1960年 戦後学生運動第5期その3
「60年安保闘争」、ブント系全学連の満展開と民青同系の分離期

 更新日/2023(平成31.5.1栄和改元/栄和5)年.1.4日 

 これより前は、「第5期その2、新左翼系=ブント・革共同系全学連の発展」に記す。

 (れんだいこのショートメッセージ)
 59年から60年に初頭にかけて日米安保条約の改定問題が、急速に政局浮上しつつあった。政府自民党は、このたびの安保改定を旧条約の対米従属的性格を改善する為の改定であると宣伝した。しかし事実は、新安保条約は、米軍の半永久的日本占領と基地の存在を容認した上、新たに日本に軍事力の増強と日米共同作戦の義務を負わせ、さらには経済面での対米協力まで義務づけるという点で、戦後社会の合意である憲法の前文精神と9条に違背する不当なものであった。1960年、安保改定の年を迎えた。日米安保条約の改定を許すのか許さないのかを廻って政局がいよいよ流動化し始める。


【1960年の動き】(当時の関連資料)

 お知らせ
 当時の政治状況については「戦後政治史検証」の「1960年上半期」(「戦後党史論の60年安保闘争」)に記す。本稿では、当時の学生運動関連の動きを記す。特別に考察したい事件については別途考察する。

【日米安保条約の改定問題の政局浮上】

  59年から60年にかけて、日米安保条約の改定問題が、次第に国民的な課題となって押し出されつつ急速に政局浮上しつつあった。日米安全保障条約(旧条約)は、1951.9月のサンフランシスコにおいて対日講和条約と同時に調印されたもので、アメリカの対日防衛義務を明記しないままに日本にアメリカの軍事基地を許容する内容を含むものであり、アメリカ主導の性質を濃厚に帯びるものであった。日本の防衛負担の中身も明らかでなかった。

 政府自民党は、旧条約を不平等条約とみなして、日米の関係を片務的なものからより双務化し、このたびの安保改定を旧条約の対米従属的性格を改善し自主性を高める為の改定であると宣伝した。事実、政府自民党は、1955年、鳩山内閣の時既に重光外相が訪米し相互防衛条約におきかえたいと提案している。1957.6月には岸首相訪米時に、アイゼンハワー大統領と会談し、安保条約改定の要望をうちだしている。1958年の藤山−ダレス会談の交渉を積み重ねながら、日本の防衛に於ける主体性を回復しようとしていた。それが日本側の要請かアメリカの狙いであったのかは真相は藪の中である。
 日本左派運動は。政府自民党の論理を拒否した。新安保条約が、米軍の半永久的日本占領と基地の存在を容認した上、新たに日本に軍事力の増強と日米共同作戦の義務を負わせ、さらには経済面での対米協力まで義務づけるという点で一層日米緊密化に向かうものであり、何より戦後社会の合意である憲法の前文精神と9条に違背することを問題視した。

 この時岸首相は、ここのところの論議を避けて強権的に日米安保条約の改定に向かおうとしていた。これが反発を余計に生んでいくことになった。1.6日、藤山外相とマッカーサー大使の間の日米安保条約改定交渉が終了し、岸首相が渡米して調印するばかりとなった。仮に無事調印されたとなると、内閣の責任によって外国政府との間で締結した条約案はその時点で有効である。国会には「修正権はない」とするのが通説であり、承認するか、しないかの二者択一しか権能は無い。さて、どうするかということが課題となって急速に浮上した。


 1.1日、ブントは機関紙「戦旗」を創刊する。1号で、「世界革命の新たな展望を切り拓け 日本労働者階級の革命化のためさらに驀進せよ 1960年頭に当たって全ての共産主義者に訴える」を発表。ブントの勢いは血気盛ん押せ押せでもはや止まらない。


【ブントの全国代表者会議で、島書記長が岸訪米阻止闘争を提起】

 1.3日、島書記長が、ブントの全国代表者会議を召集。現地羽田動員による岸訪米阻止闘争を単独でも行うと提起した。「ブントの全力量を賭けた闘いとして取り組む」ことを明らかにした。これに関連して、太獄秀夫氏の「新左翼の遺産」が舞台裏を明らかにしている。

 「これを受けた全学連の戦術会議の模様について、ブント関西地方委員会書記長であった小川登は次のように書いている。この時には、唐牛全学連委員長は逮捕されてしまって、書記長の清水丈夫が代行を務めていた。清水は、『最大効果、最小犠牲』という階級闘争の戦術的原則を捨て、なんと『最大打撃、最大犠牲』戦術をとった。無茶である。だが、この無茶な戦術も、彼の口から出ると革命的英雄主義となったのである。活動家、なかんずく女子学生活動家は完全に酔ってしまった。彼は、『男の中の男』であった。彼の戦術は、全学連幹部の全員逮捕もあえて行うショッキングなものであった。

 これに対して、小川は、『ヘリコプターをチャーターし、岸首相の飛行機に石とレンガを投げまくればその飛行機は飛べなくなる』と対案を出した。犠牲を少なくしようとする提案である。ところが、この会議には女子美術大学の女子学生が多数出席していて、彼の提案に反対した。『竹中(小川のペンネーム)提案反対。私達はゲリラではなく、大衆運動をやるのよ』と黄色い声でギャァギャァやられ、シミタケ(清水の通称)が『竹中案ではなく、俺の提案、即ち空港のロビーを数百人で占拠することでいく』と採決してしまった。女子学生たちは『キャ−』と歓声を挙げた」(「島記念文集」)。

 1.6日、全学連中執委、一二六羽田動員を確認し全国オルグ始める。1.8日、全学連書記局は、「残された日を羽田動員のために死力を尽せ」を発表。


 1.6−11日、安保阻止青学共闘幹事会が、国民会議の方針に従い岸渡米に際し羽田動員せずと決定。1.8日の東京地評幹事会は賛否伯仲であった。


 1.10日、全学連、社学同、社会党平和同志会有志、日本平和委員会書記局、地評常任幹事会有志によって「羽田デモ実行委員会」が結成された。地評常幹有志には、全金、全国一般、全日労、東貨労、化学同盟、印刷出版その他が結集した。

 こうして、ブントがめざした左派戦線の結成が実現するかにみえたが、日共がこれに向かってなりふりかまわず破壊工作を行った。総評が第二地評を本気でつくろうとしているから、はね上がるべきではない″という口実をデッチ上げて、党員を総動員して各個撃破に乗りだした。そのために、実行委員会は全学連=社学同を除いて雪崩をうって瓦解してしまった。


【東京共闘会議が、岸首相渡米阻止闘争で暗転する】
 1.12日、東京共闘会議は、羽田抗議集会実行委員会を結成することを決めた。この決定は社会党の浅沼に伝えられたが、彼は、「党としては、国民会議の線をはずれることは出来ないが、議員個人が大衆と結びついて活動するのは当然だ。大いにやってくれ」と激励した。日共の対応に比べると、社会党のらしき良さであったと云える。

 こうして国民会議は一度は羽田動員を決定したが、野坂・宮顕コンビの率いる日共が羽田動員闘争に反対指導し始め、金属執行部の党員を呼びつけて「総評が本気になって、第二地評をつくろうとしているから、跳ね上がるべきでない」と恫喝をかけ、そうした変調指導で金属協議会、地区共闘がガタガタに切り崩された。こうして動員されないことになった。結局、日共と総評が羽田動員に尻込みし始め、国民会議幹事会で否決されることになった。

 1.12日、警視庁公安一課三井は、全学連書記局に赴き「実力阻止を思いとどまるように」と異例の説得に来ている。

 1.14日、政府が新安保を閣議決定、代表団訪米を15日午前8時と決定した。国民会議主催の「渡米調印反対抗議団結成大会」が中央・地方代表2千名を集めて文京公会堂で開かれ、全学連代表は、地方代表の労働者とともに羽田動員を要求。幹事会は会場混乱を口実に大会打切り、羽田動員拒否を幹事会決定した。全学連の激しい抗議は圧倒的な共感を得て、大会は混乱と怒号のうちに散会する結果になった。


【日共が、岸首相渡米阻止闘争の穏和化へ向けて裏指導】

 1.14日、アカハタは、「16日にはデモの形で羽田動員を行わないとする国民共闘会議の決定を、これを支持する我が党の方針は、多くの民主勢力によって受け入れられている」声明を発表している。1.16日、岸全権団の渡米阻止のための大衆運動計画が立てられた。この時、宮顕系日共党中央は信じられないことだけども、岸全権団の渡米にではなく、渡米阻止闘争に猛然と反対を唱えて、全都委員・地区委員を動員して、組合の切り崩しを はかったという史実がある。

 「アカハタ.60.1.13」は次のように記している。

 「(岸首相の渡米出発に際しては)全民主勢力によって選出された代表団を秩序整然と羽田空港に送り、岸の出発まぎわまで人民の抗議の意志を彼らにたたきつけること」。
(私論.私見) 日共の岸首相渡米阻止闘争に対する詭弁考
 これは不思議な文章である。闘わない意図を闘う言葉でまぶしている。これに騙される愚か者が後を絶たない。それはともかく、そういう詭弁を労し、穏和な送り出し方針をいち早く打ち出している。

【総評が、岸首相渡米阻止闘争中止を機関決定、革共同も羽田動員に反対する】

 総評も羽田闘争の取り組みの中止を機関決定した。革共同も社学同反対派の名で羽田動員に反対した。安保改定阻止国民会議は、いったんは「大規模なデモで岸以下の全権団の渡米を阻止する」方針を決めながら、二日前になって、社共両党.総評幹部などの判断でそれを取り消し、盛り上がる下部を押さえにかかった。昨年末の「11.27の国会乱入を再現しては困る」配慮からであった。これを「幹部の裏切り」と怒ることは出来ても、行動で示すことは出来なかった。


【全学連が裸単騎で岸首相渡米阻止闘争に向かう】

 全学連指導部は唯一その怒りを引き受け、実際行動で示そうとした。この時ブントは必死になって情勢を読み、見通しを論じた。戦術如何では全学連内に分裂傾向が深まることもあり得た。しかし、ブントは次のように結論しまなじりを決した。次のように記されている。

 「社共の裏切りが大衆的な怒りを呼び起こしている現状では、何をやっても『浮き上がる』恐れはない。最高の闘争形態をとるべきだ。ブントが全員逮捕されても、それは安保闘争を進めることになっても。停滞させることにはならない」。

 この時のことを島氏は、後年次のように述懐している。

 「全国各地から同盟員を集め、殆ど組織を裸のままぶつけたこの闘い」、「それは従来の常識からすれば冒険主義と非難されるに値するものであったろう」、「左翼公式戦術から見るなら邪道そのものであった」。


 樺美智子遺稿集「人知れず微笑まん」は次のように記している。
 「当面の安保闘争−それは『16日の岸渡米を羽田空港で阻止せよ!』です。勿論、16日中には出発してしまうでしょう。でも、一国の首相が調印に出発するのが、自国の人民によって、数時間でも遅れさせられた、とすれば....そのことは国際的に云々....ではなくて、日本の労働者階級と人民にこそ、強く訴えるでしょう。安保を本当に阻止する闘いをやろうではないか、岸政府を打倒しようではないか、と。そして、資本家階級を打倒する闘いに真剣に取り組もうではないか、と、私は呼びかけたいのです」。

【岸訪米阻止羽田闘争で、全学連が空港ロビーに突入】

 全学連は、社共の見送り方針を一顧だにせず、岸渡米阻止羽田闘争を独自行動として取り組んでいくことを決定し、跳ね上がりを押さえようとする日共の動きをはねのけて傘下の各自治会に緊急動員指令を発し、全国から抗議団が上京し始めた。

 佐藤首相が反対運動を避けようと予定を早め、16日早朝にひそかに羽田から出発しようとしていることが伝わった。「明朝では遅い! 今夜だ! 敵の機先を制して即刻羽田空港占拠すべし!」と指針させた。

 1.15日夕から全学連先発隊約700名が羽田空港ロビーを急襲し占拠、座り込みを開始した。警備側との動員競争でもあった。遅れて450名が駆けつけ、300名が警官隊の阻止線を破って合流した。7時過ぎには、空港ロビーに「共産主義者同盟東大細胞」などの旗がなびき、デモが渦巻いた。後続部隊も続々と羽田へ羽田へと向かった。「春闘には絶望あるのみ、一切の展望は1.16の羽田から切り開かれる」という決意の下になだれこんでいった。

 全学連部隊は、警察の襲撃に備えて、出発ロビーへの階段に机やイスでバリケードを築き、食堂に篭城した。これに対し、翌午前3時2000名の機動隊が「袋のネズミ」に突撃した。この闘争で、生田、片山、古賀らブント幹部を含めた唐牛委員長、青木ら学連執行部、全学連の77名が検挙された。樺美智子も逮捕されている。

 朝5時半、更に増えた学生と労働者は約2000名となり、振り出した雨の中を第一京浜国道で激しくデモを展開した。これに機動隊が突っ込み夜明けの乱闘となった。多数の負傷者が出た。この間岸首相は裏側通用門から空港に入り飛び立った。以上が概略である。これを「羽田デモ事件」と云う。この羽田闘争こそが、その後の全学連の行動類型を定めることになった、つまりヒナ型になったという点で見逃すことが出来ない。

 島氏は次のように成果を確認している。

 「我々だけが日和見的な日共と国民会議を乗り越えて戦い、岸渡米に打撃を与えた」。
 「全く新しい大衆闘争の現出だった。明らかに私たちブントの闘いによって、政治にとって、安保闘争にとって、人民運動にとって流動する状況が生まれたという確信である。長らく社・共によって抑圧されていた労働者大衆が、これをうち破った全学連の行動を通して、新しい政治勢力としてのブントの像をはっきり見たに違いないという実感である」。
 「私達は、政治というものが、決して政治家の予測するような漸進的な仕方で動くものではないことを知っていた。政治が流動化するとき、常々は保守的な大衆がいったん動き出した時、それはいかなるものをも乗り越えて進むものだと云うことを確信していた。この機会を逃すような政治組織、自らの勢力拡張の為にのみ闘いを利用し、それを押し止めたり、おののいたりするような既成政党−まさにこのようなものに反逆すして私達の組織をつくったのだ。だからこそ、大衆の流れがまさにせきをきって迸(ほとばし)らんとするとき、私達は賭けたのだ。これに堪えられぬ組織は、それだけで死に値するものなのである」。
 「ブントは潰れず、事態はとどまらなかった。ブント自らひらいた情況は、当のブントそのものを呑み込んで発展していく」。

 「生田夫妻追悼記念文集」には次のように記されている。生田氏は。2月まで拘留される。

 「あれほど慎重で思慮深く、10年間党指導者としていつも大衆を扇動しながら一度も逮捕されたことのない生田が、羽田闘争では『絶対にパクられるな』との指導部の決定もどこへやら、いい気になってデモ隊に加わり、挙げ句はジュズつなぎになって生まれて初めて豚箱に入る破目になったのも、偶然とは思えない。それまでの彼の思慮を踏みにじってしまうような熱気が、自分の中に涌いてくるのを抑えることが出来なかったのであろう」。

 日経の「私の履歴書」の青木昌彦編、2007.10.2日付けbQ「学生運動」は次のように記している。
 「拙劣な戦術といえばそれまでだが、この事件で、ブントが緊迫する政治情勢に無視し得ないプレーヤーになったことは周知の通りだ」。

 岸訪米を許したとはいえ、全学連の十数時間に及ぶ激闘は、内外に異常な反響をまき起こした。ラジオは深夜の実況放送を流し、外電も「事件」を大々的に報じた。なかでも、ソ連のプラウダは「岸はカモシカよりもすばやく逃げた。それは羽田における愛国者の闘い」だと評して話題をまいた。日共のアカハタは、岸が「裏通りから泥棒猫の如く」日本を「脱出」せざるをえなかったのは「安保に反対する人民の世論によるものだ」(1月17日)と臆面もなく評論した。 

 労働者のあいだでも「その日から4−5日間というものは、職場では全学連の話題でもちきりだった」(長崎造船社研「羽田の空は美しかった」)という事態を現出した。

 他方、国民会議は、予定通り日比谷中央集会を開催した。午後1時、5千名が雨中の集会をもったが、かけつけた200名の学生によって演壇を占拠され、国民会議指導部は学生や労働者から激しく糾弾され、大会は混乱のうちに終わった。

【九大学生運動史】
 (大藪)
全学連が、60年1月15日、羽田空港で岸首相の渡米阻止闘争を組んだとき、九州からも20人ほど参加しました。逮捕者も数名出た。自分も九学連の委員長として事後逮捕された。特急列車で警視庁まで護送されたが、当時東京まで20時間ほどかかった。1月だから都下の警察署に留置された者は寒くてたまらなかったようだけど、わたしが留置された警視庁の地下牢は暖房が効いていた。

 60年1月末、九大で大事件が起きた。旧法文建物の地下にあった九学連書記局が羽田闘争に関連して捜索を受け、大きな騒動に発展した(60年1月21日、教養部30年史では「九大事件」、九大75年史では「九学連事件」として詳しく記述されている)。次のように証言されている。

よく憶えているが、早朝、大学の近所にある「学連長屋」に、捜査が入ったと知らせが来た。すぐざま駆けつけて、学生の安保反対の署名簿を含む押収資料をぜったい持ち出させない、ということで捜査官を本部の学長室に連れていって閉じ込めた。捜査に抗議する学生がどんどん集まって来て事務局本部建物の廊下にすわりこんだ。大学側も関係者が解決のために尽力したが、捜査官との押し問答、県警との交渉は終日続いた。夜になって、県警機動隊が正門前に出動、これに対抗して正門にはピケを張った。しかし、夜半すぎに、機動隊が、正門は閉められていたので横の屏の柵を踏み倒して、学内に突入し、ピケを破り、本部建物に座り込んでいるみんなをごぼう抜きして、捜査官を連れ出し押収資料を持ち去った。その頃は未だ「大学の自治・学問の自由」は絶対的なほどに尊重されこれを守ろうとする姿勢、気概は大学内に行き渡っていました。山田穣学長は、警察の捜査が入ったときに「ご苦労さん」と言ったというので、厳しく追及されました。

【各界の反応】

 たちまちにして「世論」はこの全学連の闘いを袋たたきにした。良識左翼人は「赤い雷族」と批判した。マスコミからも「ハネ上がりども」(毎日新聞)、「革命気違いども」(読売新聞)、「赤い暴れん坊」(日経新聞)、「ヤクザ学生運動家」(朝日新聞)、「政治的カミナリ集団」(週間朝日)、「角帽革命の参謀本部」(週間読売)等々と酷評された。

 社会党・総評は、統一行動を乱す者として安保共闘会議から全学連排除を正式に決定した。羽田事件後、日共は、再び全学連を「トロツキストの挑発行動・反革命挑発者・民主勢力の中に送り込まれた敵の手先」として大々的に非難した。革共同も、「一揆主義・冒険主義・街頭主義・ブランキズム」などと非難している。

 他方、一部の知識人からは、全学連を突出させざるを得なかった既成組織の指導性のなさに目を遣る指摘も為されていた。中でも清水幾太郎氏は、全学連を安保闘争の「不幸な主役」と命名し、「全学連のおかげです」と発言して熱烈なエールを送った。

 その清水氏が中心になって「諸組織への要望書」を送っている。そこでは、名指しは避けつつも全学連を「大切な味方の勢力」と判断していた。清水氏はこの文書を廻って様々な友人と論争になり、日共支持派の「共産党は、ボヤボヤしているように見えても、そのうち何かアッというようなことをやるに決まっている」との「不動の神話に基く信頼」の壁に突き当たったと証言している。

【羽田闘争の明暗】
 羽田闘争で、ブント及び全学連の幹部がほとんど根こそぎ逮捕されてしまい、安保闘争のヤマに向かう過程で重大な危機に陥った。保釈や裁判に関わる膨大な費用も懸念された。さすがに島書記長も清水に「やり過ぎだ」と批判している。

 これを暗とすれば明も生まれた。大獄秀夫氏の「新左翼の遺産」は次のように記している。
しかしながら、大衆レベルでは『ブント事務所に名も知らない人々からの激励と共感のメッセージやカンパが引きもきらず寄せられてくる』、『大量の幹部逮捕にも拘らず、学連もブントもそれを補うに足る活動家が次々と』現われるという事態が生まれた。このためブントは、手狭となった旧事務所から、神田の大通りに面した二階建ての建物に移転した。そして島らは、意気揚々と全国オルグや闘争資金調達に飛び回った。島は当時を振り返って、『血湧き肉踊る』ような面白い日々の連続であった』と記している。

 1.17日、国民会議全国代表者会議が開催された。指導部が「統一を守らなかったものに反省を求める」とマトメをしようとしたことにたいして抗議がまき起こった。


 1.19日、全学連、安保調印・不当弾圧に抗議して全国統一行動、安保調印抗議・不当弾圧粉砕全国学生総決起大会、中央集会〔神田橋公園〕、安保改定反対・弾圧抗議全京都学生集会〔立命館大〕等全国で集会・デモ展開。


 1.19日、新安保条約がワシントンにおいて、岸首相とアイゼンハワー大統領との間で調印された。かくてこれ以降の安保闘争は、調印阻止から批准阻止へと、その目標をシフト替えしていくことに なった。1.22−26日党は、「第8中総」を開催し、「当面の安保闘争と組織拡大について」の決議を採択。「安保改定に反対して、アメリカ政府、岸内閣に抗議し、国会に請願する署名運動を積極的に全国的な運動として展開」することを決定した。


【日共のトロツキスト批判と反動的立ち回り】
 1.23日、アカハタは、「トロツキストの挑発と破防法による弾圧企図について」という長文論文を発表し、概要「羽田におけるトロツキストの挑発行動は、破防法を政府が改めて持ち出し、民主勢力を弾圧する道具に使う口実を与えた」として全学連を攻撃した。

 知識人によって羽田事件の逮捕者の救援運動が始められるや、党中央は、逮捕された学生の救済を拒否し、弁護士の支援活動を制約した。発起人に名を連ねている党員の切り崩しをはかり、関根・竹内・大西・山田・渋谷 などの人々が発起人を取り下げざるをえなくされた。これらの知識人は後々党中央に対する激しい批判者となった。
(私論.私観) 60年安保闘争の際の共産党の果たした役割について

 安東氏は次のように述べている。

 「11.27から1.16に至る緒戦において、闘うエネルギーを封じ込める上で日共中央の果たした役割は大きかった。それは、その時々の情況によって揺れ動く総評・社会党指導部の姿勢とは違って、まさに一貫していたといってよい。そしてこの基本姿勢は安保闘争の全期間を通じて、不動であった」。

 1.21日、安保阻止青学共闘幹事会、羽田闘争の救援・全学連への破防法適用抗議等を決定。


 1.24日、人民中国外交部は、「軍事同盟条約の調印は、日本軍国主義が既に復活したことのしるしであり、日本が既にアメリカの侵略的な軍事ブロックに公然と参加したことのしるしである」と論評した。


 1.24日、岸全権団が帰国。自民党が1万5000名で歓迎集会を開いている。この日社会党右派の西尾末広らが社会党を離党し、新党として民主社会党(民社党)が結成されている。委員長に西尾末広を選出。「資本主義と左右の全体主義と対決する」という綱領を掲げた。こういう政治的エポック期を前にしての社会党の分裂化は自然な流れと言うよりも、当局の差し金により計画的に作り出された社会党のひいては安保反対闘争の弱体化政策であった。


 1.24日、社会党右派の西尾末広らが社会党を離党し、新党として民主社会党(民社党)が結成されている。委員長に西尾末広を選出。「資本主義と左右の全体主義と対決する」という綱領を掲げた。こういう政治的エポック期を前にしての社会党の分裂化は自然な流れと言うよりも、当局の差し金により計画的に作り出された社会党のひいては安保反対闘争の弱体化政策であった。


【革共同全国委が機関紙「前進」発行】
 この頃革共同全国委員会派は、全学連主流派の有力幹部たちをも包含しつつ勢力を扶植しつつあった。2月に革共同全国委員会は責任者黒田のもとに機関紙「前進」を発行。次のように檄を飛ばした。
 「一切の既成の指導部は、階級闘争の苛酷な現実の前にその醜悪な姿を自己暴露した。安保闘争、三池闘争のなかで社共指導の裏切りを眼のあたりにみてきた」。
 「(労働者階級は)独立や中立や構造改革ではなしに、明確に日本帝国主義打倒の旗をかかげ、労働者階級の一つの闘争をこうした方向にむかって組織していくことなしには、労働者階級はつねに資本の専制と搾取のもとに呻吟しなくてはならない」。
 「一切の公認の指導部から独立した革命的プロレタリア党をもつことなしには、日本帝国主義を打倒し、労働者国家を樹立し、世界革命の突破口をきりひらくという自己の歴史的任務を遂行することはできない」。
 「こうした闘争の一環としてマルクス主義的な青年労働者の全国的な単一の青年同盟を結成した」。

【三菱長崎造船所細胞の大多数が離党、離党・脱党が相次ぐ】
 この頃、日共党内では、党の安保闘争の指導ぶりをめぐって論議が巻き起こり、党中央批判が展開された。1−2月共同印刷・鋼管川鉄と並んで三大拠点細胞 とされていた三菱長崎造船所細胞の大多数が離党した。その中心分子は、共産党は今や理論的にも実践的にも革命政党としての能力を失いつつあると宣言。自ら2.22日「長崎造船社会主義研究会」なる自立組織をつくり、ブントへの結集の動きを見せ始めた。こうした現象は中央から地方に、インテリ党員から労働者党員へと急速に広がり、学生細胞・全国有力大学の学者党員・官公労民間経営から離党・脱党が相次いだ。

 1.25日、三井鉱山が三池炭鉱にロックアウト、三池労組は無期限全面ストに突入。


 1.28日、全学連批准阻止闘争第一波、安保批准反対・不当弾圧粉砕全国学生総決起中央集会〔清水谷公園〕を初め全国七十カ所で集会・デモ。国民会議代表者会議では、「羽田へ行け」という大衆討論の結果をふみにじった指導部への抗議、「羽田闘争はよくやった闘争」だという評価、「羽田に行かぬことでは、おくれた者、卑怯者は助かったのであり、全学連の行動はすすんだ者には勇気を与えた」という声が、兵庫、大阪、京都、山口などの代表から発言された。


 2.2日、「安保国会」が幕をあけた。野党側が鋭く政府を追及した。これに呼応して国民会議も統一行動を盛り上げていくことになった。


【社学同第5回全国大会、革共同関西派中執一掃】

 2.9日、社学同第5回全国大会〔目黒公会堂〕。四月全国ゼネスト・国会包囲デモ等四月闘争方針決定、左翼反対派8名の代議員資格が否認され途中退場する。委員長・篠原浩一郎、副委員長・山田恭暉、書記長・藤原慶久を選出する。


 2.18日、革共同関西派系自治会代表者会議〔大阪経大〕、左(全学連主流派)右(反主流派)の日和見主義と闘う″と声明発表。


 2.21日、全学連中執委、批准阻止第一波を二十八日、三月全学連大会開催等を確認。


 2.27日、日本社会主義青年同盟(準)全国学生班協議会準備会発足。


【全学連22中委開催、革共同関西派中執一掃】

 2.28−29日、全学連第22中委が開かれている〔赤坂公会堂〕。羽田1.16闘争の評価を基礎に今後の安保闘争の展望をめぐって論争が為され、全学連ブント指導部は、「羽田闘争は支配階級の徹底した弾圧を受けたが、このことは一層強力な実力的大衆行動のみが、支配の攻撃を粉砕できることを明らかにした」と総括し、「批准阻止闘争と4月ゼネスト準備」を呼びかけた。革共同派は、羽田闘争を一揆主義的盲動主義と批判し、生産点における労働者の決起を対置した対案を提出し、論争となった。民青同派は、全学連の極左的戦術方針が秩序ある行動の盛り上げにマイナスになっていると批判し、この観点から羽田闘争の意義を否定した。

 この時、1.16日の羽田闘争のボイコットに対する責任追及として、革共同関西派中執の8名(徳江ら)を罷免する動議が突如出され、61対38で可決された。こうして革共同関西派が暴力的に罷免され、中執はブントによって制圧された。この時点での全学連内部の勢力比は、ブント72、民青同22、革共同関西派16、その他革共同全国委・学民協とされる。


【日共宮顕の民青同統制】
 2.6日、旧所感派で中央主流に批判的な長谷川浩を学生対策部長から引き下げ袴田がこれに替わった。

 2.15日、アカハタの学生版とも云うべき学生新聞を創刊(4月から旬刊)。

 3.2−3日、「第7回党大会第9回中委総」が開かれ、「民主青年同盟の拡大強化のために」の決議を採択した。この決議の採択経過は分からないが、民青同中央が穏健路線からの脱皮を模索しようとしていた風がある。民青同の良質部分の動きと捉えた方が判りやすい。この「9中委総決議」は、「それまでの宮顕−袴田等の『市民的民主主義』 論や西沢隆二らの『歌え、踊れのサークル化傾向』を打破し、同盟の新しい組織論・運動論を確立する基礎を築き、民青同の拡大強化のための新しい方針を決定し飛躍的発展を助けることになった」とされている。

 しかし、この民青同中央が作成したよびかけと規約をめぐって、またしても宮顕書記長が介入することとなった。この時宮顕は、民青同に対して、意識的に次のような右派系統制をしている。
 社会主義を目指して闘うことを強調するのは間違いである。「民族解放」の課題を強調すべきであるとし、「階級的矛盾は民族的矛盾に従属する」と強弁してはばからなかった。
 「マルクス・レーニン主義を学ぶ」という項目は、党の独自活動でやるべきで、同盟自身の性格にすればはばが狭くなるから掲げない。
 民青同中央が、「党の導きを受ける」と党と同盟の関係を明らかにした上で、同盟の自主性を強調したのに対し、それでは事実上共産青年同盟化するからとそれに反対した。事実、宮顕書記長自ら「第6回大会」の方針に自ら筆を入れ、 青年同盟を「階級的立場の同盟ではなく、市民的民主主義を追求する民主的組織」とし、同盟の性格を「人民の民主主義的課題のために闘う」とあったのを 「労働者階級を中心とする人民の民主主義の立場に立つ」と玉虫色とした。
 (私論.私観) 宮顕の民青同統制について

 一体全体この御仁は、戦前戦後今日まで何をするために党に鎮座 しているんだろう、と私は思う。こういう御仁が「無謬神話」されているトリックこそ早急に解明すべきと思われる。


 3.10日、アカハタ主張で、アイゼンハワーの来日反対闘争を提起。


【全学連第15回大会】

 3.16−18日、「全学連第15回臨時大会」(委員長・唐牛健太郎)が開かれている。先の羽田闘争での逮捕からの保釈を待って開催された。大会はのっけから、全学連主流派と民青同系、革共同関西派系との間の深刻な対立で始まった。代議員の色分けは、主流派が約270名、反主流派が約230名だったと云われている。いわば真っ二つに割れる拮抗関係になっていた。全学連中執は、民青同系の東京教育大、早大文学部などの代議員に「加盟費未納」を理由に資格を取り消し、入場を実力阻止した。これに抗議した民青同系、これに革共同関西派も加わり衝突が引き起こされた。こうして開会前から会場外で乱闘が始まった。

 こうして、民青同系と革共同関西派の反主流派の代議員231名(川上徹「学生運動」では代議員234名)を会場外に閉め出した中で、大会を強行した。会場内の中の主流派(ブント系・革共同全国委系・学民協系)代議員261名(〃代議員は181名)であったと云う。

 大会は、9回大会以降の全学連の前進を次のように総括していた。

 「それは政治的課題を民族的な枠内だけでしかとらえられない傾向がばっこしている中で、問題を何よりも国際的な観点からとらえ、平和運動を、敵のない話し合い運動に解消する傾向に抗した。帝国主義者の反動戦争政策に対決する任務を全学連の闘争の中心任務にすえ、把握したことは画期的なことであった……。

 今日では誰もがその『第一義性』を口にする平和もそれが現実に日々変遷する諸階級の国際的闘争の現実からはなれて固定化されるならば、闘いの正しい発展をおしとどめていくようになる。『戦争と平和』ですべてを割り切りドグマティックに情勢を分析し、方針の(平和擁護闘争)を立案する立場から脱却して、我々をとりまく情勢は実は資本家階級と労働者階級の激しい闘争の世界であること、その渦中の学生の諸要求も労働者階級との闘いと固く相互に結合しあってその発展が保障されること、従って我々はすべての情勢を平和擁護の課題をひきだす見地からではなく、その時期における労働者と資本家の力関係及び対決点(それは政治情勢を左右する)を明確に把握しつつ学生の運動の方向を導きださねばならないことが次第にあきらかにされていった。11回大会から14回大会にいたる一年間は、勤評闘争、警職法闘争の実践の試練の中で、このような正しい思想がより深刻に追求されていく過程であった。

 従ってこの第十四回大会をめぐる論争は、まさにこのような学生運動の発展の方向を正しくすすめようとする部分と、おしとどめようとする部分の対立として行われた。そしてそれは同時に、日本資本主義がその発展途上、国際的地位の確立を狙って行って来たところの安保改定に対する闘争をより正しい方向に大胆に発展させるか否かの対立としてあらわれたのである」(第十五回大会報告決定集)。

 結果、「全学連第15回臨時大会」は、全学連におけるブントの主導権を固め、「国会突入、羽田闘争を中心とした全学連の行動はまったく正しい」と評価し、「安保批准阻止闘争の勝利をめざして4月労学ゼネストを断乎成功させよう、岸帝国主義内閣を打倒しよう。4.26を全学連の命運を賭けて闘う」と宣言した。

 人事は、委員長・唐牛(北大)を再選し、副委員長・加藤昇(早大)、糠谷秀剛(東大)、書記長・清水丈夫(東大)を選出した。大会は、「左翼的拠点を固めよ」と呼号し、当面のスケジュールを国民会議の第14次.15次統一行動にあわせ、4.15日に国会請願デモ、20日に全国ストライキ、「4.26日に全国ゼネストと国会デモ」等の方針を決定した。特に4.26日を「全学連の運命をかけて闘う」と決定した。この時島氏が挨拶に立ち、渾身の力を込めてブントの安保闘争への決意を表明した。

 この大会開催に先立っての会場付近での主流派対反主流派の衝突は、革共同関西派、日共派の反主流派の代議員231名をして大会ボイコット→独自集会を結果させ、後の全学連分裂を準備させることになった。

(私論.私見)
 してみれば、この大会は学生運動史上至上汚点を残したことになる。意見の違いを暴力で解決することと、少数派が多数派を閉め出したことにおいて、悪しき先例を作った訳である。この時点では、全学連主流ブント派は、明日は我が身になるなどとは夢にも思っていなかったと思われる。私見であるが、左翼運動の内部規律問題として、本来この辺りをもっと究明すべきとも思うが、こういう肝心な点について考察されたものに出会ったことがない。

 羽田闘争の一ヵ月後には、当時の左翼知識人を代表する17名によって「諸組織への要請」が発表され、理論戦線においても前衛党神話の崩壊が大衆的にはじまったことを示していた。 石川達三、清水幾太郎らが全学連支持、既成左翼を批判した。


 3.17日、 三池労組が分裂し、第二組合作られる。


 3.23−24日、社会党臨時大会。委員長に浅沼稲次郎を選出。


 3.28日、三井鉱山生産再開、第一組合と流血の激突。3.29日、三池闘争、第一組合員久保清が暴力団員に刺殺される。


 3.31日、安保阻止青学共闘主催・安保批准阻止・デモ規制粉砕・岸内閣打倒青年学生統一行動、中央決起集会〔日比谷野音〕に一万名参加して八重洲口までデモ。


【ブント第4回臨時大会】
 4.2−3日、ブント第4回臨時大会〔横須賀〕し、「4月決戦」を前にして、4.26学生ゼネスト・国会包囲により労働者階級の決起を促す方針等を決定した。島書記長が次のように呼号している。
 概要「広範な大衆のエネルギーが爆発したとき、あらゆる意味で鍛えられた真のプロフェッショナルな革命家が三千名存在するならば権力獲得は不可能ではない。安保闘争を生半可な反対闘争に終わらせてはならない。ブントは例え全員検挙されても、一時的に組織が崩壊するようなことがあっても、この闘争をやり抜く」(「ブント私史」)。

 但し、島自身は後に次のように述べている。
 概要「この大会前後、権力の奪取、革命を叫び、ソ連スターリン官僚国家でない真の社会主義国家の建設を主張していたが、それでは如何なる過渡期国家をつくり、その廃絶に向かうのか、についてのイメージを全く持てない自分やブントに疑問を感じていた」。

 4.3日、アカハタ日曜日も発行、完全日刊化、同日曜版10ページ建てとなる。


 4.3日、全学連反主流派が全国活動者会議開催〔神戸大〕、全学連対策を討議。


 4.5−9日、党の「第10回中総」が開かれ、「三井三池労働者の英雄的闘争の勝利のために全民主勢力の奮起を訴える」を採択。全国の党組織に三池闘争への取り組みを指示し、延べ数千の活動家を現地に派遣して、大量支援の体制を作った。この頃「三池の闘いは安保闘争を支え、安保闘争に包まれて三池の闘いは進む」といわれる事態がうまれつつあった。


 4.10日、党港地区委員会がブントに結集。


 4.15日、全学連、批准阻止全国統一行動、東京では地下鉄 国会議事堂前駅構内集会に千五百名参加、集会後国会デモに移り機動隊と衝突、京都では府学連集会〔同志社大〕に千二百名参加、国民会議集会〔円山公園〕に合流・市内デモ等全国で集会・デモ。


 4.16日、マルクス主義学生同盟(マル学同)第一回都同盟員総会。


【日共がようやく安保闘争に腰を上げる】

 4.17日、日共主催で、日比谷野外音楽堂で「新安保条約批准阻止総決起大会」を開いている。注意すべきは、歴年党員の語り草に水を差すようであるが、党の「60年安保闘争」 はこの時点から号令一下本格的に稼働したとみなすべきで、総評・社会党・ 全学連による運動の盛り上がりを見て「バスに乗り遅れじ」とばかり参入したというのが史実であることを確認しておきたい。

 日共の取り組みの遅れは、それまでの党中央の方針と指導にあったようである。この時期の党中央の方針と指導は、安保闘争全体を民族闘争の枠に限定付けており、これを国内支配権力である日本独占資本との階級闘争との絡みで岸政府打倒をターゲットとするという政治闘争としての位置づけを避けていた風がある。この結果、安保闘争を労働者のヘゲモニーのもとに政治的危機に盛り上げていくような基本方向が棚上げされ、綱領路線に基づく反米闘争的位置づけで安保破棄を掲げ、 しかも当面は安保破棄を直接の目標にせず、むしろ「民族民主革命」に向けた 「民族民主統一戦線」を形成させることを地道に目標とすべきだとしていた。

 そういう位置づけからして、できるだけ広範な人民層の参加をうるためにという口実で統一戦線の基準を幅広主義で結集させ、闘争戦術も学生や青年労働者 の全てを最低次元の統一行動に規制していこうとする整然たる行動方式を指針させた。つまり、安保闘争を何とかして通常のスケジュール闘争の枠内に治めようとしていた観があり、国会突入を視野に入れるブント的指導との両極端にあったというのが実際のようである。

 とはいえ、日共がひとたび動き始めると行動力も果敢で、この時期より全国1700共闘組織の64パーセントまで正式加入してたちまち指導権を強めていくこ とになった。党は、中央段階ではオブザーバーではあったが、地方の共闘組織では社会党と並んで中心的位置を占め指導的役割を果たしていくことになった。しかし、善し悪しは別にして、党の前述した統一戦線型の幅広行動主義 によるカンパニア主義と整然デモ行動方式が、戦闘的な学生・青年・労働者の行動と次第に対立を激化させた。党の指導するこうした「国会請願デモ」に対して、全学連指導部により「お焼香デモ」・「葬式デモ」の痛罵が浴びせられることになった。


 4月からは全国の地域安保共闘組織を総動員して、波状的な「国会請願デモ」が開始されていた。この頃清水幾太郎らの呼びかけがなされている。清水氏寄稿「世界5月号『今こそ国会へ−請願のすすめ』」は、概要「今こそ国会へ行こう。北は北海道から、南は九州から、手に一枚の請願書を携えた日本人の群が東京へ集まって、国会議事堂を幾重にも取り巻いたら、また、その行列が尽きることを知らなかったら、そこに、何ものにも抗し得ない政治的実力が生まれてくる。それは新安保条約の批准を阻止し、日本の議会政治を政道に立ち戻らせるで有ろう」と檄を飛ばしていた。


 4.15日、安保改定阻止第15次統一行動。全学連約1500名が地下鉄議事堂前駅から請願デモに移ったが、機動隊に阻まれ、特許庁下まで押し返されている。


【革共同系「マル学同」が結成される】
 革共同関西派は、全学連の闘争を政治主義的極左行動、極左盲動主義、小ブル的極左冒険主義、一揆主義的玉砕主義と批判した。また、羽田闘争を「反労働者的ペテン師の策動」と決めつけた。方針としては、一月末を期して無期限ストに突入した炭労三池闘争との結合を主張したが、大きく後退していった。

 他方、革共同全国委は、4.16日、ブントの学生組織社学同に対抗する形で自前の学生組織として「マルクス主義学生同盟」(マル学同)を組織した。機関紙「スパルタクス」を発刊した。この発足当時5百余の同盟員だったと云われている。マル学同は、民青同を「右翼的」とし、ブントを「左翼空論主義的傾向」、「街頭極左主義」として批判しつつ学生を中心に組織を拡大していった。

 この時、次のような檄が飛ばされている。

 「一切の既成の指導部は、階級闘争の苛酷な現実の前にその醜悪な姿を自己暴露した。安保闘争、三池闘争のなかで社共指導の裏切りを眼のあたりにみてきた」。
 「(労働者階級は)独立や中立や構造改革ではなしに、明確に日本帝国主義打倒の旗をかかげ、労働者階級の一つの闘争をこうした方向にむかって組織していくことなしには、労働者階級はつねに資本の専制と搾取のもとに呻吟しなくてはならない」。
 「一切の公認の指導部から独立した革命的プロレタリア党をもつことなしには、日本帝国主義を打倒し、労働者国家を樹立し、世界革命の突破口をきりひらくという自己の歴史的任務を遂行することはできない」
 「こうした闘争の一環としてマルクス主義的な青年労働者の全国的な単一の青年同盟を結成した」。

 4.19日、安保阻止青学共闘幹事会、国民会議の第十五次統一行動の方針を承認、全学連に対しこれに従うよう申入れを決定。同日、全学連中執委、国民会議戦術小委のお焼香デモ″方針返上、四・二六ゼネスト・国会包囲デモを単独で決行することを決定。


 4.19日、南朝鮮ソウルで、「李承晩政府打倒」を要求する人民蜂起が起こっている。戦いの火蓋を切ったのは学生たちであったが、蜂起は燎原の火のように全土に広がった。


 4.20日、全学連反主流派13自治会が声明を出し、全学連中執の単独国会デモ闘争を非難し、国民会議・青年学生共闘会議の下に行動するよう呼びかけ、組織的な対抗を行った。


 4.20日、東大教授ら353名が安保反対の声明。


 4.23日、全学連国会デモ、二千五百名参加、チャペルセンター前に坐り込み、のち有楽町までデモ。


【ブントが安保闘争総力戦宣言】
 4.24日、ブントの第4回大会が開かれている。この時島氏の書記長報告がなされた。「3千名蜂起説」、「安保をつぶすか、ブントがつぶれるか」、「虎は死んで皮を残す、ブントは死んで名を残す」と後年言われる演説がぶたれたと云う。この大会に向けて党の港地区委員会が臨時地区党会議を開き、ブントとの合流を正式に決定、地区委員会の解散を決議している。この流れをリード した山崎衛委員長・田川和夫副委員長の両地区委員はこれより早く党から除名されている(「アカハタ」59.12.16)。

【民青同系「都自連」結成される】

  4.25日、民青同系全学連反主流派は、まず東京都において「東京都学生自治会連絡会議」(都自連、議長に黒羽を選出)を発足させている。以降民青同系は、「60年安保闘争」を「都自連」の指導により運動を起こすようになる。

 日共系の「東京都自治会連絡会議」(都自連)の結成は、全学連分裂への第一歩となった。都自連は、「全民主勢力による統一戦線形成の有力な一翼をめざして闘う」(都自連通達)と主張し、国民会議の忠実な随伴者となり、その平和的カンパニア路線によって量的拡大をはかった。そして、6.15闘争直前までは、主流派と肩を並べるほどの動員数を獲得していった。

(私論.私見) 都自連結成考
 この経過は民青同系指導部の独自の判断であったのだろうか、党の指示に拠ったものなのであろうか。この時全学連運動内部の亀裂は深い訳だか ら、もっと早く自前の運動を起こすべきであったかもしれないし、運動の最中のことであることを思えば分裂は避けるべきであったかも知れない。いずれにせよ、こういうことをこそ総括しておく必要があると思われる。「都自連」は、安保改定阻止国民会議の方針に従い、統一戦線を守ることを宣言し、全学連指導部を挑発的と批判し、「単独国会デモ」に反対していくことになった。

【安保改定阻止統一行動 全学連の学生7千名が国会正門前で機動隊と衝突】
 4.26日、第15次安保阻止全国統一行動。10万人の国会請願運動が行なわれた。この時国民会議は700名の警備隊を繰り出して、デモ隊から赤旗.旗ざお.プラッカードなどを取り上げ、整然秩序たった請願デモを行った。4.27日のアカハタは、「国民会議の方針に従った統一行動には一指も触れることが出来なかった」と持ち上げている。

 全学連主流派.反主流派ともこの時デモの動員合戦を競った。全学連主流派は、こ の時「お焼香国会請願か、戦闘的国会デモか」と問題を提起し、「闘わない国民会議を乗り越えよ」、「朝鮮学生に続け」とアジった。全国82大学、20数校の全学スト.授業放棄で25万名参加、都内ではチャベルセンター前に全学連7千名が結集し、警官隊と国会正門前で激しく衝突した。東大教養学部3千名の学生が参加していた。

 前夜の討議について、島・氏が次のように証言している。
 概要「今度は警察も、いろいろと準備しているだろうから、11.27のように簡単に正面突破できるはずがない。情報によれば、トラックの尻に板を打ちつけたものを何十台か並べているそうだ。どうするかということになった。.東Cのブントは、既に戦術的に反対派になっていたから、相談もしなかった。全学連書記局と、早大・明大・中大などのブント細胞と話し合ったのだが、やれるのは二つしかない。トラックを燃やすか、飛び越えるかだ、と提案した。組織を賭けた戦術論議となり、結局は、飛び越える方針になった」(大野明男「全学連」)。

 全学連委員長唐牛は、自ら警官隊の装甲車を乗り越えて、「障害物を乗り越えて、国会正面前へ前進せよ」とアジり、国会正門前に座り込みを貫徹した。

 「唐牛追想集」は次のように証言している。
 「結局、もう決死隊しかないとなって、新宿で明け方まで酒を飲みながら、唐牛が『俺はこれに賭ける。トップバッターとなって、装甲車を乗り越えて国会構内へ飛び降りるから、その後は誰、次は誰』と、5人ぐらい決めましてね。何人か飛び込んだら局面が変わるだろうと。すると、本当に続々と何千人もが全部飛び込んでいった」。
 概要「『逆上症』で時々神がかった役をやる明治大学の前原和彦が警察の装甲車の上でアジって、明治の短大の女子学生たちが独特の神がかりをしてキャ−ッと悲鳴を上げながらウウ−ッと最初に国会構内にいる警官の海の中へ突入した。明治が越えたっていうんで、中大はもう明治ごときに負けてなるものかと大学対抗意識も働いてそれに続いた。それを見た唐牛が、突入するかどうかで傍らで揉めていた全学連の指導者会議を横目で睨みながら、指導者会議なんてくそくらえだと全員に突入をアジった。

 警察側はこの行動を全く予想しておらず、続々と続いてくる学生達に狼狽して逃げだした。その直後、警官隊は、学生達の後ろで態勢を組み直して、学生達に襲い掛かった。それによって多数の負傷者と逮捕者が出た。ちなみにこの時突入に慎重だった東大教養学部に先んじたことで、私大の東大コンプレックスが一時的にせよ解消されたという」。

 「早稲田の杜の会」は次のように記している。
 概要「唐牛健太郎がマイクを握り、顔面蒼白にして激烈に訴えかけた。この時の唐牛のアジテーションには鬼気迫るものがあった。それまで、これほど心を動かされたアジを耳にしたことはなかった。学生達は、まるでコンサートの聴衆のように唐牛の訴えに聞き入っていた。アジは終わった。一瞬の静寂が支配した。誰も動こうとしなかった。ところが次の瞬間、学生達は幌トラックによじ登り、皆でウウァ−と叫びながら警官隊の頭上目がけて飛び降りた」。

 島氏は、次のように記している。
 「唐牛がアジっているな、と見ていたら、学生がどんどんトラックによじのぼって、向こう側へピョンピョン飛び降りるんだ。もう一列、もう一列と三重くらいになっているのを、ピョンピョン超えていく。嬉しかったね。あの時は」(証言)
 「たじろぐブント員を尻目に次から次へとバリケードによじのぼり、警官の壁を崩そうとする何千名の学生、労働者の姿を見て、感激の余り私は涙が出てくるのを禁じえなかった」(「ブント私史」)。

 こちらの隊列に加わっていた都自連活動家が、唐牛委員長らの行動に立ち塞がったが、押し止めることはできなかった。

 この闘争で唐牛委員長、篠原浩一郎社学同書記長ら17名が逮捕され(この結果、唐牛.篠原は11月まで拘留される事になった)、100名の学生が重軽傷を負った。京都でも、京大が「昭和25年のレッド.パージ反対闘争以来、10年ぶり」に時計台前集会に約1500名を結集し、府学連主催の円山音楽堂での集会には3500名の集会を開いている。この日韓国の首都ソウルでも、学生を先頭に50万人のデモがあり、その為に翌27日李承晩大統領が辞表提出へと追い込まれている。

 注目すべきは、この時より全学連反主流派民青同系学生1万1千余は清水谷公園で集会し、全学連主流派と別行動で国民会議と共に国会請願運動を展開していることである。つまり、全学連の行動における「行動の分裂」がこの時より始まった事になる。民青同系のデモは20名一組に分散させられて行進する文字通りの「お焼香デモ」であった。 日共は、全学連の4.26闘争を「規律違反」として青年学生共闘会議から除名するよう圧力をかけ、民青同系都自連をその代行にさせようと画策し始めた。

 この頃のブントの情況について、蔵田計成氏は次のように証言している。
 共産同は三月下旬、第三回大会を開催して「安保がつぶれるか、ブントがつぶれるか……。だが、3000名の労働者武装部隊さえいれば、安保はつぶせる」(島書記長)という決意のもとに、熱っぽい討論を展開した。しかし、大会は明確な方針や展望を見出しえないままに幕を閉じた。

 問題は一点にしぼられた。当時、同盟は安保粉砕の最後のヤマ場=チャンスは、衆院での批准段階と設定した。そのためには、国会の会期末である5月20日前後を「決戦」として、全学連部隊と同盟影響下の労働者部隊を結合して、実力闘争を闘い抜く他はないと考えた。だが、それにしては、労働者部隊は余りにも微弱すぎた。

 たしかに共産同は結成以来1年3ヵ月を経過していた。だが、学生運動をテコにした既成労働運動へのゆさぶりは限界を露呈していた。学生運動が質量において飛躍を示したのにたいして、同盟の労対活動は依然として低迷を続けており、両者のあいだには格段の差があり、労対の活動は手さぐりに等しかった。

 「学生同同盟員としてやる気と知恵さえあれば、労働者のいるところではいくらでも活動できる。うの目たかの目で最良な革命的労働者を探し出し、これを決して離さず、そこから芋づる式に全ての戦闘的な労働者をつかみとることが必要だ。……どんな見ず知らずの職場でも労働者は見つけ出せる。出来ないとすれば怠慢以外の何ものでもない‥‥‥」(共産同早大細胞労対部「早稲田大学の同志諸君! 共産主義者同盟に結集した諸君は、今、何をやらなければならないか」59年8月)

 半年前の労対方針とはいえ、同盟は、このようにして獲得したわずかの労働者に旗をもたせて、全学連部隊の最後尾にくっつけて、なんとかして血路を切り拓こうとした。じつは、これが「労働者3000名武装部隊」の実体だったのである。そして、4・26闘争は、その最初の試みだった。

 その日は、学生一万名の後尾に、全逓本社支部、空港支部、牛込支部、国労、教組、全農林、合化、金属などの労働者数百名が参加し、お焼香をすませた労働者数千名も周辺にかけつけた。だが、結局はブントがめざした「労働運動における革命的潮流の形成」は、4月23日、26日の全逓東京空港支部の独自の大衆デモ、5月20日、国会デモ実行委員会の旗の下3000名の首相官邸デモを実現したにすぎず、ブントの構想はついに「幻の労働者3000名武装部隊」に終わってしまったのである。同盟政治局は、この時点でその政治指導における挫折を自認せざるをえなかった。安保粉砕の一点に同盟の存立を賭けた限り、その挫折は当然だったといえよう。

 (中略) ところが、安保闘争は最終局面において、同盟の予想を越える展開過程をたどることになった。5・19採決を契機にして意外な高揚を示した。この高揚のなかで、全学連書記局−学生細胞を中心にした現場指導部は、大衆的憤激の高まりとそれに追随した国民会議の6・4ゼネスト宣言、大衆的反撃の開始という事態のなかで、最後の死闘を展開していった。

 この頃、中ソ論争始まる。


 4.27日、東大ブントが党中央の方針に反対。


 4.28日、沖縄県祖国復帰協議会結成。


 4.29日、全学連第23回中執が開かれ〔目黒公会堂〕、4.26闘争までの総括を行い、「もはやカンパ二アになることは許されない。既成指導部の日和見性をくっきり浮き彫りにした」と分析し、「5.13日安保衆院通過絶対阻止、岸内閣打倒のゼネストと首都における国会構内大講義集会に決起し、それ以後の1週間もそれを継続する」行動方針を決めた。


 4.30日、総評は緊急評議員会を開き、社会党の方針に添って「連日5000名以上の請願行動」及び5.12日の各単産一斉の時限ストを決定した。しかしこのあとまたがたがたして方針がぶれている。


 4月、社学同「理論戦線」第5号(発行所:リベラシオン社、執筆:真樹朗、白岳徹)発刊される。


 5.1日、第31回メーデー。安保粉砕、国会解散、岸内閣退陣の要求を掲げ て500万の戦後最高の大デモが全国各地で行われた。


 5.2日、全学連中執委、五・一三国会構内″抗議集会の中止を決定、国会正門前″抗議集会にきりかえる。


 5.3日、マル学同第二回拡大都同盟員総会(5日機関誌「スパルタクス」創刊)。


 5.4日、全学連、青学共闘から離脱勧告を受ける(11日小島共闘部長、全学連の独自行動も国民会議に相談と約束、青学共闘幹事会は離脱勧告を保留)。


 5.5日、ソ連政府は、領空に進入 したアメリカのスパイ機2機の撃墜を発表。


 5.9日、北京で「日米軍事同盟に反対する日本国民支援」の100万人集会。


 5.12日、第16次全国統一行動。460万の参加。ストライキ、職場集会、デモ、請願書名運動が展開された。この 頃連日数万の国会請願デモ続く。三池炭鉱でスト中の第一組合員に警官隊が襲撃し、5度目の大流血事件が発生している。180名が重軽傷。読売新聞は「石は飛び警棒うなる」と伝えている。


 5.13日、全学連2千名が結集、安保阻止全学連全国総決起、昼夜をかけて国会デモ。東京ではチャペルセンター前に都内学生4千名参加、国会正門に向けてデモ、のち中央集会〔日比谷野音〕に5千名参加、東京駅までデモ、京都では市内大学ゼネストで決起大会〔円山公園〕に5千名参加。


 5.14日、民青同系が、国民会議第十六次統一行動に呼応して清水谷公園で6000名の学生を結集して集会。のち日比谷野音で夜間部学生千名と合流、三井本社に向けて三池支援デモ。


 5.15日、日共主催で、日比谷野外音楽堂で「新安保条約批准阻止総決起大会」開く。衆議院での安保条約承認採決を阻止しようとして連日のように数万の国会デモが続いた。


 5.15日、社会党の江田書記長が「懲罰委覚悟で安保阻止」と言明。総評が、5.20日にに一斉30分スト決定。


 5.15日、全学連第24回中執が開かれ〔明大〕、「安保強行採決の予想される5.20日を決戦的な組織を挙げた闘争として設定し、労働者、学生のゼネストと国会包囲デモで安保闘争の勝利を決する分岐点(会期の大幅延長阻止)に起つ事」とする5.20闘争を決議した。他方、学生戦線の組織問題に触れて、@・都自連を解散し、自己批判を行うこと、A・規約を守り、全学連に対する分裂行動を一切停止すること、B・会費を上納する、などの警告を為した。 


 5.17日、米ソ巨頭会談、U2型機のスパイ問題で不成功。


 5.17日、自民党、安保成立のため会期延長と衆院の早期通過の方針決める。


 5.18日、衆院の情勢を警戒して社会党が非常態勢をとる。


 5.18日、青学共闘幹事会、目共青対部提案により再び全学連離脱問題を討議、結論でず。


【自民党、安保強行採決。全学連”非常事態宣言”を発し国会包囲デモ】

 5.19日、政府と自民党は、安保自然成立を狙って、清瀬一郎衆院議長の指揮で警官隊を導入して本会議を開き、50日間の会期延長を議決。社会党議員、秘書をゴボウ抜きにして、深夜から20日未明過ぎにかけて新条約、協定・批准文書を強行採決した。採決に加わった自民党議員は233名、過半数をわずか5名上回る数で、本会議に於ける審議は14分という自民党のファッショ的暴挙であった。この採決には、社会・民社・共産各党が加わっておらず、与党版主流派の三派(石橋、三木、河野)は途中退場という状況の中で行われた。この時自民党は警官隊の他松葉会などの暴力団を院内に導入していた。

 この時、社会党、共産党、国民会議は、国会周辺を取り巻く万余のデモ隊に知らせていない。5.20日零時30分過ぎ、デモ隊は三度第一議員会館前に終結したが、デモ隊の中から「会期は延長されたし、新安保も通ったというのに、なぜ知らせないのだ」と非難の声があがっている。暫く後社会党書記長江田、委員長鈴木、共産党の野坂らがやってきて、民主政治の大切さ、安保条約の通過を認めないなど分けのわかりにくい説明をし始め、「明日からの闘争に備えての解散」を呼びかけている。デモ隊はこれを聞かず午前3時30分まで国会前に座り込み、最後まで残った労学5000名余は国会周辺で警官隊と小競り合いしながらジグザグ.デモを繰り返した。

 この経過が報ぜられるに連れて「岸のやり方はひどい」、「採決は無効だ」、「国会を解散せよ」という一般大衆にまで及ぶ憤激を呼び、この機を境にそれまでデモに参加したことのない者までが一挙に隊列に加わり始めた。パチンコしていた連中までが打ち止めてデモに参加したとも言われている。

 当日の様子が次のように伝えられている。

 「岸内閣打倒」、「国会解散」のスローガンが急速に大衆化した。夕刻から労・学2万人国会包囲デモ。「18日の夕方から文字通りハチ切れそうに膨れ上がった国会周辺の人波、シュプレヒコールの交錯、その向こうに黒潮のように延々と連なる座り込みの学生達」(丸山眞男寄稿中央公論『8.15と5.19』)。

 マスメディアは、今度は岸内閣の暴挙を一斉に批判した。

 この日を皮切りに、これより1ヶ月間デモ隊が連日国会を取り囲み、「新安保条約批准阻止・内閣退陣・国会解散」のためのみぞうの全国的な国民闘争が展開していくことになった。


【ブントの早過ぎる敗北宣言】
 こうした流れにつ いて、ブントも読み誤ったようである。川上氏「学生運動」に拠れば、全学連中執は、5.19日の晩の新安保条約批准の報を知るや「安保敗北宣言」を出しているとのことである。東大細胞の中には、概要「安保が国会を通過してしまった以上終わりで、この間ガタガタになってしまった組織整備を図るべし」との見解を打ち出すものが現われた。あるいは、安保後を見据えて出身自治会での勢力温存のため、それ以上のダメージを回避すべく戦列から離れる者も出始めていた(蔵田「」安保全学連−60年安保闘争の総括と70年岱闘争の焦点)。

 早稲田大学新聞5.25日号一面トップの見出しは、「新安保、何が通過を許したか」、「安保闘争の挫折と国民会議の歩んだ道」、「挫折は戦後労働運動指導の集大成」、「今こそ指導層の告発を」となっており、「敗北」感が色濃く打ち出されている。こうした首都東京の「敗北の早さ」に対して、「いつも半年から一年遅れて力を出すが、みじめに失敗する」(大島渚の談)京都では引き続きの闘争をアピールしていた。ここで付言すれば、安保闘争後の総括も追ってみることになるが、敗北感に沈み込む東京と、粘り強さを見せる京都とが違いを見せることになる。

 ところが、まさにこの時より事態は大きく流動化し、「労働運動指導部が、民主主義擁護と国会解散を掲げて、大きくプロレタリア大衆を動かし出した」のである。ブントにとっても「事態の後に追いついていくのが精一杯」という意想外のうねりをもたらしていたようである。島書記長は次のように述べている。
 「5.20安保強行採決を境に、日本の政治は戦後最大の山場にさしかかった。潮が上げ、出来合いのあらゆる潮流をこえ、押し寄せるとき、この既成潮流を叩き潰すためにこそ誕生したブントも、潮そのもののなかで辛うじて大衆と共に浮沈する存在でしかなくなっていた。統一など既になかった」(「文集」)。

 5.19日、全学連、非常事態宣言″を発し国民会議の緊急動員に呼応し国会に五千名を緊急動員、翌朝午前三時半まで国会包囲デモ。


【知識人・学者・文化人らの動き】
 5.20日、5.6月に入るや知識人・学者・文化人らの動きも注目された。この日、九大の教授、助教授86名が政府与党の強行採決に反対して国会解散要求声明を発表した。大学教授団によるこの種の声明が全国各地で相次いだ。竹内好・鶴見俊輔らは政府に抗議して大学教授を辞任した。これらの知識人の呼応は「民主主義」を守る立場からのものであり、全学連主流派の呼号する「安保粉砕.日帝打倒」とは趣の違うものであったが、こうして闘争が相乗する流動局面が生まれて行くことになった。

【全学連の一部約300名が首相官邸に突入】
 5.20日、全学連が全国スト闘争、国会包囲デモに2万人結集。抗議集会後渦巻きデモに移った。7千名の学生デモ隊の一部約300名が首相官邸に突入。
 「全学連の清水書記長が首相官邸と自民党へ果敢なデモを行おう」と提案し、歓呼の声をあげながら「そのまま、駆け足で首相官邸へ向かった。アワをくった警官隊が門を閉めようとしたが、300人ほどが中庭に入り込んだ」。

 武装警官隊の排除が始ったが、この時の乱闘で8名の学生、労働者4名が逮捕され、26名が病院に担ぎ込まれ、40名が負傷している。これが官邸襲撃事件といわれるものである。

 しかし、この果敢な闘争が全学連主流派の志気を高めることにはならなかったようである。この頃既に全学連主流派内に分裂が起こっており、統一的な戦術指導がなしえていなかったようである。「生田夫妻追悼記念文集」の中で、島氏は次のように述べている。
 概要「国会周辺は完全にデモ隊で埋まっていた。組織も無い市民も加わっている。それまでの公式指導部が計画したお手製デモとは全く違った情景である。怒りが渦巻いている。秩序もない。時々物々しく警護する警官隊に向かっていくが跳ね返されそれ以上どこに憤激をぶつけてよいのか分からないまま抗議の声をあげるだけである。スケジュール闘争は乗り越えられ、半年前私が望んだ連続闘争が大衆自らの手で実現したのだ」。
 「5.20安保強行採決を境に、日本の政治は戦後最大の山場にさしかかった。潮が上げ、出来合いのあらゆる潮流を越え、押し寄せる時、この既成潮流を叩き潰すためにこそ誕生したブントも、潮そのもののなかで辛うじて大衆と共に浮沈する存在でしかなくなっていた。統一など既になかった」。

 この日、全自連も1万3000名を集めデモ。

 総評も、20日以降の連日国会動員を決定した。以後、国会周辺、南平台首相公邸は抗議のデモに終日騒然とする。

 5.21日、全学連主流派地方代表約1万名が首相官邸包囲デモ。全学連1万名、都自連1万5000名がそれぞれデモ。


 5.23日、全学連主流派千五百名、首相官邸デモで警官隊と衝突、十六名逮捕。


 5.24日、学者達の安保問題研究会と作家達の安保批判の会が世話役となって、「岸内閣総辞職要求・新安保採決不承認・学者文化人集会」を開催した。全国から約2500名が集まった。丸山真男が演説して、「安保の問題は、強行採決の夜を境として、これまでと全く質的に違った段階に入った」ことを告げた。


 5.25日、総評青婦協・社青同等の青年労働者・学生三千名、国民会議の枠を突破して首相公邸デモ。


 5.26日、安保改定阻止国民会議第16次抗議デモが敢行された。17万余の労働者・学生が国会包囲し、国会周辺の路上を身動きできないほど埋めつくし空前の国会包囲デモとなる。全国で200万の大衆が一斉に行動を起している。全学連主流派一万名、衆院議面前に結集、終日国会周辺をジグザクデモ、反主流派都自連一万五千名、日比谷野音に結集して国会をへて銀座デモ。

 国会包囲デモは、「デモ隊は果てしなく続き、林立する赤旗、プラカードの数は刻々と増えていった。‐‐‐どの道も身動きできない」(朝日新聞)有様であった。全学連デモ隊は激しくジグザグ.デモを繰り返す中で、社共の議員や幹部は閲兵将軍のように高いところから「アリガトウゴザイマス、ゴクローサンデス」と繰り返していた。この夜、NHKはデモの実況とともに、共産党書記長宮本の「今のところデモは整然と遣っているけれども、行き過ぎの行動の起こる恐れがあるので、そういうことのないように努力している。デモは恐らく整然と終わるだろう」を放送している。


 こうした最中5.31日、日共の常任幹部会は、「国会を解散し、選挙は岸一派を除く全議会勢力の選挙管理内閣で行え」声明を発表、何とかして議会闘争の枠内に引き戻そうとさえ努力している形跡がある。


 6.1日、社会党代議士が 議員総辞職の方針を決定、同時に第一次公認候補者を発表した。


 6.1日、吉本隆明らは6月行動委員会を組織、全学連・ブントと行動を共にした。日高六郎.丸山真男らも立ち上がった。「アンポ ハン タイ」の声は子供達の遊びの中でも叫ばれるようになった。他方、児玉誉士夫らは急ごしらえの右翼暴力組織をつくり、別働隊として全学連を襲う計画で軍事教練を行ない始めた。ブントは、あらゆる手段を用いて国会突入を目指し、 無期限の座り込みを勝ち取る方針のもと、大衆的には北小路敏全学連委員長代理をデモの総指揮にあて、他方ブント精鋭隊は特別行動隊を結成した。 他国会突入のための技術準備も秘かに進めた。


【全学連約9千名が首相官邸突入闘争】
 6.3日、全学連9千名が決起集会〔衆院第一幕員会館前〕の後、首相官邸に突入。学生たちはロープで鉄の門を引き倒して官邸の中に入り、装甲車を引きずり出した。警官隊がトラックで襲ってくるや全面ガラスに丸太を突っ込んで警官隊を遁走させている。乱闘は6時過ぎまで繰り返され、13名の学生が逮捕、16名が救急車送りとなった。警官隊の負傷93名と発表された。

 6.4日、第17次統一行動は国鉄労働者を中心に全国で560万人が参加 し、国鉄労組は安保改定阻止の初の政治ストライキを打った。総評は、全国的に1時間の政治ゼネストを決行した。全学連3500名が国会デモし国鉄ストを支援した。全学連主流・反主流派、国労・動労の6.4ゼネストに各主要駅で支援行動、午後主流派3千名・反主流派7千名が呼応して国会デモ(全国動員560万名)。


 この頃、共産党は、いち早く来日予定のアイク訪日阻止の旗印を鮮明にした。同党の講和後も「日本は半植民地、従属国」規定からする反米独立闘争の重視であった。社会党臨時大会、総評幹事会も抗議闘争に取り組むことを決めた。6.6日、都自連も、もしアイクが来るなら羽田デモを敢行することを決定した。

 ただし、この時ブントも革共同も大統領秘書官ハガチー・アイク訪日阻止を取り組んでいない風がある。これには政治的見解の相違があるようで、「アイク訪日阻止は、反岸安保闘争の反米闘争への歪曲」としていたようである。恐らく新左翼は、帝国主義自立論により国内の政治権力に対する闘争「復活した日本独占資本主義の打倒」を第一義としており、これに対して日共は、アメリカ帝国主義下の従属国家論により、こうした反米的な闘いこそ眼目となるとしていたようである。このことは、後日田中清玄のインタビューでも知れることでもある。田中氏は、「共産党は安保闘争を反米闘争にもっていこうと した。全学連の諸君は、これを反安保、反岸という闘争に持っていこうとした。 ここに二つの分かれ目がある訳です」(63.2.26.TBSインタビュー)と的確に指摘している。


 この頃、警備側のトップ三井警視庁公安第一課長が、ブントの事務局を訪れている。「アイク訪日に対して全学連はどう動くか」の直接事情聴取であった。「『ブントは別に何もやらない。しかし、大衆の怒りがどう爆発するかは、分からない。統制ある指導をしたいと思っても、4.26以来、ブントの幹部はほとんどパクられているじゃないか。連中を早く返せ』といってやった。そのせいかどうかは知らないが、つかまっていた連中のうち、唐牛と篠原以外は、全員が保釈になった」(島氏談)と伝えられている。まさに丁丁発止の駆け引きが行われていた。


【「ハガチー事件闘争」】

 6.10日、安保改定阻止第18次統一行動。全学連5000名国会包囲デモ。国民会議が国会周辺で20数万人デモ。アイゼンハワー訪日の露払い役としてハガチー(大統領新聞係り秘書)は、羽田空港で日共系労働者・学生の数万のデモ隊の抗議に出迎えられた。ハガチーの乗った車は、どういうわけか警備側申し入れ通りに動かず、デモ隊の隊列の中に突っ込み「事件」となった。米軍ヘリコプターと警官の救援でやっと羽田を脱出、裏口からアメリカ大使館に入るという珍事態 (「ハガチー事件」)が発生した。

(私論.私観) ハガチー事件について
 この「ハガチー事件」は、「60年安保闘争」で見せた日共及び民青同の唯一といって良い戦闘的行動であった。「60年安保闘争」に関する歴年党員の語りは、もっぱらこの時のことに関連している。これ以外の面での語りは、党の指導とは関係なく「大衆的に盛り上がった」当時の雰囲気を共有するデカ ダンスでしかない、といったらお叱りを受けるでしょうか。なお、この時の党系戦闘的学生部隊の主力は、この後の構造改革派分離騒動の過程で党から飛び出していくことになる構造改革派系、もう一つ社青同や毛沢東派の源流になる部分であった。

 志賀義雄の「日本共産党史覚書」に拠れば、「ハガ−ティ阻止の計画は、私が長谷川浩(当時、党中央委員会青年学生部長)と相談して立案した。当時、ハガ−ティは必ずヘリコプターを使うという予想が広がっていた。現にヘリコプターが空港の建物の前にいた。しかし私は、彼が車で東京へ来るものと判断して、長谷川浩に、弁天橋上の党の精鋭部隊を直接指揮するよう依頼した。---産業道路から弁天橋へかけて、社会党系の労働組合などの部隊が密集して並んでいた。彼らは空港内の情勢を聞くに連れ、中へ入ることを希望した。橋上の共産党の部隊は道を開け、彼らは空港内へと移動した。その移動部隊へハガ−ティを同乗させた大使の車が強引に突っ込んだのが、この有名な事件の発端である」と明かされている。

【 60年安保闘争の熾烈化】
 6.10日、日共主導による「ハガチー事件」が、ブン ト系全学連を大いに刺激した風があり、6.15国民会議統一行動に全力投入を意思統一した。北小路氏を全学連委員長代理に決定(唐牛委員長は逮捕拘留中)した。 以降一段と闘争のエポック.メイキングに向かっていくこととなった。全学連指導部は、「労働者のストはダラ幹によって小規模なものにされている。共産党は安保闘争を反米闘争にそらし、国民会議も右翼的なダラクした状態の中で自然成立をはばむ道は国会突入以外にない」とアジった。

 6.11日、全学連の全国統一行動。全学連、第二メーデーに呼応し全国統一行動、東京では主流派が参院議員登院阻止国会デモの後、岸・ハガチ一会談阻止のため5千名で首相公邸包囲デモ、反主流派1万名は神宮絵画館前に結集の後、国会・米大使館にデモ。


 6.12日、米大使が岸首相を訪問、ハガチー問題に遺憾の意を伝える。


 6.12日、アイゼンハワーは予定通り訪日の旅に出発、6.14日、マニラに到着待機した。


 6.13日、警視庁が、ハガチー闘争で鋼管川鉄労組、教育大、法政大を捜査。教育大生黒羽氏が逮捕される。


 6.14日、ブント都学細代会議、6.15国会構内集会強行を最終決定、15日未明に解散、各大学で準備進む。


 6.14日、全学連の不穏をキャッチした警視庁の三井がデモの規模を探りにブント書記局を表敬している。


【岸首相が、自衛隊出動を要請し、拒否される】

 この頃、岸首相は、防衛庁長官の赤城宗徳を呼びつけ、アイク訪日の際の警備に自衛隊の出動を要請している。赤城は、概要「それは、できません。自衛隊の政治軍隊としての登場は、支持が得られない。リスクが大きすぎる」と答えている。杉田一次陸上幕僚長も動かなかった。


【岸首相が、児玉誉士夫に右翼の治安出動を依頼する】

 岸首相は自衛隊出動を断念したが、アメリカ大統領アイゼンハワーと、彼を羽田まで出迎えるヒロヒト昭和天皇を護衛するために右翼暴力団の大動員を思いつき、「街商と新興宗教団体」をあつめるように自民党の幹部に指示した。この岸の依頼を引き受けたのが児玉誉士夫である。彼は急遽、デモ隊阻止対策のため、さまざまな右翼グループと暴力団の組織化に乗り出した。

 6.14日、大東塾を中心に、神社本庁、生長の家、郷友連、国民総連合、暴力団が話し合いをし、6.15日の安保反対のデモ隊列への暴力攻撃を計画した。


【全学連の先頭部隊国会南通用門に突入、機動隊と衝突。樺美智子虐殺される】

 6.15日、国民会議の第18次統一行動、安保改定阻止の第二次全国ストが遂行された。国民会議、第18次統一行動。未明から国労.動労がストライキに突入し、総評は、111単産全国580万の労働者が闘争になだれ込んだと発表した。東京では、15万人の国会デモがかけられた。大衆は、整然たるデモを呼びかける共産党を蔑視し始めており、社会党にも愛想を尽かしていた。

 ブント系全学連は「国会突入方針」を打ち出し、主流派1万7千名結集、5時すぎ南通用門に集結した。この時、維新行動隊と名乗る右翼が、国会周辺でデモ隊を襲撃した。午後5時過ぎ、国会裏を通行中のデモ隊に、自称「維新行動隊」名の右翼が棍棒をふるって襲い掛かり、約80名が負傷した。これに刺激されたような形になり、先頭部隊が国会南通用門に突入突破した。明大.東大.中大の学生を主力とする5千名が構内に入った。京都から呼び寄せていた中執の北大路敏氏が宣伝カーに乗り指揮を取っていた。当時のデモ隊は全く素手の集団だった。あるものはスクラムだけだった。

 午後7時過ぎ、警視庁第4機動隊が実力排除を開始した。全学連部隊に警棒の雨が振り下ろされた。この警官隊との衝突最中にブント女性活動家東大文学部3年生であった樺美智子(22歳、遺稿集「人知れず微笑まん」三一書房)が死亡する事件が起こった。

 午後8時頃、「東大ブント活動家・樺死す」の悲しみと怒りに燃えた3千名の学生デモ隊が隊伍を整え、再び国会構内に入り、警官隊の包囲の中で抗議集会を開いた。南通用門付近は異常な興奮と緊張が高まっていた。

 「社会党の代議士はオロオロするばかり。共産党幹部は請願デモの時には閲兵将軍みたいに手を振って愛想笑いを浮かべる癖に、この時は誰一人として出てこなかった」。

 午後10時過ぎ、再度の実力排除が行われ、都内の救急車が総動員された。この日の犠牲者は死者1名、重軽傷712名、被逮捕者167名。この時都自連に結集した1万5千名の学生デモ隊は国民会議の統制のもとで国会請願を行っていた。夜11時過ぎ早大、中央大、法政大、東大などの教授たち1千名が教え子を心配して駆けつけたが、警視庁第4機動隊はここにも襲撃を加えている。現場の報道関係者も多数負傷している。
 
 門外に押し出された学生は約8千名で国会正門前に座り込んだ。11時頃バリケード代わりに並べてあったトラックを引き出して炎上させている。この間乱闘の最中、「今学生がたくさん殺されています。労働者の皆さんも一緒に闘ってください」と泣きながら訴えている。労働者デモ隊はそれに応えなかった。社会党議員は動揺しつつも「整然たるデモ」を呼びかけ続けるばかりで何の役にも立たなかった。

 この日の全学連の闘争を、蔵田計成氏は次のように記録している。

 「6月15日、全学連は、17000名を結集し、そのうち1500名が構内に突入した。機動隊は学生に襲いかかり、警棒の雨を降らせ、樺美智子を虐殺した。負傷者712名、逮捕者167名の大激闘であった。

 この闘争と好個な対称をみせたのが、都自連であった。都自連は、神宮絵画館前に15000名を集めて集会を開き、国会をかすめて八重洲口まで平和デモを行ったが、終着点では三分の一に激減していた。「学生虐殺」の報に接して自治代を開いたが、新規入校の猛反対に出会って、「引っ返して国会に向かおう」という執行部提案を否決し、全学連の死闘を黙殺してしまった」。

(私論.私見) 木村愛二氏の証言

 樺美智子の死亡情況に付き、「憎まれ愚痴」主宰・木村愛二氏が貴重証言している。通説は、「国会の構内で警察官の軍靴と同様の固い靴で蹴り殺され、車の下に蹴り込まれていた」とされているが、「圧死説」を主張している。次のように述べている。
 目の前で、警官の「掛かれ!」の号令、樫の警棒に頭を割られた学生の隊列が、ドドッと重なって倒れてきたのです。

 当時の濱谷浩の写真集、『怒りと悲しみの記録』に関しては、「60年安保で惨殺された東大生樺美智子さんが現場から運ばれる姿を写した写真を収めた」との批評がありますが、40年後にロフトプラスワンでの60年安保40周年の出し物の際、拡大コピーしたものを、翌年、整理していたら、最初に、倒れたデモ 隊の中から、構内で樺美智子を抱きかかえて運んでいたのは、私でした。帽子などから、判断できます。私は、ラグビーもやっていたので、咄嗟に救い出したのでしょう。

 当時の同じ英文科同窓生で、学生自治会の委員の文章と回想によると、彼女は、当時、危険なデモには女子学生を参加させないことになっていたのに、当日、「許可を得た」と語っていたとのことです。当時は、男と女では、身体の作りが相当に違うので、ドドッと倒れた際に、下敷きになったのでしょう。彼女は、国会突入の方針を決定した場にいたはずですから、自分の責任を、そういう形で果たしたかったのでしょう。残された所見によると、圧死説が有力になります。

 思うに、闘争過程の死者に対して哀悼する気持ちは何ら変わらないのであるから、過度に政治利用する愚を戒め(それは却って冒涜であろう)、死の情況を克明に検証し正しく確認し伝えることが運動圏のマナー作風にされるべきではなかろうか。そういう意味では、木村氏の指摘は重要な証言であるように思われる。

 2005.8.30日 れんだいこ拝

【6.15闘争、諸氏の述懐】

 この時のことを島氏はこう記している。

 「最後の土壇場となったあの闘いで、ブントは革命的学生と共に国会に突入した。そしてブント創立以来の同士樺美智子さんを喪った。勇敢な捨て身の闘いにも関わらず、叩き出され、押し出されたデモ隊は、もはや指揮官を持たなかった。夜空を焦がして炎上する装甲車を前に、なお隊伍を整えようとする学生の間にあって、生田は顔面を紅潮させ、怒鳴りながら右往左往する群集の一人でしかなかった。やがて催涙弾が投げられ、襲い掛かる警官隊に追われ、散り散りバラバラになったデモ隊が敗走していくとき、彼はこれとともに駆け逃げていく一人の市民でしかなかった。警官隊に対峙したまま常にデモの先頭でスクラムを組み、一歩もさがらず陣頭指揮をとっていた生田の姿は、ここでは見るべくも無い。そりはただに生田だけの姿ではなかった。あの闘いのブントの姿そのものであったのだ。そして、また、1960年の日本の革命的大衆の、さらには日本の左翼運動の凝縮した図ではなかったか」(「文集」)。
 「政治的な死は、要するに政治的な死であって。最後の死因が、誰の手によって、誰の棍棒によって生じたかは、重要な問題ではない」(談話)。

 生田氏は、ブント機関紙「戦旗」17号の追悼文で次のように追悼している。
 「君を虐殺した張本人、岸資本家内閣を打倒するために、直ちに決戦配置につく」。

 吉本隆明氏は、「擬制の終焉」の中で次のように記している。
 「15日(6月)夜、その尖端を国会南門の構内において、国会をとりかこんだ渦は、あきらかにあたらしいインターナショナリズムの渦であった。それはなによりもたたかいの主体を人民としてのじぶん自身と、その連帯としての大衆のなかにおき、それを疎外している国家権力の国家意志(安保条約)にたいしてたたかうインターナショナリズムの姿勢につらぬかれていた。首相官邸のまえをとおり坂の下へながれてゆく渦は、社会主義国家圏という奇妙なハンチュウをもうけ、そのようごのためには弱小人民の国家権力にたいするたたかいを勝手に規定し、また人民の利益と無関係にそれを金科玉条として固執する変態的なナショナリズムの亡霊を背負ったものたちに嚮導されていた。それはコミンターン式の窓口革命主義の崩壊する最後のすがたを象徴するものにほかならなかった。かれらはいかなるたたかいにおいても、たたかいを阻止し、ひたすら大衆が自分たちの指導をこえてたたかわないことを望み、ひたすらたたかいの現場から遠ざかろうとする姿勢につらぬかれていたのである」。

 吉本隆明氏は、「シリーズ20世紀の記憶」所収の「日本資本主義に逆らう独立左翼」の中で次のように記している。

 11月27日(1959年)に全学連主流派が国会構内に入った行動などは、僕は見ていて『すごいことをするな』とずいぶん触発されました。初めてだ、こういうデモのやり方と闘争の仕方は、と思いました。そういうのに初めて出会ったということで、それで、それで「これはいいやり方だ』と思って見ていたら一度ならず何度もやるんです。塀を乗り越え乗り越えみたいに、そうとう逮捕されたりして打撃を受けてもまだやるというように続けていました。それがきっと安保闘争を全体的に盛り上げる原動力になったんだと思いますが、僕は強い刺激を受けました。彼らは無鉄砲で乱暴にみえるけれどものすごく自由というか、日本の公認左翼には絶対にない自由さと奔放さがあったんです。それでとても珍しく、『ああ、こういうものもあるんだ』と思いました。『いいものを見たな』という感じがあったんです。

 それに日本の左翼が初めて、自分たちの考えで行動し、社会秩序の不当なところに攻撃をかけていった意味はなかなかなくならないだろう、と思っています。ある政治運動を自分たちの組織が壊滅してもやるみたいにやつたこともそういう行動様式も、それがいま形としてあるかないかじゃなくて、それは非常にあたらしい何かをもたらして、それでもやっぱり消えないのだと思っています。当時、ソ連にも中国にもアメリヵにも反対という独立左翼的な主張はバカにされましたけど、しかし、歴史の動きをみればだんだんそうなっているでしょう。これからどう変わるかわかりませんけど、やはり意味はあったと思います。考え方としてはちゃんとあのときに出たということです。

 高見圭司氏は、「五五年入党から六七年にいたる歩み」で次のように記している。

 「樺美智子さんが虐殺された六月一五日夜、私は衆議院の議員面会所の中に臨時救援所を島田久君(党本部書記)など仲間といっしょに設け、当時のブンド系の医学連の諸君と一緒に夜の明けるのも知らず働いた。この日、江田三郎氏など社会党の国会議員団約六〇名は機動隊の放水を浴びせられながら警察機動隊に抗議し、議員面会所地下に臨時留置場として設置された中にいる多くの重傷を負った労働者、学生の即時釈放を要求して闘ったのであった。江田三郎氏の白髪を振り乱して闘う姿は、今もなお私の記憶に生々しい。この日、第一次の弾圧に抗議して集まった大学の教授、助教授、講師、研究生たちはさらに第二次の弾圧をくらい、おびただしい重軽傷者を出したのであった。なかには、青山学院大の助教授が、自分の知っている学生が負傷したのではないかと心配して社会党本部のある三宅坂に来たところ五〇名の機動隊にリンチを加えられ重傷を負ったということもあった」。

 荒畑寒村氏はこう語っている。

 概要「大学生達が実際に意気盛んなこと、弾圧に懲りずにやっていくということは、実に感激して涙が出ることがあるんです。僕がもう少し若かったら、そして身体が悪くなかったら、ヘルメットかぶって、ゲバ棒持って出かけようと思うことがありますよ。ほんとに。60年安保の時に、矢も楯もたまらなくなって、飛び出そうとしたら、家内に、あんたのような70過ぎた年寄りが出て行ったって、巡査の警棒で一突きされたら、吹っ飛んでしまうんだからやめなさい、といわれて思いとどまりました(笑)」、「どこの国の共産党だって、例え思想的に違おうが、自分たちと、党関係や、組織の面で違おうが、政府の権力と闘っているものを排除するなんて、そんな共産党は、私は見たことも無い」(「反体制を生きて」)。

 藤田省三氏は、「6.15事件 流血の渦中から― この目で見た警察権力の暴力 ―」という文章を書き残している。その一節は次のように記している。
 「警官隊は頑強なクツをはき、鉄帽をかぶり、コン棒を持っていた。私は全学連指導部のやり方には反対のものだが、しかし参加している数千人の学生は、とにかく、まったくの素手であった。学生の多くはシャツ姿であり、クツも運動グツ、なかにはハダシの学生もいた。互いに腕を組んで押すこと以外に学生の武力″はなかつた。 (中略)

 警察は私たち国民によって、合法的に武力を与えられているのだ。私たちは身体と生命を守るために合法的に武力を警察に託した。それゆえに、その武力が合法的に行使されるよう要求する権利がある。警官によって不法に行使された武力こそ、暴力″以外のなにものでもない。警官は明らかに暴力″を行使した」。
 
 高橋和巳氏は「我が心は石にあらず」で次のように述べている。
 概略「議会というものは、黒い選挙によって無自覚な国民の権利を資本が買い、議会という権利の剰余価値を産む機関を媒介にして法秩序が形成され、利潤のわずか一部分が不等質交換的に地元有権者にばらまかれるものにすぎない。(中略)しかし、だからと言って、ただそれに背を向けているだけでは、権力の独占と集中は、敗戦による国家崩壊というような天荒地変のときまで改めることはできない。(中略)少なくとも、資本が票を買い、買った票で人々を隷属化する、悪循環をどこかで断ち切ろうとする試みはしてみてもいい。(中略)一応我われは現在の議会制度を容認して、つまり多数決民主主義には反対しない立場から(中略)・闘争をやってきた。容認することは絶対視することとは同じではなく、反対しないことはそれ以上の制度があり得ないと思っていることを意味しない。(中略)私たちは秩序を破壊したいために闘争するのではなく、虚偽の秩序をより本質的な秩序に替えたいために闘うのだ」。

 茅誠司東大学長は次のように 声明している。
 「この事件で警官の行き過ぎは明らかであり、学生を預かる者として抗議する。学生の行動は切迫した危機感に よるもので、この行動をとらせたのは新安保強行採決で議会主義を危機に追い込み、国会と国民を遊離させたにもかかわらず、政治責任者が国会の機能を回復させる適切な手段を何もとらなかったことにある。

 例えば解散などが行われておれば学生は平穏な方法で意思を表明する機会を与えられ、15日のような行動はしなかっ ただろう。ところが何の措置もとられず、その上アイクを招こうとしたため、学生に民主主義回復の努力が無力だという絶望感を与えたもので学生だけを責めることはできない。

 このような事態では大学は学生教育の任務 を果たすことができないばかりでなく、説得などで学生に平穏な行動を求めても効果ない。この趣旨に基づいて政治責任者が民主主義的責任政治を回復すること以外に解決はなく、その努力をすることを強く要望する」。

【樺美智子虐殺事件発生に見せた日共宮顕の対応】

 共産党指揮者たちは、「トロッキストの挑発に乗るな」とピケットラインを張り、デモ隊を国会から銀座方面に流し続けた。「暗黒の代々木王国」(辻泰介)は次のように記している。

 「デモがぴっしりと取り巻き、ひしめいている国会周辺で、私と同じような地区委員や勤務員の多くの同志たちが、赤い腕章を巻いて、交通整理のような役をやらされていました。それは、どういう交通整理であるかというと、体当たりするような激しいデモを国会にぶつけ、機動隊にぶつけている全学連の一かたまりの部隊と、人数はそれの十倍もあって、長蛇の列を為して国会めがけてデモってくる労働組合の大部隊との間に、割って入って(割って入ってというよりは、予め、丁度通行禁止の立て札のように一列を作って立っていて、)労働組合員たちのデモを右のほうに円滑に流れさせて行く、そういう交通整理でした」。
 「労働者と学生とを一本化させなかった。その少なくとも一つの原因は、私たち共産党員が身をもって作った方向指示器にあったのです。わずか50メートルの間隔・僅かなのに、この間隔が埋められ、埋め尽くされることは、60年安保闘争ではとうとうありませんでした」と
 「宮本書記長が、国会デモがますます膨れ上がり、騒然とし始め、首都の至る所がデモによっていわば制圧され始めたこの時期、まるでセキを切ったように人々が街頭に溢れ出したこの時期に、党本部に全国の責任者を集めて、『ジグザグデモはまかりならん』というお達しをした、ということを、東京都の役員から聞かされた」、「宮顕氏が指示したことのポイントは、ジグザグデモはやめろ、ということだ、というのです。半信半疑の私に−だって、もうその頃は、ジグザグなどは『声ある声』も『声なき声』も、女でも子供でもやりまくっていたのですから」、『『アカハタ』の権威ある主張は、安保を如何に闘うか、ではなくて、本当に、『ジグザグデモはけしからん』ということを、それだけを主張していたのです。もう、マサカではありませんでした。後から思えば、宮本を頂点とする党中央にとって、『ジグザグデモを止めろ』というのが『安保を如何に闘うか』の方針に他ならなかった訳です」。

 安東氏はここでも貴重な証言を残している。

 「そのうち『学生が殺された』との情報が電光のような速さでデモ隊の中を走りぬけた。ところが、である。共産党は、『直ちに流れ解散』の指令を飛ばしてデモの隊列をどんどん流れ解散へと誘導し始めたのである。『ふざけるな』、『帰るな』と私は憤激をした。南門に近づこうとするが、血走った目の機動隊員に蹴散らされてしまう。‐‐‐私はアメに濡れた左腕の腕章をひつくり返してただの赤い腕章にした。『日本共産党』の腕章はつけられない。『もうこんな非人道的な党にはいられない』、短い時間ではあったが、しかし私は自分の感情を確かめていた」。

 この時、ニュースで死者が出たことを聞き知った宮顕.袴田が忽然と自動車でやってきて、アカハタ記者にごう然と「だいぶ殺されたと聞いたが、何人死んだのか」と尋ねている。記者は「よく分からないが、自分ではっきり確認できたのは一人だけです」と答えると、「なんだ、たった一人か」、「トロッキストだろう。7人位と聞いていたが」と吐き捨てるようにいって現場を後にしたと伝えられている。


【樺美智子虐殺に抗議し安保改定を阻止しようとする労・学五万人国会包囲デモ】

 6.16−17日連日、樺美智子虐殺に抗議し、労・学5万人が国会包囲デモが行われた。国会南門通用門は樺さんの死を悼む献花と焼香の煙りで埋められた。樺美智子の死は瞬く間に伝わり、多くの人々の心をうった。特に東大では教授も学生も一斉に抗議行動に立ち上がり、教室は空っぽになった。

 この時椿事が発生している。未明まで闘ったブント系学生がねぐらに帰った6.16日早朝、駅々で「私たちは全学連です。昨夜の国会デモで多数の負傷者を出しました。カンパをお願いします」と訴えていた学生たちがいたが、反主流派代々木系の民青同の連中たちであった。約140万円余集まったといわれているが、この時のカンパ金が国民会議に救援金として提供されたのならまだしもその形跡は無い。聞きつけたブント系が代々木にデモを駆け、「香典泥棒」と罵声を浴びせたが、党本部から応酬は無かった。これは「香典泥棒事件」と云われている。

 高見圭司氏の「55年入党から67年にいたる歩み」は次のように記している。

6.15の翌日、医学連、全学連の当時の書記長北小路敏君らと6.15救援本部を社会党本部内に一室もらって設け、その委員長には坂本参議院議員(現高知市長)、私が事務局長ということで活動を開始した。全国にカンパを呼びかけ、150万円近い病院の支払いなどは、殆んとこのカンパの中から支払ったのである。そしてほぼ約一ヶ年のあいだ6.15救援本部は活動した。この救援運動の総括として、われわれは党が中心となって、新たな救援組織を結成すべく準備をはじめた。それというのも、共産党系の“国民救援会”が中国から送られてきた6.15闘争の犠牲者に対する1万元(日本円で150万円)を遂に私有してしまったことと、彼らの救援運動が“トロツキストの面倒は見ない”という方針で目の前に重傷者がいても日共系の“民医連”系の医師は知らん顔をしているといった度し難いセクト主義に対抗するということと、さらにはいよいよ70年にむけてファッショ的な権力の弾圧が予想されることに対して構えなければならないという意味から、作業ははじめられたのである。それは“人権を守る会”と称して、小柳勇参議院議員が責任者となって準備がすすめられ、61年の社会党大会で決議までなされたのであった。

【「6.15樺美智子虐殺事件」に関する社共の態度】

 日共は、6.15日の闘争と樺美智子の死をめぐって、一片の哀悼の意をも示さず次のように非難した。

トロツキストの挑発行為、学生を弾圧の罠にさらした全学連幹部、アメリカ帝国主義のスパイに責任がある。
我が党は、かねてから岸内閣と警察の挑発と凶暴な弾圧を予想して、このような全学連指導部の冒険主義を繰り返し批判してきたが、今回の貴重な犠牲者が出たことに鑑みても、全学連指導部がこのような国民会議の決定に反する分裂と冒険主義を繰り返すことを、民主勢力は黙過すべきでない。

 社会党は、樺美智子氏の死に対して党としての指導力量不足であるとする見解を述べている。

社会党はかかる事態を防止するため数回、学生側及び警察側に制止のための努力をした。しかし力だ足らずに青年の血を流させたことは国民諸君に対し、深く責任を感じ申し訳ないと思う。

【政府が臨時閣議で、アイク米大統領らの訪日中止決定】

 政府は、6.16日午前零時過ぎから急遽臨時閣議を開き、「樺美智子事件」の衝撃で不測の事態発生を憂慮することとなり、アイゼンハワー米大統領の訪日延期要請を決定した。佐藤栄作蔵相.池田隼人通産相らの強硬論と藤山愛一郎外相.石原国家公安委員長らの政治的収拾論が錯綜する中で、アイク米大統領らの訪日中止要請が決まったと伝えられている。

 6.17日、「暴力排除と民主主義擁護に関する決議」を自民党単独で可決した。この日、経団連など財界四団体も、「暴力排除と議会主義擁護」の声明を発表している。


【マスコミが「暴力を排し、議会主義を守れ」という共同宣言を声明】 
 6.17日、在京7社の大手新聞社(朝日、読売、毎日、日経、産経、東京、東京タイムズ)は、紙面に「暴力を排し、議会主義を守れ」という共同宣言を発表、翌日には地方紙も同調して、同じ宣言を掲載している。「6.15日夜の国会内外における流血事件は、その事の依ってきたる所以を別として、議会主義を危機に陥れる痛恨事であった」とし、政府だけでなく、野党各党に対しても「この際、これまでの争点をしばらく投げ捨て、率先して国会に帰り、その正常化による事態の収拾に協力すること」を求めていた。

 国会デモはその後も空前の動員数を示した。全国の各大学は自然発生的 に無期限ストに突入した。


 6.17日、社会党顧問川上丈太郎が右翼に刺され負傷。


 自然承認の日は目前に迫りつつあった。国会デモはその後も空前の動員数を示した。全国の各大学は自然発生的 に無期限ストに突入した。


 6.18日、国民会議は、「岸内閣打倒・国会解散要求・安保裁決不承認・不当弾圧抗議」の根こそぎ国会デモを訴えた。三宅坂の国立劇場敷地をベースとして喪章と黒リボンの労働者、学生、市民の延べ33万人のデモが続いた。樺美智子女史の東大合同慰霊祭が行われた。樺美智子虐殺抗議・岸内閣打倒総決起大会〔日比谷公園〕、二万名結集、自然承認に抗議して労働者・学生・市民四万名、国会包囲・徹夜坐り込み。


【安保条約自然成立。労働者・学生・市民33万人が徹夜で国会包囲デモ】
 6.19日、国民会議は、「岸内閣打倒.国会解散要求.安保採決不承認.不当弾圧抗議」の根こそぎ国会デモを訴えた。30万人が徹夜で国会包囲デモをした。ありとあらゆる階層の老若男女が黙然と座り込んだ。この時、日共の野坂は、宣伝カーの上から「12時までは安保改定反対闘争だが、12時以降は、安保条約破棄の闘争である」と馬鹿げた演説をしている。こうしているうちにも時計の針は回り、12時を越すと共に新安保条約は自然成立した。この時4万人以上のデモ隊が国会周辺を取り囲んでいた。

 この時のことを島氏はこう記している
1960年6.18日、日米新安保条約自然承認の時が刻一刻と近づいていたあの夜、私は国会を取り巻いた数万の学生.市民とともに首相官邸の前にいた。ジグザグ行進で官邸の周囲を走るデモ隊を前に、そしてまた動かずにただ座っている学生の間で、私は、どうすることも出来ずに、空っぽの胃から絞り出すようにヘドを刷いてずくまっていた。その時、その横で、『共産主義者同盟』の旗の近くにいた生田が、怒ったような顔つきで、腕を振り回しながら『畜生、畜生、このエネルギーが!このエネルギーが、どうにもできない!ブントも駄目だ!』と誰にいうでもなく、吐き出すように叫んでいた。この怒りとも自嘲ともいえぬつぶやきを口にした生田(「文集」)。

 6.20日、全学連主流派、岸内閣打倒・警視庁抗議単独デモ、二千名結集して首相官邸などへ抗議デモ。


 6.21日、全学連主流派二千名、反主流派千六百名、首相官邸・外務省に抗議デモ。


 6.22日、都内国鉄主要駅で国労スト支援の後、主流派は国会正門前、反主流派は衆院会館前でそれぞれ四千名を結集して抗議集会。


 6.22日、第19次統一行動。総評.中立労連が政治ゼネスト第3波600万人、国会請願デモ10万人。党は、党組織を大挙動員する。都自連に結集した学生は8000名。


 6.23日、新安保条約の批准書交換、岸首相が 退陣の意思を表明。新安保条約は国会で自然承認され、発効した。イタリアの「ラ.ナチオー紙」記者コラド.ピッツネりは「カクメイ、ミアタラヌ」と打電している。毎日新聞に「こんな静かなデモは初めてだ。デモに東洋的礼節を発見した」とコメントつけている。


【樺美智子全学連追悼集会】
 6.23日、樺美智子国民葬が日比谷公会堂で開かれ、約1万名が参加した。島書記長が、ブントの代表として、「同志樺よ!」から始まる弔辞を読み上げた。共産党は不参加。

 その夜、全学連主流派学生250人が、「樺美智子(共産主義者同盟の指導分子)の死は、官憲の虐殺という側面とトロツキスト樺への批判を混同してはいけない。樺の死には全学連主流派の冒険主義にも責任がある」としたアカハタ記事に憤激して、党本部に抗議デモをかけた。

 党は、これをトロツキストの襲撃として公表し、6.25日アカハタに党声明として「百数十人のトロツキスト学生が小島弘、糠谷秀剛(全学連中執)、香山健一(元全学連委員長)、社学同書記長藤原らに率いられて党本部にデモを行い、『宮本顕治出て来い』、『香典泥棒』、『アカハタ記事を取り消せ』などと叫んだが、党員労働者によって排除された」云々と顛末を報じている。

 ちなみに、6.25日の「人民日報」は、「安保闘争における樺美智子を『日本の民族的英雄』と称えた」毛沢東の談話を掲載している。

 6.25日から7.2日にかけて第20次統一行動。しかし、自然承認後、まもなくデモ参加者も急速に潮を引いた。この辺りで「60年安保闘争」は基本的に終焉し、後は闘争の総括へ向かっていくことになる。


【安保闘争の遺したもの】
 安保闘争は、南朝鮮の李承晩政府打倒の闘争と共に国際的にも高く評価された。国民会議が結成され、17次にわたる統一行動を組織し、社共統一戦線を作り出し、総評他の諸組織をこれに結合させていた。安保は改訂されたが、アイゼンハワー大統領の来日を阻止し、岸内閣を打倒させた。政治的な偉大な経験と訓練を生み出した。この時代の青少年にも大きく影響を与え、政治的自覚を促した。この時から幾年か後、再び学生運動の新しい昂揚を向かえるが、この時蒔かれた種が結実していったともみなせるであろう。

 日共は、この一連の経過で一貫して「挑発に乗るな」とか「冒険主義批判」をし続け、戦闘化した大衆から「前衛失格」・「前衛不在」の罵声を浴びることになっ た。こうして安保闘争は、戦後反体制運動の画期的事件となった。「乗り越えられた前衛」は革新ジャーナリズムの流行語となった。党員の参加する多くの新聞雑誌・出版物からも、鋭い党中央派批判を発生させた。

【吉本隆明氏の安保闘争総括】
 みずからも全学連とともに安保闘争に参画した吉本隆明氏は、「擬制の終焉」(60.9月)で次のように断じた。
 15日(6月)夜、その尖端を国会南門の構内において、国会をとりかこんだ渦は、あきらかにあたらしいインターナショナリズムの渦であった。それはなによりもたたかいの主体を人民としてのじぶん自身と、その連帯としての大衆のなかにおき、それを疎外している国家権力の国家意志(安保条約)にたいしてたたかうインターナショナリズムの姿勢につらぬかれていた。首相官邸のまえをとおり坂の下へながれてゆく渦は、社会主義国家圏という奇妙なハンチュウをもうけ、そのようごのためには弱小人民の国家権力にたいするたたかいを勝手に規定し、また人民の利益と無関係にそれを金科玉条として固執する変態的なナショナリズムの亡霊を背負ったものたちに嚮導されていた。それはコミンターン式の窓口革命主義の崩壊する最後のすがたを象徴するものにほかならなかった。かれらはいかなるたたかいにおいても、たたかいを阻止し、ひたすら大衆が自分たちの指導をこえてたたかわないことを望み、ひたすらたたかいの現場から遠ざかろうとする姿勢につらぬかれていたのである。
 戦前派の指導する擬制前衛達が、十数万の労働者・学生・市民の眼の前で、遂に自ら闘い得ないこと、自ら闘いを方向づける能力の無いことを、完膚無きまでに明らかにした。

 この言葉が実感を持って受けとめられた。以降、吉本隆明氏の「擬制の終焉」、谷川雁(がん)の「定型の超克」、埴谷雄高(はにやゆたか)の「幻視のなかの政治」などの著作が読まれていくことになる。

松本健一著「谷川雁 革命伝説」
 松本健一著「谷川雁 革命伝説」。
 公然と国民共闘会議の枠をやぶって激しく展開された全学連の大衆行動と、それにたいする一切の既成前衛の裏切り的な言動、そして、その指導性の喪失の完膚なきまでの自己暴露がおこなわれた。彼らをのりこえて前進せんとする大衆の凝集されたエネルギーの爆発にたいして、ただただ「トロツキストの挑発にのるな」を連発するにすぎなかった日共という自称「前衛」神話の崩壊が、誰の目にもあきらかになった。日共の姿勢は「敵は強大、味方は劣勢」という長期低姿勢論であり、「民族独立民主革命」を夢想し、めざすべきは「民族民主統一戦線」の実現であり、そしてなによりも、党勢の拡大であった。安保闘争は、この第一義的課題に従属されるべきであった。このため、彼らは徹底したスケジュール闘争主義、合法主義に徹した。彼らが、唯一、強い闘いを主張したのは、6月10日のハガチー事件であった。アメリカ主敵論を戦略とする彼らにとって、アイゼンハワーの訪日に反対する闘争は、ハガチー報道官来日にむけた排外主義のたたかいに集約された。これら安保闘争の期間をつうじて、その只中での闘争形態に関する日共の日和見主義、議会主義、反米民族主義などの欺瞞的な理念をのりこえ、戦闘的な学生、労働者は闘いの輪を幾重にもひろげた。

 三井三池の闘争とともに、戦後史を画するような大闘争において、安保闘争の主力をになったブントや全学連は、三つの力が合力を混淆したところに特徴があった。それは安保改定を推進した保守陣営の力であり、もう一つは国民会議といわれた共産党や社会党などの革新陣営の力であった。さらにブントや全学連などの新しい左翼の力である。そして、これらそれぞれの国家的戦略を次のように区別していた。保守陣営も革新陣営も、アメリカ、ソ連の戦後世界支配という枠組みは、絶対的で動かないものであるという認識は、共通の基盤であった。これらにたいして、ブントや全学連は、安保改定をつうじて、日本の大衆のほとんどの期待を裏切って、日本資本主義が復活するにつれて、「帝国主義的な復活」をとげるものととらえていた。したがって、安保改定に反対するのは、日本の帝国主義的な復活を阻止することであった。これは、ある意味では日本の保守陣営が、アメリカとの関係を改善しながら、体制の強化を図ることを、擬似帝国主義的な復活と見なしていたことと同じといえる。しかし、ブントや全学連の理念には、戦後のアメリカ、ソ連の二国支配を、理念的に支える世界観や世界像を否定しようとする意図があった。アメリカはもちろん、ソ連は社会主義ではない、という認識を核になって、旧左翼が理念の常識にしていた世界観や世界像を否定していたのである。いわば、世界が米、ソの支配という絶対枠で成立しているということを否定したのである。

 ブントや全学連の主張が、そのラジカルな行動とともに大衆に支持されたのは、米、ソのどちらかに加担するのではなく、どちらの戦争も嫌だという、敗戦国の国民としてのナショナルな意識を、広範な形で、はじめて大衆の歴史の表面に登場させたからである。だから、1960年以降に「新左翼」が戦後の世界観や世界像を否定し、独自の世界観を求める場所を占めることができたのも、この‘60年安保の大衆の声が、背景の圧力としてあったからである。この闘争の経験が、「世界史的」に自立した運動の1ページを飾った歴史的経験として蓄積され、のちの全共闘の大衆的基盤にも受け継がれていったのである。

 国会周辺は、連日、抗議の渦で埋められた。そして6月19日の「自然承認」をまえにして、東大生の樺美智子が警官隊の暴力によって虐殺される。こうした激しい反対行動のなかで岸内閣は退陣し、アイゼンハワー大統領の訪日は中止された。こうして‘60年安保闘争は沈静化していく。安保闘争は、運動参加者のなかに、強い挫折感と敗北感を残したまま、安保はすでに過去のものになりつつあった。

 同じ時期、この安保闘争と連動するように、日本最大の炭鉱であった福岡の三井三池炭鉱において戦後最大で最後の労働争議がおこった。というのは、三池闘争がはじまる数年前から「エネルギー革命」により、中小の炭鉱が閉鎖されていっていたからである。三池闘争は石炭産業の衰退にもとづく合理化にからみ、1959年1月、三井鉱山当局が労働組合にたいし、6,000人におよぶ希望退職をもとめた第一次合理化案をきっかけにおこった。同年4月6日には、第一次合理化協定が締結され、今後首切りをしないことが確約されたが、8月、経営者側は職場活動家をふくむ4,580人の希望退職の第二次合理化案を提示してきた。組合はこれを拒否した。結局、会社側は12月、1,214人の指名解雇をおこなうが、組合は解雇通告を一括返上する。これにたいして、翌1960年1月25日、会社側が全山のロックアウトを通告したことによって、労使間が正面から対立状態となった。それに組合側が、無期限ストライキをもって応えたことによって、本格的な闘争に突入する。

 マルクス主義者向坂逸郎の影響のつよい組合側は、政治主義的なスローガン「総資本と総労働」の対決を叫び、日経連をバックとする会社側にたいし、自由化政策の推進による各産業の合理化政策と全面対立した。警察力、暴力団をバックに、組合の切り崩しをはかる一方で、懐柔策を講じた会社側の攻勢により、組合委員から脱落者がでてきた。3月17日、これらのメンバーを中心に第二組合が生まれた。その割合は全組合員の4分の1にあたる3千6百人にのぼった。3月28日、第二組合が就労を強行しようとして、第一組合のピケ隊と衝突し、その際、暴力団が襲い、百余人の重軽傷者がでた。翌日には暴力団員が警察の検問を突破して、第一組合のピケ隊に襲いかかり、組合員久保清さんの刺殺事件もおこった。こうして、三池の労働者は、みずからの身を守るために暴力にたよらざるをえなくなった。さらに、会社側は、第二組合側のホッパーによる石炭の搬出、船舶による資材の搬入を行ったが、組合側は中労委のあっせん案を拒否して、闘争態勢をくずさなかった。7月になると、会社側は、機帆船4隻で第二組合員を入坑させようとし、第一組合と衝突し、警官隊も含めた乱闘で、300人が負傷した。組合側は出炭再開をあせる会社側にたいして、三川鉱ホッパーをピケで固め、出炭を阻止した。これにたいし、会社側は、ピケの排除を内容とする仮処分を決定した。総評、炭労側は、全国から2万人の組合員を動員して仮処分の実力阻止をはかった。警察側も1万人を動員して執行の支援にそなえた。

 ここにいたって、安保の成立で岸内閣が退陣した後の池田内閣は、三池対策の急務を説く財界の要請をうけて、収拾工作にのりだし、労組側にピケの撤去と、中労委のあっせん案に応じることを勧告するとともに、この平和的解決に難色をしめす三井鉱山側を説得した。政府のこの措置に、展望がつかめないでいた総評側も、中労委への解決一任を拒むことはできなかった。8月10日、中労委あっせん案が示されたが、その内容は指名解雇を認めるものだった。11月1日、総評、炭労ともに受諾を決め、ついに三池争議は収拾にむかった。この間、最高時には1日1万人以上の警官隊が動員され、3月から12月にかけての警官動員数は延べ74万人といわれ、安保闘争ピーク時の43万人をはるかに上回るものであった。これにたいし、総評など組合側は、全国から延べ37万人を動員したといわれた。三池闘争は戦後15年間の労働運動の総決算の意味をもっていた。いわば、後退しつつある流れの終末的な爆発でもあった。

 一方、三池闘争と同じ時期、遠賀川流域の地方大手、大正炭鉱においても三池労組をのりこえる大正行動隊の闘いが生まれていた。この闘争を指導していた詩人の谷川雁は、三池闘争が、これまでの労働運動が日共や労働組合幹部などの「前衛」に指導され、その指導のもとに整然たる統制がなされていたことがのりこえられたことをみてとって、前衛党によって指導される様式と異なる形態を「定型の超克」と呼び、運動を組織した。しかも、単なる労働争議という次元にとどまるものではなく、詩的レトリックをつうじて、戦中の天皇制ファシズムのふところ奥深くからめとられていた、民衆の革命的エネルギーを噴出させるような日本型(アジア型)革命のイメージを重ねみていた。

 《谷川雁の美しい革命は、一方では中国の「根拠地」を夢みつつ、他方で天皇制ファシズムの革命として現出した昭和の二・二六事件をもイメージとして重ねるものであった。「死刑場の雪の美しさ」という言葉は、雪の二・二六とそれによって死刑(銃殺刑)に処されていった青年将校を、明らかに連想させるだろう。谷川雁は、「飢えた農村を救え!」といって青年将校が蹶起した二・二六事件を、マルクス主義者や近代主義的な戦後民主主義者のように「反革命」といって、切り捨てたりはしなかった。青年将校たちの「大御心にまつ」という願望の革命は、天皇というカリスマが支配原理であるとともに革命原理であった、伝統にしばられた社会においてこそ生まれたのである》

【蔵田計成氏の証言】

 6.16−6.23日までの闘争のあらましを、蔵田計成氏は次のように記録している。

 翌16日、学生は一番電車で学校に帰り、「虐殺抗議、岸打倒、安保粉砕、全国学生無期限スト」に着手した。6.155闘争の最先頭で闘った明大生たちは、その日の朝までに約20種、数万枚のビラ、高さ二メートルの立看板でキャンパスを埋めつくした。その他の大学でも、4000−2000名の部隊を結集して、再度国会正門南通用門を埋めつくし、その数は二万名以上に達した。

 6月18日は安保自然成立の前日だった。全学連の全国動員に呼応して、地方大学も続々上京し、日比谷公園に二万名が結集して「樺美智子虐殺抗議、岸内閣打倒総決起大会」を開催、そのあと国会デモを行った。虐殺跡の南通用門附近では、全学連部隊は空前絶後の四万名にふくれ上がり、労働者や市民をふくめ六万名による徹夜の抗議集会を敢行した。国民会議もこの日三〇万名が国会デモを行った。

 6月19日、「世界を震憾させた十日間」は終わった。闘争は急速な退潮をみせ、20−23日までは雨の降るなかを、全学連は連日連夜、集会とデモによって迫撃を試みたが、状況を切り拓くことはできなかった。

 それ以上に空虚な試みは、国民会議6.22ゼネストであった。この実力行使は、安保闘争の全過程を通じて、つねに、先へ先へとのばされ、「今度こそは前回を上まわるゼネストを」という指導部の空文句の最後の仕上げであり、投げ場を求めた猿芝居の幕引きにすぎなかった。

 とはいえ、全学連を先頭とした安保闘争の巨大な高揚は、安保自然成立と引きかえながら、岸打倒、アイゼンハワー来日粉砕をかちとった。

 6月23日、全学連は6000名を結集して、岸退陣表明のその日、「樺美智子全学連追悼集会」を開催した。その一部は、日共本部にデモをかけた。これは「ぎせい者を出した責任はトロツキスト指導部にある」(『アカハタ』60年6月22日)にたいする求釈明だった。また・都自連の恥ずべき行為も歴史にとどめておくべきだろう。

 都自連は、6.15闘争以後は動員数においても急速な退潮を示し、街頭闘争からも召還していった。彼らは、全学連の死闘をよそに、いっせいに街頭カンパを行い、「犠牲者救援」を訴えた。都内数十カ所、数百名のカンパ隊をくりだして、数百万円を募金し、都自連で私物化し、全学連の抗議によって一部を上納したにすぎなかった。これがかの名高い「香典ドロボ―事件」である。このエピソ―ドは、当時の日共派の実践的、思想的、道義的な反階級性を示す象徴的な事件であり、安保闘争の日共都自連版総決算であった。日共本部デモという前代未聞の抗議の洗礼も、けだし当然であった。

【森田実氏の回想】

 森田実氏は、この頃のこととして次のように回想している。

 1956年の砂川闘争から1960年の安保闘争、その後の共産主義批判のなかで、私は清水教授とより深く接し、多くのことを学んだ。60年安保闘争の直後に清水教授から直接聞いた一つの言葉を私は忘れることはできない。 『人間は自分自身の経験からは絶対に離れられない。それがどんなに惨めなものであっても捨てることは不可能だ。いかなる体験であろうとも生涯背負っていかなければならないのだ』。それから40年。清水教授のこの言葉は、私にとって一つの大切な人生の指針となった。 その2、3年前まで私はマルクス主義の信奉者だった。共産党のなかでは、自らの体験を重視する姿勢は『個人主義・経験主義』として厳しく批判された。党員個人の体験にもとづく創造的な提案はマルクス、エンゲルス、レーニンの言葉よりも下に見られ軽視された。

 私はこの共産党内の観念過剰の空気に同化することができなかった。私は1955年夏の六全協以後、党中央への厳しい内部批判活動を行い、中央本部と激しく対立し、ついに1958年に中央委員会決議により除名された。共産党から離れて自由にものを考えるようになった頃、清水教授から直接話を聞く機会が増え、清水教授の経験重視の思考から大きな刺激を受けた。清水教授の墓石には、自筆の次の言葉が刻まれている――『経験、この人間的なるもの』、『経験』が清水教授の生涯を通じての思索活動の中心におかれていたことが、この言葉に示されている。

 「体験と経験は個人生活のレベルでは同じ意味である。『広辞苑』(岩波書店)は「体験」を「自分が身をもって経験すること、また、その経験」と定義している。しかし、哲学の世界では少し違いがある。『岩波哲学・思想事典』によると、その差は次のようなものである(丸山高司氏執筆) 。〈体験〉概念は、多くの点で〈経験〉概念と重なり合うが、それとの相違点をあえて強調するなら、直接性や生々しさ、強い感情の彩り、体験者に対する強力で深甚な影響、非日常性、素材性、などのニュアンスをもっている」 。

 「体験は私の人生を動かしてきた決定的な要素なのである。故清水幾太郎教授の教えのとおり、自分自身の体験はいかなる偉人の体験よりもずっと大切で価値の高いものである。しかも、たとえ自分自身の体験がどんなに醜く恥すべきものであったとしても、それから逃れることはできない。己の体験をしっかりと受け止め、これと共存する以外に道はないのである。この認識と強い自覚を持てば、人それぞれに前向きで個性ある人生を送ることが可能になるだろう」。

 これより後は、「第6期その1、安保闘争総括をめぐって大混乱発生」に記す。





(私論.私見)