第4期その2の2 「トロツキズム運動の革共同生成過程、分裂過程考」

 更新日/2023(平成31.5.1栄和改元/栄和5)年.3.12日

 これより前は、「第4期その2の1、トロツキズム運動の誕生過程考」に記す。

 (れんだいこのショートメッセージ)
 日本でのトロツキズムの発生過程を詳論した論稿に「日本革命的共産主義者同盟小史」がある。「第4期、全学連の再建期、新左翼(トロツキズム)の潮流発生、ブント系全学連の誕生」と同時代的な動きであるが、本編に取り入れると却って煩雑になるので、ここに別立てで一章設けることにした。以下、これをれんだいこ風に整理してみたい。2006.9.21日、手直ししたが、まだ納得できるものではない。但し、流れの整理は前より良くなったであろう。いずれ、トロツキー理論そのものの解析、ネオ・シオニズムとの相関と異同について言及していきたい。

 2006.9.21日再編集 れんだいこ拝


【「日本トロツキスト連盟」結成】
 1956.10月以降、何度かの準備会議が開かれたあと、1957.1.27日、「日本トロツキスト連盟」(第四インターナショナル日本支部準備会)が結成されたと推定できる。その間、Iを含めて三多摩グループは時期尚早として一人も参加せず、内田英世・富雄兄弟、太田龍、黒寛の三つのグループによって結成されたことになる。内田らの「反逆者」が連盟機関紙となった。これが、日本トロツキスト派のわが国に於ける初の党派となった。西京司・岡谷進らの関西グループが参加してくるのは、翌年57年の3月以降である。
(私論.私見) 三多摩グループの脱落について
 「日本トロツキスト連盟」が、内田英世・富雄兄弟、太田龍、黒寛の三つのグループによって結成され、最も古い三多摩グループを脱落させたことにつき、責任はないかもしれないが何やら不自然さを感じる。

 2006.10.14日 れんだいこ拝

【「日本トロツキスト連盟」のその後の歩み】
 「日本トロツキスト連盟」は、第4インターナショナル日本支部を結成する準備会として位置づけられていた。当初は思想同人的サークル集団として発足した。日本トロツキスト連盟は、国際共産主義運動の歪曲の主原因をスターリニズムに求め、 スターリンが駆逐したトロツキー路線の方に共産主義運動の正当性を見いだそうとしていた。これが後の展開から見て新左翼の先駆的な流れとなった。

 その主張を見るに、「探求」は次のように記している。
 「既成のあらゆる理論や思想は、我々にとっては盲従や跪拝の対象ではなく、まさに批判され摂取されるべき対象である。それらは、 我々のあくことなき探求の過程で、あるいは破棄され、あるいは血肉化されて、新しい思想創造の基礎となり、革命的実践として現実化されねばならない」。

 つまり、早くも「60年安保闘争」の三年より前のこの時点で日本共産党的運動に見切りをつけ、これに決別して日本共産党に替わる新党運動を創造することが始められていたことになる。

 黒寛の年譜は次のように記している。
 「(57年)1月17日、”日本トロツキスト連盟”結成のための準備会……1月27日、日本トロツキスト連盟(第四インター日本支部準備会)が、太田、黒田、内田英世らによって結成される。……内田の個人紙だった<反逆者>が連盟機関紙となる。……鶴見、野村、大川、遠山正ら加入」。

 ところで、太田が書いた「日本トロツキスト運動の諸段階」では、「56年10月に日本支部準備会が発足した」となっている。しかも当時のISにたいしては、「準備会」の発足はその日付で報告されている。おそらく前者が正式の「支部準備会」つまり「連盟」の結成で、それ以前に何度も準備のための会議が開かれ、何度かそのまま「支部準備会結成」に踏みきろうとしたのであろう。

 太田は、「10月7日に三つのグループの代表者会議をもち、そこで第四インターナショナル日本支部準備会」が結成されたと報告している。但し、ここに報告されている三つのグループのうち社会党グループというのは、組織として正式にこの支部準備会の結成に同意していたわけではないし、代表を送ったわけでもない。太田はISへの報告のなかで次のように述べている。

 「社会党グループでは第四に好意をもっているメンバーは約十人おりますが、その中第四と組織的に結びつくことを承認したのは同志Iのみでした」。

 又、「社会党グループの中でこの手紙を支持している一人は、社会党グループが全体として第四の日本支部に参加しない場合は一人でも入ると云っている」というふうに書いている。これは多分に太田個人の主観的な評価であって、I自身は太田の思惑どおりには動いていない。というのは、Iはその直後に社会党グループの討論と決定に従って、準備会を脱退するのである。

 11.27日付のISへの手紙で社会グループの会議の決定について、太田はつぎのように報告している。

 「10月26日(明らかに10月7日の支部準備会の結成後である)社会党グループの会議(6名参加)。ここでの決定事項は次のとおり。@社会党グループが日本支部結成のイニシアチブをとるべきであり、かつその主体とならなければならない。A10月7日の会議で組織された支部準備会を認めることはできない、なぜなら反逆者グループも千葉グループも社会党にも共産党――共産党などに属するものは除名されるまでその中で闘うべきである――にも属していないからである。B同志Iは準備会を脱退すべきである」。

 そして同じ手紙のなかで、群馬グループと千葉グループの間にも、社会党への加入戦術をめぐって意見の対立があることについてふれたあと、その手紙の最後に次のように書かれている。

 「千葉、群馬グループは社会党加入戦術について意見が一致していないが、まず第四支部を確立すべきことについては意見が一致している。そこで千葉、群馬グループは共同して機関紙を発行する運びにすすんでいる」。

 以上のような経過のなかで、太田は56年10月段階までは社会党グループの多数を獲得して支部結成に踏みきろうとしていたが、Iの準備会脱退によってそれをあきらめ、社会党グループを除外したまま支部を結成しようと考えるにいたる。

 先にあげた10.10日付のIS宛の手紙では、10.7日の会議の決定事項として次のように報告されていた。

 「われわれは支部の正式結成のためには、三つの条件が必要であると考えています。 (a)綱領・規約案の内部的討論、(b)ISの承認、(c)社会党グループからできるだけ多数の参加。われわれは以上の三条件が充足されるのは、大体年末になると考えています」。

 しかしこのあと、Iを除く三多摩グループを除外して「支部結成」に進しかないと判断する。だから、太田が「五六年十月に支部準備会」を結成したと、ISに報告したあとでIも離脱する。そこで今度は黒寛と連絡をとり、あらためて、57.1月に「支部準備会」結成のための会議をもつことになった。

 ここで以上の経過を「反逆者」をとおしてみてみると、その創刊に太田がかんでいないことは明白である。というのは、その時期には先にもふれたように、彼は別個に「レーニン主義研究」を7月まで出していたのであるから。太田が登場するのはちょうどそのあとで、第4号(1956、8.1日号)に太田竜の訳によるM・スタインの論文が掲載されている。また内田は「6号(10.1日号)あたりから第四インターナショナルとの関係について考えはじめた」と語っている。その6号は発行者が「マルクス主義研究会」に変っており、「レーニン主義研究」の(5月から7月号までの)広告がのっている。この頃から「反逆者」の編集発行に太田が参加しはじめているとみられる。

 そして8号(1957.1.1日号)より「反逆者」が「トロツキー主義研究会機関紙」となり、申し込み所として千葉と群馬の二つの住所が併記してある。9号(1.15日号)から「日本トロツキスト連盟機関紙」となり、発行所が千葉の住所になって、群馬事務局として群馬の住所が書かれてある。10号(2.1号)からは発行所として千葉の住所だけが書かれてある。勤務をもつ内田は、なかば専従的な政治新聞の発行にたずさわる経済的・時間的余裕はなかったし、他方、経済的にも時間的にも余裕のあった太田がそれをひきうけて、発行所も千葉に移されたと推定できる。そのために内田富雄は、千葉に寄宿して新聞を発行し続けた、という。

 ところで、太田が黒田に手紙を出し、面会するにいたるのは、黒寛の一連の「主体性論」に関る諸論文が出された頃からであろう。黒寛の「スターリン主義批判の基礎」が発刊されるのは1956.10.11日刊であり、太田が彼に手紙を出したあとである。(原稿そのものは1956.3-6月にかけての執筆とされている)

(私論.私見) 日本トロツキスト運動の評価基準について
 この根底にあったものを「日本における革命的学生の政治的ラジカリズムと、プチブル的観念主義が極限化して発現したもの」とみなす見方があるが、 そういう見方の是非は別として、この潮流も始発は戦後の党運動から始まっており、党的運動の限界と疑問からいち早く発生しているということが踏まえられねばならないであろう。

 宮顕理論によれば、一貫してトロツキズムをして異星人の如くのいかがわしさで吹聴しつつ党内教育を徹底し、トロツキストを「政府自民党の泳がせ政策」の手に乗る反党(ここは当たっている…私の注)反共(ここが詐術である…私の注)主義者の如く罵倒していくことになるが、私はそうした感性が共有できない。前述した「党的運動の限界と疑問からの発生」という視点で見つめる必要がある。

【「反逆者編集部宣言」】
 1957.1.15日付け「反逆者」9号は次のように記している。
 「復権しつつあるソ連の労働者階級を先頭として、世界革命はスターリ二ストと社会民主主義者の妨害を排除しつつ抑止し難い前進を開始している。十月革命後の世界革命の第一波はスターリニズムと社会民主主義者の障壁を乗り越えることができずに後退した。だが、永久革命の法則は断固として自らを貫徹する。スターリンの裏切りを押しのけて歴史の全面に躍り出た第三中国革命は世界革命の第二の波の開始を告げ知らせたものであることは、今や白日の如く明瞭となってきた。今度こそは何人にもこの高揚を推し止めさせてはならない。

 国際帝国主義は、前面では労働階級のますます手のつけられなくなる力の増大に直面する一方では、背後から植民地人民の反帝的革命的大衆行動に脅かされている。帝国主義の力は日に日に不利になっている云々」。
 「第二インターナショナルは第1次世界大戦に於いて許し難い裏切りを行い、その結果ヨーロッパの労働者は幾百万の生命を以って指導者の背信をあがなったのであった。十月革命は第二インターナショナルの裏切りと闘ったレーニンの党によって遂行され、この世界史的事件を起点として新しい革命的指導部の形成の努力が開始された。第三インターナショナルは十月革命の子である。そして、それゆえに第1次世界大戦後生き延びた唯一の労働者国家のスターリニズム的堕落と共に、第三インターナショナルの分裂が引き起こされたのであった。ソ連の労働者国家の権力を奪い取ろうとするスターリニズム官僚と労働者階級の闘争を通じて、そして叉第三インターナショナルをソ連特権階級の保守的外交政策の道具に堕落せしめようとするスターリ二ストに対する全世界の労働者階級の闘争を通じて、新しい革命的インターナショナルが、すなわち第四インターナショナルが生まれた云々」。

【日共京大職組細胞幹部の西、岡谷グループが入党】

 1957.1.27日の「日本トロツキスト連盟」(第四インターナショナル日本支部準備会)結成後僅かの3月頃、日共京大職組細胞幹部の西、岡谷が「日本トロツキスト連盟」に加盟した。「トロツキスト連盟」の一員となった西は、「ハンガリア革命支持」、「平和共存論批判」などをはじめ、「日本トロツキスト連盟」の立場から公然たる意見表明をとおして京都府委員へ選出された。


【日本トロツキズム分党史その1、内田の脱落】
 1957.4月に「連盟」の全国代表者会議が開かれ、そこで「行動綱領草案」が採択される。その会議には関西から千葉、岡谷が出席している。その後、同年の4月〜7月頃にかけて、太田の「対馬批判」(『反逆者』第8号<57.1.1号>)を契機に始っていた、「ソ連論」を主とする内田―太田論争がかなり決定的なものになってきた。内田は、「半資本主義的労働者国家説を主張して、国家資本主義論ではなかった」という。がいずれにせよ、対馬忠行の影響が強かったことは確かである。この点で、黒寛もまた同様であり、イデオロギー的には内田に近かったにもかかわらず、黒寛はこのときには太田を支持した。

 7月頃、このような経過と論争のなかで内田は組織を離脱する。そのいきさつで、「第四インターナショナル」29号が欠版になっている。ただ内田は、「再度勉強し直そうというのが、組織を抜けた主な理由であった」と語っている。こうして、最初に「日本トロツキスト連盟」(日本支部準備会)を結成した中心人物の三人のうち、内田英世は1957.7月、太田との対立で組織を離脱することになる。
(私論.私見) 内田の脱落について
 「日本トロツキスト連盟」は結党半年後早くも、三グループの一つ内田派を脱落させたことになる。れんだいこはこれを、「トロツキズム史上の第一次分裂」とみなす。「日本革命的共産主義者同盟小史」にはこの観点はないが、ここから見ないと革共同派の分裂史の特質が見えてこないと思うから敢えて「トロツキズム史第一次分裂」とみなす。

 2006.10.14日 れんだいこ拝

【日本トロツキズム運動の当初の歩み】
 極く少数のメンバーによって結成された日本トロツキスト連盟の活動は、1957年の後半から、1958年にかけて新しい組織建設の段階に突入することになる。すなわち、日本のトロツキズム運動がはじめて学生運動というひとつの大衆闘争と結合し、この学生運動を推進している数千名の規模で存在していた日共の学生党員たちのなかに、トロツキズムの影響力を、まさに一挙的に、きわめて劇的に拡大する。こうして、日本のトロツキズム運動は創成期の数人のメンバーの歴史の段階から、新しい大衆的な規模で組織建設を構想し得る段階を迎える。

 この時期全学連内の急進主義的学生党員活動家の一部はこの潮流に呼応 し、急速にトロツキズムに傾いていくことになった。つまり、日本トロツキズム運動は、全学連を中心とする学生運動の昂揚の上潮に乗って切り開かれていくことになった。56年から開始し、60年安保をもってひとつのサイクルを描いて終った学生運動の昂揚こそ、日本のトロツキズム運動を神話的段階から、現実の歴史過程として推進させるエネルギー源であったといえる。 

 六全協後の学生運動と日本トロツキズム運動が関わっていたのかを見ていくことにする。六全協後、学生党員たちはキャンパスに戻り、国際派に属していた理由で党を離れていたメンバーが党に戻っていった。学生運動の再建が開始された。56.1月の国立大学授業料値上反対闘争をきっかけに、教育三法、小選挙区制反対闘争に取り組んだ56年の4、5月闘争は学生運動の昂揚を確定した。こうして全学連は56年秋には砂川闘争に取り組み、57年に入ると平和擁護闘争を展開、58年の勤評、警職法闘争を経て、60年安保闘争へむかっていく。

 このような学生運動の昂揚をバネとして、この運動の中心を担った学生共産党員たちは、ハンガリー革命の再検討を通じて理論的にスターリニズムからの訣別を準備し、平和共存路線の誤りを大衆闘争の展開を通じて運動的に確認し、スターリニズムの理論と組織からの離別に向かうことになる。

 日本トロツキズム運動の巨大な可能性の対象は、具体的にはこの日本共産党から離れようとする学生党員たちとして出現する。そして、57年から58年にかけての日本トロツキスト連盟(57.12月からは日本革命的共産主義者同盟=JR)は、このスターリニスト党から分離していこうとする学生党員たちを対象とする活動に向かう。

 ところで、「日本革命的共産主義者同盟小史」には次のように書かれている。

 「戦後激動期に第一期黄金時代を印した全学連の運動は日本共産党の50年分裂によって決定的な打撃をこおむり、沈滞にむかった。すなわち、50年分裂の当時の全学連指導部はほぼ全面的に国際派に所属していた。しかし党の実権を握った所感派は国際派が多数を握る全学連指導部からの国際派の追放を断行した。所感派の学生運動論は“層としての学生運動”を否定して、共産党のメンバー供給源として学生運動をとらえ、学生そのものへの方針としては身のまわり主義の改良主義的運動としてその方針を提起したのである。したがって学生党員たちは山村工作隊や火炎ビン闘争の“兵士”として動員されるいっぼう、学生大衆を“歌え踊れ”の路線で組織するという任務が与えられたのである。50年分裂から55年の六全協までの間、学生党員は共産党の冒険主義路線によって多大の犠牲を払わされるのである。学生自治会やサークルを指導する大学細胞はかくて壊滅的打撃を受けた。

 先に見たように56年以降の学生運動が担った役割の特殊な重要性は、全学連の闘争の歴史によっても明らかとなる。すなわち、朝鮮戦争直前におけるレッドパージによって、日本共産党の労働者階級に与えていた影響力はほとんどゼロにまで崩壊させられてしまったのである。このレッドパージは当然にも大学にむけられ、アメリ力の反共主義者・イールズは各大学で“赤い教授”の追放を煽動したのである。イールズの全国遊説において、かれを迎えた東北大学の学生たちは逆にイールズを糾弾して追い帰してしまい、大学における反レッドー・パージ闘争の火ぶたを切ったのである。結局、全学連の反レッドー・パージ闘争によって大学にまでのパージは貫徹されなかった。すなわち、日本の大学は唯一残された共産党の橋頭堡ともいうべき役割をもっていたのである。この歴史的伝統と、情勢の危機は全学連を再び大衆闘争の前面へ押し出していった」。
(私論.私見) 「全学連運動における国際派と所感派の評価」考
 「日本革命的共産主義者同盟小史」の日共運動に対する上記の纏めは、無茶苦茶である。とはいえ、これが新左翼のほぼ共通した見方である。しかし、「所感派の学生運動論は“層としての学生運動”を否定して、共産党のメンバー供給源として学生運動をとらえ、学生そのものへの方針としては身のまわり主義の改良主義的運動としてその方針を提起したのである。したがって学生党員たちは山村工作隊や火炎ビン闘争の“兵士”として動員されるいっぼう、学生大衆を“歌え踊れ”の路線で組織するという任務が与えられたのである」などという文章が果たしてまともであり得るだろうか。

 第一章節の、「所感派の学生運動論は“層としての学生運動”を否定して、共産党のメンバー供給源として学生運動をとらえ」については、これで良い。第二章節の、「共産党のメンバー供給源として学生運動をとらえ、学生そのものへの方針としては身のまわり主義の改良主義的運動としてその方針を提起したのである」は、極めて不正確である。この傾向は、閉職に追いやられた格好の宮顕及び西沢等が指導していた限りにおいて「身のまわり主義的右派系改良運動」が存在していたことは事実である。しかし、徳球系党中央の路線ではない。徳球時代とは急進主義と穏健主義が混在していたところに特徴があるが、そのうちの宮顕系指導をもって徳球時代の指導を批判するのは為にするものであり公正ではない。

 だから、次の章節の「したがって学生党員たちは山村工作隊や火炎ビン闘争の“兵士”として動員されるいっぼう、学生大衆を“歌え踊れ”の路線で組織するという任務が与えられたのである」などという訳の分からない規定を平然と為し得るようになる。一体全体、「山村工作隊や火炎ビン闘争」という極左闘争と「歌ってマルクス、踊ってレーニン」という穏和運動なぞが両立できる訳がない。正確には、徳球系が急進主義から極左闘争へ転じたのであり、穏和運動は宮顕派の専売であった。

 ちなみに、徳球時代に「“歌え踊れ”路線」が一時期あったのは事実であるが、一般には六全協後の宮顕指導によりもたらされた7中委路線のことを云う。これを否定する形でブント運動が出てくるのであり、この時代差を混合させた形で概括する「日本革命的共産主義者同盟小史」は意図的であれば非常に問題が多い。

【「加盟戦術」の採用】
 日本トロツキスト連盟は、その運動方針として「加盟戦術」による社会党・共産党の内部からの切り崩しを狙ったヤドカリ的手法を採用した。「加入戦術」とは、対象となる組織に加入し、内側から組織の切り崩しを行う戦術である。そのため、自前の運動として左翼内の一勢力として立ち現れてくるようになるのはこの後のことになる。

 加入戦術をめぐる論争は、日本トロツキズム運動の初期に、組織方針の分野でもっとも激しくたたかわされた論争である。加入戦術は、1950年代に、山西英一や太田竜によってすでに実行に移されていたが、六全協以後の日本共産党の学生党員を中心とする大量の代々木ばなれした活動家にとって、新しい党建設を志向する立場から第四インターナショナルに判断を下すための重大な問題点としてクローズアップされた。加入戦術を一貫して熱心に主張したのは、太田竜であった。彼は、パブロの第三回世界大会における立場と路線の熱心な支持者であり、日本の第四インターナショナルを強固なパブロ派として組織しようとしていた。

 パブロの加入戦術論は、次のように提起された。

 「第三回世界大会=ついで国際執行委員会第十回総会によって決定された戦術(加入戦術)は何よりも時代の深く革命的な性格の評価と国際的力関係の革命に基本的に有利な発展に基づいている」。
 「帝国主義の戦争へ向っての志向と具体的前進にもかかわらず国際的力関係が革命に基本的に有利に発展する基本的に革命的な時期という条件のもとで、第三回世界大会ついでIEC第十回総会は、各国の現実の大衆運動への可能なかぎりのあらゆる深い浸透と作用という戦術を決定した」(第四回世界大会への報告――パブロ)。
 「……この展望は、資本主義の終局的危機と世界革命の拡大の展望として定義づけられる。この二つとも、第二次世界大戦でひきおこされた混乱によって激化し、終戦後ますます顕著となり、いまや決定的解決への決定的闘争にむかうこの歴史的時期全体を特色づけるものである」。
 「決定的戦闘までになお二年か三年――いやもう少し――残されているとしても、われわれが準備するのに十分ではない。それどころかいたるところでわれわれが現実の大衆運動へ参加するためにすみやかに行動し、われわれの勢力を配置し、今から行動にうつらなければならない。これが、第三回世界大会の戦術適用についての討論を長々とひきのばしてはならない理由である」(第十回国際執行委員会報告――パブロ)。

 「きわめて急速に革命的危機が到来する。われわれはこの危機にどのように間に合うことができるか」。これが、パブロが加入戦術を提起した核心の問題設定であった。パブロはユーゴ革命と中国革命を総括するなかから、革命的大衆の圧力は、スターリニスト党をも(革命党不在の場合には)ゆり動かして、権力に向けて押しやるであろうと予測した。「今日第四インターナショナルがきわめて微弱である前提のうえに立てば、来るべき数年のうちに開始される決定的戦闘においては、大衆の革命的エネルギーは、スターリニスト党や社会民主主義党の既成の大衆的政党に流れ込むであろう。われわれはそれを外から評論するのではなく、これらの党の内部にいて、大衆のエネルギーを待ちうけ、合流し、これらの党の官僚と大衆のミゾを拡大し、大衆的な革命党建設のダイナミックな出発点をたたかいとらなければならないのである」。

 しかし、「来るべき二〜三年」というようなパブロの切迫した問題設定は、事実とはならなかった。世界資本主義は世界大戦を回避しながら、経済上昇の長い時代に入っていった。こうしたなかでマンデルは、加入活動を全般的な組織戦術として再度定式化した。

 「一、大衆的革命党の創造は広汎な勤労大衆の急進化なくしては不可能である。二、……この急進化は、その第一局面においては、伝統的大衆党への労働者の流入とこれら諸党の労働者党員の重要な部分の急進化によって表現されるであろう。三、この急進化の基盤に立って強力な左翼がこれら諸党の内部に結成されるし、それは大衆の目には予備指導部としての真の役割をはたすであろう。この左翼は伝統的指導部とあすの大衆的マルクス主義政党とのあいだにわたされたカケハシとなるだろう」(IEC二十回総会)。

 マンデルはこう定式化することによって、加入戦術を一般的な組織戦術に高めた。パブロの「来るべき対決」の展望はくずれたとはいえ、加入活動の戦術は、第四インターナショナルの基本的組織戦術として60年代後半の急進的青年運動の爆発の時期まで受けつかれていくことになる。

 これに対して、キャノン派は、加入戦術一般には反対しないが、その基礎にすえられている「スターリニスト党と革命的大衆」の関係のとらえ方が、修正主義的であるとして猛烈に反対した。キャノン派によれば、こうしたとらえ方はトロツキストの原則の放棄、武装解除につながるのである。したがってキャノン派の加入戦術にたいする理解は、あくまでも一時的で部分的なものでなければならず、スターリニスト党の「可能性」に立脚したり、主体性を喪失した「全面加入」であったりしてはならないのである。

 ICPの太田竜は、パブロ―マンデルの方針を忠実に実行すべきだという立場に立った。

 「第四インターナショナル日本支部は、社会党左派とその周辺、及び共産党の戦闘的労働者・学生の中に見られる革命路線への多分に自然発生的な潮流を意識的に指導し、その中に計画的にボルシェビズムを注入し、この潮流を強化し、意識化することを当面の任務とする。この目的のために支部は独立の組織をあくまで維持しながら、比較的長期に亘って既存の労働者諸党すなわち社会党及び共産党の内部で活動することにその主たる努力を向ける」(日本革命のテーゼ)。

【日本トロツキズム運動のその後】

 こうしてわが国にも登場することになったトロツキスト運動は、運動の当初より主導権をめぐって、あるいはまたトロツキー路線の評価をめぐって、あるいは既成左翼に対する対応の仕方とか党運動論をめぐって ゴタゴタした対立を見せていくことになり、日本共産主義労働者党→第4インター日本支部準備会→日本トロツキスト連盟→12.1日、日本革命的共産主義者同盟(革共同)へと系譜していくことになる。

 新左翼運動をもしトロツキスト呼ばわりするとならば、日本トロツキスト連盟を看板に掲げたこの潮流がそれに値し、後に誕生するブントと区別する必要がある。そう言う意味において、日本トロツキスト連盟の系譜を「純」トロツキスト系と呼び、これに対しブント系譜を「準」トロツキスト系とみなすことを今はやりの「定説」としたい。日本トロツキスト連盟の系譜から後に新左翼最大の中核派と革マル派という二大セクトが生まれており、特に中核派の方にブントの合流がなされていくことになるので一定の混同が生じても致し方ない面もあるが。

 この時期全学連内の急進主義的学生党員活動家の一部はこの潮流に呼応し、急速にトロツキズムに傾いていくことになった。ただし、日本トロツキスト連盟の運動方針として「加盟戦術」による社会党・共産党の内部からの切り崩しを狙ったヤドカリ的手法を採用していたためか、自前の運動として左翼内の一勢力として立ち現れてくるようになるのはこの後のことになる。

 「加入戦術」と は、対象となる組織に加入し、内側から組織の切り崩しを行う戦術である。このグループの特長として理論闘争を重視するということと、セクト間の対立に陰謀的手法で解決をしていくことを意に介しない面と、暴力的手法による他党派排除を常用する癖があるように思われる。

 私が拘ることは以下の点である。上述したようにトロツキズムとは、レーニンによって批判され続けられたほどに 幅広の英明な運動論を基調とした左翼運動を目指していたことに特徴が認められる、と思われる。ところが、わが国で始まったトロツキズムは、その理論の鋭さやマルクス主義の斬新な見直しという功の面を評価することにやぶさかではないが、この後の運動展開の追跡で露わになると思われるが、意見の相違を平気で暴力的に解決する風潮を左翼運動内に持ち込んだ罪の面があるようにも思われる。この弊害は党のスターリニズム体質と好一対のものであり、日本の左翼運動の再生のために見据えておかねばならない重要な負の面であることも併せて指摘しておきたい。


【太田―黒田論争その1】
  内田が組織を離脱したあとも同じ問題をめぐって、もっと深刻な対立が太田と黒寛の間に展開されていった。この点に関して太田はその問題を自ら認め、次のように指摘している。
 「56年10月には日本支部準備会が発足した。そのメンバーは8名であった。この人々はすべてどの党にも属しておらず、どんな大衆運動にも活動家として参加してはいなかった。この欠陥はやがて運動に否定的影響を与えるであろう」。
 「56年末には山西氏のグループの方が一層労働者的であり、大衆運動に根をもち、より活動的であった」。

 しかし、その後の運動に「やがて否定的影響を与えるであろう」欠陥は、最初に結集した人々が、「すべてどの党にも属しておらず、どんな大衆運動にも活動家として参加していなかった」というところにだけあったのではなかった。第一に、三つのグループを結集して支部準備会を結成したとき、綱領的、原則的問題についての意見対立が残されたままであり、保留されたままであった。第二に、このような原則的問題についての意見の対立を残しつつも、ともかくトロツキズムと第四インターナショナルの立場にたって支部準備会の結成に関して一致して以降、その後も引き続き内部での徹底した民主的討論によって見解の練りあいをしていかなければならなかったのであるが、太田の対応は、黒寛のセクト的体質とともに、この最も重要な組織的討論を保障していくことができなかった。

 結成にいたるまでの論争がどのようなものであったかを確認する。まず、創設期に、三多摩グループ、太田グループ、「反逆者」グループの三者の間で「独立活動」をめぐる論争が発生した。56.8.21日付のIS宛の手紙によると、組織的な問題で「加入活動」を廻って論争が行われ、「加入活動」の継続を主張し「独立活動」に反対する三多摩グループと、「独立活動」を指針する太田や「反逆者」グループとの間に対立があった。

 他方、イデオロギー的には逆に、「反逆者」グループと太田や三多摩グループとの間に意見の対立があった。理論的な対立は、次のようなところにあった。
 革命中国と革命日本の合同社会主義計画経済のスローガンについて
 賛成意見――このスローガンは永久革命戦略の具体的適用である。
 反対意見――スターリニストが中国を支配している限り、それは不可能である。それをいうならば世界社会主義計画を云うべきである。
 ソ連との領土問題
 返還請求論―ソ連官僚の反革命的対日政策を否認し、日本の革命運動を推しすすめる見地から千島、南樺太の返還、捕虜の虐待に対する賠償要求。
 領土問題棚上げ論―領土問題にこだわるのは反動の手に乗る結果になる。みんな労働者の共通の財産である。

 このような理論的対立を孕(はら)みながらも「日本トロツキスト連盟日本支部準備会」を結成していった。留意すべきは、黒寛がこの段階ではトロツキーのものは何ひとつ読んでいなかったことである。当然、第四インターナショナルの諸文書や活動についても知識が不十分のまま「第四インターナショナル日本支部結成の準備会」に参加していたことである。

 その黒寛が、57.4.20日付の「反逆者」16号には米原俊成の名で「左翼反対派を結集せよ」という一文を掲載して、「いまこそ左翼反対派は第四インターナショナルの旗のもとに結集しなければならない」と、第四インターナショナルへの結集を呼びかけている。その文章は、69年に現代思潮社から出版された「黒田寛一・スターリン批判以後」にも再録されている。しかしそこでは原文のままに再録されているのではなく、気づかれないように部分的な手直しがなされている。くり返し使われていた「第四インターナショナル」という言葉が、「それ」という代名詞に置き替えられているくらいなら内容の本質を歪めることにはならないだろうが、「スターリニスト官僚」というのが「スターリン主義的官僚国家」と書き替えられたのでは明らかに内容の本質を歪めるものである。しかも「反逆者16号より」と書かれているのであればなおさら許されない。確認すべきは、黒寛はこういうことを平気でやる手合いだと云うことである。

 こうしてひとたびは、トロツキズムと第四インターナショナルの立場に立った(?)黒寛は、たちまちのうちにそれを乗り越える(?)のである。やはり黒寛の著になる「日本の反スターリン主義運動」第二冊の「党組織建設論―その過去と現在―A、第一段階(1957〜59年8月)」には次のように書かれている。
 「わが革命的共産主義運動の約三ヵ年は、トロツキズム運動の伝統がまったく欠如していたわが国において、公認共産主義運動と敵対した運動を創造するという苦難にみちた闘いであった。……しかも、この闘いは、スターリンに虐殺されたトロツキーの革命理論と第四インターナショナルの運動を土着化させると同時に、それをものりこえ発展させていく、という革命的マルクス主義の立場において実現された」と。そしてそれは、「まずもって日本トロツキスト連盟の結成(57年1月)として、そして日本革命的共産主義者同盟へのその名称変更(同年12月)にもとづく革命的マルクス主義運動の創造としてたたかいとられた」。

 だが実際には、その当時「トロツキズムをものりこえる」立場にあったどころか、トロツキズムについても第四インターナショナルについても、まったく何も知りはしなかったし学びもしなかった。そればかりかスターリニズムとの関係において中間主義的立場をとってさえいた。しかし、その内容はともかく、事実としても主観的にも、ひとたびは「第四インターナショナル」に加盟し、その「旗のもとに」結集せよと呼びかけ、機関紙の名称も黒田の提案によって(「反逆者」というのは過激すぎるからというのが理由だったらしいが)「第四インターナショナル」と改題したのである。

 ところがその年の末にはもう、「日本トロツキスト連盟」を、これも黒寛の提案によって「日本革命的共産主義者同盟」と名称変更して、「トロツキズムの立場をのりこえ」ようとしたらしい。名前を変えれば、何かが変るとでも思っているのか、黒寛は一度たりとも第四インターナショナル内部で、何か論争したとか闘争したとかいうことをとおして「トロツキズムと第四インターナショナル」の立場をのりこえたわけではけっしてない。

 結局、彼ら中間主義者にとっては次の点で共通した特徴をもっている。つまり、強固なスターリニストであった黒寛が、「ソ連の水爆実験」と「スターリン批判」で衝撃をうけて、黒寛の頭の中で「事の真相」がはっきりした、そのときから歴史が新たにはじまり世界が誕生するのである。その時からすべてがはじまるのである。スターリニズムの根底的な堕落も、それとの闘争も、すべてその時点からはじまるのである。だから、ロシア十月革命とその成果のスターリニスト官僚による纂奪も、またそれとの闘争をいち早く開始した1924年以来のトロツキーを中心とする「ロシア左翼反対派」の歴史も、「国際左翼反対派」の歴史もないのである。それがはじめから「一国主義」でしかないのは当然である。

 彼らは突然の衝撃で初期マルクスへ回帰し、さらにへーゲルにまでさかのぼっていく。彼らはトロツキーと第四インターナショナルの闘いの歴史を抜きにしては、ボルシェヴィズムに結晶した革命的マルクス主義の防衛はありえなかったのだ、ということをどうしても理解できない。だからまた、生きた歴史を闘い抜いてきた、革命的マルクス主義としてのトロツキズムを正しく評価することができない。

 スターリニズムの誤謬も労働者国家ソ連邦の堕落も、歴史的に形成された社会的力関係とは切り離されて、純粋にスコラ的な方法でとり扱われた。ソビエト国家の評価と分析も、帝国主義と対決して現に闘われている国際的階級闘争や、その力関係のなかで位置づけられるのではなく、抽象的に『資本論』の次元で論じられたのである。ソ連にはまだ資本主義的諸要素―価値法則や疎外―が残存しているということから、十月革命の成果―生産手段の国有化と計画経済―そのものも否定され、「ロシア十月革命とボルシェヴィズムをものりこえた」マルクス主義への回帰がはかられたのである。

 黒寛と彼ら中間主義者が、「加入戦術」と「労働者国家無条件擁護」をどうしても理解できないのはそのためである。「ソ連論論争」を含む、この二つの点を理解できないのは、現に歴史的に形成されているグローバルな階級的力関係、また国内における階級闘争の現実から出発して、問題を提出する能力がないということを示している。この点で、「加入戦術」とソ連論をめぐる「労働者国家無条件擁護」を理解できるかどうかという問題は、別々の二つのことではなく、まったく同一の問題なのである。

【「日共綱領論争」への参戦】
 日本トロツキズム運動勃興期のこの頃、日共内で綱領論争が起り、日本トロツキズム運動はこの論争に参加していくことになる。1957.9月に党章草案(党章とは綱領と規約をまとめて呼ぶ)が発表され、同時に綱領論争へと発展していった。宮顕系党中央は、徳球時代の「51年綱領」を改定して、新しい綱領をつくることを決定し、57.9月に党章草案として発表した。

 この草案をめぐって、共産党内に大規模な論争が展開された。論争点は草案が当面する日本革命の性格を「民族独立民主主義革命」とし、この戦略を導くために支配権力の性格規定をアメリカ帝国主義に従属した半植民地国の権力であるとしていたが、これに対して、草案の反対派は日本帝国主義の復活を重視し、当面する革命を社会主義革命であると草案反対の戦略を対置したのである。

 論争は57.9月から58.7月の第7回大会までほぼ一年間にわたって展開するが、この時期の日本共産党はこの党の歴史にはまれな”自由の季節”をむかえ、百花斉放の感でさまざまの見解が発表された。

 既に「日本トロツキスト連盟」していた西は、57年夏の日本共産党7回大会への綱領論争に参加する。「沢村論文−レーニン主義の綱領の為に」を提出し、これが党の機関紙(京都府党報)に掲載された。 この論争の期間、共産党の官僚的権威は低下し、官僚体制による統制はきわめて微弱なものとなっていた。「前衛」や綱領討論のための「団結と前進」において、民族独立民主主義革命派、社会主義革命派の立場、及びその内部の見解の相違をふくめて論争は全面化していった。沢田論文は誰一人の反対もなく「京都府党報」に全文掲載され、またその立場からの意見表明をとおして、西は誰一人の反対もなく大会代議員権も獲得した。(後で官僚的かつ一方的に剥奪されるが)。京都府委員会の学対部長の地位にあった西はこの間立命大細胞を先頭にして学生の間に急速にトロツキズムの影響を浸透させていった。

 このようにして、できるところではトロツキーの文献紹介と宣伝活動を展開した。「レーニン死後の第三インター」の翻訳などもこの当時なされたのであった。このような共産党内部での活動のため、「連盟」の機関紙にはこの時期まったく執筆していない。

 しかし当時の全学連は、「平和擁護闘争」で党中央の「巾広統一戦線」に反対するという水準であった。このなかで、京都府委員会の学対部長の地位にあった西は、自らの左翼的立場を、「フルシチョフテーゼ」と「平和擁護闘争」によって表現していた学生グループとのし烈な論争をとおしてこれに介入していく。こうして58年に入ると、立命大細胞を先頭にして急速にトロツキズムの影響が、学生の間に拡大していくことになった。

 綱領論争は日本トロツキズム運動に共産党への介入の好機を提供した。論争がスターリニズムの枠内で展開されているのに対して、日本トロツキスト連盟は「反逆者」や「第四インターナショナル」誌上で草案の段階革命論や一国社会主義論にトロツキズムの立場から批判を展開していった。この介入は直接的な組織的成果につながらなかったとしても、学生党員を中心とする反対派がスターリニズムから脱却するための促進要素となったことは明らかである。特に、沢村論文が果した役割は具体的成果を生みだすものとして重大であった。

 論争を通じて共産党内にはさまざまな反対派のグループが形成された。党組織としては東京都委員会、関西地方委員会が草案反対派の拠点となり、全学連主流派の学生党員たちはさらに強力な全国的反対派として存在した。また、いくつかの拠点的経営細胞において反対派が多数派をつくるという状況が生れた。六全協を契機に党のヘゲモニーを掌握した宮顕は、第7回大会までを徳球時代に培われていた“自由”な論争に依拠せざるを得ず、第7回大会以降一層支配権を固めることにより、一転して反対派の排除を断行していくことになる。この反対派排除によって党外にさまざまの小党派が結成されることになったが、まずその最初にして最大の組織が58.12月に結成される共産主義者同盟になる。

 日本トロツキスト連盟は共産党綱領論争への介入を通じて、主として学生党員に接近して組織的成果を獲得することになるが、綱領論争はスターリニズムの綱領的立場の破産をまた示すことでもあった。


【「日本革命的共産主義者同盟(革共同)」の誕生】
 1957.12月、日本トロツキスト連盟は、日本革命的共産主義者同盟(革共同) と改称した。この流れには西京司(京大)氏の合流が関係している。日本トロツキスト連盟の「加入戦術」が巧を奏してか、かなりの影響力を持っていた日本共産党京都府委員の西京司氏が57.4月頃に「連盟」に加入してくることになり、その勢いを得てあらためて黒田寛一、太田竜、西京司、岡谷らを中心にした革共同の結成へと向かうことになった。この時点から政治党派としての体制を整え、日本トロツキスト運動の本格的開始がなされたと考えられる。この流れで58年前後、全学連の急進主義的活動家に対してフラク活動がかなり強力に進められていくことになった。

 ただし、革共同内は、同盟結成後も引き続きゴタゴタが続いていくことになった。善意で見れば、それほど理論闘争が重視されていたということかも知れぬ。

【太田―黒田論争その2】
 この論争と対立を通して、黒寛は「トロツキズムと第四インターナショナルをのりこえ」ていく。ちょうど、57年秋から58年1月まで、太田が世界大会に出席して不在の間に、黒寛は、RMG(革命的マルクス主義者グループ)なる秘密の分派組織を別個につくって、「探求」や「早大新聞」によって独自の理論活動を展開していく。この時、日共内の活動にそのエネルギーのほとんどすべてを注いでいた関西グループは、陰湿で秘密裡に遂行されていた黒寛派の分派活動にかかずりあっているひまはなかった。

 58.1月、第四インターナショナル第5回大会に出席していた太田竜が帰国した。この時、関西では西、岡谷のヘゲモニーのもとにJRの影響力が理論的にも組織的にも拡大しようとしていた。関西でのトロツキズムの運動は、日共京都府委員会の学対部といういわば戦略的高地から開始され、確実に成果を拡大していた。

 それに比べて、東京は関西よりはるかに遅れていた。帰国した太田の任務は重大であった。しかし、太田は、流れに逆うように学生への工作をほとんど放棄して、JRを即時に全面的な社会党への加入活動へむけた方針を提起した。ここから約半年間、東京のJRは太田と黒寛の対立が進行し、学生工作活動は不活発となる。政治組織としての統一性を持ち合せることなく、太田と黒寛という思想も理論も気質も異った二頭立ての体制での学生工作することは失敗が見えていた。二人はお互いにいがみ合い、足をひっぱり合って相手を嘲笑していた。東京においては学生たちに攻勢をかけるよりも、内輪の喧嘩に浮身をやつしていた。最終的に58.7月の太田派の分裂にまで進み東京でのJRの組織体制は最悪の事態に陥ってしまう。

 ここで、日本トロツキスト連盟結成後の東京における黒寛と太田のグループの形成をみておく。黒寛のもとに形成されたグループは東京の数名の学生メンバーと、埼玉県の民青メンバーであった。黒寛に近づいた埼玉グループは大川によって指導されていた。大川は民青埼玉県委員会の指導的メンバーであったが、スターリン批判を通じて黒寛と結びついていった。当時、埼玉の民青の拠点として国労大宮工場があった。大川は、大宮工場の班の主要メンバーを自己のグループとして獲得した。そのなかのひとりに後の動労の松崎もはいっていた。黒寛グループのなかに入った埼玉のメンバーは当時の日本トロツキスト同盟のほとんど唯一の労働者部分であった。この部分が今日まで黒寛の影響下にあることによって、その後の黒寛派の分裂や革マル派の誕生の要因となった。即ち、黒寛は、この国鉄労働者メンバーを握っていたことによって組織分裂のイニシァチブをとったことを、われわれは後にみることになる。かれらは黒寛のスターリン主義批判の著作を読み、黒寛に直接連絡をとることによって、黒寛のもとにサークル的に結集しはじめた。東京の学生メンバーは遠山、山村、広田などであり、それに57年の終り頃、当時早大新聞会にいた本多延嘉が加わった。また九州の青山もこのころ黒寛グループにつながっていった。彼らは、黒寛理論にひきつけられていた分子と云える。 

 太田竜グループはふたつのルートを通じて形成された。ひとつは東学大グループでありもうひとつは日比谷高校グループである。57年夏、当時、反戦学生同盟の中央書記局メンバーであった東学大の小山は「連盟」から送付されていた「第四インターナショナル」に目をとめ、全教学協(教育系自治会全国組織、五八年五月全学連へ統一)の事務局長をしていた西山とともに太田竜との接触をはじめた。こうして東学大にトロツキスト運動のきっかけが生れた。いっぽう、小島を中心とした日比谷高校グループは当時民青班であったが平和共存路線に疑問を抱いていたところ、グループのひとりが東大の社研のサークルにいて「第四インターナショナル」に接し太田を講師に招いて学習会を開き、太田の理論的影響のもとに入っていった。日比谷高校グループのメンバーは57年から58年にかけて東大か東学大に進んだため、小山、西山と合流し、ここに東大駒場と東学大に太田竜グループがつくられることとなった。小山、西山は58年初めに同盟に加入し、日比谷グループは第四インターナショナル・シンパサイザーグループ(FISG)をつくって太田を経由してJRと結合していた。

 第五回世界大会に出席した太田は当時のIS(国際事記局)派の指導者、パブロとの結合を強めて帰国した。彼は帰途、セイロンに立ち寄りランカサマサマジャ党(LSSP=第四インターナショナルセイロン支部)を訪れた。セイロンの階級闘争で労働者階級の多数派を占めているLSSPの現実をつぶさに見て、太田は加入戦術の即時実施を決意したのであろう。帰国すると、58年2月に開かれたJR第六回全国代表者会議において社会党への即時全面加入活動の方針を提出した。

 太田の加入戦術方針はもちろん単なる第四インターナショナルの組織決定であるからこれを適用するというだけの形式的方針ではなかった。太田はきわめて近い将来に日本において階級的総対決が訪れるであろう、この対決に間に合うように、トロツキストを既存の労働者の党へ加入させ、来るべき対決にそなえねばならないと考えた。来るべき対決においては労働者階級がまず左傾化の第一歩として既成指導部に対して左の圧力を強めるであろうと予測し、この既成指導部に流れ込む労働者階級の左への圧力を内部にいたトロツキストが結合して社民の枠を突破することが必要であるという展望にたっていた。従って太田にとっては対決に“間に合う”かどうかが決定的であった。だから、ちょうどその頃、学生たちが何千という数で日本共産党から別れようとしていたこと、日本トロツキズム運動にとってまたとないチャンスが生れようとしていたこと、このような客観的条件は太田にとってはどうでもいいことであったのである。

 黒寛は太田の加入活動方針に真向うから反対した。“哲学ぼっちゃん”の黒寛にとっては高度な統一戦線戦術である加入戦術については政治的に本質的に理解することはできなかったのであろう。当時、黒寛は次のように太田を批判していた。
 「……パブロ修正主義者のいう『加入戦術」は本質的にスターリニスト党からのトロツキストの疎外感の必然的産物でしかないこと、逆にいうならばスターリニスト党を革命的に解体するためのトロツキストとしての主体的な組織戦術を追求することが欠落しているがゆえに、いわば応急手段として『加入戦術』が即時的に提起されているにすぎない」(「日本の反スターリン主義運動1」黒田寛一、94頁)。

 太田の加入戦術方針に反対した黒寛はすでに太田の留守の間に第四インターナショナルとトロツキズムへの敵対の路線をかためており、加入活動をめぐる太田、黒寛の対立は、七月の太田派の分裂(いわゆる第一次分裂)にまで進んでいく。

 黒寛は、57.9月執筆の論文「日本革命とわれわれの課題」において、早くも第四インターナショナルを「乗り越え」た新しいインターナショナルの展望を打ち出していたが、太田が世界大会に出席して日本にいなくなるとトロツキズムと第四インターナョナルへの敵対の路線を公然化させた。

 黒寛は、「探究」第二号においてソ連核実験擁護という労働者国家防衛の路線から導かれる正しい方針に反対した。彼はサルトル的実存主義、小市民的平和主義からすべての核実験に反対した。三月、「探究」第三号で黒寛は第四インターナショナルそのものの批判を公然と行った。
 「トロツキーによってうちたてられた第四インターナショナルは、堕落したコミンテルンに敵対するものとして、その存在理由をもっている。それは、トロツキズムがスターリン主義に敵対するものとして意義をもつということの国際的な組織形態にほかならない。第四インターナショナルはスターリン主義に敵対するトロツキズムの世界的な政治組織である」(『革命的マルクス主義とは何か?』黒田寛一、一〇六頁)。

 黒寛にとっての第四インターナショナルとは、反スタインターナショナルに過ぎない。また、黒寛にとってのトロツキズムとは、スターリンを批判するためにのみ意味があるのである。彼はトロツキーの理論を密輸入しながら、トロツキ−をののしった。それは決して「世界に冠たる反スタ哲学者」と自他称する黒寛にふさわしい内容ではなく、ヨーロッパの中間主義者たちの陳腐な批判の口移しであった。
 「……この現実政治のパラドックス、階級闘争における非合理的なモメント、敵対するもののあいだの非合理的な力関係―これが、政治のダイナミックスをなすのであって、これを本当に理解することなく、ただ文学青年的に割り切ったところに、革命家たらんとしたトロツキーがたんなる理論家となり、真の(レーニン的意味における)政治家たりえなかった根本的な理由があるのだ。(略)このようにロシア革命前後のトロツキー自身が現実政治の弁証法的展開をほとんど理解していなかったこと―ここから理論的にはトロツキーの組織論の致命傷が不可避となり、政治的実践においては、その理論的正当性と正統性にもかかわらずスターリンとその一派に完全に敗北してしまったのだ―」(黒田寛一「革命的マルクス主義とは何か?」45頁)。
 「ところで、現代トロツキストの革命的主体性喪失にもとづく今日の第四インターナショナルの組織的弱体化、その四分五裂と堕落を決定的なものとした直接の根拠は、その組織論の欠陥にある。常に既成左翼諸政党への「加入戦術」をめぐっての論争しかおこなわれたことがないという点に象徴されているところのものは、まさしくトロツキストとしての独自の、本質的な意味での組織論が欠如しているということである。(黒田寛一「日本の反スターリン主義運動1」91頁)。

 トロツキーに組織論がないと断定した黒寛は、日本のトロツキズム運動の組織論として、「反スタ統一戦線」方針を提唱する。「世界に冠たる組織論」として打ち出された反スタ統一戦線がいかなる代物であるかは、黒寛派→全国委員会派→革マル派の歴史過程をみれば明らかであろう。

 6月に入って黒寛は彼の体系を完成する。彼は、当時、アルジェリア革命によってつくられたフランスの危機の情勢において、第四インターナショナルフランス支部(PCI)が「社会党、共産党、CGTの政府」という統一戦線のためのスローガンを提起して反ド・ゴール闘争を展開していたのに対して、反ドゴールは同時に反トレーズ(当時の共産党書記長)でなければならないと批判し、彼自身の基本戦略を「反帝反スタ」として定式化し、この論文を本多が編集長をしていた早大新聞に掲載した。
 「スターリニスト官僚打倒を『従属的戦術』とし、『反帝・労働者国家無条件擁護』を根本戦略とする第四インターの基本方針に対して、われわれは、われわれの闘争をより有効におしすすめるための世界革命戦略として『反帝・反スターリニズム』のスローガンを提起した」(黒田寛一「逆流に抗して」「反帝・反スターリニズム」のスローガンについて83頁)。
 
 黒寛は、トロツキズムが理解できないから、第四インターナショナルの方針が理解できないから誤っているのだ、と善意に判断すべき人物ではなくなり、公然かつ悪質な反トロツキストに転化したのである。そして、58年にブントが結成されるや、“黒寛理論”はブントによるJR批判・トロツキズムと第四インターナショナル批判として利用されることになる。このような反トロツキズムの理論を完成させてきた黒寛の第四インターナショナルからの離脱はもはや時間の問題であった。ところが、58.7月の組織分裂は黒寛がJRに残り、黒寛からトロツキードグマチスト、100%トロツキストといわれていた太田竜がJRから分裂することになる。

【日本トロツキズム分党史その2、太田派離脱】
 58.7月、太田は、同盟の拡大政治局会議において、黒寛派と決別するために「第四インターナショナル日本支部再組織準備委員会」を組織すべきだと提案する。要するに表見的には、第四インターの基本路線をとろうとする栗原派と、相対的に自立した革命路線確立を強調する黒田派の対立であった。

 「日本革命的共産主義者同盟小史」は、次のように揶揄している。
 (太田竜氏は組織をデッチあげるのが大好きで、この趣味は終生変ることはないだろう。かれがいくつの組織をつくったか、正確に数えられるのはかれ自身の他にいない。いや、自分でも忘れたか!?)
(私論.私見) 「黒寛派との決別を要請した太田龍の眼力」について
 れんだいこはそう思わない。黒寛派のその後の悪行を見れば、黒寛派の左派党派としての異質性を見抜いた太田龍の眼力をこそ評価すべきではなかろうか。意見の相違では分裂することは必要ない。明らかに宮顕同様の異分子が闖入してきた際は斥けるか出て行くか二つに一つしかないのではなかろうか。「日本革命的共産主義者同盟小史」の観点こそ変調ではなかろうか。

 2006.9.21日 れんだいこ拝
 当時、書記局は太田、黒寛の話し合いの場にすぎず、同盟の組織指導機関ではなかった。しかも、ここに出席していたメンバーは圧倒的に黒寛派であった。黒寛、大川、遠山らは太田提案に反対し、太田は小山とともに退場した。この様子を聞いた京都の西は太田の分裂を阻止しようと太田を説得した。太田は西の説得を受け入れ、同盟への復帰を約束した。しかし、太田は西との約束にもかかわらず、結局7.27日の第7回全国代表者会議において分裂する。太田は西と組んで黒寛と闘うことも放棄し、自前の太田クルーブ旗揚げに向った。

 7月、こうして草創期のメンバーが内田に続いて太田も組織を離脱した。「このときは相対的には太田の方が正しい思想的立場にあったが、組織的には非原則的、日和見主義的な対応をして個人的に抜けたのである」と総括されている。さらに黒寛もその翌年1959.8月に、当時すでに「日本トロツキスト連盟」を改称して、「日本革命的共産主義者同盟」となっていた組織からスパイ問題によって除名される。こうして結局残ったのは、「トロツキスト連盟」結成後に参加した関西のグループと、その影響下に獲得された学生同盟員であった。

 (太田氏の関連サイト「太田龍・氏のネオ・シオニズム研究」)
(私論.私見) 太田の脱落について
 「日本革命的共産主義者同盟小史」では、太田派の脱落を「革共同第一次分裂」と看做している。れんだいこは、トロツキズム運動史としては内田派脱落に続く「第二次分裂」とみなす。

 2006.10.14日 れんだいこ拝

【「太田派の脱落」考】

 太田竜・氏らのグループが関東トロツキスト連盟を結成して革共同から分離することとなったが、その背景はどのようなものであったのか。「太田派が全体討議を拒否した」と云われているが、何事も片方の意見を聞くだけでは真相が見えてこない。判明することは次のような理論対立である。この時太田は、トロツキーを絶対化し、トロツキーを何から何まで信奉しそれを唯一の価値判断の基準にする「純粋なトロツキス ト」(いわゆる「純トロ」)的対応をしていたようである。

 太田派は、「パブロ修正主義」と呼ばれる理論を尊重し、ソ連を「労働者国家」とした上で、「反帝国主義、ソ連労働者国家無条件擁護」の戦略を採った。後にソ連の原水爆実験が行われたときもこれを無条件に擁護することとなる。これに対し黒寛派は、「トロツキズムは批判的に摂取していくべき」との立場を見せており、そうした意見の食い違いとか第四インターの評価をめぐる対立とか大衆運動における基盤の有無とかをめぐっての争いとなり、これが原因で「革共同第一(二)次分裂」へと向かうこととなったとされている。黒寛派は、「反帝国主義、スターリニスト官僚(政府)打倒」の戦略を採った。後に「反帝.反スターリン主義」へと純化していくことになる。ソ連核実験の際には反対という立場に立った。

 この時のトロツキー評価をめぐる太田派と黒寛派の違いについて、黒寛は次のように明らかにしている。

 「我々の反スターリン主義のバネは、確かにとトロツキズムの摂取と主体化によって形作られた。だが、我々は百%.トロツキストたりえなかった。それは我々が『サルトル的義憤』に『共鳴』した『実存主義者』であったからではない。左翼反対派の戦いの伝統が完全に欠如したわが国において、革命的共産主義運動を創造せんとする、我々のこの主体的な苦闘にとっては当然にも、既成のもの−例えトロツキズムであったとしても−への乗り移りは、スターリン主義者としての死滅への途と同様に唾棄すべきものでしかなかったからである。にもかかわらず、この主体的な構え方を、わが俗流トロツキストは『プチ.ブル的だ』と烙印した。こうした運動のそもそもの発端における、我々と自称トロツキストとのこの決定的な違いの根拠を哲学的次元にまで掘り下げて追及することが、さし迫った課題として浮かび上がってきた」(黒田寛一「革命的マルクス主義とは何か」)。

 この分裂後黒寛派が中央書記局を掌握することとなった。次のように勝利宣言している。

 「革命的マルクス主義の立脚点をあきらかにし、革命的指導部を確立するための闘争は、しかしけっして平坦なものではない。それはまず、トロツキズムをセクト的教条的に獲得しつつ、現実にはパブロ書記局の方針をうのみにしようとする太田竜に人格的表現をみる偏向との闘争として、進めなければならなかった」。
 概要「太田竜派の活動における政治的力学の無知ないし無視からうまれるこうした組織戦術の誤謬の根底にあるトロツキー・ドグマチズムの誤謬こそは、トロツキーの歴史上の弱点のデフォルメでもあった。かくして太田は、 第四インターが世界的にも国内的にもいまだ十分に大衆を獲得していない事実を、『23年以後のロシア・スターリン主義者の反動の圧力の強さ』などに結びつけていく客観主義に転落する。世界革命の一環としての日本革命の実現、ここにこそわれわれのいっさいの価値判断の基準があることを明白にしつつ、われわれはトロツキズムを反スターリン主義→革命的マルクス主義の最尖端としてとらえかえし、マルクス主義を現代的に展開していくものでなければならないであろう」。
  「こうした太田の教条的セクト的傾向は、ソ連論をめぐる内田の対馬的傾向との闘争において色こくあらわれた。第5回大会出席後、さらに極端となった太田は、日本における左翼反対派の活動をすべてパブロ分派とのみ直結させようとする陰謀となってあらわれた」。
 「我々革命的共産主義者は、このようなトロツキー教条主義、トロツキスト分派の教条主義と、明白に且つ公然と決裂することを宣言せざるを得ない。けだし我々は、トロツキー及びトロツキズムの成果と欠陥と誤謬をはっきり認識し、その上でそれらをマルクス主義の発展線上に正しく位置づけるとともに、それを生きた現実へ適用することを通して同時にそれをも超えてゆかねばならないとする実践的立場を拠点とするからに他ならない。わがトロツキストたちには、こういう主体的で実践的な立場が完全に欠如している」(「探究」第3号「革命的マルクス主義とは何か」参照)。

 ただし、9月になると、黒寛は大衆闘争に対する無指導性が批判を浴び、党中央としての指導を放棄させられているようである。


【太田派が「トロツキスト同志会」創設】
 58.8月、JRから分裂した太田はほんの数名で「関東トロツキスト連盟」を結成し、9月、「日本トロツキスト同志会」(「トロ同」)へと改称した。翌59.1月、国際主義共産党をつくり、8月に第四インター日本委員会へ歩みを進めていくことになる。「トロ同」には二つの学生グループ(東大・東学大の火曜会と日比谷高校グループ)が列なった。東学大のメンバーと、新たに都学連と社学同都委員会の東大メンバーが参加した。間もなく、黒寛から180度コペルニクス的に転回した遠山も加わった。

 太田は、「トロ同」を政治組織にし、機関紙「労働者の声」を週刊で発行し始めた。月刊で機関誌「永久革命」も刊行し、そのほかトロツキーの論文をパンフレットにして送り出した。「トロ同」の文書活動は確かに旺盛であった。JRがちょうど中央書記局活動が停止し、9月から「世界革命」も刊行されていないのにくらべて、「トロ同」の活動は活発で、東京では第4インターナショナルの活動はJRではなく「トロ同」が代表した観を呈していた。

 太田は58年秋からかねて念願の加入戦術を実行に移した。日本社会党への「加入戦術」 を行い、学生運動民主化協議会(学民協)と言う組織を作り、当時の学生運動の中では右寄りな路線をとっていくことになった。すでにこの頃になると、東大、東学大の他にいくつかの大学や看護学院などに「トロ同」のメンバーが拡大していた。顔の割れている大国を除いて、「トロ同」のメンバーは全面的に社会党の地区組織に入党手続をとった。当時社会党には組織も運動もなかった。党は議員と労働官僚の連合寄合い世帯にすぎず、大衆運動の活動家はいなかった。とくに東京の社会党は地区活動もなく、地区労運動も日共のヘゲモニーに握られていた。

 この時加入して、後の三多摩加入活動に到るまでの一貫した地区加入活動を推進したのが遠山である。三多摩は同じ東京でも、地区活動の可能性を幾分かはもっていた。社会党は未だ社青同運動も開始していなかったが、加入活動は遅々として進まなかった。その後、学生活動家が群をなしてブントへ流入していく状況が「トロ同」のメンバーのあせりをたかめていった。

 1960.11月、「日本トロツキスト同志会」から「第四インター日本支部」に改称。1965.3月、第四インター国際書記局から日本支部として正式に承認される。70年闘争では街頭闘争を敢行したが、後に不祥事や指導部の分裂などが続き、1991年に第四インターナショナルから除名された。除名を機に「日本革命的共産主義者同盟(JRCL)と改称した。
太田氏はその後、太田氏はアイヌ解放運動に身を投じていき、最近では「国際的陰謀組織フリーメーソン論」での活躍で知られている。 

【太田派脱落後の革共同】
 「日本革命的共産主義者同盟小史」を参照する。

 太田竜が分裂したJR第7回全国代表者会議は、太田なき後の体制として、黒寛政治局員のもとに、書記局に大川、遠山、山村を任命し、新中央体制が発足した。しかし、遠山は太田が分裂して行ったのを追い、黒寛に絶縁宣言して「トロ同」に加盟した。書記局の中心を担った大川はその活動をJRの独立組織活動を放棄して、ブント構想への便乗に主力を注ぎ始めるという具合で早くも座礁し始めた。

 JRは東京で新しいメンバーとして都学連グループを58.10月ごろ組織し、ブント結成における全国的ヘゲモニーに備えたが、方針が定まらなかった。58.12月、全学連主流派の学生党員をほとんど結集して共産主義者同盟(ブント)が結成された。ブント結成は56年の学生運動の昂揚から開始したトロツキズムにとっての「開かれた可能性」に終始符を打った。ブントは左翼中間主義としての性格をあらわにして、トロツキズムと敵対する過程に入った。

 これより後は、「第4期その3、新左翼系=ブント・革共同系全学連の自律に記す。革共同史その後については「黒寛・大川スパイ事件」に記す。





(私論.私見)