2.26事件史その12、事件その後考 |
更新日/2020(平成31→5.1日より栄和改元/栄和2).7.23日
この前は【2.26事件史その9、処刑史考】に記す。
(れんだいこのショートメッセージ) |
ここで、「2.26事件史その12、事件その後考」をものしておく。 2011.6.4日 れんだいこ拝 |
【事件後、統制派が陸軍中枢を掌握】 |
当時の帝国陸軍には皇道派と統制派という二大派閥が存在し、蹶起した青年将校たちは皇道派に属していた。皇道派は「小国主義」と言い換えることもできるかもしれない。これと対峙していた統制派は「大国主義」である。
皇道派は、財政負担の観点から国民を疲弊させず、あくまでも身の丈にあった範囲で勝てる見込みのある戦いしかしないという「小国主義」であった。財政路線であり、石橋湛山の「小国主義」にも似た思想である。一方、統制派は、英米などの「持てる国」に対抗するために、自らが「持てる国」を目指し、そのためは無理にでも背伸びして国力を増強させる「大国主義」であった。「大国主義」は「拡張主義」と言い換えてもいい。財政拡大路線である。 クーデターが失敗に終わった結果、陸軍内部では現状維持派の皇道派がパージされ、拡大路線の統制派が陸軍中枢を握ることになった。その結果、なし崩し的に戦争へとなだれこんでいくことになる。2.26事件後、「内にこもる選択」より「外に打って出る選択」へと転換した。 |
【昭和天皇の神格化確立】 | |
事件後、34歳で事件に直面した昭和天皇の断固たる意思でクーデターを鎮圧させたことにより、結果的に天皇の権威を高めることになった。
事件後、日本は戦争への道を突き進んでいく。高まった天皇の権威を、軍部は最大限利用して、天皇を頂点とする軍国主義を推し進める。そして軍部は、国民に対して命を捧げるよう求めていく。その後、大東亜戦争に突入した。二・二六事件からわずか9年後のことだった。 |
【事件後の政局】 |
事件は様々な余波を残した。事件終結後の3月、岡田啓介内閣は総辞職し、広田弘毅内閣が成立する。その組閣の際、陸軍統制派の武藤章は、寺内寿一を陸相に推し、さらに寺内とともに吉田茂らの入閣を拒否するなど、広田に様々な圧力をかけた。また組閣後、陸軍では寺内陸相のもと粛軍が行なわれる。戒厳令は7月頃まで続いた。 皇道派は主要メンバーの多くが予備役に編入され、事実上、陸軍中央から一掃された。こうした事件後の処置により、統制派は陸軍内だけでなく政治面でも強い影響力を持ち、この流れで大東亜戦争に向かっていくこととなる。事件は、多くの人を巻き込み、また多くの思惑と絡みながら、日本の歴史を大きく変えていった。(参考文献、北博昭「二・二六事件 全検証」、筒井清忠「二・二六事件と青年将校」ほか) |
【決起部隊残党が日中戦争の勃発に伴い相次いで前線に送られる】 |
決起部隊に加わった下士官・兵は日中戦争の勃発に伴い相次いで前線に送られ、「お前らは(2・26事件という)大変なことをしでかしたのだから、率先して国家に報いる義務を負う」とされ、真っ先に突撃を命じられたり、意図的に最激戦区に配置され、その多くが散華させられている。 5月、安藤隊の生き残り兵士がチチハルに派遣された。渡満前の帰宅も集団外出だった。上野までは聯隊の下士官、上のからは在郷軍人の引率で自宅に帰り、夕刻までには駅に戻る、という監視つきだった。 翌年2月、九年兵が満期除隊すると、初年兵が入ってきて、十年兵が戦力の中心になった。8月、9月と北支に転戦がつづき多くの戦死者を出した。二・二六事件の汚名を返上するのだと上官たちから前線に出されることが多かった。 |
4月、関東軍の暴走を抑える為に支那派遣軍を2倍強に増強したが逆に日本の武力工作と誤解された。永田鉄山の「慎重な華北分離政策」は東條英機、武藤章に引き継がれ、「強引な華北分離政策」として暴走して、関東軍の「内蒙工作」と複雑に絡み合って挫折していく。華北分離工作は蒋介石政権との全面衝突の危機を孕んだ非常に危険な工作だった。石原莞爾がそれに気づき「華北分離工作」を中止しようとし始める。 |
【昭和天皇が、陸軍特別大演習を統括するため鹿児島、宮崎両県を訪問】 |
11月、昭和天皇が、陸軍特別大演習を統括するため鹿児島、宮崎両県を訪問。11.16日、後の地方巡視で、鹿児島の霧島神宮を参拝。鈴木貫太郎侍従長、本庄繁侍従武官長が随行した新聞聯合写真部の内山林之助氏撮影の写真が遺されている。約100日後、2.26事件に巻き込まれ、鈴木貫太郎侍従長は銃撃され瀕死の重傷を負った。妻たかの「とどめはやめてください」との懇願で、軍刀を持っていた安藤輝三大尉が引き下がり、一命をとりとめた。本庄繁侍従武官長は反乱軍の鎮圧に動いた。天皇は連日十数回も本庄を呼び状況を尋ねている。本庄は、青年将校らの思いを分かって欲しいと訴えたが、天皇は聞く耳をもたず「自ら近衛師団を率い、これが鎮圧に当らん」(「本庄日記」)と断固鎮圧の意志を示した。事件は2.29日、将校らの投降で幕を閉じた。鈴木は退任し、本庄は引責辞任した。その後、鈴木は1945.4月、天皇の懇請に応じ首相に就任。難しい国政の舵取りをして戦争終結を実現した。本庄は、満州事変の際に関東軍司令官だっことで同年11月、連合国軍総司令部から戦犯として逮捕命令が出たため、自決した。 |
12.5日、ソ連で新憲法が制定される。
12.8日、第二次大本事件。大本教の出口王仁三郎ら幹部30余名逮捕。翌1936年3月13日:結社禁止。
【積極財政行き詰まる】 |
積極財政以降この頃まで日本は恐慌に喘ぐ世界を後目にめざましい発展を遂げていた。昭和6~11年間に軍需品を中心とする全工業製品の生産額は2.5倍に増え、輸出も3倍に増えている。この間にインフレは卸売物価が1.4倍になった程度。しかし昭和10年頃から積極財政の継続が困難になり始める。これは次のようなプロセスで起きている。 ①・景気回復により、公債の市場消化を成功させていた銀行融資が、軍需産業の設備投資に回る。 ②・このため低金利の公債に資金が向かなってくる。 ③・さらに好況が続き、市中資金が逼迫してくる。 ④・これにより一般貸し出し金利が上昇する。 ⑤・このため政府の低金利政策の維持が困難になってくる。 ⑥・低金利の国債は、価格維持も難しくなる。 この様にして公債市中消化率が急激に悪化。昭和9年度のには128%だった消化率が、10年度末には消化率は77%に急落。 この市中未消化公債が増えることは、日銀の公債引き受けが増える事を意味する。これは日銀の通貨発行量を増やすことにつながる。つまり、経済的裏付けの無い市中通貨量増大によるインフレ、という悪性インフレの危険性が現実化し始める。公債増発の結果、国債未償還額も累積し、総額は昭和6年末の64億円から、昭和10年度103億円まで、6割の増大。(参考までに昭和10年の国民所得推計額は144億円) 昭和10年下半期には深井日銀総裁が、「悪性インフレの懸念が出てきた。もう危ない。日銀引き受けの赤字国債と軍事費の増大はもうやめるべきだ」と進言。高橋蔵相はこれを受け、11年度予算編成から公債漸減方針を打ち出す。つまり、歳出の膨張を押さえ、税収の自然増を目安に公債を削減しようとした。時局匡救予算を9年度限りでうち切り、軍事費も削減しようとした。この事は軍事費増額を要求する軍部の反発を買い激しく対立。結局、11年度予算でも軍事費の増額追加を認めざるを得なくなる。(「あの戦争の原因」) |
【阿部定事件考】 | ||||
2019/05/26 、「藝春秋 増刊号 昭和の35大事件」の「恋人の局所を切り取った阿部定事件の真相―逮捕直後の写真で阿部定は笑っている死体には『定・吉二人きり』の血文字」その他参照。
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「●2.26事件(背後で操ったのは?今また田母神問題で)」が次のよう記している。興味深いので転載しておく。
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この後は別章【皇道派指導者、将校列伝】に続く。
(私論.私見)