2.26事件史その12、事件その後考



 更新日/2020(平成31→5.1日より栄和改元/栄和2).7.23日

 この前は【2.26事件史その9、処刑史考】に記す。

 (れんだいこのショートメッセージ)
 ここで、「2.26事件史その12、事件その後考」をものしておく。

 2011.6.4日 れんだいこ拝


【事件後、統制派が陸軍中枢を掌握】
 当時の帝国陸軍には皇道派と統制派という二大派閥が存在し、蹶起した青年将校たちは皇道派に属していた。皇道派は「小国主義」と言い換えることもできるかもしれない。これと対峙していた統制派は「大国主義」である。 皇道派は、財政負担の観点から国民を疲弊させず、あくまでも身の丈にあった範囲で勝てる見込みのある戦いしかしないという「小国主義」であった。財政路線であり、石橋湛山の「小国主義」にも似た思想である。一方、統制派は、英米などの「持てる国」に対抗するために、自らが「持てる国」を目指し、そのためは無理にでも背伸びして国力を増強させる「大国主義」であった。「大国主義」は「拡張主義」と言い換えてもいい。財政拡大路線である。

 クーデターが失敗に終わった結果、陸軍内部では現状維持派の皇道派がパージされ、拡大路線の統制派が陸軍中枢を握ることになった。その結果、なし崩し的に戦争へとなだれこんでいくことになる。2.26事件後、「内にこもる選択」より「外に打って出る選択」へと転換した。

【昭和天皇の神格化確立】
 事件後、34歳で事件に直面した昭和天皇の断固たる意思でクーデターを鎮圧させたことにより、結果的に天皇の権威を高めることになった。
 「二・二六事件を経て、軍事君主としての天皇の役割はすごく強くなってしまって。天皇の権威、神格化といってもいいですが、そういうものが二・二六事件で大いに進んだことは間違いないと思います」(山田さん・明治大学 教授)。

 事件後、日本は戦争への道を突き進んでいく。高まった天皇の権威を、軍部は最大限利用して、天皇を頂点とする軍国主義を推し進める。そして軍部は、国民に対して命を捧げるよう求めていく。その後、大東亜戦争に突入した。二・二六事件からわずか9年後のことだった。


【事件後の政局】
 事件は様々な余波を残した。事件終結後の3月、岡田啓介内閣は総辞職し、広田弘毅内閣が成立する。その組閣の際、陸軍統制派の武藤章は、寺内寿一を陸相に推し、さらに寺内とともに吉田茂らの入閣を拒否するなど、広田に様々な圧力をかけた。また組閣後、陸軍では寺内陸相のもと粛軍が行なわれる。戒厳令は7月頃まで続いた。

 皇道派は主要メンバーの多くが予備役に編入され、事実上、陸軍中央から一掃された。こうした事件後の処置により、統制派は陸軍内だけでなく政治面でも強い影響力を持ち、この流れで大東亜戦争に向かっていくこととなる。事件は、多くの人を巻き込み、また多くの思惑と絡みながら、日本の歴史を大きく変えていった。(参考文献、北博昭「二・二六事件 全検証」、筒井清忠「二・二六事件と青年将校」ほか)

【決起部隊残党が日中戦争の勃発に伴い相次いで前線に送られる】
 決起部隊に加わった下士官・兵は日中戦争の勃発に伴い相次いで前線に送られ、「お前らは(2・26事件という)大変なことをしでかしたのだから、率先して国家に報いる義務を負う」とされ、真っ先に突撃を命じられたり、意図的に最激戦区に配置され、その多くが散華させられている。 

 5月、安藤隊の生き残り兵士がチチハルに派遣された。渡満前の帰宅も集団外出だった。上野までは聯隊の下士官、上のからは在郷軍人の引率で自宅に帰り、夕刻までには駅に戻る、という監視つきだった。

 翌年2月、九年兵が満期除隊すると、初年兵が入ってきて、十年兵が戦力の中心になった。8月、9月と北支に転戦がつづき多くの戦死者を出した。二・二六事件の汚名を返上するのだと上官たちから前線に出されることが多かった。

 4月、関東軍の暴走を抑える為に支那派遣軍を2倍強に増強したが逆に日本の武力工作と誤解された。永田鉄山の「慎重な華北分離政策」は東條英機、武藤章に引き継がれ、「強引な華北分離政策」として暴走して、関東軍の「内蒙工作」と複雑に絡み合って挫折していく。華北分離工作は蒋介石政権との全面衝突の危機を孕んだ非常に危険な工作だった。石原莞爾がそれに気づき「華北分離工作」を中止しようとし始める。

11.12日、関東軍兵力を山海関に集中。

【昭和天皇が、陸軍特別大演習を統括するため鹿児島、宮崎両県を訪問】
 11月、昭和天皇が、陸軍特別大演習を統括するため鹿児島、宮崎両県を訪問。11.16日、後の地方巡視で、鹿児島の霧島神宮を参拝。鈴木貫太郎侍従長、本庄繁侍従武官長が随行した新聞聯合写真部の内山林之助氏撮影の写真が遺されている。約100日後、2.26事件に巻き込まれ、鈴木貫太郎侍従長は銃撃され瀕死の重傷を負った。妻たかの「とどめはやめてください」との懇願で、軍刀を持っていた安藤輝三大尉が引き下がり、一命をとりとめた。本庄繁侍従武官長は反乱軍の鎮圧に動いた。天皇は連日十数回も本庄を呼び状況を尋ねている。本庄は、青年将校らの思いを分かって欲しいと訴えたが、天皇は聞く耳をもたず「自ら近衛師団を率い、これが鎮圧に当らん」(「本庄日記」)と断固鎮圧の意志を示した。事件は2.29日、将校らの投降で幕を閉じた。鈴木は退任し、本庄は引責辞任した。その後、鈴木は1945.4月、天皇の懇請に応じ首相に就任。難しい国政の舵取りをして戦争終結を実現した。本庄は、満州事変の際に関東軍司令官だっことで同年11月、連合国軍総司令部から戦犯として逮捕命令が出たため、自決した。

 12.5日、ソ連で新憲法が制定される。


 12.8日、第二次大本事件。大本教の出口王仁三郎ら幹部30余名逮捕。翌1936年3月13日:結社禁止。


【積極財政行き詰まる】
 積極財政以降この頃まで日本は恐慌に喘ぐ世界を後目にめざましい発展を遂げていた。昭和6~11年間に軍需品を中心とする全工業製品の生産額は2.5倍に増え、輸出も3倍に増えている。この間にインフレは卸売物価が1.4倍になった程度。しかし昭和10年頃から積極財政の継続が困難になり始める。これは次のようなプロセスで起きている。

①・景気回復により、公債の市場消化を成功させていた銀行融資が、軍需産業の設備投資に回る。
②・このため低金利の公債に資金が向かなってくる。
③・さらに好況が続き、市中資金が逼迫してくる。
④・これにより一般貸し出し金利が上昇する。
⑤・このため政府の低金利政策の維持が困難になってくる。
⑥・低金利の国債は、価格維持も難しくなる。

この様にして公債市中消化率が急激に悪化。昭和9年度のには128%だった消化率が、10年度末には消化率は77%に急落。

 この市中未消化公債が増えることは、日銀の公債引き受けが増える事を意味する。これは日銀の通貨発行量を増やすことにつながる。つまり、経済的裏付けの無い市中通貨量増大によるインフレ、という悪性インフレの危険性が現実化し始める。公債増発の結果、国債未償還額も累積し、総額は昭和6年末の64億円から、昭和10年度103億円まで、6割の増大。(参考までに昭和10年の国民所得推計額は144億円)

 昭和10年下半期には深井日銀総裁が、「悪性インフレの懸念が出てきた。もう危ない。日銀引き受けの赤字国債と軍事費の増大はもうやめるべきだ」と進言。高橋蔵相はこれを受け、11年度予算編成から公債漸減方針を打ち出す。つまり、歳出の膨張を押さえ、税収の自然増を目安に公債を削減しようとした。時局匡救予算を9年度限りでうち切り、軍事費も削減しようとした。この事は軍事費増額を要求する軍部の反発を買い激しく対立。結局、11年度予算でも軍事費の増額追加を認めざるを得なくなる。(「あの戦争の原因」)

【阿部定事件考】
 2019/05/26 、「藝春秋 増刊号 昭和の35大事件」の「恋人の局所を切り取った阿部定事件の真相―逮捕直後の写真で阿部定は笑っている死体には『定・吉二人きり』の血文字」その他参照。
 1936(昭和11)年、松飾りもとれて間もない2.26日、帝都を埋めた深雪を血に染めた陸軍少壮将校の率いる反乱があった(二・二六事件)。この頃、兇悪な犯罪が続出し、当時のジャーナリズムはエロ・グロ時代と騒いだ。その翌年秋、上海事変が突発した。軍国主義の暗雲が社会を覆っていた。

 1937(昭和12).5.18日、男を殺し、その男の局所(「下腹部」、「急所」と書いた新聞も)を切り取って持ち去った稀代の猟奇事件「阿部定事件」が発生した。19日付け毎日新聞の前身である当時の東京日日新聞朝刊は、初号見出しで「『待合のグロ犯罪』と横組」、「『夜会巻の年増美人情痴の主人殺し」、「滴る血汐で記す『定・吉二人』、「円タクで行方を晦す」と4本4段抜きの派手な記事を載せている。

 事件の顛末は次の通り。頻発する兇悪事件未検挙の折柄、荒川区尾久4の1881待合まさきこと正木吾助方に、年齢50位の男と30位の女が5.11日から流連していた。15日の午後待合を出た彼女は上野で肉切庖丁を1丁買い求めた。18日払暁、眠る吉蔵の首に細紐をまきつけ、細紐で絞め殺した。頸部には細紐の二重の傷跡が残り、眼球は飛び出して見るも凄い形相の吉蔵であった。

 その日朝8時頃、「水菓子を買いに行く」といったまま帰らない。午後3時頃、女中の伊藤もと(33)が2階四畳半の部屋を明けると、男が蒲団のなかで絞殺されていた。所轄尾久署から傍島署長、警視庁から酒川捜査一課長、中村係長、高木鑑識課長。東京刑事地方裁判所から庄田予審判事、酒井検事が急行検視した。男は枕を窓側にして細紐で絞殺され、顔にはタオルがかけてあった。男の大腿部に「定・吉二人」、「定吉二人きり」と1字3寸角位の太い文字が血汐で描かれていた。被害者の首には赤い細紐がまかれて、そのあたりに血汐が点々としていた。また死体の左腕には『定』と生々しく刃物できざまれてあり局所が切りとられていた。枕許の男の財布はカラになっていた。被害者の身許はかねて捜索願の出ていた中野区新井町五三八、うなぎ屋料理店吉田屋の経営者/石田吉蔵(42)。立派な妻子持ちだった。逃走した犯人は埼玉県坂戸町生れの同家の女中田中かよこと阿部定(31)と判った。
 「殺人容疑者 本府人 阿部定31 身長5尺位、痩形、色浅黒く面長、頬こけ口大にして、一見水商売風、歯黄く、歯並にすき間あり。著衣。うずらお召、鼠地に銀箔のウロコ形飛模様のついた単衣の襦袢、ちりめん水色無双の長襦袢。帯、薄卵色の竪縞のあるしゅすの昼夜帯。下駄、桐表つき駒下駄、卵色の鼻緒つき。常に用ゆる偽名田中かよ、黒川かよ、阿部かよ、田村加代、吉井昌子。尚、犯人は温泉地その他において、女中酌婦の経験あり、特に温泉地を警戒されたし」。

 水菓子を買いに行くといって尾久の待合まさきを出てからの彼女の逃走は、巧みに変装、市内を転々として20日午後5時半ごろ品川駅前の旅館品川館で捕われるまで、まる2日半、満都の話題となった。18日深更、名古屋市の野球で有名な私立商業の校長をしている大宮某氏(49)が突如、尾久の捜査本部を訪問している。この校長先生は事件前年の春、お定が名古屋市のさる旅館の女中をしていた頃、花見で知り合った。校長会議で上京した彼は5.15日に品川の夢の里で会い、お定に50円の小遣を渡したが、これがかの女の逃走資金となった。当時は円タク全盛時代。待合を出たかの女は付近から円タクを拾って新宿伊勢丹に行き、さらに下谷区上野町の古着屋で着衣を変えて、着ていた犯行当時の着物を13円50銭で売り、地味なうろこ形の着物を5円で買い変装した。その足でかねてしめし合せた大宮氏と神田万惣果物店で落ち合った。2人はここから日本橋のそば屋に現われてうどんかけを食べている。かの女は大宮氏には吉蔵を殺したことは何一つ話していない。

 2人は午前11時ごろ西巣鴨2の1989緑屋旅館に現われて、2階4号室に落ちついた。お定は洗い髪を夜会巻にするため、ピンとヘヤーネットと打紐を買ってもらった。注文の品を持って女将が二階の部屋の襖をあけると、お定が泣いていたので間が悪くなって帳場にそそくさと帰った。階下に降りてきたお定はお風呂を焚いてくれと頼んだが、手がないからと断ると金はいくらでも出すからと風呂を焚かせて入浴。その時かの女は部屋が気に入ったから下宿に置いてくれと頼んでいる。追手をのがれて大宮氏としばしの愛の巣と考えたのだろう。女将は賄つき月25円だが、空間がないから断っている。その休憩料を5円札で払い2円20銭、1円をチップに出している。貨幣価値を300倍とか400倍といっても当時の5円札は値打ちのあったものだ。ここを出てから大宮氏は文部省の校長会議に出ている。大宮氏は捜査本部でことの真相を知り教育者として自責の念に堪えず早速電報で辞表を出し退職した。後にお定は公判廷で『大宮さんは清らかな人でした。あの方の同情で私は心から更生の道をたどろうとしたのに……あの方にご迷惑をかけました』と泣いて詑びていた。

 この日午後3時ごろ芝区新橋六の四古着屋あずまこと中島忠作方に現われた。2度目の変装である。このころ尾久の捜査本部や各警察署にはお定らしい人相の女が現われたという電話が幾度かかかってくる。猟奇の殺人犯もいよいよ網の眼がせばめられた。ここでは鼠色縞の金糸菊花模様の名古屋帯、黒地に茶の堅縞の横条のセルの単衣、羽二重絞りの帯揚の3点を12円で買った。お定は古着屋の奥の一間をかりて着換えて横浜へ行くとそそくさと出て行ったと妻女のあきさんが近所の交番に届け出た。その時の模様を妻女はこう語っていた。「普通の束髪をしたキリッとした人でした。……鼠色の風呂敷包を大事そうにして、着換えの時にも『いじらないでネ』と大切にしていた」。この風呂敷包こそ吉蔵の局所を包んだものだった。仕事の済むまでたばこをふかしていたが、すぐ前向の味噌屋さんの若夫婦の働らくのをながめながら、『若夫婦は朗らかですネ……』とうらやましそうにいうので、『あなただって若いでしょう』といったら、かの女は淋しく眼を落して笑ったという。19日の夜は浅草の安宿に泊った。すぐにも検挙と気負いこんだ捜査本部はかの女のためにさんざんに"ほんろう"された。まだ高飛した気配はない。必ず市内に潜伏しているという捜査本部の捜査方針は正しかった。事件発生後約3日目の20日午後5時半ごろ、省線品川駅前芝高輪南町76旅館品川館に潜伏中を高輪署の安藤部長刑事が逮捕した。お定は19日午後5時すぎに旅館に来て、『すこし休ませてくれ』といって部屋にはいった。かの女はさすがに焦悴の色が見えた。宿の番頭に頼んで眼帯を買った。右の眼が痛いといってかけてから、東京の新聞を全部見せて下さいといって、しばらく社会面に眼を通していたが、お定事件満載の記事を見て『まア、大事件がありますね』と独り言のようにつぶやいて宿帳に筆を取った。ここでも早、逃れられないと覚悟して、かの女は遺書5通を認めた。

 高輪署の部長刑事は宿帳をしらみつぶしに調べていた時に、女文字、しかも関西生れがまずピンときた。これは臭いゾと品川館に乗りこんでかの女の部屋に乗りこんだ。かの女はあっさりと安藤部長刑事の前に頭を下げた。かの女の捕われた最後の所持品はただ一つの小さな風呂敷包である。嫌がるかの女から包を取って開けて見ると、なかから出てきたものは吉蔵の猿股、メリヤスのシャツがハトロン紙に包まれてあった。兇行に使用した刃渡5寸の肉切庖丁はかの女の枕許の蒲団の下から出てきた。だがまだ肝腎の局所が現われない。安藤さんにせがまれたかの女は、帯の間からハトロン紙に包んだものをチラリと見せて、すばやくまた帯の間に挟んでしまった。お定捕わる! 高輪署から自動車で護送されるお定は群集の歓声に包まれた。捜査本部の尾久署前の市電はストップされ、一眼見ようとする群集で新聞社の旗を立てた自動車すら身動きできない。ニュース映画班、カメラマンのフラッシュ――。黒地人絹縞の単衣姿のかの女は落ちつきを見せてレンズの前に立った。恥らいもなくニッと笑う面長の顔。かの女は酔っているかのようにほほ笑みつづけた。事件の経過を発表する総指揮の浦川捜査一課長は顔中無精ひげだらけ。顔面紅潮感激の緊張感。『やあ有難う。有難う』を繰り返すのみ。これで警視庁も辛うじて面目を保った。
 逮捕時には国会の委員会審議が中断されて議員が号外に読みふけり、大阪では市電の車掌が「(切符を)切らしていただきます」と言って客に笑われたという。2年後の1938(昭和13)年、岡山県西加茂村(現津山市)で30人を殺害して自殺した都井睦雄(21)はこう語っている。「阿部定は好き勝手なことをやって日本中の話題になった。どうせ死ぬのなら、負けんようなほどえらいことをやって死にたいもんじゃ」。都井は、阿部定の予審(判事が公判の可否を判断する当時の法制度)での供述調書も読んだ。非公開の調書が持ち出されて印刷され売買された。それほど、この事件は世間の好奇心の的となった。報道の過熱ぶりは現在のワイドショー以上。新聞の見出しも「昭和の高橋お伝 闇を漁る牝犬」、「いづこに彷徨ふ? 妖婦“血文字の定”」……。現場の待合や逮捕された旅館はその後、連日客が押し寄せ“観光名所”になった。逮捕前日、阿部定に呼ばれたマッサージ師は取材謝礼で家を新築した。

 当時浦井検事はかの女を評して、「我儘、虚栄心強く濫費性、傲慢で勝気、意地張りで怠惰性あり。破壊性、衝動性、好奇性あり、飲酒、喫煙の習癖。意志弱く耽溺性、熱しやすく、さめ易い等々の反社会性、犯罪性を持つ」といっている。

 お定は、神田新銀町に徳川時代から続く古いのれんの畳職阿部重吉の四女に生れている。小学校時代から遊芸を仕込まれて、いわばおんば日傘で育っている。少女時代に家運が傾き芸者に出たことから彼女の数奇な一生が始まっている。一審で服役、栃木刑務所を出たのが昭和16年。その後舞台に立ったり、伊豆山温泉のマダムをつとめている。作家長田幹彦氏はかの女のために、更生の温い力を与えている。いま浅草の『星菊水』という料亭に女中として、忙しくたち働いている彼女の名は「昌子」。時折、短冊を手にして腰折れをサラサラと認め、お客さんを喜ばせている。痩形のすらりとした肩に、くすんだ声にかの女は五十路の坂にたったが、まだその妖美を騒がれた昔の俤は生きている。阿部定いったんは結婚もしたが、戦後の足どりは転々。70年代に消息を絶った。


 「●2.26事件(背後で操ったのは?今また田母神問題で)」が次のよう記している。興味深いので転載しておく。
 これを突き詰めれば、「昭和の動乱」とは、一種の「狂言」であり、その裏側に真の目的が隠されていました。それは当時の権力機構に衝撃を与えて、それをお互いに戦わせて内乱に導き、同時に軍部の暴発を誘い、日本と中国を戦わせ、やがて日米開戦に引きずり込むと言うシナリオに他なりませんでした。

 民間の「非愛国的仮装右翼」といわれる一部の連中は、財閥や国際ユダヤ金融勢力と結びついており、陸海軍の中にも、そうした首謀者の影を見る事が出来ます。現に、海軍の士官で構成される親睦や研究や共済等を標榜した「水行社」は、フリーメーソン日本支社の巣窟であり、米内光政や山本五十六が出入りしていました。

 2.26事件によって、陸軍皇道派は完全に捻り潰されました。その後に台頭した陸軍統制派は、国際ユダヤ金融勢力によって、おだてられ、煽られた挙げ句、日中戦争の泥沼に突入し、その上、太平洋戦争への道へと突入しようとします。

 海軍では西園寺公望や岡田啓介、米内光政や山本五十六といったフリーメーソン・メンバーが、国際ユダヤ金融勢力の走狗でした。日本を滅ぼしたのは、陸軍統制派と海軍でしたが、彼等を操ったのは、西園寺公望を筆頭とするフリーメーソンらであり、また、一部の非愛国的右翼だったのです。
  歴史の節目に奇しくも重なり、日本の運命に影響を与えた阿部定事件

 昭和11年(1936年)5月18日に、突如、猟奇(りょうき)の阿部定(あべさだ)事件が起こります。阿部定が、情夫の石田吉蔵(きちぞう)を絞殺し、男根局部を切り取って逃亡すると言う前代未聞の猟奇事件が発生したのです。この事件は、約一週間に亘り、新聞の社会面を独占しました。何故か、エロに対して煩(うるさ)いはずの検閲当局が、これに制限を加えるような事をしなかったのです。しかしこれは、一種の作為があり、軍部の意図が働いていました。

  5月12日の夕刻、荒川区の旅館「まさき」の紅灯(こうとう/紅色の提灯(ちょうちん)の事で、酸漿(ほおずき)提灯とも)を潜った一組の男女がありました。男の年齢は四十五歳くらいの好男子で、女は三十を少し廻った頃の、一見玄人(くろうと)と認められる目鼻立ちの整った女性であったと「警視庁史」には記されています。そして昼夜を問わず、痴情の狂態振りを繰り広げたと言います。

 この阿部定事件は、不思議な事に「歴史の節目」と重なります。阿部定が、石田吉蔵を殺害したのは5月18日の事でした。また、この日の『官報』(詔勅・法令・告示・予算・条約・叙任・辞令・国会事項・官庁事項その他政府から一般に周知させる事項を編纂して、大蔵省印刷局から刊行する国の機関紙で、日刊)は、陸海軍の官制を改めて、大臣および次官は「現役」(【註】現役制度は一度は、予備でも後備でも大臣となれるとしたが、軍部が内閣の死命を制する為に山県有朋時代の現役制度を復活させた)に限るとしたのです。そして、これは極めて重要な改正でしたが、その後の日本の運命に、決定的な影響を及ぼし、この重要な決定事項の危険性に気付いた人は、殆どいませんでした。

 また一方で、新聞は陸海軍の現役制度復活等はそっちのけで、阿部定を「妖婦」として書きなぐり、事件を「猟奇事件」として大々的に報道するのに大忙しだったのです。新聞は、終始、定を悪女として名高い、高橋お伝(上州生れの、殺人を犯すなど、毒婦と評判された女性で、明治九年(1876年)捕えられて、明治十二年に死刑)のように報道しましたが、大衆の受け止め方は必ずしもそうではありませんでした。一方で同情され、「お定人気」は鰻(うなぎ)登りになっていました。中には、はるばる満州から裁判所の前に並んで、先着150名の傍聴を求めたのでした。当時、踊り子が脚を上げただけでも煩(うる)かった警視庁も憲兵隊も、この事件を暗示するような映画や芝居や小説の作成は禁じましたが、報道に限っては好きなようにさせていたのです。定が逮捕された後も、この時代の警察発表は報道陣にも公表されないものでした。ところが、こうした慣例に反して供述までもを公表し、こうした処置をとったのは、如何なる意図によるものだったのでしょうか。

 問題は、実はこの裏側に隠れていたのです。しかし、阿部定事件の報道が大々的に扱われてしまった為、陸海軍の「現役復活」の『官報』が隠されてしまったのです。これは意図的に画策されたものでした。ここに官憲の誘導する意図が見て取れ、その背後には巨大な支配階級(三井や三菱等の重工業を手掛ける巨大財閥や軍需工場)の見えざる、時代を操る糸があったのです。

 日本で内閣制度の誕生したのは、明治18年12月の事でした。それ以前は明治維新以来、太政大臣(だじょうだいじん)制度をとっており、太政大臣は当時、三条実美(さねとみ)でした。初代総理大臣は伊藤博文であり、陸軍大臣は大山巌(いわお)、海軍大臣は西郷従道(つぐみち)でした。この時は陸海軍とも、現役の軍人が大臣を勤めましたが、法律では現役でなければならないという決まりはありませんでした。大日本帝国憲法において、内閣の各大臣は各々が天皇から任命され、各人が天皇に対して責任を負うという形をとっていました。まず、天皇は首相を指名し、任命された首相は、天皇の組閣の要望に応じて、各省の大臣をリストアップし、本人の承諾を得た後、天皇に報告します。そして天皇が、各々を大臣に任命するのです。
 ▲昭和11年5月18日に報じられた『官報』。

 そしてこの日、陸海軍では「現役」が復活した。しかし、昭和11年(1936年)5月18日の『官報』に報じられた、「大臣および次官は現役に限る」と定めた官制は、重要な意味を秘めていたのです。「現役」には数に限りがあります。予備役や後備役は多くいますが、現役となると、そうざらにはいるはずがなく、結局、首相苛めのような形になり、「軍閥」という派閥を形成していく事になります。またこれが、軍部の暴走を許す事になり、以降、ファシズムの暴走は、誰も止める事が出来なかったのです。官制と言う、法的に効力を持つ改正法は、国家元首と雖(いえど)も憲法に従い、好き勝手をすることは許されませんでした。国家の主権たる天皇でも、軍を好き勝手に動かす事は出来なかったのです。そして一度定まれば、天皇と雖(いえど)も、憲法および下位に付帯する諸法令に基づいた権限を保持しなければならず、これが立権君主制と絶対君主制の決定的な違いでした。

 陸海軍の統帥と言う、大権が天皇に帰属している為に、外部からは誰もこれに口を挟む事は許されず、天皇もまた陸海軍を制御し、ブレーキを掛ける事は出来なかったのです。陸軍では陸軍参謀総長が軍を掌握する最大の権限を握り、また海軍では軍令部総長が最大の権限を握って、天皇と言う主権者の意思すら不在のまま、日本は戦争に突入していきます。
  ▲日独防共協定結成。

 赤坂にドイツ大使館員を招き、芸者を上げて協定締結を祝う陸軍の祝賀会。軍は、目先の問題が発生した時から、自国の国家戦略など全くお構え無しに、好き勝手に暴走し、行動を開始するという有様でした。

 本来ならば、作戦起ち上げの草案や立案の必要性があっても、そんな国家戦略上の問題は後回しにされ、不利益とされる戦いでも、これを回避する事が出来ず、国民の多くはこうした不利益と思える、最初から負け戦の予想される戦いからも逃げられずに、死地に赴かねばならなかったのです。 逆に、勝てる戦いであっても、作戦を中止したり、とにかくその総ての権限は、陸軍参謀総長や海軍軍令部総長が一手に握っていたのです。

 そして奇(く)しくも、この陸海軍に大臣並びに次官の現役制度が復活し、軍の暴走を許したのが、阿部定事件の起こった昭和11年5月18日だったのです。

 日本はこれ以降、軍部の影響力が増大し、戦争へと軍靴の足並みを揃えて、この中へと突入していきます。

 天皇に巨大な名目上の権限を与え、しかも、これを一切遣わせないと言う大矛盾を抱え、日本は戦争目的も、国家意識も、国家戦略も何も構築せぬまま、中国を行き当たりばったりに侵略し、首までどっぷりと泥沼に浸かり、また太平洋戦争突入と言う、まことに悍(おぞま)しい、結果を迎えるのです。

 そして、同年の11月25日には日独防共協定が成立し、対共産主義コミンテルンの防衛協力等の、対ソ連に関する秘密協定が結ばれます。

 そして、これから四年後の昭和15年(1940年)9月には、第二次大戦中の枢軸国であった日本・ドイツ・イタリア三国が締結した軍事同盟を結び、日・独・伊三国同盟が締結されます。この締結は、日独伊防共協定を発展させたもので、アメリカとイギリスとの対立激化を招き、やがて太平洋戦争の一要因となっていきます。
 ●軍部大臣現役武官制を許した広田弘毅内閣

 2.26事件後に組閣した広田弘毅(ひろたこうき)内閣は、陸軍統制派が実権を握った以降、陸軍の横車に対して、これを阻(はば)む力はありませんでした。陸軍は益々発言力を強め、「庶政一新」の名の下に、政治介入を押し進めて行く事になります。

 そして、陸軍の政治介入を、制度上で確実にしたのが『官報』に記された「軍部大臣現役武官制」でした。

▲陸軍首脳の横槍を阻止できなかった広田弘毅首相。そして、その責任は大きい。

 これは、明治33年の第二次山県有朋内閣の時に、明文化されたものですが、この制度によって、幾つかの内閣が倒された前例があり、大正2年の山本権兵衛内閣の時に、軍部大臣は予備役の中将や大将でもよいという風に改められました。

 しかし2.26事件以降、予備役に退いた皇道派の将軍の復活を阻止しようと考えた統制派の軍閥は、「軍部大臣現役武官制」を復活させ、これを徹底的に悪用して、軍部独裁を図り、日米開戦に突入していったのは周知の通りです。

 陸軍上層部の狙いは、自分達の気に入らない組閣は一切認めないという事であり、組閣に不満がある場合、現役軍人から陸軍大臣を出さないと言う形で妨害したのです。

 また、米内光政内閣でも見られた事ですが、陸軍大臣を辞任させる事で、内閣を崩壊させると言う悪辣(あくらつ)な手が使われました。

 これは当時、米内内閣を倒して、陸軍が操り易いように内閣を改造すると言うものでした。

 そしてその後、登場したのが近衛文麿内閣で、陸軍の筋書き通り、組閣から二ヵ月後の昭和15年(1940年)9月27日には、ベルリンで日・独・伊三国同盟が締結されたのです。

 これはやがて日米開戦の切っ掛けを作り、日米開戦の土台となったものが「軍部大臣現役武官制」だったのです。その意味で、広田内閣の指導力のなさと、その責任は非常に大きかったと言えます。

 広田首相の陸軍の横槍を阻止できなかった責任は非常に大きく、2.26事件の起こった翌昭和12年(1937年)7月7日には、北京郊外で蘆溝橋事件が起こり、これを切っ掛けに日本軍は中国への侵略戦争を開始します。そして軍部は思い上がり、益々エスカレートして陸海軍は各々の独走し、対米英戦争へと拡大していく事になります。

 政界も言論界も、最早こうした軍部の横暴は押さえ付けられ、破滅に向けて膨れ上がる、国家を滅亡に導く戦争を誰も止められなくなってしまいます。

 そして戦争指導に関わり、その名を連ねたのが、かつての三月事件(昭和6年3月に起こったクーデター未遂事件で、首班は陸相の宇垣一成。小磯國昭、建川美次、杉山元、二宮重治、それに民間人右翼の大川周明)や十月事件(クーデター未遂事件で首班は橋本欣五郎中佐以下13名)に関与した幕僚派の面々でした。

 彼等にとって、2.26事件は自分達が政治的な主導権を握る為の絶好のチャンスとなり、彼等はこの事件をうまく捕らえたのでした。

 2.26事件を決起した、青年将校達が救おうとしていた農民や底辺の一般庶民は、やがて迫り来る米英(=国際金融ユダヤ資本家たち)の脅威に、微生物の如き弄(もてあそ)ばれ、自らの生命を軽々しく扱われて、戦争遂行の捨て石にされて無慙(むざん)に散っていったのです。

 癒しの杜
 参考
 http://d.hatena.ne.jp/dokuhebiniki/20090427
 投稿者: 一陣の風




 この後は別章【皇道派指導者、将校列伝に続く。






(私論.私見)