1960年後半 【戦後学生運動第6期その1
安保闘争総括をめぐっての大混乱期(「第一次ブント運動の分裂過程」

 更新日/2022(平成31.5.1栄和改元/栄和4)年.4.7日

 これより前は、「第5期その3、60年安保闘争、ブント系全学連の満展開と民青同系の分離」に記す。

 (れんだいこのショートメッセージ)
 第6期は、1960年の「安保闘争終焉」から始まった。各派が「60年安保闘争」の総括に向かった。逸早く体制建て直しに着手したのは民青系で、余韻燻る情況を勢力拡大のチャンスに結び付けていった。その様はブントが満身創痍の中分裂を深めていくのと好対照だった。6.27−29日、「民青同第6回大会」を開催し、この時、「マルクス・レーニン主義の原則に基づいて階級的青年同盟を建設する」という方向を明らかにし、闘う民青同へのスタンスを鮮明にした。但し、この「左」路線は、宮顕に掣肘され、強権的に元の木阿弥の穏和化路線へ再誘導されていくことになる。

 革共同系−マル学同も、組織を拡大強化していった。ブント指導による「60年安保闘争」の敗北を当然視し、安保闘争におけるブントの闘争の意義を認めるよりは専ら批判を加え、ブント運動の破産を自派勢力拡大のチャンスとばかりに理論闘争を仕掛けていった。曰く、戦術はブランキズムである。曰く、反帝反スターリニズム闘争が不徹底である云々。「革命的な左翼組織として、唯一の党的組織-組織的に存在し、思想的にも体系化されている路線を持つのは革共同全国委だけ」と云われる状態になっていった。

 さて、ブントはどうなったか。既に島−生田指導部は燃え尽き後身に道を譲った。ところが、後継者の地位にたった全学連主流派は、「60年安保闘争」の総括に百家争鳴し求心力を持たぬまま分裂を余儀なくされていくことになった。


【1960年後半の動き】(当時の関連資料)

 お知らせ
 当時の政治状況については「戦後政治史検証」の「1960年下半期」に記す。本稿では、当時の学生運動関連の動きを記す。特別に考察したい事件については別途考察する。

【民青同第6回大会】

 「60年安保闘争」後、民青同中央はいち早くポスト安保後に向けて指針していることが注目される。その様はブントが満身創痍の中分裂を深めていくのと好対照である。民青同は、先の「第7回党大会第9回中委総」の新方針に基づき、6.27−29日、「民青同第6回大会」を開催、「青年同盟の呼びかけ」と 「規約」を採択し、民青同の基本的性格と任務を次のように定めた。

 民青は労働者階級の立場に立って、人民の民主的課題の為に闘う青年の全国組織である。
 民青は、労働者階級を中心とする青年戦線の中核(後中軸と訂正)である。
 民青の基本的任務の一つは、マルクス・レーニン主義を学ぶことにある。

 こうして「マルクス・レーニン主義の原則に基づいて階級的青年同盟を建設する」という方向を明らかにし、闘う民青同へとスタンスを明確にしつつ新しい出発の基礎を築いた。ここにはブントら青年運動の急進主義的運動の影響を受けて、穏和路線ながらも闘う主体への転換を企図していた様がうかがえて興味深い。

 大会に先立ち、党中央の宮顕書記長は、同盟に対して、1.社会主義を目指して闘うことを強調するのは間違いである。民族解放の課題を強調すべきであるとした。「階級的矛盾は民族的矛盾に従属する」と強弁してはばからなかった。2.「マルクス.レーニン主義を学ぶ」という項目は、党の独自活動でやるべきで、同盟自身の性格にすれば幅が狭くなるから掲げない。3.「党の導きを受ける」と党と同盟の関係を明らかにした上で、同盟の自主性を強調したのに対し、それでは事実上共産同盟化するからとそれに反対した。宮顕自ら6回大会の方針に筆を入れ、青年同盟を「階級的立場の同盟ではなく、市民的民主主義を追求する民主的組織」とし、同盟の性格を「労働者階級を中心とする人民の民主主義の立場に立つ」とした。

 注目すべきは、この大会で、宮顕書記長の修正個所が批判を浴びて、当初 民青同中央が決定したように「労働者階級の立場に立って、人民の民主主義的課題のために闘う」と改め直したことである。字句遊びのようでもあるが、 「人民の民主主義的課題のために闘う」から「人民の民主主義の立場に立つ」 へと修正されていた部分を再び「人民の民主主義的課題のために闘う」へと戻したということである。こうして、「現憲法のもとで実現可能な青年の諸権利を獲得するため、法制化と政治的民主主義の拡大をはかること。さらに、青年の統一戦線をつくるために、独占の利潤を制限し、青年を社会的・経済的・文化的に保障する闘いをおこすことが急務である」ことを訴えた。  

 この経過は党史で次のように述べられている。

 「党は、1960年(昭和35年)3月の第9回中央委員会総会第7回党大会で、日本民主青年同盟についての新しい方針を決定し、青年運動の発展に新局面をひらいた。民主青年同盟は、この新しい方針に基づいて同年6月に第6回大会を開催、『青年同盟の呼びかけ』と『規約』を採択し、青年同盟の基本的性格と任務を確立した。それは、新しい情勢のもとで民主青年同盟の当面する任務を、平和・独立・民 主・中立の日本の建設と青年の諸要求の実現の為にたたかうことにおき、その民主的大衆的性格と、『科学的社会主義』(『』は私の書き込み)を学び日本共産党の導きを受けるという共産青年同盟以来の先進的性格を統一したものであった。これによって、民青同盟は、それまでの性格と任務についての様々な混乱に終止符を打ち、その後の発展の確固とした基礎をおくことになった」 (「日本共産党の65年」165P)。
(私論.私見) 「日本共産党の65年」165P記述の欺瞞について
 (ボソボソ)この文章の中に前述のいきさつを嗅ぎ取ることが出来るだろうか。本当にこのような観点から「民青同第6回大会」が勝ち取られたのだろうか。私は史実の偽造と受け取る。それと、この時点で「科学的社会主義」とかの表現を本当に使っていたのだろうか。実際には 「マルクス・レーニン主義」を学ぶと書かれていたのではないのか。この部分が書き換えられているとした場合、後に用法が例え転換されたにせよ、その時点で使われていた表現はそのまま歴史的に残して担保すべきではなかろう か、と思うが如何でしょうか。

 こうした改竄がやすやすとなされねばならない根拠が一体どこにあって、党中央はなぜそんなことまでするのだろうかが私には分からない。「プロレタリア独裁」についても同じ事だが、なぜ過去にまで遡ってかような修正をなす必要があるのだろう。どなたか執行部側の正義の陳述で説明していただけたらありがたい。の持ち主であることが見て取れる。
(私論.私見) 宮顕の露骨な民青同操作について
 この経過を見れば、党中央と民青同中央間には一定の反発があったということになる。結果的には、宮顕の引き続きの露骨な介入により、民青同は元の木阿弥の穏和化路線へ再度誘導されていくことになる。宮顕執行部は、 この後の6.29日から開かれた党の「第11中総」で、訴え「愛国と正義の旗の下に団結し、前進しよう」を採択している。恐らく宮顕の発議であると思われるが、先の「民族的民主主義」路線とかこの度の「愛国と正義」路線とかを見るとき、この御仁が本当に「日本共産党」の指導者なのかどうか首を傾げざるをえない(この時、党内はどのように受けとめたのだろう。

 私には、「神様・仏様に手を会わそう」と同じで、余程の方でない限り誰もこんなことを一々否定しない無内容さを感じてしまう。その先のレベルで党運動が生まれているように思うけど、マァイイカもう止そう)。

 なお、宮顕は後になって84.7.26日の「民青同第18回大会」を前にした7.12日の党の常任幹部会で、「民青は普通の大衆組織ではない。党の導きを受け、党の綱領に従って行動する党の青年部的組織であるから、役員の選出に当たっても党として事前に検討し、協力と指導を強化すべきだ」と発言している。レーニンの「若い世代は独特な方法で共産主義に近づく」という青年同盟の自発的規律を重んじる発想と随分かけ離れた指導精神の持ち主であることが見て取れる。

 6.28日、全学連主流派七百五十名、次期池田治安″内閣打倒抗議集会、自民党本部・首相官邸・国会にデモ。


【構造改革派問題で宮顕系と春日(庄)系の対立】

 この当時、党内外に構造改革派が発生し、宮顕系日共党中央と激しく対立した。この動きを見ておく。党内では、この間引き続いて宮顕が起草した「党章草案」をめぐって春日(庄)グループが激しく反対していた。これを構造改革派という。

 ここで構造改革論について見ておくことにする。構造改革論の源流は、イタリア共産党書記長トリアッチの提言から始まるようである。彼は、ソ連共産党第20回党大会における演説で、「イタリア共産党は、10月革命の道をしないで、イタリアの道を歩むであろう」と述べ、ついで帰国後は、国際共産主義運動の「多中心性」を提言すると共に、イタリア共産党第8回党大会において、資本主義諸国が社会主義に向かう道の一つとして「社会主義へのイタリアの道」を決定した。その主張するところによれば、「現在では、民主主義的制度に対する圧倒的多数の人民の積極的な支持と経済構造の改革と勤労大衆の闘争によっ て、支配者である資本家階級の暴力を阻止できる条件が出来ている。この民主主義的諸制度は、独占グループの階級的な試みに対抗して、これを発展させることが出来るものである」との認識に立って、「イタリア共和国憲法を尊重しつつ、ファシズムに代わって登場した独占との闘いの為に、労働者、大衆の広 い戦線として、これを動員して、国民の多数を左翼に獲得し、憲法に示されている経済、政治などの諸構造の改革を、当面の目的として社会主義建設への道を前進する」というものであった。

 つまり、構造改革派とは、言ってみれば、資本主義の内部における 「反独占民主主義」によって資本主義を改良し、資本主義の外部にこれに代わる「人民民主主義」、即ち「社会主義的民主主義」の建設を目指すとい うことになる。プロレタリアートの独裁についても、「社会主義社会の建設は、 資本主義を打倒する革命、社会主義の勝利、共産主義への移行などの間に過渡的な期間を設定する。この過渡的な期間に於いては、社会の指導は、労働者階級及びその同盟者に属しており、プロレタリア独裁の民主的性格は、 旧支配階級の残存に反対し、圧倒的多数の人民の利益において、この指導が実現されると云う事実から生まれている」(1956.6.24.イタリア共産党 中央委員会報告)としていた。この理論が構造改革論と言われるようになり、春日(庄)グループらが宮顕系党中央に反対する論拠としてこれを採用するこ とになった。

 春日(庄)ら構造改革派は、「党章草案」に見られた戦後日本の国家権力の性格規定においてのアメリカ帝国主義による「従属」規定に対して、日本独占資本の復活を認めた上での日本独占資本主義国家または帝国主義の「自立」として規定し、そこから当面の革命の性質を、 「党章草案」的ブルジョア民主主義革命から始まる二段階革命論に対し、社会主義革命の一段階革命論を主張することにより党中央と対立した。興味深いことは、こうした規定は、新左翼系の革共同・ブントとも同じ見方に立っていることであり、左派的な主張であったということにある。

 構造改革派の特徴は、この後の実際の革命運動の進め方にあった。「現マル派」として結集しつつあった安東仁兵衛・佐藤昇・長洲一二・石堂清倫・井汲卓一・前野良・大橋周治・杉田正夫ら構造改革派のイデオローグたちは、イタリアのトリ アティの理論及びイタリアの共産党の構造改革の路線を紹介しつつ、党及び労働運動の流れを、反独占社会主義革命の現実的・具体的な展開として「平和・民主・独立・生活向上の為の闘争」へと向かうべきと主張した。これが新政治路線として左翼ジャーナリズムをにぎわかしていくことになったが、「平和共存」時代における「一国社会主義」的「平和革命」的「議会主義」的革命運動を指針させようとしていたことになる。つまり、見方によっては、実践的には「敵の出方論」を採用していた党路線より右派的な革命路線を志向しようと していた訳であり、他方で日本の革命方向は社会主義革命であるというヌエ的なところがあった。こうした構造改革論は宮顕式綱領路線と相容れず、宮顕はこのちぐはぐ部分を見逃さず、右派理論として一蹴していくことになった。


【宮顕系と春日(庄)系の対立の背景にあったトロツキスト批判の温度差】
 ところで、以上のような解説以外に付け加えておくことがある。どうやら、春日(庄)ら構造改革派と宮顕派の対立には、「60年安保闘争」におけるブント指導下の全学連の評価問題が絡んでいたようである。春日(庄)らは、ブント的運動を宮顕系の言うようなトロツキストの跳ね上がりとはみなさず、党指導による取り込みないし連帯を指針させていた節がある。

 こうした見解の対立には遠因もあった。かの党分裂時代に春日らは国際派に属したが、所感派の党の団結と統一の呼びかけに呼応したのが春日グループであり、最後まで頑強な抵抗を見せたのが宮顕グループであった。つまり、「50年分裂」時の春日派と宮顕派の折り合いの悪さが内向しており、この機に抜き差しなら無い対立へと浮上していったともみなせる。結果は、党中央を掌握していた宮顕派が優位に立ち春日派が党を飛び出していくこととなった。「六全協」以降の志田・椎野グループ追い出しに次ぐ第二弾の粛清となった。こうして、翌61年の第8回党大会に至る過程で春日(庄)ら構造改革派は除名され、集団離党していくことになる。その学生戦線として民青同の幹部が連動し分派を結成していくことになるようである。

 
ちなみに、現在の党路線とは、外皮を宮本系の民族的民主主義革命から始まる二段階革命論で、中身を構造改革系の「平和・ 民主・独立・生活向上の為の闘争」に向かう「一国社会主義」的「平和革命」的「議会主義」的革命運動と連動させていることに特徴が認められる。これは、若き日より不破委員長自身のイデオロギーが構造改革系そのものであることと関係していると思われる。

【革共同全国委が組織拡大強化】
 革共同系−マル学同は、安保闘争を通じて、革共同全国委-マル学同が組織を拡大強化していった。ブント指導による「60年安保闘争」の敗北を当然視し、安保闘争におけるブントの闘争の意義を認めるよりは専ら批判を加え、ブント運動の破産を自派勢力拡大のチャンスとばかりに理論闘争を仕掛けていくことになる。曰く、戦術はブランキズムである。曰く、反帝反スターリニズム闘争が不徹底である云々。安保後にブントが分解していったのとは対照的に、「革命的な左翼組織として、唯一の党的組織-組織的に存在し、思想的にも体系化されている-を持つのは革共同全国委だけ」と云われる状態になっていった。

【島書記長のブント総括不能】
 ブントの島書記長は、安保闘争直後、闘争総括文書を書くべく箱根の旅館にこもったが、7月に予定されている全学連大会、ブント大会に向けての文書を纏めることができなかった。「ブント私史」は次のように記している。
 「闘争終了直後、まだ興奮さめやらぬ七月の初め開かれた全学連大会で挨拶にたった私は、3月大会でのような確信に満ちた言葉を叫ぶことはできなかった。リベラシオン社には直接ブンド加入を申し込みに訪れるものも後を断たず、労働者や学生の中で一挙に党勢を拡大する絶好のチャンスであったが、私はブンドをこの後どのようにするのか鮮明な画像が浮かばず昏迷のなかにいた。しかし、書記長としてこの闘いを締め括りながら次を模索するために、ブンド大会を準備しなければならなかった。4回大会以降の総括の文章を書くために私は箱根の旅館に数日間閉じこもったが、混乱の度は強くなる一方であった。『ブンド中央がいかに一貫して革命的方針を堅持し闘いを指導したか』などと作文する気はさらさらなれなかった。迷いに迷った挙げ句『ブンド中央批判』をそのまま提示して大衆討議に委ねる以外にはないと思い、4月以来の動揺したブンドの実情をありのままに描き、『戦旗』紙上に発表した。ブンド中央とは私自身である」。

 7.2日、国民会議統一行動に全学連2千2百名参加、国会デモ。
【全学連第16回大会開催】

 7.4−7日、全学連第16回大会(委員長・唐年健太郎)が召集された。この第16回大会こそ、全学連統一の最後のチャンスであった。結局、、民青系都自連と革共同関西派が締め出され、それらが別に大会を開いたので三派に分かれて開催されることになった。運動論・革命論や安保闘争についての総括について意見がそれぞれ違っても、全学連という学生組織の統一機関としての機能を重視すれば賢明な対処が要求されていたものと思われるが、既に修復不可能であったようである。

 
この時の代議員数は、次の通りであった。ブント系258、日共民青同系171、革共同全国委系24、革共同関西委系20、その他10。この時点でのマル学同の拠点校は、早大教育学部、東工大、埼玉大、法政大文学部辺りで少数の自治会に止まっていた。反主流派の都自連は「都自連解散要求の撤回・十五回大会を無効とせよ」、革共同関西派系は「八中執罷免取消し」等を中執に要求した。全学連中執は、会費未納を理由として都自連の代議員を締め出した。こう して、全学連第15回臨時大会に続き反対派(民青同派.革共同関西派)が閉め出されることになり、全学連の分裂が固定化していくことになった。

 この時、全学連主流派 は、全学連第16回大会参加に当たって都自連の解散を要求したようである。 都自連を中心とした民青系反主流派は、1.都自連解散要求の撤回、2.第15回大会は無効であるを主張し、革共同関西派は先の8中執の罷免取り消しを要求したようである。それらは拒否された。お互いに相手が呑めない要求を突きつけていることが判る。

 こうして全学連第16回大会はブントと革共同全国委派だけの大会となった。代議員数は約270名(289名ともある)、どうにか「定足数=259を上回る」状態であった。この大会でマル学同が全学連のヘゲモニーを握ることになった。ブントが解体状況に陥っており、マル学同への移行組が書記局を掌握したことによる。

 大会は、安保闘争を労働者・人民の一定の勝利と大きな挫折と総括、秋期闘争方針を決定した。ところが、それぞれの派閥の安保闘争総括論が繰り返され、議論百出となりもはや求心力を持たなかった。全学連中央執行部を代表して北小路敏氏が「安保闘争を高く評価し、池田内閣との階級決戦を闘おう」という「運動総括」.「状勢分析」.「行動方針」が為されたが、早大などの革共同系からは、「安保の敗北を確認することこそ重要であり、主観的に階級決戦を呼号するのは誤り」という批判が為され決着しなかった。批判側は採決時には「棄権」.「保留」の態度に出たので、中執の議案は圧倒的多数で可決されたものの、分裂模様を印象付ける大会となった。

 人事は、委員長・唐牛健太郎(北大)、副委員長・加藤昇(早大)、西部邁(東大)、書記長・北小路敏(京大)を選出した。「6.19以後の学生と労働者、人民の闘いは、日本帝国主義が安保にかけた二つの政治的目標−国際的威信の確立と国内政治支配の確立−を反対物に転化せしめたがゆえに安保闘争は政治的勝利をもたらした」と総括し、60年秋こそ決戦だとした。以降、ル学同が全学連のヘゲモニーを握ることになった。ブントが解体状況に陥っており、マル学同への移行組が書記局を掌握したことによる。

 蔵田計成氏は次のように記している。
 大会は、過去一年半余の死闘を総括し、自己が果たした歴史的役割を鮮明にし、今後、学生運動に課せられるであろう歴史的任務を提起し、新しい闘いに向けて終わりなき進撃を続けていくことを確認した。同時に、「苦闘の底から…・・・強固な前衛政党の早急な出現」を期した。

 だが、ブント=安保全学連は共産同の劇的自壊という予期せぬ重態のなかで、一挙に崩壊していった。この安保全学連の崩壊こそは、以後数年間にわたる革命的左翼の混迷と苦闘を告示する歴史ドラマのはじまりだった。

 大会をボイコットした日共都自連は、「全国自治会連絡会議」(全日連)を結成し、第二全学連への第一歩を開始していくかにみえた。だが、日共党内闘争のなかで、構改派は自立化し、やがて全自連も解体することになり、日共をふくめて、左翼諸党派は試練にみちた党派再編期の激浪にさらわれていったのである。

 また、60年安保闘争の敗北は三池闘争の敗北を必然化させた。全山三万名の労働者がパイプ、竹槍、角材で武装し、塹壕を掘り、三池艦隊を編成して、一万名の武装警官、右翼暴力団と対峙し、内乱寸前にまでつき進んだ。しかし、労働運動指導部は、第一組合の大量解雇と一名の戦士の生命をいけにえにして、労資の手打式を強行した。そして、ついにヤマに吹き荒れた斜陽石炭産業の合理化の嵐は、炭労の敗北によって幕を閉じた。

 こうして、55年神武景気、59年岩戸景気に引き続く日本資本主義の60年代高度成長は、支配階級のチャンピオン池田内閣のもとに、強蓄積、高度成長を開始していくことになるのである。

【全学連反主流派民青同系が「全自連」結成】
 これに対し民青同系都自連は、全学連第16回大会参加を拒否された結果、自前の全学連組織を作っていくことになり、7.4−6日、全国自治会代表者会議開催〔教育大・法政大〕、安保闘争を総括、全国学生自治会連絡会議(全自連)を結成した。

 こうして、全学連が全国レベルで組織分裂した。「全学連は脱退しないが、反主流派として全国学生自治会連絡会議(全自連)を結成する」という論法で、分裂化へと向かうことになった。都自連を先頭に全国的な連絡会議の確立に奮闘し一定の支持を受けたと云うことになる。

 
7.20日、「全自連ニュース」第一号が発行されている。全自連は、全学連の規約を守 り、民主的運営の回復のために闘うことを明確にしていた。連絡センターとして代表委員会を選出し、教育大・早大第一文・東大教養学部、神戸大などの自治会代表が選ばれた。党は、これを指導し、党員学生がほぼその指導部を制していた。この流れが以降「安保反対、平和と民主主義を守る全学生連絡会議」(平民学連)となり、民青系全学連となる。ところが、この過程で、全自連指導部は前述した構造改革派の影響を受けていくことになった。構造改革派は、東京教育大学・早大・神戸大・大阪大などの指導的活動家等の中に浸透しつつあった。

 7.4−6日、社学同左翼反対派第一回全国大会〔法政大ほか〕、革共同関西派系による安保闘争総括。


 7.15日、第二次岸内閣総辞職。


 「悪質な日本共産党の妨害や翌日からのメディアの非難キャンペーンの大合唱にも関わらず、逆に『反体制指導部』の規制を突き破る激しい民衆行動を全国的に溢れさせ、一挙に状況を政治危機に向かって流動化させるものであつたし、岸政権倒壊への決定的な道を拓くものだった」(「60年安保とブントを読む」常木守)。


 7.17日、全学連、三池争議支援にに350名の支援団派遣(総指揮・藤原慶久)。


 7.18日、宮顕書記長、「三井三池の闘争に全党から応援隊を」と呼びかける談話を発表。


 7.19日、第一次池田内閣が成立した。


 7.26日、共産主義者同盟政治局は、戦旗22号で、「同盟を真の前衛として再建せよ!安保闘争の総括と同盟活動の展望」なる長大な論文を発表した。「一、日本階級闘争における同盟の存在とその歴史的意義」、「二、安保闘争の政治的評価と同盟の活動」、「三、同盟活動の問題点とその自己批判」、「四、同盟建設の今後の展望」から成り、同盟の弱点を晒し、同盟が中央から細胞に至るまで解体状況にあることを暴露した。


【ブント5回大会開催、ブント解体へ】
 7.29−30日、ブント第5回大会が栃木県下で開催された。島書記長は、「ブンド中央批判をそのまま提示して大衆討議に委ねる」という方針でブント第5回大会に臨んだ。結果的に、この大会は大混乱を極めた。「60年安保闘争」が事実上終息し、安保闘争の挫折が明らかになったことを受けて、「ブント−社学同−全学連」内部で、安保条約の成立を阻止し得なかったことに対する指導部への責任追及の形での論争が華々しく行なわれることになった。論争は、この間のブント指導の急進主義的闘争をどう総括するのか、 その闘争の指導のあり方や、革命理論をめぐっての複雑な対立へと発展していくこととなった。

 大会議案は次のように書かれていた。
 「6.15によって決定的状況を切り開いた時に、まさに全労働者大衆、全小ブルジョアジーが運動に加わってくるとともに、同盟の前衛としての機能はマヒし、全運動を社会民主主義者の方針とイデオロギーの掌握下に渡し、さらに決定的な闘争への進路を自ら断ったことによって、同盟の弱点を全面的に開花させたのであった。我々は同盟の活動が未成熟であったとして、同盟が真の階級的前衛党としての機能を果たしえなかったことを断じて合理化してはならない。反対に、今こそ同盟の前衛党としての建設のため、おそれずその弱点をえぐり出し、同盟の再建とも云うべき任務を遂行せねばならないのだ」。
 「安保闘争は、中途半端な『奇妙な勝利』でしかなかった。ブルジョアジーの死以外に、真の勝利は有り得ない。プロレタリアートの立場からすれば、それは勝利ではなく、勝利の道の挫折以外のものではなかった」。

 大会冒頭、東大本郷細胞が一枚のビラ(意見書)を配布した。その意見書の見出しには「くりかえされ深められた中央指導部の解体、革命的街頭デモの否定、問題をえぐりだすことによって同盟の官僚的固定化を防げ!」とあった。
東大C細胞意見書=星野論文を廻って大論争が展開された。この間のブント指導の急進主義的闘争をどう総括するのか、その闘争の指導のあり方や、革命理論をめぐっての複雑な対立へと発展していくこととなった。

 星野論文は、「ブント中央が情勢分析を誤り、政治的危機を革命情勢に転化することができなかった」と左から批判を加えていた。これを逆から云えば、1960.4月の4回大会でブント中央が情勢分析を誤らなければ、政治的危機を革命情勢に転化できた、安保闘争で革命情勢が切り開かれるという展望の下で政治的準備(より本格的な武装闘争など)をすれば、6.15で生み出した闘争の高揚を政権の打倒なりに転化できたという主張であった。 東大細胞は、大会席上で独自の総括を展開し、本格的な党内闘争の口火を切った。

 基本的内容の要約として、蔵田計成氏が次のように紹介している。
 「6.18に再突入して政治的危機を創り出すべき追撃戦ができなかったのは、安保闘争を階級決戦と捉えず前哨戦と規定した姫岡玲治(青木昌彦)の国家独占資本主義論(自己金融論)にみる日和見主義にある。独占資本の買収によって基幹産業プロレタリアートの戦闘力は削がれているという経済決定論的な階級分析からは、階級決戦論は演繹されない。そうではなくて、現代資本主義は政治委員会の下におけるドラスティックな政策展開によって延命を図ろうとしており、その最大の階級攻防戦=政策阻止が安保決戦に他ならなかった」。

 この時の島・氏の様子が次のように証言されている。
 「島は憮然としてそれを見ていたが、あえて収拾する努力はしなかった」(大瀬振)。
 「島の立場から云えば、闘争の前進にとかく批判的だったのが東大本郷であり、その糾弾されるべき部分が糾弾に立ち、有効な反論が為されないまま中断に至った。島の心中は余りある。断腸の思いであったに相違ない」(多田靖)。

 後に島氏は、東大細胞の意見書について、「ブンド私史」で次のように述べている。
 「私は中央批判が続出することは予知し、ある意味では期待もしていたのだが、こともあろうに安保闘争の期間中どの段階でも状況とチグバグな日和見主義で足をひっぱり続けた東大細胞の連中が批判者の中心になったのには呆れはてた。しかもいうことには、あの6・18のクライマックスでブンドが何もなしえなかったのはブンド中央が4回大会で情勢分析を誤ったためで、そのために政治的危機を革命情勢に転化することができなかったというのだ。馬鹿も休み休みいえ! いつも肝腎の山場で大衆から浮いてしまうといって日和見、情勢を一歩一歩きりひらいていくブントの方針に反対し、最後の土壇場まで行動の一致を妨げていた奴が何をいうか、怒りは頭のてっぺんまで上がった。しかも、その尻馬に全学連の書記局が乗ったのだ」。

 革共同は、ブントが労働運動を軽視しているとの持論でブント中央の方針を批判した。旧日共港地区委を中心にした南部地区委も政治局批判を展開した。「5回大会以前の同盟政治局の一切の路線を全面的に否定する立場にたち、旧政治局を打倒することこそ同盟再建の鍵である」と強調した。

 この時、ブント書記長・島氏は燃え尽きており、既に指導力を持たなかった。こうしてブントは「いまや統一ある同盟中央と政治局が存在しない」状態に陥った。以降、ブントは分裂解体化へ向かい、分派闘争の季節へ向かうことになる。


 大会は学連書記局(全学連と都学連の合同手記局の通称名。全学連メンバーは青木昌彦、清水丈夫、都学連メンバーは糖谷秀剛、田中一行、林紘義、立川美彦の東大メンバーに早大の蔵田計成)と東大本郷の学生細胞を中心にした再建準備委員(再建準備委員長・清水丈夫)を選出し、ブントのその後を模索しようとしたが、再建方向には向かわずひたすら崩壊局面へと歩んでいくことになった。結局、大会は、第6回大会の開催を確認し、大会準備委員を選出しただけで二日間にわたる重苦しい討論の幕を閉じ、同盟政治局の解体、党内闘争へと突入することになった。

【ブント、安保総括をめぐり、革通派、プロ通派、戦旗派、関西ブントその他に分裂する】

 この過程で指導部に亀裂が入り、この後8.9日から10月にかけて東京のブント主流は三グループ(それぞれのグループの機関紙の名前をとって、革命の通達派(東大派)と戦旗派(中央書記局派)とプロレタリア通信派(中間派)に分かれていくことになった。

 常木守・氏は次のように評している。

 「分派闘争は、資本主義の下感情分析、共産主義者の政治闘争論、労働者運動とその前衛についての思想的根拠について、それぞれに切実な問題を提起し、それぞれの道をまさぐっていった」。

【プロレタリア通信派(学連書記局派)】
 プロレタリア通信(プロ通派)派は学連書記局(全学連と都学連との合同書記局の通称名)派とも云われるが、清水丈夫、青木昌彦、北小路敏、 林紘義らが連なった。「60年安保とブントを読む」の中で清水氏は、8月下旬のある日、島・生田・清水の三者会談を開き、席上清水氏が「ブントは分解してはいけないし、流会した大会を再開し、再統一をはかるべきだ。島さん、生田さんは是非今一度立ち上がってください」と迫ったことを明らかにしている。しかし、島氏の固辞する意思は固く「今や自分は一切手を引く、やめる」と短く述べ、生田氏も同様であった、とある。

 9.14日頃、全学連書記局細胞グループとして結成され、学連書記局「プロレタリア通信」を復刊した。「両者の中間的立場に立って」、「ブント=安保全学連の闘いは正当に評価されるべきだ」、「基本的にブントの方針は正しかった。たらいの水と共に赤ん坊を流してしまってはいけない」と主張し分裂を避けようとした。9.18日、「プロレタリア通信」復刊第一号で、戦旗派を次のように批判した。
 概要「マル学同と陰に陽に一致しているらしい、反論の必要も認められないほどのブント内部の日和見主義的部分である」。

 革命の通達派に対して次のように批判した。
 「同盟の革命的再生にとって最悪なみの云々」。

 こうしたプロレタリア通信(プロ通派)派の主張は、戦旗派から次のように批判されている。
 「5回大会を機とする同盟の解体と混乱を思想的根源までさかのぼって検討する努力を放棄したが故に、理論的ベールをまとったながったらしいおしやべりのかげに彼らの無思想はバクロされる」。
 「それ故に彼らには問題点の所在すら把握できないのであり、彼らが中間主義的動搖をくり返すこともまた当然なのである」。

【革命の通達派(革通派、東大派)】

 9月、プロ通派に遅れること数日後に結成された。革命の通達派(革通派)は東大派とも云われ、東大学生細胞の服部信司、星野中、長崎浩らに早大の蔵田、下山らが加わって構成されていた。「もっと激しく闘うべきであった」と「もっと左の観点から」次のように総括した。

 「そのことは単なる戦術問題、指導体制等々への批判に止まることなく、最も深い思想的根源の検討へと押しすすめたのである。そして、われわれのつき当ったものは、革命の客観的諸条件と主観的諸条件の機械的分離、それに基く主観主義、小ブル急進主義、大衆運動への埋没、組織論におけるスターリニズムへの傾斜等々だつた。これが同盟の革命的再生の課題の前に立たされたわれわれの出発点であった」。
 「われわれは前衛党建設のための理論的、思想的、組織的活動を一層強化すべき時なのであり、そのことをぬきにして革命を一般的に語ることはできない。したがって、先づ第一に、われわれ自身が主体的にみづからの組織をうち固め、一切の日和見的潮流を粉碎した後に、同盟の革命的統一をなしとげるとの確信のもとにわれわれは『戦旗』派分流を組織しその中央指導部のもとに結集した」、「われわれは、かかる二分派の存在が同盟の革命的再生の斗争にとって、まったく無益有害であると断ずるが故に、この二分派との断固たる斗争を宣言する」、「そして、われわれは「戦旗」派として自己を体現し、その中央指導部と書記局を選出して全面的な公然たる分派斗争の開始を宣言するにいたった」(「プロレタリア党建設のため『戰旗』の旗のもとに結集せよ」(1960.10.11日共産主義者同盟『戦旗』派中央指導部)。

 8.14日、いわゆる星野理論と言われる「安保闘争の挫折と池田内閣の成立−安保闘争における理論的諸問題」を発表して、ブント政治局の方針を日和見主義であったとして次のように「左」から攻撃した。

 概要「安保闘争の中で、現実に革命情勢が訪れていたのであり、安保闘争で岸政府打倒→政府危機→経済危機→革命」という図式で、権力奪取のための闘いを果敢に提起すべきであった。ブントの行動をもっと徹底して深化すべきであった。再度国会突入を勝ち取って暴動的事態のうちに政治危機を現出していったならば、当然池田の登場は阻止された。政治局は階級決戦であった安保闘争を過小評価した」。

 9.26日、東大細胞グループとして「革命の通達」を創刊した。


【戦旗派(中央書記局派、労対派)】
 戦旗派(中央書記局派)は労対派 とも言われるが、森田実、田川和夫、守田典彦、西江孝之、陶山健一、倉石、 佐藤祐、多田、鈴木、大瀬らが連なった。全学連委員長・唐牛、社学同委員長篠原浩一郎もこの派に属したようである。編集局、印刷局、労対メンバーはほとんどここに所属したことになる。戦旗派は、60年安保闘争を「やや右から」、「組織温存の観点が欠落した一揆主義であった」と総括した。

 8.11日、「反東大連合フラク=「戦旗」編集局+旧労対グループ(南部地区委を中心とする労働者グループ)」として結成され、これまでのブント的闘争を否定する立場に立ち、「やや右から」、「組織温存の観点が欠落した一揆主義であった」と総括した。革命の通達派の主張を「笑うべき小児病的主観主義」、「小ブル急進主義」と規定し、革命の通達派的総括は「前衛党建設を妨害する役割しか果たさない、マルクス主義とは縁のない思想だ」云々と批判していた。

 10.11日、反東大連合フラクとして、「戦旗」編集局=旧労対グループが戦旗派を結成、公然分派宣言している。共産主義者同盟戦旗派中央指導部名で「プロレタリア党建設のため『戰旗』の旗のもとに結集せよ」を発して、次のように述べている。
 「そのことは単なる戦術問題、指導体制等々への批判に止まることなく、最も深い思想的根源の検討へと押しすすめたのである。そして、われわれのつき当ったものは、革命の客観的諸条件と主観的諸条件の機械的分離、それに基く主観主義、小ブル急進主義、大衆運動への埋没、組織論におけるスターリニズムへの傾斜等々だった。これが同盟の革命的再生の課題の前に立たされたわれわれの出発点であった」。
 「われわれは前衛党建設のための理論的、思想的、組織的活動を一層強化すべき時なのであり、そのことをぬきにして革命を一般的に語ることはできない。したがって、先づ第一に、われわれ自身が主体的にみづからの組織をうち固め、一切の日和見的潮流を粉碎した後に、同盟の革命的統一をなしとげるとの確信のもとにわれわれは『戦旗』派分流を組織しその中央指導部のもとに結集した」。
 「われわれは、かかる二分派の存在が同盟の革命的再生の斗争にとって、まったく無益有害であると断ずるが故に、この二分派との断固たる斗争を宣言する」。
 「そして、われわれは「戦旗」派として自己を体現し、その中央指導部と書記局を選出して全面的な公然たる分派斗争の開始を宣言するにいたった」。

 10.30日、「戦旗派結成の基本的立脚点」を発表した。この間のブント的指導を次のように批判している。
 概要「この間のブント的指導は、安保闘争の中で前衛党の建設を忘れ、小ブル的感性に依拠した小ブル的再生産闘争であり、プチブル的運動でしかなかった。その根源はスタ ーリニズムに何事かを期待する残滓的幻想にあり、前衛党建設のための理論的思想的組織活動の強化を為すべきであった」。
 概要「組織的に分離してきつつある戦闘的プロレタリアート・インテリゲンチャの身にまとっているスターリニズムの汚物を破壊しつつ、革命的前衛に自覚せしめていくための闘争を当面のもっとも中心的任務に据えるべきである」。
(私論.私見) 
 この観点、言い回しは、革共同のものであり、影響を受けていたことが分かる。

 11.11日、「小児病的空論主義粉砕−プロレタリアート党建設の為『戦旗』の旗のもとに結集せよ」で、革命の通達派の主張を次のように批判した。
 概要「それはカウツキー顔負けの組織された資本主義論であり、万年危機論、万年決戦論であり、池田内閣を倒せば『現実的に革命の展望がひらける』という、笑うべき小児病的主観主義の戯画でしかなかった。小ブル急進主義であり、革命の通達派的総括は前衛党建設を妨害する役割しか果たさない、マルクス主義とは縁のない思想である」。

 この三潮流の発生は求心力を保とうとするプロレタリア通信(プロ通派)派、これを打ち破ろうとする革命の通達派と戦旗派という構図で一層亀裂を深めていく事になった。戦旗派の語りによれば、「一切の日和見的潮流を粉碎した後に、同盟の革命的統一をなしとげるとの確信のもとにわれわれは『戦旗』派分流を組織しその中央指導部のもとに結集した」、「日和見主義者に痛打を!」とある。これが昨日まで行動を共にしてきた同志達に向けられた戦旗派の批判の刃であった。
【その他の諸潮流】

 こうして東京のブントは分裂模様を見せたが、この三分派の動きとは別に、京都・大阪は独自に「関西ブント−社学同」として総括を進めており大きな分裂には至らなかった。東京ブントにあって、明大や中大ブントは分裂せずに独自の道を歩んだ。機関紙「希望」を創刊した。この二つの潮流が、メジャー三分派の崩壊の後ブント再建へ向かっていくことになる。


【第一次ブン ト分裂】

 こうして、安保闘争の総括をめぐって「ブント−社学同−全学連」の分裂が必至となった。つまり、ブントは結成からわずか2年で空中分解することになった という訳である。こうして東京のブントは分裂模様を見せたが、「関西ブント−社学同」は独自の安保総括を獲得して大きな分裂には至らなかった。東京ブントにあって、明大や中大ブントは分裂せずに独自の道を歩んだ。この流れがのちの第二次ブント再建の中心となる。ここまでの軌跡を第一次ブン トと言う。ここまでの軌跡を第一次ブン トと云う。

 結局ブントは、革命党として必須の労働者の組織化にほとんど取り組まないうちに崩壊したことになる。60年始め頃から露呈し始めていたブントの思想的・理論的・組織的限界の帰結でもあった。こうしたブントの政治路線は、「革命的敗北主義」・「一点突破全面展開論」と言われる。これをまとめて「ブント主義」とも云う。ただし、この玉砕主義は、後の全共闘運動時に 「我々は、力及ばずして倒れることを辞さないが、闘わずして挫けることを拒否する」思想として復権することになる。

 
このブント創出から敗北と崩壊の過程について、島氏は、戦後史の証言ブントの中で次のように語っている。

 「確かに私たちは並外れたバイタリティーで既成左翼の批判に精を出し、神話をうち砕き、行動した。また、日本現代史の大衆的政治運動を伐り開く役割をも担った」、「あの体験は、それまでの私の素質、能力の限界を超え、政治的水準を突破した行動であった。そして僅かばかりであったかも知れぬが、世界の、時代の、社会の核心に肉薄したのだという自負は今も揺るがない」。
 「私はブントに集まった人々があの時のそれぞ れの行動に悔いを残したということを現在に至るも余り聞かない。これは素晴らしいことではないだろうか。そして自分の意志を最大限出し合って行動したからこそ、社会・政治の核心を衝く運動となったのだ。その限りでブントは生命力を有し、この意味で一つの思想を遺したのかも知れぬ」、「安保闘争に於け る社共の日和見主義は、あれやこれやの戦略戦術上の次元のものではない。社会主義を掲げ、革命を叫んで大衆を扇動し続けてきたが、果たして一回でも本気に権力獲得を目指した闘いを指向したことがあるのか、権力を獲得し如何なる社会主義を日本において実現するのか、どんな新しい国家を創るのか一度でも真剣に考えたことがあるのか、という疑問である」。
(私論.私観) ブントの解体をどう観るか

 このブントの崩壊に関する分かりやすく纏めた一文があるので紹介しておく。社労党・町田勝氏の「日本社会主義運動史」(社労党機関紙「海つばめ」第783号 町田 勝)では次のように記している。

 しかし、ブントのこの壮大な革命的夢想は安保闘争の終焉とともに挫折する運命にあった。安保闘争の直後、六〇年の夏から秋にかけて、ブントはこの闘争の総括をめぐり混乱と対立の坩堝と化し、四分五裂の状態に陥って、あっという間に組織的にも崩壊を遂げてしまった。安保闘争の渦中では隠されていたブントの小ブルジョア急進主義的な思想と運動の本質を闘争の終了は一挙にさらけだしたのであるが、どの分派もその限界をマルクス主義的に止揚し、新たな展望を切り開いていくことができなかったからである。

 実際、安保闘争の敗北は闘争の末期に国会突入などの激しい戦術を回避した指導部の日和見主義にあったとするウルトラ急進主義の「革命の通達」派や、革共同黒田派の観念的な「主体性」論に基づく小ブルジョア急進主義批判に屈服してブントの清算主義的な全否定に走った「戦旗」派はもとよりのこと、ブントの伝統を守るという立場から総括を呼びかけた「プロレタリア通信」派にしても何ら確固たる明確な方向を指し示すことはできなかったのである。

 誕生と同時に安保闘争に突入していくという当時の情勢の中で、それを要求することは物理的にいささか酷という側面はあるにしても、マルクス主義のしっかりした革命理論に立脚して組織と運動を作っていくという意識がブントには最初から希薄であり、それがブント主義の本質的な側面をなしていたことは、先に引用した結成宣言的な「全世界を獲得するために」の次の一節からも明らかである。「思想と、理論と綱領との単なる論争によってのみ、創造しようとする、ブルジョア的なおしゃべりグループが呟く組織の前に綱領を、行動の前に綱領を、という言葉に反対してわれわれは、日々生起する階級闘争の課題に応えつつ、その実践の火の試練のなかでのみ、プロレタリアート解放の綱領が生まれでよう。われわれは闘争の保障を『戦略規定』ではなく、諸階級の相互関係のうちに求める、と答える


 なるほど、これは確かに黒田派や構革派などの痛いところを衝いてはいる。しかし、全体としては行き過ぎである。「実践の火の試練のなかでのみ、プロレタリアート解放の綱領が生まれでよう」というのも一般的には正しい。しかし、彼らの言う「実践」とは勤評や安保といった「日々生起する」民主主義的平和主義的な諸闘争に他ならず、広い意味でのプロレタリアートの歴史的革命的な実践ではないのである。これでは日常的な諸闘争を戦闘的に闘っていけば、革命的な綱領や立場が自然に獲得されるとする組合主義・経済主義の一種でしかないだろう。

 実際、彼らがマルクス主義的な革命理論をどんなに軽視していたかは、当時のブント書記長の島成郎が回想録で、当時はトロツキー主義はもとより実存主義であれ、プラグマティズムであれ、利用できるものは手当たり次第に取り入れていたという貴重な証言を残していることからも明らかである。そして、ブントの綱領的文書と言われた姫岡玲治の「国家独占資本主義」論にしてからが俗流経済学の典型である宇野派の「三段階」方法論に依拠したものでしかなかったことに、ブントの無理論主義あるいは思想的雑炊状態は象徴されていた。

 加えて、「学生運動」=労働者の階級闘争の「同盟軍」、「先駆性論」である。つまり学生による闘争の激発で「ショック」を与えることにより労働者階級を革命的な闘いに立ち上がらせるという、その後の新左翼運動も一貫して信奉してきた典型的な小ブルジョア急進主義の“理論”である。これでは安保闘争のさなかにあっては何とかやっては行けても、それが終わればその後どうやっていっていいのか展望を見失うことは初めから明らかだった。ブントの崩壊はこうした小ブルジョア急進主義の行き詰まりと破綻の必然的な帰結であった」。

 8.4日、全学連全国自治会代表者会議〔渋谷公会堂〕、原水禁大会の方針を討議、反主流派はボイコット。


 8.4日、全自連第二回全国自治会代表者会議〔自治労会館〕、原水禁大会では主流派の極左方針と対決する″ことを決定。


 8.8日、全学連緊急中執委、原水協脱退を決定、原水協は日共の私物と化し正しい階級闘争を阻害している″と声明(9月11日撤回)。


 8.9日、全学連主流派二百名、原水禁世界大会に参加、のち会場〔都体育館〕より日比谷公園をへて首相官邸にデモ。


 8.9日、共産同全国学生細胞代表者会議〔東大駒場〕、政治局員を追放し臨時政治局を学生で構成(分派闘争始まる)。


 8.30日、共産同東大細胞が、戦旗27号に、「安保闘争の挫折と池田内閣の成立 安保闘争に於ける理論的諸問題」を発表。


 8.31日、ソ連は突然核実験を再開した。革共同派とその学生同盟組織であるマル学同は直ちに米ソ核実験反対闘争を提起した。広範な学生の支持を受け、多くの学生自治会の役員選挙で勝利を得た。


 9.1日、ブント・革共同系全学連主流派25中委が開かれ〔自治労会館〕、池田内閣打倒を軸とする秋期闘争方針を決定。先の第16回大会の総括を修正し、「「安保闘争はやはり勝利ではなく、政治的に挫折したもの」総括にとって替えられた。革共同のイニシアチブが進行しつつあったことが判る。 


 8月、安保闘争後、清水幾太郎、香山健一・元全学連委員長らが「全学連を守る会」を発足させていたが、森田実らを迎えて「現代思想研究会」を創設する。「現代思想」誌を発刊。


 9.2−4日、全自連第三回全国自治会代表者会議〔社会福祉会館・法政大〕、全面軍縮・日本の中立化・選挙法別表改正要求・学園民主化など闘争方針決定、文化専門委員会・教育専門委員会・夜間学生協議会(夜学協)を設置。


 9月、アカハタ紙上で党指導の批判者への攻撃を続ける。党内構造改革論者は党外出版物で活動する。


 9.5日、池田内閣が「所得倍増政策」発表。


【この頃の島氏の動向】
 この頃の島氏の動向が「未完の自伝―1960年秋のノート」に次のように記されている。
 「8.20日(中略)29歳。いま、私にとって最大のヤマ場にいるようだ。一人静かに考える機会でもある。今日より私は、私の行動と思索(という割には余りにとりとめない)を、ノートに詳細に記そうと思う。PB(政治局)での敗北の日からもう一週間、休養を命ぜられてのこの一週間は、どのような日々であったのか」。

 概要「9.1日(中略)12時に引き揚げ、名簿の整理をしつつ、今後の構想をねる。今度こそPartei目指すKernをorganizeするつもりだ。予定メンバーは、、Ko、KI、A、O、Su。第一にTheorie(れんだいこ注―理論)、第二にGelt(れんだいこ注―資金)、第三にPerson(れんだいこ注―人物)、このWahrheit(れんだいこ注―基本原則)はかわらない。<余の分派綱領の条件>第一、第4回大会の問題点を理解し、左に立ったこと。第二、4〜6月の時期に一貫して左に立ったこと。第三、宇野経済学に対する態度。綱領第三次草案。第四、反東大であること。最も危険な体系的な日和見主義。<余の分派綱領の作成>第一、現在の同盟の、日本階級闘争の基本的問題を明らかにすること。第二、同盟1年半の批判的総括(安保・三池闘争の総括)。第三、同盟綱領草案についての批判的検討の開始。付随して、東大批判。第四、世界・国内情勢。第五、日本の左翼の検討。第六、日本革命の展望。第七、世界革命の展望。<余の文書活動>第一、同盟の基本問題。第二、日本の階級闘争と革命的学生運動。理論戦線原稿、学生運動史の書き出し。第三、日本左翼の批判。日本革命思想史の書き出し」。

 「<メモ>6.18を挫折と見ること。何が故に挫折したか、この原因を追求すること。×労働者階級の運動がプチブル(社民総評共)の運動としてとどまったこと。×これを突破した学生運動もまたプチブルの壁を遂に破れなかったこと。○主体としての労働者階級の革命党が存在しなかったこと。いかなる意味でか。○同盟―小ブル急進主義者のサークル。思想、理論、組織、行動において。△<三池>と<安保>必然性。×資本家階級の動向。△<岸から池田へ>。▲労働者革命党か、小ブル急進主義者グループか?。<日本資本主義>。<革命と学生>同志樺美智子に捧ぐ。1960年の日本学生運動」

 「9.2日(中略)香村より電話あり。中野喫茶にて、結婚後1日目の彼から、最近のブントの様子と出版社のことについて、ノートを取りながら詳しく聞く」。「1時過ぎ、印刷所へ。庄平さんと2時間に亘って印刷所の様子及びブントのことについて。やはり予想通り、問題の鍵は金である。事務所は電話も止まっている。約20日間も政治から離れていたので、二人の話を聞きながらすっかりくたびれた。神経が弱っているな」。

 「彼(富永)の話を聞く。全学連は完全に清水のもとにかたまっているらしい。確かに学生運動に手を出すのは困難。下手に手を出せば、革共のようになる。姫岡(注・青木昌彦)は、清水と一心同体となっている。さて、いかにすべきか」。

 「9.3日(中略)東大細胞意見書、及びそれへの反論。山崎、田川の文書を読む。先日来考えていた反東大フラクの欠陥をたしかめる。この意見書と一緒にやることは出来ない!小ブル急進主義か共産主義かというスローガンは明らかに誤謬である!ロシアにおけるナロードニキに対する合法マルクス主義者を想起させる」。

 「大阪読売にブントの暴露記事が出たことで、T氏が直ちに事情聴取にО氏を飛行機で帰させたとのこと。その記事が面白い。ブントは4派に分かれている。20人でも革命が出来るという島書記長派。この派から分かれた極左の服部・東大。右派の早大・九州。硬軟両派を操る清水・青木派。この分析は当たらずといえども遠からず、だ」。「4人と一緒に吉本隆明の家を襲う。彼の考えは俺とすこぶる共通している。夜11時まで雑談」。

 「9.4日午前中、生田宅を訪れ、久しぶりに意見交換。宇野についての彼の考え―前衛党形成について、ブントの将来について、多くの食い違い有り。青木の評価―理論的無節操」。

 「9.5日(中略)事務所へ約1ヶ月ぶりに顔を出す。生田、古賀、片山、灰谷の諸氏がボヤッと雑談している。六全協の後の地区委員会事務所の如し」、「今週中に鈴木、古賀、陶山、倉石、清水、青木、他と会う。革共編集の安保闘争を読む。さてさて、一番大馬鹿なのはブントである。その頂点に俺がいる。約3ヶ月贈れて、俺は安保闘争についての評論を本格的に始める。それとともに、三池闘争について、これを通じての日本労働運動の全面的検討を開始する。これを抜きにしては、日本革命の展望は語れないであろう」。

 「9.9日約4日間のときが、続く。9月に入って、若干の人々と会ってから一層の虚無的状況に陥る。政治というものは無慈悲なものだ。俺の出る余地は、現在のところまったくない。俺の危機―10年ぶりの、強いて言えば57年以来の、そして今後一生を定めるであろう―そんな時点にいることを感ずる。政治的に葬られるのは、不思議なことに全く苦痛を伴わない。しかし、俺が公然と攻撃され、反撃できない状況にいるのに拘らず、敗れたという感は全く無い」。

 「信頼すべきものは一人も居ない。清水の180度転回。青木の政治的無節操(本来の日和見主義)。片山の政治性(陰性な)。生田の非論理的道学者。どれもこれも気に食わない。ただ一人きりで闘いに立ち上がれない俺の怠惰さも」。

 「樺さんが死んでから―私の身近で、私に死の一つの実感を知らせたのは彼女が初めてであった。『死んでも』という言葉は、私にとって形容詞として使えなくなっていた。『彼女は死ぬべくして死んだか』この設問に答えなければならなかったとき以来、私の政治人生の最も大きな混乱期が始まったといえる」。(9.30日の日記には、「6.18のあの挫折の悔い、樺さんの死に対するすまなさ」と書き付けている)

 9.15日、全学連は「池田内閣打倒全国統一行動」のデモを呼びかけたが、東京で350名、京都で150名ほどしか集まらなかった。


 9.18日、共産主義者同盟(プロ通派)が、「プロレタリア通信」復刊1号で、「同盟再生の旗印『プロレタリア通信』の下に結集せよ」を発表。


 9月、清水幾太郎.浅田・三浦・香山らが「共産党の犯した重大な誤りについて徹底的な批判」を加え、非共産党の新左翼への結集を呼びかける「現代思想研究会」が発足した。


 9月、中旬学連書記局グループが「プロ通派」を結成。


【「革通派」結成】

 9月中旬、「革通派」が結成された。「60年安保とブントを読む」で、蔵田計成氏が貴重な史実を明かしている。ブントの流動局面の最中、東大経友会自治室にて、東大ブント細胞の服部信司、星野中、長崎浩、早大ブント細胞の蔵田計成、下山保の計5名の5者会談で合議したという。

 「この5者会談を直接の契機として、東大=早大連合フラクは分派として公然と登場することになった。それは丁度、ブント第5回大会から1ヵ月半が経過し、同盟内の分派として、学連書記局グループが『プロレタリア通信派』を最初に旗揚げしたその数日後であった」、「私(蔵田)自身が分派結成を密かに決断して下山に打ち明け、同意を取り付けたその足で知り合い程度でしかなかった服部信司に会談を申し込んだことから始まった」。

 当時の早大細胞指導部は、小泉修吉・ブント細胞キャップ、片山*夫(佐久間元)・ブント政治局員、平井吉夫・社学同都委員長、小野信克・細胞委員、奥田正一・全学連書記次長、下山保・全学連中執、宮脇則夫・早大全学協議長、加藤昇・全学連副委員長、江田忠雄・細胞委員、蔵田計成・学連書記局細胞などがいた。「細胞総会での激論を経て、反執行部派が7割以上の多数派を形成した」とある。

 概要「自負心と誇り、戦闘的な総括に対する心情的な期待感が、『反マル学同』意識も含めて、首都圏のブント学生細胞の圧倒的多数に共通した政治的心情であったことは疑いない。こうした追い風を受けて革通派は都学連傘下の学生細胞に対するヘゲモニーを順調に拡大していった」とある。


 10月初旬、ブント内分派として「プロ通派」、「革通派」に続いて「戦旗派」が結成される。このグループは職革、機関紙誌編集部、労対・労働者グループが結集していた。「戦旗派」は、「革通派」が急進主義的運動論の観点から島運動を批判したのに対し、組織論の側から批判していった。但しこの時「革通派」を「小ブル急進主義」と規定し批判していた。


 「革通派」の結成を契機として党内闘争は劇的に展開していくことになった。その様は他党派である革共同から見て、「運動史上類稀な、ハシにも棒にもかからない三流の分派闘争」(小野田襄二)と酷評された。


 三つ巴の党内闘争が開始されることになったが、秋の闘争体制の確立が急務であったことから、都学連13回大会を開催することで意思一致した。大会開催に先立って都学連執行委員会が招集され、8対7で学連書記局グループが多数派を占めることになった。この僅差から、革通派が獄中の執行委員西部邁(東大駒場)と宮脇則夫(早大)の大会代議員権を主張するところとなり、二人の去就が注目された。宮脇は革通派の立場を堅持したが、西部は清水丈夫にオルグされた。但し、西部はこの頃より闘争そのものから転身し始めていた。 


 この頃の島氏の動向が「未完の自伝―1960年秋のノート」に次のように記されている。

 「9.30日(中略)いずれの三派も私の意見とは異なる。従って彼らの分派とともに動くことは出来ない。私の意見理論も強固なものではなく、結集するにたるものではない。しかし三派いずれも、ブントの現状の上にたち、これを中核として革命党をつくるという一般的な考えを持ちながらも、いずれもその具体的プランも持ち合わさないし、またその力もない(責任と能力)。従って当分、この状況は続くだろう。ただ私の心配するのは、ブントに結集した左翼のエネルギーが散逸してしまうことだ。1、具体的には、反スターリン主義左翼分派の最も強大な勢力としてのブント。2、学生運動の主体である全学連。3、反スターリン主義革命運動に全力投入することを覚悟した職革的活動家。4、若干の労働者細胞」。


 10.8−9日、ブント・革共同系全学連都学連13(22?)回大会〔教育会館〕は、民青系反主流派の入場を実力で排除した中で開催されたが、開会後代議員の代理を認めるか否かで執行部多数派(プロ通派)と少数派(革通派)が衝突。主流派内部での意見の違いと混乱が暴力事件にまで発展し(「革通派」の蔵田計成が「プロ通派」の清水丈夫に殴りかかったということのようである)、二日目〔両国公会堂〕、革通派ボイコット、マル学同派退場、定足数に満たず、10.28ゼネスト総決起集会にきりかえられ遂に流会した。革通派は下部代議員多数派を獲得しながらも、執行部段階ではプロ通派に1票差で敗れた、ともある。この後、池田内閣打倒闘争の敗北と共に方針と展望を全く失って実践的に破産し、61年に入って早々と解体していくことになる。


 この頃ブントの分解過程で発生した3系譜は次のような動きを見せていた。戦旗派はいち早く革共同全国委に合流していった。 10.28日、「池田内閣打倒」をスローガンとして集会が催されたが、ブント・革共同系全学連各派合わせて1000名以下という凋落を見せ、以降学生戦線は低迷状態に入った。この衰退過程で、革通派は方針を打ち出すことが出来ず解体を余儀なくされていった。プロ通派も又指導部で理論的混乱が発生し、そのうちの北小路敏.岡田新.奥田浩一らが革共同全国委に参加していくことになり、残された部分も求心力を持たずこうしてプロ通派も解体していくこととなった。


 10.12日、浅沼社会党委員長が、日比谷公会堂に於ける自民・社会・民社の立ち会い演説中に大日本愛国党員山口二矢によって刺殺される。


 10.12日、池田内閣打倒・浅沼刺殺抗議全学連集会〔日比谷公園〕に六百名参加、のち国会デモに向かい機動隊に阻止され、総評主催の抗議集会に合流、首相官邸デモ、夜、夜間部学生と合流。


 10.15日、池田治安内閣打倒全学連集会〔日比谷野音〕・浅沼刺殺抗議デモが組織されるも主流派、反主流はとも500名程度に落ち込んだ。のち首相官邸に向かうが機動隊に阻止され総評集会に合流、全自連・革共同系も集会・デモ。


【社青同の誕生】
 10.15日、社会党の青年運動組織として社会主義青年同盟 (社青同)が誕生した〔社会党本部〕。遅まきながら社会党は、党の民青同育成方針にならって、ポスト安保直後のこの時点で自前の青年運動創出の必要を党議決定し、 誕生させたということになる。

 
社青同は、階級的な青年運動を志向していた。社会党内の左派的潮流を形成していく。同盟の性格と任務として、「独占資本の攻撃に対する統一政策、政治路線、組織路線を明らかにし、活動家の大同団結による青年の強大な戦線をつくり、指導する青年同盟」とし、「労働青年を中心に各層青年の先進的活動家の結集体」、「すぐれた活動家の個人加盟組織」、「日本の社会主義革命の勝利の為に闘う政治的実戦部隊」とする階級的な青年運動を志向していた。

 特徴的なのは社会党との関係であり、「一応社会党から独立した組織とし、現在の社会党に対しては批判はあるが、これを支持し、社会党との間に正式に協議会を持ち、社会党大会には支持団体 として代議員を送る」関係として位置づけた。つまり、党と民青同との関係ほどには統制しない緩やかな組織結合を目指したということになる。この社青同は この後社会党内の左派的潮流を形成していくことになる。ブント運動の花粉が意外なところに運ばれ結実したとも考えられる。


 高見圭司氏は、「五五年入党から六七年にいたる歩み」の中で次のように記している。
 「社青同が結成されていく契機となっていたのは五五年以降六〇年に至る基地闘争や小選挙区制反対、勤評反対、警職法反対等、“平和と民主主義を守る”大衆運動、さらには五五年の日本生産性本部設立と見合った日本資本主義の産業再編成と合理化に対する労働者階級の反合闘争の過程で、大量の無党派群が輩出されており、それらの青年労働者の組織化は、社会党に対する大衆的不信と切り離したところで組織化されねばならないということにあった。このことから、社青同の性格も規定されたのである。つまり、社青同は社会党とは区別された青年労働者、学生の大衆的な青年政治同盟としたのである。このことは、もとより、社会党も総評民同も許容していたのである。それは、日共支配下の民青が急速に拡大されていくのに対抗するものとして社会党、総評民同は社青同の育成を掲げたといういきさつがあった。

 ともあれ、社青同は、安保闘争と三井三池の反合闘争の中からつくりあげられた。その意味では、さまざまの限界を伴ったものであれ、日本プロレタリアートの闘争の過程で生まれ、日本プロレタリアートのまぎれもない申し子であった。とりわけ、民青の安保闘争における組織拡大主義、三池闘争における無対応というあり方に対して、社青同は安保ブンドとともに闘争を突き出し、三池の反合闘争に全力をあげてかかわり抜いたのであった。

 六〇年安保闘争は内灘・砂川闘争等と続く戦後民主主義擁護の政治闘争の頂点をなすものであった。同時期に闘われた三池闘争は、石炭から石油へとエネルギー転換に始まる一大産業合理化攻撃であり、日本帝国主義の本格的復活に対する総資本対総労働の死活をかけた闘いであった。この安保三池闘争の高揚の中で六〇年一〇月に結成された社青同は、産業合理化攻撃に対する闘いの社会運動を発射点に、戦後民主主義闘争の限界を越えて、本格的な政治闘争・階級闘争へと発展していく歴史的使命をもって生み出されたといえる。一方、民青の拡大に対抗を迫られた社会党は、独自の青年同盟を結成すると共に、大衆運動を知らず、限られた党内反幹部闘争に明けくれる小ウルサイ党青年部を「外」に出す目的をももって、社青同は社会党の主導によって結成された(社青同結成後、中央本部を乗っ取り数々の反動的役割を果たした社会主義協会が、党青年部解散・社青同結成に反対したことを銘記しておかねばならない。

 結成時の社青同の中央本部および各地の中央執行委員は、平和同志会から江田派に流れた旧青年部幹部および民同の青年幹部によって占められ、僅かに佐々木慶明氏が学対中執の中の、異分子として存在していたにすぎなかった(全逓、日教組、電通、都市交、全専売、国労、自治労等の青年部長と幹部が中央執行委員であった)。しかし地区・末端の組織には安保・三池闘争の中で生み出された多数の青年労働者の活動家が、社会党に対する批判をもちつつ、新しい組織を求めて社青同に結集して来た。

 「六〇年安保闘争・三池闘争の中で、「前衛」の仮面がはがされた日共の官僚主義に対する反発、そしてまた民族民主統一戦線なる階級闘争の放棄(六二年民青台東地区委員長阿部君との上野の喫茶店シマでの個人討論で、台東区内で反米闘争を具体的にどうやるのかと質問したら答えられず、「それじゃあ外資アメリカ系のガソリンスタンドでも闘争対象にするか」と言うと「クヤしい、負けた」と言って帰ってしまったのを思い出す)のナンセンスさを思い、当時の社青同の地区メンバーは日共に対する幻想や、社会党員の中にみられる日共コンプレックスなど一片もなかった。そして一方新左翼なるものが、「社共・民同革同の裏切りに後退に後退を続けて来た労働者階級は」で始まるアシビラや「反帝・反スタ」の「反スタ」なるものが、労働者の日常生活感覚からかけ離れた軽いものでしかないと思ったことなどが無党派青年活動家社青同に結集した動機であった」とある。

 日本社会主義青年同盟は、十月一二日、浅沼社会党委員長が右翼青年の凶刃に倒れた直後に約四千名の同盟員を基礎に結成された。この結成大会の模様は中国で“人民日報”紙上に報道されたのを中国で感激しながら読んだ記憶がある。そして、帰国してから私は中央執行委員で共闘部長を担当した」。

 この頃の動きは次の通りである。自治会執行部の役員改選の時期を迎えていた。何処の大学でも主流派と反主流派が入り乱れての執行部争奪戦となった。多くの大学では学生大会が定足数に達せず流会となるといった低調さの中で、泥仕合的な指導権争いが為されていった。早大第一文学部では、旧執行部は民青系反主流派であったが、主流派が新執行部を選出し、旧執行部はこれを違法として認めず、結局二重執行部を生み出したりしていた。


 この頃ブントの分解過程で発生した3系譜は次のような動きを見せていた。その後、「戦旗派」や「プロ通派」の一部が黒田寛一の「主体性哲学」を賛美し始め、雪崩を打って革共同黒田主義への「乗り移り」に向かうことになる。戦旗派はいち早く革共同全国委に合流していった。「守田典彦(青山到)、西江孝之(西原孝史)らの主導で「革命的戦旗派」が登場し、私から見れば、いささか性急に革共同との合流を志向しだした」(多田靖)とある。他方、「革通派」も方針が打ち出せないという運動上の破産に直面し、分解していくことになった。


 10.12日、池田内閣打倒、浅沼刺殺抗議全学連集会。


 10.15日、全学連、池田治安内閣打倒の集会とデモに500名参加。


 10.20日、第23次全国統一行動、全国40カ所で新安保反対・浅沼暗殺抗議全国大会。


 10.28日、「池田内閣打倒」をスローガンとして集会が催されたが〔日比谷野音〕、ブント・革共同系全学連各派合わせて1000名以下という凋落を見せ、以降学生戦線は低迷状態に入った。この衰退過程で、革通派は方針を打ち出すことが出来ず解体を余儀なくされていった。プロ通派も又指導部で理論的混乱が発生し、そのうちの北小路敏.岡田新.奥田浩一らが革共同全国委に参加していくことになり、残された部分も求心力を持たずこうしてプロ通派も解体していくこととなった。


 10.28日、全自連主催・新安保反対・全面軍縮・池田内閣打倒総決起集会〔清水谷公園〕、五百名参加、のち国会・首相官邸デモ。


 10.28日、平和・民主主義大学戦線(フロント)兵庫県結成大会〔神戸大住吉分校〕、百名参加。


 11.12日、全学新書記局に批判的な学新約二十の編集者、全国代表者会議開催〔京都〕、個人加盟の学生ジャーナリスト会議発足。


 11.17日、全学連、池田内閣打倒総決起集会に約300名参加。


 11.21−23日、第三回全国学生文化会議〔早大〕、二日目、安保闘争総括の対立から全自連系学生が退場、新たに文化活動者会議を結成。


 11.24−25日、社学同左翼反対派、国際主義共産青年同盟準備会学生部と改称。


 この頃社会党の江田三郎書記長が、トリアッチ路線に範をとった構造改革路線を提唱。左派の「改良主義批判」によって葬り去られた。


 12.8日、第二次池田内閣成立。


 12.13日、池田内閣打倒・教育基本法改悪阻止全学連決起集会〔芝公園〕、七十名で新橋までデモ。


 12.17−18日、全自連第四回全国自治会代表者会議〔東京〕、学生戦線の統一と全自連の組織問題を討議、新島ミサイル基地化反対・公共料金値上げ反対・国公私立大授業料値上げ反対等を決定。


 12.25日、六・一五闘争被告団機関紙「二十四人」発刊。


 12.18−28日、「第14回中総」開催。先の選挙結果の評価で意見が対立した。「総選挙の結果と当面の任務」を決議したが、その採決では、中野・西川・亀山・神山の4人の中委が保留を表明し、ここに満場一致という13中総までの中央の先例が破られた。その他「共産党・労働者党代表者会議の声明」及 び「全世界諸国人民への呼びかけ」に関する決議を採択。


 12.27日、池田内閣は、閣議で国民所得倍増計画を決定した。国民総生産を10年で2倍にする計画が打ち出された。以降日本経済は高度経済成長時代を向かえていくことになる。


【全自連の動き】
 全自連は、ポスト安保後の60年後半期「民主勢力の前進」に向け共産党への支持活動に取り組んだ。急進主義派が安保後の挫折感に浸っている間に、 浅沼刺殺抗議闘争、総選挙闘争に取り組む中で勢力を拡大し、60末には約170自治会を結集し、全学連組織のほぼ50%を占めた。12.17−18日、全自連4全大で、「日本の学生運動の主流はもはや全自連である」と宣言し、新たな全学連の結成を決議した。

【東大、明大、中大などの活動家が「社学同東京委員会」再建】

 12月、旧ブント系の活動家は、有名無実化した社学同の再建をめざして活動をはじめ、東大、明大、中大などの活動家が「社学同東京委員会」を再建、社学同再建準備委員会の名称で「SECT 宸U」を創刊した。

 「革共同の欺瞞的な態度」について、吉本隆明氏が「擬制の終焉」文中で次のように批判している。
 「革共全国委が共同をブランキズムとし、市民主義の運動をプチブル運動として、頭のなかに馬糞のようにつめこんだマルクス・エンゲルス・レーニンの言葉の切れつばしを手前味噌にならべたてて、原則的に否定するとき、彼らは資本主義が安定した基盤をもち、労働者階級がたちあがる客観的基盤のない時期 ― いいかえれば前期段階における政治闘争の必然的な過程を理解していないのだ。プチブル急進主義と民主主義しか運動を主導できない段階が、ある意味では必然的過程として存在することを理解できないとき、その原則マルクス主義は、『マルクス主義』主義に転化し、まさに今日、日共がたどっている動脈硬化症状にまで落ちこまざるをえないのである」。

 これを引用して、三上氏が次のように記している。
 「これは1960年のブントの実現した大衆運動を起源とする運動が論理を獲得したことを意味する。その端緒に立ったのである。かつてのブントや全学連の指導部にいた連中が、革共同に移行するか、いなくなるかの中で、僕らは中央的な政治集団なしで闘いを持続するしかなかった。前衛的な政治集団としてではなく、せいぜいのところ大学単位の左翼グループとして安保闘争後の歩みを始めるが、吉本さんがこのころ書かれた論文は強い援護の役割を果たした」。

 これより後は、「第6期その2、マル学同系全学連の確立と対抗的新潮流の発生に記す。





(私論.私見)