2.26事件史その11、処刑史考 |
更新日/2021(平成31.5.1日より栄和改元/栄和3).4.25日
この前は【2.26事件史その8、公判史考2】に記す。
(れんだいこのショートメッセージ) |
ここで、「2.26事件史その11、処刑史考」をものしておく。 2011.6.4日 れんだいこ拝 |
【7.12日処刑の様子証言考】 | ||
結局、この事件で二人が自決、北一輝など19人が死刑判決を受け処刑された。反乱部隊は、その後、当初の予定どおり満州に送られ、下士官兵の多くがノモンハンで戦死した。 | ||
「2・26事件介錯人の告白」が処刑の様子を次のように証言している。証言者は、15名の死刑の一人であった林八郎少尉の士官学校の同級生の進藤義彦(陸軍騎兵学校の戦車第三中隊長で少佐)で「運命の介錯人」を務めた。平成3年になって初めて銃殺刑の実態の告白記事を発表した。
2013-02-26 ブログ「2.26事件秘話 下士官兵の処分」によれば、「小銃は額と胸に照準し固定され、引き金は陸軍の将校を集めた。かつての同志、陸士の同期生がその引き金を引いたのだ。一種の踏み絵だね」とある。 「観音像」も次のように伝えている。これを要約しておく。
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【反乱軍将校の処刑】 | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
7.12日、宣告1週間後、代々木の陸軍刑務所内北西に設置された刑場で5名の銃殺刑が執行された。当日の銃殺刑執行に当たって、隣の代々木練兵場では空砲を使った射撃練習を行い、刑執行の銃声を消した。刑の執行は五人一組で行われ、
の十五人の刑が執行された。元歩兵大尉の村中孝次と元一等主計の磯部浅一は北一輝、西田税の裁判で重要証人となっていたため刑の執行が延期され、北らの裁判が結審し死刑が確定した8.19日に北、西田らと共に銃殺刑が執行された。 処刑は陸軍省発表で報じられた。それまで民衆は審理経過を一切知らされぬまま、突如この発表を見て大いに驚いた。血盟団事件、5・15事件、相沢事件の裁判は公開で、連日新聞報道されたが、今回は事件鎮圧後何の音沙汰もないままに、いきなりの死刑執行の発表となった。 |
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第1次処断(昭和11年7月5日まで判決言渡)
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井伏鱒二の「荻窪風土記」は、2・26事件について次のように記している。
死刑囚の遺骸について、「二.二六事件と興国山賢崇寺」が次のように記している。
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【二・二六事件死没者慰霊碑考】 | |||||
2020.7.11日、「「二・二六事件85年目の夏 渋谷に建つ慰霊像の不思議」その他参照 2・26事件を記念し死没者を慰霊する碑が東京都渋谷区宇田川町(神南隣)にある。代々木練兵場の跡地で、2・26事件の首謀者である青年将校・民間人17名の死刑執行が行われた所で「二十二士の墓」がある。17名の遺体は郷里に引き取られたが、磯部のみが本人の遺志により東京都墨田区両国の回向院に葬られている。
旧東京陸軍刑務所敷地跡に立てられた渋谷合同庁舎の敷地の北西角に観音像(昭和40年2月26日建立 東京都渋谷区宇田川町1-1)がある。献花台の脇に建てられた木標には、「二・二六事件慰霊像」と墨書されている。慰霊像の横にある碑文には次のように書かれている。碑文は、客観的な記述を心がけ、重臣や殉職警察官に対しても、慰霊が込められている。
毎年2.26日と7.12日の2回、麻布賢崇寺で「二・二六事件の法要」が行われている。年2回の法要のうち、2.26日は襲撃の被害に遭った方々も含めて法要されている(「仏心会」主催)。死刑執行の際、同期の林八郎少尉を撃った真藤少尉(当時)の尺八献奏もある。現在の世話役代表は3人(対馬中尉、田中中尉、安田少尉の親族の方)。また、「二・二六事件慰霊像」の世話は「慰霊像護持の会」が行っている。池田少尉(求刑は死刑)、北島伍長、今泉少尉の親族の方が中心。 佛心會とは、2.26事件で刑死した青年将校の遺族会であり、代表の河野司氏は、自決した河野大尉の実兄。戦後、2.26事件関係の資料を精力的に集め公刊している。毎年、賢崇寺(けんそうじ、東京都元麻布1-2-12、佐賀鍋島家の菩提寺)で合同慰霊式を行っている。神奈川では、牧野前内務大臣を襲撃した湯河原町宮上の旅館・伊藤屋の別館「光風荘」が、現在地元有志によって資料館となって公開されている。襲撃を指揮し病院で自決する河野大尉の遺言、殉職した巡査の焼けただれた万年筆、当時の新聞のコピーなど多数を展示されている。山口では、下関市出身で渡辺教育総監を襲撃した田中勝陸軍中尉の長男への遺言(複写)、写真など十数点を、山口県下関市にある忌宮神社が展示した。青森では、栗原隊として首相官邸を襲撃した対馬中尉の96歳となった実妹のインタビューが新聞に掲載された。「波多江さんは、今も事件に参加した兄の「純真な気持ち」を信じている。「父親は青森へ転居する前は農家だったし、貧乏な農家のことは身に染みていたのではないか」。部下には農家の出身が多く、娘が売られるなどの農家の厳しい実態を知って、「このままではいけない」と思い立ったのではと心情をくむ。「非常に正義感が強く、とにかく曲がったことが嫌いで真っすぐな性格の人でしたから」」と述べている。 |
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かつてこの地に陸軍刑務所があった。軍法会議で死刑判決を受けた青年将校らは、事件からわずか4か月半後の7月12日、刑務所の敷地内で刑に処された。慰霊像の横に一体となって残る赤レンガは、その刑務所の壁だった。
1965(昭和40).2月、30回忌にあたるこの年、青年将校らの遺族会「仏心会」(ぶっしんかい)によって観音像が建立された。仏心会は「全殉難物故者」の慰霊を目的として設立されている。同会のホームページにも次のような記述がある。
犠牲者の一人である渡辺教育総監の娘・和子さん(2016年死去)は、事件から50年後の昭和61(1986)年2月に仏心会による法要に初めて参加した時の心境をこう吐露している。
のちに230万部を超えるベストセラー『置かれた場所で咲きなさい』(幻冬舎)を残すことになる和子さんは、亡き父に導かれるようにして法要に参加した。このとき参列した被害者側の遺族は、和子さん一人だったという。そして、その場で父を襲撃した二人の将校の遺族と顔を合わせている。 『渡辺錠太郎伝』(小学館)を著わした歴史研究者の岩井秀一郎氏は、事件の半世紀後に始まった稀有な“縁”を同書の中で明かしている。
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【「弁護人なし、非公開、上告なし…東京陸軍軍法会議」考】 | |
2019.6.17日、「二・二六事件のその後~青年将校たちはどうなったのか」。
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【黒幕の陸軍首脳部の取り調べ】 | |
黒幕の陸軍首脳部の取り調べ。まず、香椎浩平戒厳司令官が取り調べを受けた。香椎が黒幕でないにしろこの事件を計画した一味の人間ではないかという疑惑であった。さらに、荒木・真崎両軍事参議官を叛乱幇助の容疑で逮捕。青年将校を擁護する行動をとったことの責任が問われた。だが、結局、香椎は不起訴と決定された。 青年将校と近しい関係と見られていた真崎甚三郎は、4月に憲兵の取り調べを受ける。翌12.6月、第1回公判が行なわれた。同年9月、無罪判決が出された。(荒木について不明) 真崎・荒木らは裁判にまわされたが、無罪判決であった。「陸軍大将が叛乱関係で実刑をうけたとあっては陸軍の名誉にかかわる」という面子を守るためだったと思われる。 常人班(軍人外)担当裁判長の吉田法務少将は次の書簡を残している。
法的に審理・裁判して、法に基づいて決められたはずの刑量が、実は本省の指示で決定されていた証拠であろう、とある。 |
【北逮捕、西田検挙】 | |
2.28日、北が逮捕され、3.4日、西田が検挙された。2人に対する第1回公判は10月1日に行なわれ、2人を極刑にしようとする陸軍上層部と、公平な裁判を求める裁判官が対立した末、昭和12年(1937)8月14日、2人に死刑判決が下される。
その5日後の8月19日、北と西田は、磯部と村中とともに銃殺された。 村中の遺書には、「新井法務官曰く、北、西田は今度の事件には無関係なんだね、しかし殺すんだ。死刑は既定の方針だからやむを得ない・・・」との一節がある。 常人班(軍人外)担当裁判長の吉田法務少将は次の書簡を残している。
法的に審理・裁判して、法に基づいて決められたはずの刑量が、実は本省の指示で決定されていた証拠であろう、とある。 |
【「第2次処断」】 | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
7.29日、「第2次処断」として禁錮刑が宣告された。
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【「第一次背後関係処断」】 | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
1937(昭和12).1.18日、「第一次背後関係処断」の判決が宣告された。
事件の裏には、陸軍中枢の皇道派の大将クラスの多くが関与していた可能性が疑われるが、「血気にはやる青年将校が不逞の思想家に吹き込まれて暴走した」という形で世に公表された。 事件後、陸軍の皇道派は壊滅し、東条英機ら統制派の政治的発言力がますます強くなった。事件後に事件の捜査を行った匂坂春平陸軍法務官(後に法務中将。明治法律学校卒業。軍法会議首席検察官)や憲兵隊は、黒幕を含めて事件の解明のため尽力をする。 |
【「第二次背後関係処断」】 | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
8.14日、「第二次背後関係処断」の判決が宣告された。
その他判決は次の通り。
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【北一輝、西田税、磯部浅一、村中孝次銃殺刑】 |
8.19日、磯部浅一、村中孝次と彼ら青年将校の思想的指導者と目された北一輝や西田税を含む4名が処刑された。いずれも処刑は銃殺刑であった。 |
【事件と昭和天皇】 | ||
34歳で事件に直面した天皇。軍部に軽視されることもあった中、陸海軍を動かし、自らの立場を守り通した。クーデター鎮圧の成功は、結果的に、天皇の権威を高めることにつながった。
事件後、日本は戦争への道を突き進んでいく。高まった天皇の権威を、軍部は最大限利用して、天皇を頂点とする軍国主義を推し進める。そして軍部は、国民に対して命を捧げるよう求めていく。日本は大東亜戦争に突入。天皇の名の下、日本人だけで310万人の命が奪われ、壊滅的な敗戦に至った。二・二六事件からわずか9年後のことだった。戦後、天皇は忘れられない出来事を2つ挙げている。終戦の時の、自らの決断。そして、二・二六事件。
晩年、天皇は、2月26日を「慎みの日」とし、静かに過ごしたという。 |
【海軍の極秘文書6冊】 | |
海軍は、二・二六事件を記録し続けた事実を一切公にすることはなかった。なぜ事実を明らかにしなかったのか。極秘文書6冊のうち、事件後、重要な情報をまとめたと思われる簿冊がある。そこには、海軍が事件前につかんだ情報が書かれていた。その内容は詳細を極めていた。 事件発生の7日前。東京憲兵隊長が海軍大臣直属の次官に機密情報をもたらしていた。「陸軍・皇道派将校らは、重臣の暗殺を決行 この機に乗じて、国家改造を断行せんと計画」。襲撃される重臣の名前が明記され、続くページには首謀者の名前が書かれていた。事件の一週間も前に、犯人の実名までも、海軍は把握していたことになる。海軍は、二・二六事件の計画を事前に知っていた。しかし、その事実は闇に葬られた。 なぜ事件は止められなかったのか、その真相は分からない。ただ、その後起きてしまった事件を海軍は記録し続けた。そこには、事件の詳細な経緯だけでなく、陸軍と海軍の闇も残されていた。昭和維新の断行を約束しながら青年将校らに責任を押し付けて生き残った陸軍。事件の裏側を知り、決起部隊ともつながりながら、事件とのかかわりを表にすることはなかった海軍。極秘文書から浮かび上がったのは二・二六事件の全貌。そして、不都合な事実を隠し、自らを守ろうとした組織の姿だった。
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戦後、財団法人史料調査会の理事として旧海軍の資料の管理をしていた戸髙一成氏は、この極秘文書を目にするのは初めてだという。「これは本当にすごいですね。多くの結果を引き出す要素をもった、資料として本当に第一級のものと言っていいです」(戸髙さん・大和ミュージアム館長)。これまでは、事件後まとめられた陸軍軍法会議の資料が主な公文書とされてきた。今回発見されたのは、海軍が事件の最中に記録した文書6冊。作成したのは海軍のすべての作戦を統括する「軍令部」だ。 | |
当事者である陸軍とは別に海軍が独自の情報網を築いていた。海軍は、情報を取るため一般市民に扮した私服姿の要員を現場に送り込み、戒厳司令部にも要員を派遣、陸軍上層部に集まる情報を入手していた。さらに、決起部隊の動きを監視し、分単位で記録、報告していた。 |
(私論.私見)
二・二六事件総覧