別章 | 【戦後学生運動補足、余話寸評】 |
(れんだいこのショートメッセージ) |
筆者が学生運動論を書くに当たって、どうしても云いたい事は序文で述べた。ここでは、その補講として、納め切れなかった「論評」、「余話」を書き記すことにする。いずれも重要な補足であると自負している。 |
【マルクス主義受容の精神風土考】 |
ここで原理的な問いかけをしておこうと思う。この時期の学生にとってマルクス主義受容の精神風土的根拠についての考察である。筆者の捉え方が一般化できるのかどうか分からないが、あまり変わりないものとして推定する。 当時の学生をも取り囲む社会は、敗戦の混乱から復興へ向けての産業資本の発展過程にあり、同時に冷戦下での米ソ二大陣営の覇権競争期に直面しており、国内外にわたって第二次世界大戦後の新秩序創造へ向けてのイニシアチブ闘争に突入していた。見落とされがちであるがネオ・シオニズムの世界制覇構想が着々と敷設されていた。 この時代、社会の諸事象に内在する矛盾に目覚めた者は、過半の者が必然的とも言える行程でマルクス主義の洗礼へと向かっていった。それが時代のニューマであった。マルクスの諸著作は、必然的な歴史的発展の行程として資本制社会から社会主義へ、社会主義から共産主義の社会の到来を予見していた。社会主義社会とは、「能力に応じて働き、労働に応じて受け取る」社会であり、共産主義社会とは、「能力に応じて働き、必要に応じて受け取る」社会であった。この社会に至ることによってはじめて社会の基本矛盾が出藍(止揚、揚棄)されていくことになる。当時の革命家はかく了解していた。もっとも、この革命事業の手法をめぐって見解と運動論の違いが存在した。 なお、この道中には過渡期が存在する。しかし、資本主義の墓掘り人としてのプロレタリアートの階級的利益の立場に立って、プロレタリアート独裁権力を通じてその歴史的任務をより合法則的に作動させていくならば、いわばより効率的な社会に向かうことができ、その知性と強権の発動のさせ方に前衛党の任務と責務がある。気がつけば国家が死滅しており、人々の助け合いのユートピア社会が実現している。その行程の一助になる革命事業のためならば私的一身の利害は捨てても惜しくはない。当時の革命家はかく了解していた。 こうして、「マルクス共産主義は、それまでの社会科学の集大成によって創られた無縫の天衣である。人間を包み込んで尚あまりあるもの。人間のどんな要求も呑み込み消化し社会の創造維持発展の養分にしてしまえる仕組み、と思っていた。沸き上がってくる望みや理想は全てそ こから引き出せる」(「戦後史の証言ブント」榊原勝昭)とでも言える認識で即興の左翼活動家が生み出されていったのではなかろうか。 筆者の場合、あれから30年近くの歳月を経て、このような階級闘争史観で万事を無理矢理解くには不都合な事象にも出くわしてきており、そのようなものの見方に対しては二歩三歩遠景から眺めるようになっている。「これはもう感情的な問題や。政策とか路線の問題じゃない。感情論の問題というのは修復し難いんですよ、歴史を見ても。どないもならへん」(「戦後史の証言ブント」星宮)という何事も一筋縄ではいかないとする物言いには根拠があると思うようになっている。 とはいえ、他方で今日的な社会現象としての人と人とのスクラムのない閉塞状況からすれば、ますます当時の青年学生がつかもうとして挑んだ行為が美しくさえ見えてきてもいる。そういう者たちの青春群像による運動的事実が戦後史に存在したことは史実である。 以下、補足しておく。この時期の学生運動指導部は自然と共産党党員活動家が担っていくことになった。この当時の日本共産党が、他のどの政党にも増して青年運動の重要性を認識していたということでもあろう。受け止める側の方も、戦前来の不屈の抵抗運動を繰り広げた実績を崇敬し、最も信が置け頼り甲斐の有る「革命の唯一の前衛」という象徴的権威で認めていた。 ちなみに、共産党の青年運動の指導にもレーニンとスターリンには大きな違いがあった。レーニンは、青年を「未来の主人公」と位置づけ、青年運動に自由、自主、自発性を与え重んじていた。レーニンは、「青年インターナショナルについての覚書」の中で次のように述べている。「青年は何か新しいものだから『先輩とは違った道を通り、違った形で、違った条件のもとで』社会主義に近づくということを忘れてはならない」。ところが、その後を受け継いだスターリンとなるとガラリと変わる。スターリンは青年運動に指針を与えたが、「党の統制に服す青年運動」を重視した。この当時、レーニン、スターリンは社会主義革命の偉大な指導者として聖像視されていたが、その両者に於いて指導方法がかくも異なっていたということを知らねばならない。 これについて筆者は思う。今日では、そのレーニン的指導の胡散臭さも暴露されつつある。そればかりかロシア10月革命の偉業が、ロスチャイルド派国際金融資本帝国主義の支援によるロマノフ王朝解体事業の一環でしかなかったという実態が明らかにされつつあり、ロシア10月革命を手放しで礼賛し学ぶ時代は終わったということになる。付言しておけば、そういう目線で見れば、マルクス主義そのもののネオシオニズムとの通底、両者の相似と差異についても再検証せねばならないことになる。但し、この当時に於いてはそういう裏舞台が見えておらず、純粋無垢にマルクス主義とロシア10月革命史が崇敬されていたという事情がある。この息吹を踏まえなければ、この時代の青年学生運動の熱情が捉えられない。 問題は、日本左派運動がレーニズムよりもなお統制的なスターリニズムの方を継承したことにある。この当時、トロツキズムは視野にさえ入らなかった。日本左派運動は、レーニズムとスターリニズムの識別さえできぬままスターリニズムを継承し、これを伝統とさせていくことになった。それを社会主義的正義と勘違いしたまま受け入れて行くことになった。その結果、「似ても似つかぬ左派運動」に辿り着くと云う負の影響を及ぼしていくことになったことにある。この汚染が今も続いていると心得るべきであろう。 |
【日本型トロツキズム考、不破式科学的社会主義考】 |
戦後学生運動の一コマとして、トロツキズム運動の誕生がある。戦後学生運動の昂揚と挫折、それを指導した日共内の政変(徳球系から宮顕系への宮廷革命)、ソ共内でのスターリン批判、フルシチョフ式平和共存路線、1956.6月のポーランド・ボズナンの暴動、同じ10月のハンガリー・ブタペストの蜂起、それに対する国際共産主義運動側の弾圧等々の経過が、戦闘的左翼に深い幻滅を与えていった。こうした事情を背景として1957年頃から様々な反日共系左翼が誕生することとなった。 これを一応新左翼と称することにする。新左翼が目指したのはほぼ共通して、ス ターリン主義によって汚染される以前の国際共産主義運動への回帰であり、必然的にスターリンと対立し放逐されたトロツキーの再評価へと向かうことになった。この間のスターリ二ズム体制下の国際共産主義運動においてはトロツキズムは鬼門筋として封印されていた。つまり、一種禁断の木の実とされていた。そのトロツキー理論を受容しスターリニズム批判の観点を獲得していくことが時宜に適(かな)うテーマになり、こうしてトロツキズムの諸潮流が生まれることになる。 スターリン政治の全的否定が相応しいのかどうか別にして、スターリンならではの影響として考えられることに、党内外の強権的支配と国際共産主義運動の「ソ連邦を共産主義を祖国とする防衛運動」へのねじ曲げが認められる。戦後の左翼運動のこの当時に於いて、スターリン主義のこの部分がにわかにクローズアップし批判されてくることになった。 逆に、スターリン流「祖国防衛運動」に対置されるトロツキーの「永久革命論」 (パーマネント・レボリューション)が脚光を浴び、席巻していくこととなった。今日から見てこの流れが正しいかどうかは別として、この経緯には史的必然性があったと看做すべきだろう。 こうして、日本に於いてもトロツキズムが受容されることになった。この時の日本トロツキズム運動の根底にあったものを、「日本における革命的学生の政治的ラジカリズムと、プチブル的観念主義が極限化して発現したもの」とみなす見方があるが、そういう見方の是非は別として、この潮流も始発は戦後の共産党運動から始まっており、党的運動の限界と疑問からいち早く発生しているということが踏まえられねばならないであろう。つまり、共産党側の内省無しの日本トロツキズム批判は為にするものでしかないということになる。 宮顕理論に拠れば、一貫してトロツキズムをして異星人の如くいかがわしさで吹聴しつつ党内教育を徹底し、トロツキストを「政府自民党の泳がせ政策」の手に乗る「反党」(ここは当たっている−筆者注)、「反共」(ここが詐術である−筆者注)主義者の如く罵倒していくことになるが、筆者にはそうした感性が共有できない。前述した「党的運動の限界と疑問からの発生」という視点で見つめる必要があろう。 ところで、今日の時点では漸く日共も含め左翼人の常識として「スターリン批判」に同意するようになっているが不十分なように見受けられる。なぜなら、「スターリン批判」は「トロツキー評価」と表裏の関係にあることを思えば、「トロツキー評価」に向かわない「スターリン批判」は、俗に言う片手落ちだろう。 もっとも、日共の場合、不破の専売であるが、その替わりに「科学的社会主義」なる造語で乗り切りしようとしている。「科学的社会主義」なる言い回しの中で一応の「トロツキー評価」も組み込んでいるつもりかもしれない。が、あれほどトロツキズムを批判し続けてきた史実を持つ公党としての責任の取り方としてはオカシイのではなかろうか。スターリンとトロツキーに関して、それこそお得意の「自主独立的自前」の史的総括をしておくべしというのが筋なのではなかろうか。自主独立精神の真価はこういう面においてこそ率先して発揮されるべきではないのか、と思われるが如何であろうか。不破式「科学的社会主義論」は姑息である。そう、いつも不破は姑息である。 ちなみに、筆者は、我々の運動において一番肝心な、スターリンとトロツキーとレーニンの大きな相違について次のように考えている。理論的相違は置いておくとして、組織論に於けるこの二人の相違は、党運動の中での見解とか指針の相違を最大限「統制しようとするのか」対「認めようとするのか」をめぐっての気質のような違いとしての好例ではないかと。レーニンはややスターリン的に具体的な状況に応じてその両方を使い分ける「人治主義」的傾向を持っていたのではなかったのか。そういう手法はレーニンには可能であったがスターリンには凶暴な如意棒に転化しやすい危険な主義であった。晩年のレーニンはこれに臍を噛みつつ既になす術を持たなかったのではなかったか。 スターリン手法とトロツキー手法の差は、どちらが正しいとかをめぐっての「絶対性真理」論議とは関係ないことのように思われる。運動論における気質の差ではなかろうか。「真理」の押しつけは、統制好きな気質を持つスターリン手法の専売であって、統制嫌いな気質を持つトロツキー手法にあっては煙たいものである。運動目的とその流れで一致しているのなら「いろいろやってみなはれ」と思う訳だから。但し、トロツキー手法の場合「いざ鎌倉」の際の組織論、運動論を補完しておく必要があるとは思われるが。実際のトロツキー手法は別かもしれないが、一応このように理解しておくことにする。 ついでにここで言っておくと、今日の風潮として、自己の主張の正しさを「強く主張する」のがスターリン主義であり、ソフトに主張するのが「科学的社会主義」者の態度のような踏まえ方から、強く意見を主張する者に対して安易にスターリニスト呼ばわりする傾向があるように見受けられる。これはオカシイ。 強くとかソフトとかはスターリン主義とは何の関係もない。主張における強弱の付け方はその人の気質のようなものであり、どちらであろうとも、要は交叉する意見、見解の相違をギリギリの摺り合わせまで公平に行うのか、はしょって権力的に又は暴力的な解決の手法で押さえつけつつ反対派を閉め出していくのかどうかが、スターリニストかどうかの分岐点ではなかろうか。スターリニズムとトロツキズムの原理的な面での相違はそのようなところにあると考えている。こう考えると、宮顕イズムは典型的なスターリニズムであり、不破のソフトスマイルは現象をアレンジしただけのスターリニズムであり、同時に日本トロツキズムの排他性も随分いい加減なトロツキズムであるように思われる。 ところで、こうしてスターリニズムの対極としてトロツキズムが模索されていったが、今日に於いてはネオシオニズムのプリズムに照らせば、レーにズムもスターリニズムもトロツキズムも、現代世界を牛耳るロスチャイルド派国際金融資本の走狗としての役割を担っていたことが判明しつつある。つまり、どちらも手放しで礼賛できないということになる。と云うことは、この当時に於いてはスターリニズムの幻滅によりトロツキズムへ傾斜していったと云う時代のニューマを淡々と確認すれば良いということになろう。 |
【トロツキズム天敵考】 |
こうして、日本左派運動内にトロツキズムの諸潮流が登場することになったが、この流れの由来をあたかも異星人・異邦人の到来であるかにみなす傾向が今日もなお日本共産党及びその感化を受けた勢力の中に認められる傾向について、どう思うべきかということに関してコメントしておこうと思う。 今筆者は、川上徹編集「学生運動」を読み始めている。気づくことは、前半の語りで該当個所に関してマルクス・レー ニンの著作からの適切な指示を引用しながら、結論部に至って「トロツキスト・ 修正主義者を一掃しなければならない」という締めの文句を常用としていることである。他方、右翼、ノンポリ、宗教運動家、改良主義者に対しては統一戦線理論で猫なで声で遇することになる。この現象は、一体何なんだろう。そん なにトロツキズムを天敵にせねばならない思考習慣がいつ頃から染みついたのだろう。 以下の考察で明らかにしようと思うが、トロツキズムもまた世界共産主義運動史の中から内在的に生み出されてきたものである。マルクス主義の弁証法は、社会にせよ運動の内部からにせよ内在的に生み出されている事象については格別重視するという思考法を生命力としている、と筆者は捉えている。トロツキズムをあたかも戦前調のアカ感覚で捉え誹謗している現在の日共運動の反動的感覚をこそ問題にしたい。 運動の中から生まれた反対派に対して、 日共党指導部が今なお吹聴しているような原理的敵視観のレベルで、マルクス、レーニンがそのように言っているという文章があるのならそれを見せて欲しい、と思う。例によって宮顕に戻るが、この論調は宮顕が最も得意とする思考パターンであり、戦前は党内スパイ摘発に対して使われた経過がある。いわゆる「排除の強権論理」であるが、この外在的思考習慣から我々は何時になったら脱却できるのだろうか。 以下、補足しておく。トロツキーを最簡略に紹介すれば次のように云える。「トロツキーはレーニンと並ぶロシア10月革命の立役者であり、10月革命政権の中枢で活躍する。レーニン没後スターリンとの政争で破れ、亡命先のメキシコでスターリンの刺客に暗殺された革命家である。勝てば官軍負ければ賊軍規定で、トロツキーはその後反革命の烙印を押され、反革命分子と規定された者はトロツキスト呼ばわりされることで汚名宣告されるという不名誉を蒙っていた」。 ところで、スターリンとトロツキーの評価に関係するレーニンの遺書は次のように記されている。この遺書は、クループスカヤ夫人が1924.5月の第13回ソ連共産党大会の際に中央委員会書記局に提出した文書である。概要「同志スターリンは、書記長として恐るべき権力をその手中に集めているが、予は、彼がその権力を必要な慎重さで使うことを知っているかどうか疑う。一方、同志トロツキーはずばぬけて賢い。彼は確かに中央委員中で最も賢い男だ。さらに彼は、自己の価値を知っており、また国家経済の行政的方面に関して完全に理解している。委員会におけるこの二人の重要な指導者の紛争は、突然に不測の分裂を来すかも知れない」(1922.12.25)。 「スターリンは、あまりに粗暴である。この欠点は、我々共産党員の間では、全く差し支えないものであるが、書記長の任務を果たす上では、許容しがたい欠陥である。それゆえ、私は、スターリンを、この地位から除いて、もっと忍耐強く、もっと忠実な、もっと洗練され、同志に対してもっと親切で、むら気の少ない、彼よりもより優れた他の人物を、書記長の地位に充てることを提案する。これは些細なことのように思われるかも知れないが、分裂を防止する見地からいって、かつ、既に述べているスターリンとトロツキーの関係からいって些細なことではない。将来、決定的意義を持つことになるかもしれない」(1923.1.4)。 不幸にしてレーニンのこの心配は的中することとなった。レーニンの死後、この二人の対立が激化した結果、トロツキー派が敗北しスターリン派が権力を握ることとなった。こうしてその後の国際共産主義運動は、スターリンの指導により担われていくことになった。この当時、スターリン流「祖国防衛運動」に対置されるトロツキーの「永久革命論」(パーマネント・レボリューション)が脚光を浴び、席巻していくこととなった。こうして、日共批判の潮流がこぞってトロツキズムの開封へと向かうことになった。 |
【国会突入考】 |
60年安保闘争時、全学連主流派は、「国会へ国会へ」と向けて闘争を組織していくことになる。実際に今日では想像できない規模の「労・学」数十万人による国会包囲デモが連日行われ、全学連はその先鋒隊で国会突入を再度にわたって貫徹している。 筆者は、「時代の雰囲気」がそう指針させたのだと了解している。が、果たして「国会突入」にどれほどの戦略的意味があるのだろうかという点につき考察に値する。というよりも、一体「国会」というのは何なんだろうと考えてみたい。恐らく、「国会突入」は「左」からの「国会の物神化」闘争であったものと思われる。後の全共闘的論理から言えば、「国会の解体」へと向かおうとした闘争であったということになるが、こういう運動は何となく空しい。 私論によれば、 「国会」は各種法案の審議をするところであり、なぜその充実化(実質審議、少数政党の見解表明時間の拡充、議員能力の向上等々)のために闘わないのだろう。「国会」がブルジョアのそれであろうが、プロレタリアのそれであろうが、審議の充実化こそが生命なのではなかろうか。「国会」を昔からの「村方三役の寄合談義の延長の場」と考えれば、その民衆的利益の実質化をこそ目指すべきで、寄合談義がいらないと考えるのはオカシイのではなかろうか。審議拒否とか牛歩戦術とかの伝統的な社会党戦術は見せかけだけのマイナーな闘い方であり、闘うポーズの演出でしかないと思う。こうした裏取引方のええ格好しい運動を厳しく指弾していくことも必要であったのではなかろうか。 このことは、党運動の議員の頭数だけを増やそうとする議会主義に対しても批判が向けられることを意味する。これもまた右からの「国会の物神化」運動なのではなかろうか。一体、不破を始めいろんな論客が国会答弁の場に立ったが、その貴重な時間において他を圧倒せしめる名演説を暫く聞いたことがない。最近の党首会談での原子力論議なぞは、それが如何に重要な問題であろうとも、今言わねばならぬことは、呻吟する労働者階級の怨嗟の声を叩きつけることではなかったのかと思われる。あるいはまた中小・零細企業の壊滅的事態の進行に対する無策を非難すべきではなかったのか。良く「道理」を説いてくれるので、いっそのこと 「日本道理党」とでも名称をつけて奮闘されるので有れば何も言うことはないが。 |
【「唐牛問題」考】 | |||
ここで、「唐牛問題」を取り上げる理由は、この件に関して、第一次ブント側が当時も今も、宮顕-不破系の論理に太刀打ちできていない事情を切開してみたい為である。それは唐牛氏の冤罪を晴らす為でもあるし、田中清玄氏への偏見を晴らす為でもあるし、総じてこの問題に表れる宮顕系日共論理を内部から排撃しない限り日本の左派運動が隆盛を見ないと思うが故にである。 新左翼側が日共運動を批判しつつもなぜそれに代わる自前の運動を創出できないのか。その原因として、「唐牛問題」に典型的に見られるように宮顕論理を真に克服し得ていないという理論面での貧困が横たわっているが故ではなかろうか。史実は、新左翼側が理論で克服するのではなく、日共に対してぶつけるようにして怨情的な批判運動を展開させていくことになった。党派運動におけるこうした理論面でのひ弱さとその反動としての怨情化運動は利益にならないのではなかろうか。このままいくら待てど暮らせど、筆者以外にこの問題を取り組む人士が出そうにないので、ここで敢えて考察してみたい。 「唐牛問題」は、以下の三面で採り上げるに値する。その第一の資金カンパについて、島氏は次のように述べている。
唐牛自身次のように述べている。
つまり、田中清玄のカンパは事実と認めたうえで、金に忙しい当時にあっては止むを得なかったと弁明していることになる。筆者は、なぜ堂々と「ヒモの付かない金なら誰からでも貰う」と居直らなかったのかと思う。ここに拘る理由は、日本左派運動の衛生的なまでの潔癖病癖を疑惑したいためである。
こう反論すべきところ、宮顕を「戦前唯一無比の非転向最高指導者」と勝手に懸想して聖像視する理論レベルでしかなかったから、切り返せなかった。理論の貧困が実践の貧困に繋がる格好例であろう。 |
【暴力路線考】 |
ここで、学生運動内における暴力の発生とそうしたゲバルト路線の定式化に関する是非について考察してみたい。既に「全学連第11回大会」に於いて全学連主流派による反主流派(党中央派)の高野グループ派の暴力的な追いだしが発生しているが、これより後左翼運動内にこの暴力主義的傾向が次第にエスカレートして
いくことになる。 最初は、反代々木派による代々木派への暴力であったが、この勢いは追って反代々木派諸派内にも無制限に進行していくこ とになる。恐らく「暴力革命論」上の社会機構の改変的暴力性を、左翼運動内の理論闘争の決着の着け方の手法にまで安易に横滑りさせていったのではないかと思われるが、如何なものであろうか。 「オウム」にはポア理論という結構なものがあるが、良し悪しは別にして、それに類似した理論を創造しないまま暴力を無規制に持ち込むのはマルクス主義的知性の頽廃なのではなかろうか。あるいはまた警官隊→機動隊との衝突を通じて暴力意識を醸成していった結果、暴力性の一人歩きを許してしまったのかもしれない。筆者はオカシイと思うし、ここを解決しない限り左翼運動の再生はありえないとも思う。 「党内反対派の処遇基準と非暴力的解決基準の確立」に対する左翼の能力が問われているように思う。 「意見・見解の相違→分派→分党」が当たり前なら星の数ほど党派が生まれざるをえず、暴力で解決するのなら国家権力こそが最大党派ということになる。その国家権力でさえ、「一応」議会・法律という手続きに基づいて意思を貫徹せざるをえないというタガがはめられていることを前提として機能しているのが近代法治主義の原則であることを思えば、左翼陣営内の暴力性は左翼が近代以前の世界の中で蠢いているということになりはしないか。暴力性の最大党派国家権力が暴力性を恣意的に行使せず、その恩恵の枠内で弱小党派が恣意的に暴力を行使しうるとすれば、それは「掌中」のことであり、どこか怪しい 「甘え」の臭いがする、と思っている。 ついでにもう一つ触れておくと、この時期全学連は当然のごとくに立ちはだかる眼前の敵警官隊→機動隊にぶつかっていくことになるが、彼らこそその多 くは高卒の青年であり労働者階級もしくは農民層の子弟であった。大学生の エリートがその壁を敵視して彼らに挑まねばならなかった不条理にこそ思い至るべきではなかろうか。街頭ゲバルト主義化には時の勢いというものもあるのであろうが、ここで酔うことは許されない限定性のものであるべきだとも思う。 頭脳戦において左翼は体制側のそれにうまくあやされているのではなかろう か。この観点は、戦前の党運動に対する特高側の狡知に党が頭脳戦においても敗北していたという見方とも通じている。それはそれとしてそれにしても、60年安保闘争時に見せたブントの闘いは日本大衆闘争史上例のない成功裡なものとして評価せねばならないだろう。 |
【れんだいこの民青同加盟考】 |
ここで、筆者の民青同加盟を考察しておく。筆者は、1970年、偶然にも70年安保闘争の年に入学した。当初、高校時代の延長で剣道部に入部した。ところが、キャンパスでは連日マイクが70年安保闘争をがなりたてていた。入学して1ヵ月後の5月頃から何事かせねばと思い、剣道部を退部して自治会に向かった。以来、連続して諸闘争に参加するようになっていた或る時の、確か日比谷公園での座り込みの際にオルグられた。それまで誘われなかったのは多分異色であり臭いが違っていたのだろう。某先輩から誘われた時、凝縮した30秒の去来の内に了承した。以来、自治会活動家として、自分で言うのもなんだが8年在学しても良いと思うほどのめり込んだ。 そのことはさておき、筆者は、よりによってなぜ民青同に加盟したのだろうか。今でも時々考える。既に革マル派の某氏から執拗に誘われており、何度か逃げ、最終的にあきらめさせた経緯がある。筆者の理論水準はさほどのものもなく、オルグられたら落とされていたかも知れない。何となく人物的な感性が受け付けず、あわてることはないと構えていたのが幸いしたと思っている。 それはともかく、筆者は、なぜ民青同に加盟したのか。今思うに、既に骨抜きにされつつあったとはいえ、戦後民主主義の質を好評価しており、民青同の「民主主義を護れ」を琴線的に受け入れたのではなかろうか。既に、党派間ゲバルトが目立ち始めており、何やら本来の軌道から外れているように思っていたから、無難な選択をしたのだとも思う。 その点で、川口大三郎氏の悲劇は他人事ではなかった。既に学生運動各派の怨念は、シンパ段階の者にまで容赦ない鉄槌を浴びせ始めていた。川口氏が正義感の赴くまま「見てやろう聞いてやろう」で各派の集会へ顔出しし、そこで得た見解を吹聴することが許される状況にはなかった。そういう意味では、筆者の避難所的民青同加盟選択は幸いであった。 しかしながら、闘争の進め方、アジり方、組織戦術を廻ってしっくりせず、「お前は深まっていない。『日本革命の展望』を読め」と云われ続けるのに閉口して、1年有余の活動を経てサークル活動へ転じた。もろに(実名は避けるが例えば)「社会科学研究会」と銘打っているのが気に入り、読書三昧に耽る時間が与えられることになった。今にして思えば、これも幸いであった。 それにしても、宮顕の「日本革命の展望」を読んで深まっていると自惚れていた連中の頭脳はどうなっているのだろう。あれほどくだらない詭弁とマルチ舌詐術で塗り固められた駄作を褒めていた連中に今も憤然とした思いを禁じ得ない。というか、怒るほどのことでもないのでからかってやるべきか。 それはともかく、ここで云いたいことは、人は理論により靡くのではなく身近な人間関係により縁を結ぶという法理を確認したい為である。それと、好んで暴力的に向かうのは愚かであり、極力は学びと議論とその練りあいを重視すべきであり、それから行動が始まるのだという法理を確認したい為である。 このことをここで記す理由は、その後の学生運動の貧相化によほどこのことが関係していると思うからである。思えば、戦後から営々と積み重ねられる運動を組織しておれば、今頃はよほど違う世の中になっていたのではなかろうか。穏健派も急進派も肝心なこのことができない土壷方向に向かったように思え、残念で堪らない。 革命も事業と捉えれば、よろづに通ずるのは「裾野を広く、上部の質は高く」が理想であろう。これを逆にやると、いかな老舗も倒れるのが道理だろう。道理を唱える者がこの道理を分かっていないので、通りでこんな具合になってしまったように思う。世間とはそういうものかも知れないが。 |
【全共闘運動考】 |
ここで、全共闘運動に言及しておく。まずはこれを限定的に語りたい。全共闘運動はあくまで大学生運動であり、中卒・高卒者を含む青年労働者をも巻き込んだ広範な政治運動までには発展していかざる枠組み内の限定的エリート的な学生運動であったという階層性に注意を喚起しておきたい。この「青年左翼闘争に於けるエリート階層性」という特質は、日本共産党の結党以来宿阿の如くまといついている日本左翼運動の特徴であり、どういう訳かマルクス主義を標榜しながら労働者階級を巻き込んだ社会的闘争には一向に向かわないという傾向が見られる。 全共闘運動は、全国規模の学園闘争として60年安保闘争に勝るとも劣らない運動を展開させていくことになったが、「かの戦闘的行為」に対して庶民一般大衆が抱いた心情は、「親のすねかじりでいい気なもんだ」という嫉視の面もちで受け流されていた風があった。このこと自体は発生期の事実的特徴として必要以上には批判的に問題にされることもないかもしれないが、運動の主体側の方もまた「ある種のエリート意識に囲い込んだまま終始させていた」ということになると問題にされねばならないように思う。この観点からすれば、 代々木系も反代々木系も同根の運動であり、これは日本の左翼運動の今に変わらぬ病弊のように思われる。つまり、「ブ・ナロード」の能力を持たない自閉的エリート系左翼運動が今日まで続いているという負の現象をまずは認めておこうと思う。 そうであるにせよ、この当時このような学生左翼青年を澎湃と排出せしめた要因は何であったのだろうか。当時の国際的なスチューデントパワーの流れ、国内外の社会情勢、社会主義イデオロギーが幅を利かせていた限りでの象牙の塔内の動き等々にも原因を求めることもできようが、筆者は少し観点を異にしている。 恐らく、戦前然り、戦後はいやましに自由を得た日本共産党の党的運動が急速に社会の隅々まで影響を及ぼしていった先行する事実の余波があり、当時の党運動の指導者徳球書記長時代の穏和路線から急進主義をも包摂した野放図な運動の成果が底バネになって、はるか20年後のこの頃の青年運動に結実していったのではないのか、という面も考察されるに値するのではなかろうか。 徳球時代には、戦前−戦後を通じて我が身の苦労を厭わず社会的弱者の利益を擁護して闘った共産党員の「正」の遺産が継承されており、この遺産がとりわけ青年運動に対して大きな影響を与え続けていたのではないのか、という評価をする必要があるのではなかろうか。ということは、徳球執行部の運動の成果を、宮顕式「50年問題について」的に没理論性(これは事実ではない!)の面や家父長的な指導による非機関主義的な党運営手法等の否定的面をのみ総括して済ますやり方は酷であり、そういう総括の仕方は非同志的な似非左派宮顕式ならではの処理法ではないのかと気づくべきであろう。 何にせよ如何にして時の青年を取り込むのかは非常に大事なキーワードであり、この点においてむしろ徳球時代の党運動は成功していたのではなかろうか、と思う。徳球書記長の没し方を見ても分かるように彼の深紅の闘志は本物であったのであり、その懐刀伊藤律を始め徳球の周りに結集していた数々の人士の場合も然りである。徳球時代は、戦後直後のわずか6年有余の実績の中でさえ、確実に明日の党建設につなげる種子を蒔いていたのではなかろうか。 ということは、今日の党運動における青年運動の肌寒さが逆に照射されねばならないことを意味する。宮顕式党路線の真の犯罪性は、彼らが執行部に納まって以来50年にもならんとするのに、青年運動を全く逼塞させてしまったことに顕著に現れているように思われる。彼らは口先ではいろいろ云うが、今日の低迷状況に関して何ら痛痒を感じていない。そのオタク性こそ凝視されるべきであると考える。 その長期にわたるいびつな党指導の結果、今日においては共産党の「正」の遺産は既に食いつぶされてしまったのではないのか。今日の党員像は、かっての周囲の者に支持されつつリー ダー的能力を発揮していた時期から大きく脱輪しており、体制内「道理」化理屈による非マルクス主義的「ご都合科学主義的社会主義」運動方向へ足を引っ張るややこしい行動で、周囲から「只の人」もしくは「ひんしゅく者」扱いされるそれへと移行してしまっているのではないのか。 果たして、青年運動を牢とした枠組みで括って恥じない宮顕−不破執行部は日本共産党の党運動の正統な継承者なのだろうか、疑問を強く呈してみたい。ちなみに、筆者は、宮顕「個人」にとやかく言っているつもりはな い。憎悪すべくもない見知らぬ人でしかない。党の最高指導者としての氏の政治的立場に対して批判を加えているつもりである。弱きを助け強きをくじく精神を最も誇り高く持ち合わせて出発した日本共産党の党是の精神を尊びたいがために、そのような精神とずれたところで党の頂点に君臨し続けた氏の政治的責任を追及しているつもりである。指導者の影響力はそれほどに強く、政治的責任というものはそれほどに重いと思うから。ところで、そうした変調振りをあからさまにしている宮顕の「無謬神話」はどこから生まれているのだろうか、私には分からないオカルト現象である。 もう一つの私的な観点からの考察を添えておく。非マルクス主義的な捉え方のようにも思うが、仮説として考えている。どなたのルポであったか忘れたが、 韓国・中国・ベトナムと旅をしてみてベトナムにやって来たとき一番ホッとしたと云う。まるで故郷に先祖帰りしたような気持ちになったと云う。ルポ作家がこのように民族的同一性を文学的に表現しているのを読んだとき、筆者には思い当たったことがあった。 わが国でひときわベトナム反戦闘争が沸き起こったことには、民族的同一性からくる義憤という目には見えない根拠があったのではないのかと。最新の生物分子学におけるDNA研究の語るところに拠れば、遺伝子は過去の生物的進化情報を記憶しており、この情報は何らかの底流で「生きている」とも云う。つまり、わが国におけるベトナム反戦闘争は、その昔に血を分けた同胞がアメリカ軍によって苦しめられている様を見て先祖の血を騒がせたのではなかったのか、という仮説に辿り着く。その根拠を今現在の科学的水準で説明することは難しいが、そういうことはありうるという超常現象的考えを持っている。 更に指を滑らせれば、この血の同盟による日本−ベトナム民族こそ、16世紀以降の欧米列強による白色植民地化イズムに互して唯一といって良いほどに能 く闘い得た民族であるという歴史的事実があり、こうした認識の仕方はもっと注目されても良いとも思ったりしている。簡単に言えば、日本−ベトナム民族は、自治能力と民族的イデオロギー形成能力の高い民族で、日本の大東亜戦争、ベトナムの民族解放戦争は世界史的意義を持っているのではないかということであり、この点に関しては我々はもっと自信と関心を持てば良いのではないのか。 但し、これが「負」の面に立ち現れれば、欧米白色イズムに勝るとも劣らない隣接諸国に対する侵略者としても立ち現れることにもなる。大東亜戦争はその大義名分にも関わらずこの「負」の面の現われであり、解放後のベトナムのカンボジア・ラオス他侵略的な政策もまたそうであるように思われる。とはいえ、大和民族の優秀性とは言ってみても、第二次世界大戦における敗戦と今現在進行させられつつある国債大量発行自家中毒的経済的敗戦渦中は、その能力の二番手性をも証左しているとも思っている。アングロ・サク ソン系、その中枢に君臨しているネオ・シオニスト・ユダヤの狡猾さには遠く及ばないということである。ワンワールド化時代におけるこういう民族的自覚と認識は保持していて一向に差し支えないとも思っている。 もとへ。全共闘運動はノンセクト・ラディカルの澎湃な出現を前提とせずには成立しなかった。ノンセクト・ラディカル出現の背後に何があったのであろうか。筆者は、1967年初頭の中国の文化大革命の影響を認める。この頃、中国では文革が本格化し、紅衛兵を巻き込んで毛沢東−江青−林彪の文革派による劉少奇−ケ小平の実権派に対する一大奪権闘争の様相を見せ始めていた。 「造反有理」を訴える大字報 (壁新聞)が登場し、紅衛兵たちが毛語録をかざして連日、町に繰り出してデモを行い始めた。中国全土が内戦化し始めていた。この花粉が日本の青年学生運動に影響を与え、日本版紅衛兵とも云うべきノンセクトラディカル、新左翼活動家を生み出して行ったと見なしたい。もう一つ、この時期、ベトナム戦争が泥沼化の様相を見せ始め、本国アメリカでも良心的兵役拒否闘争、ジョーン・パエズら反戦フォーク歌手の登場、キング牧師の黒人差別撤廃、べトナム反戦闘争が活発化する。フランス、ドイツ、イギリス、イタリアの青年学生もこれに呼応し学生運動が国際化し始めた。この当時、邪悪なアメリカ帝国主義とそれに抵抗するベトナム民族人民の闘いという分かりやすい正邪の構図があった。この国際的学生運動の波が我が国にも伝播したと考えるべきではなかろうか。 この頃泥沼化していたベトナム戦争が解放戦線側有利のまま最終局面を向かえつつあった。日本は、日米安保条約の拡大解釈と運用によって兵員や武器の補給基地とされ、日本の船舶まで輸送に使われ、沖縄基地がB52爆撃機の北爆発進基地としてしばしば使われるなど、アメリカ帝国主義のベトナム侵略戦争の前線基地と化していた。日本なしにベトナム侵略は困難と云われるほど、日本はベトナム侵略の総合基地にされつつ、日本は引き続き高度経済成長を謳歌しつつあった。 日本のこの在り方に対する同意し難い感情が反戦闘争を激化させていった。要は儲かれば何をしても良いのかという不義に対する青年の怒りが生まれ、 興味深いことは、ノンセクト・ラディカルと新左翼各派の共同戦線的運動として全共闘が結成されたが、運動の初期においては この運動の主導性を行動的にも理論的にもノンセクト・ラジカルの方が握っていたことである。このパワーバランスが次第にセクトの方へ揺れていくのが全共闘運動の経過となった。 ノンセクト・ラディカルが非党派を良しとしていた背景に理論的優位性があったためか、単に臆病な気随性のものであったのかは個々の活動家によっても異なるであろうが、全共闘運動が、ノンセクト運動の可能性と限界性を突きつけた史上未経験な実験的政治的左翼運動であったとことは相違ない。 この運動の実際は、歴史の摩訶不思議なところであるが、 片や最エリート校東大と典型的なマスプロ私大校日大という両校によって担われることになった。その要因として、たまたま両校に有能な活動家が出現したということと、両校に教育政策上の権力性がより強く淀んでいたことが考えられる。それにしても、この時期党派であれノンセクトであれ、かなり広範囲に左翼意識者が雨後の竹の子の如く出現し続けた訳であり、今日的水準からすればよく闘い得た素晴らしい青年運動であったと思われる。 なぜこのように評価するかというと、あれは立派なコミニュケーションであったと思うからである。コミニュケーションの通過性こそ人間存在の本質性だと思うから。現在このコミニュケーションが矮小化させられていると思うからである。 |
【民青同のゲバルト考】 |
ここで、「民青同ゲバルト」に言及しておく。上述の一連の政治闘争を担った全共闘運動に民青同が如何に対置したか。この時の民青同の党指導による「オカシナ」役割を見て取ることは難しくはない。単に運動を競りあい的に対置したのではない。但し、筆者は個々の運動現場においてトロ系によりテロられた民青同の事実を加減しようとは思わない。実際には相当程度暴力行為が日常化していたと見ている。全共闘系の暴力癖は、諸セクトのそれも含めた指導部の規律指導と教育能力の欠如であり、運動に対する不真面目さであり、偏狭さであったし、一部分においては「反共的」でさえあったと思う。史上、運動主体側がこの辺りの規律を厳格にしえない闘争で成功した例はない。 但し、別稿で考察する予定であるが、そういうことを踏まえてもなお見過ごせない民青同による躍起とした全共闘運動つぶしがあったことも事実である。ここに宮顕が牛耳る党に指導され続けた民青同の反動的役割を見て取ることは難しくはない。単に運動の競りあい的に対置したのではない。「キツネ目の男」として知られる「突破者」の著者宮崎氏が明らかにしている「あかつき行動隊」による右翼的敵対は誇張でも何でもない。 今日、この時の闘争を指導した川上氏や宮崎氏によって、民青同が、「宮顕の直接指令!」により、日共提供資金で、全国から1万人の民青・学生を動員し、1万本の鉄パイプ、ヘルメットを用意し、いわゆる“ゲバ民”(鉄パイプ、ゲバ棒で武装したゲバルト民青)を組織し、68年から69年にかけて全国の大学で闘われた全共闘運動に対してゲバルトで対抗した史実とその論理は解明されねばならない課題として残されていると思う。 それが全共闘運動をも上回る指針、信念に支えられた行動で有ればまだしも、事実は単に全共闘運動潰しであったのではないかということを筆者は疑惑している。先の「4.17スト」においても考察したが、宮顕派による党運動は、平時においては運動の必要を説き、いざ実際に運動が昂揚し始めると運動の盛り揚げに党が指導力を発揮するのではなく、「左」から闘争の鎮静化に乗り出すという癖があり、この時の“ゲバ民”はその好例の史実として考察してみたいというのが筆者の観点となっている。 付記すれば、川上氏のその後はどうなったか。何事も無く平穏に終わった70年安保闘争後、“ゲバ民”は不要となり切り捨てられた。その顛末は理不尽な粛清劇を垣間見ることになろう。 |
【左翼サミット考】 |
締めくくりとして、「左翼サミット」に言及しておく。我々は、そろそろ左翼運動における益になる面と害になる面の識別を獲得すべきではなかろうか。「何を育み、何をしてはいけないか」という考察ということになるが、この辺りを明確にしないままに進められている現下の左翼運動は不毛ではないか、本当に革命主体になろうとする意思があるのかとも思う。例えば左翼サミットのような共同会議で史実に基づいた大討議を「民主的運営で」やって見るということなぞが有益ではなかろうか。これができないとしたら、させなくする論理者の物言いをこそ凝視する必要がある。 そもそも議会というものは、意見、見解、方針の違いを前提にして与党と野党が論戦をしていくための機関なのではなかろうか。これがなされないのなら議会は不要であろう。左翼サミットの場も同様であり、最大党派の民主的運営において少なくとも「ブルジョア国会」よりは充実した運営をなす能力が問われているのではなかろうか。理想論かも知れないが、そういうことができないままの左翼運動が万一政権を執ったとしたら、一体どういう政治になるのだろう。現下の自民党政治以下のものしか生まれないことは自明ではなかろうか。だから、本気で政権を取ろうともしていないと筆者は見ている。 どうしてこういうことを言うかというと、平たく言って、人は理論によって動く面 が半分と気質によって動く面が半分であり、どうしても同化できない部分があるのが当然であり、そのことを認めた上での関係づくり論の構築が急がれているように思われるからである。これが「大人」の考え方だと思う。マルクス主義的認識論は、このようなセンテンスにおいて再構築されねばならないと考えている。 マルクス主義誕生以降百五十余年、反対派の処遇一つが合理的に対応できないままの左翼戦線に対して、今筆者が青年なら身を投じようとは思わない。党派の囲い込みの檻の中に入るだけのように思うから。むしろ、こういうイ ンターネット通信の方が自由かつ有益なる交流ができるようにも思われたりする。却って垣根を取り外していけるかもしれない、とフト思った。 |