナタがふさわしいのだ。われわれは、われわれが今まさに自己否定的に止揚せんとしている旧同盟の全汚物と屍の再生を、革命的プロレタリアートの名において許すことはできない
 「かかる斗いを現実的に妨んでいる共産主義者同盟を一刻の猶余もおかず、革命的に解体し、止揚せねばならない。われわれは当面の緊急の任務、同盟の解体と止揚の、第六回大会をかちとるべく斗うであろう」。
(私論.私見)
 今これを見るに典型的な黒寛理論であり、戦旗派が革共同全国委と緊密な呼吸を合わせていたことが知れることになる。

【全自連が全学連の統一決議】
 3.1日、全自連幹部が「現代の学生運動」を出版。
 全自連は、3.16−19日、「全自連第五回全国代表者会議」を日本橋公会堂で開き105自治会、350名を結集した。全学連の統一を決議した。新島オルグ団強化・連絡機関から闘う組織への組織強化方針等を決定(議長・黒羽純久)。既に全自連内部は東京中心に構造改革派が進出しており、そうした内部緊張を高めたまま新学期闘争の体制を固めた。3.17日、全自連新島オルグ団、防共挺身隊に襲撃され四名重傷・十一名逮捕。
 3.24日、全自連代表十二名、防衛庁考査官と会見、新島ミサイル試射場強行設置に抗議。3.24−25日、全自連新島オルグ団(九十名)、地元反対同盟、労組オルグ団とともに道路工事予定地に坐り込み着工阻止、機動隊のゴボウ抜きに実力抵抗。3.28日、全学連新島オルグ団、ミサイル道路着工阻止坐り込みで京大生ら8名逮捕。

 3月、犯罪者同盟結成( 平岡正明、宮原安春、諸冨洋二)


 4.4日、共産同機閑紙「戦旗」、第53号をもって廃刊声明。


 4.4−5日、全自連第九回全国代表者会議、学生部次長制反対で四・一九第一波、四・二七第二波全国統一行動を決定、都自連代表委員会(議長・安藤紀典)を設置。


【全学連第27回中央委員会で、革共同=マル学同の指導権確立】
 4.5−6日、全学連第27回中央委員会が開かれた〔築地中央会館〕。この会議は唐牛、北小路ら5名の中執によって準備され、彼らの自己批判的総括とともに、篠原社学同委員長から、「ブント−社学同の解体」が確認され、「マル学同−革共同全国委への結集」が宣言された。共産同系中執の罷免一名辞任八名を承認、反帝反スタ・革命的学生運動路線打ち出す。唐牛委員長、北小路中執、清水丈夫、岸本健一らが合流していくことになった。

 こうしてマル学同はブントからの組織的流入によって飛躍的に拡大し、一挙に1千余名に増大することになった。これによって、全学連指導部はマル学同が主導権を握るに至り、革共同全国委系がブント戦旗派を吸収した。こうしてマル学同全学連の誕生となった。

 
社学同委員長篠原は、当時の早稲田大学新聞紙上で次のように述べている。
 「共産主義者同盟(ブント)の破産という中で、やはり革共同全国委員会というものが我々の問題として出てきているし、そういったものに結集する方向に社学同を指導するし、共産主義者同盟に指導されていたという社学同というのは解体して、全国委員会の指導のもとにある活動家組織としてのマル学同に個人的にはなるべくすみやかに現実の闘争の中で 吸収されていくという方向を、僕は指導して生きたいと思っているんですね」。

 これを付言すれば、黒寛式革共同の「他党派解体路線」のしからしむるところとなったということであろう。ただし、マル学同下の全学連の動きは、ポスト安保であったことと、ブン ト全学連的華やかさがなかったせいによってか、諸闘争に取り組むも数百名規模の結集しか出来ぬまま低迷していくことになった。

【三分裂ブントの革共同系移行の様子】

 三分裂したブントの一部が革共同系に流れていった。この様子を見ておくことにする。

 3月下旬、プロ通派が解散決議した。多くは戦旗派同様革共同全国委員会へ雪崩れていった。林グループは「プロ通左派=共産主義の旗派」を結成

 4.20日、戦旗派(中央書記局派)は組織を解散させての合同決議を行ない正式に合同した。田川和夫グループはこの流れである(田川氏は、後の革共同全国委分裂の際には中核派に流れ、さらに後の対革マル戦争の路線対立時に中核派からも離党することになる)。革通派は、 池田内閣打倒闘争の中で破産を向かえた。この派からの移行は記されていないので不明。

 プロ通派も戦旗派に遅れて解散を決議し、有力指導者ら一部が合流した。プロ通派から革共同に移行したメンバーには現在も中核派最高指導部に籍を置く清水丈夫氏、北小路敏氏などがいた。次のように評されている。

 「北小路・清水ら旧プロレタリア通信派は、マル学同からまだ自己批判が足らぬとされ、北小路は全学連書記長を解任された。彼らはその後遅れてマル学同へ加盟する」。

 プロ通派の林紘義一派が独立して「共産主義の旗派」を結成し、独自の動きを目指していくことになる。ブントは四分五裂の様相を呈することとなった。こうして社学同からマル学同への組織的移動がなされ、結局第一次ブント−社学同は結成後二年余で崩壊してしまったことになる。


(私論.私見) れんだいこのブントの解体要因考
 ここで、ブントの解体の要因について考察しておきたいことがある。元々ブン トと革共同の間には、深遠なる融和しがたい相違があったものと思われるが、 史実は雪崩をうつかの如く革共同への移行がなされた。これは、結成間もなく 「60年安保闘争」に突入していかざるをえなかったという党派形成期間の短さによるブントの理論的未熟さにあったものと思われる。「60年安保闘争」の渦中でそれを島−生田指導部にねだるのは酷かもしれないとも思う。

 私見は、ブントと革共同の間には単に運動論・組織論・革命論を越えた世界観上の認識の相違があったように捉えている。言うなれば、「この世をカオス的に観るのか、ロゴス的に観るのか」という最も基本的なところの相容れざる相違であったのではなかろうか。 ブントはカオス派であり、革共同はロゴス派的であろうとしており、両派は一層競合的に組織形成しつつあったのではなかったのか。この両極の対立は、人類が頭脳を駆使し始めて以来発生しているものであり、私は解けないが故に気質として了解しようと している。

 実際、この両極の対立は、日常の生活に於いても、政治闘争も含めたあらゆる組織形成・運動展開においてもその底流に横たわっているものではなかろうか。ユダヤ−キリスト教的聖書にある「初めに言葉ありき」はロゴス派の宣言であり、日本の神道的「森羅万象における八百万的多神観」はカオス派のそれのように受けとめている。両者の認識はいわば極と極との関係にあり、ブントと革共同は、この相容れぬそれぞれの極を代表しており、相対立する世界観に支えられて極化した運動を目指していたのではなかったか、と思う。

 島氏によ り、この観点−ごった煮的カオス的な善し悪しさ−が、当時のブントに伝えられていなかったことを私は惜しむ。それは、「60年安保闘争」に挫折したにせよ、ブントのイデオロギーは護持されていくに値あるものと思うから。本来革共同に移行し難いそれとして併存して運動化し得るものであったと思うから。どちらが良いというのではない。そういう違いにあるブント思想の思想性が島氏周辺に共有できていなかったことが知らされるということである。

 ブントのこの己自身の思想的立場を知ろうとしない情緒的没理論性がこの後の四分五裂化につきまとうことになる。あるのは情況に対する自身の主体的な関わりであり、ヒロイズムへの純化である。このヒロイズムは、状況が劣化すればするほど先鋭的な方向へ突出していくことで自己存在を確認することになり、誇示し合うことになる。惜しむらくは…というのが私の感慨である。

【吉本隆明氏のブント解体−革共同移行批判】
 吉本隆明氏は、ブント精神と革共同のそれの違いを認識しており、この時期の「ブント解体−革共同移行」について苦々しく思っていたと思われる。「擬制の終焉」で、「革共同の欺瞞的な態度」について次のように批判している。
 「革共全国委が共同をブランキズムとし、市民主義の運動をプチブル運動として、頭のなかに馬糞のようにつめこんだマルクス・エンゲルス・レーニンの言葉の切れつばしを手前味噌にならべたてて、原則的に否定するとき、彼らは資本主義が安定した基盤をもち、労働者階級がたちあがる客観的基盤のない時期 ― いいかえれば前期段階における政治闘争の必然的な過程を理解していないのだ。プチブル急進主義と民主主義しか運動を主導できない段階が、ある意味では必然的過程として存在することを理解できないとき、その原則マルクス主義は、『マルクス主義』主義に転化し、まさに今日、日共がたどっている動脈硬化症状にまで落ちこまざるをえないのである」。

 次のようにも批判している。
 「ここでもつとも滑稽なのは、はじめに、安保闘争の主導的勢力に水をかけながら、運動がおわり、これらが一定の成果をおさめたとみるや、おれたちはきみたち学生運動を支持してきたのだなどとおべんちゃらを呈し、じつは、無名の無党派学生および市民大衆がじぶんの足と手でもってあがなった運動の成果をわが田にひき入れて、過去もそうであったように現在もまた『バスに乗り』はじめたものたちである。

 わたしは共同にしろ革共全国委にしろ、安保闘争を無名の学生大衆の行動過程において考察せず、自らの指導性について手前味噌な自惚れをならべたてるとき絶望をかんじないではおられない。かれらもまた、ロシア革命や中国革命を、レーニンやトロツキーや毛沢東において考察し、たおれた無数の大衆の成果について考察できない官僚主義者に転落するみちをゆくのであろうか?

 なんべんも強調しなければならないが、いかなる前期段階でも、一定の政治理論と行動方針を大衆のなかに与える指導者よりも、ひとりの肉体としてたたかう無名の大衆のほうが重要なのであり、また重たいのである。ここでは、やむをえない場合、必然的に指導者はじぶんの責任をかたるのであり、自らの指導性を手前味噌に誇張するとき、官僚主義が生まれるほかないことは、あらゆる前期段階の歴史があきらかにしている」。

 吉本氏の批判は、マルクス主義理論に於ける党中央集権を必然とする前衛論に及ぶ。次のように批判している。
 「よく知られているように、有名な階級意識の外部注入論がある。階級意識(意志)は、外部から注入される。注入する階級意識(共同意志)を形成するのは誰か。意志の実態をなす、諸個人の外部に存在する前衛という政治集団である。

 この政治集団は意志の表現であるという本質論をもたないため、先験的に設定される。別のいい方をすれば、超越的なものとして設定される。意志の所有者の外部に存在する。共同意志を階級意識とするなら、それは個々人の中にあるのではなく、先験的な前衛集団(党)の中にある。真理は教祖や宗教的な集団にあらかじめあるというのと同じである。マルクス主義の政治集団が必然のように宗派的(宗教的)になっていくのは、真理(階級意識)が実存する意識(意志)から超越した、先験的なものとしてあるからだ。これは外部注入論と不可欠な関係である。

 レーニン的な前衛論(マルクス主義) では、肉体としてたちあらわれてくる政治的行動者には、彼自身が政治意志の主体として評価される場所はない。それはこの政治的な行動者が大衆であっても、知識人であっても同じである。個的な意志という意志の実態として評価されることも、位置づけられる場所もないのである。

 「ひとり肉体としてたたかう無名の大衆」とは個的に政治意志を発現する存在である。その総和が共同意志をなすのであるから、これこそが本来的な存在である。政治集団の超越性は革命集団という先験性(ようするに思い込み)にしか根拠はないのである。なぜ、それが前衛という幻想を生むのか。知識人の思い込みに過ぎないのである。

 レーニン主義と呼ばれる伝統左翼の思想はなぜ、我が国の知識人たちをとらえ、そして深く呪縛してきたのであろうか。そこにはロシア革命や中国革命が与えた世界史的な影響がある。しかしそれ以上に、支配共同体と生活共同体の間の意志(言葉)と隔絶してあるほかなかったからだ。つまり知識人は大衆の生活的な共同体の外部にあり、国家に依存する存在だった。国家が国民の生活共同体に対して、超越的に存在してきたように、超越的だったのである。

 とりわけ政治的な知識人はそうだった。この国家の超越性が解体し、共同意志(幻想)が大衆の意志に転換していくところに近代の革命があった。共同意志(幻想)の超越的形態の転換こそが近代革命だった。

 国民国家の形成という、大衆の共同性が国家に登場し、専制権力を制限し、限定づける立憲主義(近代国家)も、我が国の場合にはこの溝を解体させなかった。むしろ、この溝を全体とし(袋のように)包み込むものとして、近代国家はできたのである。 (中略)

 政治的な共同性が反体制や左翼というイデオロギーをもち、その内部の構成員が、内部で観念的に〈階級移行〉を繰り返しても、国家に依存し、その枠組みから自由になれないのはここに根拠があった。政治集団や知識人が転向を繰り返すという我が国の政治的伝統は、ここに歴史的基盤をもっていたのである」。

(私論.私見) 吉本氏の党中央集権制前衛論批判考

 吉本氏は、民主集中制と云おうとも内実は党中央集権制でしかないマルクス主義的前衛論に対して、まさしく詩人的感性のセンスで見事な批判をして入るように思う。少なくとも、かの時点で疑問を唱え、吉本氏なりの言葉を生み出しているところが凄いと云うべきだろう。

 2009.2.16日 れんだいこ拝

【第一次ブント史概説】

 ここまでの全学連の動きが次のように簡略にまとめられている。

 「こうして、日本共産党を除名され、あるいは自ら離党した学生党員、全学連活動家は、昭和33年(1958年)12月、「共産同」を結成するに至る。中心人物は、島成郎らで、かつて日共「国際派」系の活動家であり、トロツキズムを部分的には評価しながらも、全体としては受け入れず、そのため「革共同」に参加することなく別個に独自の組織をつくった。

 昭和33年(1958年)6月以来、「全学連」の中央執行部は「革共同」に抑えられていたが、翌昭和34年(1959年)6月の全学連第14回大会で「共産同」が執行部を独占し、唐牛健太郎が委員長に就任した。

 こうして、「共産同」に牛耳られた「全学連」は、第一次安保闘争の中心勢力として、同年11月27日の安保阻止第6次統一行動における国会乱入、昭和35年(1960年)1月16日総理訪米阻止のための羽田事件、同年6月15日の国会乱入など、過激闘争の主役を演じた。

 ところが、「共産同」主導のこの過激闘争は、社会党、共産党の批判を受けるとともに、学生運動内部においても論議をよび、安保闘争の挫折が明らかになるに至って、組織内部に闘争の指導のあり方や、革命理論をめぐって複雑な対立が生じた。

 そして、昭和35年(1960年)9月から10月にかけて「共産同」は、清水丈夫、姫岡玲司〔治〕ら全学連書記局を握る中間派的な「プロ通派」(プロレタリア通信派)、「政治局は階級決戦であった安保闘争を過小評価した」と批判する服部信司ら極左的な東大細胞を中心とした「革命の通達派」、前衛党建設のための理論的思想的組織活動の強化を主張する森
田実、田川和夫ら「労対グループ」を中心とする「戦旗派」に分裂した。

 更に、昭和36年(1961年)2月、「プロ通派」から林紘義グループが分れて「共産主義の旗派」を結成し、同年3月には、「戦旗派」が「革共同全国委」の理論に共鳴して組織を解散し、「革共同」に合流してしまうなどの経緯があって、同年4月の全学連第27回中央委員会で「共産同」の解体が確認され、「共産同」は結成後二年余で崩壊してしまうのである(第一次ブントの崩壊)。(「マル労同」(マルクス主義労働者同盟)は、「共産主義の旗派」の流れを汲むものであり、日本共産労働党―共産主義者同盟を経て全国社会科学研究会となり、これが昭和47年(1972年)7月、「真の前衛党づくりを目ざす」として改称したものである)

 「社学同」も亦、昭和33年(1958年)5月結成(第一次社学同)後、昭和34年(1959年)6月、「革共同」系を完全にシャットアウトした(第二次社学同)が、「共産同」の崩壊にともなって、昭和36年(1961年)4月の全学連第二七回中央委員会で、“マル学同=革共同全国委への結集”を宣言して解散してしまった」。

 このブントの崩壊に関する分かりやすく纏めた一文があるので紹介しておく。(社労党機関紙「海つばめ」第783号 町田 勝)
◎ブントの解体、その後の新左翼運動
 しかし、ブントのこの壮大な革命的夢想は安保闘争の終焉とともに挫折する運命にあった。安保闘争の直後、六〇年の夏から秋にかけて、ブントはこの闘争の総括をめぐり混乱と対立の坩堝と化し、四分五裂の状態に陥って、あっという間に組織的にも崩壊を遂げてしまった。

 安保闘争の渦中では隠されていたブントの小ブルジョア急進主義的な思想と運動の本質を闘争の終了は一挙にさらけだしたのであるが、どの分派もその限界をマルクス主義的に止揚し、新たな展望を切り開いていくことができなかったからである。

 実際、安保闘争の敗北は闘争の末期に国会突入などの激しい戦術を回避した指導部の日和見主義にあったとするウルトラ急進主義の「革命の通達」派や、革共同黒田派の観念的な「主体性」論に基づく小ブルジョア急進主義批判に屈服してブントの清算主義的な全否定に走った「戦旗」派はもとよりのこと、ブントの伝統を守るという立場から総括を呼びかけた「プロレタリア通信」派にしても何ら確固たる明確な方向を指し示すことはできなかったのである。

 誕生と同時に安保闘争に突入していくという当時の情勢の中で、それを要求することは物理的にいささか酷という側面はあるにしても、マルクス主義のしっかりした革命理論に立脚して組織と運動を作っていくという意識がブントには最初から希薄であり、それがブント主義の本質的な側面をなしていたことは、先に引用した結成宣言的な「全世界を獲得するために」の次の一節からも明らかである。

 「思想と、理論と綱領との単なる論争によってのみ、創造しようとする、ブルジョア的なおしゃべりグループが呟く組織の前に綱領を、行動の前に綱領を、という言葉に反対してわれわれは、日々生起する階級闘争の課題に応えつつ、その実践の火の試練のなかでのみ、プロレタリアート解放の綱領が生まれでよう。われわれは闘争の保障を『戦略規定』ではなく、諸階級の相互関係のうちに求める、と答える」

 なるほど、これは確かに黒田派や構革派などの痛いところを衝いてはいる。しかし、全体としては行き過ぎである。「実践の火の試練のなかでのみ、プロレタリアート解放の綱領が生まれでよう」というのも一般的には正しい。しかし、彼らの言う「実践」とは勤評や安保といった「日々生起する」民主主義的平和主義的な諸闘争に他ならず、広い意味でのプロレタリアートの歴史的革命的な実践ではないのである。これでは日常的な諸闘争を戦闘的に闘っていけば、革命的な綱領や立場が自然に獲得されるとする組合主義・経済主義の一種でしかないだろう。

 実際、彼らがマルクス主義的な革命理論をどんなに軽視していたかは、当時のブント書記長の島成郎が回想録で、当時はトロツキー主義はもとより実存主義であれ、プラグマティズムであれ、利用できるものは手当たり次第に取り入れていたという貴重な証言を残していることからも明らかである。そして、ブントの綱領的文書と言われた姫岡玲治の「国家独占資本主義」論にしてからが俗流経済学の典型である宇野派の「三段階」方法論に依拠したものでしかなかったことに、ブントの無理論主義あるいは思想的雑炊状態は象徴されていた。

 加えて、「学生運動」=労働者の階級闘争の「同盟軍」、「先駆性論」である。つまり学生による闘争の激発で「ショック」を与えることにより労働者階級を革命的な闘いに立ち上がらせるという、その後の新左翼運動も一貫して信奉してきた典型的な小ブルジョア急進主義の“理論”である。

 これでは安保闘争のさなかにあっては何とかやっては行けても、それが終わればその後どうやっていっていいのか展望を見失うことは初めから明らかだった。ブントの崩壊はこうした小ブルジョア急進主義の行き詰まりと破綻の必然的な帰結であった。

 そして、ブントの崩壊後、「戦旗」派は丸ごと、「プロ通」派はその一部が革共同に救いを求めて「乗り移り」、同派は一時的に水膨れしたが、その彼らも六三年には旧ブント派を中心とした卑俗な実践主義を唱える中核派と、「反帝・反スタ」のお題目の下に「革命的な自己変革」と「主体形成」に基づく革命党の建設という独特な宗派主義に立脚した革マル派へと分裂。また、六〇年代初頭にはローザ主義を掲げ、労働者階級の自然発生性を重視せよと叫ぶ社青同解放派(革労協)が新たに登場し、六六年にはブントの流れを汲む諸派によって再建ブントが誕生、これにトロツキー派の第四インターが加わって、日本の新左翼運動は展開されていくのである。


 このブントの崩壊に関する分かりやすく纏めた一文があるので紹介しておく。(社労党機関紙「海つばめ」第783号 町田 勝)

 ◎ブントの解体、その後の新左翼運動

 しかし、ブントのこの壮大な革命的夢想は安保闘争の終焉とともに挫折する運命にあった。安保闘争の直後、六〇年の夏から秋にかけて、ブントはこの闘争の総括をめぐり混乱と対立の坩堝と化し、四分五裂の状態に陥って、あっという間に組織的にも崩壊を遂げてしまった。

 安保闘争の渦中では隠されていたブントの小ブルジョア急進主義的な思想と運動の本質を闘争の終了は一挙にさらけだしたのであるが、どの分派もその限界をマルクス主義的に止揚し、新たな展望を切り開いていくことができなかったからである。

 実際、安保闘争の敗北は闘争の末期に国会突入などの激しい戦術を回避した指導部の日和見主義にあったとするウルトラ急進主義の「革命の通達」派や、革共同黒田派の観念的な「主体性」論に基づく小ブルジョア急進主義批判に屈服してブントの清算主義的な全否定に走った「戦旗」派はもとよりのこと、ブントの伝統を守るという立場から総括を呼びかけた「プロレタリア通信」派にしても何ら確固たる明確な方向を指し示すことはできなかったのである。

 誕生と同時に安保闘争に突入していくという当時の情勢の中で、それを要求することは物理的にいささか酷という側面はあるにしても、マルクス主義のしっかりした革命理論に立脚して組織と運動を作っていくという意識がブントには最初から希薄であり、それがブント主義の本質的な側面をなしていたことは、先に引用した結成宣言的な「全世界を獲得するために」の次の一節からも明らかである。

 「思想と、理論と綱領との単なる論争によってのみ、創造しようとする、ブルジョア的なおしゃべりグループが呟く組織の前に綱領を、行動の前に綱領を、という言葉に反対してわれわれは、日々生起する階級闘争の課題に応えつつ、その実践の火の試練のなかでのみ、プロレタリアート解放の綱領が生まれでよう。われわれは闘争の保障を『戦略規定』ではなく、諸階級の相互関係のうちに求める、と答える」

 なるほど、これは確かに黒田派や構革派などの痛いところを衝いてはいる。しかし、全体としては行き過ぎである。「実践の火の試練のなかでのみ、プロレタリアート解放の綱領が生まれでよう」というのも一般的には正しい。しかし、彼らの言う「実践」とは勤評や安保といった「日々生起する」民主主義的平和主義的な諸闘争に他ならず、広い意味でのプロレタリアートの歴史的革命的な実践ではないのである。これでは日常的な諸闘争を戦闘的に闘っていけば、革命的な綱領や立場が自然に獲得されるとする組合主義・経済主義の一種でしかないだろう。

 実際、彼らがマルクス主義的な革命理論をどんなに軽視していたかは、当時のブント書記長の島成郎が回想録で、当時はトロツキー主義はもとより実存主義であれ、プラグマティズムであれ、利用できるものは手当たり次第に取り入れていたという貴重な証言を残していることからも明らかである。そして、ブントの綱領的文書と言われた姫岡玲治の「国家独占資本主義」論にしてからが俗流経済学の典型である宇野派の「三段階」方法論に依拠したものでしかなかったことに、ブントの無理論主義あるいは思想的雑炊状態は象徴されていた。

 加えて、「学生運動」=労働者の階級闘争の「同盟軍」、「先駆性論」である。つまり学生による闘争の激発で「ショック」を与えることにより労働者階級を革命的な闘いに立ち上がらせるという、その後の新左翼運動も一貫して信奉してきた典型的な小ブルジョア急進主義の“理論”である。

 これでは安保闘争のさなかにあっては何とかやっては行けても、それが終わればその後どうやっていっていいのか展望を見失うことは初めから明らかだった。ブントの崩壊はこうした小ブルジョア急進主義の行き詰まりと破綻の必然的な帰結であった。

 そして、ブントの崩壊後、「戦旗」派は丸ごと、「プロ通」派はその一部が革共同に救いを求めて「乗り移り」、同派は一時的に水膨れしたが、その彼らも六三年には旧ブント派を中心とした卑俗な実践主義を唱える中核派と、「反帝・反スタ」のお題目の下に「革命的な自己変革」と「主体形成」に基づく革命党の建設という独特な宗派主義に立脚した革マル派へと分裂。また、六〇年代初頭にはローザ主義を掲げ、労働者階級の自然発生性を重視せよと叫ぶ社青同解放派(革労協)が新たに登場し、六六年にはブントの流れを汲む諸派によって再建ブントが誕生、これにトロツキー派の第四インターが加わって、日本の新左翼運動は展開されていくのである。


 4.18日、全自連、米のキューバハ侵攻に抗議行動、東大・教育大・早大等六十名参加してキューバ大使館を激励、米大使館に抗議、機動隊と衝突。


 4.19日、全学連第一波統一行動、ILO関係法改悪阻止・治安立法粉砕で東郷公園に五百名結集、新橋までデモ。


 4.19日、全自連第一波統一行動、教育法改悪粉砕・新島ミサイル基地化反対で氷川公園に六百名結集、日比谷までデモ。


 4.27日、全自連第二波統一行動、東京では日比谷野音に千五百名結集、田村町までデモ。


 4.28日、全学連第二派統一行動、東京では日比谷野音に四百五十名結集、東京タワーまでデモ。


 5.5日、マル学同第1回拡大全国大会〔東京〕、全学連二十七中委路線確認、五・一九全学連第三波統一行動等を決定。


 4.5−6日、全自連第十回全国代表者会議〔社会福祉会館〕、四月闘争を総括、学生部次長設置反対闘争の全国化等を決定。


 4.19日、政暴法粉砕闘争、東京では全学連七百名が芝公園に結集、新橋までデモ・五名逮捕、全自連二千名は日比谷野音に結集、国会請願デモ。


 4.21日、全自連、政暴法案国会上程に非常事態宣言。


 4.23日、全学連、政暴法粉砕・国会会期延長阻止で衆院議員会館前に三百名結集・四名逮捕、日比谷野音で決起集会を開き非常事態宣言。


 4.30日、全学連、政暴法粉砕中央総決起集会〔日比谷野音〕に千五百名結集、のち国会に向かうが機動隊に阻止され新橋までデモ、五名逮捕、京都では立命館大を中心に千五百名の決起集会〔同志社大〕で機動隊と衝突、市内デモで一名逮捕。


 4.31日、全自連、政暴法粉砕全国学生総決起、中央集会〔芝公園〕に4千名参加、日比谷までデモ、のち青年学生決起集会に合流。


 5.17日、池田政権は、自民党、民社党の協力で「政治暴力防止法案」(政暴法)を国会に上程した。右翼テロを口実として暴力行為を取り締まる名目で団体規制を強化しようとするものだった。全自連も、マル学同全学連も、安保闘争の延長戦として直ちに反対闘争に立ち上がった。しかし、学生戦線の分裂が尾を引き盛り上がりが弱かった。マル学同全学連は、ただちに非常事態宣言を発して、緊急デモを国会へ向けて組織し、「5.30日にゼネストを」アピールを打ち出している。5.30日に結集したのは約5百名でしかなかった。 


 5.21日、全自連は「非常事態宣言」を発し、5.31日、統一行動を設定し、 「授業放棄」を訴え、東大教養をはじめ多くの大学でストライキを決行させている。約3千名結集。


 5月、社青同学生班協議会のイデオローグ滝口弘人が「共産主義=革命的マルクス主義の旗を奪還するための闘争宣言」を発表した。これを「滝口論文」と云う。「滝口論文」は、労農派マルクス主義を評価するなかで反スタ、反トロ、反レーニン主義のローザ主義的立場を打ち出していた。この流れが後の1965年に社青同解放派を創出していくことになる。


 6.2日、衆院法務委政暴法の強行可決に全学連緊急動員、衆院第一議員会館前に二千名結集、深夜まで国会周辺デモ・坐り込みで六名逮捕、全自連二千五百名、国民会議の指示に従い流れ解散。


 6.3日、法案の衆院通過日のこの日、労学による午前1時過ぎまで南通用門前に座り込み闘争が続けられた。結局、法案そのものが国会内の取引で「参議員では継続審議」と決まったこともあって、以降急速に動員力が落ちていった。


 6.3日、政暴法粉砕闘争、全学連二千名、決起集会〔三宅坂〕の後、国会周辺で機動隊と衝突、九名逮捕、全自適三千七百名、国民会議の請願デモ参加の後、八重洲口までデモ、解散時に機動隊に襲われる。


 6.4−5日、全自連第六回全国代表者会議〔教育会館〕、政暴法闘争の中間総括、全学連大会対策等を討議。


 6.4−6日、民青同第七回全国大会〔日本青年館〕、全学連正常化・学生運動を民族民主統一戦線の一果たらしめるための民青同の役割を強調。


 6.5日、政暴法粉砕全学連統一行動、中央決起集会〔日比谷公園〕に五百名参加、新橋までデモ、一名逮捕。


 6.6日、全学連3000名が政暴法(政治的暴力行為防止法案)粉砕の決起大会に結集。政暴法粉砕全学連統一行動、中央決起集会〔芝公園〕に三千名結集、翌早暁まで国会周辺デモ、全自連四千名は三宅坂に結集、国会請願デモ。


 6.7日、政暴法粉砕闘争、全学連千名日比谷野音に結集、デモで国会に向かうも公園出口で機動隊と衝突、新橋までデモ、全自連は国民会議中央集会に昼夜二千名参加、国会デモ。


 6.8日、政暴法粉砕闘争、全学連五百名日比谷公園に結集、機動隊に包囲され新橋までデモ、一部は日比谷に戻り夜間部学生三百名と合流、八重洲口までデモ、全自連二千名は国会請願デモの後、国民会議の中央集会に合流、再度国会デモ。


 6.9−10日、全自連第十一回拡大全国代表者会議〔教育大〕、政暴法闘争を総括、全学連大会対策等を討議。


 6.11日、マル学同全都活動者会議〔法政大〕、マル学同内旧共産同グループによる反日共系学生活動家の連合組織共産主義学生同盟″構想が暴露され破産。


 6.13日、全学連中執委、十七回大会日程を決定、全自連の大会平等無条件参加・権利停止処分撤回等の申入れに全自連解散が前提と拒否。


 6.14日、全自連、学生部次長設置反対・池田訪米反対決起大会〔日比谷公園〕に二百名参加。


【6.15樺美智子葬一周年集会】

 6.15日、樺美智子葬一周年のこの日、マル学同全学連は6.15一周年記念・政暴法粉砕・池田内閣打倒・全学連決起集会〔日比谷野音〕に3000名を結集し、国会デモに向かった。機動隊とのもみ合いの後共立講堂で「樺美智子追悼集会」が為された。集会の主宰者には、全学連.社会党.総評.社青同.文化人らが名を連ねていた。


 6.23日、全学新第十四回全国大会〔中労委会館〕、早大等の反対を押し切って全自連派の方針採択、学生運動統一の要請文を全学連書記局に提出。


 遂に「政治暴力防止法案」は継続審議に追い込まれ、その後廃案になった。こうしてマル学同全学連も果敢に取り組んではいるが、昔日の面影を無くしていた。その他潮流はこの期間中も分派抗争の最中にあったようである。この政暴法闘争は、関西ブントに利をもたらし、マル学同全学連の進出を促すことになった。


 京大では、教養学部の自治委員長と同学会の代議員選挙で、旧主流派(関西ブント)が圧倒的に勝利し、民青系が孤立する結果を生んでいる。こうして、京都では、京大と同志社大を中心として京都府学連を1965年まで関西ブントが執行部を押さえていくことになった。後に三派系全学連創出の有力地盤となっていくことになる。早大一文.法大経済などもこの闘争の中で(二重執行部などの問題を含みながらではあるが)執行部を民青系から取り戻している。しかし、民青系全自連の進出を押し止めたこのことが、逆にマル学同と反マル学同との抗争を激化させていくことになった。


 この頃の島氏の動向が「未完の自伝―1961年夏のノート」に次のように記されている。

 「ともかく60年8月のブント大会から始まった日本の左翼の思想的再編は、今年の4月、プロ通派・革通派の解散、戦旗派の黒寛派への移行、黒寛派の全学連無血占領によって新しい段階に入った。日本左翼にとって、このブントの分解に見られる思想的混乱は、戦後最大のものである。因みに50〜51年の、56〜58年のそれと比較してもすぐ分かる」。
 「目標は反黒、反日共の革命的左翼のケルンの結集。その為に、ブントの中で最も優れた部分の結集、あるいは各方面での思想運動。第三にブントの全面的(思想的、政治的)批判。第四にマル共の分裂の促進(第8回大会を控えて)。第五に経済的基礎の確立。第六に学生運動史資料の整備。以上の目標を決めて始めた。そして2ヶ月たった」。

 7.1−2日、道学連第17回大会。一日目・北大→札幌医大、二日目・北学大札幌〕、全自連派を締め出し主流派単独大会、マル学同系が主導権掌握。


 7.2日、中国学連結成大会〔広島大〕、八大学十三自治会参加、全学連主流派不参加。


 7.3日、韓国で陸軍少将の朴正熙が全権を掌握し首相に就任。以降、ソウルオリンピック開催の前年、1987年まで25年余、軍人支配が続く事になる。


 7.5日、日共全国学生細胞代表者会議、全自連継続・強化方針と解散・早期統一方針とで意見不一致。
 7.6−7日、全自連第七回全国代表者会議〔教育大〕、全学連大会参加条件として平等無条件参加・権利停止処分撤回・大会の民主的運営の3項目を確認。
 7.6日、マル学同第二回拡大全国大会〔京橋公会堂〕、政暴法闘争総括、反帝反スタ路線による全学連再建を確認(委員長・高木徹)。
 7.7日、全学連主流流総決起大会〔麻布公会堂〕、マル学同派の大会運営方針に反発する社学同・革共同関西派・社青同三派は飯田橋つるや旅館に集まり反マル学同で一致(つるや連合)。
【全自連崩壊】
 7.8日、日共第8回大会を前に、日共中央統制監査委員会議長の春日庄次郎が党の新綱領草案批判、離党声明。7.20日、中央委員の山田六左衛門、西川彦義、内藤知周、亀山幸三、中央委員候補の内野壮児、原全五の6名が春日に同調して脱党。7月、全自連メンバー佐竹徹、黒羽純久らが春日らの脱党に呼応して全学連再建準備委員会を結成。8月、全学連再建準備委員会に続いて民青革新委員会を結成。これにより全自連が崩壊する。

【全学連第17回大会開催を前にしてのマル学同と反マル学同の異様対立】
 全学連大会の時期を迎えていたが、各派が思惑を絡めていくことになった。この時の全学連各派は、1.中執を握るマル学同系、2.構造改革派系全自連、3.民青同系、4.社青同系、5.革共同関西派系、6.旧ブント再建社学同系、7.旧ブント関西社学同系となっていた。

 マル学同に移行しなかった旧ブント−社学同と革共同関西派と社青同は、マル学同のイデオロギー的、セクト主義的な学生運動に反発しており、反マル学同で意見の一致を見て、大会前夜に飯田橋のつるや旅館で対策を講じた。これをつるや連合と言う。

 各派とも全学連の主導権を狙って画策したということであろう。マル学同は、反対派を暴力的に閉め出す動きに出た。全自連に対しては、自治会費の未納を理由に全学連から完全に排除し、つるや連合に対しては代議員の数を削減したりして対応したようで、マル学同派による指導部独裁体制を企図した。この手法は前々回、前回の全学連大会より既に見られているので、このやり方だけを見てマル学同を批判することは不当かも知れないが、こうした暴力的手法の常習癖が革共同全国委系にあることはこの後の経過によっても窺い知れることになる。この当時一等秀でた理論的優位性を保持していた革共同全国委系の惜しむべき裏面と私は思っている。

 唐牛の次のような証言も遺されている。
 「入ってみたらマル学同というのが、意外に戦闘力がないんで、別に共産主義学生同盟というのをつくろうと相談して、17回大会の前夜には、かなりの賛成者がいたんだが、幹部で二〜三人迷っているのがいて、そのうち大会になり、朝っぱらから乱闘になったものだから」。

【マル学同対つるや連合の抗争で、学生運動史上初めて武器が登場】

 マル学同は、反対派を暴力的に閉め出す動きに出た。全自連に対しては、自治会費の未納を理由に全学連から完全に排除し、つるや連合に対しては代議員の数を削減したりして対応したようで、マル学同派による指導部独裁体制を企図した。

 こうしたマル学同のやり方に反発して、つるや連合側は早朝より会場を占拠して対抗。マル学同はピケを張るつるや連合に殴りかかったがらちがあかず、角材を調達して武装し襲った。こうして会場を奪還したが、これが学生運動上の内部抗争で初めて武器が登場した瞬間であった。この角材ゲバルト使用を指揮したのが清水丈夫全学連書記長であったと言われている。興味深いことは、その乱闘の最中に全自連が会場に入って来ようとすると、マル学同とつるや連合は乱闘を中止して、一緒になって全自連を追いだし、全自連が去るとまた乱闘を開始したと言う。この感覚も一体何なんだろう。この時警官隊の規制が為されたとあることからすれば、おでまししていたようである。この乱闘は二日間にわたって行なわれ、最終的にはマル学同以外は大会をボイコットし、それぞれが大会を開くことにな った。


【全学連第17回大会】
 7.8−11日、全学連第17回大会(委員長・北小路敏)はこうした状況の中で開催され、マル学同派の単独開催となった。代議員は282名と発表されている。実質は150名以下であったとも云われている。他の党派を暴力的に閉め出した体制下で、大会議長を自派より選出し、議案を採決するというまさに私物化された大会となった。大会議案は、「帝国主義打倒・スターリン主義打倒の学生運動」(反帝反スタ)観点を打ち出し、賛成248、反対10、保留1で中執提案を可決した。この時、関西ブント系の京都府学連執行委員会が対案を提出している。

 人事は、ブント出身の北小路敏(京大)を委員長、副委員長に根本仁(北海道学芸大)、小野田襄二(埼玉大)を選出し、以下マル学同のオール中執となった。全学連規約を改正して、全学連の活動目的に前衛党の建設を学生運動の基本任務とする「反帝反スタ」路線を公然と打ち出した。「仮借なき反帝闘争の中で全自連を粉砕し、学生運動における革命的左翼の力を拡大するために‐‐‐帝国主義ブルジョアジー.池田内閣の新政策と対決し、池田内閣打倒の闘いを進めよう」との行動方針案を提案し、賛成233、反対9、保留3で可決されている。以降、同年末の18回大会、1962年の19回大会をマル学同は自派のみで開催した。
(私論.私見) マル学同の排他主義考
 この手法は前々回、前回の全学連大会より既に見られているので、このやり方だけを見てマル学同を批判することは不当かも知れないが、こうした暴力的手法の常習癖が革共同全国委系にあることはこの後の経過によっても窺い知れることになる。この当時一等秀でた理論的優位性を保持していた革共同全国委系の惜しむべき裏面と私は思っている。

【関西ブント系の京都府学連執行委員会対案】
 全学連17回大会に、「関西ブント系の京都府学連執行委員会対案/安保闘争の政治理論としての総括」(執筆は同志社大学の山本勝也)が提出されている。「「関西ブント」/赤軍」がサイトアップしている。これを転載しておく。
 安保闘争の政治理論としての総括
 安保闘争を「予想外の高揚」だったというこの言葉は、安保闘争の総括の困難さを、したがってその重要性を、端的に表現している。「政治は経済の集中的表現である」ということをドグマチックに理解して、〔経済不況→労働者の生活状態の悪化→労働者階級の高揚〕という経済決定論では、安保闘争は何事も語りえなかった。経済的には「高度成長」といわれる好況局面にあったのだ。だから、彼らにとっては、まさに「予想外の高揚」でしかありえなかった。すこしでも教条主義批判の態度をとるマルクス主義者ならば、日本のマルクス主義が「政治理論として確立していない」がために、「政治過程の独自の運動法則をとらえることができず、したがって、政治情勢の急激な展開の可能性について予測を、従って政治闘争における決定的な時点の把握」ができなかったことを、自らその破産を宣言せざるをえなかった。(『思想』 六一年二月号における大江志乃夫の「実践をとおしての政治理論の反省」)

 「情勢分析における客観主義、方針における主観主義」「万年決戦論」あるいは「羅列摘発闘争」等からの活路はここに破産を宣告された政治理論をわれわれの手で確立する事、それにより政治闘争の見通しをもつことにある。政治理論とは、現存する階級闘争の総括「すなわち、われわれの目の前でおこなわれている歴史的運動の一般的表現」(「共産党宣言」)にほかならない。安保闘争をこの観点から総括しなおすこと、ここに政治理論のすべてがあるといっても過言ではない。安保闘争は現代の日本における政治闘争としては最大の経験だったのだから。

 (一)政治闘争の広さと深さについて

 安保闘争は、「革命情勢」と錯覚する者があらわれるほどの大闘争であった。けれども、一体どの程度に「大闘争」だったのか、また何を基準にそういいうるのか。この問題は現代日本における政治闘争の発展過程、つまり政治過程の具体的解明であり、そこからのみ、今後の日本の政治闘争の見通しをもちうる。
 
 この政治闘争の「見通し」は、いうまでもなく、主観的願望にもとづいた恐意的な要素のまったく含まれていないものでなければならない。更にそれは、単なる一般論ではなく、現代という特定の、日本という特殊の、即ち、まさに「現代」の問題でなければならない。このような観点から展開せんとするわれわれの政治理論なるものは、日本における政治闘争の最大の経験である安保闘争の「偉大な教訓」 の理論化による「現代」への接近である。

(a)日本の権力構造とその性格

 まず最初に、日本の権力構造<議会―内閣―政府―警察(自衛隊)> と その性格について簡単にまとめておく必要がある。なぜなら、政治闘争とは、国家権力をめぐっての全国的階級闘争であり、更に、「前衛不在」と言われる現代の日本においては、現存する階級闘争は、レーニンの言う「組合主義的政治」のための闘争、即ち改良闘争としてしか展開され得ない。安保闘争も多くの論者がすでに明らかにしているように、自然発生的な、従って小ブル的な政治闘争として展開されたものである。そのような政治闘争の発展過程=現代日本の政治過程は日本の権力構造の具体的な分析をぬきにしては語りえない。資本主義国家に於ける議会の本質について、レーニンは『国家と革命』の中で次のように述べている。「支配階級のどの成員が議会で人民を抑圧し、蹂躙するかを、数年にただ一度決めること―この点に議会制立憲国をはじめ最も民主的な共和国においてもブルジョア議会主義の真の本質がある。」同時に又、レーニンはロシア十月革命前後の、つまり資本主義の帝国主義段階への変遷という歴史的な時期における議会に対して、「議会はすでに雑談場に変ってしまった」といい、更に「この雑談場とそこでの決議でもって馬鹿正直な百姓をごまかしている」と述べている。このレー二ンの議会に対する論談は、明らかに現代もなお有効な本質論である。けれどもここから、「ブルジョア議会はおしゃべりの場所」であるから、「議会ナンセンス」ときめつけることによってこと足れりとするならば、現代の具体的分析を怠った教条主義として批判の対象とならねばならない。

 戦後日本においては、イタリー、べルギー等と同じく民主主義が憲法として定型化されており、議会制民主主義制度が確立している。そのもとにおいては、ブルジョアジーの政治的、軍事的政策は、形式的にせよ、議会を通過する。従って警職法にせよ安保にせよ、又政暴法にしてもそうであったが、議会の中での討論・決定をめぐって闘争の山がつくられ、また反動化に対しても、具体的には議会において現出されるが故にその反対闘争は議会制民主主義擁護の立場が支配的となりやすい。民主主義闘争が全て、民主主義擁護という小ブル的性格を強くもつのも、民主主義が憲法として定型化されているが故である。

 構造的改良論者は、マルクス主義を科学として理解しえず、資本主義が国家独占資本主義として延命した段階での諸々の新しい現象と一時的繁栄にまどわされ、第二次大戦後の民主主義のある程度の憲法としての定着化からくる国家の、とくに議会のより一層大きくなった幻想性に自ら幻想を抱いた小ブル思想の典型である。

 彼等は、議会を通じての平和革命が可能であるという幻想的観点から、マルクス主義国家論の修正にとりかかる。 国家権力が公的性格と階級支配とに分離され、階級支配よりも、むしろこの公的性格が国家の本資として主張される。われわれにとって必要なことは、現代の諸々の新しい現象を本質論との関連で実践的対応の問題として把握することである。

 戦後の政治的民主主義の憲法化の実践的意義は、社会主義革命のための有利な条件と広汎な具体的契機の存在として理解されなければならない。議会に形式的な決定権は認められているが、ブルジョアジーの政治プラン(政策)は独占ブルジョアジーとの協力で内閣によって決定される。したがって、政治闘争は当初から対政府闘争として全国的な政治闘争として展開される条件にある。

 このような権力構造が全体として「一般に共通性という幻想的形態」(マルクス『ドイツイデオロギー』)をとって国家を形成している。けれども「共通の、幻想的で共通の利害に、たえず現実的に対立している特殊な利害のあいだでの実践的な闘争が、国家としての幻想的『利害』による実践的な干渉と制御とを必要ならしめる」(マルクス『ドイツイデオロギー』)。

 この「実践的な干渉と制御」とは、具体的にはレーニンのいう「武装した人間の特殊部隊」=「暴力装置」としての常備軍、警察、官僚群であり「常備軍と警察とは、国家権力の重要な武器である」(レー二ン『 国家と革命』)この「国家権力の武器」は、現代の日本においては、その幻想性をかなぐりすてて、警察の治安弾圧、陸上自衛隊の国内治安への専念化、更に右翼暴力破壊屋への転化が加わって、暴力化している。政治闘争は、この国家権力の暴力化とあいまって、不可避的に"暴力的形態"の性格をおびざるをえない。従って、国家権力、右翼の暴力的弾圧が政治闘争の発展の一つの重要な契機となる。

 (b)現代における政治闘争の発展過程
以上のような性格をもつ権力構造の中で、安保闘争は国家の本質=「支配階級の意志」 に対決して、国家権力=「最も高度に組織された暴力」(マルクス『 資本論』) に一歩一歩と肉迫していった。この進展の過程を、対権力の問題を焦点に、現代における政治闘争の発展過程として、次のように抽象化しうる。

 (1)反対意志の全国的組織化の段階。宣伝、教育を中心にした啓蒙活動から、反動粉砕闘争として、次第に大規模な集会、街頭デモへと発展していく。

 (2)議会の幻想性に対して『平和と民主主義』という、より大なる幻想性そのものをかかげての全国的政治闘争の展開される段階。集会、街頭デモを中心とした闘争が、議会での討論の進行過程に照応した闘争の山を形成しながら発展する。その過程で警官の妨害も加わり、"国家権力の暴力化"により"大衆の暴力"が発生する。これを契機に議会の幻想性が暴露され、闘争は次の段階へ発展する条件が成熟する。

 ここで注目すべきことは、議会の幻想性だけではなく、既成左翼政党の幻想性をも同時に暴露したことである。議会の幻想性が暴露された段階において何をなすべきか。つまりその時点での戦術を大衆が要求する。それに答ええない指導部は大衆の面前に"無能者"として自己の姿をさらけ出す。似非前衛党の物神性が音をたてて崩壊しはじめる。この既成左翼の物神性の崩壊は、当然の結果として、既成指導部にたよらず、独自に政治闘争の局面を打開してより高い次元に進展させんとする広汎な大衆、とくにインテリを中心にした部分を一つの政治的潮流として登場させる。この潮流は思想的に「真の前衛政党」 の確立というところまで高められ"トロツキズム運動"を形成する。

 「全学連」はまさにそのようなものとして登場したのである。既成政党の無能、というよりは、むしろ闘争の質的発展の意識的回避の中にあって、何とかして局面を打開しようと独自でそのための戦術を追求した。この戦術を行動にうつす際、一つの障害に直面した。「統一と団結」という神話である。全学連はこの神話を、統一戦線論の倭少化として破棄し、統一戦線の立体化という観点から、既成政党とそのエピゴーネンによる"ハネアガリ"、"トロッキスト"等の非難をむしろその戦術の有効性のメルクマールとしつつ、独自の戦術の具体化に努力をつくした。11・27 、1・16 、6 ・15、これらは術頭デモの戦術にすぎなかったとはいえ、安保闘争の質的発展をもたらした決定的要因であった。だからこそ、全学連は常に運動の中心となったのであり、この全学連の運動をぬきにしては、安保闘争の次の段階への発展は考えられない。

 (3)国家権力そのもの、つまり暴力と直接対決する段階。国家権力がますます暴力化するのとあいまって、大衆の街頭デモのより一層の暴力化の中で、ブルジョアジーは安保をなにがなんでも成立させねばならない必然性から、議会制民主主義の枠の中では、即ち、幻想性を保持したままではそれを通過させることに成功しえず、遂に、自ら議会の幻想性をすて、「単独裁決」という、国家権力の本質である"暴力"に訴えざるをえない。この民主主義破壊の暴挙は、プチブルの民主主義意識を大きく刺戟し、闘争は反動粉砕闘争の次元から、急速に内閣打倒闘争へと転化する。大衆の暴力化は更に発展し、プチブルの街頭行動と部分的な労働者の実力行使によって、遂に内閣危機が出現する。

 この段階においては、闘争の進展は権力との直接的対決以外にありえない。安保闘争の勝利の展望は、国家権力という暴力によってうらずけられているブルジョアジーの支配体制を否定すること、即ち革命以外になかったのである。六・一九の自然成立を前にして、国会をとり囲んだ厖大な労働者、学生大衆は、遂に何事をもなしえなかった。敗北の一瞬である。

 安保闘争は、権力との衡突を部分的に含みながら、したがって萌芽的な革命的高揚を生みながらも、権力との全面的、直接的対決としての、レーニンのいう「革命的高揚」 を生みだすことなく敗北していった。

 (c)政治闘争の『広さと深さ一は何によって決定されるか?
政治闘争の「広さ」は、その闘争がどれだけの諸階級をまきこんで展開されたかということであり、「深さ」は、対権力との関連で、安保闘争に典型化された〔支配階級の意志に対立する被支配階級の意志の全国的組織→国家の幻想性に対するより大なる幻想性をもっての闘争→国家の幻想性の暴露→国家権力との直接的、全面的対決〕という現代における政治闘争の発展過程のどの段階まで進展したかということである。

 政治闘争の深度の問題は、次の二点、闘争の主体と客体の問題から補足されなければならない。

 まず第一に、闘争の主体の問題、どの様な観点から闘われたのかという問題である。安保闘争は、その質的転化〔プチブル政治意識→プ口レタリア政治意識〕を実現しえなかった。プチブル政治意識の高揚にもとづく、プチブル主体の国会デモという街頭行動によっても内閣打倒は実現するということを安保闘争は実証すると同時に、議会制民主主義の復活としての〔内閣打倒→国会解散→総選挙〕という議会主義コースが支配的となり、それを実現するものでしかないということを、「前衛不在」のもとでの政治闘争=改良闘争の限界として、特に先頭に立って闘ったわれわれ学生には、学生運動の限界性として教えた。プチブル政治意識のプロレタリア政治意識への転化には、議会の幻想性の暴露と同時に、闘争に参加している主体が自分の持っているプチブル政治意識もまた幻想でしかありえないことを自ら悟ること、そのための戦術が必要である。工場での、街頭での自然発生的な生成を基礎として、プ口レタリア権力の具体的形態を含めた、つまりブルジョア権力打倒後の「中間的政府」から、過渡的措置、更に直接的な権力への行動まで含まれた一連の戦術、いわゆる"綱領"の存在が絶対条件である。ただしそれは、この戦術を具体化しうる前衛政党として、より具体的に言うならば、新左翼が、労働者のなかに確固たる組織を確立しており、ある程度の労組でへゲモニーをとることができる程度の状態においてでなければ、いくら"綱領"なるものを作成して"前衛政党"の名のりをあげてみても、無意味だということである。

 第二に、闘争の客体の問題は、支配階級の支配能力がどれだけ動揺したかであり、この間題は政治闘争の「深さ」 について決定的に重要である。「国家は… 一時代の市民社会全体が集約されている形態である。だから結果としてすべての共通な制度は国家によって媒介され、一つの政治的な形態をとることになる」(マルクス『ドイツ・イデオロギー』)マルクスがここで述べている国家の集約性の喪失が政治的にどの程度まで進行したかである。

 小野義彦は、安保闘争の展望として「現在、支配層内部に発展しつつある政策対立が、安保改定問題と自由化問題などを契機にひろがり、いっそう拡大し深刻化してゆくこと」(『中央公論』60 年5 月号)を唯一の基準として安保闘争の深さをはかっていた。けれども彼には、この支配層内部の対立の問題を、全体的な政治過程との関連で、ブルジョアジーの支配能力の動揺として明確に位置づける政治理論がなく、そして何よりも構造的改良論者たる彼にとっては、この自民党の内部対立への実践的対応は、自民党の反主流派に甘い幻想をいだいた共産党のいう「自民党内の良心的部分」という域を脱しえなかった。だからしてその期待が裏切られると、「自民党内の反主流派が代表している立場は中小ブルジョアジーやなんらかの国民的な対立社会階層のそれではなく、この点では主流派と同じく独占ブルジョアジーの階級的立場であった」(『歴史学研究』 60 年9 月号)と、今さらながらの泣き言をならべざるをえなかったのだ。「国家の集約性」ということの実践的理解から、喪失された「国家の集約性」をプロレタリア権力のもとに集約しなおすという革命的観点からの把握が必要なのだ。

 安保闘争は、内閣危機まで発展したが、岸の退陣、池田の登場により、ブルジョアジーの支配能力の動揺は簡単に回復された。その程度の動揺にすぎなかったのである。より一層の危機の深化(内閣危機→政府危機→体制危機)が出現しえなかったのは、前に述べたごとく闘争の主体の条件が存在しなかったことと同時に客体の条件も存在しなかったのである。

 客体の問題についてレーニンは『共産主義の「左翼小児病」』において次のようにかいている。

 「すべての革命、とくに二十世紀の三つのロシア革命によって確立された革命の基本法則はこうである。すなわち搾取され、抑圧されている大衆がいままでどおりに生活できないことを自覚して、変更を要求するだけでは、革命にとって不十分であって、搾取者がいままでどおりに生活し、支配することが出来ないことが、革命にとって必要である。『下層』 が古いものをのぞまず『上層』のときにはじめて、革命は勝利することができる」。

 安保闘争はさらに経済的には「高度成長」といわれる好況局面においてたたかわれたのであり、「上層」すなわち支配階級ブルジョアジーが「いままで通りに生活し、支配することができない」という危機的情勢は政治的にも経済的にも存在しなかったのである。したがって、安保闘争の最終局面での高揚を革命的情勢と錯覚して、革命が可能だという幻想を抱いた者があるとするならば「プチブル急進主義」として批判されざるをえない。「一時代の市民社会全体が集約されている形態」としての国家が、その集約性を喪失する最大の時期は、市民社会の基礎である経済の集約性が破壊されるとき、即ち恐慌である。換言すれば、恐慌は最大の革命の勝利しうる客観的条件である。

(d)政治闘争の具体的契機としての安保改定

 安保闘争が以上のような「広さと深さ」をもった政治闘争として展開されたことの確認の上に立って、再度、安保改定そのもののもつ政治闘争の具体的契機としての意義を、安保改定があれだけの「大闘争」を伴わざるをえなかった必然性を、政治の問題として解明されなければならない。

 安保改定は「日本の一大転換点である」といわれる言葉の中に、経済的好況局面にもかかわらず、安保闘争があれだけの広汎な層をまきこんでの闘争として展開されたことの解明の力ギがある。

 安保改定は一九五五年以降の日本資本主義の経済過程を総括するものであった。五五年以降、本格的に開始された近代化による対内膨脹の過程を集約した、対外膨脹への転換であり、しかも、それは、戦後帝国主義の不均等発展の結果として五八年以後展開されている自由化という平和的形態での帝国主義的競争の激化により国際的にも転換をせまられていたのである。

 その際、独占ブルジョアジーはその転換の政策を、帝国主義的民族の発展のコースとして、日本民族全体の共通利害として提起せざるを得ない。従ってそれは、全ての階級に対して利害関係をもつ。安保改定はこのような日本民族全体の方向を決定する「一大転換点」であった。それ故に、この民族的契機によってひきおこされた安保闘争は、その性格から必然的に、あれだけの「広さ」をもった政治闘争を伴い、支配層内部にさえ対立を生ぜざるをえなかったのである。

 安保改定が現実の問題として、いったん提起されるや、その後の足かけ三年間における、その他の諸々の政治闘争の具体的契機(帝国主義的政策、政治的反動化、独占本位の経済政策)は、すべてこの最大の具体的契機である安保改定との関連において問題とされ、安保改定は、次第に政治過程の中核となり、政治闘争の焦点を形成する。したがって安保改定は、日本の経済過程と同時に、政治過程をも集約するという性格をもったのである。

 かくして安保改定は、日本民族の方向を、最終的には日本国内の政治的力関係によって、政治闘争によって決着をつけるべきものとして提起されていたのである。だからこそ、あれだけの「深さ」をもった政治闘争として、"予想外の高揚"だったのではなく、この高揚は「国民生活の全ての条件によって準備されたもの」であり、日本資本主義の「これまでの発展全体によって必然的に惹き起されたもの」、「まったく法則にかなったもの」(レーニン『革命的高揚』)として把握されなければならない。

(二) 政治闘争における大戦術と小戦術について

 われわれは安保闘争の発展過程を現代における政治過程として解明する中で、政治闘争の質的発展にとって決定的に重要なのは戦術であるということを明らかにしてきた。大衆運動の続行は当然その闘争を漸次的に深化させる。しかしながら、それのみによっては闘争の質的発展はありえない。この「量から質への転化」すなわち「飛躍」をもたらしうるもの、これこそがわれわれの言う戦術である。この観点から政治闘争における戦術論の重要性が確認されなければならない。

 またわれわれは「政治闘争の広さと深さ」の追求の過程で、個々の政治闘争の規模があらゆる政治的、経済的条件の具体的分析により見通しうること、そして最後にそれらの諸々の政治闘争の中で、最も深い政治闘争を見通し、その他の諸々の政治闘争はこの最大の具体的契機をめぐって政治闘争にどう対応すべきかという観点からの位置付けが必要であることを明らかにした。それぞれの政治闘争の広さと深さに応じた戦術をとることにより、全体として最も深い政治闘争、即ち革命の勝利しうる条件の存在する時点での革命的戦術を実現させるまでの政治過程にわれわれの政治闘争における戦術を正しく位置付け、長期的な、明確な「見通し」をもった政治闘争の展開が必要なのである。

(a) 戦術は何にもとづいてうちたてられるべきか?

 正しい戦術は例外的に樹立しうるのか、果して宇野弘蔵のいう如く、優れた実践家の直感による以外にありえないのだろうか?この問題は政治理論における基本的課題である。レーニンは『カール・マルクス』 において"プロレタリア階級の戦術"という項目をあげて次のように述べている。

 『マルクスは… … プロレタリア的階級闘争の戦術の問題に絶えざる注意を払った。… … プロレタリアートの戦術の主要な任務をマルクスは、彼の唯物論的世界観の全ての前提を厳密に一致させて規定した。ある与えられた社会の全ての階級の相互連関を一緒にした全体の客観的な顧慮、したがって又、この社会の客観的な発展段階の顧慮、ならびに、この社会と他の社会との間の相互的諸連関のみが先進的階級の正しい戦術のための基礎として役立つことができる。』

 ここに戦術論の根本問題、正しい戦術は科学的に樹立しうること、そのために必要な情勢分析は何かということが簡明にのべられている。さらにレーニンは『共産主義の「左翼小児病」において、この原則を口シアの革命運動の教訓から、次のように確認している。

 「大衆の間に革命的な気分がなく、このような気分の高まりを助長する諸条件がなければ、勿論革命的戦術を行動に移すことは出来ないが、われわれは、口シアで余りにも長い苦しい血みどろの経験によって革命的気分丈にもとづいて革命的戦術をうち立てることは出来ない。」

科学的分析が必要なのだ。その際、「その国家の全ての階級勢力」、いいかえれば国内の階級間の力関係の分析が決定的に重要であるということ、即ち、われわれが戦術を行動に移さんとする政治過程の具体的分析が是非とも必要な条件であるということを再度確認しなければならない。

(b)戦術論として改良闘争と革命

 「前衛不在」のもとにおける階級闘争は、改良闘争としてしか展開されえないという事実の確認を抜きにして、改良闘争はナンセンスだから革命運動をと、最大限綱領のみを叫んでみても、その革命論は、死んだ抽象にならざるをえない。その革命を何処に依拠何も答ええないからである。

 構造的改良論者は、改良闘争のみやれば良いと主張する。改良闘争の果実の積み重ねが社会主義をもたらすという改良主義的観点から。

 すでに明らかにした如く民主主義闘争として展開された安保闘争は、小ブル的性格を強く持ちながらも、その闘争の過程で国家機関を通じて表わされる国家の本質への闘いが、戦術によって国家権力との直接的対決まで高められた。その対決を全面的対決まで、したがって革命的高揚まで高められることなく敗北していったが、この安保闘争の経験は、改良闘争の徹底的遂行は革命以外に解決しえない時点までの闘争の発展をもたらしうるということを、われわれに教えている。

 レーニンは『国家と革命』の中で、エンゲルスのパリ・コンミューンに対する評価(『 フランスの内乱』第三版序文)を引用して、「エンゲルスはここで徹底した民主主義が一方では社会主義へ転化し、他方では社会主義を要求するという興味ある限界点に接近している」と述べ、更に「民主主義を徹底的に発展させ、このような発展の諸形態を要求し、その諸形態を実践によって、点検する等々、全てこれらは、社会革命のための闘争の諸任務を構成する要素の一つである」と述べている。

 レーニンがここにいう「徹底した民主主義」とは「二重権力」に他ならない。ブルジョアジーの支配能力の動揺危機が〔内閣危機=体制危機〕へと発展する過程で、味方の内部にプロレタリア権力の組織を広げ、喪失された国家の集約性をプロレタリアート独裁のもとに集約しなおすこと。ロシア革命の教訓からレーニンによって発見された この「二重権力」の状態は、現代もなお有効なプロレタリア革命の基本法則である。この二重権力の状態を媒介せずしてブルジョア議会において独占を追いつめ孤立させて社会主義へなどということは改良主義の幻想にすぎない。

 この革命情勢における、レーニンのいう「革命的戦術」を大戦術とよび、この大戦術を実現させるにいたる政治過程での戦術を小戦術として区別することにする。

 かくしてわれわれのいう戦術論としての改良闘争と革命の関連はこうである。全ての条件(とくに政治の問題が重要)の検討の中から、今後の政治闘争のあらゆる具体的契機と、その契機をめぐっての「政治闘争の広さと深さ」を見通す。その上にたって、個々の改良闘争での小戦術を、最も深い政治闘争、革命的情勢における大戦術の実現を準備するものとして位置づける。

 われわれは改良闘争を全力を尽して取り組む。けれどもそれは、改良闘争の果実そのものを目的とするのではなく改良闘争を戦術によって、より高い次元に、より政治的に、つまり対権力との直接的、全面的対決へ向って発展させその過程で革命の条件を準備し、全体として大戦術へと発展させんがためである。

 (c)『戦略と戦術』論について
われわれはなぜ「戦略と戦術」といわずに、ことさらに「大戦術と小戦術」として戦術論を展開せざるをえなかったのか。それは次の理由による。

 「戦術において誤っても戦略が正しければ…」という理論は、果してその正当性を持ちうるだろうか。答えは否である。歴史はくり返しを許さない。誤った戦術によってひきおこされた政治過程は、決してもとへもどしえず"戦略"そのものがこわれざるをえない。さらにこの理論は、最大限綱領主義の、政治闘争における戦術の軽視と戦術における誤りの合理化に対してその正当化の理論的根拠を提供している。

 プロレタリアートの階級闘争の戦術論として「戦略と戦術」という言葉がはじめて登場したのは、レーニン死後の第三インター第六回大会にスターリンが提案した、第三インターの新しい綱領草案においてであった。マルクスもレーニンも、プ口レタリアートの階級闘争の戦術論を、戦略と戦術に分離して論じたことは一度もなかった。

 われわれはこの「戦略と戦術」論をスターリニズムによる戦術論の歪曲として破棄し、マルクス・レーニンの戦術論の原則を復活させる一つの試みとして、「大戦術と小戦術」という、プロレタリア独裁の樹立へいたる一連の戦術論として展開した。

 蔵田計成氏は、「関西ブント系の京都府学連執行委員会対案/安保闘争の政治理論としての総括」を(次のように要約している。
 「内容は、基本的にブント主義の継承、深化だった。すなわち、政治過程論は、小ブル学生運動の歴史的、階級的役割と性格を、その過渡性において正当に位置づけて評価し、運動の高次化、階級意識の高次化を運動論的に論理化し、安保闘争を総括したものである。

 だから、彼らは安保闘争を経済決定論的ドグマからではなく、政治過程の独自性から分析し、それを「予想外の大闘争」と総括した。そして「プチブルの街頭闘争と部分的な労働者の実力行使によって内閣危機が出現」したが、その反面では「内閣打倒→議会解散→総選挙という議会コース」が戦後の平和と民主主義意識=戦後デモクラシーに媒介されて反転力をつよめていった、という事実に着目し、この点に戦後学生運動の限界があったと主張した。

 また、運動におけるこの小ブル主義的限界性を突破するものとして「革命的戦術」を位置づけ、この「小戦術と大戦術」の連結性として貫徹されるべき革命的戦術は、必然的に国家権力との重大な対決へと発展していかざるをえないと主張し、「徹底した民主主義→二重権力状態」の創出を展望した。

 国家論、政治権力の構造分析などは一般論であり、粗雑さを否めなかったとはいえ、この政治過程論にある基本的視点は、のちに発表された「第三期学生運動論」や関西ブントのその後の根本路線となって継承されていった」。

【反マル学同のその後の動き】

 つるや連合は、7.9日夜、代議員123名の連名で、「我々の退場により、大会は流会したので民主的な大会の続行を要求する」旨決議した。

 7.10日、全自連は、教育大で「7全代」を開催し、67大学125自治会、276名の代議員が集まり、大会への参加条件について、1.平等無条件参加、2.権利停止処分撤回、3.大会の民主的運営の3項目を決議した。この時の全自連指導部は、第8回党大会前後の春日(庄)グループの脱党の影響を受けた構改派であり、全学連第17回大会指導部と「ボス交」の結果全自連解散を為し、全学連再建協議会(再建協)(議長・木内啓詞)を結成した。これにより、全学連の分裂が組織形態上も決定的なものとなった。

 7.10日、中教審が「大学の目的性格について」を文相に答申。


 7.15日、日共中央委員・同候補など六名、党の危機を訴える声明。


【社学同再建の動き】
 こうした新状況に遭遇して、旧ブント系活動家は、社学同の再建を目指して活動を始めることとなった。7.11日、東大・中大・早大等の社学同系活動家、社学同再建のアピール″発表、社学同再建全国大会開催の準備活動に着手し社学同東京都委員会再建。8.11日、社学同機関紙「希望」が発行され、社学同再建のアピールを行い、マル学同を批判している。
 「従って、学生運動の自立性を否定し、学生運動を既成のイズムの工作の対象.客体としてのみみなすものは、学生運動にとって、絞殺者であり、敵である」。

 7.20−21日、京都府学連第十八回大会〔同志社大〕、地方学連の強化を通じての全学連再建を確認、関西社学同系主導権掌握。京都府学連=関西ブントがこの動きの主力となった。7月、「安保闘争の政治理論としての総括」を発表。

 8月、東大.早大.明大.中央大の活動家が「社学同東京委員会」を再建した。

【日共が第8回党大会を開催】
 7.15日、日共が第8回党大会を開催した。(補足「日本共産党第8回党大会について」に記す)

【日共党中央、民青同の組織理論にベルト論を持ち込む】
 宮顕系日共党中央は、第8回党大会開催後のこの頃、「民青同第6回大会、第7回大会路線」を、第8回党大会で強行決議された党綱領によって修正するよう指示し、従わない同盟幹部を排除し、民青同を共産党のスローガンをシュプレヒコールする自動連動装置(ベルト)に替えた。明らかな党による民青同の引き回しであったが、これにより民青同の党に対する盲従が惹起し青年運動に大きな桎梏となっていくことになった。

 第8回党大会で採択決議された党の綱領が「民族独立民主革命」を明確に戦略化させたところから、社会主義を目指す闘争は抑圧されるか後退することになった。日本における社会主義の展望、客観的必然性を青年に示し、日常の闘いと社会主義への志向とを結びつけることを拒否する傾向が強まり、社会主義について沈黙を守る雰囲気が支配的になった。
(私論.私見) 第8回党大会で採択決議された党綱領の「民族独立民主革命」戦略化について
 これは、党が民主主義的「改良・改革」を「革命」と規定するというすり替え から発生しているものと思われる。「二つの敵」を経文のように繰り返すことに より、イデオロギー活動が不燃化させられる要因となった。その結果、同盟員の理論的水準は低下し、その下部組織はサークル化傾向に沈潜していくこと となった。宮顕の指導になると、なぜこうまでして青年運動の自主性を削ぎ、社会主義意識の培養をしにくくするよう努力するのだろうとの疑問が涌くが、こういう観点を共有するものは少ない。
 8.30日、党は、主要都道府県学対部長会議を開いて、次のような指導をなしたようである。「過去二回の集団転落を生んだ当時の学生党組織の欠陥、 弱点を克服して、厳密な学生内党組織の建設を進める為に」と称して次のように規定し直している。広谷俊二著「現代日本の学生運動」を参照する。
 マルクス・エンゲルス・レーニンの古典と日本共産党の綱領、大会、中央委員会の諸決議の系統的学習。トロツキズム、現代修正主義のえせマルク ス・レーニン主義の本質を見分ける能力を身につける学習。
 労働者的規律を重んじ、特に党費の納入、中央機関紙を読むこと、細胞会議に出席することなど、党生活の原則を確立し、党中央の諸決議を積極的に実践する。
 地区委員会の指導を強め、学生細胞は必ず地区委員会に集中する。
 学生の共産党への入党は、民青同盟の活動の中で鍛えられ、試された者を認める。
 強大な共産党を建設するためにまず民青同盟を拡大し、その活動を活発にし、同盟員のマルクス・レーニン主義の基礎の学習と労働者規律を強める。
(私論.私見) 宮顕の強権介入による「民青同の組織理論へのベルト論の持ち込み」について
 この指導を見ても同様に、宮顕の指導になると、なぜこうまでして青年運動の自主性を削ぎ、社会主義意識の培養をしにくくするよう営為するのだろう、と疑問を湧かさずにはおれない。

 7.18日、池田内閣改造(文相留任)。


 7.20日、日共第十八中総で春日庄次郎、山田六左衛門、内藤知周ら七名除名。


 7.23日、日共立命館大細胞創立十周年記念集会で党中央に公然と抗議の非常事態宣言発表。


 7.26日、日共東京都委が全学連再建協結成を批判。


 7.27日、新日本文学会の野間宏、大西巨人、武井昭夫ら14名が日共批判の声明発表。


 8.9日、日共神戸大細胞集団離党(14日声明社会主義への前進をめざして″発表)。8.13日、日共神戸外大細胞集団離党。8.21日、日共立命館大二部細胞集団離党、声明新しく大衆的前衛組織に結集するにあたっての声明″発表。8.21日、日共関西大細胞集団離党。


 8.9−14日、第七回原水禁世界大会〔東京〕開催。全自連派学生四百名が参加。全学連マル学同系は完全軍縮は労働者階級の武装解除″と反帝路線の立場から介入、社学同系は不参加。


 8.11日、全学連全国自治会代表者会議。


 8.11−14日、全国大学生協連第四回総会〔関西学院大〕、政治色薄く対立より経験交流の場としてもたれる。


 8.11日、社学同再建準備委機関紙「希望」創刊。


 8.13日、東ドイツ政府が「ベルリンの壁」構築開始。東ドイツ政府が、米英仏ソ4カ国の共同管理下で往来が自由であったベルリン市内の米英仏の管理区域を周囲から遮断。高さ5m、延長165キロメートルに及ぶコンクリート壁を建設し始めた。


 8.16日、ソ連副首相、ミコヤン来日。


 8.16日、中国学連三十名で美保基地拡張阻止学生集会〔米子市公会堂〕。


 8月、早大の高野秀夫が離党している。この間一貫して宮顕指導に服してきた高野の離党の政治的意味は考察されるに値しよう。この事情も検証されねばならないが、今のところ為されているように見えない。


 8.25日、日共が青対部員三名を除名。


【ソ連が核実験を再開し、平和擁護運動が混乱に陥る】

 8.31日、ソ連は58年から停止していた核実験を再開した。平和擁護運動は混乱に陥った。それまでソ連を平和の砦としていた日本の左翼内にあった傾向からして大いに当惑させられることとなった。日本共産党はソ連核実験の支持声明を出した。革共同関西派は対応が割れた。

 革共同全国委=マル学同は、「反帝反スタ」の立場から精力的に抗議運動を展開していくこととなった。「日本の反スターリン主義運動」は次のように述べている。

 「1961年秋のソ連核実験再開に直面させられて完全に混乱の渦中にたたきこまれ、何らかの反対運動をも展開することができずに自己破産を義黒した原水協並びに社共両党の、この腐敗を公然と暴き出し弾劾し、のりこえつつ推進されたわが全学連の『米.ソ核実験反対』の反対闘争は、1962年の春のアメリカ太平洋実験に対する激烈な反対闘争として受け継がれ、そして日本原水協の完全な無活動的腐敗や第8回原水爆禁止大会における社共両党の衝突の茶番性を大衆行動をもって暴露したことなどを通じて、同時に国際的な反戦統一行動を生み出しながら、今や確固とした地歩を築き上げた。さらにそれは、闘う労働者自身による反戦闘争の行動化を促す触媒としても働きつつある」。
 

 8月、社学同再建委員会(主要メンバー:中村光男、古賀泉、河野靖好、山崎修太、福地茂樹、星山保雄、中村佳昭、佐藤粂吉)らが機関紙「希望」を発行。次いで「SECT No.6」発行に向かう。


 9.1日、ソ連が核実験再開。全学連中執がソ連核実験に抗議声明を発表。日共がアカハタでソ連核実験支持を表明。ソ連核実験をめぐり革共同関西派、評価する書記局派(西派)と否定する全国分派(大原派)に分裂。

 9.3日、東大社学同活動家十名、ソ連大使館に抗議。


 9.3日、愛知県学連第十二回大会〔愛知大名古屋〕、マル学同系と再建協派の衝突で流会(10日大会再開、マル学同系単独で主導権掌握、再建協派は統一派自治会代表者会議開催)。


 9.4日、再建協全国準備委開催〔教育大〕、全国三十数自治会のうち東大教養・教育大・早大一文・北大教養等十五自治会代表しか出席せず。
 9.4−5日、全学連第28(27)中央委〔全銀連会館〕を開き、「ソ連核実験反対・反戦インター創設・プロレタリアによる学生の獲得」路線等を採択。9.8第一波、9.15第二波闘争を決定、社学同系はボイコット。

 9.5日、米、核実験再開を発表。9.6日、マル学同早大支部七十名、米大使館に抗議デモ。


 9.6日、文部省、理工系大学生増募計画を発表。


 9.6日、非同盟諸国首脳会議〔ベオグラード〕、平和共存・民族解放闘争支持等を決議。


 9.8日、全学連が、政暴法粉砕・ソ連核実験反対闘争第一波、芝公園に50名結集、米ソ大使館にデモ、社学同系学生70名は独自にソ連大使館デモ。

 9.9日、日教組全国代表者会議、学力テスト問題を討議。


 9.9日、日共広島大細胞集団離党。


 9.15日、全学連第二波統一行動、50名が氷川公園に結集、新橋までデモ。夜、夜間部学生80名も集会・デモ。社学同系80名は東郷公園に結集、新橋までデモ。

 9.18日、京都府学連・地評青婦部・民青同等で京都青学共闘再建大会〔円山音楽堂〕、三百名参加、のち政暴法反対総決起集会・デモ。


 9.18日、国連事務総長ハマーショルド、飛行機事故で死亡。


 9.20日、米ソが軍縮八原則を共同宣言。


 9.20日、札幌西高校生徒大会、学力テスト実施に反対決議。

 9.21日、慶大日吉、私鉄バス運賃値上げに反対声明。9.22日、平和と民主主義を守る三田塾生会議主催・政暴法国会再提出反対抗議集会、のち再建協統一行動に参加。


 9.22日、再建協、政暴法粉砕・完全軍縮要求第一波統一行動、芝公園に350名結集、八重洲口までデモ。社学同系120は氷川公園に結集・国会デモ。

 9.25日、国民会議主催の政暴法粉砕第四次統一行動。


 9.26日、文部省が全国小・高校の学力テスト実施。北大・北学大札幌の学生五十名、学力テスト阻止で札幌西高校前にピケ、登校生徒にボイコット呼びかけ、試験開始後代表と校長が会見、校長は試験中止要請を拒絶。


 9.29日、シリアがアラブ連合を脱退。9.30日、0ECDが正式発足。


【「青学革新会議」結成される】

 9.29日、再建協・民青同幹部二十一名、声明共産主義的青年学生同盟の建設を日ざして″発表(10月3日共産主義的青年学生運動の革新の為に″発表)。春日(庄)ら構造改革派の青年学生組織として青年学生運動革新会議(青学革新会議)を結成した(10.6日ともある)。「共産主義的青年学生同盟(共青同)の結成を目指して」という宣言を発表した。全自連グループのうち早大・教育大・神戸大・ 立命館大・法政大・東大などで呼応した。第8回党大会における綱領問題と官僚指導に反対し、離党・除名された民青同盟内の党綱領反対派の活動家と、全自連中央の活動家を中心としていた。

 その背景にあったものは、宮顕式の不当な干渉によって民青同を共産主義的青年同盟に発展させる可能性が無 くなったという認識に基づいて、マルクス・レーニン主義の原則に立脚する青年同盟の創設の課題を提起していた。

 「日本共産党は、宮本、袴田ら派閥官僚主義者によって党規約を蹂躙し、一方的に党大会を強行して、新綱領、政治報告、規約改正を強行した。その結果、共産党は新綱領を民青同盟に強制し、同盟の規約を無視してまで、党綱領に反対する同盟員を同盟組織から排除した。また青年が自主的に決定した民青の六大会.七大会の路線を、党綱領によって修正することを企図し、同盟の掲げた青年の要求の運動化、全国化の方針をぶちこわし、同盟を党の方針をシュプレヒコールする自動装置にかえてしまった。同盟は完全に党機関の従属物にかえられている」。

 青学革新会議の特徴は、この時期党が指導していた新たな全学連の創出を画策するのではなく、ねばり強く学生運動の統一を目指していたことにあった。但し、この方針はマル学同の独善的排他性に対する認識の甘さを示しており、遂に叶えられることのない道のりとなった。青学革新会議は、この経過をさし当たりブント急進主義派と社青同との統一戦線を志向しつつ活動していくこととなった。なお、青学革新会議は、「層としての学生運動論」を採用しており、この時期一層右派的な方向に変質させられつつあった民青同に比較すれば幾分かは左派的な立場にあったといえる。ソ連核実験再開への態度の違いも見られた。

 
なお、このグループもまたこの後春日らの統一社会主義同盟と内藤派に分裂する。青学革新会議もこの動きに連動し、春日派は翌62.5月社会主義学生戦線(フロント/東大教養、 神戸大等)、内藤派の系統として63.8月、日本共産青年同盟(共青/教育大等)へと続く。


 10.1日、全学連機関誌「学生戦線」創刊。


【春日(庄)派が「社革」創立、学生運動組織「青年学生運動革新会議」結成される】
 10.6日、青年学生運動革新会議結成。
 10.7日、構造改革派7名が社会主義革新運動準備会(「社革」)創立大会を開催する。議長・春日庄次郎、副議長・山田六左衛門、事務局長・内藤知周体制で発足する。社革(準)の発足とともに全学連再建協と民青革新委が青年学生運動革新会議を結成。民青系と公然と対立することになる。

 10.7−8日、マル学同系、社学同系二つの都学連大会開催。都学連第十四回大会、北小路全学連委員長招請のマル学同系〔西武健康会館〕と蔵田計成都学連副委員長招請の社学同系〔北部公会堂〕の二つの大会開催、それぞれ正統性を主張(委員長・マル学同系=小野正春、社学同系=矢沢国光)。


 10.12日、全学連、政暴法粉砕・核実験反対第三波統一行動、氷川公園に昼夜百五十名結集・デモ、都学連(社学同系)は氷川公園に百名結集・新橋までデモ、京都府学連、決起集会〔立命館大〕に二百五十名、大阪府学連、決起集会〔大手前公園〕に百八十名参加。


 10.14日、青学共闘主催・政暴法粉砕・日韓会談反対統一行動、総決起集会〔日比谷野音〕に再建協派八百名参加、集会・デモ。


【マル学同全学連中執が派)がブント残党派絶縁宣言】
 10.15 −16日、全学連28(29)中委〔全銀連合館〕では、「反帝・反スタ」路線を全面に押しだし、米ソ核実験反対を軸とする反戦闘争の展開等を決定、社学同残留派をブント残党派と言いなし、これら諸派を右翼分裂主義者と決めつけ、 これと絶縁することを確認した。

 この年の秋の自治会選挙では、マル学同系・三派連合・民青同で激しく争われたが、マル学同系・三派連合が勢力を一定伸張させた。

 10.18日、都学連(社学同系)、政暴法粉砕統一行動、清水谷公園に百三十名結集、新橋までデモ。


 10.19日、再建協、政暴法粉砕統一行動、全都学生決起集会〔芝公園〕に三百名結集・国会請願デモ、のち国民会議主催の集会〔日比谷野音〕に参加、再度国会請願デモ、一名逮捕。


【島らがSect6立ち上げに動く】

 10.24日、「その数日前に共産主義者同盟書記局、島成郎他の連名で一通の召集状が届けられ、私達は九段にあね雄飛寮の集会室に集まった」(福地茂樹証言)。ブントの再結集を目指した秘密会議であった。島、常木、森田がおり、対馬(忠)と吉本が講演した、とある。席上、概要「島が(旧書記局の統一見解であるとして)ブントを再建すると言い出した」、「この1年半の分派活動の首謀者達は、みな小者ばかりでトレランスに欠ける。その理論に至ってはチマチマして中小企業のオヤジの床屋談義よりも程度が低いくらいだ、といった」とある。

 その数日後、島氏の声掛かりで福地氏はジャズ喫茶で落ち合い、バーに席を移した。「島は開口一番、お前の云うとおりブントの再建はあきらめた。森田と常木もこれに同意した、というのだった」(福地茂樹証言)とある。その後の話し合いで、社学同の再建を依頼され、それがSect6の立ち上げに繋がった、ともある。

 Sect6に参集したのは、福地、中村(光)、古賀(泉)、山崎(修)、河野(靖)、中村(佳)、佐藤(粂)らで、高井戸の都営住宅の島夫妻の居宅に集った、ともある。 


【吉本氏の「SECT6」の心情支援】
 吉本氏は、「『SECT6』について」(「詩的乾坤」所収)という文章を書き残している。これを一部転載しておく。ブント解体後の左翼思想の混迷と頽廃の様子も描かれていて興味深い。
 「60年安保闘争の終息のあと、真向うから襲ってきたのは、政治運動の退潮と解体と変質の過程であった。この闘争を主導的に闘った共産主義者同盟は、この退潮の過程で、分裂をはじめ、分裂闘争の進行してゆくなかで、その主要な部分は、革共同に転身し吸収されていった。

 この間の理論的な対立と分岐点については、あまり詳かではないし、ほとんど、わたしなどの関心の外にあったといつてよい。ただ、あれよ、あれよというあいだに、指導部の革共同への転身がおこなわれたという印象だけが、鮮やかに残っている。

 この間に、指導部からいわば置き去りにされた学生大衆組織としての社会主義学生同盟にはいくつかの再建の動きがあり、まことにおっくうな身体で、それらの会合に附き合ったことを記憶している。

 わたしのかんがえ方では、社会的には楽天的な評価が横行しているのに、主体的には、ほとんど崩壊にさらされている学生大衆組織に、もし内在的な逆転の契機があるならば、<嘘を真に>としてでも、社会的評価とのバランスがとれるまで、支えるべきであるとおもわれた。しかし、これは甘い、ほとんど不可能に近いものであることをいやおうなしに思い知らされた。

 安保闘争に全身でかかわった学生大衆は、この間に上部との脈絡を絶たれて、ほとんどなす術を知らず、指導部と同じくマルクス主義学生同盟に移行する部分と、個にまで解体してゆく部分と、共産党の下部組織に融著してゆく部分とにわかれた。

 こういう外部的な表現は、あまり意味をなさないかもしれない。別の云い方をすれば、指導部の転身と分裂によって方途を失った社会主義学生同盟は、政治過程の遙か下方にある暗黒の帯域で、それぞれの暗中模索の過程に入つたというべきなのかもしれない。

 当時、共産主義者同盟の同伴者というように公然とみなされていたのは、たぶん清水幾太郎とわたしではなかったかと推測される。わたしは、組織的な責任も明白にせずに、革共同に転身し、吸収されてゆくかれらの指導部に、甚だ面白からぬ感情を抱いていた。おまけに、同伴者とみなされて上半身は<もの書き>として処遇されていたわたしには、被害感覚もふくめて、ジャ―ナリズムの上での攻撃が集中されてきたため、この面白からぬ感情は、いわば増幅される一方であった。

 公開された攻撃を引きうけるべきものは、もちろん革共同に転身したかれらの指導部でなければならない。しかし、かれらは逆に攻撃するものとして登場してきたのである。内心では、これほど馬鹿らしい話はないとおもいながら、それを口に出す余裕もなく、まったくの不信感に打ち砕かれそうになりながら、ただ、言葉だけの反撃にすぎない空しい反撃を繰返した。

 この過程で、わたしは、頼るな、何でも自分でやれ、自分ができないことは、他者にまたできないと思い定めよ、という者え方を少しずつ形成していったとおもう。

 わたしは、もっとも激烈な組織的攻撃を集中した革命的共産主義者同盟(黒田寛一議長)と、かれらの批判に屈して、無責任にも下部組織を放置して雪崩れ込んだ、共産主義者同盟の指導部(名前を挙げて象徴させると森茂、清水丈夫、唐牛健太郎、陶山健一、北小路敏、等)を、絶対に許せぬとして応戦した。おなじように、構造改革派系統からは香内三郎などを筆頭とし、文学の分野では、「新日本文学会」によって組織的な攻撃が、集中された。名前を挙げて象徴させれば、野間宏、武井昭夫、花田清輝などである。

 わたしは、これに対しても激しく応戦した。ことに花田清輝は、某商業新聞紙上で、わたしの名前を挙げずに、わたしをスパイと呼んだ。わたしが、この男を絶対に許さないと心に定めたのは、このときからである。それとともに、対立者をスパイ呼ばわりして葬ろうとするロシア・マルクス主義の習性を、わたしは絶対に信用しまいということも心に決めた。わたしは、それ以来、スパイ談義に花を咲かす文学者と政治運動家を心の底から軽蔑することにしている。

 後に、香山健一(現、未来学者)、竹内芳郎などが、わたしを「右翼と交わっている」と宣伝し、ことに竹内芳郎は雑誌『新日本文学』に麗々しく「公開状」なるものを書いた。わたしは、この連中が、どういうことを指そうとしているかが、直ぐに判ったが、同時にそれが虚像であることも知っていたので、ただ嘲笑するばかりであった。

 もっとも「新日本文学会」が竹内芳郎の「公開状」の内容に組織的責任を持つならば、公開論争などをとび越して、ブルジョワ法廷で、竹内芳郎および「新日本文学会」を告訴し、その正体を暴露してもいいと考えて注目していた。しかし「新日本文学会」は、その後の号の雑誌で、小林祥一郎署名で責任を回避した。わたしは竹内芳郎というホン訳文士などを相手にする気がないのですっかり調子抜けしてそのままになった。わたしは、たとえ百万人が評価しても、竹内芳郎や「新日本文学会」などを絶対に認めない。かれらが、いつどういうふうにデマゴギーをふりまくかを知ったので、その後、いっさい信用しないことにしている。

 これらの多角的に集中された、批難と誣告とは、ただひとつの共通点をもち、また共通の感性的、思想的な根拠をもっている。それは、どんな事態がやってきてもわたしが決して彼等の組織の同伴者などに、絶対にならないだろうということを、彼等が直観し、あるいは認識しているということである。そしてこの直観や認織は当っているといってよかった。そして、またこれこそが、誰れにも頼るなというわたしの安保体験の核心であった。

 ここで、わたしは、いつも衝きあたる問題に衝きあたる。退潮してゆく雪崩れのような<情況>の力は、ほとんど不可避的ともいうべき圧倒的な強さをもっているということであを。この退潮を防ぎとめる術がないという意味は、かつてわたしが戦争責任のようなものを提起したときに認識していたよりも、はるかに根底の深いもののようにおもわれる。抗することの不可能さといつてもよいくらいである。

 <情況>雪崩れに抗するということは、もちろんみせかけの言辞や、政治行動のラヂカルさということとはちがう。また、身を外らしてしまうことともちがう。比喩的な云い方をすれば、科学的な技術の発達が、政治体制の異同や権力の異同によって、抑しとどめることができない、というのと似ている。なぜそうなのか。それは、科学技術を支えている基礎的な推力が<そこに未知のことがあるから探求するのだ>といった内在的な無償性に支えられているように、<情況>の本質もまた、<そこに状況があるからそうなるのだ>という、自然的必然に根ざした面をもっているからである。

 個々人の<情況>についての意志の総和が、<情況>の物質力として具現する、という考え方は、たぶんちがっている。そして<情況>に抗うことの困難さ、不可避さということだけが、あとにのこされる。 (中略)

 おなじような<情況>のもとで、安保体験を経た中大杜学同のグループを中心に、「Sect6」を機関紙に、社学同再建の動きがはじめられた。わたしは、その内部的な動きを知らないし、組織化がどのように進められ、どのように展開されたかも知らない。むしろ、その意味では「Sect6」に結集した中大社学同グル―プとは私的に付き合っていたという方がよいかもしれない。

 この中心グループは、政治的には、谷川雁と大正行動隊の労働者の自立的な政治運動への越境から、多大の影響を受けたのではないかと推察する。わたしは、いくらか労働者の運動の実体を、それ以前に知っていたので、大正行動隊の活動に、それほど過大な実効性を認めていなかった。「Sect6」の中心グル―プが、大正行動隊と接触し連帯する志向性を示したとき、私的にはむしろわたしは、止め役だったとおもう。わたしの止め役の理由は、<労働者から学ぶものは、じぶんも労働者になるという位相以外のところでは、なにもない>ということであった。もちろん、わたしの<私語>は、「Sect6」の中心グループには通じなかったのではなかろうか。

 現在、残されている機関紙「Sect6」を読めば直ぐに判るが、このグループの政治意識には、わが国の左翼的な常識にくらべて、開明的なところがみられる。それとともに問題提起の仕方に学生運動を独自的な大衆運動として固有にとらえようとする態度が、かなり明確に打ち出されている。

 この態度は、学生運動を、政治党派の<学生部>の運動とみなしてきた既成の概念と、枠組が異なっているということができる。このことが組織体として有利に作用したかどうかは、まったくわからない。ただ萌芽としては、その後にジグザグのコ―スをとりながら行われた60年代の学生運動の問題意識は、ほとんどこのグル―プの問題意識のなかに含まれているといってよい」。

 10.26日、都学連(社学同)政暴法粉砕闘争。二百名が氷川公園に結集、特許庁前で機動隊と衝突、一名逮捕、再建協千二百名、日比谷野音に結集、国会請願デモ、京都府学連五百名、同志社大に結集、独自集会の後、国民会議の京都集会〔円山公園〕に合流。

 10.30日、国民会議の政暴法粉砕緊急動員〔日比谷野音〕に各派学生五百名参加、国会デモ。


 10.31日、全学連・都学連(マル学同系)、政暴法粉砕・ソ連核実験反対統一行動、清水谷公園に二百名結集、ソ連大使館に抗議、都学連(社学同系)百五十名、氷川公園に結集、再建協五百名、芝公園に結集・デモ、夜、各派とも国民会議の決起大会に合流


 10月、「旭川学テ事件」発生。全国学力テストの実施を阻止しようとした教師ら4名が公務執行妨害で起訴される。


【革共同内の抗争】
 「六 再び西分派の同志諸君へ  西・大原両派を粉砕し、革命的共産主義の獲得へ」。
 革共同第二次分裂による革共同の創成(五九年八月三一日)にたいして、社民化したトロツキズムの路線を歩み、六〇年安保闘争においてスターリン主義に屈従し、革命的左翼のたたかいに敵対した西分派(第四インター)は、当然にも破産に直面した。本論文は、分解した西分派の双方を批判しつつ、良心的分子のわが同盟への結集を訴えている。  
 
 西分派の政治的破産と組織的解体は、いまや、公然の事実となった。
 かつて西分派のパブロ主義的三頭政治の一角を占め、学生戦線においてスターリン主義者との野合を指導し、今日では反パブロ主義をとなえ、自称「全国派」の統領をもって認ずる大原もまた、かつて五九年の第二次分裂のさいには動揺に動揺をかさね、西の特使として上京した大原の恫喝にあって「探究派狩り」にやむなく参加し、その後、自称「関東委員会」で無気力な組織的?活動をつづけ、今日では、社青同に加入戦術することに自己の救済の道をみいだした鎌倉も、ともに「長期にわたる同盟(西分派)の混乱と実体の崩壊」を確認する。
 西京司とそれに追従するほんの一握りのグループをのぞいて、いまや、西分派の崩壊は、革命的左翼戦線の公認の前提である。それゆえ、今日の段階では、西分派の実体の崩壊を確認するだけでは、まったく無意味である。なぜなら、すべての革命的共産主義者にとって真に実践的な課題は、この崩壊の根拠をあばきだし、それとの決定的決別をきりひらくものでなければならないからである。共産主義者同盟の解体につぐ、革命的左翼戦線の再編過程の新しい局面がいまはじまろうとしているのである。九月の西分派の第六回中央委員会における大原派の退場を直接的端初とする西分派の西=鎌倉派と大原の分裂は、明らかに、こうした課題を背景にして進行したのである。
 だが、はたして、革命的共産主義者は、このどちらかの分派に、西分派の今日の崩壊の根拠を決定的に克服しうる可能性をみいだしうるであろうか。
 
 西=鎌倉派の反動性――ソ連核実験を支持
 
 周知のように、西=鎌倉派は、十月中旬に四ヵ月も休刊していた『世界革命』をたった一号だけだが発行した(八九号)。ここには西分派の内部分裂については例によって一行もふれられず、「ソ連の核実験再開とわれわれの態度――反戦闘争と労働者国家の防衛のために」という西京司の愚劣な作文が全面を埋めている。
 その内容を紹介するのも恥ずかしいようなしろものだが、わが「トロツキスト」の主張をかんたんに要約すれば、(A)労働者国家ソ連を防衛するためには、ソ連核実験の権利を認める必要がある、(B)そうすることによってソ連の国家機構に基礎をおくスターリニストを擁護することになるであろう。だが「それはわれわれが台風に対して家屋を守ることによって屋根裏のネズミの生活をも守っていると何ら異ならない」ということになる。
 いったい、ソ連におけるスターリニスト官僚の位置を、屋根裏のネズミとしか把握しえないこの「トロツキスト」には、革命的ロシアのスターリニスト的歪曲と死闘したトロッキーをはじめとするロシア左翼反対派は、せいぜいネズミとたたかって死んでいったことになるのであろうか。だとすると、「トロッキーの第四インターの革命的伝統」の継承者をもって認ずる西京司よ! 君は、何者なのだ! まさに、現代ソ連=スターリニスト圏を「社会主義的」国有計画経済とスターリニスト的官僚層のモザイク的構成・二重建築としてしか把握しえないところに、いわゆるトロツキストのソ連論の根本的陥穽があるのだが、いまや、わが西京司は、スターリニストをソ連社会構成の基本的要素から追放し、その偶然的闖入者(屋根裏のネズミ)にまで純化? してしまうのである。フルシチョフを梁上の一君子にしあげてしまうわが「トロツキスト」のなんと革命的なことよ! すると、どうやら、君は、「労働者国家」ソ連の本当の家主だということになる!
 したがって、このような形而下学的立場からは、ソ連官僚制の核実験の反プロレタリア的本質を直感的にうけとめつつある労働者の革命的立場にたいして、スターリニスト(日共)とともに、「ソ連は核実験をおこなう権利がある」という官僚的お説教をくりかえすことしかできないのである。まさに、このようなプロ(親)スターリニスト的立場と鎌倉の「社青同加入戦術」とは、かれらの非主体的本質において結合し、相互に補完しあっているのである。
  かつて、われわれは、西分派の政治的性格を「政治方針における社民的パブロ主義と組織方針におけるキヤノン的独立主義の混合」として特徴づけたが、いまや、西京司は、鎌倉一派の加入戦術論に協調主義的態度をとることによって、パブロ主義の立場を純粋化する道をえらんだのである。
 
 大原派の欺瞞――自己総括を回避
 
 このような西=鎌倉派のパブロ主義的堕落にたいする西分派内部の即自的反発こそ、また、大原派の策動を許す基礎になっているのである。だが、西分派の同志諸君! 西分派の今日の崩壊の根拠は、はたして、大原が主張するように、鎌倉一派の加入戦術論とこれにたいする西=岡谷の調停主義的=中間主義的態度にあったのであろうか。
 たしかに、パブロ主義的加入戦術の破産は太田竜の政治的実践によって見事に立証された。この教訓に学びえない西=鎌倉派の未来は、第二の太田竜の没落の道であろう。だが、いったい、パブロ主義反対を確認したところで、大原は、その後になにを約束しているのであろうか。大原派の発行した『世界革命』(ガリ版)をいくら読んでも、加入戦術反対と、パブロ修正主義はトロツキズム内部の一傾向とみるべきではないという主張以外には、われわれはなにも発見できないのである。
 炭鉱国有化のスローガン、社共両党へ投票せよ、という選挙方針、安保闘争における戦術、等々という革命的左翼戦線内の論争における西分派の主張はどうなのか。このような具体的問題をさけて、あたかも加入戦術問題に当面する中心点があるかのようにいうところに大原と鎌倉の欺瞞性があることを、われわれは、明白に指摘しなければならない。そして、こうした戦術的総括は、同時に、労働者国家無条件擁護というパブロ主義的立場の批判的検討と結びつけておこなわれなくてはならないであろう。労働者国家無条件擁護の問題に手をつけずに、パブロを批判するところに、ほかならぬキヤノン派の陥穽があるのである。
 西分派の同志諸君! 諸君の革命的未来は、西=鎌倉の道でも、大原の道でも、けっして実現しえない!
 トロッキー・ドグマチズムに死を与えよ! 革命的共産主義者同盟の革命的統一万才!
 (前進七二号、一九六一年十一月五日に掲載)

 11.9日、全学連反戦統一行動デー、東京ではロシア革命四十四周年・ハンガリー革命十四周年反戦統一集会〔日比谷野音〕に二百五十名結集・デモ、五名逮捕、愛知県学連二百名、九州学連八百名等全国各地で二千名が集会・デモ。


 11.13日、社学同都大会〔参院議員会館〕、社学同を学生運動の大衆的活動家組織とする(東大など)部分と、反帝反スタを明確にせよとする部分(早大一文など)が対立、全国事務局を設置(事務局長・古賀泉)。


 11.18−19日、マル学同第三回全国大会。


 11.23−25日、社青同第二回全国大会〔全国町村会館〕、反独占・社会主義を基本路線に同盟の大衆化を図る方針等を決定。


 11.29日、都自連代表者会議〔教育大〕、ソ連核実験問題をめぐり東大・早大グループ(のちのフロント系)と教育大グループ(のちの共青系)の対立激化。


 11月、社学同事務局派、東京社学同大会開催。


 12.1日、全学連反戦統一行動、七十五名日比谷野音に結集、芝公園までデモ、東大中央委主催・全都学生統一行動、氷川公園に八十五名結集、新橋までデモ。


 12.3日、宮顕書記長、綱領問題の報告をまとめた「日本革命の展望」を出版。


【社学同全国事務局派、機関誌「SECT No.6」創刊、アピール】
 12.5日、社学同再建準備会が全国結成大会を目前にして「SECT(セクト)bU」(社学同全国事務局)という名の機関紙でアピールを出した。これ以後「セクト」という言葉が使われだすことになったようである。全学連第17回大会に対して次のように批判した。
 「一党派の全きセクト的利益の貫徹の場に転化し、大会そのものは『反帝反スタ』前衛党創造の為にそのような党的(党派的!)立場に立って、学生運動を一切利用しつくせ、という公然たる赤色労働組合主義の一掃の徹底化に他ならなかった」。

 この時の「僕たちの宣言」を要約する。
 「安保闘争を経験した僕たちは、旧社学同・共産主義 者同盟の一切の残り滓に訣別する、これが教訓であったのだ。革命の旧意識よ!前衛主義よ!レーニン主義者 たちよさらば!」、「旧式用語と前時代的革命意識の日本共産党と、歌と踊りの民青派からかつて訣別した僕たちは、さらに明言 する。 春日のごとき構造改良・トリアッチ主義者の自己分解は現在急激にすすんでいる。諸君!さらに分解せよ。 全学連の名を標榜する戦前左翼の亡霊、旧社学同の誤りの縮小再生産者たち、マル同くたばれ!」。

【マル学同系全学連第18回大会】
 12.15−17日、マル学同指導部が全学連第18回大会(委員長・根本仁)を召集した。社学同・社青同・構改系不参加。核実験反対を軸とする反戦闘争を総括、一部極左的偏向確認・反戦インター提唱、社学同系中執四名を罷免した。全議案反対ゼロの記録を残している。この大会で、唐牛.北小路ら安保闘争のリーダーが中執から引退し、委員長に根本仁(旧ブント系、その後革マル派の最高幹部になる。土門肇がペンネーム)、書記長に小野田襄二らが選出された。米ソ核実験反対の運動を徹底して進める方針を決めた。

【ブント再建派の大詰めの動き】
 12.15−16日、社学同全国事務局派、社会主義学生同盟は、社学同全国支部代表者会議を開催。社学同全国支部代表者会議〔杉並法人会館〕、七十名参加、社学同は意識的大衆の自立組織という意見(事務局派)と、前衛組織への過渡という意見(東大など)が対立・議案採択されず、関西系は不参加。

 来る3月下旬に結成大会を持つことを決定し、全国事務局がその任を負うことが決定された。「ロシア・アメリカ核実験反対!政暴法反対!日韓会談と海外派兵・徴兵制反対!憲法改悪反対!」などのスローガンで活動が開始された。

 しかし、「外部と僕た ち自身の間で緊密なコミュニケーションが未だ保てない状態」、「特に新聞・機関紙の発行、その他の事務を集中するための事務所の設立の計画に ついては、総額一五万円ほどの資金を必要としますのでその一部をその一部を負担していただきたく」とあるからその状態が推して知れる。

【三派連合(社学同残留派、社青同派、構造改革派)が形成される】
 12.17日、社学同残留派は、社青同派、構造改革派、革共同関西派とともに全国自治会代表者会議開催し〔東大〕反マル学同の三派連合を形成した。25大学、36自治会、170名参加、全自代運営の三原則・当面の統一行動方針等を決定。

【黒寛に纏わるイカガワシサとしての二見問題考】
 黒寛に纏わるイカガワシサが1959年の大川問題に続いて、次のように記されている。これを仮に「黒寛に纏わる二見問題」と命名する。
 概要「61年に露呈した二見問題。二見暁は本多書記長直系の活動家で、60年1月16日の羽田闘争で全国委員会から唯一逮捕・起訴された早大二文の優れた活動家だった。ブント崩壊後は教育学部の斎藤清と組んで(マル学同委員長と書記長)全学連を支えることが期待されていたが、その二見が検察側の証人になっていることが問題になった。黒田には事前に「ブントの情報なら売ってもいい」といわれていたという。この件で二見を失った斎藤は唐牛の跡を継いで全学連委員長になったものの、わずか6ヵ月で重責に耐えられず戦線を逃亡する」

(私論.私見) 黒寛に纏わるイカガワシサとしての二見問題考

 「1959年の大川問題」に続く「1961年の二見問題」をどう理解すべきだろうか。大川問題は民青の組織名簿が売られようとしていた事件であるが、二見問題はブント情報が売られようとしていたことになる。ことは重大ではなかろうか。と思うのだが、この辺りのことになると論ぜられないのが不思議である。

 これより後は、「第6期その3、全学連の三方向分裂化と民青系全学連の『再建』」に記す。





(私論.私見)