10章 | 戦後学生運動6期その1 | 60年安保闘争直後 |
ブントの大混乱 |
(最新見直し2008.9.11日)
これより前は、「5期その3、60年安保闘争」に記す。
(れんだいこのショートメッセージ) |
ここで、60年安保闘争後の学生運動史を概略する。これを仮に「戦後学生運動6期その1、ブントの大混乱概略」と命名する。詳論は「安保闘争総括をめぐって大混乱発生」、概論は「ブントの大混乱」に記し、ここでは枢要な事件を採り上げ解析する。全体の流れは、「戦後政治史検証」の該当年次に記す。 |
【この時期の全体としての政治運動】 |
この時代の政治闘争の枢要事を眺望しておく。学生運動史の予備知識として知っておく必要がある局面を抽出する。 |
【池田政権登場、高度経済成長政策始まる】 |
1960(昭和35).7.14日、安保闘争で岸内閣が打倒された、自民党の総裁公選が行われ、池田、石井、藤山、松村の4氏が争い、池田・石井の決選投票の末、池田が圧勝した。第4代自民党総裁に就任した池田の勝利は吉田学校の復活でもあった。7.15日、第二次岸内閣が総辞職し、7.19日、第一次池田内閣が成立した。 これについて、筆者はかく思う。見落とされがちであるが、日本左派運動は、この時期戦後保守本流を形成した自民党内ハト派の評価と、その経済政策即ち高度経済成長路線に対し理論的考察を懈怠している、と云うか理論的解明する能力を持ち合わせていない。それは、戦後日本のプレ社会主義性論を創造できず、ステロタイプな資本主義論、帝国主義論の枠組みの中でしか評論できない悪しき習性によっていたのではなかろうか。 |
【構造改革派イデオローグの登場】 |
雑誌「現代の理論」の発刊禁止後ち、現マル派の理論家たちは、主に「経済分析研究会」に拠り、季刊「日本経済分析」などによってその影響を強めた。安東仁兵衛、佐藤昇、長洲一二、石堂清倫、井汲卓一、前野良、大橋周治、杉田正夫その他の論客たちが結集していた。彼らは、国家独占資本主義や日本帝国主義の復活の問題に取り組み、労働運動の転換の必要を提起した。またイタリアのトリアティの理論及びイタリアの共産党の構造改革の路線を紹介しつつ、日本左派運動の流れを、反独占社会主義革命の現実的具体的な展開として「平和・民主・独立・生活向上の為の闘争」へと向かうべきと主張した。これが新政治路線として左翼ジャーナリズムをにぎわかしていくことになったが、「平和共存」時代における「一国社会主義」的「平和革命」的「議会主義」的革命運動を指針させようとしていたことになる。 次第に日本の反独占社会主義革命の戦略をイタリア構造改革方式の適用によって具体化しようとする傾向に統一されていった。それは日本の権力を独占資本の権力として規定し、平和.民主.独立.生活向上の為の闘争を反独占を基調に置いてとらえつつ、反独占社会主義革命の現実的.具体的な展開を構造改革の政治路線として確定しようと云うのであった。こうした構造改革的見解は左翼ジャーナリズムに大きく進出し、党主流の2段階革命の戦略方針と対決する姿勢となってきた。 |
【日共党内で宮顕派と春日(庄)派の抗争始まる】 |
ポスト安保後、日共党内で、元国際派仲間の春日(庄)派が宮顕系党中央に対して路線闘争を挑んだ。この経緯を確認しておく。春日(庄)派は構造改革派として立ち現われ、資本主義の内部における「反独占民主主義革命」による「社会主義的民主主義の道」を指針した。プロレタリアートの独裁についても、「社会主義社会の建設は、資本主義を打倒する革命、社会主義の勝利、共産主義への移行などの間に過渡的な期間を設定する。この過渡的な期間に於いては、社会の指導は、労働者階級及びその同盟者に属しており、プロレタリア独裁の民主的性格は、旧支配階級の残存に反対し、圧倒的多数の人民の利益において、この指導が実現されると云う事実から生まれている」(1956.6.24.イタリア共産党中央委員会報告)としていた。この理論が構造改革論と言われるようになり、春日(庄)グループらが宮顕系党中央に反対する論拠としてこれを採用することになった。 興味深いことは、構造改革派の社会主義革命の一段階革命論は、新左翼系の革共同、ブントとも同じ見方に立っていることであり、左派的な主張であったということにある。が、構造改革派の特徴は、この後の実際の革命運動の進め方にああった。「現マル派」として結集しつつあった安東仁兵衛、藤昇、長洲一二、石堂清倫、井汲卓一、前野良、大橋周治、杉田正夫ら構造改革派のイデオローグたちはイタリアのトリアティの理論及びイタリアの共産党の構造改革の路線を紹介しつつ、反独占社会主義革命を目指すとし、現実的具体的な展開として「平和・民主・独立・生活向上の為の闘争」へと向かうべきと主張した。 |
7月、三井三池の会社側は、機帆船4隻で第二組合員を入坑させようとし、第一組合と衝突し、警官隊も含めた乱闘で300名が負傷した。第一組合は三川鉱ホッパーをピケで固め出炭を阻止した。裁判所は、ピケの排除を内容とする仮処分を決定した。総評、炭労側は、全国から2万人の組合員を動員して仮処分の実力阻止をはかった。警察側も1万人を動員して執行の支援にそなえた。7.17日、全学連、三池争議に3 50名の支援団派遣。
池田内閣は、三池対策の急務を説く財界の要請をうけて収拾工作にのりだした。労組側にピケの撤去と、中労委のあっせん案に応じることを勧告するとともに、この平和的解決に難色をしめす三井鉱山側を説得した。総評は、中労委への解決一任を呑まざるを得なかった。8.10日、中労委あっせん案が示されたが、その内容は指名解雇を認めるものだった。
10.12日、浅沼社会党委員長が、日比谷公会堂に於ける自民・社会・民社の立ち会い演説中に大日本愛国党員山口二矢(17歳)によって刺殺される。山口は、事件の背景を語ることなく、11.2日に東京少年鑑別所で自殺している。
社会党河上丈太郎の演説(衆院本会議)は次の通り。
「本日、私は、この本会議場において、今はなき淺沼君のために、党を代表して演壇に立っております。この際、私は、無量の感慨をもって、今を去る三十一年前の昔のことを思い出します。昭和三年、わが国に初めて普通選挙が実施され、私もまた、革新陣営を代表する初の無産政党議員の八人の一人として国会に選出されたのであります。当時の八人の中で今日議席を持っているのは、西尾君と水谷君と私の三人になっております。昭和四年三月五日の夕刻のことであります。その八人の同志の一人、山本宣治君が、右翼に殺されました。私は、その死を追悼する意味において、その翌日、衆議院の本会議において、質問の形式をもって演説をいたしたのであります。その私が、三十一年後の今日、このたびは私の最も敬愛してきた淺沼君が凶刃に倒れ、その死に関連して政府に対して質問をいたさなければならないことは、私にとって、まさに断腸の思いであります。(拍手) 山本宣治君は、治安維持法の緊急勅令に最も強い反対者でありました。そのとき、私は次のようなことを申したのである。『山本君の死は、今日のうっせきしているところの、日本の陰うつなるところの反動政治と反動思想との犠牲であると、かたく信ずるものであります。』、『私はこの意味を探らなければならない。来たるべき将来の民衆は、この山本君の死と、そうして治安維持法――通過されたこの案に絶大なる意義を見出して、山本君のしかばねを踏み台として、将来の民衆が再び立つときがあるであろうと私は信ずるのであります』。こう私はその際演説で述べたのであります」。 |
【「81カ国共産党.労働者党代表者会議」】 | ||
11.10−12.1日、「81カ国共産党.労働者党代表者会議」に、党代表団団長・宮顕書記長、袴田、西沢富夫、米原が参加した。モスクワ会議への代表派遣という重大問題について中委総会にはからず、単に全員でない幹部会をも
っただけで勝手に決めた。結局自分らの派閥だけで代表を決定した。大会は、予備会議と本会議を通じて国際共産主義運動の諸問題(兄弟党の相互援助、帝国主義の性格付け、民族解放闘争の評価、平和共存の意義、戦争の不可避性の問題、ユーゴ修正主義を廻って、革命の平和的移行の可能性について、国際連帯と団結について等々について討論が行なわれた。アルバニア労働党第一書記のエンベル・ホッジャが「ソ連は、マルクス・レーニン主義の原則に反した大国主義である」と激しくフルシチョフ批判をしたことが注目される。本会議は、予備会議から本会議までえんえんと二カ月間も続いた会議となった。
同時にソ連共産党の位置と役割について、次のように述べている。
毛沢東は、「ヘビにも頭がある」として、ソ連共産党の指導的党の立場と役割を容認した。日本共産党は「1991.9.26日付け赤旗の宮顕談話」によればこれに反対し、イタリア共産党の妥協的仲介を拒否し、80数項目の修正を提案する等「自主独立路線」的見地から異議を唱えつづけた。しかし具体的にどのような提案をしたのかは明らかにされていない。実際には国際共産主義運動の分裂の促進にひと肌もふた肌も脱いだと思われる。 |
【高度経済成長時代始まる】 |
12.27日、池田内閣は、閣議で国民所得倍増計画を決定した。以降日本経済は高度経済成長時代を向かえていくことになる。財界四天王(小林中、水野成夫、永野は重雄、桜田武)及び経営評論家・三鬼陽之助らがこれを支持し、首相を囲んでは天下国家を論じ、政策に睨みを利かせた。 |
【この時期の学生運動の流れ】 |
この時代の学生運動の枢要事を眺望しておく。 安保闘争後、新たな動きが始まる事になった。日共系民青同は逸早く体制を建て直すが、宮顕指導への反発から構造改革派が分離する。革共同全国委は押せ押せに入り、第1次ブントに対し理論闘争を仕掛け呑み込もうとする。 60年安保闘争で岸政権を退陣に追い込んだ第1次ブントはその成果を確認できず、60年安保闘争の総括を廻り三分裂、四分裂する。あろうことか、「黒寛・大川スパイ事件」で知る人ぞ知る凶状持ちの黒寛の指導する革共同全国委に雪崩れこむという痴態を見せ分解する。革共同全国委bQの本多氏の革命的情熱に魅せられた面が強かったと云う事情があったようであるが、今から思うに痛恨の極みであった。島・氏のブント再建の動きが垣間見られるが、もはや如何ともし難かった。 |
【民青同第6回大会】 |
60年安保闘争後、日共が逸早くポスト安保後に向けて指針していることが注目される。その様はブントが満身創痍の中分裂を深めていくのと好対照である。民青同は、先の「第7回党大会第9回中委総」の新方針に基づき6.27−29日、「民青同第6回大会」を開催、「青年同盟の呼びかけ」と「規約」を採択し、民青同の基本的性格と任務を規定した。 |
【宮顕派対春日(庄)派のブント評価の相違】 | ||
宮顕派と春日(庄)派には60年安保闘争におけるブント全学連の評価問題が絡んでいた。春日(庄)らは、ブント的運動を宮顕系の言うようなトロツキストの跳ね上がりとはみなさず、党指導による取り込みないし共同戦線化を指針させていた節がある。 宮顕系党中央は、ブント運動を次のように規定していた。
春日(庄)の動きに民青同系の指導幹部(黒羽純久、全自連議長・田村、等等力ら)が呼応し、「現代学生運動研究会」を組織し、3月に「現代の学生運動」なる書を公刊した。その中で、むしろ共産党の指導の誤りこそトロツキストを生みだした根源であると云う立場をとり、次のように批判している。
つまり、「60年安保闘争」における党中央の指針に疑義を表明し、ブント全学連急進主義派の戦闘的闘いを好意的に評価し対立したということになる。 |
【全学連第16回大会】 |
7.4−7日、全学連第16回大会は三派に分かれて開催されることになった。この第16回大会こそ、全学連統一の最後のチャンスであった。運動論、革命論や安保闘争についての総括について意見がそれぞれ違っても、全学連という学生組織の統一機関としての機能を重視すれば賢明な対処が要求されていたものと思われるが、既に修復不可能であったようである。 全学連主流派は、全学連第16回大会参加に当たって日共系都自連の解散を要求した。これに対し都自連を核とする反主流派は、1.都自連解散要求の撤回、2.第15回大会は無効である、3.8中執の罷免取消しを要求したようである。それらは拒否された。お互い相手が呑めない要求を突きつけていることが判る。こうして、全学連第15回臨時大会に続き反対派が閉め出されることになり、全学連の分裂が固定化していくことになった。 こうして全学連第16回大会はブントと革共同全国委派だけの大会となった。大会では、それぞれの派閥の安保闘争総括論が繰り返され、もはや求心力を持たなかった。委員長に唐牛、書記長に北小路を選出した。大会は、60年安保闘争を「6.19以後の学生と労働者、人民の闘いは、日本帝国主義が安保にかけた二つの政治的目標−国際的威信の確立と国内政治支配の確立−を反対物に転化せしめたがゆえに安保闘争は政治的勝利をもたらした」と総括し、60年秋こそ決戦だとした。 |
【日共系の全学連離脱】 |
日共系都自連は、全学連第16回大会参加を拒否された結果、自前の全学連組織を作っていくことになり、7.4−6日、全国学生自治会連絡会議(全自連)を結成した。全自連は、連絡センターとして代表委員会を選出し、教育大、早大第一文、東大教養学部、神戸大などの自治会代表が選ばれた。この流れが以降「安保反対、平和と民主主義を守る全学生連絡会議」(平民学連)となり、民青系全学連となる。ところが、この過程で、全自連指導部は前述した構造改革派の影響を受け、東京教育大学、早大、神戸大、大阪大などの指導的活動家等が呼応することになる。 |
7.26日、共産主義者同盟政治局は、戦旗22号で、「同盟を真の前衛として再建せよ!安保闘争の総括と同盟活動の展望」なる長大な論文を発表した。「一、日本階級闘争における同盟の存在とその歴史的意義」、「二、安保闘争の政治的評価と同盟の活動」、「三、同盟活動の問題点とその自己批判」、「四、同盟建設の今後の展望」から成り、同盟の弱点を晒し、同盟が中央から細胞に至るまで解体状況にあることを暴露した。
【ブント分裂】 | ||
7.29日、ブント第5回大会が開催された。この大会は大混乱を極めた。60年安保闘争の評価を廻って、「ブント−社学同−全学連」内部で、安保条約の成立を阻止し得なかったことに対する指導部への責任追及の形での論争が華々しく行なわれた。論争は、この間のブント指導の急進主義的闘争をどう総括するのか、その闘争の指導のあり方(革命的敗北主義、捨石論、一点突破全面展開論)や、革命理論をめぐっての複雑な対立へと発展していくこととなった。ブント書記長・島氏は燃え尽きており、次の世代に下駄を預けた。 8.9日、この過程で指導部に亀裂が入り、東京のブント主流は三グループ(それぞれのグループの機関紙の名前をとって、革命の通達派、戦旗派、プロレタリア通信派)に分かれていくことになった。これについては、詳論「第一次ブント運動の分裂過程」で考察する。 一番勇ましかったのが革命の通達派であった。東大派とも云われ、東大学生細胞の服部信司、星野中、長崎浩らによって構成されていた。これに早大派が列なった。8.14日、いわゆる星野理論と云われる「安保闘争の挫折と池田内閣の成立」を発表して次のように攻撃した。
ブント式玉砕闘争を批判したのが戦旗派であった。労対派とも云われるが、森田実、田川和夫、守田典彦、西江孝之、陶山健一、倉石、佐藤祐、多田、鈴木、大瀬らが連なった。出獄後の唐牛委員長、社学同委員長篠原浩一郎もこの派に属すことになる。ブント的60年安保闘争を否定する立場に立ち、革共同的批判を受け入れ、「組織温存の観点が欠落した一揆主義であった」と総括した。 革命の通達派の主張を「主観主義」、「小ブル急進主義」と規定し、「革命の通達派的総括は前衛党建設を妨害する役割しか果たさない、マルクス主義とは縁のない思想だ」と反論した。60年安保闘争について次のように述べている。
ブント全学連の栄光を死守しようとしたのがプロレタリア通信(プロ通派)派であった。全学連書記局派とも云われ、この派には、青木、北小路敏、清水丈夫、林紘義らが連なった。両者の中間的立場に立って「ブント=安保全学連の闘いは正当に評価されるべきだ」、「基本的にブントの方針は正しかった。たらいの水と共に赤ん坊を流してしまってはいけない」と主張した。こうして、第1次ブントは、安保闘争の総括を廻って大混乱し、「ブント−社学同−全学連」の分裂即ち「ブントの空中分解」に向かうことになった。 |
【ブント分裂考】 |
これについて、筆者はかく思う。ブント三派のうち60年安保闘争に果たしたブントの功績を確認するプロ通派の観点が至極真っ当だと思われるが、革命論的観点しか持たず、岸政権打倒の歴史的意義を捉え損ねていたので防戦を余儀なくされることになったのも止むを得まい。それにしても、飛び出る者は飛び出て、プロ通派が踏み止まってブントの法灯を守り抜くことができなかったのかと云う思いがしない訳ではない。 ところで、これをもう少し愚考すると、当時のニューマからすれば致し方の無い時代的限界であったにせよ、ブントは無論として日本左派運動総体の理論的貧困が真の要因であるように思われてならない。どういうことかと云うと、ブント三派はこの時、60年安保闘争に続く池田政権打倒の位置づけを廻って混乱し、且つ急速に潮を引いた労学運動に対する識見不足をこそ切開せねばならなかったところ、これに失敗したというのが背景事情なのではなかろうか。 筆者は、ブント三派が、「60年安保闘争論、池田政権論」を廻って三派三様に対応し混乱しているのに対し、「60年安保闘争能く闘った論、池田政権是々非々論」に立つ。しかし、この観点は「戦後日本プレ社会主義論、政府自民党内ハト対タカ地下暗闘論」に立たざる限り発想できない。資本主義体制打倒論一本槍のブント及び当時の日本左派運動相対のニューマからは生まれないであろう。とりあえず以上示唆しておく。 ところで、第1次ブントの面々のその後はどうなったであろうか、これを検証するのも興味深い。思うに、それぞれが痕跡を残しつつ銘々の旅立ちへ向かったのではなかろうか。特徴的なことは、マルクス主義のより進化を目指したグループ、マルクス主義と決別したグループの二方向に分岐したところがブントらしい。 |
【社青同誕生】 | |
10.15日、社会党の青年運動組織として社会主義青年同盟(社青同)が結成された。遅まきながら社会党は、日共の民青同育成方針にならってこのポスト安保直後の時点で自前の青年運動創出の必要を党議決定し、誕生させたということになる。 社青同は、同盟の性格と任務として「独占資本の攻撃に対する統一政策、政治路線、組織路線を明らかにし、活動家の大同団結による青年の強大な戦線をつくり、指導する青年同盟」とし、「労働青年を中心に各層青年の先進的活動家の結集体」、「すぐれた活動家の個人加盟組織」、「日本の社会主義革命の勝利の為に闘う政治的実戦部隊」とする階級的な青年運動を志向していた。 特徴的なのは社会党との関係であり、次のように位置づけていた。
つまり、日共と民青同との関係ほどには統制しない緩やかな組織結合を目指したということになる。この社青同はこの後社会党内の左派的潮流を形成していくことになる。ブント運動の花粉が意外なところに運ばれ結実したとも考えられる。 |
(私論.私見)