黒寛考 |
【黒寛履歴】 |
1927年生まれ。実家は府中市の病院である。旧制東京高校(後の東大教養学部)を病気のため中退。その頃すでに何冊か著書があり、それを読んだ学生らが彼の元に集まり始める。その組織は「弁証法研究会・労働者大学」と名乗った。「探求」という雑誌も創刊した。54年頃には結核菌により失明、本も読めなくなったが、秘書に読ませて勉強を続けた。 1958.2月、革共同結成、議長に就任。60年安保時代は黒メガネに登山帽という格好で講演し、「黒田節」と呼ばれるその語りに学生らの人気があり、「クロカン」とも呼ばれた。62年、参院選に出馬するが2万票しか集められず落選。全国委員会は後の中核派指導者・本多延嘉と作った。 1963年、革共同全国委員会から分裂、革マル派を結成、議長に。中核派との抗争が激しくなると、実家の離れに住み、マルクス主義の研究に明け暮れた。一部の幹部とだけ接するだけで、公に姿を現さず、演説などもテープレコーダーを使って行なった。96年10月、議長を辞任。事実上の引退であるが、影響力を持ち続けた。 2006.6月下旬、埼玉県内の病院で肝不全のため死去。享年78。 |
(私論.私見)