10期その2 1990年代  1990年代の諸闘争

 (最新見直し2008.6.22日)

 これより前は、10期その1、1980年代の諸闘争に記す。

 (れんだいこのショートメッセージ)
 ここでは、1990年代の学生運動史を概略する。詳論は「10期その2、戦後学生運動の考察/90年代の学生運動」、概論は「1990年代の諸闘争」に記し、この時期の枢要事件を採り上げ解析する。全体の流れは、「戦後政治史検証」の該当年次に記す。既にこの頃より左派運動は態を為していない。これを確認する。


【1990年代の全体としての政治運動】
 この時代の政治闘争の枢要事を眺望しておく。

【日本国溶解の経緯】

 1990(平成2).1月、昨年末1989.12月のルーマニアのチャウシェスク政権崩壊は党内に激震を這わせた。「ルーマニア問題考」に記す(参考資料・木村愛二氏「日本共産党「二重秘密党員」の遺言参照)

 日共は、ルーマニア共産党と数少ない友党として関係を取り結んできていた。そのルーマニアのチャウシェスク政権の崩壊で宮顕の責任問題が発生した。ところが、宮顕は例によって詭弁を弄した。チャウシェスク政権が崩壊するや否や、簡単な談話で「あの当時はわからなかった、あの時点では正しかった」と居直った。2.8日、赤旗の宮顕論文は、「共産主義運動の劇的な変化と日本共産党の確信」のなかで、「ルーマニア側のガードは堅く、破局後暴露されたような、秘密警察とか内戦用地下道とかの生々しい事実を事前に知ることは不可能だった」としてチャウシェスク政権の腐敗の事実を知りえなかったから免責されるという態度を見せた。

 この詭弁に火の手が挙がることになった。宮顕の強弁はウソであるとして、元赤旗ブカレスト特派員・厳名康得(いわなやすのり)氏が、「サンデー毎日(1990.3.4日号)」に手記を寄せ、「宮本共産党を告発!!/私のルーマニア警告はこうして無視された」で告発した。いわな氏は文中で、チャウシェスクの個人崇拝・個人独裁体制、圧制について早くより指摘し党本部へ報告していたにも関わらず握りつぶされていた経過を明らかにしていた。次のように告発した。

 概要「宮本は、チャウシェスク独裁を美化し、その強化に一役買った。このことについて、宮本氏はルーマニア国民にたいし良心の痛みをまったく感じないのだろうか。ここで明らかなのは、宮本氏が、対外政策だけでなく、ルーマニアの社会主義建設、国内体制にたいする肯定的評価、ひいては、この面でのチャウシェスク体制支持にまで深くコミットしていたという事実である。これでも、宮本氏は、チャウシェスクとの親密な付き合いは、対外政策の面での一致に限られでいたと強弁するつもりだろうか。本当に、あなたに責任ないか」。

 いわな氏は、日本共産党のルーマニアとの共同文書の発表についても言及していた。「宮本氏の強いイニシアチブと責任で行われたものである」のに、ルーマニア問題での「当事者の一人」というのは、「一種の意図的な責任のがれ、すり替えではないか」、「問題は、あくまで白を黒といいくるめ『宮本顕治無謬』論、『日本共産党無謬』論を押しとおそうとするところにある」云々と。

 いわな氏は、締め括りで「宮本顕治議長よ、誤りを認めよ」と迫った。手記は、この間チャウシェスク政権との蜜月時代を謳歌し、同政権崩壊後その責任をとろうとしない宮本共産党の姿勢に対して、「党員、国民を愚弄していないか」と、「歴史に立ち遅れた日本共産党を徹底批判する」論調で批判した。レーニンは、必要な場合にはいつでも「諸君、われわれは間違った」と卒直に誤りを認めたことで知られている。間題は、あくまで白を黒といいくるめ、「宮本顕治無謬」論、「日本共産党無謬」論を押しとおそうとするところにあるのではないか、と指摘していた。 

 これに対し、宮顕は、緒方靖夫氏(国際部長)の署名記事で、赤旗2.27日付の「変節した『元特派員』の日本共産党攻撃」を書かせ反撃した。低劣な人身攻撃で始まるその論法は、 1・天安門事件までチャウシェスクは支持でき、ルーマニアは人権蹂躙国ではなかった。2・だから、それ以前に結んだ声明・宣言は、当時も今も重要な意義をもつ 。3・したがって、宮本顕治氏はルーマニア問題で完全に正しく、まったく誤りを犯さなかった、という粗雑な三段論法であった。この時低劣破廉恥な人格攻撃を異様なまでに加えていた。変節者だとか「落第者」だとかのレッテルを貼り、社会的に批判を封殺するという「伝統的習慣」をここでも見せた。

 いわな氏は、月刊現代1990.5月号に、再反論を掲載した。この時いわな氏は次のように指摘していた。

 概要、「今の共産党にはもう一つ特異な『民主的マナー』」がある。必ず人身攻撃で反論するという『伝統的習慣』である。これまた、かつてスターリン主義のソ連・東欧で異論者に“同性愛者”[ルビ:ホモセクシュアル]“寄生生活者”[ルビ:パラシット]などというレッテルを貼り、社会的に批判を封殺した手口と同じである。 要するに、『罪状』を高札に書き連ねて『罪人』の首を街角にさらす、あの中世的“さらし首”“見せしめ”の思想である。こんな批判をすればお前らもこうなるぞという恫喝である」。

 この一連の経過に対して、党員ジャーナリスト・木村愛二氏が参戦した。埼玉県委員会宛てに「ルーマニア問題・緊急意見」を提出したのを手始めに合計3通提出し、宮顕の責任に言及していた。次のように述べている。

 「裏切り者へのプライバシー暴露攻撃」もほどほどにしないと、世間常識からかけはなれる。もっと穏やかに、論議になっている主題に関する事実で反論すべき。常に正確な事実を追及し続けるべき。読者に事実が全く分らない人格攻撃から始めている赤旗』(2.27日付け)及び『赤旗評論集』(3.5日付け)の緒方靖夫氏名論文の手法を疑問とする」。

 木村氏は、意見書を提出したことにより中央委員会から代々木の本部への出頭を求められた。中央委員「増田紘一(中央)」の名による反論が、5日後の同誌に掲載された。これに木村氏が反論し、さらに再反論が為されるという具合にエスカレートしていくことになった。党大会後、木村氏は代々木本部の一室で、増田紘一と名乗る反論執筆者本人の中央委員と対決した。この経過で、木村氏も離党していくことになった。

 2.7日、ソ連共産党拡大中央委総会が共産党1党独裁の放棄を採択。

 2.11日、南アのアフリカ民族会議の最高指導者マンデラが釈放される。

 2.18日、第39回総選挙が行われ、自民党は286議席を占め安定多数を確保した。共産党は、27議席から16議席に減少した。2.19日、党の常任幹部会が開かれ、「総選挙の結果について」検討したが、まともな総括にもならず宮顕議長の伝言でひと揉めする始末であった。選挙対策局長・白石芳朗が責任を取らされ辞任した。

 2.20日、赤旗編集局内に怪文書がばらまかれるという事態が発生したようである。「自由代々木放送」(全貌社)による情報であるが、興味深いので以下記す。これについて、筆者はかく思う。全貌社情報に対する私のスタンスは、全貌社の観点とは同化しないが、資料的価値として一級として評価している。残念ながら、全貌社以外に代々木情報の漏洩はないのが実際であるからして、事実と思われるものに対してはこれを採用することにしている。

 編集局にばら撒かれた怪文書には次のように書かれていた。

封建的共産主義者の頭目チャウシェスクの盟友、独裁者宮本顕治議長は即時退陣せよ!
宮本議長側近の宮本元秘書グループの常任幹部会委員を即時解任せよ! 宇野三郎、小島優、小林栄三、白石芳朗、西井教雄、吉岡吉典の6人だ!
宮本議長側近の70歳以上の老幹部は即時引退せよ!
能力無き並び大名の中央委員を総引退させよ!
年功序列の前近代的幹部人事をやめ、30歳代、40歳代の人事政策を実行せよ!
即刻、党大会を開き、不破委員長、上田副委員長を中心とする『自由と民主主義の宣言』の基本方針にそった清新な党指導部を選出せよ!
過半数を40歳以下の党幹部が占める中央委員会を目指せ!
党大会では必ず財政報告を行い、党財政の明細を全党員に示せ。
党本部勤務員一千名の多くは、月20万以下の低賃金で泣いている。手取り60万以上と云われる常任幹部委員以上の党幹部の表給与と裏給与の実態を公表せよ!
10 スターリン主義の残滓で血塗られた共産党の党名を変更せよ!
11 第8回党大会で採択された時代遅れの党綱領を捨て、『自由と民主主義の宣言』に沿った新しい綱領を決定せよ、その為の起草委員会を即刻つくり、党大会で決定せよ!

 この文書は「一号怪文書」と位置付けられている。これに続いて、「二号怪文書」が撒かれ、末尾には「自由代々木放送」と書かれていた。「二号怪文書」は、第19回党大会に向けての党幹部人事構想を載せ、興味深いことに宮顕をそれより外すことにより引退を促していた。

 3.6日、元党員哲学者・古在由重氏が逝去した(享年88歳)。古在氏は古参の学者党員として知られていた。ところが、1984(昭和59)年の夏に起こった日本原水協の分裂で、共産党批判グループの吉田嘉清事務局長や、草野信男理事長(東大医学部教授)らを支援したため除籍処分を受けた。この時古在は83歳、

 古在の訃報を新聞各紙が大きく報道し追悼記事を載せたのに、赤旗は完全黙殺した。党内外からの批判が高まり、党本部や赤旗編集局に抗議が殺到した。2.23日付け赤旗は、「古在由重氏の死亡の報道に関して――金子書記局長の報告の要点」を掲載した。そこでは、わざわざ「原水禁運動をめぐっての1984年10月の除籍にいたる日本共産党との関係」として、古在の「分派活動」規律違反行為」をわざわざ分析してみせて、“死者に鞭打った”。

 3.19日、第8中総が開かれたが、最終日の3.21日に九州4県の委員長より党の財政問題について意見書が常任幹部会に提出された。次のように指摘していた。

 概要「宮顕独裁が続く間、党財政が全党員に対して公開されたことが一度も無い。財政責任者は常に子飼いの者が握り、その内容は秘密のベールに包まれてきている。これについて党中央は自己批判をしないのか。党中央幹部の給与を明らかにせよ」。

 5.10日、袴田里見氏が逝去(享年85歳)。

 5.13日、共産党の民主集中制に批判的な左翼文化人や活動家が大結集し、新しい平和運動組織「フォーラム90S」を作ろうとする動きが起こり、この日第一回呼びかけ人会議が開かれた。呼びかけ人は、前野良、井上清、石堂清倫、佐多稲子、小田切秀雄、志賀多恵子、吉川勇一、松江澄、いいだもも等、その他新左翼系の塩川喜信、村岡到、中野徹三、岩田弘、塩見孝也、朝日健太郎、志摩玲介、常岡雅雄らが名を連ね、約120余名が集まった。この会議で、加藤哲郎教授が「東欧市民革命と社会主義の危機」と題し、記念講演を行った。

 5.29日、ソ連ロシア共和国最高会議議長選でエリツィンが当選。

 6.28日、日米構造協議「最終報告」。

 7.9日、日共の第19回党大会が開かれ、不破が委員長に返り咲く。村上委員長が失脚し、後任に村上グループが上田副委員長を推挙、宮本グループが金子満広を挙げる中、上田の「自分はやる意思は無い、不破が一番良く似合う」との不破推挙により実現という運びとなった。この大会で、宮本直系グループから不破・上田グループへの指導権の転換が行われた。

 8.2日、イラク軍がクウェート侵攻。政府、多国籍軍に10億ドル支援を決定(以降、総計130億ドルを拠出していくことになる)。8.3日、ベーカー米国務長官とソ連のシュワルナゼ外相がモスクワで会談。イラクを非難し、武器輸出停止を世界に呼びかける共同声明を発表し、米ソ協調姿勢を明らかにした。続いて国連の安全保障理事会が開かれ、イラクの無条件撤退、併合無効宣言など12の決議を可決した。冷戦時代であれば、米ソの拒否権行使によりこうした採決が為されることは容易ではなく、それを思えば時代が変わったことを印象付ける歴史的展開点に至っていることを証左している。8.6日、国連安保理がイラク制裁決議。

 9.14日、川上徹が、藤田省三らとともに、「古在由重先生を偲ぶつどい」を企画、事務局側の一人となった。呼びかけ人には、家永三郎、加藤周一、川本信正、久野収、寿岳章子、除京植、田中里子、遠山茂樹、永井潔、古田光、緑川亨らが名を連ねていた。川上徹は、1400人の参加者のまえで「つどいの経過報告」をした。党中央は、それを、“除籍した者を偲んだ”規律違反として、川上徹を査問し、除籍した。

 10.3日、東西ドイツが統一、ドイツ連邦共和国が誕生。

 10月、海部俊樹首相が国連決議に基づく自衛隊の平和維持活動(PKO)参加や、多国籍軍協力を可能にする国連平和協力法案を国会に提出。しかし、自衛隊の海外派兵は憲法解釈論議に直結し、自民党内からも異論が出て廃案になった。このため、人的貢献の代わりに総額1300億ドルという世界最大規模の資金協力をしたが、米世論は「日本は血と汗を流さない」、「現金自動支払機」として評価しなかった。湾岸戦争終結時の91.3月、クウェート政府は米紙の全面広告を通じて貢献した30ヶ国に謝意を示したが、そこに日本の名前は無かった。

 11.28日、最高裁(第一小法廷、角田禮次郎裁判長)が、八鹿高校事件を頂点とするいわゆる「八鹿・朝来暴力事件」について、主犯丸尾良昭ら部落解放同盟(「解同」)側被告人一三名からの上告申立に対し、適法な上告理由がないとして、これをいずれも棄却する決定をくだした。この結果、1983.12.14日に神戸地裁が言い渡した、主犯丸尾良昭に対する懲役3年、執行猶予4年の刑を最高とする全被告人、全事件有罪の一審判決が確定した。(「八鹿高校事件考」参照の事)

 11.29日、国連安保理がイラクが91.1.15日までに撤退しないときは武力行使容認の決議。

 12月、加藤寛・氏が、16年間務めた小倉武一氏の後を受けて政府税調会長に就任する。

 1991(平成3)1.17日、米軍など多国籍軍がイラクを爆撃し、湾岸戦争勃発。2.24日、地上戦に突入。 1.24日、湾岸戦争で90億ドルの追加支援決定。海部首相、小沢幹事長−アマコスト大使。政府、追加支援決定、総額130億ドルに。総額600億ドル。サウジやクウェートも負担を捻出させられた。

 イラク軍15万が白旗を掲げて敗走し始めた。多国籍軍は、背後から国際条約で禁止されているナパーム弾戦や術核兵器DU弾を投入して焼き殺した。2.27日、ブッシュ米大統領がホワイトハウスで全米国民に向けて演説しクウェートが解放され湾岸戦争の「軍事目的は達成された」と湾岸戦争の勝利を宣言。28日午前零時を期して多国籍軍は攻撃を停止すると言明、戦闘停止を命令。湾岸戦争終結。

 3.6日、海部政権は、90億ドル支援のための平成2年度第二次補正予算と、増税を含む財源一括法案を自公民3党の賛成で可決、成立。

 4.1日、牛肉、オレンジ輸入自由化。

 4.24日、自衛隊初の海外派遣(ペルシャ湾に掃海艇)。 4.26日、海上自衛隊の掃海部隊が派遣され、機雷除去の為に掃海艇とともにペルシャ湾へ赴く。

 5.19日、ルポライター・竹中労が肝臓がんで死去。(60歳)

 5.21日、インドのラジブ・ガンジー元首相が遊説中暗殺。

 6.12日、ソ連ロシア共和国の大統領選でエリツィン当選。

 6.17日、南アフリカがアパルトヘイト終結宣言。

 7.15日、第17回先進国首脳会議がロンドンで開幕。

 7.31日、米ソ両大統領が戦略兵器削減条約に調印。

 8月、海部俊樹首相訪中。天安門事件後、西側首脳として初訪中。江沢民、楊尚昆、李鵬らの指導者と会見し、中日関係の全面的回復を表明。

 8.19日、ソ連で保守派によるクーデターが発生、ソ連非常事態宣言。8.21日、ソ連のクーデターが失敗,首謀者がモスクワを脱出。8.24日、ゴルバチョフ・ソ連大統領が共産党中央委に自主解散を勧告,書記長辞任。8.24日、ソビエト連邦崩壊。各共和国は独立し、エリツィン大統領率いるロシア連邦が旧政府を継承。

 9.17日、国連が韓国,北朝鮮,バルト3国などの加盟承認。

 10.23日、カンボジア問題パリ国際会議が開幕,和平協定に調印。

 10.27日、海部俊樹総裁の任期満了に伴う自民党総裁公選に宮澤喜一(宮澤派)、渡辺美智雄(渡辺派)、三塚博(安倍派→三塚派)が立候補。この時、竹下派会長代行の小沢が、宮沢・渡辺・三塚の3候補を個別に面接(「小沢面接」)した後、竹下派が宮沢支持を決定した。これが決め手になり、投票の結果、宮澤285、渡辺120、三塚87の順となり、宮澤喜一が第15代総裁に総裁に選出される。 11.5日、第122回国会(臨時会)召集。 宮沢内閣誕生。宮沢喜一首相、官房長官・加藤紘一。党三役は、幹事長・綿貫民輔(竹下派)、総務会長・佐藤孝行(渡辺派、ロッキード事件で有罪判決を受けており、これが問題とされていくことになる)、政調会長・森喜朗(三塚派)。

 12.3日、PKO法案衆院可決。

12.17日、ゴルバチョフ・ソ連大統領とエリツィン・ロシア大統領がソ連邦の年内消滅で合意。

 12.25日、独立国家共同体(CIS)発足でゴルバチョフ・ソ連大統領が辞任、ソ連が崩壊。 

 12.25日、ソ連崩壊。ソ連大統領ミハイル・ゴルバチョフが辞任し、同時に各連邦構成共和国が主権国家として独立したことに伴い、1922年の設立以来アメリカ合衆国に匹敵する超大国として69年間続いたソビエト連邦(ソ連)が解体された。ソ連型社会主義体制が崩壊した事により世界を二分した冷戦時代が名実共に終焉を迎えた。

 1992(平成4).6.5日、PKO協力法の採決めぐり、社会・共産が牛歩戦術。 6.15日、国連平和維持活動を行う国際平和協力法(pko協力法)成立。社会・社民連の全衆議院議員141名が議員辞職願提出。6月、国際緊急援助隊法改正。これにより、自衛隊の海外派兵が可能になった。

 金丸信副総裁が佐川急便から5億円を受け取っていたことが報じられる。8.27日金丸副総裁が、佐川急便からの5億円献金問題で事実関係を認めて、副総裁と経世会会長を辞任。9月、政治資金規制法違反で略式起訴、罰金20万円。10月、議員辞職。

 8.27日、田中角栄、日中国交回復20周年を記念して訪中

 読売憲法問題調査会が第一次提言 

 9.17日、宮沢政府は、自衛隊(陸上自衛隊施設部隊)をカンボジアの国連平和維持活動軍に派兵した。自衛隊の海外を越しての初の派兵となった。国連カンボジア暫定統治機構(untac)の明石康特別代表が手引きした。

 9月、「週刊文春」は、モスクワで発掘した資料に基づいて、野坂参三疑惑レポート「同士を売った密告の手紙」を10回にわたって連載した。翌93年に「闇の男・野坂参三の百年」(文芸春秋社)が出版されている。この連載によって、野坂がコミンテルン時代に同志の山本懸蔵を密告し、スターリン粛清に供した張本人であること、またアメリカ経由で入ソした日本人6名の銃殺にも直接関係していたこと、さらに山本の妻の関マツらがシベリア流刑にされたのを見捨てて顧みなかっただけでなく、その事実の発覚を恐れて関マツの帰国を妨害しつづけ、遂に故国の土を踏ませぬまま狂死に近い悲惨な最後に追いやったことなど、衝撃的な事実が暴露された。伊藤律幽閉問題にも発展していくことになった。9.17日、党創立70周年の式典が終わってまもなく、党中央委員会は野坂氏の名誉議長解任を決定。

 宮顕議長の下で、「不破委員長−志位書記局長」体制確立。

 12.27日、日共は、第8回中央委員会総会決議で「野坂参三にかんする調査結果と措置について」を発表。野坂は除名された。 次のように述べられている。

 概要「山本懸蔵を根拠なく告発することで、長年の同志であった山本懸蔵を裏切り、スターリンの大量弾圧に加担した。それは共産主義者として許されない行為であることはもちろん、人間的にも恥ずべき行為といわなければならない。アメリカにあった野坂がスターリンの粛清指針に積極的に呼応するために問題の書簡を送ったことが、野坂に対する党の調査で明らかになった。スターリンの不当な弾圧に積極的に加担する立場に身をおき、これを実行した。このような行為はけっして許されるものではない」。

 11.3日、米大統領選で民主党のクリントン候補が当選。

 12.19日、韓国大統領選で金泳三民自党候補が当選。

 1993(平成5).1.1日、欧州共同体(EC)の12カ国市場統合が発足。

 6月、衆院選挙前、自民党竹下派から羽田.小沢派の43名が離脱、新生党を結成。宮沢喜一内閣不信任可決で衆議院解散。竹村正義・鳩山由紀夫ら10名も自民党を離党して新党さきがけを旗揚げ。自民党は分裂選挙で過半数割れし、非自民連立の細川政権誕生劇を生む。1993.衆院選挙前、自民党の羽田.小沢派の43名が離脱、新生党を結成。竹村正義ら10名も自民党を離党して新党さきがけを旗揚げ。

 6.18日、宮沢首相が、内閣不信任案可決を受けて(自民党羽田派34名、他派閥議員5名が賛成、病欠を除く16名が採決に欠席)、大平内閣以来13年ぶりとなる衆院解散。「政治改革解散」と云われる。この日、武村正義自民党政治改革本部事務局長ほか10名が自民党を離党。6.21日、自民党離党の武村正義らが「新党さきがけ」を結成。6.23日、羽田派44名が自民党を離党し「新生党」を結成。

 7.7日、第19回先進国首脳会議が東京で開幕。

 7.18日、第40回衆議院議員総選挙→自民党過半数割れ、社会党惨敗(社会党選挙戦で小選挙区比例代表制を含めて小選挙区制に反対のスローガンを有権者に訴えた。この選挙で小選挙区比例代表並立制を選挙公約に掲げた政党は皆無。(自民233、社会70、新生55、公明51、日本新35、共産15、民社15、さきがけ13、社民連4、無所属30)。

 1993.8.9日、第79代内閣として細川護煕内閣が組閣された(「細川連立政権成立」)。内閣のキャッチフレーズを「責任ある変革」とし、自らの政権の性格を「政治改革政権」と規定。1993(平成5).8.9日−1994(平成6).4.25日までの約8ヶ月間の短命内閣となる。日本新党、日本社会党、新生党、公明党、民社党、さきがけ、社民連の「7党1会派の連立政権」で、日本新党の党首を首班、社会党を与党第一党とする非自民6党の連立内閣となった。この内閣の成立で、38年間続いた自民党一党支配体制が切断され、55年体制が崩壊した。新しい時代の幕開けを感じさせる画期的な役割を果たした。

 しかし、連立与党内は与党第一党・社会党の与党的政治能力の欠如もあって、「船頭多くして、船、丘に上る」式の亀裂が付きまとった。これに、新生党(代表幹事・小沢一郎)の「国際的軍事貢献を含む普通の国」路線、新党さきがけ(党首・竹村正義)の「憲法尊重、反大国主義」路線が衝突し政権の舵取りが混迷を深めていった。

 8.23日、細川首相、所信表明演説で、政治改革の遅れが政治不信と政治の空白を招き、日本の進路に重大な影響を及ぼしているとして、「政治改革を断行する」ことを「内閣の最初の、そして最優先の課題」と位置づけると発言。

 9.13日、イスラエルとPLOがパレスチナ暫定自治宣言に調印。

 9月、戦域ミサイル防衛(TMD)日米協力検討開始。

 10.3日、ロシア共和国議会襲撃事件が発生。ハズブラート達を中心とする民族派が議会棟に立てこもった。

 10.4日、モスクワで正規軍が反エリツィン派が立てこもる最高会議ビルを砲撃、制圧した。

 12.14日、米の自由化。細川首相午前3時45分に記者会見、米部分開放を決定。12.14日、政府、ウルグアイ・ラウンド(コメ部分開放)受け入れを決定国会、会期を45日間('94年1月29日まで)延長。12.14日、民間政治臨調、与野党国会議員109名とともに「第2回・超党派議員との緊急合同集会」を開催。臨時国会を会期延長し今国会中に法案を成立させることを超党派議員の総意として決議(東京全日空ホテル)

 12.16日、田中角栄元首相死去。枕もとに座ることができた政治家は、当時の細川首相、河野洋平自民党総裁、河野が同伴した土井たか子衆議院議長、鯨岡兵輔同副議長の4名だけだった。旧田中派の有力メンバーは誰一人座ることが許されなかった。この異常な情景こそが田中の置かれていた立場の複雑さ、寂しさを象徴している。

 政府税調(会長・加藤寛)が、「高齢化社会の到来に備えて、所得・住民税の減免と、消費税率の引き上げを一体的に実施するよう」求める答申を提出した。

 1994(平成6)1.1日、細川首相、年頭会見で首相私案「21世紀ビジョン」を発表。

 1.1日号赤旗新春インタビュー、1.16日号赤旗日曜版で、東大政治学教授丸山眞男批判論文が掲載され、「丸山理論」への本格的批判キャンペーンが始まった。丸山氏は政治学研究の第一人者として著名であるが、戦前日本共産党の党活動が封殺された負の側面も含め真摯に総括することの必要性をコメントしていた。

 赤旗はこれに噛み付いた。「丸山眞男氏の『戦争責任』論の論理とその陥穽」を発表し、 同氏の論調を次のように批判した。

 概要「丸山理論は日本共産党にも戦争責任があるという主張であり、要するに、日本共産党は侵略戦争をふせぐだけの大きな政治勢力にならなかったのだから負けたのだ、したがって、侵略戦争をふせげなかった責任がある、“負けた軍隊”がなにをいうか、情勢認識その他まちがっていたから負けたんだと、そういう立場なんです。たまたま日本共産党が『50年問題』で混乱している時期に世間を風靡(ふうび)した学説である」。

 批判しやすいように歪曲した上でその主張を批判するという言論人としての資質が問われる批判に終始していることが判明する。

 続いて、「新しい理論的探究――丸山眞男の天皇制史観への反撃」で次のように総括した。

 「その一つが、丸山眞男の天皇制史観の問題です。この丸山眞男・元東大教授の天皇制史観はなかなかこったもので、それを近代政治学として裏づけているものであります。つまり、天皇制は無責任の体系である、責任がとれない体系であるというものです。それだけならともかく、その天皇制に正面から反対した日本共産党にも、実は天皇制の『無責任さ』が転移しているのだというのが、丸山の天皇制史観の特徴であります」。
 「何十年かたちまして、日本の現代論についてみると、党から脱落したりあるいは変節したような連中が、丸山眞男の天皇制論をもってきて、いまだに自分たちの合理化をやっているということがわかりました。革命運動のなかに天皇制的精神構造があるというようなことをいいまして、いろいろな攻撃をくわえてきたわけであります。丸山眞男の一番大きな誤りは、歴史を大局的に見ることができないということです」。

 これに対し、宮地氏の批判は次の通り。

 「宮本氏による歪曲のひどさ」として、「共産党戦犯」論と「政党の政治責任としての戦争責任」論とでは、その意味がまるで異なる。「 侵略国側の戦争責任といった場合、天皇、軍部、財閥等の戦争推進者の戦争責任は絶対的なものであり、それは戦争犯罪に相当するものとして、『戦犯』となります。それ以外の国民、各階層、各政党は、被害者であると同時に、直接間接の加害者となったのであり、侵略国側の国民としての加害責任が全てに問われます。ただしそれは政治責任、結果責任としての『戦争責任』であり、アジアの国々を侵略し、2000万人の死者を出したという加害の責任があるとしても、捕虜虐待等の事例を除いては、『戦犯』という性質のものではありません。 宮本氏は、丸山氏の『共産党の政治責任としての戦争責任』論を、丸山氏の『共産党戦犯』論とする、ひどい歪曲をしているのです」、「宮本氏は、コミンテルン日本支部にとって、1922年結成から1935年壊滅までの13年間、戦争に一貫して反対し、闘ったことが『絶対的免責事由』なのであり、政治責任、結果責任としての戦争責任を問われるいわれは一切ないという立場に立っています。それに対して、丸山氏は、果たしてそう言い切れるのか、天皇の戦争責任と共産党のそれを先験的に除外するという『大多数の国民的通念』は正しいのかという疑問を提起したのです。

 その根拠として、次の二点を挙げています。第一は、戦前の日本共産党が、戦争推進か阻止かという点で、体制か反体制かという点で、天皇制の対極にいた政党であり、『最も能動的な政治的敵手』であったことです。第二は、前衛政党、即ち前衛党の看板を掲げた政党だったことです。前衛党とは、科学的真理の、世界と日本における唯一の認識者、体現者であり、政治的実践における無謬者であると自己規定してきた政党です。そういう『前衛党』の看板を掲げる以上、戦争突入という結果になったことに対する責任をのがれることはできない。そこから独自の立場での戦争責任を認めるべきではないかという疑問を提起しているのです。天皇の戦争責任が徹底的に追及されず、同時に国民全体、各階層、各政党の戦争責任問題の位置づけを確定するのが弱いことが、日本の政治状況にとって重要な問題となっている。天皇制の対極にいて、かつ上記の規定の前衛党を名乗る日本共産党が『日本共産党だけは一切戦争責任がない』としているのは、それらを追及し、確定していく上での重大な障害の一つになっているという状況認識が、丸山氏の見解の根底にあります。この点については、水田洋名古屋大学名誉教授は、『象、22号』で、『日本共産党は、最近、丸山眞男が四十年近くも前に書いた共産党戦争責任論に、むきになって反論しているが、「敗軍の将」にも、戦争犯罪の主犯たちとはちがった意味で責任があるのは当たり前だし……』と批判しています」。

 更に、「宮本氏の歪曲的規定の根拠となる丸山氏の文献は存在するのか」として、次のように反論している。

 「丸山氏の『共産党戦犯』論」(新春インタビュー)という宮本氏の断定的規定はどの文献を根拠としているのでしょうか。私の調査、検索では、丸山氏によるその用語使用、それを類推させるような言い回し使用は一切ありません。 もしそれが丸山氏のどこかの文献に存在するのであれば、(注)で述べた私の意見は撤回します。その存在をご存知の方は、メールで教えていただけないでしょうか。もしそれがないのであれば、宮本氏および共産党は、『学問の世界での日本共産党の働き』などと『学問』を語る資格はありません。

 4.8日、細川首相が「法に触れる疑いのある資産運用があった」として突如辞任表明した。

 4.9日、TC総会(日米欧三極委員会総会)が、東京虎ノ門のホテル・オークラで開催された。ディビッド・ロックフェラー、ピーター・ピーターンらTC首脳総勢230名が参加した。その動向をマスコミは報道しなかった。

 4.25日、細川内閣 総辞職(在任日数は93年8月9日以来260日、戦後6番目の短命となった。本会議の首班指名選挙で羽田孜新生党党首が当選。 4.28日、羽田孜内閣が成立(「改革と協調」)。細川首相の突然の辞意表明による混迷は、羽田政権誕生によりひとまず収拾した。
 官房長官・熊谷弘。

 6.23日、羽田内閣不信任決議案(自民)提出。6.25日、羽田孜内閣総辞職。在任64日は戦後2番目の短命。

 6.27日、松本サリン事件。

 6.29日、衆院本会議で首班指名選挙、決戦投票で村山富市(社会党)氏選出。村山が国会指名により、第81代 内閣総理大臣となる。

 6.30日、村山富市内閣成立(「人にやさしい政治」)内閣成立。在任期間:1994年6月30日〜1995年8月8日。自民・社会・さきがけ三党連立政権。官房長官・五十嵐広三、河野洋平は外相、副総理。

 7.20日、村山首相、衆院本会議で代表質問に答弁する中で、自衛隊と憲法の関係について、「専守防衛に徹し、自衛の為の最小必要限度の実力組織である自衛隊は憲法の求めるものであると認識する」と述べた。こうして自衛隊合憲を打ち出した。と日米安保体制についても「不可欠」と答弁し、日米安全保障体制を堅持する方針を改めて確認した。日の丸、君が代についても、「国旗、国歌であるとの認識は国民に定着しており、私も尊重したい」とも表明した。

 7.30日、先の総選挙で過半数割れし野に下った自民党の新総裁選挙が行われ、河野洋平氏が総裁となった。自民党の国会議員と都道府県代表による無記名投票の結果、河野氏が208票、渡辺美智雄氏が159票。自民党史上、初めて総理でない総裁の誕生となった。

 旧社会党は結党以来、「自衛隊違憲」論を展開してきたが、94年6月、自民、社会、さきがけ3党の連立政権で村山富市委員長(当時)が首相に就任したことを契機に、同年9月の党大会で「自衛隊は憲法の枠内。日米安保条約は堅持する」と政策を転換。これが現在の党の基本方針になっている。

 10月、「日本の暗黒」赤旗連載の突然中止をめぐって下里赤旗記者他2名の査問、除名と作家森村誠一氏の日本共産党との絶縁が発生した。この時、担当常幹、赤旗編集局長と激論した結果が査問と統制処分であったと云う。下里氏は赤旗記者を解雇され。この経過を公表し除名処分になった。

 「日本の暗黒」赤旗連載の企画は、もともと国会での浜田幸一議員の「小畑査問死事件」に対する質問をテレビで見た作家・森村誠一氏が、「この問題を徹底的に明らかにしたらどうか」と赤旗編集局に進言し、それがきっかけで連載企画が進行したものであった。党の内部で集団的に長時間をかけて検討し、何度もの会議と決済文書を積み重ね、「日本の暗黒」の第一の柱として「スパイ査問事件」を取り上げることが決まり、これを元に、党外作家と赤旗編集局長の合意が成立し、1989年に連載が始まった。

 上級の集団的チェックを受けた原稿によって、多くの読者を獲得して進んでいたものが、いよいよ同事件に筆が進みそうになった直前の1991年6月の時点で、突然中断となった。何の問題もなく、万事順調に進んでいた連載が、なぜ突然中断になったのか。この背後には、宮顕のこの事件に対する徹底した隠蔽体質があるとしか考えられない。

 11.3日、読売新聞が憲法改正試案発表。

 1994年の第20回大会は、宮顕時代の見解の特に不都合と思える箇所を変更した。主要な改定箇所は次の通りである。綱領面で、61年綱領の従属国規定「わが国は、高度に発達した資本主義国でありながら、アメリカ帝国主義に半ば占領された事実上の従属国である」なる文言を削除し、「国土や軍事などの重要な部分をアメリカ帝国主義ににぎられた事実上の従属国である」と改定した。

 同じく、従来の社会主義国規定「(1)・社会主義をめざす国ぐに、(2)・社会主義をめざす道にふみだした国ぐになる識別」を無意味として削除した。「社会主義国とは、抽象的な概念ではなく、14の“現存した(する)社会主義国”を指し示す歴史的現実的用語である」として単に確認するだけに訂正した更に、「冷戦は崩壊していないキャンペーン」を却下し、概要「冷戦も、抽象的な用語ではなく、第二次大戦末・終了後以来の『米ソ冷戦』という歴史的具体的概念であり、冷戦構造の一方のソ連が崩壊した以上、米ソ冷戦も消滅した」と訂正した。

 更に、丸山真男批判大キャンペーンを抑制する立場へ転換した。これまで党中央は、丸山氏の内在的批判論に対して、「前衛」、「赤旗」、「党大会決定」、「改定綱領」、「日本共産党の七十年」等で13回も丸山批判を行い、過剰なまでの拒絶反応を示したが認識訂正した。

 以上の改訂はともかくも、規約面で除名、除籍問題について改悪した。概要「第十二条、党の綱領あるいは規約を否定するにいたって第一条に定める党員の資格を明白に喪失したと党組織が認めた党員は除籍することができる。特殊な事情のもとでは、地区以上の指導機関は、党員の除籍を決定することができる」と新たな文言を挿入し、党中央、または、党機関が勝手に判定した党員を、所属支部の審議にかけなくとも、党中央規律委員会や中間機関が、フリーハンドで党外排除できるという重大な条項を付け加えた。

 除籍とは、(1)・長期未結集党員で再結集の見込みがなくなった党員や、(2)・行方不明党員の党籍をいつまでも残しておくわけにもいかないので、党員としての籍を除く措置だった。ところが、このたびの改訂で、除名に次ぐ異論党員の党外排除措置として除籍制度を活用できるようにした。

 2000年の第22回大会において、不破・志位・市田らは規約の全面改訂を行い、除名、除籍問題について次のように確定させた。「第四条、党の綱領と規約を認める人は党員となることができる」、概要「第十一条、党組織は、第四条に定める党員の資格を明白に失った党員は、慎重に調査、審査のうえ、除籍することができる。除籍にあたっては、本人と協議する。党組織の努力にもかかわらず協議が不可能な場合は、おこなわなくてもよい。除籍は、一級上の指導機関の承認をうける」とした。

 ところが、除籍措置は規約上の処分でないので、所属支部の審議は要らない。不破・志位・市田らが、党中央批判・異論党員や専従を党外排除したくなれば、党中央規律委員会に命令する。党中央の下部・任命機関である規律委員会は、支部・中間機関を飛び越えて、全党のどこに所属している党員でも直接に、即座に除籍できる。支部へは、除籍の事後連絡ですむ。不破らにとって、これほど手が掛からない簡便で、実質的な除名システムはない。面倒な手続を必要とし、かつ、強烈な反発を引き起こす除名処分をできるだけ減らし、簡易除名=除籍措置を活用・流行させた功労者は、やはり宮本顕治と不破哲三であろう。

 1994年以降、恣意的な除籍決定と通告という第2除名システム=簡易除名が、批判・異論党員を党外排除するための主な手法となった。

 宮地氏の「除籍への萩原抗議文と批判メールへの党回答文宮地氏の「不破哲三の宮本顕治批判」参照

 筆坂秀世著「日本共産党」は、1994年の第20回大会での中央役員選出基準に於ける浜野忠夫常任幹部会委員(現副委員長)の次の発言を証言している。
 概要「中央委員会の推薦名簿の作成にあたっては……知恵と経験に富んだ試練ずみの幹部と有能・誠実な新しい幹部の適切な結合をはかるという、従来から一貫した党の幹部政策の基本を今回もなによりも重視しました」、「その立場から余人をもって代えがたい同志は別として、六十五歳以上の同志は原則として勇退することを確認し、若い将来性のある幹部を大胆にばってき・登用することとしました」。
つまり、「余人をもって代えがたい同志」=宮顕を例外として、65歳定年制を提案したことになる。日共に於ける宮顕の地位を「余人をもって代えがたい同志」と規定したのも興味深いところである

 12.5日、公明党第34回大会、30年間の歴史に終止符を打ち正式に解党する。

 12.10日、新進党結党。(新生・公明・日本新等 党首 海部俊樹 衆院178名 参院36名)。
 12.21日、石川氏は第2次再審請求中のまま31年7ヶ月ぶりに仮出獄を果たす。石川被告は、一審判決「死刑」、二審「無期懲役」の判決によって平成6年12月の仮釈放になるまでの実に31年7ヶ月間を獄中で過ごす事を余儀なくされたことになる。その後、 狭山事件の真相と公正な裁判を求める ための訴えに全国を廻る。 

 1995、平成61.1日、政治改革関連三法が施行される。

 1.17日、阪神大震災。日本の兵庫県南部に大地震発生、戦後最大の震災『阪神・淡路地震』が起こる(M 7.2)。中国政府が300万元の救援物資を提供。

 1.19日、ロシアがチェチェン共和国の首都グロズヌイの大統領府を占拠。

1月に発売された雑誌「マルコポーロ」(発行:文藝春秋)の2月号に、「ナチ『ガス室』はなかった」というタイトルの記事が掲載された。執筆者は医師・西岡昌紀氏で、記事内容は、第二次大戦中ナチスがアウシュビッツその他の強制収容所でユダヤ人をガス室を使って大量虐殺したという「ホロコースト」は作り話であり、そのようなガス室が存在した証拠はない、とするセンセーショナルなものであった。

 この記事に対して、海外のユダヤ人団体より文藝春秋に抗議がなされ、さらに、団体が影響力を有する外国企業が同社の看板雑誌である「文藝春秋」から広告を引き上げるなどのアピールが行なわれた結果、文藝春秋はユダヤ人団体に謝罪をし、「マルコポーロ」を廃刊としたた。その後、朝日新聞などのメディアを中心に、ユダヤ人団体に同調するスタンスから、「ガス室否定」に代表される「ホロコースト否定説」を糾弾する論陣が張られた。
「ガス室論争より」参照)

 2.22日、最高裁、ロッキード事件で故 田中角栄元首相の上告棄却して首相の犯罪(5億円収賄)認定。

 3.20日、地下鉄サリン事件。3.31日、国松警視庁長官が狙撃され重傷(「国松警察庁長官狙撃事件」)。

 4.24日、オウム真理教幹部、村井秀夫氏刺殺。5.5日、新宿駅地下街青酸ガス殺人未遂事件。
 5.7日、仏大統領選でシラクが当選。
 
 7.23日、第17回参議院議員選挙(連立時代初の国政選挙で新進党躍進・社会党惨敗)。

 95年参院選では、連立を組んだ自社両党が敗北。河野洋平総裁が村山富市首相(社民)からの首相禅譲を狙ったが、与党内の反発で断念。その後の党総裁選で出馬断念に追い込まれた。その村山氏も政権担当意欲が急速になえ、半年後の96年初めに総辞職した。

 8.8日、村山富市 改造 内閣成立。官房長官・野坂浩賢。8月、村山首相が「戦後50年の談話」発表。

 9.22日、自民党議員総会、橋本竜太郎が小泉純一郎を破って総裁(17代)に当選。橋本304、小泉87.。

 10.2日、村山改造内閣で、橋本龍太郎が副総理に就任。

 11.4日、ラビン・イスラエル首相が暗殺。
 11月、新「防衛計画の大綱」を閣議決定。

 12.1日、ソウル地検が粛軍クーデターなどで全斗煥元大統領を逮捕。

 12.27日、新進党党首選挙、小沢一郎が羽田孜を破って新進党党首(第2代)に当選。

 95年この年、日本社会党中央執行委員長だった村山富市総理は、それまで社会党が掲げていた3つの基本政策を覆しました。つまり、「日米安全保障条約の破棄」、「自衛隊違憲」、「日の丸・君が代反対」を放棄した。これにより、社会党は分裂。社民党と新社会党、そして、残りの議員は鳩山民主党に合流することになる。この分裂のとき多くの職員が民主に移ったが、社民にも多く残った。その後、社民は選挙に負けて議員は減り、ますます職員過剰となる。

 1996(平成7)1.5日、村山首相が退陣を表明。1.11日、第135臨時国会で、橋本龍太郎が第82代首相に指名される。第一次橋本内閣発足。幹事長・梶山静六。

 1.19日、日本社会党が第64回党大会で党名を社会民主党と改める。

 1.21日、パレスチナ自治政府選挙でPLOのアラファト議長が議長に選出

 4月、日米首脳、「日米安全保障共同宣言」に署名。

 4月、橋本龍太郎首相がロシア訪問。原子力安全サミットに参加し、日ロ首脳会談。7.3日、ロシア大統領決選投票でエリツィン大統領が再選。

 8.30日、鳩山由紀夫、新党さきがけを離党。新党さきがけ代表、武村から井出正一に。菅直人は固辞して副代表に。

 そして細川政権への入閣を経て、自民党によって政権復帰の足がかりとして担ぎ出された村山政権の下で、社会党は「安保反対、自衛隊違憲」の一枚看板を投げ捨て、「安保堅持、自衛隊合憲」、「日の丸・君が代容認」へと180度の転換をなしとげた。また「市場経済の原理」の尊重(つまり資本主義の変革はめざさない)を公然と表明し、自らを「寛容な市民政党」と規定した「九五年宣言」を発するとともに、翌九六年には党名も社民党に変更、名実ともに純然たるブルジョア改良政党へと“脱皮”した。

 しかし、それも空しく、28名の右派議員が民主党に流れる中で行われた同年9月の総選挙では、自ら導入した小選挙区制も不利に働き、改選議席をさらに20名下回る15議席の少数政党に転落してしまった。この後、土井の再登板となったが、今度の総選挙では組織存亡の危機に立たされている。

 日和見主義者の末路や、あわれ。しかし因果応報、これも自業自得と言うほかない。かくて社会主義協会の諸君の「社会党の階級的強化」、「社会主義政党への純化」はついに“見果てぬ夢”に終わり、本隊の消滅に先立ち自ら解体してしまった。戦前の労農派が無産政党の左翼的補完物であったのと同様に、協会派は社会党の単なる左翼的補完物に過ぎなかった(社労党「日本社会主義運動史」)。

 9.20日、著作権審議会は著作隣接権の保護対象を著作者の死後50年に統一との方針を報告。
 9.27日、橋本首相が衆院解散。「小選挙区解散」と云われる。史上初の小選挙区、比例代表並立制による選挙。党首選挙を廻って新進党が混乱、橋本首相が解散に踏み切った。

 11.7日、第二次橋本内閣発足。官房長官・梶山静六(再任)。幹事長・加藤紘一、総務会長・森喜朗、政調会長・山崎拓の布陣。

 1997(平成8).2.19日、埴谷雄高(本名・般若豊)、脳梗塞により死去。87歳。

 4.1日、消費税5%へ。

 4.17日、沖縄の駐留軍用地特別措置法改正案で、自民党と小沢率いる新進党の連携が成立。改正駐留軍用地特別措置法が成立。施行は23日。

 4.18日、動力炉・核燃料開発事業団(動燃)の解体の方針を政府が固める。

 4.23日、茨城県警が動燃を強制捜査。原子力関連の強制捜査は初。

 5.23日、超党派の憲法調査委員会設置推進議員連盟(憲法議運)発足。

 7.22日、国旗・国歌法案。

 8月、第3次家永訴訟て最高裁判決。教科書検定制度は違憲との訴えを退けつつ、検定意見の一部は「裁量権の逸脱」との判断を示す。

 9.11日、第二次橋本内閣第二次改造。官房長官・村岡兼造。幹事長・加藤紘一、総務会長・森喜朗、政調会長・山崎拓の布陣。(注)佐藤総務庁長官は,ロッキード事件で有罪が確定しているにも関わらず入閣したとの批判を受け,97年9月22日辞任.越智農水大臣は,健康不良のため,97年9月26日辞任.後任に島村農水政務次官が就任したため,同日岸本が農水政務次官に補任.三塚大蔵大臣は,一連の大蔵官僚接待汚職事件の責任をとって98年1月30日辞任.

 9.23日、日米両政府が新たな日米防衛協力の指針(新ガイドライン)を決定。

 2000年2月に出版した『1917年「国家と革命」』で、私(不破)は、日本共産党史上、党最高幹部として初めて、名指しでレーニン批判をした。それにたいして「AERA」のインタビューを受けた。そこでの記者の『レーニン批判は、宮本顕治名誉議長にも報告したのですか』という質問にたいして、私は答えた。『もう引いた人ですから』と。

 9.26日、日本共産党第21回大会で、宮本顕治議長が引退し名誉議長。名実ともに不破哲三委員長体制が確立する。「21世紀の早い時期」に民主連合政府の樹立をめざす政権構想を打ち出す。連立相手について不破氏は「修正資本主義論の立場にたつ勢力でも」と語る。

 11.17日、北海道拓殖銀行が経営破綻。都銀初の破綻。道内営業権を北洋銀行へ移転へ。

 11.24日、山一証券破綻、廃業の申請を決定。簿外債務2648億円。

 11.26日、徳用シティ銀行破綻。仙台銀行に営業譲渡へ。

 12.27日、新進党が解党。バラバラ分裂状態に。小沢一郎、自由党結成。

 続いて9月11日、不破委員長は「象徴天皇制」の容認の考えを発表した。実際の問題として「今の憲法を守る限り、天皇の存在と役割を否定はしない」という説明だが、共産党の綱領は、戦前、共産党が「天皇制の専制支配」と戦った事を強調しているし、現行憲法も「天皇条項等の反動的なものを残している」と規定しているから、不破発言が一時的な方便である事は明白である。

 1998(平成9)1.4日、新進党が六つに分かれ、自由、新党平和、新党友愛、黎明クラブ、国民の声、改革クラブに。1.8日、衆院野党6党参院7党の統一会派「民主友愛太陽国民連合」誕生。略称「民友連」。1.21日、羽田・鹿野・細川の保守新党の名称が「民政党」に決定。代表は羽田。

 2月、スイスの・ダボスで、世界の政治家や経済人が年に1度集まって、その後1年間の計画を決定する「世界経済フォーラム」が開かれた。これを通称ダボス会議と云う。会議の議題は、「アジアの経済危機に対する議論」に集中し、日本の対応が批判された。「橋本政権は間違った政策をとり続けている。橋本首相に任せておけない」として辞任の筋書きが決められた、と伝えられている。「彼らは一国の首相すら簡単に変えてしまう力を持っている」。「グローバリストのなかでも支配的立場にあるロスチャイルド家も、『日本の政権はすでに傀儡操り人形にした』と判断している」。 2月、「文化大革命」以来、三十一年間断絶状態にある日中両国の共産党が、公式レベルの接触を再開した。きっかけは、一九五〇年代の日本共産党内の路線対立に関する中国要人の証言報道。日本共産党が報道内容に関して、中国共産党に真偽を問い合わせたため、結果的に両党の接触が実現するという思わぬ副産物が生まれた。両党の関係は、日本共産党が党機関紙「赤旗」の特派員三人を二十五日に北京に派遣し、月末にも北京支局を再開するなど、和解の機運が高まっている。「赤旗」の北京支局開設は、「赤旗」と中国政府が交渉する形をとったため、両党間の公式な接触は、八五年の関係改善交渉が不調に終わって以来、十三年ぶりのことになる。

 時事通信と共同通信は二月中旬、趙安博・中国国際交流協会理事が「故・伊藤律元日本共産党政治局員の殺害を故・袴田里見元副委員長らが中国側に依頼していた」と証言したと報道した。日本共産党の西口光・国際部長が数回にわたって、中国共産党中央対外連絡部(中連部)に電話で問い合わせ、中国側から「報道されたインタビューに中国共産党は関与していない」「趙氏は長期の病気と高齢のために、思考の状態は普通ではなく、とくに記憶力はだいぶ落ちている」などと、日本共産党の立場に配慮した回答を得た。
 
 しんぶん赤旗は1998年2月24日付けで「反論」。『趙安博氏は,事実無根として時事通信社に記事の訂正を求めた』。世界日報サイドの情報では,趙安博氏の友人を名乗る人物から時事通信社北京支局に電話があって,訂正と陳謝を求めた.支局側は本人との面会を求めたが,電話が切られた,となっています。なお,現在時事通信・共同通信のHPの過去の記事データベースには,この話は載っていない。(配信したすべての記事が載っているわけではなさそう)。

 2月、 遅浩田中央軍事委員会副主席、国務委員兼国防部長が訪日。日本の久間章生防衛庁長官と中日防衛交流問題について会談。

 4.1日、金融改革・日本版ビッグバンの皮切りとなる改正外国為替法が施行。

 5月、不破委員長を団長とする日共の代表団が訪中し、昭和41年以来、31年ぶりに中国共産党と会談して和解している。不破委員長は、日中友好には二つの逆流があるとして、1、日本の政権には侵略戦争への反省が不明確(所謂歴史認識)。2、二つの中国を巡る問題の根源は米国にある(台湾問題)と、日米両国を非難した上で、日中友好の五原則(歴史認識他)を提示した。江沢民総書記は「歴史認識」、「一つの中国(台湾問題)」を改めて強調、特に後者に就て「日米防衛協力の為の方針(ガイドライン)の適用範囲に台湾を入れるな」と言明、日米安保条約については「冷戦時代に出来たもので、その後も残されている」と不快感を表明している。

 6.9日、中央省庁等改革基本法が可決成立。2001年から1府12省庁体制。 7.12日、参院選。自民党が惨敗。議席数104に減り、過半数を大きく割った。民主・共産躍進。自民比例区は過去最小の14。(98参院選)。

 7.13日、自民党の大惨敗から一夜明けた日、BIS=国際決済銀行の月例総会と日米経済人会議が東京で開かれた。BISの月例会が開かれるのは、基本的に、ダボスと同じスイスにあるバーゼルという都市。例外は、毎年9月、アメリカのFRB=連邦準備銀行で開かれるときだけだ。それが、60年以上に及ぶBISの歴史上初めて、スイスとアメリカ以外の場所で開催された。それが、参議院選挙翌日の東京だった。

 BISの会議は、完全に秘密で行なわれる。BIS職員も、マスコミ関係者も一切出席できない。参加できるのは、BIS重役と招かれた客のみ。しかもその内容は一切発表されない。

 BISの13人の重役の中には、先進国とスイス、アメリカの中央銀行総裁がいる。日本は1994年から加わっている。ダボス会議に出席した、アラン・グリーンスパンFRB議長も重役の一人だ。

 今回の秘密会議には、世界経済に君臨する巨大財閥、ロスチャイルド財閥の重要人物が参加していた! ある証券アナリストは次のように述べている。

 「赤い盾マークのロスチャイルド家の指輪をしているフランス人で、同グループのアジアにおける総代理人的な立場の人物が極秘に来日したんです」(週刊現代8月1日号)

 ロスチャイルド財閥は、グローバリストの中心であるといってもいい。むしろ、BISそのものがロスチャイルドの手足として働いているという実態もある。このロスチャイルド財閥のアジア担当者が、直接、日本にまでやってきた。彼らは本気なのだ。本気で日本経済を叩きつぶそうとしている。そのさまたげとなってきた橋本首相を叩きつぶすために、彼らは重要な秘密会議をわざわざ東京で開いたのである。

 もし橋本首相が辞任しなければ、彼らは圧力をかけて、むりやりにでも辞めさせるつもりだった。橋本首相はグローバリストにとって、そこまで邪魔者だったのだ。

 7.13日、橋本首相が、参院選敗北の責任で退陣表明。

 7.24日、自民党総裁選。小渕派の小渕恵三、総裁選出馬のためあえて小渕派を出た梶山静六、三塚派の小泉の三つ巴の戦いであった。午後2時、自民党本部8階の大ホ―ル。両院議員総会で総裁選の投票が行われた。小渕225、梶山102、小泉84で、小渕が第18代自民党総裁に選出された。

 午後3時12分、選挙管理委員長の谷川和穂が、候補者の受け付け順に投票結果を読み上げた。「梶山静六君、102票!」 戦前の予想では、派閥の支援なく出馬した梶山が、3人のうちもっとも厳しいとされていた。それにもかかわらず3桁の100票を超えたのである。谷川は続けた。「小泉純一郎君、84票」 なんと小泉は、梶山に20票近くも差をつけられていた。その瞬間、大ホ―ルは静まり返った。あまりの少なさに、拍手も起こらない。100票を大きく下回り、三塚派の基礎票87票にも届いていないのだ。小泉陣営の森喜朗は、愕然とした。(84票だって・・・・。やっぱり、亀井グル―プの票が梶山さんに流れたんだな)この票数では、二度と総裁選に挑戦できないと見られても仕方ない。小泉は、あまりにも惨め過ぎる敗北直後、親しい議員に漏らした。「俺は、心に刺青を入れたよ・・・・・」。自民党の新総裁に小渕恵三。総裁選、2位は梶山、3位は小泉。

 首相指名選挙で、共産党が民主党の管代表に投じ、参院での「管首相」に貢献した。

 8月、小渕首相が就任後初の所信表明演説。「21世紀を目前に控え、私は、この国のあるべき姿として、経済的な繁栄にとどまらず、国際社会の中で信頼されるような国、いわば『富国有徳』を目指すべきと考えます」と締めくくった。ちなみに「富国有徳論」は、小渕首相が主宰する「21世紀日本の構想」懇談会の中心メンバーである川勝平太・国際日本文化研究センター教授の持論である。

 ある国際金融アナリストによれば、「ロスチャイルドは、日本の政権はすでに傀儡(かいらい)にしたと判断している」という。小渕首相は、これまで日本ではほとんど例のないことだが、元首相の宮沢喜一を大蔵大臣に就任させた。宮沢元首相は、中曽根元首相と竹下元首相の根回しがあったために、この大役を引き受けたことが判明している。竹下、中曽根、宮沢。彼らはすべてグローバリストの手先として働いている人物だ。彼らによって決められた小渕が首相になったということは、すなわち、日本の政権がグローバリストやロスチャイルドの「かいらい」となった、という金融アナリストの言葉が正しいことを証明している。

 1.1日、欧州単一通貨ユーロが11か国で導入。円高ドル安を誘発。

 1999(平成10)1.14日、自民、自由両党連立による第一次小渕改造発足。

 5.24日、新しい日米防衛協力のための指針(ガイドライン)関連法案が参院本会議で可決成立。米国の軍事行動に官民あげて協力する体制作りへ大きく動いた。

 7.22日、日の丸・君が代法案が衆院本会議で可決。参院へ。

 7.29日、衆参両院に憲法調査会を設置する改正国会法成立が衆院本会議で可決成立。

 8.9日、国旗・国歌法案が参院で可決、成立。民主党は自主投票。13日に公布・施行。

 10.5日、自民自由公明三党の連立「妖怪」政権が発足。小渕第2次改造内閣発足。自民・自由・公明連立内閣。

 10.7日、週刊ポスト(小学館)の記事「長銀「われらが血税5兆円」を食うユダヤ資本人脈ついに掴んだ」に対しユダヤ右翼団体(SWC)が脅迫。ポストが全面降伏。

 11.10日、初の党首討論が開かれる。英国議会の「首相への質問の時間」を手本にして導入された。小渕首相に鳩山民主、不破共産、土井社民の三党首が論戦したが、不評。

 11月、李瑞環全国政治協商会議主席、日本のトヨタ(株)代表団一行と会見。河野洋平外相、中国のWTO加盟に関する中米合意について談話を発表。李瑞環全国政治協商会議主席、野中広務日本自民党幹事長代行と会見。胡錦濤国家副主席、日本公明党訪中団一行と会見。

 11.24日、今年度の国債発行額が38兆6160億円。戦後初めて純税収を上回る借金大国に転落。

 12.3日、国の借金残高が今年度末に501兆5813億に達すると大蔵省発表。

 12.31日、ボリス・エリツィン、大統領を辞任。後継はプーチン首相。12月、エリツィン大統領辞任。プーチン首相が大統領代行兼任。


【この時期の学生運動の動き】
 この時代の学生運動の枢要事を眺望しておく。

【1990(平成2)年の動き】 「戦後史90年当時」

 1月、成田空港反対同盟熱田派が、江藤運輸相ら政府側と会談。


 6月現在、70年の海老原事件以来のゲバによる死者計83名。70−1、71−5、72−2、73−2、74−11、75−20、476−3、77−10、78−7、79−8、80−8、81−2、82−1、83−0、84−0、85−0、86−2、87−0、88−1、89−3。党派別の死者は中核派による革マル派殺害46名、解放派による革マル派殺害23名、革マル派による両派殺害15名、その他2名。但し、重傷負傷者数も調査されねばならない。


【1991(平成3)年の動き】 「戦後史91年当時」


【1992(平成4)年の動き】 「戦後史92年当時」


【1993(平成5)年の動き】 「戦後史93年当時」


【1994(平成6)年の動き】 「戦後史94年当時」


【1995(平成7)年の動き】 「戦後史95年当時」

 11.30日、よど号赤軍、田宮高麿死亡。


【1996(平成8)年の動き】 「戦後史96年当時」

 5.14日、横浜市青葉区で革労協(挟間派)の十数人が、革マル派の国学院大生ら数人を鉄パイプで殴り、1人を殺害、6人に重傷を負わせた。


【1997(平成9)年の動き】 「戦後史97年当時」


【1998(平成10)年の動き】 「戦後史98年当時」


【1999(平成11)年の動き】 「戦後史99年当時」

 6.6日、建党協議会、ワーカーズ、『国際主義』編集会議などとともに「共産主義協議会・未来」を発足。



 これより後は、10期その3、2000年代の諸闘争に記す。





(私論.私見)