「戦後学生運動4、60年安保闘争以降64年まで概略」

 (最新見直し2008.5.13日)

【「戦後学生運動4、60年安保闘争以降64年まで概略の概略」】
 60年安保闘争で岸政権を退陣に追い込んだ第1次ブントはその成果を確認できず、60年安保闘争の総括を廻り三分裂、四分裂する。あろうことか、「黒寛・大川スパイ事件」で知る人ぞ知る凶状持ちの黒寛の指導する革共同全国委に雪崩れこむという痴態を見せ分解する。革共同全国委bQの本多氏の革命的情熱に魅せられた面が強かったと云う事情があったようであるが、今から思うに痛恨の極みであった。島・氏のブント再建の動きが垣間見られるが、もはや如何ともし難かった。

 これにより、全学連は、革共同全国委系マル学同の指揮下に入ることになった。以降、全学連は、マル学同と、これに反発する日共系民青同派、同派から分立した構造改革派、第二次ブント創出派、この頃設立された社青同派の都合五派によりそれぞれの活動に向かい始める。やがて、構造改革派、第二次ブント創出派、社青同派が三派連合を形成し共同戦線化する。

 1963年、革共同全国委が中核派と革マル派に分裂する。中核派が構造改革派の代わりに第二次ブント創出派、社青同派との共同戦線に向かい、新三派連合を結成する。この間、民青同派が平民学連を経て自前の全学連を結成し、全学連は、革マル系、民青同系、新三派連合系の三つ巴で競合し始める。この経緯を検証する。

 2006.5.18日 れんだいこ拝


第4史の第1期

1960年後半 【安保闘争後の日共の動き】

 安保闘争後、新たな動きが始まる事になった。日共系民青同は逸早く体制を建て直すが、宮顕指導への反発から構造改革派が分離する。革共同全国委は押せ押せに入り、第1次ブントに対し理論闘争を仕掛け呑み込もうとする。60年安保闘争をもっとも精力的に闘い抜いた第1次ブントは総括を廻って大分裂に向かっていく事になる。これを検証する。(詳細は「戦後学生運動史第6期その」(gakuseiundo/history/history6_1.htm)に記す)

 「60年安保闘争」後、民青同中央はいち早くポスト安保後に向けて指針していることが注目される。その様はブントが満身創痍の中分裂を深めていくのと好対照である。民青同は、先の「第7回党大会第9回中委総」の新方針に基づき6.27−29日、「民青同第6回大会」を開催、「青年同盟の呼びかけ」と「規約」を採択し、民青同の基本的性格と任務を次のように規定した。

1.民青は労働者階級の立場に立って、人民の民主的課題の為に闘う青年の全国組織である。
2.民青は、労働者階級を中心とする青年戦線の中核(後中軸と訂正)である。
3.民青の基本的任務の一つは、マルクス・レーニン主義を学ぶことにある。

 こうして「マルクス・レーニン主義の原則に基づいて階級的青年同盟を建設する」という方向を明らかにし、闘う民青同へとスタンスを明確にしつつ新しい出発の基礎を築いた。ここにはブントら青年運動の急進主義的運動の影響を受けて、穏和路線ながらも闘う主体への転換を企図していた様がうかがえて興味深い。

 注目すべきは、この大会で、書記長宮顕の修正個所が批判を浴びて、当初民青同中央が決定したように「労働者階級の立場に立って、人民の民主主義的課題のために闘う」と改め直したことである。字句遊びのようでもあるが、「人民の民主主義的課題のために闘う」から「人民の民主主義の立場に立つ」へと修正されていた部分を再び「人民の民主主義的課題のために闘う」へと戻したということである。こうして次のように訴えた。

 「現憲法のもとで実現可能な青年の諸権利を獲得するため、法制化と政治的民主主義の拡大をはかること。さらに、青年の統一戦線をつくるために、独占の利潤を制限し、青年を社会的・経済的・文化的に保障する闘いをおこすことが急務である」。

 この経過を見れば、党中央と民青同中央間には一定の反発があったということになる。結果的には、宮顕の引き続きの露骨な介入により、民青同は元の木阿弥の穏和化路線へ再度誘導されていくことになる。宮顕系党中央は、この後の6.29日から開かれた党の「第11中総」で、訴え「愛国と正義の旗の下に団結し、前進しよう」を採択している。

 恐らく宮顕の発議であると思われるが、先の「民族的民主主義」路線とかこの度の「愛国と正義」路線とかを見るとき、この御仁が本当に「日本共産党」の指導者なのかどうか首を傾げざるをえない。宮顕の場合、戦後日本に対するプレ社会主義論を創造しておらず、ズブズブの意図的な体制内化理論として主張しているところに犯罪性が認められる。

 (この時、党内はどのように受けとめたのだろうか。私には、「神様・仏様に手を会わそう」と同じで余程の方でない限り誰もこんなことを一々否定しない無内容さを感じてしまう。その先のレベルで党運動が生まれているように思うけど、マァイイカもう止そう)。

 なお、宮顕は後になって84.7.26日の「民青同第18回大会」を前にした7.12日の党の常任幹部会で、「民青は普通の大衆組織ではない。党の導きを受け、党の綱領に従って行動する党の青年部的組織であるから、役員の選出に当たっても党として事前に検討し、協力と指導を強化すべきだ」と発言している。レーニンの「若い世代は独特な方法で共産主義に近づく」という青年同盟の自発的規律を重んじる発想と随分かけ離れた指導精神の持ち主であることが見て取れる。

 この経過は党史で次のように述べられている。

 「党は、1960年(昭和35年)3月の第9回中央委員会総会第7回党大会で、日本民主青年同盟についての新しい方針を決定し、青年運動の発展に新局面をひらいた。民主青年同盟は、この新しい方針に基づいて同年6月に第6回大会を開催、『青年同盟の呼びかけ』と『規約』を採択し、青年同盟の基本的性格と任務を確立した。それは、新しい情勢のもとで民主青年同盟の当面する任務を、平和・独立・民主・中立の日本の建設と青年の諸要求の実現の為にたたかうことにおき、その民主的大衆的性格と、科学的社会主義を学び日本共産党の導きを受けるという共産青年同盟以来の先進的性格を統一したものであった。これによって、民青同盟は、それまでの性格と任務についての様々な混乱に終止符を打ち、その後の発展の確固とした基礎をおくことになった」(「日本共産党の65年」165P)。

 この文章の中に前述のいきさつを嗅ぎ取ることが出来るだろうか。本当にこのような観点から「民青同第6回大会」が勝ち取られたのだろうか。私は史実の偽造と受け取る。それと、この時点で「科学的社会主義」とかの表現を本当に使っていたのだろうか。実際には「マルクス・レーニン主義を学び」と書かれていたのではないのか。

 この部分が書き換えられているとした場合、後に用法が例え転換されたにせよ、その時点で使われていた表現はそのまま歴史的に残して担保すべきではなかろうか。こうした改竄がやすやすとなされねばならない根拠が一体どこにあって、党中央はなぜそんなことまでするのだろうかが私には分からない。「プロレタリア独裁」についても同じ事だが、なぜ過去の文書まで遡ってかような書き換え修正をなす必要があるのだろう。どなたか執行部側の正義の陳述で説明していただけたらありがたい。


1960年後半 【日共から構造改革派が分派する】

 この頃、日共内外から構造改革派が誕生する。この動きを見ておく。ここに至るまで、党内では宮顕が起草した「党章草案」をめぐって春日(庄)グループが激しく反対していた。これを構造改革派という。

 ここで構造改革論について見ておくことにする。構造改革論の源流は、イタリア共産党書記長トリアッチの提言から始まる。彼は、ソ連共産党第20回党大会における演説で、「イタリア共産党は、10月革命の道をしないで、イタリアの道を歩むであろう」と述べ、ついで帰国後は、国際共産主義運動の「多中心性」を提言すると共に、イタリア共産党第8回党大会において、資本主義諸国が社会主義に向かう道の一つとして「社会主義へのイタリアの道」を決定した。

 その主張するところによれば、「現在では、民主主義的制度に対する圧倒的多数の人民の積極的な支持と経済構造の改革と勤労大衆の闘争によって、支配者である資本家階級の暴力を阻止できる条件が出来ている。この民主主義的諸制度は、独占グループの階級的な試みに対抗して、これを発展させることが出来るものである」との認識に立って「イタリア共和国憲法を尊重しつつ、ファシズムに代わって登場した独占との闘いの為に、労働者、大衆の広い戦線として、これを動員して、国民の多数を左翼に獲得し、憲法に示されている経済、政治などの諸構造の改革を、当面の目的として社会主義建設への道を前進する」というものであった。

 言ってみれば、資本主義の内部における「反独占民主主義」によって資本主義改革を否定し、資本主義の外部にこれに代わる「人民民主主義」、即ち「社会主義的民主主義」の建設を目指すということになる。プロレタリアートの独裁についても、「社会主義社会の建設は、資本主義を打倒する革命、社会主義の勝利、共産主義への移行などの間に過渡的な期間を設定する。この過渡的な期間に於いては、社会の指導は、労働者階級及びその同盟者に属しており、プロレタリア独裁の民主的性格は、旧支配階級の残存に反対し、圧倒的多数の人民の利益において、この指導が実現されると云う事実から生まれている」(1956.6.24.イタリア共産党中央委員会報告)としていた。この理論が構造改革論と言われるようになり、春日(庄)グループらが宮顕系党中央に反対する論拠としてこれを採用することになった。

 こうして誕生しつつあった春日(庄)ら構造改革派は、「党章草案」に見られた戦後日本の国家権力の性格規定においてのアメリカ帝国主義による「従属」規定に対して、日本独占資本の復活を認めた上での日本独占資本主義国家または帝国主義の「自立」として規定し、そこから当面の革命の性質を、「党章草案」的ブルジョア民主主義革命から始まる二段階革命論に対し、社会主義革命の一段階革命論を主張することにより党中央と対立した。

 興味深いことは、こうした規定は、新左翼系の革共同・ブントとも同じ見方に立っていることであり、左派的な主張であったということにある。が、構造改革派の特徴は、この後の実際の革命運動の進め方にあった。「現マル派」として結集しつつあった安東仁兵衛、藤昇、長洲一二、石堂清倫、井汲卓一、前野良、大橋周治、杉田正夫ら構造改革派のイデオローグたちは、前述したイタリアのトリアティの理論及びイタリアの共産党の構造改革の路線を紹介しつつ、党及び労働運動の流れを、反独占社会主義革命の現実的・具体的な展開として「平和・民主・独立・生活向上の為の闘争」へと向かうべきと主張した。

 これが新政治路線として左翼ジャーナリズムをにぎわかしていくことになったが、「平和共存」時代における「一国社会主義」的「平和革命」的「議会主義」的革命運動を指針させようとしていたことになる。つまり、見方によっては、この時点では「敵の出方論」を採用していた宮顕的党路線より右派的な革命路線を志向しようとしていた訳であり、他方で日本の革命方向は社会主義革命であるというヌエ的なところがあった。こうした構造改革論は宮顕式綱領路線と相容れず、宮顕はこのちぐはぐ部分を見逃さず、右派理論として一蹴していくことになった。

 こうして、党から見れば、左派系トロツキスト学生追いだしの後今また構造改革派学生からの反乱を受けることとなり、いそがしいことであった。いずれも指導部の造反であったことが注目される。この後、党と民青同は、構造改革派に握られた全自連の指導権回復に乗り出していくことになる。

 こうした見解の分裂により、翌61年の第8回党大会に至る過程で春日(庄)ら構造改革派は除名され、集団離党していくことになる。その学生戦線として民青同の幹部が連動し分派を結成していくことになるようである。ちなみに、現在の党路線とは、外皮を宮顕系の民族的民主主義革命から始まる二段階革命論で、中身を構造改革系の「平和・民主・独立・生活向上の為の闘争」に向かう「一国社会主義」的「平和革命」的「議会主義」的革命運動と連動させていることに特徴が認められる。これは、不破委員長自身が若き日に構造改革系の論客であったことと関係していると思われる。


1960年後半 【ブント系全学連運動を廻る構造改革派と党の対立】

 ところで、以上のような解説以外に付け加えておくことがある。どうやら、春日(庄)ら構造改革派の離党には、「60年安保闘争」におけるブント指導の全学連の評価問題が絡んでいたようである。春日(庄)らは、ブント的運動を宮顕系の言うようなトロツキストの跳ね上がりとはみなさず、党指導による取り込みないし連帯を指針させていた節がある。

 宮顕系党中央は、ブント運動を次のように規定していた。

 「トロツキストは、その最大の目的が社会主義国の転覆と各国のマルクス・レーニン主義党−共産党の破壊にある。文字通りの反革命挑発者集団であり、また当然にわが国の民主運動の挑発的攪乱者である。彼らの極左的言動は彼らの本質を隠蔽するものに過ぎない。従って、トロツキストは民主運動から一掃さるべきであり、その政治的思想的粉砕は我が党だけでなく、民主運動全体の任務である」(日本共産党第7回党大会.14中総決議)。

 春日(庄)の動きに民青同系の指導幹部・黒羽純久、全自連議長・田村、等等力らが呼応し、「現代学生運動研究会」を組織し、3月に「現代の学生運動」なる書を公刊した。その中で、黒羽らは、むしろ共産党の指導の誤りこそトロツキストを生みだした根源であると云う立場をとり、次のように批判している。

 「トロツキストは、いわば共産党の『鬼子』」であり、「すなわち彼らの大部分は、共産党内部から共産党に愛想をつかし、あるいは『善意』と『革命的良心』をもって分かれていったのである」(現代学生運動研究会編「現代の学生運動」)。

 つまり、「60年安保闘争」における党中央の指針に疑義を表明し、ブント全学連急進主義派の戦闘的闘いを好意的に評価し対立したということになる。


1960年後半 【日共系が全学連から分裂する】

 7.4−7日、全学連第16回大会は三派に分かれて開催されることになった。この第16回大会こそ、全学連統一の最後のチャンスであった。運動論・革命論や安保闘争についての総括について意見がそれぞれ違っても、全学連という学生組織の統一機関としての機能を重視すれば賢明な対処が要求されていたものと思われるが、既に修復不可能であったようである。

 全学連主流派は、全学連第16回大会参加に当たって都自連の解散を要求したようである。都自連を中心とした反主流派は、1.都自連解散要求の撤回、2.第15回大会は無効である、3.8中執の罷免取り消しを要求したようである。それらは拒否された。お互い相手が呑めない要求を突きつけていることが判る。こうして、全学連第15回臨時大会に続き反対派が閉め出されることになり、全学連の分裂が固定化していくことになった。

 こうして全学連第16回大会はブントと革共同全国委派だけの大会となった。反主流派は暴力的に排除されたと云われている。大会では、それぞれの派閥の安保闘争総括論が繰り返され、もはや求心力を持たなかった。委員長に唐牛、書記長に北小路を選出した。「6.19以後の学生と労働者、人民の闘いは、日本帝国主義が安保にかけた二つの政治的目標−国際的威信の確立と国内政治支配の確立−を反対物に転化せしめたがゆえに安保闘争は政治的勝利をもたらした」と総括し、60年秋こそ決戦だとした。

 これに対し民青同系都自連は、全学連第16回大会参加を拒否された結果、自前の全学連組織を作っていくことになり、7.4−6日、全国学生自治会連絡会議(全自連)を結成した。都自連を先頭に全国的な連絡会議の確立に奮闘し一定の支持を受けたと言うことになる。全自連は、全学連の規約を守り、民主的運営の回復のために闘うことを明確にしていた。連絡センターとして代表委員会を選出し、教育大・早大第一文・東大教養学部、神戸大などの自治会代表が選ばれた。

 党は、これを指導し、党員学生がほぼその指導部を制していた。この流れが以降「安保反対、平和と民主主義を守る全学生連絡会議」(平民学連)となり、民青系全学連となる。ところが、この過程で、全自連指導部は前述した構造改革派の影響を受けていくことになった。構造改革派は、東京教育大学・早大・神戸大・大阪大などの指導的活動家等の中に浸透しつつあった。


1960年後半 【第1次ブントが安保闘争総括を廻り大分裂する】

 7.29日、ブント第5回大会が開催された。この大会は大混乱を極めた。「60年安保闘争」が事実上終息し、安保闘争の挫折が明らかになったことを受けて、「ブント−社学同−全学連」内部で、安保条約の成立を阻止し得なかったことに対する指導部への責任追及の形での論争が華々しく行なわれることになった。論争は、この間のブント指導の急進主義的闘争をどう総括するのか、その闘争の指導のあり方や、革命理論をめぐっての複雑な対立へと発展していくこととなった。ブント書記長・島氏は燃え尽きており、既に指導力を持たなかった。

 この過程で指導部に亀裂が入り、この後8.9日から10月にかけて東京のブント主流は三グループ(それぞれのグループの機関紙の名前をとって、革命の通達派と戦旗派とプロレタリア通信派)に分かれていくことになった。(これについては、「第一次ブント運動の分裂過程」(gakuseiundo/daiithijibundco/tushico/tushico_bunretuco.htm)で別途詳述する)

 革命の通達派は、「もっと激しく闘うべきであった」と総括した。8.14日、いわゆる星野理論と言われる「安保闘争の挫折と池田内閣の成立」を発表して、ブント政治局の方針を日和見主義であったと攻撃した。それに拠れば、「安保闘争の中で、現実に革命情勢が訪れていたのであり」、「安保闘争で岸政府打倒→政府危機→経済危機→革命」という図式で、権力奪取のための闘いを果敢に提起すべきであったという。「ブントの行動をもっと徹底して深化すべきであった」、「政治局は階級決戦であった安保闘争を過小評価した」と左から批判した。革命の通達派は東大派とも言われ、東大学生細胞の服部信司、星野中、長崎浩らによって構成されていた。

 これに対し、戦旗派は、ブント的60年安保闘争を否定する立場に立ち「組織温存の観点が欠落した一揆主義であった」と総括した。革命の通達派の主張を「主観主義」、「小ブル急進主義」と規定し、「革命の通達派的総括は前衛党建設を妨害する役割しか果たさない、マルクス主義とは縁のない思想だ」と反論した。彼らに拠れば、概要「この間のブント的指導は、安保闘争の中で前衛党の建設を忘れ、小ブル的感性に依拠した小ブル的再生産闘争であり、プチブル的運動でしかなかった」、「その根源はスターリニズムに何事かを期待する残滓的幻想にあり、前衛党建設のための理論的思想的組織活動の強化を為すべきであった」と主張した。戦旗派は労対派とも云われるが、森田実、田川和夫、守田典彦、西江孝之、陶山健一、倉石、佐藤祐、多田、鈴木、大瀬らが連なった。唐牛委員長、社学同委員長篠原浩一郎もこの派に属したようである。

 プロレタリア通信(プロ通派)派は、全学連書記局派とも云われるが、両者の中間的立場に立って「ブント=安保全学連の闘いは正当に評価されるべきだ」と主張した。この派には、青木、北小路敏、清水丈夫、林紘義らが連なった。

 こうして、第1次ブントは、安保闘争の総括を廻って大混乱し、「ブント−社学同−全学連」の分裂が必至となった。つまり、ブントは結成からわずか2年で空中分解することになったという訳である。結局ブントは、革命党として必須の労働者の組織化にほとんど取り組まないうちに崩壊したことになる。60年始め頃から露呈し始めていたブントの思想的理論的組織的限界の帰結でもあった。

 とはいえ、明大や中大ブントは分裂せずに独自の道を歩んだ。こうして東京のブントは分裂模様を見せたが、「関西ブント−社学同」は独自の安保総括を獲得して大きな分裂には至らなかった。この流れがのちの第二次ブント再建の中心となる。ここまでの軌跡を第一次ブントと云う。


1960年後半 【社会党系の社会主義青年同盟(社青同)の誕生】

 10.15日、社会党の青年運動組織の結成がなされた。社会主義青年同盟(社青同)の誕生である。遅まきながら社会党は、党の民青同育成方針にならってこのポスト安保直後の時点で自前の青年運動創出の必要を党議決定し、誕生させたということになる。

 社青同は、同盟の性格と任務として「独占資本の攻撃に対する統一政策、政治路線、組織路線を明らかにし、活動家の大同団結による青年の強大な戦線をつくり、指導する青年同盟」とし、「労働青年を中心に各層青年の先進的活動家の結集体」、「すぐれた活動家の個人加盟組織」、「日本の社会主義革命の勝利の為に闘う政治的実戦部隊」とする階級的な青年運動を志向していた。

 特徴的なのは社会党との関係であり、「一応社会党から独立した組織とし、現在の社会党に対しては批判はあるが、これを支持し、社会党との間に正式に協議会を持ち、社会党大会には支持団体として代議員を送る」関係として位置づけた。つまり、党と民青同との関係ほどには統制しない緩やかな組織結合を目指したということになる。この社青同はこの後社会党内の左派的潮流を形成していくことになる。ブント運動の花粉が意外なところに運ばれ結実したとも考えられる。


1960年後半 【池田内閣が高度経済成長路線を敷く】

 安保闘争で岸内閣が打倒された。7.15日、第二次岸内閣が総辞職し、7.19日、第一次池田内閣が成立した。池田内閣は、9.5日、「所得倍増政策」発表、12.8日、第二次池田内閣を成立させ、12.27日、閣議で国民所得倍増計画を決定し、いわゆる高度経済成長時代へ舵を切った。

 見落とされがちであるが、日本左派運動は、この高度経済成長路線に対し理論的考察を懈怠している。それは、戦後日本のプレ社会主義性論を創造できず、ステロタイプな資本主義論、帝国主義論の枠組みの中でしか評論できない悪しき習性によっていたのではなかろうか。

 事実は、池田内閣の高度経済成長路線は、戦後日本のプレ社会主義性を踏まえた、その合法則的施策ではなかったか。戦後政府与党を担う自民党内はハト派とタカ派の寄り合い世帯であり、タカ派の岸内閣が打倒された間隙を縫ってハト派の池田内閣が誕生し、池田内閣はその期待に応えたのではなかったか。

 人民大衆は、この池田内閣の高度経済成長路線の人民主義的本質を見抜き、「親方日の丸」式一億一心的官民協力体制に邁進していく事になった。考えようによれば、これを支持するグループこそ日本式土着型の社会主義者であったかも知れず、体制打倒を叫び戦後日本のプレ社会主義性を否定する面々こそ単なる字面追い社会主義者であったかも知れない、と云う皮肉な現象が生まれることになった。


第4史の第2期

1961年 【中ソ対立が公然化する】

 1961.1月、ソ連共産党第22回大会におけるフルシチョフの公然たるアルバニア批判と周恩来のそれへの反論によって中ソ論争が公然化している。アメリカではケネディー大統領が就任している。国際情勢のこの変化も見過ごせないが、ここでは省く事にする。


1961年 【マル学同系全学連の確立】 

 この期の特徴は、三派(社学同・マル学同・民青同)に分裂した全学連内の分裂の動きが止められず、全学連執行部と反執行部が非和解的に対立し始めたことに認められる。ブント−社学同指導部の多くがマル学同に移動したことから、全学連執行部はマル学同が掌握することになった。(詳細は「戦後学生運動史第6期その2」(gakuseiundo/history/history6_2.htm)に記す)

 三分裂したブントの一部が革共同系に流れていった。この様子を見ておくことにする。2月、戦旗派(労対派)は、革命的戦旗派を経て、革共同全国委のオルグを受け入れ、大部分が革共同全国委へ向かった。4.20日、組織を解散させての合同決議を行ない正式に合同した。田川和夫グループはこの流れである(田川氏は、後の革共同全国委分裂の際には中核派に流れ、さらに後の対革マル戦争の路線対立時に中核派からも離党することになる)。

 革通派は、池田内閣打倒闘争の中で破産を向かえた。この派からの移行は記されていないので不明。プロ通派も戦旗派に遅れて解散を決議し、有力指導者ら一部が合流した。ちなみにプロ通派から革共同に移行したメンバーには現在も中核派最高指導部に籍を置く清水丈夫氏、北小路敏などがいた。次のように記述されている。

 「北小路・清水ら旧プロレタリア通信派は、マル学同からまだ自己批判が足らぬとされ、北小路は全学連書記長を解任された。彼らはその後遅れてマル学同へ加盟する」。

 革通派の林紘義一派が独立して「共産主義の旗派」を結成するなど、こうしてブントは四分五裂の様相を呈することとなった。こうして社学同からマル学同への組織的移動がなされ、結局ブント−社学同は結成後二年余で崩壊してしまった。この時期までのブントを「第一次ブント」と呼ぶ。

 4.5日、全学連第27回中央委員会が開かれた。この会議は唐牛ら5名の中執によって準備され、彼らの自己批判的総括とともに、篠原社学同委員長から、「ブント−社学同の解体」が確認され、「マル学同−革共同全国委への結集」が宣言された。こうしてマル学同はブントからの組織的流入によって飛躍的に拡大し、一挙に1千余名に増大することになった。これによって、全学連指導部はマル学同が主導権を握るに至った。

 社学同委員長篠原は、当時の早稲田大学新聞紙上で次のように述べている。

 「共産主義者同盟(ブント)の破産という中で、やはり革共同全国委員会というものが我々の問題として出てきているし、そういったものに結集する方向に社学同を指導するし、共産主義者同盟に指導されていたという社学同というのは解体して、全国委員会の指導のもとにある活動家組織としてのマル学同に個人的にはなるべくすみやかに現実の闘争の中で吸収されていくという方向を、僕は指導して生きたいと思っているんですね」。

(補足論評)、ブントと革共同の間の深淵考
 かくして第1次ブントは解体された。史実は雪崩を打って革共同に吸収されていったが、果たしてそれで良かったかどうか。ここで、ブントと革共同の間に横たわる思想的な根本的差異について考察する。これについては、「ブントと革共同の間の深淵考」に記す。

1961年 【全学連の三極化の動き】 

 マル学同全学の動きに対し、民青同は全自連を通じて自前の全学連創出に向かう事になった。全自連は、3.16−19日、「4全代」を開き、新学期闘争の体制を固めた。5月頃、政治的暴力行為防止法案(政防法)が国会に上程された。右翼テロを口実として暴力行為を取り締まる名目で団体規制を強化しようとするものだった。5.21日、全自連は「非常事態宣言」を発し、5.31日、統一行動を設定し、東大教養をはじめ多くの大学でストライキを決行させている。遂に法案は継続審議に追い込まれ、その後廃案になった。

 他方、ブント−社学同残留組と革共同関西派と新たに生まれた社青同派と構造改革派が新潮流を形成していくことになる。 

 マル学同下の全学連の動きは、1・ポスト安保で闘争疲れしていたこと、2・池田内閣の高度経済成長路線が支持され始めだしたこと、3.ブント全学連的華やかさがなかったせいによってか、諸闘争に取り組むも数百名規模の結集しか出来ぬまま低迷していくことになった。その中にあって、6.6日、3000名が政暴法粉砕の決起大会に結集。6.15日、「6.15日一周年記念総決起集会」に3000名結集。


1961年 【全学連第17回大会前の動き】

 恒例の全学連大会の時期を迎えて、マル学同と反マル学同が思惑を絡めていくことになった。7.6日、マル学同の全国大会。全自連も、7.6−7日、「7全代」を開催し、大会への参加条件について、1.平等無条件参加、2.権利停止処分撤回、3.大会の民主的運営の3項目を決議した。マル学同に移行しなかった旧ブント−社学同と革共同関西派と社青同は、マル学同のイデオロギー的、セクト主義的な学生運動に反発しており、反マル学同で意見の一致を見て、大会前夜に飯田橋のつるや旅館で対策を講じた。これをつるや連合と云う。各派とも全学連の主導権を狙って画策したということであろう。

 マル学同は、反対派を暴力的に閉め出す動きに出た。全自連に対しては、自治会費の未納を理由に全学連から完全に排除し、つるや連合に対しては代議員の数を削減したりして対応したようで、マル学同派による指導部独裁体制を企図した。この手法は前々回、前回の全学連大会より既に見られているので、このやり方だけを見てマル学同を批判することは不当かも知れないが、こうした暴力的手法の常習癖が革共同全国委系にあることはこの後の経過によっても窺い知れることになる。この当時一等秀でた理論的優位性を保持していた革共同全国委系の惜しむべき裏面と私は思っている。

 こうしたマル学同のやり方に反発して、つるや連合側は早朝より会場を占拠して対抗。マル学同はピケを張るつるや連合に殴りかかったがらちがあかず、角材を調達して武装し襲った。こうして会場を奪還したが、これが学生運動上の内部抗争で初めて武器が登場した瞬間であった。この角材ゲバルト使用を指揮したのが清水丈夫全学連書記長であったと云われている。これは清水氏のゲバルト好きのしからしめたものともみなせるし、遅れて革共同に入った清水氏が汚れ役を引き受けさせられたとも受け取れよう。

 興味深いことは、その乱闘の最中に全自連が会場に入って来ようとすると、マル学同とつるや連合は乱闘を中止して、一緒になって全自連を追いだし、全自連が去るとまた乱闘を開始したと云う。これが本当の話であれば、この感覚も一体何なんだろう。この乱闘は二日間にわたって行なわれ、最終的にはマル学同以外は大会をボイコットし、それぞれが大会を開くことになった。


1961年 全学連第17回大会

 全学連第17回大会はこうした状況の中で開催され、マル学同派の単独開催となった。代議員は282名と発表されている。実質は150名以下であったとも云われている。一切の他の党派を暴力的に閉め出した体制下で、大会議長を自派より選出し、議案を採決するというまさにマル学同の私物化された大会となった。大会はブント出身の北小路敏を委員長に選出し(新委員長に北海道学芸大の根本仁を選出したともある。よく分からない)、全学連規約を改正して、全学連の活動目的に前衛党の建設を学生運動の基本任務とする「反帝反スタ」路線を公然と打ち出した。

 つるや連合は、7.9日夜、代議員123名の連名で「我々の退場により、大会は流会したので民主的な大会の続行を要求する」旨決議した。全自連は、67大学125自治会、276名の代議員が集まり、7.10日、教育大へ結集した。ところがこの時詳細は分からないが、全自連指導部は全学連第17回大会指導部と「ボス交」の結果全自連解散を為し、全学連再建協議会を結成したとのことである。恐らくこの時の指導部は構造改革派系であり、全学連の統一を切に願っていた構造改革派とマル学同派に何らかの合意が成立したものと考えられる。


1961年 【日共内で宮顕派独裁が完遂する】

 7.25−31日、日本共産党第8回党大会が開かれ、日共内で宮顕は独裁が確立された。これについては、「日本共産党第8回党大会考」に記す。


1961年 【日共の学生運動指導テーゼ】

 日共は、党大会開催後、「民青同第6回大会、第7回大会路線」を、第8回党大会で強行決議された党綱領によって修正するよう指示し、従わない同盟幹部を排除し、民青同を共産党のスローガンをシュプレヒコールする自動連動装置(ベルト)に替えた。明らかな党による民青同の引き回しであったが、これにより民青同の党に対する盲従が惹起し青年運動に大きな桎梏となっていくことになった。

 第8回党大会で採択決議された党の綱領が「民族独立民主革命」を明確に戦略化させたところから、社会主義を目指す闘争は抑圧されるか後退することになった。日本における社会主義の展望、客観的必然性を青年に示し、日常の闘いと社会主義への志向とを結びつけることを拒否する傾向が強まり、社会主義について沈黙を守る雰囲気が支配的になった。

 これは、日共が、民主主義的「改良・改革」を「革命」と規定するというすり替えから発生しているものと思われる。「二つの敵」を経文のように繰り返すことにより、イデオロギー活動が不燃化させられる要因となった。その結果、同盟員の理論的水準は低下し、その下部組織はサークル化傾向に沈潜していくこととなった。党中央は、なぜこうまでして社会主義意識の培養をしにくくするよう努力するのだろう、としか私には考えられない。

 8.30日、日共党中央は、主要都道府県学対部長会議を開いて、次のような指導をなしたようである。「過去二回の集団転落を生んだ当時の学生党組織の欠陥、弱点を克服して、厳密な学生内党組織の建設を進める為に」と称して次のように定式化している(広谷俊二著現代日本の学生運動)。

 マルクス・エンゲルス・レーニンの古典と日本共産党の綱領、大会、中央委員会の諸決議の系統的学習。トロツキズム、現代修正主義のえせマルクス・レーニン主義の本質を見分ける能力を身につける学習。
 労働者的規律を重んじ、特に党費の納入、中央機関紙を読むこと、細胞会議に出席することなど、党生活の原則を確立し、党中央の諸決議を積極的に実践する。
 地区委員会の指導を強め、学生細胞は必ず地区委員会に集中する。
 学生の共産党への入党は、民青同盟の活動の中で鍛えられ、試された者を認める。
 従って強大な共産党を建設するためにまず民青同盟を拡大し、その活動を活発にし、同盟員のマルクス・レーニン主義の基礎の学習と労働者規律を強める。

1961年 【離党後の構造改革派の動き】

 前年の日本共産党第8回党大会前後の経過で、「反党分子」として除名され集団離党することとなった春日(庄)ら離党組は、10.7−9日、社会主義革新運動(社革)の創立総会を開いた。議長春日(庄)・事務局長内藤。それより前の9月その青年学生組織として青年学生運動革新会議(青学革新会議)を結成した(10.6日ともある)。全自連グループのうち早大、教育大、神戸大、立命館大、法政大、東大などで呼応した。第8回党大会における綱領問題と官僚指導に反対し、離党・除名された民青同盟内の党綱領反対派の活動家と、全自連中央の活動家を中心としていた。
 
 その背景にあったものは、宮顕式の不当な干渉によって民青同を共産主義的青年同盟に発展させる可能性が無くなったという認識に基づいて、マルクス・レーニン主義の原則に立脚する青年同盟の創設の課題を提起していた。青学革新会議の特徴は、この時期党が指導していた新たな全学連の創出を画策するのではなく、ねばり強く学生運動の統一を目指していたことにあった。

 但し、この方針はマル学同の独善的排他性に対する認識の甘さを示しており、遂に叶えられることのない道のりとなった。青学革新会議は、この経過をさし当たりブント急進主義派と社青同との統一戦線を志向しつつ活動していくこととなった。なお、青学革新会議は、「層としての学生運動論」を採用しており、この時期一層右派的な方向に変質させられつつあった民青同に比較すれば幾分かは左派的な立場にあったといえる。ソ連核実験再開への態度の違いも見られた。なお、このグループもまたこの後春日らの統一社会主義同盟と内藤派に分裂する。青学革新会議もこの動きに連動し、春日派は翌62.5月、社会主義学生戦線(フロント.東大教養、神戸大等)、内藤派の系統として63.8月、日本共産青年同盟(共青.教育大等)へと続く。


1961年 【マル学同全学連の「反帝・反スタ」路線】

 9.4−5日、マル学同は、全学連27中委を開き、ソ連核実験反対闘争の方針を決議した。10.7日、マル学同系、社学同系二つの都学連大会。10.15−16日、全学連28中委では、「反帝・反スタ」路線を全面に押しだし、社学同残留派をブント残党派と言いなし、これら諸派を右翼分裂主義者と決めつけ、これと絶縁することを確認した。


1961年 反マル学同の三派連合が形成される

 これに対し、社学同残留派は、社青同派、構造改革派とともに12月に反マル学同の三派連合を形成した。この年の秋の自治会選挙では、マル学同系、三派連合、民青同で激しく争われたが、マル学同系、三派連合が勢力を一定伸張させた。


第4史の第3期

1962年 【全学連の三方向分裂化と反マル学同の分裂】

 これより62年から64年までの動きについては逐一見ていかず、流れの基本方向を追ってみることにする。却ってその方が判りやすいと思うから。原水禁運動、中ソ論争問題等について重要な問題が呈示されていると思うが長くなるので割愛し学生運動内の動きを追っていくことにする。(詳細は「戦後学生運動史第6期その3」(gakuseiundo/history/history6_3.htm)に記す)

 この期の特徴は、正統全学連執行部をマル学同が占め、民青同は別途に全自連→平民学連経由で全学連を再建させていくことになる。これに対して、社学同再建派、社青同、構造改革派が三派連合しつつ全学連の統一を模索していくことになるも、マル学同との間に折り合いがつかず逆に緊張が高まるばかりであった。

 1962.3月、日韓外相会談。4月、キューバ危機、8月、中ソ論争激化。5.25日、池田首相は、大学管理問題として「大学が赤の温床」になっているとして大学管理法の必要性を強調した。民青同系は、この大管法闘争に真っ先に取り組み、この過程で6.1日、全自連崩壊の後を受けて東京学生平民共闘を正式に発足させた(平民とは「安保反対・平和と民主主義を守る」という略語)。この動きが7.14−15日、「学生戦線統一のための全国発起人会議」開催へとなった。全国より70余自治会参加。「安保反対・平和と民主主義を守る全国学生連絡会議」(平民学連)結成を呼び掛け、翌63年平民学連が結成されることになる。ちなみにこの時大管法闘争を重視したのは民青同系と構造改革派系だけであり、いわゆるトロ系急進主義者は闘争課題に設定していなかったようである。

 7月、反マル学同で一致した社学同再建派、社青同、構造改革派の三派が連合して「全自代」を開催した。かれらは全学連再建を呼号し続けたが、折からの大管法に取り組むのかどうかをめぐっての運動方針食い違いが発生し最終的に暴力的な分裂に発展した。ブントは「憲法公聴会阻止」闘争一本槍を主張し、構造改革派が大管法闘争への取り組みを主張した。ブントが武装部隊を会場に導入して、構造改革派派を叩き出してしまった。こうして、連合したばかりの三派連合は空中分解した。

 この動きから判ることは、ブントの組織論における致命的な欠陥性である。一体全体ブント系は、「60年安保闘争」総括後空中分解したまま今に至るも四分五裂をますます深め統合能力を持たない。意見・見解・指針の違いが分党化せねばならないとでも勘違いしている風があり、恐らく「お山の大将」式に星の数ほど党派を作りたいのだろう。なお、意見の相違については、ゲバルトによって決着させたいようでもある。しかし、残念ながら少数派閥化することにより、このゲバルトにおいてもマル学同に対して歯が立たなくなってしまったのは致しかたない。

 私見に拠れば、キャンパス内における反対派封殺がなぜ犯罪的であるかというと、既述したようにも思うが、右翼・宗教運動家らの跋扈には無頓着でありつつ左翼意識の持ち主がテロられる事により、結果として左翼運動が縊死することになるからである。大体において学生内の左派系意識の持主は全体の2割もいれば良い方であり、この2割内で叩き合いをすることにより貴重な人士の輩出が制限されることに無頓着過ぎるのがケシカラナイと思う。

 これも既述したが、元々ブントは、カオス的世界観を基調にして運動の急進主義を主導的に担ってきたという経過がある。「60年安保闘争」の領導には、反対派の存在は許されるどころかそれらを前提としつつ主体的な自派の運動を創出していくことにより圧倒的な支持を獲得してきたという自信が漲っていたのではなかったのか。この前提を許容しえなくなったブントはもはやブントではなく、大衆から見放されるばかりの余命幾ばくかの道へ自ら転落していくことになったとしても致しかたなかろう。この経過もおいおいに見ていくつもりだ。


1962年 【日共と構造改革派の対立】

 この年夏の世界青年学生平和友好祭日本実行委員会で、日共党中央の指示に基づいて民青同の代表は、この間まで運動を一緒に担っていた構造改革派系青学革新会議の参加を排除した。思想・信条・政党・党派のいかんにかかわりなく、平和友好祭は元々平和と友好のスローガンの下に幅広く青年を結集する友好祭運動であったが、理由がふるっている。革新会議はファシスト団体であると言って参加を拒否したのである。昨日まで一緒に「平和と民主主義」の旗印を掲げて闘っていた旧同志たちを、反代々木化したからという理由しか考えられないが、反代々木=反共=ファシズムという三段論法によりファシスト視したのである。

 これを「前時代的な硬直した思考図式」といって批判する者もいるが、私には、宮顕の「芥川論」考察で明示したように、氏の典型的な近親憎悪的気質による「排除の強権論理」の現れとしてしか考えられない。この論理は日本左翼(よその国ではどうなのかが分からないのでとりあえずこう書くことにする)の宿アと私は考えている。いずれにせよ、この平和友好祭には自民党系の青年運動も参加していたようであるから、宮顕式統一戦線論に隠されている反動的本質がここでも見て取れるであろう。

 このことは、第8回原水禁世界大会をめぐっての社青同に対する度を超した非難攻撃にもあらわれている。労働組合運動にせよ、青年運動にせよ組織的自主性を保障することは、党の指導原則であるべきことではあるが、何気ない普段の時には守られるものの一朝事ある時はかなぐり捨てられるという経過を見て取ることが出来る。先のカオス・ロゴス観で仕訳すると、宮顕の場合にはロゴス派の系流であり且つ統制フェチという特徴づけが相応しい。


1962年 大管法闘争

 10月、中央教育審議会が大管法答申を出してくるなど一段と現実味を増すことになった。これを受けて、この時平民学連は、大管法闘争に大々的に取り組んでいくことを指針にした。11.13日、平民学連結成に向けての「全国地方ブロック代表者会議」を開催した。そこで、民青同系105自治会。三派連合86自治会、マル学同51自治会という勢力分布が発表された。占有率40%ということになる。63年中の全学連再建方針を決議した。1ヶ月半後に再び代表者会議が開かれ、民青同系175自治会、反民青同系120自治会と発表した。占有率60%ということになる。この間の自治会選挙で民青同系の進出がなされたということになる。11.17日、「大学管理制度改悪粉砕全国統一行動」を決定し、当日は東京3000名、全国7地区で集会、抗議デモを展開した。

 こうした大管闘争の盛り上がりを見て、三派連合も、更に遅れてマル学同もこの闘争に参入してくることとなった。11.30日、マル学同も含めた四派連合が形成され、約4000名の集会が持たれた。この四派連合に対して、「民主運動の前進しているところには、『なんでも』『どこでも』介入して行き、それまでの自分たちの『論理』も『道筋』も意に介しないトロツキスト各派の無節操ぶりを示してあまりあった」(川上徹「学生運動」)と揶揄されている。

 大管闘争に取り組む姿勢の違いの背景に、民青同系といわゆるトロ系には「大学の自治」に関する観点の相違があることがこの後次第にはっきりしていくことになる。分かりやすく言えば、民青同系は学園民主化闘争を重視し、トロ系はこれを軽視するというよりは欺瞞体制とみなし権力機構一般と同じく打破の対象としていくというぐらいに真反対の立場に立つ。この後この差が次第次第に拡幅していくことになる。この問題もまた左翼運動内の未解明な理論的分野であり、相互に感情的に反発し合うだけで今日に至っているように思われる。この情緒性がたまらなく日本的と言えるように思う。

 ここに真っ当な左派が登場しておれば、戦後日本の憲法秩序をプレ社会主義と規定し、これの護持と成育発展を期すべきであったであろう。これによれば、学園民主化闘争も是であり、体制変革運動も是であろう。但し、土着在地主義的な一国にして国際主義に通用するような革命を目指すべきであったであろう。どういう訳か、そういう風に捉え推進する運動体が居なかった。


1962年 【革共同全国委内で黒寛派と本多派の対立発生】

 9月、「第3回革共同全国委総会」(三全総)時点で、革共同全国委の中心人物であった黒寛とbQの本多氏の間で抜き差しならない意見対立が発生した。これが導火線となって革共同の第三次分裂がもたらされていくことになる。

 大管法闘争に於ける四派連合の直後マル学同内部で対立が発生する。この四派連合結成をめぐって、マル学同が三派との統一戦線闘争を組んだことの是非をめぐって論争が激化していくことになった。全学連委員長根本仁は四派連合結成を良しとせず、これを押し進めた書記長小野田と対立していくこととなった。前者は後者を「大衆運動主義」と非難し、後者は前者を「セクト主義」と非難した。マル学同内部のこの対立は以降抜き差しならないところまで尾を引いていくことになった。


第4史の第4期

1963年 「唐牛問題」発生

 1963年、「中ソ論争」が公然化し、社会主義運動圏に衝撃が走っている。2月、「唐牛問題」が発生している。これを解析しておく。

 2月、TBSラジオが録音構成「歪んだ青春−全学連闘士のその後」を放送し、安保闘争時の全学連委員長唐牛健太郎について、彼が田中清玄(戦前の武装共産党時代の委員長であったが、獄中で転向し、その後行動右翼と活躍していた人物)から闘争資金の援助を受けていたこと、安保後には田中の経営する土建会社に勤めていることなどを、暴露した。これに共産党が飛びつき、「トロツキストの正体は右翼の手先」だと、大量に録音テープを配布し、機関紙「アカハタ」で連日この問題を取り上げた。これが唐牛ひいてはブントの「いかがわしさ」を公認させ、葬り去られる契機となった。これにつき、「唐牛問題(「歪んだ青春−全学連闘士のその後)考」で詳述する。


1963年 【「革共同第三次分裂」】

 4.1−2日、革共同全国委に分裂が発生し、中核派と革マル派が誕生することになった。これを「革共同の第三次分裂」と云う。これにつき、「革共同の第三次分裂考」で詳述する。

 この分裂の直接の契機は、前年の62.9月の「第3回革共同全国委総会」(三全総)時点での革共同全国委の中心人物であった黒寛と本多の間の抜き差しならない意見対立にあり、四派連合問題もまたこの延長線上で発生したものであった。つまり、革共同全国委内の黒寛派と本多派の論争・抗争がマル学同内部にも波及していった結果として四派連合問題をも発生させ、これが導火線となって革共同の第三次分裂がもたらされたという経過になる。

 この抗争は次のように決着することになる。革共同全国委の政治局内部では本多派が多数を占め、「探求派」グループの木下尊悟(野島三郎)、白井朗(山村克)、飯島善太郎(広田 広)、小野田猛史(北川 登)、第1次ブントの田川和夫、陶山健一(岸本健一)、清水丈夫(岡田新)らが連動した。

 黒寛派についたのは現在JR東労組で活動している倉川篤(松崎明)氏と森茂氏らの少数であった。こうして黒寛派は、革共同全国委から出ていくことになり、新たに革共同・革命的マルクス主義派(革マル派)を結成することになった。これが革マル派の誕生である。

 マル学同の上部指導組織の革共同全国委で路線対立が起きたことにより、当然の事ながらマル学同内部にも対立が波及していくことになった。しかし、マル学同では逆の現象が起き、革共同全国委では少数派だった黒寛派はマル学同ではむしろ圧倒的多数派であった。こうしてマル学同内部では革マル派が優勢を保ったため、本多派の方がマル学同全学連から追われ飛び出していくこととなった。本多派は以降新たにマル学同中核派を結成することになった。こうしてマル学同の学生組織も革マル派と中核派に分裂することとなった。これより以後は、革マル派が正統全学連の旗を独占し続け、早稲田大学を拠点に革マル派全学連として存在を誇示し続けていくことになる。この時期中核派は全学連学生運動内に「浮いた状態」になった。


(補足論評)中核派と革マル派の対立考
 中核派と革マル派の対立の背景には次のような観点の相違が介在していた。「革共同の中にも実践派と書斎−評論派との対立があり、それが後の中核派と革マル派との対立になっていったとのこと」(戦後史の証言ブント.古賀)である。大衆運動の進め方にも大きな観点の相違が存在していた。これについては、「中核派と革マル派の対立考」に記す。

(補足論評)革マル派考
 ここで革マル派について言及しておく。 1963.4.1−2日の「革共同の第三次分裂」により革マル派が誕生したが、これにより革共同の主流が漸く黒寛を絶対教祖とする党派へ辿り着いたともみなせよう。その経緯の是非はともかくとして、革マル派とはそもそも何者だろうか。日本左派運動の一派なのだろうか。日本左派運動撲滅請負を旨として悪事を働く偽装左派党派なのだろうか、これにつき正面から分析している論文を知らない。これについては、「革マル派考」に記す。

第4史の第5期

(補足論評)「4.17スト」について
 1964.4.17ストを廻って、日共が犯罪的立ち廻りをしている。これについては「4.17ストについて」に記す。

1964年 【民青系全学連の「全学連再建」の動き】

 7.16−18日、民青同系全学連の先駆的形態として、平民学連が結成された。この大会には、全学連規約に準じて代議員が各自治会から選出された。72大学、121自治会、230名の代議員参加、傍聴者3500名を越えた。平民学連が重視したのは、自治会に関する次のような規約遵守基準を明確にしていたことにある。

 自治会は学生のあらゆる民主的要求を汲み上げ実現すること、自治会はみんなのもの、みんなの利益を守るもの、という観点の明確化。
 民主勢力との統一強化。安保共闘会議に結集し、人民の利益の中でこそ学生の利益が守られることを明確にすること。
 国際学連と共に反帝平和の国際統一戦線としての一翼として、全世界学生との連帯強化。
 自治会の民主的運営を徹底的に保障すること。この立場を貫くためには、学生の分裂を主な目的にした分裂主義者の正体を素速く見抜き、これを追放する闘いが必要である。

 私は、この主張における「自治会の民主的運営を徹底的に保障すること」を支持する。但し、この項目が「学生の分裂を主な目的にした分裂主義者の正体を素速く見抜き、これを追放する闘いが必要である」と結びつけられることには同意しない。この主張はセクト的な立場の表明であり、その意味ではこの文章が接続されることにより「自治会の民主的運営の保障」はマヌーバーに転化せしめられていることになる。そういうセクト的対応ではなくて、「組織の民主的運営と執行部権限」理論の解明は今なお重大な課題として突きつけられていると思われる。この部分の解明がなしえたら左翼運動は一気に華開いていくことが出来るかもしれないとも思う。

 7月現在時点で、平民学連に結集ないし、民主化している自治会224・マル学同27・社学同22・社青同21・構造改革派38という力関係になった。占有率67%ということになる。民青同系が急速に支持を増やしていることが知れる。平民学連は、いよいよ全学連の再建が具体的日程に上ってきている段階と位置づけた。

 9月初め、平民学連が「全学連を再建しよう」という「全国学友への呼びかけ」発表。9.8日、米原潜寄港阻止、アメリカのインドシナ侵略抗議、安保共闘再開要求の総決起大会。1200名の隊列を組んで参加。


1964年 民青同系から民主主義学生同盟(民学同)が離脱

 9月、民青同系から民主主義学生同盟(民学同)が離脱した。先の8.5日に米英ソ三国がモスクワで部分的核実験停止条約を調印し、日共党内はこれを廻り対立し、志賀派が離党していく事になる。これに呼応したのが「民学同」ということになる。同派は1964.7月、民学同は「日本の声」派と合流する。その後、共産主義労働者系と「日本の声」派とに分岐し、10月、「フロント」と共に全国自治会共闘を結成し、構造改革派系新左翼連合戦線を形成している。


1964年 【新三派連合誕生】

 革共同全国委が革マル派と中核派へ分裂した結果、マル学同から追い出された形になった中核派が三派連合に合流していくことになる。この流れで、民青同に続いて三番手の全学連が誕生する事になる。 

 9月、清水谷乱闘事件が発生している。清水谷公園で、連合4派(中核派・社学同・社青同解放派・構造改革派)250人が集会しているところへ、革マル派150人が押しかけ、角材で渡り合う乱闘事態となった。これを「清水谷乱闘事件」と云う。


 9.7−8日、この過程であくまで全学連の全的統一を目指した構造改革派が抜け落ち、社学同再建派、社青同、中核派の新三派連合が誕生することになる。こうして、学生運動内部にはマル学同と民青同と新三派連合系という三大潮流が生まれ、その他に構造改革派系・「日本の声−民学同」派系・革共同関西派系等々という様々な支流が立ち現れることになった。この間旧ブント系の対立は治まらず合同−再分裂と目まぐるしく推移しつつ二度と求心力を持てなかった。この間の主要な動きについて見ておくことにする。

 だが、この新三派連合結成後まもなくブントの内部対立が生じた。特に平民学連に対抗するためにも、従来の政治闘争主義に対する自己批判が必要とする少数派(マルクス主義戦線派=マル戦派と独立社学同)とそうした観点に反発する多数派(マルクス・レーニン主義は=ML派)とに分裂して、ブントの勢力は急速に衰えていった。


1964年 【民青系全学連誕生】

 10.17−18日、全自代開催。正式参加自治会150,オブザーバー自治会35,その他個人オブザーバー35名が参加した。全学連再建のための基準提案が決議された。1、過去のいきさつに関わらず、2、無条件で、3、全ての学生自治会が参加でき、4、全学連規約に従って、再建大会を開催しよう。提案は、賛成128・反対14・保留4で可決された。

 この時反対派の様子が明らかにされていないが、構造改革派とこの頃誕生していた志賀グループの「日本の声−民学同」派の影響下の学生グループであったようである。彼らは、民青同系全学連を新たに創る方向に向かうのではなく、諸潮流との統一を主張し、急進主義者む(トロツキスト)を含めた統一を模索するべきであり、その根回しのないままの全学連再建は時期尚早であるという全学連再建時期尚早論を主張したようである。川上徹著「学生運動」では、「それは惨めな失敗に終わった」とある。 こ

 10.19日、平民学連の呼びかけが出され、学生の中でそれが討論されてくるに及んでこの日、新三派連合も革マル派も構造改革派も含めて連合して、「原潜阻止全国学生連絡会議」を結成した。この流れで全学連再建が議題に取り上げられたが、革マル派は一切の全学連再建は認めないという立場に固執し、新三派は自分たちだけでも即時全学連再建を主張した。構造改革派は、この時も諸潮流の統一を主張したようであるが、さんざん野次られた挙げ句暴力的に発言を阻止された。

 11月、第9回党大会が開催され、民主連合政府構想発表された。この大会で党は、民青同系学生運動に対し次のような指針を与えている。

 「学生大衆との結びつきを強め、反共分裂主義者と有効に闘い、機の熟しつつある学生運動の組織的統一を成功させるように援助しなければならない」。
 「学生運動が、全人民的政治課題に積極的に取り組むと共に、学生の生活上、勉学上の要求、文化、スポーツなどの要求にも十分な注意を払い、広範な学生を結集しつつ民族民主統一戦線の一翼として発展するよう、努力しなければならない」。

 これが、次のように確認されている。
 「こうして、共産党と民青同盟は、学生運動それ自体の発展のために闘いつつ、学生の多面的な要求に基づく闘いを先頭に立って進め、さらに学生が将来も民主的、進歩的インテリゲンチァとして成長していけるように、長期的観点に立った指導を学生党員、同盟員に対して行なった。また、1960年、61年のトロツキスト、修正主義者との闘いの教訓に学んで、労働者規律と理論学習を強めていった」。

 12.10−11日、民青系全学連が「再建」された。全自連→全学連再建準備協議→構造改革派の分離→平民学連→全学連の「再建」という流れで辿り着いた。この夜平民学連は第7回全国代表者会議を開き解散を決議した。こうして、革マル派全学連に続いて二つの全学連が出現することとなった。71大学129自治会から代議員276名、評議員182名。この全学連は順調に発展し、66年7月には全国の大学自治会の過半数(84大学・189自治会)を結集した。68.2月には国際学連の代表権を革マル派全学連から奪い取ることになる。

 川上徹・氏の「学生運動」は、この流れを次のように自画自賛している。
 「(この民主的学生運動こそ)戦前、戦後の進歩的、民主的学生運動の伝統を引き継ぐものであり、現代の学生運動の真の代表であり、かつ、祖国の独立と平和、民主主義を望む幾百千万の勤労人民の良き息子であり、娘である」。

1964年 新三派連合が都学連再建準備大会開催

 12.18−19日、ブント・中核派らが中心になって都学連再建準備大会開催。革マル派は途中退場し、構造改革派は代表を送らなかった。12.20−21日、「全自代」が開かれたが、革マル派は参加せず、構造改革派と中核派が対立して散会した。中核派が全学連即時再建を強く主張したことが原因であったようである。





(私論.私見)