2.26事件史その11、処刑史考



 更新日/2021(平成31.5.1日より栄和改元/栄和3).4.25日

 この前は【2.26事件史その8、公判史考2】に記す。

 (れんだいこのショートメッセージ)
 ここで、「2.26事件史その11、処刑史考」をものしておく。

 2011.6.4日 れんだいこ拝


【7.12日処刑の様子証言考】
 結局、この事件で二人が自決、北一輝など19人が死刑判決を受け処刑された。反乱部隊は、その後、当初の予定どおり満州に送られ、下士官兵の多くがノモンハンで戦死した。
 「2・26事件介錯人の告白」が処刑の様子を次のように証言している。証言者は、15名の死刑の一人であった林八郎少尉の士官学校の同級生の進藤義彦(陸軍騎兵学校の戦車第三中隊長で少佐)で「運命の介錯人」を務めた。平成3年になって初めて銃殺刑の実態の告白記事を発表した。
 概要「7月12日、処刑当日。代々木錬兵場の南端に接する衛戍刑務所の北隅が処刑場となった。刑場には、刑務所の外柵のコンクリート塀を背に、白布を巻いた五基の十字架の磔台(はりつけ)台が立てられていた。十字架と射撃位置との距離は約10m。十字架一基に対し三八式歩兵銃一挺が架台に置かれていた。処刑の始まる少し前から、直ぐ隣の代々木錬兵場南端の俗称「なまこ山」辺りで小銃、軽機関銃の空砲射撃が始まった。演習部隊の射撃は一回の処刑が完全に終了するまで続けられ、処刑時の実包の発射音と判別できない仕組みになっていた。控え所で、辞世ともいうべき雄叫びが聞こえていた。「・・・・・・・・守れ我等が連隊旗・・・」などと叫ぶ声が聞こえた。第一群の5名の受刑者が刑場に連行される頃には静かになった。

 受刑者は軍の車両部隊などに支給されていた濃いカーキー色の繋ぎの作業服の新着ており靴ははいていなかった。白布で目隠しされた受刑者が両脇を二人の看守に支えられて刑場に現れ、所定の十字架の前に正座した。看守が白布で受刑者の頭、両腕を十字架に縛りつけ、次いで両膝を縛り合わせた。最後に幅20センチ程の長い白布を頭部から膝に達するまで垂らし、その上から更に直径2センチの黒点を描いた鉢巻を、黒点が前頭部の中心に位置するように縛った。

 射手は黒点の下際を照準せよと命ぜられていた。正副の射手が指揮官に片手を挙げて無言で準備完了を報告した。各グループの最古参者が、「準備が終わりましたら大元帥陛下の万歳を三唱させて戴きます」と前置きして異口同音に「天皇陛下万歳」を絶唱した。指揮官の手が挙がるや、五人の正射手が受刑者に対し低頭黙礼して引鉄を引いた。

 射弾の命中した前頭部からは僅かに白布の鉢巻に鮮血がにじみ出る程度であるが、両の鼻孔からサーツと垂れ布を染めて流れ落ちた。次いで軍医が検診を行った。絶命が確認されなければ、副射手が替わって再度射撃した。なかにはうめき声を出してなかなか絶命せず、ある人は副射手の撃つ二発目で、ある人はさらに正射手の三発目で事切れた。刑の執行は15名を5名ずつ3回に別けて為された。1回ごとに執行が終わると直ぐ様遺体を近くの幕舎に運んで創の処置をして納棺し、急ごしらえの祭壇に安置した」。

 2013-02-26 ブログ「2.26事件秘話 下士官兵の処分」によれば、「小銃は額と胸に照準し固定され、引き金は陸軍の将校を集めた。かつての同志、陸士の同期生がその引き金を引いたのだ。一種の踏み絵だね」とある。

 「観音像」も次のように伝えている。これを要約しておく。
 概要「7月5日に開かれた軍法会議で判決が下ると、死刑になった者はひとつの建物(第五拘置監)に移された。遺族らと面会し、最後の別れを告げることも許された。執行前日の11日、彼らは3人1組で外での入浴を許された。彼らの先輩格にあたり、事件に連座して禁固4年の刑を受け、隣の建物に収監されていた大蔵栄一大尉は、入浴の際に対馬勝雄中尉がこちらに気づき、ニッコリ笑って右手を振ったと書き残している。正確な時刻は不明だが、翌日の執行は夕方には認識されていたとみられる。無期禁固の判決を受けて生き残った池田俊彦少尉は、夕方から隣の建物がざわつき始め、彼らが大声で話していたと振り返っている。最後の夜ということで、私語が許されたのだろう。大蔵大尉の房からは、中橋基明中尉の姿が垣間見えた。中橋が高橋是清蔵相を殺害したことは前にこのブログで触れた。中橋は、緋色の裏地をした派手な軍服のコートを着てダンスホールに通う、およそ軍人らしくない伊達者で、人間味にあふれた性格の持ち主だったといわれる。彼は大蔵大尉に向けてリンゴを振ったり、タバコの煙をふかしたりして、「どうだ、ほしいだろう」という風な、茶目っ気たっぷりの動作をしてみせた。軍歌を唄う者、詩を吟ずる者、読経する者、さまざまだった。事件を主導し、首相官邸を襲撃した栗原康秀中尉が「川中島」を吟じると、中橋が「栗ッ、貴様は何をやってもへたくそだが、いまの詩吟だけはうまかったぞ!」と、彼らしい優しさで声をかけた。話し声は夜更けまで続いた。眠る者はいなかった。明け方近くになると、君が代を斉唱する声が聞こえ始めた。最年長の香田清貞大尉が言い出したことだった。歌い終えると、天皇陛下万歳が三唱された。香田は万歳を呼びかける前にこう言ったという。「みんな聞いてくれ!殺されたら血だらけのまま陛下の元へ集まり、それから行き先を決めようじゃないか!」。それを聞いた全員が、「そうしよう!」と口々に言い合った。いよいよ執行の時が迫ってきた。午前5時40分。真崎甚三郎裁判の証人となり、執行が翌年夏に延ばされた北一輝ら4人をのぞく15人が各々の房で軍医の検診を受けた。心身に異常がないか確かめるためである。6時40分ごろ、まず栗原ら第一班の5人が1人ずつ呼び出され、生き残った者たちの涙声の声援に送られながら拘置監を出ていった。栗原は「おじさ~ん」と、声を振り絞るように叫んだ。彼らを支援して逮捕され、隣の建物に収監されている予備役少将の齋藤瀏に向けたものだった。齋藤は栗原の父親である栗原勇大佐と親しく、両家は家族ぐるみの付き合いをしていた。栗原は齋藤の娘で歌人の齋藤史さんから「クリコ」と渾名で呼ばれていた。看守長と看守がつきそい、各自6歩の距離を保ちながら刑執行言渡所へ向かった。ここで所長が氏名を点検した後、執行する旨を告げ、遺言を聞き、遺書の始末などを聞きただした。あとは刑場で銃弾を浴びるだけである。所長の塚本定吉が書いた手記によると、彼らの態度はこの期に至ってもなお落ち着き払っていたというが、どうか。死刑を目の前にしているのだから、興奮状態になり、取り乱していたとしてもおかしくはない。

 よく晴れた、夏らしい日だった。早朝には靄が立ち込めていたという。処刑には100人あまりが立ち会った。刑場は構内の西北隅に作られ、煉瓦米を背に5つの壕が掘られた。おそらくそれは慰霊塔のすぐそば、税務署の玄関付近だったろう。それぞれの壕には十字架が据え付けられ、彼らはそこに体を縛り付けられ、そして地面にひざまずいた。顔面から腹まで白い布で覆われ、眉間の部分には狙撃手が撃ち損じないよう、黒い印がつけられた。全員が天皇陛下万歳を叫んだ。安藤輝三大尉だけは「秩父宮万歳」と付け加えたとされる。安藤が秩父宮と近い関係にあったことはよく知られている。ただ、栗原がそう叫んだとする主張もあり、作家の保阪正康氏はそれを裏付ける信憑性の高い証言を得ている。狙撃手は2人ずつ、10人がついた。そのうち1人が額に照準を合わせ、もう一人は撃ち損じた場合に備えて心臓を狙っていた。狙撃手にとっても重苦しい、つらい瞬間だった。同じ陸軍軍人どうし、しかも一部の者は顔見知りだったからである。練兵場の方からは、小銃や機関銃の音がひっきりなしに聞こえてくる。刑の執行を知らせないためのカモフラージュといわれる。そして―。ダダダダッ 遠くから見守っていた他の受刑者たちは、空砲とは明らかに違う音が意味するものを即座に悟った。処刑は7時、7時45分、8時30分と3回に分けて行われた。たいていの者は一発で即死したが、死に切れない者もいた。栗原は2発、中橋は3発の銃弾を浴びている。まったくの憶測だが、秩父宮万歳を叫んだのはやはり栗原で、叫びつつ銃弾を浴びたのかもしれない。齋藤瀏は、「栗原死すとも維新は死せず」とも叫んだと、聞き知った事実を書き残している。

 遺骸について、父親の勇がこう書いている。「…眉間に凄惨なる一点の弾痕、眼を開き、歯を食い締りたる無念の形相、肉親縁者として誰かは泣かざる者がありませう。一度に悲鳴の声が起こりました。この様な悲劇の場面は恐く十五人の遺族に次々と繰返されたことでありませう」。一緒に処刑された民間人の渋川善助も目が半開きの状態だったという。目を閉じないものなのかもしれない。ただ、そのような凄まじい形相からして、反乱将校の中でも一、二を争う急進派だった栗原らしい、壮絶な最期だったとはいえるだろう。

 彼と並ぶ急進派で、理論面でも事件を主導した磯部浅一は、その約1年後の8月19日に死んだ。磯部は膨大な手記を残し、その中で凄まじいほどの怨念をぶちまけ、昭和天皇を叱ることさえしている。が、北らとともに処刑された時の態度については、「天皇陛下万歳」を叫ばなかったこと以外、ほとんど情報が伝わっていない」。

【反乱軍将校の処刑】
 7.12日、宣告1週間後、代々木の陸軍刑務所内北西に設置された刑場で5名の銃殺刑が執行された。当日の銃殺刑執行に当たって、隣の代々木練兵場では空砲を使った射撃練習を行い、刑執行の銃声を消した。刑の執行は五人一組で行われ、

午前7時 香田清貞大尉・安藤輝三大尉・竹嶌継夫中尉・対馬勝雄中尉・栗原安秀中尉
午前7時54分 丹生誠忠中尉・坂井直中尉・中橋基明中尉・田中勝中尉・中島莞爾少尉
午前8時30分 安田優少尉・高橋太郎少尉・林八郎少尉・渋川善助・水上源一

 の十五人の刑が執行された。元歩兵大尉の村中孝次と元一等主計の磯部浅一は北一輝、西田税の裁判で重要証人となっていたため刑の執行が延期され、北らの裁判が結審し死刑が確定した8.19日に北、西田らと共に銃殺刑が執行された。

 処刑は陸軍省発表で報じられた。それまで民衆は審理経過を一切知らされぬまま、突如この発表を見て大いに驚いた。血盟団事件、5・15事件、相沢事件の裁判は公開で、連日新聞報道されたが、今回は事件鎮圧後何の音沙汰もないままに、いきなりの死刑執行の発表となった。
 第1次処断(昭和11年7月5日まで判決言渡)
氏名 陸士期 ネンレイ 階級 シヨゾクブタイ・職名・罪名
死刑 村中孝次 37期 元歩兵大尉 叛乱罪(首魁)
死刑 磯部浅一 38期 元一等主計 叛乱罪(首魁)
死刑 渋川善助 39期 元士官候補生 叛乱罪(群衆指揮等)
死刑 香田清貞 37期 歩兵大尉 歩兵第1旅団副官/叛乱罪(首魁)
死刑 安藤輝三 38期 歩兵大尉 歩兵第3連隊第6中隊長/叛乱罪(首魁)
死刑 竹嶌継夫 40期 歩兵中尉 豊橋陸軍教導学校歩兵学生隊附/叛乱罪(群衆指揮等)
死刑 栗原安秀 41期 歩兵中尉 歩兵第1連隊(機関銃隊)附/叛乱罪(首魁)
死刑 対馬勝雄 41期 歩兵中尉 豊橋陸軍教導学校歩兵学生隊附/叛乱罪(群衆指揮等)
死刑 中橋基明 41期 歩兵中尉 近衛歩兵第3連隊(第7中隊)附/叛乱罪(群衆指揮等)
死刑 丹生誠忠 43期 歩兵中尉 歩兵第1連隊(第11中隊)附/叛乱罪(群衆指揮等)
死刑 坂井 直 44期 歩兵中尉 歩兵第3連隊(第1中隊)附/叛乱罪(群衆指揮等)
死刑 田中 勝 45期 砲兵中尉 野戦重砲兵第7連隊(第4中隊)附/叛乱罪(群衆指揮等)
死刑 中島莞爾 46期 工兵少尉 鉄道第2連隊附(陸軍砲工学校分遣)/叛乱罪(群衆指揮等)
死刑 安田 優 46期 砲兵少尉 野砲兵第7連隊附(陸軍砲工学校分遣)/叛乱罪(群衆指揮等)
死刑 高橋太郎 46期 歩兵少尉 歩兵第3連隊(第1中隊)附/叛乱罪(群衆指揮等)
死刑 林 八郎 47期 歩兵少尉 歩兵第1連隊(機関銃隊)附/叛乱罪(群衆指揮等)
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無期禁錮 麦屋清済 特志 歩兵少尉 歩兵第3連隊(第1中隊)附/叛乱罪(群衆指揮等)
無期禁錮 常盤 稔 47期 歩兵少尉 歩兵第3連隊(第7中隊)附/叛乱罪(群衆指揮等)
無期禁錮 鈴木金次郎 47期 歩兵少尉 歩兵第3連隊(第10中隊)附/叛乱罪(群衆指揮等)
無期禁錮 清原康平 47期 歩兵少尉 歩兵第3連隊(第3中隊)附/叛乱罪(群衆指揮等)
無期禁錮 池田俊彦 47期 歩兵少尉 歩兵第1連隊(第1中隊)附/叛乱罪(群衆指揮等)
禁錮4年 今泉義道 47期 歩兵少尉 近衛歩兵第3連隊(第7中隊)附

 田中光顕伯、浅野長勲侯が、元老、重臣に勅命による助命願いに奔走したが、湯浅内府が反対した

 井伏鱒二の「荻窪風土記」は、2・26事件について次のように記している。
 「二・二六事件の記録を見ると、 -叛乱軍の一部の将校たちは七月十二日に処刑された。場所は、渋谷区宇田川町の陸軍衛戍刑務所の隣にある代々木練兵場。死刑執行の銃声をかくすため、早朝から演習部隊の軽機関銃で空砲を打ちつづけ、やがて飛行機二機が低空を旋回した。有罪七十六名のうち、死刑十七名、罪名は叛乱罪。被告磯部浅一の獄中手記も発表してあった。「……真崎を起訴すれば川島、香椎、堀、山下等の将軍に累を及ぼし、軍そのものが国賊になるので……云々」暗黒裁判で書いたという怖るべき手記である」。

 死刑囚の遺骸について、「二.二六事件と興国山賢崇寺」が次のように記している。
 これら二.二六事件死刑囚は刑が執行された後に遺骸はただちに遺族に引き渡されました。しかし、憲兵隊、特高警察などが監視し、最寄り駅での下車は遠慮せよとか、葬儀は行うななどの嫌がらせを繰り返し、ほとんどの菩提寺が遺骨の埋葬を行えない状態となってしまったようです。これに対して事件勃発以降、息子栗原安秀中尉のクーデター参加を知った父の元陸軍大佐・栗原勇は総持寺で仏門に帰依し(直接賢崇寺に帰依したとの説もあります)、事件関係者遺族の連絡会「仏心会」を結成します。また栗原氏は佐賀県出身でもあったので、総持寺の末寺であり、また旧知の檀家でもあった賢崇寺を訪れて、住職の藤田俊訓師に息子の遺骨を賢崇寺へ埋葬することを相談しました。すると藤田師は即座に許可し、後には同じように国賊扱いをされて行き場のなくなった事件関係者の慰霊をすべて引き受けることとなりました。

【二・二六事件死没者慰霊碑考】
 2020.7.11日、「「二・二六事件85年目の夏 渋谷に建つ慰霊像の不思議」その他参照

 2・26事件を記念し死没者を慰霊する碑が東京都渋谷区宇田川町(神南隣)にある。代々木練兵場の跡地で、2・26事件の首謀者である青年将校・民間人17名の死刑執行が行われた所で「二十二士の墓」がある。17名の遺体は郷里に引き取られたが、磯部のみが本人の遺志により東京都墨田区両国の回向院に葬られている。
 「〈昭和維新の企図壊もて首謀者中、野中[四郎]、河野[寿]両大尉は自決、香田[清貞]、安藤[輝三]大尉以下十九名は軍法会議の判決により東京陸軍刑務所に於て刑死した。此の地は其の陸軍刑務所跡の一隅であり、刑死した十九名と是れに先立つ永田事件の相澤三郎中佐が刑死した処刑場跡の一角である」。

 旧東京陸軍刑務所敷地跡に立てられた渋谷合同庁舎の敷地の北西角に観音像(昭和40年2月26日建立 東京都渋谷区宇田川町1-1)がある。献花台の脇に建てられた木標には、「二・二六事件慰霊像」と墨書されている。慰霊像の横にある碑文には次のように書かれている。碑文は、客観的な記述を心がけ、重臣や殉職警察官に対しても、慰霊が込められている。
 「昭和十一年二月二十六日未明、東京衛戍歩兵第一第三連隊を主体とする千五百余の兵力が、かねて昭和維新断行を企図していた。野中四郎大尉等青年将校に率いられて蹶起した。当時東京は暖冬にしては異例の大雪であった。蹶起部隊は積雪を蹴って重臣を襲撃し総理大臣官邸陸軍省警視庁等を占拠した。齊藤内大臣 高橋大蔵大臣 渡邊教育総監は此の襲撃に遭って斃れ、鈴木侍従長は重傷を負い、岡田総理大臣 牧野前内大臣は危く難を免れた。此の間、重臣警護の任に当たっていた警察官のうち五名が殉職した。世に是れをニ.ニ六事件という。

 昭和維新の企図壊れて首謀者中、野中、河野両大尉は自決、香田、安藤大尉以下十九名は軍法会議の判決により東京陸軍刑務所に於て刑死した。此の地は其の陸軍刑務所後の一隅にあり、刑死した十九名と是れに先立つ永田事件の相澤三郎中佐が刑死した処刑場跡の一角である。此の因縁の地を選び刑死した二十名と自決二名に加え重臣警察官其の他事件関係犠牲者一切の霊を合せ慰め、且つは事件の意義を永く記念すべく広く有志の浄財を集め事件三十年記念の日を期して慰霊像建立を発願し、今ここに其の竣工をみた。謹んで諸霊の冥福を祈る。

 昭和四十年二月二十六日 佛心會代表 河野司 誌」

 毎年2.26日と7.12日の2回、麻布賢崇寺で「二・二六事件の法要」が行われている。年2回の法要のうち、2.26日は襲撃の被害に遭った方々も含めて法要されている(「仏心会」主催)。死刑執行の際、同期の林八郎少尉を撃った真藤少尉(当時)の尺八献奏もある。現在の世話役代表は3人(対馬中尉、田中中尉、安田少尉の親族の方)。また、「二・二六事件慰霊像」の世話は「慰霊像護持の会」が行っている。池田少尉(求刑は死刑)、北島伍長、今泉少尉の親族の方が中心。

 佛心會とは、2.26事件で刑死した青年将校の遺族会であり、代表の河野司氏は、自決した河野大尉の実兄。戦後、2.26事件関係の資料を精力的に集め公刊している。毎年、賢崇寺(けんそうじ、東京都元麻布1-2-12、佐賀鍋島家の菩提寺)で合同慰霊式を行っている。神奈川では、牧野前内務大臣を襲撃した湯河原町宮上の旅館・伊藤屋の別館「光風荘」が、現在地元有志によって資料館となって公開されている。襲撃を指揮し病院で自決する河野大尉の遺言、殉職した巡査の焼けただれた万年筆、当時の新聞のコピーなど多数を展示されている。山口では、下関市出身で渡辺教育総監を襲撃した田中勝陸軍中尉の長男への遺言(複写)、写真など十数点を、山口県下関市にある忌宮神社が展示した。青森では、栗原隊として首相官邸を襲撃した対馬中尉の96歳となった実妹のインタビューが新聞に掲載された。「波多江さんは、今も事件に参加した兄の「純真な気持ち」を信じている。「父親は青森へ転居する前は農家だったし、貧乏な農家のことは身に染みていたのではないか」。部下には農家の出身が多く、娘が売られるなどの農家の厳しい実態を知って、「このままではいけない」と思い立ったのではと心情をくむ。「非常に正義感が強く、とにかく曲がったことが嫌いで真っすぐな性格の人でしたから」」と述べている。
 かつてこの地に陸軍刑務所があった。軍法会議で死刑判決を受けた青年将校らは、事件からわずか4か月半後の7月12日、刑務所の敷地内で刑に処された。慰霊像の横に一体となって残る赤レンガは、その刑務所の壁だった。

 1965(昭和40).2月、30回忌にあたるこの年、青年将校らの遺族会「仏心会」(ぶっしんかい)によって観音像が建立された。仏心会は「全殉難物故者」の慰霊を目的として設立されている。同会のホームページにも次のような記述がある。

 「当法人は、昭和10年の相澤事件、および、昭和11年の二・二六事件(以下「事件」という)に於ける犠牲者、事件に参加し自決または刑死した二十二名(以下「二十二士」という)および事件に参加し有刑になった物故者、(以上の事件による犠牲者、二十二士、物故者を併せ「全殉難物故者」という)の慰霊などを目的とする」。

 犠牲者の一人である渡辺教育総監の娘・和子さん(2016年死去)は、事件から50年後の昭和61(1986)年2月に仏心会による法要に初めて参加した時の心境をこう吐露している。

 「父の五十回忌の年に、私は、処刑された青年将校が眠る東京・麻布の賢崇寺に参りました。実はそれまで、反乱軍の一人である河野寿大尉のお兄さんであり、仏心会(青年将校らの遺族会)会長の河野司さんから毎年のようにお誘いがあったのですが、一度も伺っていなかったのです。でも、その年は五十回忌の年でしたから迷いました。二・二六事件を取材された作家の澤地久枝さんや、昭和史研究家の高橋正衛さんにご相談したところ、お二人から「行っておあげなさい」と背中を押されたのです。「汝の敵を愛せよ」というつもりで行ったのではありません。本心では行きたくはありませんでした。父がよく言っていた「敵に後ろを見せてはいけない」という言葉を思い出して参ったのです」(渡辺和子・保阪正康「2・26事件 娘の八十年」『文藝春秋』平成28年3月号)。
 「法要の後、河野司氏のご挨拶があった。 「私は、弟はじめ彼らがふびんでなりません。陛下のためを思って事を起したのであり、処刑に当たっても、天皇陛下萬歳と唱えて銃殺されています。私は叫びたい。陛下、なぜおわかりにならないのですかと」 。切々と訴えるその言葉は、殺された側の遺族である私には、別の意味で聞くに辛いものだった」(渡辺和子『心に愛がなければ』PHP研究所)。
 「お線香を供え、手を合わせ、言葉もなく振り返ると、そこに、高橋[太郎]、安田[優]両少尉のご令弟お二人が深々と頭をさげ、涙を流していてくださった。この時である。はじめてその日、思い切ってお詣りしてよかったと思ったのは。 辛い思いを抱いて五十年生きてきたのは私だけではなかった。むしろ、叛乱軍という汚名を受けた身内を持つご遺族こそ、もっと辛い思いをなさったに違いない」(渡辺和子『心に愛がなければ』PHP研究所)。

 のちに230万部を超えるベストセラー『置かれた場所で咲きなさい』(幻冬舎)を残すことになる和子さんは、亡き父に導かれるようにして法要に参加した。このとき参列した被害者側の遺族は、和子さん一人だったという。そして、その場で父を襲撃した二人の将校の遺族と顔を合わせている。

 『渡辺錠太郎伝』(小学館)を著わした歴史研究者の岩井秀一郎氏は、事件の半世紀後に始まった稀有な“縁”を同書の中で明かしている。
 「和子さんは、この法要で知り合った安田優少尉の弟・善三郎さんと、生涯にわたって交流するようになります。加害者側の遺族にも心を開いてくれた和子さんの行動に感銘を受けた善三郎さんは、これを機に和子さんの著書を読んでキリスト教の教えを学び、多磨霊園に眠る渡辺大将の墓参を始めます。それ以来30年以上にわたって二人が交わした書簡は数百通にも及び、年に一度は和子さんを自宅に招待したり、和子さんの講演先に安田さん夫婦が同行したりすることもあったそうです。善三郎さんは、90代半ばになった今でも毎年2回、多磨霊園での掃苔を欠かさず続けているといいます」(岩井氏)

【「弁護人なし、非公開、上告なし…東京陸軍軍法会議」考】
 2019.6.17日、「二・二六事件のその後~青年将校たちはどうなったのか」。
 弁護人なし、非公開、上告なし…東京陸軍軍法会議

 昭和11年(1936)2月29日、二・二六事件は鎮定された。その時、青年将校たちはどんな行動をし、どうなったのであろうか。事件最終日の2月29日午後2時、将校たちは下士官兵を帰したうえで陸相官邸に集い、その後の方針を話し合った。その結果、陸軍上層部が自分たちを自決させようとしているのを察し、法廷の場で、思うところを訴えようと考える。武装解除され、憲兵に拘束された将校たちは、29日午後6時頃、陸軍東京衛戍刑務所に送られた。しかし、その思いとは裏腹に、待っていたのは厳しい裁判であった。青年将校たちは、東京陸軍軍法会議と称される、弁護人なし、非公開、上告なし(一審制)という制度で裁判を受けることになる。これは、急いで厳罰を下そうとする、陸軍の思惑が反映されたものだった。こうした裁判のあり方には、青年将校たちも憤懣やるかたなかったという。

 第1回公判は4月28日に行なわれ、判決は7月5日に出される。将校と襲撃に加わった民間人、計17名が死刑となった。そのうち15名は、7月12日に銃殺刑が執行され、磯部浅一と村中孝次は、北一輝と西田税の裁判のために執行が延期された。一方、北は2月28日に逮捕され、西田は3月4日に検挙されていた。2人に対する第1回公判は10月1日に行なわれ、2人を極刑にしようとする陸軍上層部と、公平な裁判を求める裁判官が対立した末、昭和12年(1937)8月14日、2人に死刑判決が下される。その5日後の8月19日、北と西田は、磯部と村中とともに銃殺された。青年将校と近しい関係と見られていた真崎甚三郎は、昭和11年4月に憲兵の取り調べを受ける。翌12年6月には第1回公判が行なわれるものの、同年9月、無罪判決が出された。

 これ以外にも、事件は様々な余波を残した。事件終結後の3月、岡田啓介内閣は総辞職し、広田弘毅内閣が成立する。その組閣の際、陸軍統制派の武藤章は、寺内寿一を陸相に推し、さらに寺内とともに、吉田茂らの入閣を拒否するなど、広田に様々な圧力をかけた。また組閣後、陸軍では寺内陸相のもと、粛軍が行なわれる。皇道派は主要メンバーの多くが予備役に編入され、事実上、陸軍中央から一掃された。こうした事件後の処置により、統制派は陸軍内だけでなく政治面でも強い影響力を持ち、それは太平洋戦争まで、続くこととなる。事件は、多くの人を巻き込み、また多くの思惑と絡みながら、日本の歴史を大きく変えていったのである。

 参考文献‥北博昭『二・二六事件 全検証』、筒井清忠『二・二六事件と青年将校』ほか


黒幕の陸軍首脳部の取り調べ
 黒幕の陸軍首脳部の取り調べ。まず、香椎浩平戒厳司令官が取り調べを受けた。香椎が黒幕でないにしろこの事件を計画した一味の人間ではないかという疑惑であった。さらに、荒木・真崎両軍事参議官を叛乱幇助の容疑で逮捕。青年将校を擁護する行動をとったことの責任が問われた。だが、結局、香椎は不起訴と決定された。 

 青年将校と近しい関係と見られていた真崎甚三郎は、4月に憲兵の取り調べを受ける。翌12.6月、第1回公判が行なわれた。同年9月、無罪判決が出された。(荒木について不明) 真崎・荒木らは裁判にまわされたが、無罪判決であった。「陸軍大将が叛乱関係で実刑をうけたとあっては陸軍の名誉にかかわる」という面子を守るためだったと思われる。

 常人班(軍人外)担当裁判長の吉田法務少将は次の書簡を残している。
 事件前の被告の思想問題はどんなに矯激なものであって事件に影響があったとしても、それはつまるところ情状に属するものである。基本刑決定の要素にはならない。その上、三月事件、十月事件は不問にしている。この両事件関係者も既存している状態においては、特に軍法会議が常人を審理する場合、この情状は大局上の利害を較量して不問に付するのが、よいと認める。それゆえ彼らの事件関係行為のみをとらえ、犯罪の軽重を観察するを要する。したがってその行為は首魁幇助の利敵行為である。それはすなわち普通刑法の従犯の立場であり、したがって刑は主犯よりも軽減されるべきである・・・・・云々。

 法的に審理・裁判して、法に基づいて決められたはずの刑量が、実は本省の指示で決定されていた証拠であろう、とある。

【北逮捕、西田検挙】
 2.28日、北が逮捕され、3.4日、西田が検挙された。2人に対する第1回公判は10月1日に行なわれ、2人を極刑にしようとする陸軍上層部と、公平な裁判を求める裁判官が対立した末、昭和12年(1937)8月14日、2人に死刑判決が下される。 その5日後の8月19日、北と西田は、磯部と村中とともに銃殺された。

  村中の遺書には、「新井法務官曰く、北、西田は今度の事件には無関係なんだね、しかし殺すんだ。死刑は既定の方針だからやむを得ない・・・」との一節がある。 

 常人班(軍人外)担当裁判長の吉田法務少将は次の書簡を残している。
  事件前の被告の思想問題はどんなに矯激なものであって事件に影響があったとしても、それはつまるところ情状に属するものである。基本刑決定の要素にはならない。その上、三月事件、十月事件は不問にしている。この両事件関係者も既存している状態においては、特に軍法会議が常人を審理する場合、この情状は大局上の利害を較量して不問に付するのが、よいと認める。それゆえ彼らの事件関係行為のみをとらえ、犯罪の軽重を観察するを要する。したがってその行為は首魁幇助の利敵行為である。それはすなわち普通刑法の従犯の立場であり、したがって刑は主犯よりも軽減されるべきである・・・・・云々。

 法的に審理・裁判して、法に基づいて決められたはずの刑量が、実は本省の指示で決定されていた証拠であろう、とある。

【「第2次処断」】
 7.29日、「第2次処断」として禁錮刑が宣告された。
氏名 陸士期 ネンレイ 階級 シヨゾクブタイ・職名・罪名
無期禁錮 山口一太郎 33期 歩兵大尉 歩兵第1連隊第7中隊長
禁錮6年 新井勲 43期 歩兵中尉 歩兵第3連隊(第10中隊)附/「叛乱者を利す」「司令官軍隊を率い故なく配置の地を離る」
禁錮6年 鈴木五郎 38期 一等主計 歩兵第6連隊附/「叛乱予備」
禁錮4年 柳下良二 45期 歩兵中尉 歩兵第3連隊(機関銃隊)附/「叛乱者を利す」
禁錮4年 井上辰雄 43期 歩兵中尉 豊橋陸軍教導学校附/「叛乱予備」
禁錮4年 塩田淑夫 44期 歩兵中尉 歩兵第8連隊附/叛乱予備

【「第一次背後関係処断」】
 1937(昭和12).1.18日、「第一次背後関係処断」の判決が宣告された。
氏名 陸士期 ネンレイ 階級 シヨゾクブタイ・職名・罪名
禁錮5年 菅波三郎 37期 歩兵大尉 歩兵第45連隊第1中隊長
禁錮5年 斎藤瀏 12期 予備役少将
禁錮4年 大蔵栄一 37期 歩兵大尉 羅南歩兵第73連隊第2中隊長
禁錮4年 末松太平 39期 歩兵大尉 歩兵第5連隊歩兵砲隊長
禁錮3年 満井佐吉 26期 歩兵中佐 陸軍大学校兵学教官
禁錮3年 志村睦城 44期 歩兵中尉 歩兵第5連隊附
禁錮3年 福井 幸
禁錮3年 町田専蔵
禁錮2年 越村捨次郎
禁錮2年(執行猶予4年) 加藤春海
禁錮1年6月 志岐孝人 44期 歩兵中尉 歩兵第13連隊附
福井幸
町田専蔵
禁錮1年6月 宮本正之
禁錮1年6月(執行猶予4年) 佐藤正三
宮本誠三
杉田省吾

 事件の裏には、陸軍中枢の皇道派の大将クラスの多くが関与していた可能性が疑われるが、「血気にはやる青年将校が不逞の思想家に吹き込まれて暴走した」という形で世に公表された。

 事件後、陸軍の皇道派は壊滅し、東条英機ら統制派の政治的発言力がますます強くなった。事件後に事件の捜査を行った匂坂春平陸軍法務官(後に法務中将。明治法律学校卒業。軍法会議首席検察官)や憲兵隊は、黒幕を含めて事件の解明のため尽力をする。

【「第二次背後関係処断」】
 8.14日、「第二次背後関係処断」の判決が宣告された。
氏名 陸士期 ネンレイ 階級 シヨゾクブタイ・職名・罪名
死刑 北輝次郎(一輝) 52歳 「叛乱罪(首魁)」
死刑 西田税 34歳 元騎兵少尉
無期禁錮 亀川哲也 「叛乱罪(謀議参与)」
禁錮3年 中橋照夫 「叛乱罪(諸般の職務に従事)」

 その他判決は次の通り。
氏名 陸士期 ネンレイ 階級 シヨゾクブタイ・職名・罪名
死刑 水上源一 27歳
禁錮15年 中島清治 28歳 予備役歩兵曹長
禁錮15年 宮田晃 27歳 予備役歩兵曹長
禁錮15年 宇治野時参 24歳 軍曹 歩兵第1連隊
禁錮15年 黒田昶 25歳 予備役歩兵上等兵
禁錮15年 黒沢鶴一 21歳 一等兵 歩兵第1連隊
禁錮15年 綿引正三 22歳
禁錮10年 山本又 42歳 予備役歩兵少尉

氏名 陸士期 ネンレイ 階級 シヨゾクブタイ・職名・罪名
無罪 真崎甚三郎 9期 大将 軍事参議官/叛乱者を利す

【北一輝、西田税、磯部浅一、村中孝次銃殺刑】
 8.19日、磯部浅一、村中孝次と彼ら青年将校の思想的指導者と目された北一輝や西田税を含む4名が処刑された。いずれも処刑は銃殺刑であった。

【事件と昭和天皇】
 34歳で事件に直面した天皇。軍部に軽視されることもあった中、陸海軍を動かし、自らの立場を守り通した。クーデター鎮圧の成功は、結果的に、天皇の権威を高めることにつながった。
 「二・二六事件を経て、軍事君主としての天皇の役割はすごく強くなってしまって。天皇の権威、神格化といってもいいですが、そういうものが二・二六事件で大いに進んだことは間違いないと思います」(山田さん・明治大学 教授)。

 事件後、日本は戦争への道を突き進んでいく。高まった天皇の権威を、軍部は最大限利用して、天皇を頂点とする軍国主義を推し進める。そして軍部は、国民に対して命を捧げるよう求めていく。日本は大東亜戦争に突入。天皇の名の下、日本人だけで310万人の命が奪われ、壊滅的な敗戦に至った。二・二六事件からわずか9年後のことだった。戦後、天皇は忘れられない出来事を2つ挙げている。終戦の時の、自らの決断。そして、二・二六事件。
 「戦後天皇がもしこの事件に非常に思いをもっているとすれば、これは後の戦争に突き進んでいくような一つの契機になった事件、実は自分が起こした強い行動っていうのは、戦争に進んでしまった要因の一つではないかと、戦後いろいろな思いをもった可能性も考えられる」(河西さん・名古屋大学大学院 准教授)

 晩年、天皇は、2月26日を「慎みの日」とし、静かに過ごしたという。

【海軍の極秘文書6冊】
 海軍は、二・二六事件を記録し続けた事実を一切公にすることはなかった。なぜ事実を明らかにしなかったのか。極秘文書6冊のうち、事件後、重要な情報をまとめたと思われる簿冊がある。そこには、海軍が事件前につかんだ情報が書かれていた。その内容は詳細を極めていた。

 事件発生の7日前。東京憲兵隊長が海軍大臣直属の次官に機密情報をもたらしていた。「陸軍・皇道派将校らは、重臣の暗殺を決行 この機に乗じて、国家改造を断行せんと計画」。襲撃される重臣の名前が明記され、続くページには首謀者の名前が書かれていた。事件の一週間も前に、犯人の実名までも、海軍は把握していたことになる。海軍は、二・二六事件の計画を事前に知っていた。しかし、その事実は闇に葬られた。

 なぜ事件は止められなかったのか、その真相は分からない。ただ、その後起きてしまった事件を海軍は記録し続けた。そこには、事件の詳細な経緯だけでなく、陸軍と海軍の闇も残されていた。昭和維新の断行を約束しながら青年将校らに責任を押し付けて生き残った陸軍。事件の裏側を知り、決起部隊ともつながりながら、事件とのかかわりを表にすることはなかった海軍。極秘文書から浮かび上がったのは二・二六事件の全貌。そして、不都合な事実を隠し、自らを守ろうとした組織の姿だった。
 「本当のことを明らかにするのは、ものすごく難しいことで。如何に事実を知るということが難しいかということですよね。たまたま私どもは、何十年ぶりかに現れた資料によって、今まで知られなかったことがわかるわけですが、こんなことは類いまれなことで、わからないまま生きているんだと」(田中宏巳さん・防衛大学校名誉教授 極秘文書を発見した研究者)。
 戦後、財団法人史料調査会の理事として旧海軍の資料の管理をしていた戸髙一成氏は、この極秘文書を目にするのは初めてだという。「これは本当にすごいですね。多くの結果を引き出す要素をもった、資料として本当に第一級のものと言っていいです」(戸髙さん・大和ミュージアム館長)。これまでは、事件後まとめられた陸軍軍法会議の資料が主な公文書とされてきた。今回発見されたのは、海軍が事件の最中に記録した文書6冊。作成したのは海軍のすべての作戦を統括する「軍令部」だ。
 当事者である陸軍とは別に海軍が独自の情報網を築いていた。海軍は、情報を取るため一般市民に扮した私服姿の要員を現場に送り込み、戒厳司令部にも要員を派遣、陸軍上層部に集まる情報を入手していた。さらに、決起部隊の動きを監視し、分単位で記録、報告していた。

 この後は【】に続く。






(私論.私見)
二・二六事件総覧