その1−4 | 大衆路線論 |
「我々は、大衆の中に入り、大衆から学び、大衆の経験を総合し、それらを一層系統だった道理や方策にし、再びそれを大衆に語る(宣伝する)と共に大衆にその実行を呼びかけ、大衆の問題を解決して、大衆が解放と幸福を勝ち取るようにすべきである」(毛沢東、1943・11)。
「人民大衆は無限の創造力を持つ。彼らは自らを組織して、自らの力を発揮し得るあらゆる分野と部門に向かって進軍し、生産の深化と拡大に向かって進軍し、自らの為に、日一日と増大する福利事業を創造できる」(毛沢東、1955)。
「大衆と結びつく為には、大衆の必要と願望とに従わなければならない。大衆の為の活動は大衆の必要から出発すべきであって、いかに善意であれ個人の願望から出発してはならない。大衆が客観的には改革を必要としているのに、主観的にはまだそのように目覚めていず、決意してもいず、改革の実行も願っていない、という場合が良くあるが、こんな時、我々は辛抱強く待たなければならない。我々の活動の結果、大衆の多数が目覚め、決意し、改革の実行を願うに至って初めて、その改革を実行するのだ。さもなければ、大衆から遊離する。凡そ、大衆の参加を必要とする活動は、大衆の自覚と願望が無い限り、徒(いたずら)に形式に流れて失敗する。−−−ここには二つの原則がある。一つは、大衆の実際の必要であって、我々の脳裏に空想した必要ではないことである。もう一つは、大衆の願望であり、大衆自身が決意するのであって、我々が大衆に代わって決意するのではないことである」(毛沢東、1944・10)。
「どこであれ大衆のいるところでは、だいたいに於いて、比較的積極的なものと中間状態にあるものと比較的遅れたものとの三つの部分がある。従って指導者は、少数の積極分子を指導の骨幹として団結し、その骨幹に依拠して中間分子を向上させ、遅れた人々を獲得することに長じなければならない」(毛沢東、1943・6)。
「多くの物事が、我々がそれに盲目的となり、自覚を欠くと、我々の荷物となり、負担となるだろう。例えば、誤りを犯すと、どうせ自分は誤りを犯したのだと思って萎縮するだろうし、誤りを犯さないと、自分は誤りを犯したことがないのだと思って傲慢になるだろう。闘争経歴が長ければ、長いからと、独り善がりになるだろう。労働者・農民は自分の光栄ある出身を鼻にかけて、知識人を見下げるだろうし、知識人は自分のいくらかの知識を鼻にかけて、労働者・農民を見下げる。なんであれ得意とする専門を持つことは、高慢尊大で他人を軽視する元手となるだろう。年齢でさえ傲慢(ごうまん)の道具となり、若い者は頭がよく有能だと自負して、老人を軽蔑するだろうし、老人は豊富な経験を頼みに、若い者を軽蔑するだろう。このように物事は、自覚しなければ、我々の負担となり、荷物になる」(毛沢東、1944・4)。
「もし真にプロレタリアートに責任をおう革命政党であるならば、一つの方針が転換する場合、それまでの方針のもとでの活動を、つぶさに大衆の前に明らかにしなければならない。それなくして、何故に『大衆を指導する』ことができ、大衆の支持を要求することができるのか。大衆から隠れたところで、なしくずしに行われた方針の転換を、一方的に大衆に押し付ける官僚主義は、革命的前衛党とは無縁である」(田川和夫「日本共産党史」)
(私論.私見)