3章 戦後学生運動2期その2 1951(昭和26)−1953(昭和28)年
 「50年分裂」期の学生運動

 (最新見直し2008.9.17日)

 これより前は、「2期その1、共産党の「50年分裂」」に記す。

 (れんだいこのショートメッセージ)
 戦後学生運動2期を1951(昭和26)−1953(昭和28)年までの歩みとする。これを仮に「戦後学生運動2期その2、「50年分裂」期の学生運動」と命名する。詳論は「50年分裂期の(日共単一系)学生運動」、概論は「50年分裂期の学生運動」に記し、この時期の肝要事件を採り上げ解析する。全体の流れは、「戦後政治史検証」の該当年次に記す。


【この時期の全体としての政治運動】
 この時代の政治闘争の枢要事を眺望しておく。学生運動史の予備知識として知っておく必要がある局面を抽出する。

【「四全協」で武装闘争へ向けての体制作り】
 1951(昭和26).2.23−27日、第四回全国協議会(「四全協」)が開催され、「日本共産党の当面の基本的闘争方針」(いわゆる「51年綱領」)が採択され、党結党以来初めての軍事方針を打ち出した。これに基き山村根拠地建設が目指され、山村工作隊、中核自衛隊等が組織され、各地で火炎ビン闘争を発生させることを目論むことになった。武装闘争支援文書「栄養分析法」、「球根栽培法」等が配布された。同書にはゲリラ戦、爆弾製造の方法も書かれていた。党は青年運動組織への指導を大きく転換させ、5.5日、日本民主青年団(民青団)を発足させた。今日、日共は次のように総括している。
 「中国の人民戦争の経験の機械的適用であった」、「民族解放革命を目標として、街頭的冒険主義に陥り、セクト化を強め一面サークル主義になった」(「日本共産党の65年」)。

 これについて、筆者はかく思う。そう批判するのは勝手だが、ならば当時の国際情勢にどう対峙すべきだったのか、手前達の運動がいかほどのものを創造したのかということと突き合わせて云うのが筋だろう。何事も云い得云い勝の愚を避けるのが嗜みであろう。 

【「二つの共産党が別々の候補を立てて選挙戦を戦う」】
 4.23−30日、全国にわたって第2回一斉地方選挙が行われたが、この選挙戦で党の分裂が深刻な様相を見せた。大衆の面前で主流の臨中派と反主流の統一会議派との抗争が展開された。主流派は社共統一候補として社会党候補者を推薦するという選挙方針をとった。東京都知事に加藤勘十を、大阪府知事に杉山元治郎を推した。

 統一会議派は、これを無原則的と批判し、独自候補の擁立を策し、東京都知事に哲学者の出隆、大阪府知事に関西地方統一委員会議長の山田六左衛門を出馬させた。宮顕と云うのは、こういうことを平気でやる感性を持っている。こうして両派による泥試合が展開された。戦前戦後通じて初めて「二つの共産党が別々の候補を立てて選挙戦を戦う」という珍事態が現出した。党外大衆の困惑は不信と失望へと向かった。投票結果はそれぞれ惨敗となった。

【「スターリン裁定」】
 8.12日前後、モスクワで日本共産党の分裂問題が討議された。スターリンは、国際派の統一会議を分派と裁定し、党内団結を指示した。これを「スターリン裁定」と云う。これにより、党中央主流派が是とされ、国際派は総崩れとなった。

【サンフランシスコ講和会議と日米安全保障条約の締結】
 8.31日、吉田首相は、戦後日本の主権的独立を得んとして自ら団長となりサンフランシスコ講和会議へ臨んだ。9.8日、講和平和条約が締結された。48(46)カ国が調印し、ソ連.ポーランド、チェコスロバキア、中国.インド.ビルマが調印しなかった。この条約の締結によって日本は占領統治体制から脱却し主権を回復することになった。

 この条約の調印の5時間後、日米安全保障条約が締結された。「平和条約の効力発生と同時にアメリカ合衆国の陸軍、空軍及び海軍を日本国内に配備する権利を日本国は許与し、アメリカ合衆国はこれを受諾する」と記されていた。安保条約により日本の国際的立場はアメリカを盟主とする資本主義国家陣営入りすることが明確にされた。

 吉田首相は、「この条約は評判が良くないから、後の政治活動に影響があってはならない」として、彼一人が署名した。アメリカ側は、アチソン国務長官、ダレス顧問ら4名が署名した。署名前吉田は次のように声明している。

 「日本は独立と自由を回復した後、自分の力でこの独立と自由を保持する責任をとらねばならない。しかし不幸にして、未だ自衛の用意ができていない。で、米国が日本の安全は太平洋及び世界の安全を意味することを理解されて、平和条約後も暫く軍隊を日本に留めて共産主義者の侵略を阻止してくれることを欣幸とする。新たに独立した日本は、極東の集団安全保障に対する応分の責任を負うであろう」。

 これについて、筆者はかく思う。それは、表見的には戦後日本のアメリカ陣営組み込みであったが、真実は、第二次世界大戦後の国際金融資本即ち国際ネオ・シオニズム裏政府の国際戦略に戦後日本を委ねることを意味していた。吉田首相は、このことを承知のうえで戦後日本の独立を優先させた気配がある。日米安保条約と云う火中の栗を拾わせられることになったが、その行く末は後世の政治に委ねたのではなかろうか。だがしかし、国際ネオ・シオニズム裏政府は容易く御せられる相手ではない。その後の日本は養豚政策で育てられ、やがて骨の髄までしゃぶられ捨てられて行く運命に入った。2008年現在、その仕上げの終盤過程に入っているとみなせよう。

【統一会議派が解散し、臨中に合同する】
 10月、統一会議指導部は「党の団結のために」を発表し、「自分らの主観的意図にも関わらず、日米反動に利する結果になったことを認め、ここに我々の組織を解散するものである」と宣言した。こうして、春日(庄)派、宮顕派、関西や中国その他の統一会議系地方組織、国際主義者団、団結派、神山グループなど、いずれもが組織の解散を行った。臨中指導部は、彼らの復帰に対して、新綱領と4全協規約の承認、分派活動の自己批判を容赦なく要求した。

【「五全協」で軍事路線意思統一】
 10.16−17日、「臨中」指導下の党は秘密裡に第五回全国協議会(「五全協」)を開いた。分派闘争の終結後の19中総以来初めての一本化された指導部の下での大会となった。会議の眼目は、新綱領(「51年綱領」)の採択や軍事方針の具体化、党規約の改正など党の前途を決定する重要な問題を討議することにあった。会議は主流派の強引な手法でリードされ、反対意見は全て分派主義者のレッテルを貼られて圧殺されると云う「臨中官軍方式」で進行した。五全協は、臨中議長に小松雄一郎、軍事委員長に志田重男を据えた。志田重男はこの大会で伊藤律に替わる軍事責任者として台頭した。伊藤律は宣伝担当からも外され、党中央権限を奪われた。

 ところで、現在の宮顕派の手になる党史は、四全協.五全協の存在そのものを認めようとしない態度を取っている。「徳田らは(四全協につづいて)10月には五全協を開いた。この会議も四全協と同じく党の分裂状態のもとでの会議であり、統一した党の正規の会議ではなかった」として抹殺している。

 これについて神山茂夫は次のように云っている。

 「この「四全協」.「五全協」について、宮本君などは、それがあったことさえも認めない。その理由は、「六全協」で従来の文書は破棄するという決定をしたから、『四全協』.『五全協』も認めないと云うのだ。これでは極端ないい方をすれば、文書によって、党の歴史上から過去の文書を消し去り、実際にあったことさえ消してしまうことになる。それは出来ない相談である」(神山茂夫「日本共産党とは何であるか」)。

 五全協直後、まず党中央に一般党組織と別個の「中央軍事委員会」が設けられ、関東、北海道、東北、中部、西日本、九州の6ブロックに、それぞれ地方軍事委員会が置かれた。その直接軍事行動の中心は中核自衛隊で、レッド・パージで職場を追われた若い労働者、尖鋭な学生党員、在日朝鮮人党員等で編成され、一般細胞の党員とは別個に厳秘に付されて組織された。更に、ゲリラ戦の根拠地設定の任務を指令された山村工作隊、農村工作隊が、職業党員や学生党員で組織されて奥多摩や富士山麓等の山岳地帯あるいは農村に展開していった。中核自衛隊は1952(昭和27)年初め頃、約8千名といわれた。
【この頃の宮顕の無聊】
 この頃の宮顕について、宮顕自身が「経過の概要」の中で次のように記している。
 概要「8.14放送(中共からの統一要請)後、別項の声明を発し、中央委員の指導体制を解体す。この間(期限付きで自己批判書の提出を求められこれに応ず。また)経過措置として、臨中側との交渉、地方組織の統合その他に他の諸同志ともにあたる。51年秋、地下活動に入ることを求められ、これに応じ、宣伝教育関係の部門に入れられることになったが、仕事を始めるに至らず、一、二週間して不適格者として解除される。以後、選挙応援その他で、時おり連絡はあったが、特定の組織的任務につくことなく、『こうして、私は、一党員として過ごすことになった』。『当時、党籍はあったが、党のどの組織にも属していないという、普通ならば有り得ない状態に置かれていた』」。
 「私は、二重の意味で、事実上政治活動を封じられていた。一つは、アメリカ帝国主義の公職追放令によって。同時に、1951.8月のコミンフォルム論評以後の事態の中で」。

 この時期に宮顕が為したことは、宮本百合子全集等の刊行とその解説書きであった。
 「この間文芸評論多数書く」。
 「このような新しい事情のもとで、結局、私は、1953年1月の百合子全集完結まで、毎巻欠かすことなく全集の解説を書いた。全集の評説は、私自身にとって、必要上、半世紀にわたる日本の社会思想、文化、文学の歴史の勉強になった」(引用元不明)。

 この頃の宮顕の様子としてもう一つ重要なことが次のように伝えられている。元統制委員増田格之助氏は、「宮本はボクシング方式の減点法をとっていて、活動している同輩がミスを犯すのを採点していた」(高知聡「日本共産党粛清史257P」)と伝えている。その失点を握って、相手を押さえつけていくのが「六全協」後の宮顕の政治技術となる。

 これについて、筆者はかく思う。果たしてこれは当人の性格とか技術の問題だろうか、何の意図があってかと思料すれば、私には胡散臭さばかりが見えてくる。

【1952.5.1メーデーの流血】
 1952(昭和27).5.1日、第23回統一メーデーが全国470カ所で約138万名を集めて行われた。東京中央メーデーは流血メーデーとなり、「血のメーデー事件」として全世界に報道され衝撃が走った。法政大学学生含む2名が射殺され5人が死亡し、3百名以上が重傷を負い、千人をこえる負傷者がでた。当局は、事件関係者としてその後1230名(学生97名)を逮捕した。最高検察庁は、騒擾罪を適用して、1100名の大検挙を行った。

 徳球書記長が地下から「最も英雄的行為、日本における革命運動の水準がいかに高いかを示した」と機関紙で評価し、「人民広場を血で染めた偉大なる愛国闘争について」(組織者6.1日第11号社)では、大衆の革命化が党の組織的準備を上回っており、党の実践のほうがむしろ立ち遅れているとみなした。党中央は、この群衆のエネルギーのなかに、武装闘争を推進させる条件が存在していると判断し、火炎ビン闘争を推進していくことになる。

【武装闘争の展開と失敗】
 この頃、党内に台頭してきたのは徳球派系の志田派であった。志田派は武装闘争の推進派として立ち現われ、徳球の片腕として君臨していた伊藤律派を駆逐しながら次第に党中央を簒奪する。その志田派が指導する武装闘争が始まる。5月から7月上旬にかけて、火炎瓶闘争を含めた武力行動がいたるところで展開された。こうして武装闘争が実際に試みられたがことごとく鎮圧された。

 これについて、筆者はかく思う。志田派の指揮する武装闘争は元々アリバイ的闘争、デッチアゲもあり、総じて戯画的なそれでしかなかった。それは方針の誤りなのか、日本的社会における武装闘争そのものの限界なのか、指導の問題なのか未だ考察されていない。今日、志田派の素性が胡散臭いことも判明している。
 

【徳球の「武装闘争専一主義」批判】
 7.4日、これが最後の徳球書記長論文となる「日本共産党創立30周年に際して」がコミンテルンフォルム機関誌「恒久平和と人民民主主義の為に」に掲載された。文中で徳球は、ストやデモに没頭して選挙の問題を軽視する一部の幹部の傾向を批判し、党員は「公然行動と非公然行動との統一に習熟する必要が有る」と警告を発した。これを受け、「臨中」スポークスマンは、今後選挙運動、平和運動などの合法活動を推進することを強調した。

【志田派式武装闘争の帰趨】
 他方、志田派は、徳球論文にも関わらず次のように指導し続けて行った。
 「我々は拠点経営における労働者の政治的経済的要求をスト委員会に結集し、これを武装化する為に闘わなければならない。これは当面している軍事委の任務の一つである。それと共に、独立遊撃隊を含む中核自衛隊をこの経営の闘争の中から組織し、パルチザン人民軍の方向へ発展させるよう指導しなければならない」(7.28日付け軍事ノート第5号)。

 しかし、8月から10月にかけて次第にトーンダウンしていき、「我々はもっと大衆と密着し、大衆の要求と行動の中で行動するという原則に立ち返って、この火炎瓶一揆主義を克服していかなければならない」(10.6日付け軍事ノート第10号)となった。秋になると、軍事方針や中核自衛隊の活動が大衆の志向や要求から浮き上がっていることが明白となった。これに対して党内からの意見が起こらなかった。分派闘争の締め付けが一定そうさせた。原則的な誤りが明白となっているのに、党指導部が非合法体制や極左冒険主義戦術との見直しに向かえなかったことは、その後ますます党を自己解体の方向に押しやった。

 9月末、徳球と伊藤律と李初梨が対談中、徳球が昏睡状態に陥った。急遽病院へ担ぎ込まれることになった。徳球は入院前、伊藤律に次のように語っている。
 「中連部がお前を攻撃するのは、オレを孤立させ、野坂・西沢に包囲させて宮顕を担ぎ出すためだ。だが、毛さんはじめ中共首脳はオレを信頼してくれてるから気にするな」。

 1953(昭和28).3.5日、スターリン没。
【志田派の第一次総点検運動】
 6月頃、志田派は、党の軍事方針や非公然体制を再検討する方向に向かわず、党内粛正に血道をあげ始めた。戦前の宮顕式スパイ摘発運動的第一次総点検運動を展開し、伊藤律派、神山派の一掃に狂奔した。志田派指導部は、全国の専従党員、幹部を三色に識別し、赤(志田を積極的に支持する者)、桃色(志田系)、白(反志田系)に色分けし、白派の追い出しに向かった。これにより、伊藤律派の長谷川、保坂、小松、木村三郎らが徹底追求され、機関から放逐され自己批判を迫られていった。

 袴田里見は、「私の戦後史」の中で次のように記している。

 「いうまでもなく、志田は国内の軍事組織、武装闘争を指揮した最高責任者である。徳田球一の右腕が伊藤律なら、左腕は志田といってよく、伊藤律が除名され、徳球が死亡した28年の秋以降は、党の地下組織をいいように切り回していた。火炎瓶闘争や山村工作隊など、極左的な行き過ぎがいろいろあったことはいうまでもないが、人事にも派閥主義を持ち込み、関西時代に培った『親衛隊』を、身辺や全国の要所要所に配置した。それだけでなく、志田派の主導権確立のため、志田直系以外の批判派を、何かにつけて排除し追放した」。
 
 これにつき、筆者はかく思う。この時の総点検運動の地下で志田が宮顕と通じていたとするなら、総点検運動の性格が見えてくる。れんだいこは左様なものとして認識している。この頃志田は頻繁に料亭に繰り出している。後にこの時の様子が槍玉に挙げられるが、主として誰と談合していたのか肝心なことは漏洩されていない。しかるに一挙手一動作が的確に把握されている。

 7.27日、朝鮮戦争休戦協定が板門店で調印された。3年1ヶ月続いた戦争が「和解無き休戦」となった。


 9.15日、伊藤律除名公告が突如為された。「伊藤律処分に関する日本共産党中央委員会声明」を発表し、伊藤律を裏切り者=特高のスパイと断定した上で除名処分としていた。9.21日、アカハタは「伊藤律処分に関する声明」を載せた。一見して宮顕の手になる文章であることが見て取れるしろものである。この見地が2年後の「六全協」で再確認されることになる。
【徳球が北京で客死、伊藤律幽閉される】
 10.14日、徳球が北京で客死する(享年59歳)。bQの伊藤律は野坂の手引きで幽閉された。野坂が、「もう一年も中連部に厄介をかけたし、今から別のところへ移ってもらう」と宣告し、鄭所長と公安職員が律を拉致し監獄へ収容した。「これは日本共産党の委託によることで、中共としてはプロレタリア国際主義の義務なので、問題を日本共産党が解決するまで致し方ない」と因果を言い含められたと述べた、と後に伊藤自身が明らかにしている。40歳前後の伊藤律は以来27年間を幽閉され、1980.9月、奇跡的な生還を遂げることになる。

【宮顕−袴田同盟が野坂、志田と結託】
 徳球−伊藤律の両指導者が不在となった隙に党中央に再登壇してきたのが戦前のリンチ致死事件仲間の宮顕−袴田であり、この極悪同盟が野坂派、志田派と結託し始める。この辺りの史実は市井本には出てこない。検証すれば、こういうことが透けて見えて来るということである。 

 12月上旬、志田系党中央は全国組織防衛会議を開き、第二次総点検運動を開始した。ここまで主として伊藤律派が次々に査問されていたが、引き続き神山派、反宮顕系國際派の連中約1200名が処分された。これが翌年の六全協の地ならしとなる。


 増山太助氏は、「戦後期左翼人士群像」の中で、次のように注目すべきことを明らかにしている。
 概要「『50年分裂』時の非合法活動の中で、志田と椎野は鋭く対立し、互いに譲らなかった。その問題は何であったか。重点は、いわゆる『軍事問題』(『中核自衛隊方式』か『人民軍方式』か)と、『除名した分派のリーダー宮本顕治の扱いに関する問題』であった。志田は宮本の除名を取り消し、宮本と手を組むことによって上から党の統一を実現しようとしたのに対し、椎野は『権力主義者』、『ブルジョワ思想』を党内に持ち込む宮顕の復党に反対し、宮顕を除く『反主流派』全員の除名を取り消して、下から党の再出発を図ろうと主張した。従って、椎野は『志田と宮顕の野合』による六全協を否定して党から去ったが、表面的には『女性問題』を理由に除名された」。


【この時期の学生運動の動き】
 この時代の学生運動の枢要事を眺望しておく。

【全学連主流派の穏和化、反主流派の武装闘争化】
 党中央が武装闘争を呼号し始めると、宮顕派の全学連主流派は、それまでの先鋭的な党中央批判理論に似合わず、穏和主義的な反戦平和運動に日和見し始める。これに業を煮やした全学連反主流派は堪らず、党中央の武装闘争の呼号に応じて党の軍事方針の下で工作隊となり、山岳闘争、街頭闘争に入る。東京周辺の学生たちは、「栄養分析法」、「球根栽培法」等の諸本を手にしながら三多摩の山奥にもぐり込んだ。結果的にこの時期の党の武装闘争路線は破綻していくことになり、民青団も大きな犠牲を払うことになった。

【「不破査問事件」】
 1951.2.20日、東大の国際派東大細胞内で査問・リンチ事件が発生している(これを仮に「国際派東大細胞内査問・リンチ事件」、略称「不破査問事件」と云うことにする)。この事件は、国際派の東大細胞内における指導的メンバーの一員であった戸塚秀夫、不破哲三、高沢寅男(都学連委員長)の3名が「スパイ容疑」で監禁され、以降2ヶ月間という長期の査問が続けられ、「特に戸塚、不破には酷烈、残忍なるテロが加えられた」と云われている事件である。これについては、「東大国際派内査問事件考」で別途考察する。

 この事件を考察する意味は、1・これが戦後学生運動の初のリンチ事件となったということ。2・この時査問された不破らの容疑がスパイであり、その不破がその後日共の最高指導者として登場するに至ったということ。3・この時事件に介入してきた宮顕の胡散臭さが垣間見え、宮顕と不破の特殊関係を見て取ることができる、という三点で興味深い事件となっているところにある。ちなみに不破は最近「私の戦後60年」を執筆しているが、この事件に触れず口を閉ざしている。
(私論.私見) 「東大国際派内査問事件」の発生日について

 ネット検索で「松下清雄を語る会について」に出くわした。それによると、「スパイ.リンチ査問事件の年次」で、て.「1052年2月14日」は間違いで正しくは.「1051年2月14日」であるとの指摘が為されている。れんだいこの「検証学生運動」(社会批評社、2009年)にも言及下さっている。これにより、れんだいこテキストの方も訂正しておく。これにより、「東大ポポロ座事件」と同時期のものと考えての「これについて、筆者はかく思う。ポポロ座事件は、『国際派東大細胞内査問・リンチ事件』中に発生している。両事件の関わりが検証されていないが不自然なことである」と記していた下りが不要となった。判明したことは、「不自然なこと」ではなく「発生年次が丁度1年違っていた」と云うことになる。

 2010.4.29日 れんだいこ拝


【東大でポポロ座事件発生】

 1952.2.20日、東大でポポロ座事件が発生した。劇団「ポポロ座」の演劇発表会に警視庁本富士警察署の私服警官数名が潜入していることが判明、事件となった。多数の学生が取り囲み一部暴力もふるわれ、警察手帳を奪った。押収した警察手帳には学生・教職員・学内団体の思想動向と活動に対する内偵の内容が記されていた。手帳押収に際して暴行があったとして学生が起訴された。

 この事件に対して、「大学の自治」を強調して「不法に入場した警官にも責任がある」とする見解と、「いかに学内であっても、暴行を受ければ警察権を行使するのは当然だ」とする田中栄一警視総監談話を廻って各方面に論争が繰り広げられることに鳴った。そういう意味で問題となった事件であった。

 ポポロ座事件は裁判となり、第一審、第二審はともに概要「被告人の行為は大学自治を護るための正当行為に当たる」として無罪判決となった。しかし、最高裁は、原判決を破棄し、概要「大学の学問の自由と自治は直接には教授をはじめとする研究者の研究・発表・教授の自由とそれらを保障するための自治であると限定的に解釈した上で、当日の集会は真に学問的な研究と発表のためのものでなく、大学の学問の自由と自治の範疇外にあるから警官の行為は違法でない」とした。


 3.3日、全学連の拡大中執が東大農学部で開かれ、所感派による国際派追放大会が開催された。高沢、家坂、力石らの「君子豹変」が伝えられている。土本、安東、柴山、二瓶、下村らが非難追放され、新しい中執が選出された。これにより、1948年の全学連結成以来日本学生運動の反帝・平和の伝統を担ってきた武井指導部は辞任することとなった。武井派は、「学生戦線統一の観点から辞任することとなった」と総括している。指導権を握った所感派は、中核自衛隊の編成に着手し、山村工作隊を組織した。早大、東大、お茶大らに軍事組織が結成され、火炎瓶闘争を実践していくことになる。  

 これについて、筆者はかく思う。この経緯を「反帝・平和の伝統を担ってきた武井指導部の引き摺り下ろし」とみなして、この時の政変を疑惑する史論が為されているが愚昧ではなかろうか。この頃、武井指導部は宮顕論理に汚染され、既に闘う全学連運動を指揮し得なくなっていたのであり、歴史弁証法からすれば当然の経過であったと拝察したい。 

 5.8日、早大で第2次早大事件が発生した。神楽坂署私服・山本昭三巡査を文学部校舎に監禁。救援の警官隊と座り込み学生1500名が10時間にわたる対峙となった。9日午前1時過ぎ、武力行使。未明、吉田嘉清ら多くの活動家たちの再結集.都下大学の学生をまじえ数千人の抗議集会。党は、「座り込み」を「消極的で敗北主義的な戦術」と批判。メーデー参加者逮捕にきた刑事を監禁、奪還にきた警察と衝突、学生に多数の負傷者がでた。

 5.9日、午前1時すぎ武力行使。未明、吉田嘉清ら多くの活動家たちが再結集し、都下大学の学生をまじえ数千人の抗議集会を開いた。「臨中」党中央は、「座り込み」を「消極的で敗北主義的な戦術」と批判している。メーデー参加者を逮捕にきた刑事を監禁、奪還にきた警察と衝突し、学生が負傷している。

【全学連第5回大会、所感派が全学連中央奪還】
 6.25−27日、2年ぶりに全学連第5回大会が開催され、徳球系執行部を支持する所感派学生党員が、宮顕派の走狗と成り下がった武井系執行部を追放し主導権を握った。新執行部は、党の武闘路線の呼びかけと「農村部でのゲリラ戦こそ最も重要な闘い」とした新綱領にもとづき、農村に出向く等武装闘争に突き進んでいくことになった。こうして戦闘的な学生達は大学を離れ、農村に移住していった。 

 全学連第5回大会の最中、全学連による「立命館地下室リンチ事件」が発生している。徳球系日共京都府委員会の指導する学生党員(「人民警察」)による、反戦学同員に対する3日2晩にわたるリンチ査問事件となり、被害学生は関大、立命館、名大、東京学芸大、教育大、津田塾の反戦学生同盟員ら延べ11名に及んだ。注意すべきは、この時、「宮本顕治、春日庄次郎、神山茂夫スパイ説に基くCICスパイ系図」に基く査問が行われたということである。この系図はその後幻となっているが、貴重と思う故に敢えて言及しておく。 
全学連第6回大会
 1953(昭和28).6.11日、全学連第6回大会開催。70大学140自治会の代議員165名とオブザーバー500名が参加した。この頃、武装闘争が完全に収束し、基地反対闘争が中心課題となっていた。委員長に阿部康時(立命館大)、副委員長・大橋伝(横浜国大)、松本登久男(東大)、書記長・斎藤文治(東大)が選出された。

 大会は、基地反対闘争を中心として「反吉田反再軍備統一政府の樹立」を闘いとることを宣言し、「学生は民族解放の宣伝者になろう」が強調された。この大会決議に基づいて、大会後全学連は、進歩派教授と協力して憲法改悪反対の講演会を開き、夏休みには一斉に「帰郷運動」で農村に入った。武装闘争の季節が終わったと云うことになる。 

 これより後は、「3期、六全協期の学生運動」に記す。



(私論.私見)