その1 組織論において決定的に遅れているという認識での再生

 (最新見直し2006.6.21日)

 日本左派運動にいつしか染み付いた陰気性は左派運動の本来のものではない。まずここを確認せねばならない。六全協以来、宮顕が性懲りも無く党中央を壟断することによって、真相隠蔽、お茶濁し、詭弁、歪曲、すり替え、偽造、警察的管理統制がそれこそ左派的有り方として影響を行使し始めた。事情の分からない者は、小難しく理屈をこねる技術に習熟することこそ左派的成長の指標と勘違いしてきた。

 れんだいこはここに、一切ウソだいと指弾しておく。左派運動は人と人とのより合理的協同を目指すものでり、この運動に参画する者にとって生活的に貧であれ当面富であれ、まずもって楽しいものでなければならない。類的協同性によって必ずそうなる。その逆現象が起るということは、指導者が左派運動と無縁のものだからである。かく認識せねばならない。なかなか理解されないが。

 志賀義雄氏の「日本革命運動の群像」に次のような興味深い記述があったのでこれを掲げる。
 概要「ソ連共産党第20回大会でのフルシチョフ報告の1節に『忙しい怠け者』論がある。党の事務所にいて、朝から晩まで忙しくしており、資料を作り通達を出し、全国を回って尻をひっぱたいてくる。しかし、絶対、大衆には顔を向けない、学ぼうとしない。こういう態度ではいけない。私どもは、党と大衆とを結合する正しい幹部政策を持ち、新しい幹部を養成しなければならない」。

 フルシチョフその人をどう評価するのかは別として、フルシチョフのこの指摘の正しさ、それを強調する志賀義雄氏の観点の正しさを見なければならない。ちなみにこの反対のことばかししてきたのが宮顕である。同じく志賀が次のように指摘している。「六全協」の翌年1957.3.14日における党本部での講演である。
 「今日、党内のごく一部には、今の党中央の幹部政策では駄目だといって、自己流の幹部教育を目論(もくろ)み実行しようとする人がいる。こう云う人の誤りはあきらかです。大衆の中で真面目に働くことを拒み、大衆に背を向けさせて、我流の教育を押し付けて、自分を中心に幹部を作る態度こそ、家父長制指導や個人指導のもとに一部の党員を集める結果となったのではありませんか? また、自分が不当に迫害されたという殉教者気取りで、党の幹部に打撃を加え、自分だけの周囲に人を集めようとする幹部政策は、今日もっともらしい外面を持った有害なやり方です」。

 宮顕を意識した批判であることが一目瞭然である。
しかし、歴史の歩みは、こういう言辞を為していた志賀の方が党を追われ、根っからの背教者宮顕の方が確固不動の地位を得て今日まで党中央グループを形成している。今や、その後継者不破が党中央の高みから公然と反共宣伝に精出すのが最後のご奉公とばかりに云いたい放題の胡座(あぐら)をかいており、党内も又相応しくというべきか白け調の満場一致を繰り返している。

 れんだいこが思うに、この党中央は批判されるにすら値しないのではなかろうか。むしろ我々自身が新運動を創出すべきではなかろうか。その為に、反面教師として日共組織論を他山の石化させた新組織論の構築から始めるべきではなかろうか。日共をしたり顔で批判して事足れリ的な運動は、そのこと自体が日共に依存した運動であることを物語っており、我々は最早一刻を争ってそういうレベルを超さねばならないのではなかろうか。この観点から、以下組織論の見直しに入ることにする。

 2006.6.21日 れんだいこ拝


 只今情報貼り付け段階です。ご自由にご意見聞かせてください。

その1−1 現下組織論の総評
その1−2 宮顕組織論の諸影響
その1−3 毛沢東組織論他
その1−4 大衆路線論
その1−5 戦略・戦術論
その11 党首公選の是非
その12 分派容認の是非
その13 民主主義的集中制とは
その14 党大会における議案と対案の論議の是非
その14−2 党大会議案論議公報について
その15 党見解に対する党中央質疑、党内論争について
その16 代議員・党中央委員の選出選挙制度の考察
その17 専従役員の規律と自主性に関する考察
その18 議員活動の規律と自主性に関する考察
その19 党員のインターネット活動その他論文投稿の自由に関する考察
その19−2 組織内の文化活動の意義
その19−3 組織内の教育・学習活動の意義
インターネット・サイト
研究著作本




(私論.私見)


「スターリン主義者が、分派活動を蛇蠍の如く罪悪死すること、カトリック教徒が姦通や堕胎を罪悪死するにもひとしい」(田川和夫「日本共産党史」)