全学連運動史第10期その1、1980年代の学生運動

 (最新見直し2006.10.15日)

 これより前は、「第2期その2、戦後学生運動の考察/70年代の学生運動に記す。



【1980年の動き】 「戦後史80年当時」

 春、遠方から派、活動停止。


 1.7日、駒場の東大教養学部、北寮の一室で、寮生10人が懲罰委員会を開いていたが、反帝学評と見られる12、3人の学生が室内とと廊下にいた計100人に殴りかかり、11人が負傷した。襲った学生は逃げたが、うち3人は逮捕された。大学の拠点化をめぐり、対立セクトの革マル派とにらみ合う反帝学評は、前年末、他大学の学生を呼ぶなどして、東大の一部を占拠し立てこもった。このことで、寮生から「不法占拠だ」との批判を浴び、反帝学評を懲罰にかけることとなった。


 2.5日、文京区向ヶ丘のアパートで、この部屋の東大文学部4年の男性(当時24歳)が寝ていたところ、ヘルメットをかぶった4人組の男が窓ガラスを割って押し入ってきた。男性は鉄パイプで全身を殴られ重傷、一緒にいた女友達(当時21歳)も頭に大怪我を負った。男性は革マル派の集会に出たことがあった。


 2月、「戦旗派(荒派)」は、名称が他と紛らわしいとして「戦旗・共産同」と改称しました。


 5.2日ワシントンで大平.カーター会談。


 5.5日、千葉県安房の旅館「権兵衛」で、西洋史研究会の合宿中、「トミオカはいるか」と入ってきた6人の男におそわれ、助教授が死亡、学生2人が重傷、1人が軽傷。メンバーの17人に「トミオカ」という名字の人はおらず、また死亡した助教授も東大在学中に学生運動をしていたことはあったが、近頃はどのセクトにも繋がりを持っていなかった。革労協は「革マルの秘密メンバーを殲滅」という声明。


 5.18−26日、韓国全羅南道の中心都市.光州で反政府蜂起暴動発生。18日未明、全土戒厳令が敷かれた。金大中連行される。市民ぐるみの蜂起に発展、連日市街戦が展開された。数千人が犠牲になった。
 5.30日大平正芳.鈴木善幸の交代。大平は80.5.30日、新宿駅前で参院選初日の演説中、のどの痛みを訴え、31日未明、東京.虎ノ門病院に入院。6.12日心筋梗塞のため死去。同日伊藤正義官房長官が首相臨時代理に就任した。後継候補は本命中曽根康弘、対抗河本敏夫、ダークホース宮沢喜一が下馬評だった。自民党総務会は西村英一副総理に後継指名を一任したものの、3候補の調整がつかなかった。
 6月初の「衆参同日選挙」。

 7.9日、東京で伊藤臨時首相代理.カーター会談。


 7.17日、意外な候補であった鈴木善幸が急浮上、首相指名された。鈴木内閣発足。


 7.20日夜、練馬区高野台の路上で、豊島郵便局に勤める男性F(37歳)が、覆面の7、8人の男に鉄パイプで殴られ、28日に病院で死亡した。中核派の「革マルの活動家を殲滅した」という声明があった。


 7月国際主義派、日共(プロ革)と統合し、日共(行動派)結成。

 8月竹下登自民党選挙制度調査会長

 8月、鈴木首相以下18閣僚で靖国神社参拝。

80.9鈴木38.21
82.12中曾根39.31
87.12竹下30.20
89.6宇野22.40
89.9海部31.27
91.12宮沢31.22
93.8細川75.9
94.4羽田43.23
94.7村山40.31
96.1橋本59.16
98.8小渕25.48
2000.4森40.24


 10.30日午前10時45分、大田区南千束の区立洗足池図書館前の路上で、10数人が乱闘しているのを通行人が見かけ、近くの派出所に届けた。警官が駆けつけると、路上には5人の男性が滅多打ちにされて倒れており、全員すでに死亡していた。5人とも頭を狙われ頭蓋骨骨折の即死状態で、辺りには鉄パイプなどが散乱していた。

 襲ったのは7、8人のグループ。白ヘルに黒マスクで、作業着やジーンズなどを身に着けていた。彼らは警官が来る前に二台のトラック(盗難車)に分乗して逃走したという。事件直前には図書館裏の保育園駐車場に若い男4人が外をうかがうように隠れており、園長が「どうしたのですか?」と尋ねると、「車をぶつけられてね」と答えていた。犯人は現場に通じる交差点で、現場方向に向かう車両や通行人を迂回させたり、あらかじめ付近の電話線を切断するなどしていた。

 亡くなったのは元千葉大生A(28歳)、元明大生B(30歳)、元東工大生C(29歳)、元明大生D(29歳)、東工大生E(24歳)の5人。所持品などから革マル派とわかり、Eを除いて凶器準備集合罪などで逮捕歴があった。亡くなった5人は69年から続く内ゲバ事件で80人目の被害者。1度の内ゲバで5人が死亡というのは最多である。

 この事件について、中核派は「我が革命軍は…カクマルジャックの集団を捕捉し…壊滅的打撃を与えた」「5人は3・14本多書記長殺害の下手人である。反革命革マル派に対しては、さらに第二、第三の”10・30”を慣行する」などと犯行を自認。翌年に中核派活動家が指名手配されたが、時効が成立した。

 この後、指名手配された男とその母親が、「えん罪だったのに潜伏生活を強いられた」と都に損害賠償を求める訴訟を起こした。04年3月に東京地裁で300万円を支払いを命じる判決が下されたが、05年10月の二審では一審を破棄、請求を棄却している。



【1981年の動き】 「戦後史81年当時」

1.20日ロナルド.レーガン第40代大統領に就任。


 6月、革労協では77年に書記長を殺害されてから「徹底報復を主張する軍事路線の狭間嘉明らの学生活動家出身グループ「狭間派」と、大衆闘争・労働運動を重視する佐々木慶明率いる労働者グループ「反狭間派」が対立していたが、81年6月に分裂した。


 9月革命の旗派と紅旗派が統合し、赫旗派を結成。
81年以降革労協.反帝学評は学生の武闘主義グループを中心とする狭間派と労働者組織を重視する労対派に分裂。



【1982年の動き】 「戦後史82年当時」

 82党名誉議長就任 戦後党史(二)【ミニ第C期】  以降82年に宮本が党名誉議長に就任して以降志井書記長が誕生するまでの間を戦後党史二期の【ミニ第C期】となる。 84日本原水協大鉈、幹部大粛清。代表幹事吉田嘉清.草野信男追放。江口朴郎.小笠原英三郎.古在由重ら党歴30数年の学者党員たちを「党中央の指示に従わぬ」という理由で、除名。 85ゴルバチョフ書記長就任 91ソ連崩壊  宮本む.袴だ.戎谷春松.高原晋一.岡正芳.松島治重.蔵原惟人.米原    出席するが発言はしない。全て宮本議長の意見に賛成。こういう幹部。     志が.鈴木市蔵   .................. 昭和3.3当時の党中央委員会は渡辺委員長.市川正一、佐野学、鍋山差立ちか、国了.山本懸蔵.杉浦啓一.中尾勝男の8名。

6.18日東京地裁で連合赤軍メンバーに判決が為された。永田洋子死刑、坂口弘死刑、植垣康博懲役20年。

11月竹下登蔵相(中曽根内閣)
83年度予算案では、一般歳出がマイナスの中、防衛費だけは6.5%の突出、聖域化を強めた。



【1983年の動き】 「戦後史83年当時」

 2.27日成田空港反対同盟(三里塚芝山連合空港反対同盟)が北原派と熱田派に分裂。支援党派も系列化される。中核派が北原派を、第四インターは熱田派を支援。

 9月赫旗派中央委少数派、首都圏協議会を結成。
83年度政府予算案  一般歳出が前年比マイナスの中で、防衛費だけ6.5パーセント突出。中曽根内閣。  82党名誉議長就任   3.24マッカーサーは、「中国本土の攻撃も辞せず」と発言し、大統領権限を無視したことから、4.11日罷免される。後任にリッジウェー中将が任命された。傷リlZd@+jZt¥x¥f 戦後党史(二)【ミニ第D期】  志井書記長が誕生してから現在までの間を戦後党史二期の【ミニ第D期】となる。  72年……30万党員 ・73年……30数万党員 ・76年……38万党員 ・77年……40万党員 ・80年……44万党員 ・82年……48万党員 ・85年……48万党員 ・87年……49万党員 ・90年……50万党員 ・94年……36万党員毎日新聞世論調査
9.24日原水協全国常任理事会、原水爆禁止運動連絡委員会問題、意見不一致。83世界大会準備委員会の組織問題についての「5項目の確認」。
9.26日83世界大会準備委員会、原水爆禁止運動連絡委員会の組織化、原水協、平和委の反対で不成立。

10月田中元首相一審実刑判決



【1984年の動き】 「戦後史84年当時」

 「原水協で何がおこったか」(長崎肇.日中出版)
 この年、原水協事件が発生している。解明を要する事件であるにも関わらず、正確な事件の概要が伝えられていない。1955年の原水協設立以来、一貫して平和運動の先頭で精力的に戦ってきた吉田嘉清代表理事がその座を解任されるという事件が起こった。これから見るとおり、党より為す大衆団体への人事に対する公然たる介入であり、ここでも宮本氏の号令一下の音頭取りが見られ、胡散臭さが付き纏っている。宮本という御仁は一体ほんとに何をしてくれるのだろう。毎度述べているが、この御仁が左翼運動の前進のために寄与したことがあれば、一つでもよいから教えて欲しい。私には少しも見当たらない。左翼運動に場違いな人物のように思われる。
 事件の経過はどうだったのか。吉田氏はれっきとした党員であったが、何故に赤旗で非同志的に掣肘され続けられたのか。70年代初頭の新日和見主義事件同様に赤旗キャンペーンだけでは到底真実に辿れない。見誤ってならないことは、吉田氏の主張こそが正義で有ろうとも同氏のパージは行われたであろうということである。なぜなら、同氏らのリーダーシップが戦う自主的な主体性を維持した団体構築運動であったが故に。原水協事件は、ここでも戦闘的左翼あるいは又そうでなくてもその可能性を秘めた大衆団体の「双葉の芽を摘む」事件であったのではなかろうか、という観点から以下考察する。
 1977年「5.19合意」により、1963年以来の14年間の運動の亀裂を解消することに成功していた。
2.6日核巡航ミサイル.トマホークくるな国民連絡センター発足。原水協、平和委員会、安保破棄中央実行委員会が提唱。
3.30日84原水爆禁止世界大会準備委員会発足。
4.5日赤旗無署名論文「統一の路線と分裂の路線」。
4.8日日本平和委員会第4回常任理事会、次期大会で役員は留任を原則と決定。
4.9日84世界大会準備委員会第一回運営員会。平和行進の名称、主催、コース、スローガン等の確認。実施方法については不一致。
4.12日世界大会準備委員会事務局会議。平和行進実施方法について協議、案作成。事務局案は結局まとまらなかった。特に団体旗を認めるのかどうかで議論が白熱した。総評と原水禁が団体旗の取下げを主張し、平和委員会と原水協が自由を主張してデッドロックに乗り上げた。特に問題になったのは、統一労組懇の旗であり、総評.県評がこれに強硬に反対するという背景があった。つまり、労働運動内部の問題が、反核平和運動にそのまま持ちこまれたという事態になった。
4.24日生協連や地婦連などの7市民団体が、平和行進実施方法に団体旗自粛を織り込むことを含む調停案で合意。翌25日、原水協−平和委員会、原水禁−総評に申し入れた。事務局団体会議も、この申し入れを検討。
4.26日原水協−平和委員会は無条件受諾。大同につき小異を捨て、出来るだけ一致点を拡大するという政治的観点から対応した。4.27日原水禁−総評も受諾。
4.28日84世界大会準備委員会事務局会議。5.8日84世界大会準備委員会第二回運営員会。
5.14−15日原水協第52回定期全国理事会。市民団体の申し入れの受諾を満場一致で可決。原水協の役員は任期一年で毎年開かれる全国理事会で選出されるというのが会則第8条であった。これに基づき、草野信男代表委員、吉田嘉清代表理事らを満場一致で選任した。この時のこととして、佐藤行通問題も発生している。同氏は、反核平和戦略研究会を主催していたが、小森氏からこれが分派だと執拗に攻撃され、それが翌日の赤旗に出るという状況があった。問題は、果たして、大衆運動の中に分派問題なぞ原理的に問い得るのかということになるが、赤旗がこれを支援していることを考えれば代々木ではそう解釈しているということになる。暫し各自瞑して愚考せよ。
5.15日、日本共産党個人選出理事、津川久義から小森良夫に交代。
5.18日共産党幹部会、原水協に「誤りや否定的傾向」があり、「その克服が内外で急務」と指摘。
 5月マル労同、社会主義労働者党に改称。
 5.20日赤旗、「原水爆禁止運動の根本問題」。5.26日統一労組懇、新婦人ら原水協に団体旗自粛の撤回要求。
5.27日核トマホークくるな全国統一行動、横須賀中央集会など9箇所。
5.28日84世界大会準備委員会第三回運営員会。団体旗問題で激論。
5.29日国民平和大行進実行委事務局団体会議で、「口頭了解事項」破棄通告を決定。
6.1日日本平和委員会運営員会の森賢一事務局長が突然辞意表明した。この時森氏は再任が予定されており、定期大会を目前にした前日に辞表を提出することになった。これを「森解任劇」と云う。その経過はこうであった。森氏は、党中央委員会に呼ばれ、小島優常任幹部会員.書記局次長から、概要「平和委員会などの大衆団体の役員を一切辞め、それは自分から辞めた形を取れ」と申し渡された。公然たる大衆団体への人事の介入であった。
6.2日日本平和委員会第34回定期全国大会。小笠原英三郎会長、長谷川正安理事長辞意。三役空席のまま閉会。この時、憲法学者の長谷川氏は、「判決が先にあって後からそれを取り繕うというようなことは、大衆団体としての自殺行為ではないか」との感慨を述べていた。小笠原氏は、「会長.理事長にまったく何の相談もなく、何かこういった状況の中で突如としてこういったことになることにつきましては、やはり、とても会長としては責任を持てない」と辞意の理由を明らかにした。
6.5日国民平和大行進実行委員会総会。
6.8日赤旗、「平和運動の新しい脱皮への一歩−平和委員会大会論議にみる」で、森事務局長の辞意は当然と論評。
6.9-10日平和委員会第二回全国理事会。人事問題だけの会議として二日間招集された。非公開で44都道府県から代表が参加した。貴重な報告が為されている。概要「あまり顔を見たことのない、出てきたことの無いような人が、非常に多く出てきており、森氏斬るべしと気炎をあげていた」。小笠原英三郎会長、森賢一事務局長が出席していたところ、近藤一雄安保破棄中央実行委員会事務局長や小森良夫党中央委員が「任務放棄をした会長、事務局長をなぜ呼んだのか」等々発言を繰り返し、退席を求めた。女性事務局員が「森解任劇」について発言を求めると、日高教の幹部理事が「従業員黙れ」と発言したと伝えられている。見識の疑われる日高教幹部の発言ではある理事長に福山秀夫副理事長、事務局長に宇藤義隆事務局自重選出、会長空席。
6.13日原水協全国担当常任理事会、団体旗自粛口頭合意のまま破棄通告の経過承認。
6.24日反トマホーク行動デーについて原水協不一致を確認。
6.15日84世界大会準備委員会第四回運営員会。平和行進をめぐり激論、反トマホーク行動デーについても一致せず。
6.16日赤旗記事、「吉田氏が重大発言−平和行進の団体旗問題で」を掲載し、吉田代表理事の発言を批判。
6.17日市民団体7団体が合意破棄は認められぬを内容とする、「市民団体の見解」発表。
6.19日原水協草野代表委員、日本共産党を離党。総評「総評の見解」文書発表。
6.21日原水協常任理事会。「代表理事を辞任するよう」党の決定が為され、小森氏より概要「党の決定としてであること。対外折衝をやめること。準備委員会の役員をやめること。代表理事をやめること」が言い渡された。これより吉田代表理事に辞任要求カンパニアが発生した。未だ党員でもあるにも関わらず、草野.小森と呼び捨ての糾弾が始まった。この非同志的非愛精神はどこから由来しているのだろう。同氏はこれを拒否した。
6.22日原水協、代表委員名で第53回全国理事会開催案内発送。規約上、会則第14条で、全国理事会の招集権は9氏の代表委員に有ったが相談も承諾何もない投函であった。既に5月の段階で定期全国理事会が開催されたばかりであるということと、雲行きが吉田の解任問題であったことから、代表委員の大半は「現状況下での開催には反対」の立場を明確にしていた。しかし、少なくとも開催に同意した代表委員が一人たりともいなかったにも関わらず、代表委員全員の連盟を騙って会が招集された。異常事態の発生であるが、この民主主義的手続きが踏みにじられたやり方自体胡散臭い。
6.23日草野氏ら代表委員6名の名で、今回の全国理事会召集は会則の重大な侵犯であり、違法行為であり、文書の偽造であるとして、「開催案内」を無効とする「第53回全国理事会について」発送。
6.24日反トマホーク行動デー。
6.26日原水協(赤松事務局長)、84世界大会準備委員会田中里子責任者に公開質問状。
6.28日原水協第53回全国理事会。こうして、先の定期の理事会からわずか一ヶ月余で変則理事会が招集された。会則を改正し、代表委員制を廃止し、役員を改選するという暴挙が決行された。吉田代表理事が解任された。これをクーデターといわずしてどういいえよう。広島県原水協の理事長佐久間澄氏は、「政党(共産党)が大衆団体へ過剰な介入をした結果が今回の事態だと思う」と述べたが至当というべきであろう。長崎県原水協の理事長森正雄氏も同様の態度を見せたが、原水協理事に推薦されないという形でポストからパージされていくことになった。
6.29日84世界大会準備委員会田中里子責任者名で原水協(赤松事務局長)に回答。
7.7日長崎.広島間平和行進スタート。
7.9日赤旗、「原水禁運動で、なぜ一部の党員が重大な誤りにおちいったか」。
7.10日84世界大会準備委員会運営委員会、原水協二つの代表問題で紛糾。
7.13日市民団体の一部が草野.吉田両氏と赤松事務局長それぞれと会談。
7.16日赤旗に宮本議長の「原水禁運動と我が党の立場」談話が掲載された。これを見るに、概要「残念ながら今起こっている問題というのは、民主運動にあるまじき問題です。いろんないきさつはありますが、原水協の全国理事会で選んだ新執行部、それらを認めるか認めないかが問題にされ、選任されなかった一部の者が乗り込んで、自分が真の代表だといって頑張っている」という認識を示している。以上見てきた経過からすれば、まるで盗人猛々しい説教強盗の論理であることが知れる。「他の団体の人事問題に干渉して、これを認めないという議論をもてあそんで事実上の干渉を続けることは、自分が持ち上げた石で、大きく自らの足をくだく、そういうことになるということを私は率直に警告したい。そこから起こる一切の困難、一切の紛糾、それは、そういう不当な干渉をやった人が自ら負うべきものである、ということも付け加えたい」とも云う。こういう事実逆転の詐術的物言いが再びここにも登場しており、あまつさえ品の悪い例えで恫喝さえしている。この恫喝も勝てば官軍式の言いたい放題の感がある。実際にそれなりのことをすることを思えば、この権力の由来はどこからきているのであろうと、私は訝る。
7.17日原水協常任理事会が「草野、吉田両名に対する問責決議採択」。
7.20日84世界大会準備委員会運営委員会、「草野、吉田両氏、同委員会の代表委員、運営委員につき『辞意』を中野好夫代表委員を通じて表明。


参考までに、84年の日本原水協事件(吉田代表辞任キャンペーン)のノートを写しておきます。未整理ですが参考になります。ひどい経過を見せています。「原水協で何がおこったか」(長崎肇.日中出版)参考。
 この年、原水協事件が発生している。解明を要する事件であるにも関わらず、正確な事件の概要が伝えられていない。1955年の原水協設立以来、一貫して平和運動の先頭で精力的に戦ってきた吉田嘉清代表理事がその座を解任されるという事件が起こった。これから見るとおり、党より為す大衆団体への人事に対する公然たる介入であり、ここでも宮本氏の号令一下の音頭取りが見られ、胡散臭さが付き纏っている。宮本という御仁は一体ほんとに何をしてくれるのだろう。毎度述べているが、この御仁が左翼運動の前進のために寄与したことがあれば、一つでもよいから教えて欲しい。私には少しも見当たらない。左翼運動に場違いな人物のように思われる。

 事件の経過はどうだったのか。吉田氏はれっきとした党員であったが、何故に赤旗で非同志的に掣肘され続けられたのか。70年代初頭の新日和見主義事件同様に赤旗キャンペーンだけでは到底真実に辿れない。見誤ってならないことは、吉田氏の主張こそが正義で有ろうとも同氏のパージは行われたであろうということである。なぜなら、同氏らのリーダーシップが戦う自主的な主体性を維持した団体構築運動であったが故に。原水協事件は、ここでも戦闘的左翼あるいは又そうでなくてもその可能性を秘めた大衆団体の「双葉の芽を摘む」事件であったのではなかろうか、という観点から以下考察する。

 1977年「5.19合意」により、1963年以来の14年間の運動の亀裂を解消することに成功していた。1984.2.6日核巡航ミサイル.トマホークくるな国民連絡センター発足。原水協、平和委員会、安保破棄中央実行委員会が提唱。3.30日84原水爆禁止世界大会準備委員会
発足。4.5日赤旗無署名論文「統一の路線と分裂の路線」。4.8日、日本平和委員会第4回常任理事会、次期大会で役員は留任を原則と決定。4.9日84世界大会準備委員会第一回運営員会。平和行進の名称、主催、コース、スローガン等の確認。実施方法については不一致。4.12日世界大会準備委員会事務局会議。平和行進実施方法について協議、案作成。事務局案は結局まとまらなかった。特に団体旗を認めるのかどうかで議論が白熱した。総評と原水禁が団体旗の取下げを主張し、平和委員会と原水協が自由を主張してデッドロックに乗り上げた。特に問題になったのは、統一労組懇の旗であり、総評.県評がこれに強硬に反対するという背景があった。つまり、労働運動内部の問題が、反核平和運動にそのまま持ちこまれたという事態になった。4.24日生協連や地婦連などの7市民団体が、平和行進実施方法に団体旗自粛を織り込むことを含む調停案で合意。翌25日、原水協−平和委員会、原水禁−総評に申し入れた。事務局団体会議も、この申し入れを検討。4.26日原水協−平和委員会は無条件受諾。大同につき小異を捨て、出来るだけ一致点を拡大するという政治的観点から対応した。4.27日原水禁−総評も受諾。4.28日84世界大会準備委員会事務局会議。5.8日84世界大会準備委員会第二回運営員会。

 5.14−15日原水協第52回定期全国理事会。市民団体の申し入れの受諾を満場一致で可決。この大会で、原水協の役員は任期一年で毎年開かれる全国理事会で選出されるというのが会則第8条であったのに基づき、草野信男代表委員、吉田嘉清代表理事らを満場一致で選任した。この時のこととして、佐藤行通問題も発生している。同氏は、反核平和戦略研究会を主催していたが、小森氏からこれが分派だと執拗に攻撃され、それが翌日の赤旗に出るという状況があった。問題は、果たして、大衆運動の中に分派問題なぞ原理的に問い得るのかということになるが、赤旗がこれを支援していることを考えれば代々木ではそう解釈しているということになる。暫し各自瞑して愚考せよ。

 5.15日、日本共産党個人選出理事、津川久義から小森良夫に交代。5.18日共産党幹部会、原水協に「誤りや否定的傾向」があり、「その克服が内外で急務」と指摘。5.20日赤旗、「原水爆禁止運動の根本問題」。5.26日統一労組懇、新婦人ら原水協に団体旗自粛の撤回要求。5.27日核トマホークくるな全国統一行動、横須賀中央集会など9箇所。5.28日84世界大会準備委員会第三回運営員会。団体旗問題で激論。5.29日国民平和大行進実行委事務局団体会議で、「口頭了解事項」破棄通告を決定。

 6.1日日本平和委員会運営員会の森賢一事務局長が突然辞意表明した。この時森氏は再任が予定されており、定期大会を目前にした前日に辞表を提出することになった。これを「森解任劇」と云う。その経過はこうであった。森氏は、党中央委員会に呼ばれ、小島優常任幹部会員.書記局次長から、概要「平和委員会などの大衆団体の役員を一切辞め、それは自分から辞めた形を取れ」と申し渡された。公然たる大衆団体への人事の介入であった。6.2日、日本平和委員会第34回定期全国大会。小笠原英三郎会長、長谷川正安理事長辞意。三役空席のまま閉会。この時、憲法学者の長谷川氏は、「判決が先にあって後からそれを取り繕うというようなことは、大衆団体としての自殺行為ではないか」との感慨を述べていた。小笠原氏は、「会長.理事長にまったく何の相談もなく、何かこういった状況の中で突如としてこういったことになることにつきましては、やはり、とても会長としては責任を持てない」と辞意の理由を明らかにした。

 6.5日国民平和大行進実行委員会総会。6.8日赤旗、「平和運動の新しい脱皮への一歩−平和委員会大会論議にみる」で、森事務局長の辞意は当然と論評。6.9-10日平和委員会第二回全国理事会。人事問題だけの会議として二日間招集された。非公開で44都道府県から代表が参加した。貴重な報告が為されている。概要「あまり顔を見たことのない、出てきたことの無いような人が、非常に多く出てきており、森氏斬るべしと気炎をあげていた」。小笠原英三郎会長、森賢一事務局長が出席していたところ、近藤一雄安保破棄中央実行委員会事務局長や小森良夫党中央委員が「任務放棄をした会長、事務局長をなぜ呼んだのか」等々発言を繰り返し、退席を求めた。女性事務局員が「森解任劇」について発言を求めると、日高教の幹部理事が「従業員黙れ」と発言したと伝えられている。見識の疑われる日高教幹部の発言ではある。理事長に福山秀夫副理事長、事務局長に宇藤義隆事務局自重選出、会長空席。

 6.13日原水協全国担当常任理事会、団体旗自粛口頭合意のまま破棄通告の経過承認。6.24日反トマホーク行動デーについて原水協不一致を確認。6.15日84世界大会準備委員会第四回運営員会。平和行進をめぐり激論、反トマホーク行動デーについても一致せず。6.16日赤旗記事、「吉田氏が重大発言−平和行進の団体旗問題で」を掲載し、吉田代表理事の発言を批判。6.17日市民団体7団体が合意破棄は認められぬを内容とする、「市民団体の見解」発表。

 6.19日原水協草野代表委員、日本共産党を離党。総評「総評の見解」文書発表。6.21日原水協常任理事会。「代表理事を辞任するよう」党の決定が為され、小森氏より概要「党の決定としてであること。対外折衝をやめること。準備委員会の役員をやめること。代表理事をやめること」が言い渡された。これより吉田代表理事に辞任要求カンパニアが発生した。未だ党員でもあるにも関わらず、草野.小森と呼び捨ての糾弾が始まった。この非同志的非愛精神はどこから由来しているのだろう。同氏はこれを拒否した。6.22日原水協、代表委員名で第53回全国理事会開催案内発送。規約上、会則第14条で、全国理事会の招集権は9氏の代表委員に有ったが相談も承諾何もない投函であった。既に5月の段階で定期全国理事会が開催されたばかりであるということと、雲行きが吉田の解任問題であったことから、代表委員の大半は「現状況下での開催には反対」の立場を明確にしていた。しかし、少なくとも開催に同意した代表委員が一人たりともいなかったにも関わらず、代表委員全員の連盟を騙って会が招集された。異常事態の発生であるが、この民主主義的手続きが踏みにじられたやり方自体胡散臭い。6.23日草野氏ら代表委員6名の名で、今回の全国理事会召集は会則の重大な侵犯であり、違法行為であり、文書の偽造であるとして、「開催案内」を無効とする「第53回全国理事会について」発送。

 6.24日反トマホーク行動デー。6.26日原水協(赤松事務局長)、84世界大会準備委員会田中里子責任者に公開質問状。6.28日原水協第53回全国理事会。こうして、先の定期の理事会からわずか一ヶ月余で変則理事会が招集された。会則を改正し、代表委員制を廃止し、役員を改選するという暴挙が決行された。吉田代表理事が解任された。これをクーデターといわずしてどういいえよう。被災地広島県原水協の理事長佐久間澄氏は、「政党(共産党)が大衆団体へ過剰な介入をした結果が今回の事態だと思う」と述べたが至当というべきであろう。被災地長崎県原水協の理事長森正雄氏も同様の態度を見せたが、原水協理事に推薦されないという形でポストからパージされていくことになった。

 6.29日84世界大会準備委員会田中里子責任者名で原水協(赤松事務局長)に回答。7.7日長崎.広島間平和行進スタート。7.9日赤旗、「原水禁運動で、なぜ一部の党員が重大な誤りにおちいったか」。7.10日84世界大会準備委員会運営委員会、原水協二つの代表問題で紛糾。7.13日市民団体の一部が草野.吉田両氏と赤松事務局長それぞれと会談。7.16日赤旗に宮本議長の「原水禁運動と我が党の立場」談話が掲載された。これを見るに、概要「残念ながら今起こっている問題というのは、民主運動にあるまじき問題です。いろんないきさつはありますが、原水協の全国理事会で選んだ新執行部、それらを認めるか認めないかが問題にされ、選任されなかった一部の者が乗り込んで、自分が真の代表だといって頑張っている」という認識を示している。(私のコメント)以上見てきた経過からすれば、まるで盗人猛々しい説教強盗の論理であることが知れる。更に宮本は云う。「他の団体の人事問題に干渉して、これを認めないという議論をもてあそんで事実上の干渉を続けることは、自分が持ち上げた石で、大きく自らの足をくだく、そういうことになるということを私は率直に警告したい。そこから起こる一切の困難、一切の紛糾、それは、そういう不当な干渉をやった人が自ら負うべきものである、ということも付け加えたい」。(私のコメント)こういう事実逆転の詐術的物言いが再びここにも登場しており、あまつさえ品の悪い例えで恫喝さえしている。この恫喝も勝てば官軍式の言いたい放題の感がある。実際にそれなりのことをすることを思えば、この権力の由来はどこからきているのであろうと、私は訝る。

 7.17日原水協常任理事会が「草野、吉田両名に対する問責決議採択」。7.20日84世界大会準備委員会運営委員会、「草野、吉田両氏、同委員会の代表委員、運営委員につき『辞意』を中野好夫代表委員を通じて表明。


中核派による第四インターへの内ゲバ事件が発生している。これは成田空港反対同盟の分裂による支援党派の二分解に起因していた。中核派が北原派を応援していたが、熱田派を支援する第四インターを脱落派と決め付けての攻撃だつた。



【1985年の動き】 「戦後史85年当時」

(1985年の動き)

 2月竹下登創政会旗揚げ。田中角栄元首相脳梗塞で倒れる。


 2.5日、和光大学構内で内ゲバ。中核派8人、革マル派1人が負傷した。


 5.7日戦旗・共産同、千葉県山田町の運輸省航空局のレーザーサイトに約五十メートル離れた山中から時限式発射装置により火炎ビン三発を発射、二発が防護壁に命中。埼玉県所沢市の運輸省東京航空交通管制部ビルに約九十メートル先から火炎ビン二発発射、敷地内の樹木をこがした。
 5.20日、日本赤軍岡本公三、パレスチナ・ゲリラとイスラエル側双方の捕虜交換によって、イスラエルの刑務所から14年ぶりに釈放され、日本赤軍のもとへ。
 7月よど号赤軍から、中曽根首相、藤波官房長官あて「無罪帰国」について政府側の意向打診の書簡届く。
 9.4日よど号赤軍メンバー吉田金太郎、ピョンヤンで肝臓病のため死亡。
 12月赫旗派、建党協議会推進グループ(生田グループ)追放。



【1986年の動き】 「戦後史86年当時」

 1月赫旗派首都圏協議会、赫旗派規約・綱領を清算し、赫旗派首都圏委員会と改称。


 1.20日白昼、京大教養学部構内でオルグ活動中の中核派全学連委員長代行福島慎一郎氏(25歳)が待ち伏せしていた革マル派数名に襲われて後頭部乱打により死亡。革マル派は「中核派『軍団』の敵対を完全に粉砕した」などと犯行を自認。







【革労協の内部抗争】
 
◆88年7月1日、京大教養学部構内で内ゲバ。中核派8人が負傷した。
 
この頃から中核派と革マル派に関する内ゲバ事件自体は急速に減少する。それにかわって深刻になったのが革労協の内部抗争で、これは現在まで続き、10名以上の死亡者を出している。


◆89年6月25日午前3時頃、埼玉県川口市のアパート、永井啓之(43歳)方にバールやハンマーを持ったヘルメットの男7、8人が押し入り、白色のルートバンで永井を連れ去った。
 午前10時10分頃、自宅から約40km離れた茨城県牛久市の市道トンネルで、寝袋に入れられた永井の遺体が見つかった。殴られた跡があり、顔は判別できないほど膨れあがり、肋骨15本などが骨折する無惨な状態だった。
 襲撃した犯人はあらかじめ付近の電話線3本を切っておき、永井方のベランダに梯子を架け、侵入したと見られる。

 永井は元革労協(狭間派)の最高幹部であり、実質ナンバー2だった。
 「反狭間派」と別れた同派は狭間・永井を中心に活動していたが、強硬な軍事路線をとる狭間と、大衆闘争で組織を拡大していこうとする永井との間で新たな対立が生まれ、永井は除名処分を受けていた。このことから当初から内ゲバによる殺人事件と見られた。


 6月28日、革労協(狭間派)は都内で記者会見。内部抗争であることを認めた。
「わが党、同盟によって昨年除名、その後敵前逃亡し、加重処分の対象となっていた永井が、永井をめぐる組織防衛上の課程で肉体的に変調をきたし、放したが、その後、マスコミ報道によると死亡した」

 この事件は時効が成立している。



 2.25日ひそかに帰国していた日本赤軍メンバー山田義昭が警視庁出頭、逮捕。
 3.25日戦旗・共産同、東京・千代田区内路上に駐車中の乗用車のトランクに設置された時限式発射装置から皇居に向け火炎弾が発射され、二発が皇居内に落下、一発が発火した。皇居への初の直接的ゲリラ事件。また、港区の路上の乗用車のトランクからもアメリカ大使館へ向けて火炎弾三発が発射されたが、被害なし。
 4月創政会解散。
 5月赫旗派・生田グループら、「共産主義の建党協議会」を発足させる。     
 5月インドネシア・ジャカルタのカナダ、アメリカ、日本大使館への反帝国主義国際旅団の迫撃弾攻撃で、現場近くのホテルの部屋から日本赤軍城崎勉の指紋検出。

 7月竹下登党幹事長。


 9.1日、中核派が大阪、兵庫、埼玉の6ヶ所で、国鉄労組幹部宅を襲撃。この同時多発襲撃事件で、革マル派且つ真国労大阪地本書記長・前田正明(37歳)を兵庫県伊丹市で就寝中を襲い乱打死亡させた。夫人にも全身打撲の重傷を負わせた。 他8人の組合幹部とその家族が重軽傷を負った。  当時、国鉄では、「分割・民営化」を支持する真国労・勤労・鉄労・全施労と、これに反対する中核派の対立が続いていた。中核派は5月に襲撃を予告していた。9.2日、警察は中核派の関西拠点を殺人未遂容疑で家宅捜索し、犯行を認めるビラや鉄パイプを押収した。


 9.26日東京高裁は連合赤軍メンバーに対する判決。控訴を棄却し一審通りの永田.坂口死刑、植垣懲役20年を言い渡した。

 10.14日戦旗・共産同、東京・千代田区の検察庁合同庁舎南側に駐車中の乗用車のトランクの時限式発射装置から火炎弾三発が国会方向に発射され、その周辺や約二百五十メートル先の路上に落下。また、首相官邸方向にも別の乗用車から三発発射され、約二百メートル先のビル屋上などに落下したが、いずれも被害なし。


 10.30日朝、ラッシュ時の赤羽駅構内で、出勤途中のJR東日本の職員が、鉄パイプやハンマーで襲われ、両足と頭蓋骨骨折などの重傷を負った。革労協狭間派は「反革命革マル…を徹底せん滅し、再起不可能状態を強制した…」などと犯行を自認。

 12月松本礼二死去により「遠方から」派消滅。
 旧蜂起左派や旧神奈川左派の活動家を中心にプロレタリア通信派結成



【1987年の動き】 「戦後史87年当時」

 2.23日午前7時頃、茨城県茎崎町の路上で、出勤途中の動労中央本部副委員長が、待ち伏せしていた白、青色ヘルメットの6人くらいの男に襲われ、鉄パイプ、バールなどで滅多打ちにされ両手両足骨折の重傷。中核派が犯行を自認。


 3.6日、戦旗・共産同、千葉県芝山町から新東京国際空港公団工事局に向け時限式発火装置から火炎弾二発が発射されたが、工事局まで届かず被害なし。


 5.18日午前7時20分頃、東京・武蔵野市内の駐車場で、動労拝島運転区渋い院長がJR武蔵境駅まで歩いて出勤中、ヘルメット姿の5、6人の男にハンマー、鉄パイプなどでおそわれ、両手両足骨折の重傷。翌日、中核派は「動労=カクマルへの正義の赤色テロである」と記載したビラを都内数カ所に巻き、犯行を自認。


 7月、経世会結成


 7.12日、戦旗・共産同、千葉、茨城、大阪など全国13ヵ所の成田工事関係の建設会社に時限発火装置を仕掛け、ダンプカーなどを30数台を焼く。


 8.29日午前7時半頃、千葉県船橋市の路上で、東日本鉄道労連、・千葉支部副委員長が自転車で出勤途中、ヘルメット姿の数人の男で鉄パイプで襲われ、両手、両足、顎骨折の重傷。中核派が犯行を自認。


 10月、竹下登、中曽根康弘首相から後継総裁指名を受ける。
 10.29日戦旗・共産同、三里塚空港と空港公団工事局に向け千葉県芝山町から金属塊弾各二発が発射された。被害なし


 11月、竹下内閣発足。
 11.24 日本赤軍丸岡修を東京都内で逮捕。四ヵ月前から帰国していた。


1987年現在、新左翼は、5流27、8派。その活動家総数は約14400名、動員総数約19900名、シンパ層を含めた総勢約35000名と公安当局調査。各党派別勢力は、中核派3420名、革マル派1930名、第四インター1010名、共産同諸派系1640名、革労協解放両派1100名、その他5330名。
革共同系−中核派、革マル派、第四インター
ブント.共産同系−戦旗.共産同、共産同戦旗派、蜂起派、社会主義労働者党、赤軍派
革労協系−解放.狭間派、同ろうたい労対派、
構造改革派系−プロ青同、フロント、日本の声
日共左派系−日本労働党、日本共産党行動派



【1988年の動き】 「戦後史88年当時」

(1988年の動き)

 1月マル青同解散、民主統一同盟結成。

 3.3日、中核派が、群馬県渋川市で革マル派且つ東日本旅客鉄道労組高崎地本委員長を就寝中を襲い死亡させた。

 5.10日3年前からひそかに帰国していた赤軍メンバー柴田勝弘、神戸市内で逮捕。

 6.7日本赤軍泉水博をフィリピン・マニラで逮捕。

 6月自民党税調が3%の消費税導入を決定。

 7月海老原事件以来の死者。計83名。
 7月リクルート.コスモス未公開株疑惑表面化。
 11月自民党が衆院税特別委で税制改革法案を単独強行採決。
 11.10 赫旗派首都圏委員会、赫旗派の分派に終止符を打ち、首都圏委員会派と改称する。
 12月消費税などの税制改革法案が成立。竹下改造内閣発足。



【1989年の動き】 「戦後史89年当時」

(1989年の動き)
1月昭和天皇逝去
2月江副リクルート前会長らを逮捕。
2.28日中核派が、茨城県那珂町の路上でJR東鉄労水戸地本組織部長を襲い死亡させた。
2月昭和天皇の大喪の礼
4月消費税導入
 竹下登秘書青木伊平が自殺。

6.25日解放派狭間派の幹部永井啓之が自宅から連れ出され、茨城県牛久市の県道下のトンネル内に寝袋に入れられて死んでいるのが発見された。解放派内の内々ゲバと判明。
7月参院選で自民惨敗
 7月三里塚芝山連合空港反対熱田派の最大支援党派戦旗・共産同、熱田派と決別。
 11.9日ベルリンの壁崩壊。
 11月解放派最高幹部狭間嘉明が他のゲリラ事件などの容疑とともに逮捕された。同派では内部対立が深刻化。11.7日北海道帯広市で同派の女性活動家が列車内で腹を切って死亡自殺した。

72.9田中支持率53.不支持13
74.12三木47.12
77.6福田27.38
79.3大平27.24

80.9鈴木38.21
82.12中曾根39.31
87.12竹下30.20
89.6宇野22.40
89.9海部31.27
91.12宮沢31.22
93.8細川75.9
94.4羽田43.23
94.7村山40.31
96.1橋本59.16
98.8小渕25.48
2000.4森40.24



12.2日解放派が埼玉県大宮市の路上でJR総連総務部長を襲い、死亡させた。

89.12.27日赤軍派元議長塩見孝也刑期満了で出所。


 これより後は、「第9期その4、戦後学生運動の考察/90年代の学生運動に記す。





(私論.私見)