1954−1955年 【戦後学生運動史第3期
「六全協」の衝撃、日共単一系全学連の組織的崩壊

 更新日/2023(平成31.5.1栄和改元/栄和5)年.3.11日

 これより前は、「第2期、党中央「50年分裂」による(日共単一系)全学連分裂期の学生運動」に記す。

 (れんだいこのショートメッセージ)
 戦後学生運動の第3期は、武井系全学連の権威失墜、玉井系全学連の破産を受けてのその後の動きから始まる。この期を学生運動論だけで概括するのは困難なので「この時期の学生運動、日本共産党との関係」と合わせて検証してみることにする。

 この時期、党と学生運動も含む青年運動組織との信頼関係が基本的に崩壊した。ここにこの期の特質がある。ここまでの戦後学生運動論を概括すると次のように云えるのではなかろうか。当初は、戦後直後の日共は、徳球系党中央に指導される形で始まった。紆余曲折を経て武井系全学連が生み出された。その経緯を記せば長くなるので割愛するが、党中央のあまりな変調指導により武井系全学連は次第に党中央に反発していくことになった。ところが、武井系全学連は徳球系日共に反発する余りに最も警戒すべきだった宮顕に掴まり、その急進主義運動性が反徳球運動に利用されていくことになった。

 こうした折、丁度「50年党中央分裂」が発生し、日共は徳球ー伊藤律派とこれに反発する反党中央派に真っ二つに分かれ抗争し始めた。徳球ー伊藤律派は自主独立的な性格を持つ所感派と云われ、反徳球ー伊藤律派はスターリンの指導に従うべしとする立場から国際派と呼ばれた。武井系全学連は、それまでの誼もあり、宮顕の指導する国際派に組み込まれていった。宮顕派と春日(庄)派の連合で分派組織「統一委員会」が結成されると、武井系全学連の過半が馳せ参じていった。

 ところが、中共が徳球ー伊藤律派を支持し続け、1951.8月、「50年党中央分裂」を裁定したスターリンが所感派を支持し、党の統一を図るよう勧告した。スターリンは、朝鮮動乱が勃発している折柄であり、日本は米帝の後方重要基地として重要な役割を果たしていることを見据え、これに抗する運動こそ国際共産主義運動の任務であることを指示していた。結果、「統一委員会」その他の分派が自主的に解散していくことになった。

 所感派の下に再団結した日共は、武装闘争に突入した。ところが、武井系全学連は宮顕に篭絡され続け、それまでの急進主義的主張を翻し穏和的な反戦平和運動に逃げ込んだ。これに苛立った全学連内のもう一つの急進主義派が台頭し、武井系執行部を追放し、玉井系新指導部の下で党中央の呼びかける武装闘争に呼応していった。

 しかしながら、武装闘争の経験を持たない日本左派運動は建前的言辞の威勢良さは別にして実際の運動はことごとく鎮圧され、散発的漫画的な決起を歴史に刻んだのみで総破産していった。やがて朝鮮動乱も膠着し、スターリンも死去し徳球も北京で客死し伊藤律は幽閉された。

 この間、所感派内では志田派が登竜していた。志田派は、宮顕派と内通した当局奥の院のスパイであり、急進主義的性格を憑依させ暴力革命を呼号しつつ伊藤律派を駆逐していった。志田派の又しても変調指導により武装闘争にのめりこんでいった玉井系全学連は、正確には1954(昭和29)年初頭時点で命脈尽きており、自壊状況を現出させていった。

 1954年から55年にかけて、志田派と宮顕派、野坂派の手打ちが進められていった。その間隙で、全学連は再び宮顕の指導下に入る。注目すべきは、こたびの宮顕指導は、武井系全学連時代に見せた「左」指導ではなく、本来のそれである「右」指導へと地金を表して行ったことにあった。

 1954.6.13日、全学連第7回大会が開かれた。大会は、「生活と平和の為に」を打ち出し、政治運動から召還し、一転代わって没政治主義方針を確立し「自治会サービス機関論」に転換した。

 「六全協」直前の1955.6.10日、全学連第8回大会が開かれ、「自治会サービス機関論」を再確認した。基地反対闘争と原水爆禁止運動に取り組むことを決議したものの、議論らしい議論も為されず、運動方針も「話し合い路線」という一般学生の自然成長性に依拠させた穏和化を明確にさせ、日常要求主義とサークル主義という没政治主義に陥ることになった。この種のことに鋭敏な感覚を持つ青年運動が「失意」に陥った。


【1954(昭和29)年の動き】(当時の検証資料)

 お知らせ
 当時の政治状況については「戦後政治史検証」の「1954年通期」に記す。本稿では、当時の学生運動関連の動きを記す。特別に考察したい事件については別途考察する。

 1.15日、憲法擁護国民連合結成大会が開催された。全学連、反戦学生同盟が加盟し、統一戦線の一角に入った。


 1.16日、早大.全学協総会で芹澤・一法学友会委員長が議長辞任し、後任に境栄八郎・二政経自治会長が選出される。


 自由党公職選挙法修正案で「再び選挙権を郷里に」が打ち出される。早大島田総長反対する。


 1.15日、護憲国民連合結成。米大統領アイゼンハワーが沖縄基地の無期限保持を宣言する。


 1月、党が赤旗,セクト主義克服を主張。志田の終戦準備の体制堅めの兆しとなった。春頃、安東復党。


 2.22日、教育二法が国会に上程された。これは教員の政治活動の規制、教育の政治的中立確保という名目で「愛国心と自衛精神」を培養しようとする復古的な動きであった。3.26日成立。


 この頃、徳球系所感派の武装闘争は破産し、「臨中」も機能停止した。党中央派内では志田派が伊藤律派を駆逐し始め、国際派の中から宮顕派が台頭し始めた。志田派と宮顕派が裏提携し、「50年分裂」解消に向けて始動し始めている。玉井系全学連も自壊し、宮顕系の指導による穏和運動への転換が促進されていった。


 3.1日、アメリカがビキニで第1回水爆実験。死の灰が第五福竜丸の乗組員に降りかかり、三度目の原水爆の犠牲をもたらした。これ以降、吉田嘉清は原水爆禁止運動に参加し、原水爆禁止署名運動に取り組む。


 3月、反戦学同第4回全国委開催される。11月、反戦学同第5回全国委開催される。


 4.2日、全学連第5回中委が開かれ、「学生の幅広い統一行動」を推進するために「学生の状態のより一層正確な把握」が確認された。学生生活の向上と教育文化の発展の為にとして、健康を護る、食生活の改善、住宅問題、アルバイト問題の解決、授業料の値下げ等々の没政治主義的観点が打ち出された。この時、委員長に松本登久男(東大)、副委員長・増田正一(同志社大)、大沼正七(東北大)が選出された。


 4月、芹澤前議長が「小さな要求の結集集積から―全学協前進のために」(早大新聞)を発表する。


 5.1日、「日本国とアメリカ合衆国との間の相互防衛援助協定」が公布された。この協定と同時に、農産物購入、経済措置、投資保証に関する日米協定も公布された。これらの協定は、アメリカの相互安全保障法(略称MSA)に根拠を置いていたので、総称してMSA協定と呼ばれている。

 アメリカの相互安全保障法は、アメリカの援助受入国に対して自国と自由世界の防衛努力を義務づけた法律である。従って、日米間のMSA協定でも、日本は「自国の防衛能力の増強に必要なすべての合理的な措置をとる義務」を負うとともに、「自由世界の防衛力の発展・維持」に寄与するものと規定されている。


 5.2−5日、全学連は、東京で全日本学生平和会議を開いた。これには学生YMCA、仏教学生会、ユネスコ学連、沖縄学生会などが共催し、1600名の学生が参加した。原水爆禁止の署名運動が展開された。東大生は学内外で約2万の署名を集めた。全国で集められた署名総数は3365万に達した。


 5.10日、大歴研主催「平和のための青年婦人大集会」(2500名参加、大隈講堂)。学生会館落成。


 5.21日、都学連.清水谷公園で、全都学生選挙権擁護決起大会、参加=1300名。土橋までデモ。


 5.25日、早大で学生会館問題学生大会。「大会禁止」をめぐり紛糾する。


 5.25日、公職選挙法改正案が衆議院本会議を通過する。  


 5.28日、都学連が外濠公園で全都学生総決起大会。参加=4500名。スローガン=1.自由党修正案を粉砕せよ.2.自治庁通達を撤回せよ.3.学生選挙権を無条件で修学地に置け.4.ファシズム反対、民主主義をまもれ.5.全都全国の学生団結せよ。国会請願デモをかけた。


 6.2日、早大全学協定例総会。5大スローガン(@学生生活の擁護と改善、A教育・文化・ス ポーツの向上、B学生自治権の確立、C平和の擁護、D民主主義の擁護)を確認。


【全学連第7回大会】
 6.13日、全学連第7回大会が開かれた。大会は、「生活と平和の為に」を打ち出し、政治運動とか大衆運動から召還し、一転代わって没政治主義方針確立した。学科別のゼミナール運動を行う方針が決められた。また、サマーキャンプ、大学祭、歌声運動などの運動が強められるようになった。後の自治会サービス機関論を生み出すことになった原点であり、後に「学生運動としては完全に体を失い、俗悪化した大衆追随主義に転落した」と批判されている。人事で、委員長・松本登久男(東大)、書記長・子田耕作(大阪市大)を選出した。
(私論.私見)

 誰にも指摘されていないが、全学連のこの急激な穏和化の背景に何があったのか。れんだいこには容易に透けて見えてくる。この頃既に、宮顕と志田の裏交渉が始まっており、宮顕が事実上復権し始めていたと云うことになる。宮顕の指導するところ必ず穏和化になる。武井全学連との蜜月時代の左派的言辞は、徳球執行部に対する揺さぶりのためであり、いわばマヌーバーでしかなかった。このことも判明しよう。


 6月、防衛二法案(自衛隊法案、防衛庁設置法案)可決されている。


 7.1日、現行警察法が施行された。終戦後の占領下の1949.3月に施行された旧警察法の「警察の民主的管理」を受け継ぎつつ制度上の欠陥を是正するものとして全部改正により制定された、とある。


 7月、全学連代表がIUSの副委員長に選ばれた。


【「原水爆禁止全国協議会(原水協)」結成】
 8.8日、全国的な原水爆禁止運動の高まりの中で、「原水爆禁止全国協議会(原水協)」が結成された。全国から400名が集まり、法大教授・安井郁氏が事務局長に就任した。日本の平和擁護運動に新しい流れが生まれた。翌55年第一回の原水爆禁止世界大会が開催されることになる。

 9.13日、日本共産党早大細胞が〃平和への挑戦を団結で粉砕.原水爆禁止運動弾圧に対する学生・市民の斗い.ほか〃。この頃精力的に平和運動に取り組んでいる。


 11.18日、早大で全学協議長交代(境栄八郎→菅卓二)。細胞キャップ・坂田紋三の境に対する査問。日本共産党早大細胞「〃学問の自由と生活の敵吉田政府を打倒し平和と独立の平和共存政府を樹立しよう〃」。


 12.13日、 日本共産党早大細胞ビラ新聞「真理 No.105」、〃平和・生活・自由を守る話し合いと行動を工場・農村・家庭に起こそう……冬休みを前にして〃。


【1955(昭和30)年の動き】(当時の関連資料)

 お知らせ
 当時の政治状況については「戦後政治史検証」の「1955年通期」に記す。本稿では、当時の学生運動関連の動きを記す。特別に考察したい事件については別途考察する。

 1.1日、共産党が、赤旗で10.1方針=極左冒険主義との絶縁を宣言。「方向の転換を感じさせるものがあった」。


 1.29日、日本共産党早大細胞.〃総選挙に我々の要求をかかげて斗おう〃。


 1月、宮顕が、早稲田学生へのあいさつ。


 2.1日、ウィーン・アピール。


 2月、共産党の志賀氏が地下活動よりこ公然化で出現する。2.27日、第27回総選挙。革新派が改憲阻止に必要な1/3議席を獲得した。志賀が当選する。


 3月、党中央指導部が選出され、春日正一議長、志賀、宮顕、米原の4名がその任に就いた。


 4.18日、バンドンでアジアアフリカ会議。


 4月、第一次早大事件の被告に有罪判決。


 5.8日、東京都砂川町議会が立川飛行場の滑走路拡張に反対の決議を行い、砂川.立川基地拡張反対決起大会が開催され砂川闘争始まる。


 5.10日、北富士.座り込み農民を無視、射撃演習開始.各地に基地反対闘争激化。


【全学連第8回大会】

 6.10日、全学連第8回大会が開かれた。89自治会237名の代議員とオブザーバー800名が参加した。大会では、「核戦争の危機に反対し、平和と国際協力の運動を発展させ る方針」の下基地反対闘争と原水爆禁止運動に取り組むこと、文化サークル活動の全国的.地域的交流、世界青年学生平和友好祭に参加することによる国際的交流、芸術家の合同公演を大学当局側と協力して行うなどを決めた。大会は、カンパにア的なものに終始し議論らしい議論も為されず、運動方針も「話し合い路線」とするという一般学生の自然成長性に依拠させた穏和化を明確にさせ、日常要求主義とサークル主義という没政治主義に陥ることになった。

 人事で、委員長に田中雄三(京大)、副委員長・増田誓治(同志社大)、石川博光(東大)、書記長・香山健一(東大)を選出した。


 6.30日、早稲田平和友好祭。

 日共党中央は、「六全協」開催にあたり、砂間一良中央委員を公式代表として全学連に派遣し、「日本共産党は、全学連に対して迷惑をかけた。自己批判する」と頭を下げ、更に同年12月には、紺野与次郎中央委員、松本惣一郎統制委員が改めて全学連に対し、リンチ事件について謝罪するとともに「反戦学同」との統一行動を約束した。この時、学生共産党員は、「共産党から自由になった」(1971.1.1〜8付朝日ジャーナル「激動の大学・戦後の証言」)との伝がある。


 7.1日、陸海空軍の自衛隊発足。


【党が「第6回全国協議会(「六全協」)開催】
 これについては「戦後政治史論」の「1955年通期」で概括する。

 7.27日、共産党が「第6回全国協議会(「六全協」)」を開き、自己批判と再出発のための新方針を発表。志田主流派と宮顕国際派の手打ちで宮顕派、野坂派、志田派が招集し、新指導部に治まった。戦後直後から続いた徳球系党中央所感派から宮顕系党中央への宮廷革命式転換が為された。「六全協」は、宮顕ー野坂ー志田派連合より成るグロデスクな党中央を創出させた。「六全協」が戦後日共運動の質転換の画期となった。これにより、日共運動の解体請負士・宮顕が有りもしなかった「戦前非転向の唯一人士的聖像」で又もや何食わぬ顔で党中央に登壇することになった。

 それまでの党中央路線を極左冒険主義とセクト主義として批判し、党内民主主義と集団指導を提唱した。但し、「51年綱領」は是認される等折衷的であった。なお、ソ連共産党と中国共産党は徳球派を正統と認めており、こうした50年問題の総括には賛成しなかったようである。長谷川浩氏は、「軍事方針の行き詰まりがどうしようなくなったので、在中国指導部からも志田のやり方はおかしいという声が出て、六全協の決定になるわけです」と述べている。

 野坂は得意の自己弁護で要領よく立ち回った。 6全協決議と新規約草案に対して、中野は次のように述べている(中野・甲乙丙丁・下-31,520)。

 「前期対立解消を埋めようとしたとたん、この仕事の最大の推進役の宮本が逆にこれに急襲をかけてぶっつぶした」(中野・甲乙丙丁・下-610)。
(私論.私見) 
 云ってよければこれは、野坂ー宮顕ー志田というスパイ同盟による党中央乗っ取りであった。

(私論.私見) 「六全協」の評価考
 「六全協」の評価を廻って喚起を促したい。「日本革命的共産主義者同盟小史」には次のように書かれている。
 「55.7月の六全協は戦後革命の敗北から50年分裂(コミンフォルム批判をきっかけにして発生した国際派と所感派の大分裂)とそれに続く極左冒険主義の時代を経過して日本共産党がどん底の状態から再出発を開始する契機であった」。

 この見解は、宮顕系党中央の見解を追認しており、露骨に賛辞する見解披瀝であるが、いわゆる革共同系新左翼がこういう観点を持っていることが良く分かり興味深い。

 れんだいこ見解によれば、「六全協」とは、痛苦に反省すべきことだが、極悪なる宮顕派が再度党中央へ登壇するきっかけをつくった負の大会であった。つまり、この大会で、宮廷革命的に徳球系から宮顕系へ指導部が移行したのであり、路線的にも投降主義的マルクス主義という妙な右派理論への転換となる。これが正解である。決して、「日本革命的共産主義者同盟小史」の云うような「日本共産党がどん底の状態から再出発を開始する契機」なぞではない。あまりにも無茶な観点ではなかろうか。

 六全協を俎上に乗せる れんだいこ 2003/01/20
 「日本革命的共産主義者同盟小史」読みながら気づいたことを書いてみます。これは社労党の「日本社会主義運動史」の時にも高知聡氏の著作の時にも感じました。ちなみに、学生時代、革マルの連中との理論闘争の際に「テメエ、六全協をどう総括するんだよぉ」と云われ、何のことか分からなかったから話題を転じて云い合った経験があります。これに関係しております。

 思うに、日共は、戦後直後の徳球系と六全協後の宮顕系とは党名としては連続しているが、内容的には断絶していると見なさねばならないと考えます。立花本で「宮廷革命」と評しておりましたが、れんだいこは立花氏とは政治的スタンスが正反対的に異なりますが、この指摘は正しいと考えます。この認識さえない理論家はそもナンセンスな水準にあると思います。

 問題は次のことにあります。この宮廷革命を「正」と観るのか、「負」と観るのか。驚くことに、いわゆる新左翼系もほぼ共通して「正」と観ているようです。それほど徳球系運動がひどかった、ナンセンスであったと評しています。個々にその欠点を指摘する向きも有ったり、大きく観て進駐軍の解放軍規定の誤り、2.1ゼネストの挫折指導、50年分裂時の対応の拙さ、その後の武装闘争による損失を代表例として論(あげつら)う場合もあります。

 これを個々に反証しても良いのですが、ここでは割愛します。ここで云いたいことは、宮廷革命を「正」と観る観点は間違いだと云うことです。逆であって、徳球時代は至らないながらも至ろうとした左派運動的に見て史的財産になる時代であった。それに較べて、宮顕時代は何ら有益なことが無い、党中央が最悪の指導部に乗っ取られてしまった、という観点が欲しい。つまり、六全協は、「負」の始まりであったと見なす必要がある、と考えます。

 ここでボタンを掛け違うから、その後何を話し合っても交わらない。そんな気がします。日本左派運動に再生の芽が有るとするなら、徳球系運動の批判的継承を通じてであり、宮顕運動からは何も生まれない。それを批判するにしても、対照的な徳球系運動との絡みを持たなければ、却って、ろくでもない観点に汚染され続けると考えます。

 新左翼理論はこの点で基本的な認識の間違いを継承している、と考えます。学生運動の所感派と国際派の対立点の解析も恐ろしいほどお粗末ですね。党内査問や反対派排除、党員抑圧手法等々も、はるけく繋がっていると観ます。

 (いろいろ書きたかったんだけど、お呼びがかかったから出向きます)ご意見お聞かせください。自分で云っては何だけど、こういうのが生産的議論であって、腹の足しになると考えております。では皆さん又。

【六全協後の大混乱】

 「日共六全協」は「50年分裂」を終息させたところに意義があったが、宮顕系党中央らしさとして徳球系党中央所感派が朝鮮動乱時代に採用した軍事方針に対して「極左冒険主義」と口を極めて批判していた。これにより、武井派を放逐した玉井系全学連が断罪された。これにより旧党中央徳球系の指示に従って武装闘争に青春を賭けてき学生党員達には「青天の霹靂」となり、大混乱に陥った。今度は逆に旧国際派系から自己批判と総括が迫られることになり、「六全協ショックとノイローゼ現象」が生まれていった。

 当時、200名と云う最大党員を擁していた東大細胞の中心人物の一人であった森田実・氏は、著書「戦後左翼の秘密−60年安保世代からの証言」(潮文社、1980年)の中で次のように証言している。

 「これまでほとんどの党員は、極左冒険主義と批判されようが、官僚主義、盲従主義といわれようが、党中央の決定を忠実に実行することが党員としての義務だと信じて行動してきたのです。このため、あるものは学業をあきらめ、あるものは退学処分をくらい、またあるものは親から勘当までされていました。誰もが共産党中央の決定を守ろうとして何らかの犠牲と苦しみを背負ってきたのです。その何よりも信じていた共産党中央が、根本的に間違っていたというのですから、感受性の強い学生党員には相当のショックでした」。

 この間、全学連は、「徳球派の変調指導」、「50年分裂」、「六全協ショック」の三度にわたって翻弄された。なお且つ最終的に出来上がったのが極右運動であった。武井系全学連派はそれまでの宮顕派との誼によりこれに追随していく道が残されたものの、所感派と通じた玉井系全学連派には屈服するか脱落するかの道しか残されていなかった。

 民青団もまた全学連同様に「六全協」総括の煽りを受けて清算主義に陥り、自壊状況を現出していくことになった。マルクス・レーニン主義を学ぶことさえ放棄する傾向をも生みだし、解体寸前の状態に落ち込んでいくことになった。替わりに清算主義的傾向が生まれてくることになった。

 蔵田計成氏は次のように評している。

 「六全協の自己批判と総括は、たんなる指導部の責任回避であり、党員の『品性と徳性』(春日正一)という精神主義を強調したにすぎなかった。そのために、『六全協ノイローゼ』が流行し、虚脱感と慰めあいが横行した。かつて、学生党員は上級機関の命令で学園から召還され、農村、工場、地域サークル、党秘密機関に派遣されて、その絶対不可侵の党に自己のすべてを捧げたのである。ところが、その彼らは過去4年間の悪夢から解放されたとはいえ、その代償として、過去の自分のドン・キホーテぶりを思い知る他なかったのである」。

【武井系の復権】

 この頃、「50党中央分裂」の煽りで党を除名され、全学連中執を追われていた武井元委員長行らが除名を取り消されて復党してくることになった。ところが、武井氏は、「六全協」後の清算主義的傾向と「自治会サービス論」に攻撃を加え、「政治課題を取り上げて、全国一斉に統一行動を起す」学生運動の必要を力説し始めた。このスタンスが宮顕との確執の始まりとなる。

 6全協の直後、早大細胞の50年問題に関係のある党員の会議が開かれ、山辺健太郎、松本惣一郎が出席し「六全協の付帯決議で皆さんの党籍は回復する」と報告。 早大細胞.高野、党に復帰。


 8.6日、第1回原水禁世界大会が開催される。8月、原水爆禁止署名運動全国協議会結成される。


 8月、支援労組、学生等を含めて砂川闘争に於ける基地反対共闘会議を結成した。
【全学連第7回中央委員会】

 9.2日、「六全協」を受けて全学連第7回中央委員会が名古屋で開かれ、宮顕式路線に従って、この間の党の極左冒険主義と全学連指導部の動きを批判することとなった。学生運動が政治闘争化することを否定し、「活動家は学園に帰れ」方針を打ち出した。「層としての学生運動論」とは打って変わって学園内没化主義的いわゆる「歌ってマルク ス、踊ってレーニン」というレクリエーション路線」として揶揄される穏和化方向へ振り子の針を後戻りさせることとなった。これを「7中委イズム」と言い表すことになる。

 「7中委イズム」は、自治会を「サービス機関」と定義し、一転して日常要求路線へと全学連運動を向かわせることになった。「全学連七中執報告」は次のように述べている。

 「夏休みを終え、新学期がはじまろうとしている。われわれは皆『この秋こそもっと勉強しよう』という意欲と希望にもえて校門をくぐろうとしている。……学友たちの気持はただ一つ『思想その他一さいの相違をのりこえて、真理を追求する熱情においてわれわれは一つである』ということである。……たとえ現在、われわれ学生の生活がどんなに暗く苦しくとも、われわれはしっかりとひとつに団結し、助け合い、友情を深め合いながら、困難に耐えて勉強し続けよう。文化・スポーツを楽しみ、生活を少しでも明るくゆたかなものにするために、またそのために欠くことのできない平和のために力を合わせて努力し続けよう」。

 「自治会=サービス機関論」とは次のようなものであった。

 概要「学生の身近な要求を取り上げて、無数の行動を組織していけば、学生の統一が できる。自治会は、勉強のこと、恋愛のこと、就職や将来のこと、我々の苦しみや希望を深く話し合うこと等々の学生の要求を取り上げて、それをサービ スすれば良いのであって、情勢分析や政治方針の提起を行うべきでない。つまり、『自治会の役割=学生の日常要求に応えるサービス機関』とする理論であった。『学生は勉強に励め、教室に帰れ』と云われ始めた。トイレに石けんを付けるというサービスを運動としたのもこの時期であった」。
(私論.私見) 「7中委イズム」と宮顕指導の相関性

 「7中委イズム」は宮顕式左派運動の賜物にして典型であり、これが学生運動に対する宮顕の本来のスタンスである。このイズムは後に民青同指導に反映され、ブント運動がこれに反発することになる。


 かくて、政治闘争から総退却する右派系全学連が跋扈し始め、戦闘的学生運動派には倦怠感のみが残った。反戦学同が、日共中央と全学連中執委に抗議「全学連第5回大会における反戦学同解散決議」。

【第1次砂川闘争始まる】
 「7中委イズム路線」はそうは長くは続かなかった。歴史の摩訶不思議なところであるが、宮顕が学生運動を右派的に手なずけたその瞬間に、砂川闘争が始まった。

 政府が、立川基地拡張のため、調達庁砂川宮崎町長に土地収用を申し入れ。町として反対決議、「砂川基地拡張反対同盟」を結成して反対闘争へ。所感派・国際派の別を問わず、宮顕式穏和化路線に反発する急進主義派の学生たちが「平和と民主主義」の根幹に関わる政治闘争として砂川闘争に取り組んで行くことになる。

 9月、政府は、400名の警官隊を導入して測量を実施し始める。農民・労働者800名が阻止行動。労働者と農民が当局と激しく衝突した。「土地に杭は打たれても、心に杭は打たれない」というスローガンの下に闘いは進められた。一部杭打ちが行われる。これを第一次砂川闘争と云う。翌56年秋口には流血の事態を向かえることになる。

 砂川闘争とは次の通りである(東京平和運動センター「土地に杭は打たれても心に杭は打たれない」参照)。
 戦後直後に接収され米軍基地化された東京都立川町の反戦運動に源を発している。立川基地は、1950年の朝鮮動乱時出撃拠点となる等日本左派運動から見て許し難い存在であった。1955年春頃、その立川基地の拡張計画が発表された。

 5.6日、拡張予定地内関係者が集まり、協議の結果、砂川町基地拡張反対同盟を結成。5.8日、砂川町基地拡張反対総決起集会を開催して反対決議を行い決議文を町長に手渡した。五日市街道沿道に「基地拡張絶対反対」、「土地取り上げ反対」の立て看板がはりめぐらされ、家いえの門口には「立ち入り禁止」の立札が立てられた。5.9日、東京調達局の職員が町役場を訪れ、計画案を伝えようとしたが怒声にかき消され、ほうほうのていで引き揚げた。

 5.12日、町議会が開かれ、「基地拡張反対」の動議が満場一致で可決され、闘いは町ぐるみ態勢でいくことになった。町議全員が闘争委員となり、町長も巻き込んでの本格的反対闘争の組織づくりが着々と進められていった。こうして町ぐるみの闘いが始まった。「土地に杭は打たれても、心に杭は打たれない」の名文句を生み出していく。

 5.30日、政府と国会に対して請願行動をおこなった。重光外相と根本官房長官と会見したが門前払いされた。6.3日、基地問題について衆議院内閣委員会が開催され、参考人としての意見陳述が行われた。砂川代表は「一坪たりとも土地の接収はご免だ」と堂々と意見をのべた。委員会終了後、衆議院第一議員会館に基地代表が集まって話し合い、全国基地拡張反対連絡協議会の結成について確認しあった。6.9日、三多摩労協との共闘受入れが決まり、基地拡張反対町民総決起集会が開催され、労農共闘が実現した。全学連急進派はその支援に立ち上がった。

 9.13日、米軍立川基地の拡張工事の為砂川町の強制測量が開始され、地元反対派.労組.学生の700名と警官が正面衝突した。砂川闘争の始まりとなった。血気盛んな全学連急進主義派が現地に泊り込み、反対同盟とスクラムを組む。いわゆる砂川闘争が始まった。この砂川闘争の経験が、宮顕式穏和路線と次第にのっぴきならない対立を見せていくことになる。

 この時の闘いで、田中副闘争委員長(町議会副議長)、内野全町行動隊長(町議)、宮岡行動副隊長をはじめ12人、支援労組員15人が不当検挙された。9.14日、再度衝突。一週間ほどのち、機動隊の小隊長、自殺。「土地に杭は打たれても心に杭は打たれない」。

 高見圭司「五五年入党から六七年にいたる歩み」は次のように記している。
 「この当時、私がかかわった運動らしい運動は“砂川基地拡張反対闘争”であった。このころは、五三年ごろから妙義、浅間の基地闘争、内灘の村民を先頭にした実力阻止のすわり込み闘争が高揚していた。砂川闘争は数多く起った全国各地の安保条約にもとづく基地反対闘争のなかで天目山のたたかいであった。五五年九月二二日砂川町で強制測量が開始され、警察機動隊と地元反対同盟、東京地評傘下の労働者、ブンドの指導する全学連が激突し闘った。私は、この日警察機動隊の前に坐り込み、ゴボウ抜きされ、ズボンは引きちぎられ、そのご数日間足を引きずって歩かねばならないほど機動隊に蹴られたのである。その後も何回か現地闘争に参加した」。

 森田実・氏は、「森田実の言わねばならぬ【298】」で、次のように証言している。
 「1955年の第一次闘争の主体は砂川町の農民とこれを支持する労働組合(総評と三多摩労協)、社会党、共産党だった。このときは警察機動隊に徹底的に叩かれた。この体験から、砂川基地反対同盟と支援者の思想的リーダーだった清水幾太郎学習院大学教授と高野實前総評事務局長は砂川町の青木市五郎行動隊長とともに、1956年当時全学連の平和部長だった私(森田実)に対して「全学連として砂川闘争に加わるよう」求めた。私は協力することを約束し1956年から砂川闘争に参加した」。

 9.11日、警察早稲田署の原水爆反対運動に干渉(馬場下事件)に抗議。


 9.14日、党中央が伊藤律を除名。


 9.19日、原水協が結成され吉田嘉清が事務局長常任に選出される。 


 9月、 自治庁、なお通達に固辞。


 10月、 砂川基地問題表面化。10.4日から抗議の座込み(5000人)。10.13日、警官隊と衝突。


 10.13日、日本社会党統一大会。


 10.20日、最高裁「学生選挙権」勝訴(茨城大生提訴事件) 。静岡・栃木・大阪の法廷闘争でも勝訴。10.21日、自治庁通達撤回。10.27日、早大新聞主張・「選挙権の勝訴に寄せて」が判決を聞いた学生の声を収録する。


 アカハタ11.5日付けで、概要「政府の挑発と分裂の政策に乗ぜられることなく、いわゆる『条件派』の人々わも含め、一切の住民の具体的要求を統一するよう」主張していた。現地で戦う労働者と農民の怒りと不信を買った。


 11.15日、自由民主党結成 。


 11.20−25日、早稲田祭。 


 11.30日、大山郁夫氏死去。12.8日、大山郁夫氏平和葬(於大隈講堂)。


 12.8日、早大で「反戦デー」として「不戦の誓い集会」(共通教室―各学部自治会、平和セン ター、基地対、全学協、民科、ソ研、自由舞台、合唱団) 。


 12.9日、早稲田祭関係者に大学処分(無期停学を含む9名)。


 12月、授業料値上げ問題が起るが、全学連や自治会はこれを取り組む指導を示さなかった。為に、全学連再建を目指す動きが出始める。


 12月、日共党中央が、「反戦学同へのテロ・リンチ事件」を自己批判。反戦学同第7回拡大全国委がアピールを採択し、「全学連運動再建強化のための平和活動家集団と自己規定」する。年末から56.1月にかけて、東大Cを先頭に国立大学授業料反対闘争が盛り上がる。各地で反戦学同支部の再建が進む。


 12月、全学連が第7回拡大全国委員会を開いて、政治闘争を通じて学生運動を盛り上げるとの方針を打ち出した。通説は、概要「六全協後、日共国際派の勢力挽回とともに反戦学同も急速に勢力を盛り返し、全学連にも着々と進出し、影響力を強めて行った」としているが、国際派=善、所感派=悪式の観点から捉えることには眉唾せねばなるまい。



 (この時期の学生運動、日本共産党との関係)

 注目すべきは、55年の暮れより56年の春にかけて、東大細胞の島成郎、森田実、中村光男、生田浩二、古賀康正らが中心になって全学連の再建に乗り出していくことになった動きであろう。同じ思いで呼応したのが関西の星宮○生らであった。早大の高野秀夫も新路線を模索し始める。このメンバーが協働しつつ対立しつつ新しい波を創っていくことになる。 
 学生運動は最終的に、宮顕系新党中央に拝跪する右派的潮流、これに反発する潮流、政治活動から脱落する潮流の三派を生み出していった。日共党中央に反発する潮流から「革共同」が生まれ、「ブント」が生まれていくことになる。これが「1955年の学生運動、日本共産党との関係」である。


 これより後は、「第4期、全学連の再建期、反日共系全学連の誕生」に記す。





(私論.私見)