第10期その1 | 戦後学生運動の考察/80年代の学生運動 |
(最新見直し2006.10.15日)
これより前は、「第9期その3、戦後学生運動の考察/70年代の学生運動(1975−79)」に記す。
【1980年の動き】 | 「戦後史80年当時」 |
春、遠方から派、活動停止。
1.7日、駒場の東大教養学部、北寮の一室で、寮生10人が懲罰委員会を開いていたが、反帝学評と見られる12、3人の学生が室内とと廊下にいた計100人に殴りかかり、11人が負傷した。襲った学生は逃げたが、うち3人は逮捕された。大学の拠点化をめぐり、対立セクトの革マル派とにらみ合う反帝学評は、前年末、他大学の学生を呼ぶなどして、東大の一部を占拠し立てこもった。このことで、寮生から「不法占拠だ」との批判を浴び、反帝学評を懲罰にかけることとなった。
1.25日、革労協が、東京入国管理事務所へゲリラ攻撃。
1月、共産主義者同盟(戦旗派)から戦旗・共産主義者同盟へ名称変更。6月には社学同再建をおこない、1980年代は「戦旗・共産同と労共闘・社学同の時代」となる。韓国での激動と連帯しつつ、安保─日韓体制打倒闘争、三里塚闘争を軸に展開していく。
2.5日、文京区向ヶ丘のアパートで、この部屋の東大文学部4年の男性(当時24歳)が寝ていたところ、ヘルメットをかぶった4人組の男が窓ガラスを割って押し入ってきた。男性は鉄パイプで全身を殴られ重傷、一緒にいた女友達(当時21歳)も頭に大怪我を負った。男性は革マル派の集会に出たことがあった。
2月、「戦旗派(荒派)」が、名称が他と紛らわしいとして「戦旗・共産同」と改称する。
3.2日、「ジェット燃料嘉者輸送阻止」を叫ぶ300名が国鉄成田駅へ突入。
5.2日ワシントンで大平.カーター会談。
5.5日、千葉県安房の旅館「権兵衛」で、西洋史研究会の合宿中、「トミオカはいるか」と入ってきた6人の男におそわれ、助教授が死亡、学生2人が重傷、1人が軽傷。メンバーの17人に「トミオカ」という名字の人はおらず、また死亡した助教授も東大在学中に学生運動をしていたことはあったが、近頃はどのセクトにも繋がりを持っていなかった。革労協は「革マルの秘密メンバーを殲滅」という声明。
5.18−26日、韓国全羅南道の中心都市.光州で全斗喚軍事独裁打倒の反政府蜂起暴動発生。18日未明、全土戒厳令が敷かれた。金大中連行される。市民ぐるみの蜂起に発展、連日市街戦が展開された。数千人が犠牲になった。
5.22日、三里塚現地闘争(千葉・成田市三里塚第一公園)。
5.24日、三里塚「二期工事着工粉砕全国総決起集会」に3600名参加し空港周辺をデモ。
5.30日大平正芳.鈴木善幸の交代。大平は80.5.30日、新宿駅前で参院選初日の演説中、のどの痛みを訴え、31日未明、東京.虎ノ門病院に入院。6.12日心筋梗塞のため死去。同日伊藤正義官房長官が首相臨時代理に就任した。後継候補は本命中曽根康弘、対抗河本敏夫、ダークホース宮沢喜一が下馬評だった。自民党総務会は西村英一副総理に後継指名を一任したものの、3候補の調整がつかなかった。
6.21日、 社会主義学生同盟再建集会(東京・豊島区民センター)。社学同機関誌として『若きボリシェヴィキ』を発行。もともと社学同の理論機関誌は『理論戦線』だったが、同誌が戦旗・共産主義者同盟の理論誌となったため、1960年代、社学同早大支部の理論誌として発刊された『若きボリシェヴィキ』を理論誌名とした。
6.22日、光州蜂起連帯・サミット粉砕闘争(東京・清水谷公園)。
6月、初の「衆参同日選挙」。
7.9日、東京で伊藤臨時首相代理.カーター会談。
7.17日、意外な候補であった鈴木善幸が急浮上、首相指名された。鈴木内閣発足。
7.20日夜、練馬区高野台の路上で、豊島郵便局に勤める男性F(37歳)が、覆面の7、8人の男に鉄パイプで殴られ、28日に病院で死亡した。中核派の「革マルの活動家を殲滅した」という声明があった。
7月、国際主義派、日共(プロ革)と統合し、日共(行動派)結成。
8.3日、 戦旗・共産同政治集会(東京・新宿文化センター)。
8月、竹下登自民党選挙制度調査会長
8月、鈴木首相以下18閣僚で靖国神社参拝。
9月、革労協による大阪東成区路上内ゲバ事件。
革労協による「東成区路上内ゲバ事件」(9月、大阪)では、盗難車両を使って相手車両を前後からはさみ撃ちにして停車させた上、鉄パイプの先端に出刃包丁を取り付けた凶器で攻撃したことなどにみられるように、計画的で極めて凶悪、残忍なものであった。 (昭和56年 警察白書) |
9.21日、安保・日韓闘争(東京・清水谷公園)。
10.19日、三里塚東京集会(東京・代々木公園)。
80.9鈴木38.21
82.12中曾根39.31
87.12竹下30.20
89.6宇野22.40
89.9海部31.27
91.12宮沢31.22
93.8細川75.9
94.4羽田43.23
94.7村山40.31
96.1橋本59.16
98.8小渕25.48
2000.4森40.24
【中核派が革マル派の5名を一挙殲滅】 |
10.30日午前10時45分、大田区南千束の区立洗足池図書館前の路上で、10数人が乱闘しているのを通行人が見かけ、近くの派出所に届けた。警官が駆けつけると、路上には5人の男性が滅多打ちにされて倒れており、全員すでに死亡していた。5人とも頭を狙われ頭蓋骨骨折の即死状態で、辺りには鉄パイプなどが散乱していた。 |
12.2日、 三里塚松明デモ。
12.13日、日韓・三里塚をたたかう労学集会(東京・南部労政会館)。
12.16日、金大中氏らの救出を!日韓連帯闘争。
【1981年の動き】 | 「戦後史1981年当時」 |
1.1日、機関紙『戦旗』のタブロイド判化。新年号(425号)から。実際の発行は前年末。1974年以来の機関紙自力発行は、新宿区内のマンションの一室で和文タイプ・写真植字して版下作成、フィルム製版外注後、B4判の上質紙にオフセット印刷し、ホチキスで綴じるというものであった。1980年夏、東京都練馬区内に新たな印刷所を開設し全工程内製化、年末までにタブロイド判の新聞発行が可能となった。
1.20日、ロナルド.レーガン第40代大統領に就任。
3.1日、〜6 三里塚ジェット燃料輸送阻止決戦(千葉)。
5.4日、日米首脳会談粉砕闘争(東京・清水谷公園)。
6.5日、米空母ミッドウェー横須賀入港阻止闘争(神奈川県・横須賀臨海公園)。
6月、革労協では77年に書記長を殺害されてから「徹底報復を主張する軍事路線の狭間嘉明らの学生活動家出身グループ「狭間派」と、大衆闘争・労働運動を重視する佐々木慶明率いる労働者グループ「反狭間派」が対立していたが分裂した。
7.11日、革労協による7.11渋谷区本町内ゲバ殺人事件。
8.1日、戦旗・共産同政治集会(東京・豊島区民センター)。
8.28日、巻原発公開ヒアリング阻止闘争(新潟県巻町・町営グラウンド)
9月、第二次ブントの革命の旗派と紅旗派が統合し、共産主義者同盟(機関紙赫旗、通称「赫旗派」、議長・生田あい)を結成。同派は、第一次ブントの結成意思である「社共に代わる革命的労働者党再建」を掲げ、マルクス・レーニン主義の復権と、その下での「分裂から統合」を呼びかけることを党是とするブント再統合、「左派合流」の道が開始された。
10.11日、三里塚現地闘争(千葉県成田市・三里塚第一公園)。
11.3日、管制塔戦士奪還・二期決戦勝利集会(東京・南部労政会館)。
12.6日、右翼労戦統一粉砕総決起集会(東京・渋谷商工会館)。
12.13日、全国労働者総決起集会。東京・日比谷公園野外音楽堂。
【1982年の動き】 | 「戦後史82年当時」 |
2.7日、「三里塚二期阻止連絡会議」(略称:阻止連)設立総会。
2月、成田関連。石橋委員長代行、内田行動隊長辞任(話し合い問題で)
2.24日、 革労協が革マル派1名を殺害。2.24荒川区南千住内ゲバ殺人事件。
36.28日、三里塚現地闘争(ラルザック・フランクフルト国際連帯) 三里塚第一公園。
5.23日、反戦反核集会 ダイ・イン。反戦反核東京行動。米大統領レーガンの核軍拡に抗議しダイ・イン、など。
5月、成田関連。パイプライン工事完成。
6.18日、東京地裁で連合赤軍メンバーに判決が為された。永田洋子死刑、坂口弘死刑、植垣康博懲役20年。
1982年?月 第四インター、レイプ事件でDを査問(D自己批判拒否)
7.4日、三里塚現地闘争 三里塚第一公園。
7月、成田関連。「成田用水菱田工区」結成、用水問題はじまる。
8.1日、戦旗・共産同政治集会 東京・赤坂公会堂。
9.7日、教科書改悪断罪火炎ビン決起(対文部省・自民党本部)。
9月、第四インターが一坪再共有化提案?。四インター滝沢、一坪再共有化を島村良助に提案。
10.11日、三里塚現地闘争 千葉県成田市・三里塚第一公園。10.24日、反戦反核大阪行動。大阪城公園。
11.14日、東富士日米共同演習粉砕闘争 東富士ダム前。
11月、竹下登蔵相(中曽根内閣)
11.30日、成田関連。石井新二、実役に1億5千万を集める一坪再共有化提案。
12.16日、成田関連。実役、敷地内の反対で一坪再共有化案きまらず。
12.19日、改憲・核武装化阻止・二期決戦勝利労学総決起集会 江東総合区民センター。
12月、千葉港石油ターミナル完成。
12月、実役、敷地内の反対で一坪再共有化案きまらず。
12月、成田関連。査問側のA、B、Cもレイプで告発される
83年度予算案では、一般歳出がマイナスの中、防衛費だけは6.5%の突出、聖域化を強めた。
【1983年の動き】 | 「戦後史1983年当時」 |
1.9日、成田関連。同盟旗開き、石井新二ら「共有運動取り組みのお願い」配布。
1.11日、中曽根首相の韓国訪問阻止闘争。
1.27日、実役、敷地内,「お願い」配布を批判。
2.12日、石井新二ら「反対同盟大地共有委員会」名で全国に募集開始。
2.27日、成田空港反対同盟(三里塚芝山連合空港反対同盟)が北原派と熱田派に分裂。支援党派も系列化される。中核派が北原派を、第四インターは熱田派を支援。
2.28日、実役、議題は再共有化、石井の北原解任動議で流会。
3.19日、三里塚反対同盟旗開き。3.27日、三里塚現地闘争 空港二機用地内・横堀ヤグラ前。
5.22日、韓国光州蜂起3周年、安保・日韓闘争勝利、中曽根政権打倒集会 東京北区・滝野川会館。
6.19日、反安保・中曽根打倒6月行動 東京渋谷区・代々木公園。
7.5日、ニュージャージー寄港阻止・パイプライン粉砕のゲリラ・パルチザン戦闘(6か所)。
7.31日、戦旗・共産同政治集会 東京・牛込公会堂。
8.7日、パイプライン供用開始阻止闘争。千葉市稻岸公園。
9.15日、三里塚現地闘争 芝山町・横堀ヤグラ前。
9月、赫旗派中央委少数派、首都圏協議会を結成。
9月、成田関連。第四インターA、B、C、Dを除名し、自己批判
83年度政府予算案 一般歳出が前年比マイナスの中で、防衛費だけ6.5パーセント突出。中曽根内閣。
9.24日、原水協全国常任理事会、原水爆禁止運動連絡委員会問題、意見不一致。83世界大会準備委員会の組織問題についての「5項目の確認」。
9.26日、83世界大会準備委員会、原水爆禁止運動連絡委員会の組織化、原水協、平和委の反対で不成立。
10月、田中元首相一審実刑判決。
11.6日、レーガン来日阻止闘争。日比谷野外音楽堂〜常盤橋公園。11.9日、レーガン来日阻止羽田現地闘争 本蒲田公園。
12.18日、ヨーロッパ反核決起連帯労学総決起集会 四谷公会堂。
【1984年の動き】 | 「戦後史1984年当時」 |
中核派による第四インターへの内ゲバ事件が発生している。これは成田空港反対同盟の分裂による支援党派の二分解に起因していた。中核派が北原派を応援していたが、熱田派を支援する第四インターを脱落派と決め付けての攻撃だった。
1984.1月、:「一坪再共有化運動」をめぐる対立から、中核派が第四インター派を「公団に土地を売り渡そうとする新しい型の反革命」と規定して全国一斉に第四インターの五ヶ所のメンバー宅を一斉に襲撃、一人に頭蓋骨陥没させる重傷を負わせた。
2.14日、麻原彰晃(本名・松本智津夫)が後に「オウム真理教」となるヨーガ道場「オウムの会」(その後「オウム神仙の会」と改称)を始めた。
2.17日、三里塚空港突入ゲリラ戦、用地内・古込警備員詰め所を粉砕。
【唐牛健太郎逝去】 |
1937(昭和12)年2.11日−1984(昭和59)年3.4日。 |
1937年、唐牛は函館に生まれた。北大教養学部の自治会委員長となり、ブント(共産主義者同盟)に。59年、全学連委員長に担ぎ上げられ、60年安保闘争を指導した。その後は、右翼の田中清玄の世話になった時期も。ヨットクラブ、居酒屋経営、漁船乗組員、工事現場監督などをしながら全国を転々とした。1984年、直腸がんのため死去した。「石原裕次郎よりかっこいい」と言われた風貌。きっぷがよく男気があったという。闘争に敗れた唐牛は「無頼」、「放浪」の道を選び破天荒な人生となった。 |
3.7日、前田俊彦、福富節男、近藤悠子、吉川勇一氏の四氏が記者会見を行い、348氏の連名による4項目からなる声明を発表した。この声明は、三里塚飄鰻亭の前田俊彦氏の呼びかけに端を発している。
声 明
|
3.14日、芝山町議会の「二期工事早期着工要請決議」に、反対同盟両派が抗議行動を展開。4名が逮捕される。4月、中核派が、成田空港と羽田空港に迫撃砲弾を撃ちこむ。弾は重さ6kg、飛距離1km以上あり、弾道を安定させるための羽が4〜8枚つけられていた。
3.23日、三里塚現地闘争。竹槍街道。三里塚現地闘争 横堀現闘本部前。
4.6日、自衛隊のリムパック参加を許さない!。
【「原水協で何がおこったか」(長崎肇.日中出版)】 |
この年、原水協事件が発生している。解明を要する事件であるにも関わらず、正確な事件の概要が伝えられていない。1955年の原水協設立以来、一貫して平和運動の先頭で精力的に戦ってきた吉田嘉清代表理事がその座を解任されるという事件が起こった。これから見る通り、日共の大衆団体への人事に対する公然たる介入であり、ここでも宮顕の号令一下の音頭取りが見られ、胡散臭さが付き纏っている。宮顕という御仁は一体ほんとに何をしてくれるのだろう。毎度述べているが、この御仁が左翼運動の前進のために寄与したことがあれば、一つでもよいから教えて欲しい。私には少しも見当たらない。左翼運動に場違いな人物のように思われる。 事件の経過はどうだったのか。吉田氏はれっきとした党員であったが、何故に赤旗で非同志的に掣肘され続けられたのか。70年代初頭の新日和見主義事件同様に赤旗キャンペーンだけでは到底真実に辿れない。見誤ってならないことは、吉田氏の主張こそが正義で有ろうとも同氏のパージは行われたであろうということである。なぜなら、同氏らのリーダーシップが戦う自主的な主体性を維持した団体構築運動であったが故に。原水協事件は、ここでも戦闘的左翼あるいは又そうでなくてもその可能性を秘めた大衆団体の「双葉の芽を摘む」事件であったのではなかろうか、という観点から以下考察する。 1977年「5.19合意」により、1963年以来の14年間の運動の亀裂を解消することに成功していた。2.6日、核巡航ミサイル.トマホークくるな国民連絡センター発足。原水協、平和委員会、安保破棄中央実行委員会が提唱。3.30日、84原水爆禁止世界大会準備委員会発足。 この流れに対して、4.5日、赤旗無署名論文「統一の路線と分裂の路線」が発表される。4.8日、日本平和委員会第4回常任理事会、次期大会で役員は留任を原則と決定。4.9日、84世界大会準備委員会第一回運営員会。平和行進の名称、主催、コース、スローガン等を確認する。実施方法については不一致となる。 4.12日、世界大会準備委員会事務局会議。平和行進実施方法について協議、案作成。事務局案は結局まとまらなかった。特に団体旗を認めるのかどうかで議論が白熱した。総評と原水禁が団体旗の取下げを主張し、平和委員会と原水協が自由を主張してデッドロックに乗り上げた。特に問題になったのは、統一労組懇の旗であり、総評.県評がこれに強硬に反対するという背景があった。つまり、労働運動内部の問題が、反核平和運動にそのまま持ちこまれたという事態になった。4.24日、生協連や地婦連などの7市民団体が、平和行進実施方法に団体旗自粛を織り込むことを含む調停案で合意。翌25日、原水協−平和委員会、原水禁−総評に申し入れた。事務局団体会議も、この申し入れを検討。4.26日、原水協−平和委員会は無条件受諾。大同につき小異を捨て、出来るだけ一致点を拡大するという政治的観点から対応した。4.27日原水禁−総評も受諾。 4.28日、84世界大会準備委員会事務局会議。5.8日84世界大会準備委員会第二回運営員会。5.14−15日、原水協第52回定期全国理事会。市民団体の申し入れの受諾を満場一致で可決。原水協の役員は任期一年で毎年開かれる全国理事会で選出されるというのが会則第8条であった。これに基づき、草野信男代表委員、吉田嘉清代表理事らを満場一致で選任した。この時のこととして、佐藤行通問題も発生している。同氏は、反核平和戦略研究会を主催していたが、小森氏からこれが分派だと執拗に攻撃され、それが翌日の赤旗に出るという状況があった。問題は、果たして、大衆運動の中に分派問題なぞ原理的に問い得るのかということになるが、赤旗がこれを支援していることを考えれば代々木ではそう解釈しているということになる。暫し各自瞑して愚考せよ。 5.15日、日本共産党個人選出理事、津川久義から小森良夫に交代。5.18日、共産党幹部会が、原水協に「誤りや否定的傾向」があり、「その克服が内外で急務」と指摘。5.20日、赤旗が、「原水爆禁止運動の根本問題」を発表。5.26日、統一労組懇、新婦人ら原水協に団体旗自粛の撤回要求。5.27日核トマホークくるな全国統一行動、横須賀中央集会など9箇所。5.28日、84世界大会準備委員会第三回運営員会が開かれ、団体旗問題で激論。5.29日、国民平和大行進実行委事務局団体会議で、「口頭了解事項」破棄通告を決定。 6.1日、日本平和委員会運営員会の森賢一事務局長が突然辞意表明した。この時森氏は再任が予定されており、定期大会を目前にした前日に辞表を提出することになった。これを「森解任劇」と云う。その経過はこうであった。森氏は、党中央委員会に呼ばれ、小島優常任幹部会員.書記局次長から、概要「平和委員会などの大衆団体の役員を一切辞め、それは自分から辞めた形を取れ」と申し渡された。公然たる大衆団体への人事の介入であった。 6.2日、日本平和委員会第34回定期全国大会。小笠原英三郎会長、長谷川正安理事長辞意。三役空席のまま閉会。この時、憲法学者の長谷川氏は、「判決が先にあって後からそれを取り繕うというようなことは、大衆団体としての自殺行為ではないか」との感慨を述べていた。小笠原氏は、「会長.理事長にまったく何の相談もなく、何かこういった状況の中で突如としてこういったことになることにつきましては、やはり、とても会長としては責任を持てない」と辞意の理由を明らかにした。6.5日、国民平和大行進実行委員会総会。 6.8日、赤旗が、「平和運動の新しい脱皮への一歩−平和委員会大会論議にみる」で、森事務局長の辞意は当然と論評。6.9-10日、平和委員会第二回全国理事会。人事問題だけの会議として二日間招集された。非公開で44都道府県から代表が参加した。貴重な報告が為されている。概要「あまり顔を見たことのない、出てきたことのないような人が、非常に多く出てきており、森氏斬るべしと気炎をあげていた」。小笠原英三郎会長、森賢一事務局長が出席していたところ、近藤一雄安保破棄中央実行委員会事務局長や小森良夫党中央委員が「任務放棄をした会長、事務局長をなぜ呼んだのか」等々発言を繰り返し、退席を求めた。女性事務局員が「森解任劇」について発言を求めると、日高教の幹部理事が「従業員黙れ」と発言したと伝えられている。見識の疑われる日高教幹部の発言ではある理事長に福山秀夫副理事長、事務局長に宇藤義隆事務局自重選出、会長空席。 6.13日、原水協全国担当常任理事会が、団体旗自粛口頭合意のまま破棄通告の経過承認。6.24日、反トマホーク行動デーについて原水協不一致を確認。6.15日、84世界大会準備委員会第四回運営員会。平和行進をめぐり激論、反トマホーク行動デーについても一致せず。6.16日、赤旗記事、「吉田氏が重大発言−平和行進の団体旗問題で」を掲載し、吉田代表理事の発言を批判。 6.17日、市民団体7団体が合意破棄は認められぬを内容とする、「市民団体の見解」発表。6.19日、原水協草野代表委員、日本共産党を離党。総評「総評の見解」文書発表。6.21日、原水協常任理事会。「代表理事を辞任するよう」党の決定が為され、小森氏より概要「党の決定としてであること。対外折衝をやめること。準備委員会の役員をやめること。代表理事をやめること」が言い渡された。これより吉田代表理事に辞任要求カンパニアが発生した。未だ党員でもあるにも関わらず、草野.小森と呼び捨ての糾弾が始まった。この非同志的非愛精神はどこから由来しているのだろう。同氏はこれを拒否した。 6.22日、原水協、代表委員名で第53回全国理事会開催案内発送。規約上、会則第14条で、全国理事会の招集権は9氏の代表委員に有ったが相談も承諾何もない投函であった。既に5月の段階で定期全国理事会が開催されたばかりであるということと、雲行きが吉田の解任問題であったことから、代表委員の大半は「現状況下での開催には反対」の立場を明確にしていた。しかし、少なくとも開催に同意した代表委員が一人たりともいなかったにも関わらず、代表委員全員の連盟を騙って会が招集された。異常事態の発生であるが、この民主主義的手続きが踏みにじられたやり方自体胡散臭い。 6.23日、草野氏ら代表委員6名の名で、今回の全国理事会召集は会則の重大な侵犯であり、違法行為であり、文書の偽造であるとして、「開催案内」を無効とする「第53回全国理事会について」発送。6.24日、反トマホーク行動デー。6.26日、原水協(赤松事務局長)、84世界大会準備委員会田中里子責任者に公開質問状。 6.28日、原水協第53回全国理事会。こうして、先の定期の理事会からわずか一ヶ月余で変則理事会が招集された。会則を改正し、代表委員制を廃止し、役員を改選するという暴挙が決行された。吉田代表理事が解任された。これをクーデターといわずしてどういいえよう。広島県原水協の理事長佐久間澄氏は、「政党(共産党)が大衆団体へ過剰な介入をした結果が今回の事態だと思う」と述べたが至当というべきであろう。長崎県原水協の理事長森正雄氏も同様の態度を見せたが、原水協理事に推薦されないという形でポストからパージされていくことになった。6.29日、84世界大会準備委員会田中里子責任者名で原水協(赤松事務局長)に回答。 7.7日、長崎.広島間平和行進スタート。7.9日赤旗、「原水禁運動で、なぜ一部の党員が重大な誤りにおちいったか」。7.10日、84世界大会準備委員会運営委員会、原水協二つの代表問題で紛糾。7.13日、市民団体の一部が草野.吉田両氏と赤松事務局長それぞれと会談。 7.16日、赤旗に宮本議長の「原水禁運動と我が党の立場」談話が掲載された。これを見るに、概要「残念ながら今起こっている問題というのは、民主運動にあるまじき問題です。いろんないきさつはありますが、原水協の全国理事会で選んだ新執行部、それらを認めるか認めないかが問題にされ、選任されなかった一部の者が乗り込んで、自分が真の代表だといって頑張っている」という認識を示している。以上見てきた経過からすれば、まるで盗人猛々しい説教強盗の論理であることが知れる。「他の団体の人事問題に干渉して、これを認めないという議論をもてあそんで事実上の干渉を続けることは、自分が持ち上げた石で、大きく自らの足をくだく、そういうことになるということを私は率直に警告したい。そこから起こる一切の困難、一切の紛糾、それは、そういう不当な干渉をやった人が自ら負うべきものである、ということも付け加えたい」とも云う。こういう事実逆転の詐術的物言いが再びここにも登場しており、あまつさえ品の悪い例えで恫喝さえしている。この恫喝も勝てば官軍式の言いたい放題の感がある。実際にそれなりのことをすることを思えば、この権力の由来はどこからきているのであろうと、私は訝る。 7.17日、原水協常任理事会が「草野、吉田両名に対する問責決議採択」。7.20日、84世界大会準備委員会運営委員会、「草野、吉田両氏、同委員会の代表委員、運営委員につき『辞意』を中野好夫代表委員を通じて表明。 |
5.4日、60年安保闘争時の全学連委員長・唐牛健太郎氏がガンの為逝去した。
5.13日、反トマホーク全国キャラバン隊、長崎県佐世保を出発。
5月、マル労同、社会主義労働者党に改称。
6.17日、トマホーク配備阻止横須賀集会。横須賀臨海公園。
6.23日、開港以来の国際旅客5千万人達成。
7.1日、三里塚事業認定粉砕東京行動 東京・芝公園。
7月、中核派が再び一斉に三箇所の第四インター派メンバー宅を襲撃、一人に片足切断の重傷を負わせた。他にも「熱田派」農民や第四インター派メンバー、あるいは「一坪共有者」の自宅や職場を「訪問」または電話を掛けて「次はお前だ」などと組織的に恫喝を行った。9.10日未明、成田空港改稿の見かえり事業である成田用水事業の施行業者3社の事務所、資材置場に放火、汚物が撒かれる事件があった。八日市場市の建設会社資材置場が放火され全焼。佐原市の建設会社にはバキュームカーが乗りつけられ、ホースで汚物がまかれた。また残る1社の資材置場でも放火があり、報道機関に「共産同 戦旗派」を名乗る男から犯行声明があった。
7.16日、全斗喚来日阻止ゲリラ・パルチザン戦闘(全国10か所)。
7.29日、戦旗・共産同政治集会 東京・四谷公会堂。
8.5日、成田用水粉砕菱田現地闘争 横堀現闘本部前。8.28日、運輸省、二期着工予算を計上。
9.2日、全斗喚来日阻止闘争 東京・芝公園。9.6日、全斗喚来日阻止現地闘争 東京・仲蒲田公園。
9.13日、芝山町の土建会社倉庫に不審なリュックが置かれているのが見つかる。名かには乾電池と布きれがはいっていた。また佐原市の別の会社にもショベルカー、ブルドーザーの運転台に時限発火装置のようなものが置かれているのが見つかった。9.19日、自民党本部炎上事件。二期工事開始発言に対しての攻撃であったとされる。10.1日、:中核派が、佐原市にある成田用水事業の請負業者社長宅を放火。社長宅のほかに無関係の近接した住宅二棟も全焼。
12.22日、佐藤満夫(さとう・みつお)。ドキュメンタリー映画「山谷(やま)――やられたらやりかえせ」撮影中、右翼暴力団・国粋会金町一家西戸組組員に刺殺さる 映画監督 山谷支援者 享年37
【1985年の動き】 | 「戦後史1985年当時」 |
2月、竹下登創政会旗揚げ。田中角栄元首相脳梗塞で倒れる。
2.5日、和光大学構内で内ゲバ。中核派8人、革マル派1人が負傷した。
5.7日、戦旗・共産同、千葉県山田町の運輸省航空局のレーザーサイトに約五十メートル離れた山中から時限式発射装置により火炎ビン三発を発射、二発が防護壁に命中。埼玉県所沢市の運輸省東京航空交通管制部ビルに約九十メートル先から火炎ビン二発発射、敷地内の樹木をこがした。
5.20日、日本赤軍岡本公三、パレスチナ・ゲリラとイスラエル側双方の捕虜交換によって、イスラエルの刑務所から14年ぶりに釈放され、日本赤軍のもとへ。
7月、よど号赤軍から、中曽根首相、藤波官房長官あて「無罪帰国」について政府側の意向打診の書簡届く。
8.15日、戦旗派が中曽根首相の靖国神社参拝に抗議!
9.4日、よど号赤軍メンバー吉田金太郎、ピョンヤンで肝臓病のため死亡。
9.29日、成田用水辺田会戦。
11.10日、三里塚現地闘争。
12月、赫旗派、建党協議会推進グループ(生田グループ)追放。
【Re: 中核派の分派闘争に関する貴重情報 】 | |
「投稿者 奥平広康 日時 1998年 6月 01:回答先: 中核派 70年代の混乱 投稿者 けぱら
日時 1998年 5月 31日」、「投稿者 資本主義のゴジラ的モスラ的展開日時 1998年 6月 02日:回答先: Re: 中核派 70年代の混乱 投稿者
奥平広康 日時 1998年 6月 01日」、「投稿者 奥平広康 日時 1998年 6月 04日 :回答先: Re: 中核派 70年代の混乱 投稿者
資本主義のゴジラ的モスラ的展開 日時 1998年 6月 02日」によれば次のようになる。
|
【1986年の動き】 | 「戦後史1986年当時」 |
1月、赫旗派首都圏協議会、赫旗派規約・綱領を清算し、赫旗派首都圏委員会と改称。
1.13日、山岡強一(やまおか・きょういち)。佐藤監督の遺志を継いでドキュメンタリー映画「山谷(やま)――やられたらやりかえせ」を完成(1985年12月)させた直後、国粋会金町一家金竜組組員に射殺さる 山谷現地闘争委員会 享年45。
1.20日白昼、京大教養学部構内でオルグ活動中の中核派全学連委員長代行福島慎一郎氏(享年25歳)が待ち伏せしていた革マル派数名に襲われて後頭部乱打により死亡。革マル派は「中核派『軍団』の敵対を完全に粉砕した」などと犯行を自認した。中核派声明は次の通り。 「反革命カクマル、この憎しみで余りある日帝・中曽根の手先ファシストどもは、わが中核派のほこる京大生、全学連副委員長代行の福嶋慎一郎同志を虐殺するという、絶対に許すことのできない凶行をおかした。わが、革共同中核派は、満身に燃えたぎる憤怒と憎悪を持って、この白色テロルを徹底弾劾し、血の復讐を徹底的に全面的に貫徹することを宣言する」。
この頃から中核派と革マル派に関する内ゲバ事件自体は急速に減少する。それにかわって深刻になったのが革労協の内部抗争で、これは現在まで続き、10名以上の死亡者を出している。
2.25日、ひそかに帰国していた日本赤軍メンバー山田義昭が警視庁出頭、逮捕。
3.25日、戦旗・共産同、東京・千代田区内路上に駐車中の乗用車のトランクに設置された時限式発射装置から皇居に向け火炎弾が発射され、二発が皇居内に落下、一発が発火した。皇居への初の直接的ゲリラ事件。また、港区の路上の乗用車のトランクからもアメリカ大使館へ向けて火炎弾三発が発射されたが、被害なし。
4月、創政会解散。
4.29日、天皇在位60年式典粉砕集会。
5.4日、東京サミット粉砕闘争。
5月、赫旗派・生田グループらが、「共産主義の建党協議会」を発足させる。
5月、インドネシア・ジャカルタのカナダ、アメリカ、日本大使館への反帝国主義国際旅団の迫撃弾攻撃で、現場近くのホテルの部屋から日本赤軍城崎勉の指紋検出。
7月、竹下登党幹事長。
9.1日、中核派が大阪、兵庫、埼玉の6ヶ所で、国鉄労組幹部宅を襲撃。この同時多発襲撃事件で、革マル派且つ真国労大阪地本書記長・前田正明(37歳)を兵庫県伊丹市で就寝中を襲い乱打死亡させた。夫人にも全身打撲の重傷を負わせた。 他8人の組合幹部とその家族が重軽傷を負った。 当時、国鉄では、「分割・民営化」を支持する真国労・勤労・鉄労・全施労と、これに反対する中核派の対立が続いていた。中核派は5月に襲撃を予告していた。9.2日、警察は中核派の関西拠点を殺人未遂容疑で家宅捜索し、犯行を認めるビラや鉄パイプを押収した。
9.26日、東京高裁は連合赤軍メンバーに対する判決。控訴を棄却し一審通りの永田.坂口死刑、植垣懲役20年を言い渡した。
10.14日、「戦旗・共産同」(旧・日向派又は荒派)が火炎瓶ゲリラ闘争展開。東京・千代田区の検察庁合同庁舎南側に駐車中の乗用車のトランクの時限式発射装置から火炎弾三発を国会方向に発射させ、その周辺や約二百五十メートル先の路上に落下した。又、首相官邸方向にも別の乗用車から三発発射され、約200m先のビル屋上などに落下したが、いずれも被害なし。
10.20日、成田空港反対同盟北原派の集会。逮捕者241名。
11月、中曽根政権が国鉄改革関連法を成立させた。
12月、松本礼二死去により「遠方から」派消滅。
旧蜂起左派や旧神奈川左派の活動家を中心にプロレタリア通信派結成
【1987年の動き】 | 「戦後史1987年当時」 |
【中曽根的なるもの政治としての在日米軍労務費特別協定を閣議決定】
1月、在日米軍労務費特別協定を閣議決定。
2.23日午前7時頃、茨城県茎崎町の路上で、出勤途中の動労中央本部副委員長が、待ち伏せしていた白、青色ヘルメットの6人くらいの男に襲われ、鉄パイプ、バールなどで滅多打ちにされ両手両足骨折の重傷。中核派が犯行を自認。
2.24日、1984年2月に設立された麻原彰晃(本名・松本智津夫)のヨーガ道場「オウムの会」が、東京都渋谷区において、「オウム神仙の会」を改称し、宗教団体「オウム真理教」が設立された。また、同年11月にはニューヨーク支部も設立。1989.8.25日、東京都に宗教法人として認証された(登記上の主たる事務所は東京都江東区亀戸の新東京総本部)。宗教法人として認可されて以降、日本全国各地に支部や道場を設置。ロシアやスリランカ等海外にも支部を置いていた。1989年当時には約1万人程度の信者が存在していたとされる。
麻原はチベット亡命政府の日本代表であったペマ・ギャルポと接触し、その助力によって、2.24日ならびに1988.7.6日にダライ・ラマ14世とインドで会談した。麻原側は両者の会談の模様をビデオならびに写真撮影し、会談でダライ・ラマ14世が「日本に真の仏教を広めなさい」と麻原に告げたとしてオウム真理教の広報・宣伝活動に大いに活用した。ペマ・ギャルポはその後まもなくオウム真理教との関係を絶って積極的に対立するようになり、チベット亡命政府に対しても今後は麻原と関係を持たないように進言した。
ここで、オウム教義を確認しておく。オウム真理教は、仏教原理を求め、原始ヨーガ、原始仏教探索に向かう。その結果、パーリ仏典を土台に、チベット密教の技法を取り入れるに至り、「本当の正しき仏教」を獲得したとする。「宗教は一つの道」として、全ての宗教はヨーガと仏教的宇宙観の一部に含まれると説き始める。これにより、儒教、道教、キリスト教、ゾロアスター教等ありとあらゆる宗教、神秘思想を包含する「真理」を掌中にしたとして、追求するとユダヤーキリスト教の創造主としての神を梵天(オウム真理教では”神聖天”と訳す)とし、キリスト教の終末論も仏教的に読み解く。「実践宗教」であることが強調される。
こういう教義を持つオウム真理教の独特の修行方法が編み出され、イニシエーションから始まり、最終地点まで導くグル(霊的指導者)を目指す階梯が用意される。具体的な修行法としては、出家修行者向けには上座部仏教の七科三十七道品、在家修行者向けには大乗仏教の六波羅蜜、またヨーガや密教その他の技法が用いられた。修行による苦悩からの解放を重視し、欲望、煩悩を超越する解脱を目指す。主宰神はシヴァ大神で、「最高の意識」を意味する。インド神話やヒンドゥー教にも同名のシヴァ神が登場するが、シヴァ大神の化身の一つに過ぎないとされる。教祖・麻原彰晃はシヴァ大神の弟子であると共にシヴァ大神の変化身とも見做された。
特徴的な理論として、ポア理論を生みだした。それによると、「ポア(ポワ)」とは「意識を高い世界へと移し替えること」であり、生まれ代わりによる転生をも「善導」することになる。死の際の意識の移し替えが狭義の「ポア」で、「より高位の世界へ意識を移し替え転生させる為に積極的に死をもたらす」ことになる。つまり、「ポアなる言葉の下に殺戮を正当化する」ことになる。このボア理論により次々と奇怪な犯罪に手を染めていくことになった。
3.6日、戦旗・共産同、千葉県芝山町から新東京国際空港公団工事局に向け時限式発火装置から火炎弾二発が発射されたが、工事局まで届かず被害なし。
【中曽根的なるもの政治としての国鉄分割・民営化とその後の労使紛争】
4月1日、JR六社発足。4月14日、国鉄民営化。JR7社(北海道、東日本、東海、西日本、四国、九州、貨物)が誕生。「国鉄改革三人組」と云われた
松田昌士はJR東日本、井出正敏はJR西日本、葛西敬之はJR東海の社長に就任する。
民営化後、旧国鉄の労働組合各派は各様に対応した。穏健派の鉄道労働組合(鉄労)は当局に協力した。1970年代のマル生反対闘争を牽引し、国労と共にスト権ストを闘ったことを自負する国鉄動力車労働組合(動労)は方針を急転させ当局との協調路線に向かった。
これについて筆者は思う。この時の動労の最高指導者は革マル派幹部として労対を受け持ってきた松崎である。つまり、革マル派は、国鉄民営化反対闘争を組織せねばならない肝心な時に裏切ると云う同派の履歴を又もや刻んだことになる。これを思えば、革マル派とは何者なのか、左派運動ネ圏に位置づける党派なのか解体派なのか、本来はこう問われるべきであろう。一体、日共と云い革マル派と云い、連中の運動で左派運動に寄与したものが一つでもあるだろうか。
他方、国鉄労働者組合(国労)は唯一翻弄される。国労組合員の多くは「人材活用センター」に収容され、本来の職務をさせず、草むしりなどの雑用を長期間強いられることになった。これを「日勤教育」と云う。10.9日、国労は臨時大会を開き、五十嵐中央執行委員率いる非主流派(旧社会党系左派)と、徳沢中央執行委員率いる反主流派(共産党系)の激論となり、採決の末、分割・民営化反対路線が採用された。山崎俊一委員長は退陣に追い込まれ、後任として盛岡地方本部から六本木敏が選出された。これを修善寺大会と云う。主流派である分割・民営化容認派(右派)は国労を脱退し、やがて鉄産労連の結成に向かうことになる。
国労は矢面に立たされ、脱退が相次ぎ、20万人以上の組合員が脱退し、一挙に少数組合に転落した。踏みとどまる国労員に対して再雇用拒否通知が出され、不採用者は5009名に上る。他方、国労を脱退した社員はその多くが採用された。国労組合員らの大半は本務から左遷され、慣れないキヨスク・立ち食い蕎麦屋・パン屋などの店員、自動販売機の補充などに回された。この経緯で、組合員の自殺は200人を超えている。
鉄労と動労は合同して鉄道労連(会長は鉄労出身の志摩好達)を結成した。JR全社で99%以上が採用された。不採用者は29名。残る1%の動労幹部組合員は、名目は不採用だったがJR子会社取締役になっているケースが多かった。民営化後は略称をJR総連とした。
新会社に引き継がれず、また他の会社に再就職できなかった(あるいは、しなかった)国労組合員は、国鉄清算事業団に移された。1990年の清算事業団解雇時に1047名(国労組合員以外を含む)が残っていた。国労組合員は全国で36の国労闘争団を結成し、動労千葉、全動労の不採用組合員と共に、民営化に伴う措置を不当労働行為であるとし地元の地方労働委員会に救済を申立てた。地方労働委員会は組合員側の主張を認め、JR採用を認める救済命令を出すが、JR側が拒否し、法廷闘争が続いていくことになる。
5.18日午前7時20分頃、東京・武蔵野市内の駐車場で、動労拝島運転区渋い院長がJR武蔵境駅まで歩いて出勤中、ヘルメット姿の5、6人の男にハンマー、鉄パイプなどでおそわれ、両手両足骨折の重傷。翌日、中核派は「動労=カクマルへの正義の赤色テロである」と記載したビラを都内数カ所に巻き、犯行を自認。
7月、経世会結成
7.12日、戦旗・共産同、千葉、茨城、大阪など全国13ヵ所の成田工事関係の建設会社に時限発火装置を仕掛け、ダンプカーなどを30数台を焼く。
8.29日午前7時半頃、千葉県船橋市の路上で、東日本鉄道労連、・千葉支部副委員長が自転車で出勤途中、ヘルメット姿の数人の男で鉄パイプで襲われ、両手、両足、顎骨折の重傷。中核派が犯行を自認。
10月、竹下登、中曽根康弘首相から後継総裁指名を受ける。
10.29日、戦旗・共産同、三里塚空港と空港公団工事局に向け千葉県芝山町から金属塊弾各二発が発射された。被害なし。
10.30日、革労協が革マル派だとしてJR東日本職員を襲撃。JR東日本赤羽駅構内内ゲバ事件。「警視庁 1988」は次のように記している。 「62年10月30日朝、JR東日本赤羽駅構内において、出勤途上のJR東日本の職員が、マスク、帽子等を着用した集団にハンマーや鉄パイプ等で乱打され、頭がい骨や両足を骨折するなどの重傷を負った。この事件は、人通りの多い出勤時間帯の駅通路で待ち伏せた上での大胆な犯行で、最初から頭部を重点に攻撃し、背広姿等の目立たない服装で人込みに紛れて逃走するという極めて計画的なものであった。革労協狭間派は、「反革命革マル…を徹底せん滅し、再起不可能状態を強制した…」などと犯行を自認した」。
11月、竹下内閣発足。
11.8日、二期工事阻止! 人間の鎖で空港を包囲しよう。
11.12日、用地内・木の根を守れ!。
11.24日、日本赤軍丸岡修を東京都内で逮捕。四ヵ月前から帰国していた。
1987年現在、新左翼は、5流27、8派。その活動家総数は約14400名、動員総数約19900名、シンパ層を含めた総勢約35000名と公安当局調査。各党派別勢力は、中核派3420名、革マル派1930名、第四インター1010名、共産同諸派系1640名、革労協解放両派1100名、その他5330名。革共同系−中核派、革マル派、第四インター、ブント.共産同系−戦旗.共産同、共産同戦旗派、蜂起派、社会主義労働者党、赤軍派、革労協系−解放.狭間派、同労対派、構造改革派系−プロ青同、フロント、日本の声、日共左派系−日本労働党、日本共産党行動派
【1988年の動き】 | 「戦後史1988年当時」 |
1月、マル青同解散、民主統一同盟結成。
3.3日、中核派が、群馬県渋川市で革マル派且つ東日本旅客鉄道労組高崎地本委員長を就寝中を襲い死亡させた。
5.10日、3年前からひそかに帰国していた赤軍メンバー柴田勝弘、神戸市内で逮捕。
6.7日、日本赤軍泉水博をフィリピン・マニラで逮捕。
6月、自民党税調が3%の消費税導入を決定。
7.1日、京大教養学部構内で内ゲバ。中核派8人が負傷した。
7月、海老原事件以来の死者。計83名。
7月、リクルート.コスモス未公開株疑惑表面化。
8.15日、靖国・天皇制はいらん。
9.22日、オウム真理教での修行中に、富士山総本部に来ていた在家信者が死亡。遺体は、護摩壇で焼かれた上に、旧上九一色村の精進湖へ遺棄された(在家信者死亡事件)。
10.9日、天皇制はいらん。
11月、天皇制はいらん・東京大学で。
11月、自民党が衆院税特別委で税制改革法案を単独強行採決。
11.10日、赫旗派首都圏委員会、赫旗派の分派に終止符を打ち、首都圏委員会派と改称する。
12月、消費税などの税制改革法案が成立。竹下改造内閣発足。
【1989年の動き】 | 「戦後史89年当時」 |
1月、昭和天皇逝去
2.8日、中核派が、革マル派だとしてJR組合幹部を殺害。「東鉄労水戸地本組織部長殺害事件」。「」は次のように記している。 「中核派は、平成元年2月8日に「東鉄労水戸地本組織部長殺害事件」を、革労協狭間派は、6月25日に「革労協狭間派元最高幹部殺害事件」、12月2日に「JR総連総務部長殺害事件」をそれぞれ引き起こした。これらの事件は、被害者を路上で待ち伏せしたり、就寝中を襲撃したもので、いずれもハンマー、バール等の武器を用いて多数で全身を殴打するという残忍な殺人事件であった」。
2.10日、オウム真理教最初の殺人事件、男性信者殺害事件発生。
2月、江副リクルート前会長らを逮捕。
2.28日、中核派が、茨城県那珂町の路上でJR東鉄労水戸地本組織部長を襲い死亡させた。
2月、昭和天皇の大喪の礼
4月、消費税導入
竹下登秘書青木伊平が自殺。
【革労協の内部抗争】 |
6.25日、解放派狭間派の幹部永井啓之が自宅から連れ出され、茨城県牛久市の県道下のトンネル内に寝袋に入れられて死んでいるのが発見された。襲撃した犯人はあらかじめ付近の電話線3本を切っておき、永井方のベランダに梯子を架け、侵入したと見られる。解放派内の内々ゲバと判明。 永井は元革労協(狭間派)の最高幹部であり、実質ナンバー2だった。「反狭間派」と別れた同派は狭間・永井を中心に活動していたが、強硬な軍事路線をとる狭間と、大衆闘争で組織を拡大していこうとする永井との間で新たな対立が生まれ、永井は除名処分を受けていた。このことから当初から内ゲバによる殺人事件と見られた。 |
7月、参院選で自民惨敗
7月、三里塚芝山連合空港反対熱田派の最大支援党派戦旗・共産同、熱田派と決別。
11.4日、坂本堤弁護士一家失踪事件発生。
11.9日、ベルリンの壁崩壊。
11月、解放派最高幹部狭間嘉明が他のゲリラ事件などの容疑とともに逮捕された。同派では内部対立が深刻化。11.7日北海道帯広市で同派の女性活動家が列車内で腹を切って死亡自殺した。
12.2日、解放派が埼玉県大宮市の路上でJR総連総務部長を襲い、死亡させた。
12.27日、赤軍派元議長塩見孝也氏が刑期満了で出所。
これより後は、「第10期その2、戦後学生運動の考察/90年代の学生運動」に記す。
(私論.私見)