12章 | 6期その3 | 1962−1963 | 全学連の三方向分裂固定化 |
(れんだいこのショートメッセージ) |
ここで、1962(昭和37)年から1963(昭和38)年までの学生運動史を概括する。これを「6期その3、全学連の三方向分裂化」と命名する。「詳論」、「概論」、「物語り」を別途記す。全体の流れは、「戦後政治史検証」の該当年次に記す。 |
【この時期の全体としての政治運動】 |
【日共が、「4つの旗」を定式化する】 |
7.13日、日共は第3中総で、日本共産党創立40周年にあたってを採択した。「4つの旗」を定め、綱領路線の普及と徹底化をはかる。「4つの旗」とは、 1.反帝反独占の人民の民主主義革命の旗、2.祖国の真の独立と人民の勝利の保障である民族民主統一戦線の旗、 3.政治的思想的組織的に強固な強大な日本共産党の建設の旗、 4.アメリカを先頭とする帝国主義に反対する民族解放と平和の国際統一戦線の旗 として定式化された。 |
【第8回原水爆禁止世界大会で、ソ連の核実験を廻り社共が対立】 |
8.1−6日、第8回原水爆禁止世界大会で、日共は、ソ連核実験への抗議に反対して社会党.総評系と対立する。社会党.総評系が「あらゆる国の核実験に反対」を主張し、ソ連代表等がこれを後押ししていた。日共党中央と原水協は「ソ連は米帝と結託、中国の足を縛ろうとしている」とする中国代表の見解に同調して反対した。中ソ対立が日・中対ソ対立へと発展したことになった。 ソ連の核実験再開に対して、上田耕一郎氏がこの時の党の立場を代弁して「ソ同盟核実験を断固支持する 」論文を発表している。上田はその後今日まで随分と見解を変えているが、この論文との絡みでの自己批判は一切していない。 |
【キューバ危機】 |
10月、キューバ危機が発生した。1959年にカストロによる革命が成功して以来、キューバは反米・社会主義政策を採りソ連・中国に接近していた。アメリカとキューバの国交は断絶していたが、10.22日、ケネディー大統領は、ソ連がミサイル基地を建設、さらにソ連船がキューバむけミサイルを運んでいるのを発見し、これを阻止するために10.22日「対キューバ海上封鎖」を宣言し、10.24日、キューバの海上封鎖に踏み切った。こうしてキューバ危機が発生した。 |
【中共が構造改革論批判】 | |
12.31日、中国人民日報社説「トリアッチ同志とわれわれの違いについて」を発表し、イタリア共産党の構造改革論を次のように論難した。
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【池田政権が、大管法提出の見送りを決定】 |
1963(昭和38).1.25日、池田首相は大管法提出の見送りを決定した。 |
【日本原水協内で社共が対立】 |
2.21日、日本原水協が常任委員会を開き、社会党系と共産党系の間で運動統一へ向け妥協が成立。満場一致で、1・いかなる国の原水爆にも反対し、原水爆の完全禁止をはかる。2・社会体制の異なる国家間の平和共存のもとで達成できる立場にたつ。3・多年の努力の成果をふまえ、国民大衆とともに真実をきわめる。ことを骨子とした「2.21声明」を決定、安井理事長が声明した。これと同時に実務的「協定事項」を確認した。 2.28日、日本原水協が静岡市で全国常任理事会を開き、「すべての国の核実験に反対」を3.1日のビキニ・デー宣言に入れるかどうか討議したが、社会党と共産党が再び対立した。共産党系常任理事が「2.21声明」のなかの「あらゆる国の核実験に反対する」部分に反対してゆずらず、「協定事項」についても異議を唱えたため会議がまとまらず、遂に安井郁理事長が辞意を表明し、担当常任理事も全員辞任するにいたり、日本原水協としては、統一したビキニ集会を開催できなくなった。3.1日、ビキニ集会が日本原水協として開催できず、二つに分かれて開かれた。 |
【波多然派が離党】 | |
3.8日、佐賀県の前中央委員波多然とそのグループが脱党声明を発表した。声明は、党指導部は国内路線での平和運動.労働運動の指導間の誤りによって、又国際戦線でのモスクワ声明への背反とソ連路線への違背によって、「もはやマルクス.レーニン主義と無縁のものに転化している」と断じた。そして、宮顕式党運営を次のように批判した。
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【狭山事件発生】 |
5月、狭山事件発生。埼玉県所沢市で女子高校生中田善枝さんの死体が農道で発見され、その犯人として被差別部落の石川一雄青年が逮捕された。後に、狭山闘争へと発展する。 |
【米.ソ.英が部分的核実験停止条約調印】 |
7.15日、米.ソ.英で部分的核実験停止条約調印。この条約の意義は、それまでの大気圏での核実験が「人類に悪影響をおよぼす」ことに留意して今後大気圏での実験を禁止するというところにあった。米英ソ3国がこれを結んだが、遅れて核を持とうとしていた中国は「超大国の核独占だ」と反発していくことになる。 ソ連のこの条約締結の評価を廻ってソ連共産党と日本共産党が対立していくことになる。ソ連共産党が条約賛成を各国共産党に要求して回り、党中央はこれに同意しない動きを見せた。このことから双方の激しい非難の応酬が展開されていくことになった。原水爆禁止運動もこれで紛糾していくことになる。 7.29日、アカハタ主張、「部分的核兵器実験停止条約について」を発表。 |
【第9回原水爆禁止世界大会で社共対立が決定的になる】 | |
8.2−7日、第9回原水爆禁止世界大会が開催された。「いかなる国の核実験にも反対」かどうかを廻って紛糾した。日共は、幹部会員松島治重を現地広島に送り込んで、中国支持の立場から指導を開始した。この時、日共は、「アメリカの核は強盗の武器だが、社会主義国の核はその防衛の武器だ」との観点から「いかなる国の核実験にも反対に反対」している。 国際会議で「部核」をめぐり中ソ激論となった。党中央が中共代表団を支持し、社会党.総評系はこれを認めず、途中で退場し脱退となった。かくて原水禁運動は分裂することになった。その結果、この原水禁運動の分裂は、党中央のその後の中国路線の強化と合わせて、日本母親大会や安保共闘会議にも重大な影響を与えていくことになった。この分裂の責任を廻って、宮顕−不破系は今日なお詭弁を弄して居直り続けている。 8.3日、日共は、幹部会声明で部分核停条約不支持を表明する。「核兵器全面禁止の旗を掲げ統一を守らなければならない」を発表。党として初めて中ソ論争に対する「中国寄り」の見解を表明した。次のように述べている。
8.5日、米英ソ三国、モスクワで部分的核実験停止条約調印。 |
【日共が「ソ連批判.親中共路線論文」発表】 | |
11.10日、アカハタ主張、7中総に基づいて、「国際共産主義運動の真の団結と前進のために」を発表。同日曜版にも自主独立の名の下にソ連批判.中共路線同調の論文を載せる。次のように述べている。
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【ケネディー大統領暗殺される】 |
11.22日、ケネディー米国大統領暗殺される。テキサス州ダラスで遊説中狙撃された。約1時間半後、ダグラス市警は、リー・H・オズワルドを犯人として拘束したが、二日後に移送中、ジャック・ルビーにより射殺された。ジョンソン副大統領が昇格し第36代大統領に就任する。事件を調査する「ウォーレン委員会」を設置し、翌年9.26日、事件をオズワルドの単独犯行とする調査結果を報告した。しかし、疑惑が多く信憑性が疑われている。アメリカはその後、ベトナム戦争拡大に向かうことになる。 |
【この時期の学生運動の動き】 |
この時代の学生運動の枢要事を眺望しておく。 1962年時点より全学連の再統一の道が閉ざされ、それぞれの党派が競合的に自力発展していくことになる。この期の特徴は、正統全学連執行部をマル学同が占め、民青同は別途に全自連→平民学連経由で全学連を再建させる。これに対して、反マル学同で一致した社学同再建派、社青同、構造改革派が三派連合しつつ全学連の統一を模索していくも、マル学同との間に折り合いがつかず逆に緊張が高まるばかりとなる。 1963年、革共同全国委が中核派と革マル派に分裂する。中核派と革マル派の対立の背景には次のような観点の相違が介在していた。「革共同の中にも実践派と書斎−評論派との対立があり、それが後の中核派と革マル派との対立になっていったとのこと」(戦後史の証言ブント.古賀)である。大衆運動の進め方にも大きな観点の相違が存在していた。これについては、「中核派と革マル派の対立考」に記す。 ここで革マル派について言及しておく。 1963.4.1−2日の「革共同の第三次分裂」により革マル派が誕生したが、これにより革共同の主流が漸く黒寛を絶対教祖とする党派へ辿り着いたともみなせよう。その経緯の是非はともかくとして、革マル派とはそもそも何者だろうか。日本左派運動の一派なのだろうか。日本左派運動撲滅請負を旨として悪事を働く偽装左派党派なのだろうか、これにつき正面から分析している論文を知らない。 中核派が構造改革派の代わりに第二次ブント創出派、社青同派との共同戦線に向かい、新三派連合を結成する。この間、民青同派が平民学連を経て自前の全学連を結成し、全学連は、革マル系、民青同系、新三派連合系の三つ巴で競合し始める。この経緯を検証する。 |
【第6回参議院選挙に革共同全国委の指導者・黒寛が出馬し落選】 |
1962(昭和37).7.1日、第6回参議院選挙。この時、革共同全国委が「革命的議会主義」を旗印に、黒田寛一氏を全国区から出馬させていた。但し、得票数は2万3265票で落選。大日本愛国党総裁の赤尾敏は12万2532票。 |
【関西共産主義者同盟が結成される】 |
4月、京大と同志社と大阪市大が軸となりブント関西地方委員会が関西共産主義者同盟として結成される(同志社大学・飛鳥浩次郎議長)。これが1965.8月の共産同統一委員会、1966.8月の第二次ブント再建、1968.8月の共産同赤軍派結成の伏線となる。 |
1962.5.2日、構造改革派系の社会主義学生戦線(フロント)が結成される。上部団体は統一社会主義同盟。共青同を凌ぐ勢いを見せていくことになる。
5.11日、ブント系社学同と社会党系社青同、構造改革派の反マル学同三派連合が改憲阻止闘争で自民党本部に突入。50名が総裁に面会を要求し総裁室占拠、46名が逮捕される。
【日共系が東京学生平民共闘を結成する】 |
5.25日、池田首相は、大学管理問題として「大学が赤の温床」になっているとして大学管理法の必要性を強調した。民青同系は、この大管法闘争に真っ先に取り組み、この過程で6.1日、全自連崩壊の後を受けて東京学生平民共闘を正式に発足させた(平民とは「安保反対・平和と民主主義を守る」という略語)。 この動きが7.14−15日、「学生戦線統一のための全国発起人会議」開催へとなった。全国より70余自治会参加。「安保反対・平和と民主主義を守る全国学生連絡会議」(平民学連)結成を呼び掛け、翌63年平民学連が結成されることになる。ちなみにこの時大管法闘争を重視したのは民青同系と構造改革派系だけであり、いわゆるトロ系は闘争課題に設定しなかったようである。 |
【樺美智子追悼二周年】 |
6.15日、「6.15日樺美智子追悼二周年」が千代田公会堂で開かれた。学生、労働者、市民の約千名が参加した。この時、最前列を占めたマル学同全学連700名は、社会党飛鳥田一雄の挨拶をやじり倒し、社学同の佐竹都委員長の挨拶には壇上での殴りあいを演じ、清水幾太郎の講演もほとんど聞き取れない有様となった。これを「暴挙」とする樺俊雄夫妻.吉本隆明.清水幾太郎氏らは批判声明を発表し、概要「マル学同の狂信者たちが全学連の名を僭称しつづけることを許すべきでない」とまで、厳しく弾劾している。 |
【反マル学同三派連合の内紛】 |
7月、反マル学同で一致した社学同再建派、社青同、構造改革派の三派が連合して「全自代」を開催した。彼らは全学連再建を呼号し続けたが、折からの大管法に取り組むのかどうかをめぐっての運動方針食い違いが発生し最終的に暴力的な分裂に発展した。ブントは憲法公聴会阻止闘争一本槍を主張し、構造改革派が大管法闘争への取り組みを主張した。ブントが武装部隊を会場に導入して、構造改革派派を叩き出した。こうして、連合したばかりの三派連合は空中分解した。 これについて筆者はかく思う。この動きから判ることは、ブントの組織論における致命的な欠陥性である。一体全体ブント系は、60年安保闘争総括後空中分解したまま今に至るも四分五裂をますます深め統合能力を持たない。意見、見解、指針の違いが分党化せねばならないとでも勘違いしている風があり、恐らく「お山の大将」式に星の数ほど党派を作りたいのだろう。なお、意見の相違については、ゲバルトによって決着させたいようでもある。しかし、残念ながら少数派閥化することにより、このゲバルトにおいてもマル学同に対して歯が立たなくなってしまったという経緯を見せていくことになる。 私見によれば、キャンパス内における反対派封殺がなぜ犯罪的であるかというと、既述したようにも思うが、右翼や宗教運動家らの跋扈には無頓着でありつつ左翼意識の持ち主がテロられることにより、結果として左翼運動が縊死することになるからである。大体において学生内の左派系意識の持主は全体の2割もいれば良い方であり、この2割内で叩き合いをすることにより貴重な人士の輩出が制限されることに無頓着過ぎるのがケシカラナイと思う。 これも既述したが、元々ブントは、カオス的世界観を基調にして運動の急進主義を主導的に担ってきたという経過がある。「60年安保闘争」の領導には、反対派の存在は許されるどころかそれらを前提としつつ主体的な自派の運動を創出していくことにより圧倒的な支持を獲得してきたという自信が漲っていたのではなかったのか。この前提を許容しえなくなったブントはもはやブントではなく、大衆から見放されるばかりの余命幾ばくかの道へ自ら転落していくことになったとしても致しかたなかろう。 |
【日共の露骨な構造改革派排除】 |
この年夏の世界青年学生平和友好祭日本実行委員会で、日共党中央の指示に基づいて民青同の代表は、この間まで運動を一緒に担っていた構造改革派系青学革新会議の参加を排除した。思想、信条、政党、党派のいかんにかかわりなく、平和友好祭は元々平和と友好のスローガンの下に幅広く青年を結集する友好祭運動であったが、理由がふるっている。革新会議はファシスト団体であると言って参加を拒否した。昨日まで一緒に「平和と民主主義」の旗印を掲げて闘っていた旧同志たちを、反代々木化したからという理由しか考えられないが、反代々木=反共=ファシズムというご都合主義三段論法によりファシスト視し排除の理由とした。 これについて筆者はかく思う。これを「前時代的な硬直した思考図式」といって批判する者もいるが、筆者には、宮顕の「芥川論」考察で明らかにしたように、宮顕の典型的な「排除の強権論理」の現れとしてしか考えられない。この論理は日本左翼(よその国ではどうなのかが分からないのでとりあえずこう書くことにする)の宿アと私は考えている。いずれにせよ、この平和友好祭には自民党系の青年運動も参加していたようであるから、宮顕式統一戦線論の「右にやさしく左に厳しい」反動的本質がここでも見て取れるであろう。 このことは、第8回原水禁世界大会をめぐっての社青同に対する度を超した非難攻撃にもあらわれている。労働組合運動にせよ、青年運動にせよ組織的自主性を保障することは、党の指導原則であるべきことではあるが、日共の場合、何気ない普段の時には守られるものの一朝事ある時はかなぐり捨てられるという経過を見て取ることができる。先のカオス・ロゴス観で仕訳すると、宮顕の場合にはロゴス派の系流であり且つ統制フェチという特徴づけが相応しい。 |
【マル学同全学連が、「赤の広場」でソビエトの核実験に抗議デモ】 |
8月、国際学連大会に出席した根本委員長ほか3名が、モスクワの「赤の広場」で「ソビエトの核実験に抗議する」デモを行っている。 |
【革共同三全総で黒寛派と本多派の対立発生】 |
9月、「第3回革共同全国委総会」(三全総)時点で、革共同全国委の中心人物であった黒寛とbQの本多氏の間で抜き差しならない意見対立が発生した。先の大管法闘争に於いて、マル学同が三派と共同戦線闘争を組んだ四派連合を廻って、その是非が論争となり激化していくことになった。黒寛派の全学連委員長・根本仁は四派連合結成を良しとせず、これを押し進めた本多派の書記長・小野田と対立していくこととなった。前者は後者を「大衆運動主義」と非難し、後者は前者を「セクト主義」と非難した。マル学同内部のこの対立が導火線となって翌年に革共同の第三次分裂がもたらされていくことになる。 |
【社学同全国大会が開催され、味岡修が委員長に就任】 |
9.16日、社学同全国大会が開催され、味岡修が委員長に選出された。大会宣言の中で、概要「全学連の指導権を握ったマル学同は、運動の過程で問題を解決しようとせず、単なる『反帝反スタ綱領』の観念的思考に安住し、『既成左翼と変わらぬし思想的根拠を持つに至った』ので、全学連運動の沈滞をもたらした」と批判した。日共については、「反米闘争を強調することによって事実上国家権力に対する有効な闘争を放棄している」と批判した。この社学同はおってマル戦派と反マル戦派(ML派)へと分裂していくことになる。 |
【社青同が憲法公聴会阻止闘争を展開】 |
こうした動きの中で、社青同中央本部の学対中執佐々木慶明氏の指導する社青同全国学生班協議会(略して「学協」)が中心となり、仙台・名古屋等の憲法公聴会阻止闘争を展開した。実力闘争を全面的に否定し憲法の「完全実施」を求める改良闘争を個別的に積み上げていくことが、改憲に対する護憲の闘いであるとする中央本部との路線対立を次第に鮮明にしていったのである。この中央本部と全国学協の路線対立は次第に労働者同盟員にも波及していった。 |
【大学管理法闘争】 | |
10月、中央教育審議会が大管法答申を出してくるなど一段と現実味を増すことになった。これを受けて、この時日共・民青同系は、大管法闘争に大々的に取り組んでいくことを指針にした。11.13日、平民学連結成に向けての「全国地方ブロック代表者会議」を開催した。この時、63年中の全学連再建方針を決議した。11.17日、「大学管理制度改悪粉砕全国統一行動」を決定し、当日は東京3千名、全国7地区で集会、抗議デモを展開した。 こうした大管闘争の盛り上がりを見て、三派連合も、更に遅れてマル学同もこの闘争に参入してくることとなった。11.30日、マル学同も含めた四派連合が形成され、約4千名の集会が持たれた。川上徹「学生運動」は、この四派連合に対して次のように揶揄している。
これについて筆者はかく思う。大管闘争に取り組む姿勢の違いの背景に、民青同系といわゆるトロ系には「大学の自治」に関する観点の相違があることがこの後次第にはっきりしていくことになる。分かりやすく言えば、民青同系は学園民主化闘争を重視し、トロ系はこれを軽視するというよりは欺瞞体制とみなし権力機構一般と同じく打破の対象としていくというぐらいに真反対の立場に立つ。この後この差が次第次第に拡幅していくことになる。この問題もまた左翼運動内の未解明な理論的分野であり、相互に感情的に反発し合うだけで今日に至っているように思われる。この情緒性がたまらなく日本的と言えるように思う。 ここに真っ当な左派が登場しておれば、戦後日本の憲法秩序をプレ社会主義と規定し、これの護持と成育発展を期すべきであったであろう。これによれば、学園民主化闘争も是であり、体制変革運動も是であろう。但し、土着在地主義的な一国にして国際主義に通用するような革命を目指すべきであったであろう。どういう訳か、そういう風に捉え推進する運動体が居なかった。 |
【「歪んだ青春−全学連闘士のその後」事件】 |
1963(昭和38).2月、TBSラジオが録音構成「歪んだ青春−全学連闘士のその後」を放送し、安保闘争時の全学連委員長唐牛健太郎について、彼が田中清玄(戦前の武装共産党時代の委員長であったが、獄中で転向し、その後行動右翼と活躍していた人物)から闘争資金の援助を受けていたこと、安保後には田中の経営する土建会社に勤めていることなどを暴露した。 これに日共が飛びつき、「トロツキストの正体は右翼の手先」だと、大量に録音テープを配布し、機関紙「アカハタ」で連日この問題を取り上げた。れんだいこなら、宮顕その人の胡散臭さを問い、是非を争うが、旧第1次ブントの面々は日共批判に太刀打ちできず、唐牛を庇う事ができなかった。これにつき「戦後学生運動補足、余話寸評」で採り上げる。詳論「唐牛問題(「歪んだ青春−全学連闘士のその後)考」で概述する。 |
【革共同全国委が中核派と革マル派に分裂】 |
2.20日、前年62.9月の「革共同全国委三全総」時点でのbP指導者・黒寛とbQ指導者・本多間に「四派連合問題」を導火線とする論争、抗争が激化し、中核派と革マル派に分裂することになった。これを「革共同の第三次分裂」と云う。日本トロツキズム運動史上は、第四次分裂となる。これにつき、詳論「革共同の第三次分裂考」に記す。 この抗争は次のように決着することになる。革共同全国委の政治局内部では本多派が多数を占め、「探求派」グループの木下尊悟(野島三郎)、白井朗(山村克)、飯島善太郎(広田 広)、小野田猛史(北川 登)、第1次ブントの田川和夫、陶山健一(岸本健一)、清水丈夫(岡田新)らが連動した。黒寛派についたのは現在JR東労組で活動している倉川篤(松崎明)、森茂らの少数であった。黒寛派は、革共同全国委から出て新たに革共同・革命的マルクス主義派(革マル派)を結成することになった。これが革マル派の誕生である。 |
【革マル派全学連の誕生】 |
マル学同の上部指導組織の革共同全国委で路線対立が起きたことによりマル学同内部にも対立が波及していくことになった。マル学同では逆の現象が起き、革共同全国委では少数派だった黒寛派はマル学同では多数派となった。これにより、本多派の方がマル学同全学連から追われ、マル学同中核派を結成することになった。 4.1−2日、マル学同全学連第34回中執委が開かれ、統一行動を唱える6名の中執を罷免するという分裂劇が演じられた。統一行動を「野合」に過ぎぬと非難した根本派(→革マル派)と、それに反発して「セクト主義」だと非難を投げ返した小野田派(→中核派)に完全に分裂することになった。乱闘の末、革マル派は中核派6名の中執罷免を決定した。これによりマル学同全学連は革マル派と中核派に分裂することとなり、革マル派が正統全学連の旗を独占し続け、早稲田大学を拠点に革マル派全学連として存在を誇示し続けていくことになる。革マル派)は機関紙「解放」を創刊する。この時期中核派は全学連学生運動内に「浮いた状態」になった。 7.5−8日、全学連20回大会(委員長・根本仁)で革マル派が主導権確立、根本仁(北海道学芸大)を委員長に選出した。革マル派は中核派130名の入場を実力阻止し、6中執の罷免を承認した。中核派は全学連主流派総決起大会を開催(1・2日目=自治労会館、3日目=法政大〕し、革マル派単独大会を分裂行動と非難する。 |
【中核派対革マル派の分裂考】 |
中核派と革マル派の対立の背景には次のような観点の相違が介在していた。「革共同の中にも実践派と書斎−評論派との対立があり、それが後の中核派と革マル派との対立になっていったとのこと」(戦後史の証言ブント.古賀)である。大衆運動の進め方にも大きな観点の相違が存在していた。中核派は、大量に移入してきたブントの影響に拠ったものか元々のトップリーダー本多氏の気質としてあったものか分からないが、他党派と共闘する中で競合的に指導性を獲得していこうとして運動の盛り揚げの相乗効果を重視しようとしていた。議会闘争にも取り組む姿勢を見せる。黒寛の主体性論に基づく「他党派解体路線」は大衆蔑視のプチブル的主体性であり、「セクト主義、理論フェチ、日和見主義」であると批判した。 これに対し、革マル派は、中核派は黒寛理論の生命線とも云うべき主体性論を欠いた「大衆追随主義、過激主義」であると云う。例えば、この時期マル学同は他党派の集会に押し掛け攪乱する等の行動が見られたが、これは他党派は理論的に克服されるべき批判の対象であり、常に自派の質量的発展こそが正道であるとする「黒寛理論」的観点からなされているものであった。革マル派にとっては、この「他党派解体路線」は理論の原則性として革命的主体理論と不即不離の関係にあり、曲げてはならない運動上の絶対基準原則であり、共闘による「水膨れ」は邪道でしかないと云う。 運動論のこうした相違は当然組織論についても食い違いを見せることになる。情勢分析についても観点の相違が存在していた。中核派は革マル派に対して、「危機でないと論証力説して帝国主義と戦わない日和見主義」と云い、革マル派は、中核派に対して、「主観的、信念に基づく万年危機感の煽り立て」と云う。 もう一つの対立視点についても述べておく。両派とも綱領路線として「反帝・反スタ主義」を掲げるが、両派とも「反帝・反スタ」の比重について同時的に達成されねばならないとはするものの、幾分か中核派は帝国主義主要打撃論=反帝論より重視に近く、革マル派はスターリニスト主要打撃論=反スタより重視に近いという立場の違いがあったようである。この両派の対立の背景に、民青同系平民学連の進出に対する対応の仕方の違いも関係していたとの見方もある。中核派の小野田らは、これに対処するには三派との協調が必要と主張し、革マル派の根本らは、如何なる理由付けにせよ他党派との理論闘争を疎かにするような妥協を排し、断固思想闘争を展開することの必要性を強調した。 これについて筆者は思う。これらの主張は、どちらが正しいとかを決定することが不能な気質の違いのようなものではないかと思える。先のカオス・ロゴス識別に従えば、中核派はカオス派の立場に立っており、その意味では大量移入したブントの影響がもたらしたものとも考えられる。 つまり、ブントが革共同全国委から本多派を引き連れて先祖帰りしたとみなすことが出来るかもしれない。実際に、中核派の以降の動きを見れば旧ブント的行動と理論を展開していくことになる。こうなると党の建設方針から労働運動戦術から何から何まで対立していくことになるのも不思議ではない。してみれば、革マル派の方が革共同の正統の流れを引き継いでおり、この間のブントの移入と中核派としての分離の過程は肌触りの違う者が結局出ていったということになるようである。 |
【民青同系が平民学連を結成】 | ||||||||
7.16−18日、民青同系全学連の先駆的形態として、「安保反対.平和と民主主義を守る全国学生自治会連合」(「平民学連」)が結成され、台東体育館で第1回大会が開催された。委員長に川上徹を選出した。この大会には、72大学、121自治会、230名の代議員が参加し、傍聴者3500名を越えた。
これについて筆者は思う。筆者は、この主張における1項の「自治会の民主的運営の徹底的保障」を支持する。但し、この項目が4項の「分裂主義者の正体を素速く見抜き、これを追放する闘いが必要」と結びつけられることに同意しない。この主張はセクト的な立場の表明であり、この文章が接続されることにより「自治会の民主的運営の保障」はマヌーバーに転化せしめられており、これも叉裏からのセクト的対応でしかないと窺う。してみれば、「組織の民主的運営と執行部権限理論」の解明は今なお重大な課題として突きつけられていると思われる。この部分の解明がなしえたら左派運動は一気に華開いてい くことができるかもしれないとも思う。 |
【清水谷乱闘事件】 |
9.13日、清水谷乱闘事件が発生している。清水谷公園で、連合4派(中核派・社学同・社青同解放派・構造改革派)が全都総決起集会で250名を結集しているところへ、革マル派150名が押しかけ演壇占拠、角材で渡り合う乱闘事態となった。のち両派相前後して日比谷公園までデモ。革マル派の他党派への暴力的殴りこみはこれを嚆矢とするのではなかろうか。 |
【志賀派が「民学同」結成】 |
9.13(15)日、日共内の志賀派の飛び出しを受け、大阪大中心の活動家が民青同系から離脱し、民主主義学生同盟(「民学同」)を結成した。「民学同」は、翌1964.7月、志賀系「日本の声」派と合流する。同派はその後、共産主義労働者系と「日本の声」派とに分岐し、10月、フロントと共に全国自治会共闘を結成し、構造改革派系新左翼連合戦線を形成する。 |
【プロ通派の林派が全国社会科学研究会結成】 |
12月、「プロ通派」から林紘一らが分れて「共産主義の旗派」を結成していたが、日本共産労働党―共産主義者同盟を経て全国社会科学研究会が結成された。同会は、1972.7月、「真の前衛党づくりを目ざす」として「マル労同」(マルクス主義労働者同盟となり、その後社労党へと至る。 |