2.26事件史その10、公判史考2



 更新日/2021(平成31.5.1日より栄和改元/栄和3).4.23日

 この前は【2.26事件史その7、公判史考1】に記す。

 (れんだいこのショートメッセージ)
 ここで、「2.26事件史その10、公判史考2」をものしておく。

 2011.6.4日 れんだいこ拝



【2.26事件その後】
 1936(昭和11)年の「2.26事件」の背景考察として、「当時は為政者も軍人も思想家も民衆も強力な閉塞感に支配されており支配者も被支配者もその所属階級を問わず『今までどおりの方法では体制が立ち行かない』状況にあった」ことが知られねばならない。この反乱は日本全土、特に軍部を震撼させ、この様な暴力革命を目指した反乱が二度と起きないように対策が取られる。この時の粛正人事により、皇道派の将軍は全て予備役に回される。以降、陸軍では皇道派が姿を消し統制派が主流となった。さらに予備役に編入した皇道派将官が陸相になれないように「軍部大臣現役制」が復活。これは現役軍人でなければ陸軍大臣、海軍大臣になれない制度。これ以前は予備役でも大臣になれた。 

 ※(大日本帝国憲法での内閣制度について)

 首相は天皇が指名し(これを「大命降下」と言う)指名された者は各省(内務省、外務省、大蔵省、陸軍省、海軍省、司法省など)の大臣をリストアップし本人の承諾を受けた上で天皇に報告。天皇がその人物を任命する。実際には重臣会議で首相候補者を選び、天皇に推薦して首相が決まる仕組。しかも各大臣の任命権は天皇に有り首相ではない。つまり首相は大臣のクビを切る事は出来ない。天皇は基本的には政治に口を挟む事はないため(立憲君主制は君主は君臨すれども統治せずが基本。口を挟めば担当大臣は無能と言うことになる)事実上、大臣と首相が意見不一致を起こしても首相に大臣を罷免する権限が無い、つまり自主的に大臣が辞めない限りは内閣総辞職をするしか無くなる。

 ここに「軍部大臣現役制」が加わると、軍が大臣候補者を出さなければ内閣は成立しないことになる。つまり軍は言うことを聞かない内閣を大臣候補者を出さないことで自由に総辞職させることが出来る。これが予備役でもよい場合、退役して民間に戻っている予備役者は大勢いますし、予備役者は暫く軍から離れていたので必ずしも現役軍人の意のままとは限らない。つまり、この「軍部大臣現役制」により、軍は内閣を意のままに出来る立場になる。(「あの戦争の原因」)

反乱軍将校の裁判
 古屋哲夫書評/須崎慎一著『二・二六事件』―青年将校の意識と心理―(絶筆)」その他参照)
 事件の裏には、陸軍中枢の皇道派の大将クラスの多くが関与していた可能性が疑われるが、「血気にはやる青年将校が不逞の思想家に吹き込まれて暴走した」という形で世に公表された。この事件の後、陸軍の皇道派は壊滅し、東条英機ら統制派の政治的発言力がますます強くなった。事件後に事件の捜査を行った匂坂春平陸軍法務官(後に法務中将。明治法律学校卒業。軍法会議首席検察官)や憲兵隊は、黒幕を含めて事件の解明のため尽力をする。

 2.28日、陸軍省軍務局軍務課の武藤章らは厳罰主義により速やかに処断するために、緊急勅令による特設軍法会議の設置を決定し、直ちに緊急勅令案を起草し、閣議、枢密院審査委員会、同院本会議を経て、3.4日に東京陸軍軍法会議を設置した。法定の特設軍法会議は合囲地境戒厳下でないと設置できず、容疑者が所属先の異なる多数であり、管轄権などの問題もあったからでもあった。特設軍法会議は常設軍法会議にくらべ、裁判官の忌避はできず、一審制で非公開、かつ弁護人なしという過酷で特異なものであった。

 当時の陸軍刑法(明治41年法律第46号)第25条は、次の通り反乱の罪を定めている。
第二十五条 党ヲ結ヒ兵器ヲ執リ反乱ヲ為シタル者ハ左ノ区別ニ従テ処断ス
一 首魁ハ死刑ニ処ス
二 謀議ニ参与シ又ハ群衆ノ指揮ヲ為シタル者ハ死刑、無期若ハ五年以上ノ懲役又ハ禁錮ニ処シ其ノ他諸般ノ職務ニ従事シタル者ハ三年以上ノ有期ノ懲役又ハ禁錮ニ処ス
三 附和随行シタル者ハ五年以下ノ懲役又ハ禁錮ニ処ス
 事件の捜査は、憲兵隊等を指揮して、匂坂春平陸軍法務官らが、これに当たった。また、東京憲兵隊特別高等課長の福本亀治陸軍憲兵少佐らが黒幕の疑惑のあった真崎大将などの取調べを担当した。

 3.1日、2.26事件に関する軍法会議の緊急勅令を仰ぐ閣議が行われた。陸軍首脳は、叛乱軍をどう処分するかで議論噴騰させた。出た結論が、天皇によって戦地と同じ(戒厳令下のため)特設軍法会議を設けることとした。「上告なし、弁護人なし、非公開、一審制」による迅速処断が打ち合わせされた。

 3.4日午前10時、枢密院本会議にて陛下臨御の下に閣議の軍法会議に関する勅命案の諮問を行い、可決の上、議長より上奏し裁可された。これを経て緊急勅令によって東京陸軍軍法会議が設置された。東京陸軍軍法会議の設置は、皇道派一掃のための、統制派によるカウンター・クーデターともいえる。


 緊急勅令
 朕茲に緊急の必要ありと認め枢密顧問の諮問を経て帝国憲法第八条第一項により東京陸軍軍法会議に関する件を裁可し之を公布せしむ

 御名御璽

   昭和十一年三月四日         内閣総理大臣 各省大臣

 天皇は本庄侍従武官長に次のように指示している。叛乱軍将兵の命運はこの裁判を前にして天皇のこの一言により決した。

  「自分としては、もっとも信頼せる股肱たる重臣及び大将を殺害し、自分を真綿にて首を絞むるがごとく苦悩せしむるものにして、甚だ遺憾に堪えず。而してその行為たるや憲法に違い、明治天皇の御勅諭にももとり、国体を汚しその明徴を傷つくるものにして深くこれを憂慮す。この際十分に粛軍の実を挙げ再び失態なき様にせざるべからず」。

 法廷は、被告人らの護送の関係で刑務所内に設けるのがいいとの議論が出たが、予審だけでなく公判までも刑務所内で行ったとすれば後に暗黒裁判と非難を受けるのは必至として、代々木練兵場内に6棟建てのバラックを建築した。各部屋ごと完全な防音が施された。4月上旬に完成し、早速裁判が開始された。周囲を鉄条網が囲み、歩哨が随所に立っていた。(なお、翌12年1月18日の判決終了後、素早くこの建物は解体された)

 裁判にあたり、匂坂春平・陸軍法務官を主席検事とする検察官6名、裁判官としては小川関次郎・陸軍法務官(明治法律学校卒業。軍法会議裁判官)以下15名が任命された。匂坂春平陸軍法務官らとともに、緊急勅令案を起草した大山文雄陸軍省法務局長は、「陸軍省には普通の裁判をしたくないという意向があった」と述懐する。この裁判官の中には普通の兵科の将校も任命されていた。例えば、酒井直次大佐や若松只一中佐などが挙げられる。また、検察官は人数が足りないということで地方の師団から4人の法務官が東京に召集された。

 裁判の事実上の指揮は陸相が握っていた。当時の陸相は寺内寿一大将で、裁判後、軍内部の粛正をすることになる。陸相の下に公判部と検察部に分けられていた。検察部が被告人の起訴、不起訴を決めるが、大臣指揮下であった。公判部の「司法の独立」は建前に過ぎず、任命権者の陸相の操りでしかなかった。即ち、陸相権限でいかようにも処断できる裁判となっていた。こういう体制下で起訴された将校以下123名が将校班、下士官班、兵の班、常人班の5組に分けられ、担当裁判官も同じく5組に分けられた上で予審にかけられ、事件に直接参加した将校20名が一ヶ月半で判決が下り処刑された。

 陸軍省はさらに応援の法務官20数名を増員して予審からあたらせた。バラック建ての中を幾つかの部屋を分け、各法務官が予審官となり被告一人一人を取り調べをしていった。土日祭も休まずに続けられた結果、直接部隊に参加した将校と主要な下士官(曹長など)の予審が終わったのは4月中旬だった。残った下士官と兵は原隊の兵舎1棟に留置されていて、憲兵と検察官が出向いて一通り捜査しただけで、予審には廻わさなかった。予審が終わると調書を添えて検察官に送る。検察官は検討して容疑者の起訴、不起訴を決定する。ここで起訴が決定されれば軍法会議へ回されることになった。

 
 一

 著者はすでに、一九八八年七月に「岩波ブックレット」の一冊として『二・二六事件』(六二頁)を出版されており、更に九三年二月、正式裁判記録の存在が明らかになり、閲覧が許可されると、早速その中から、『THIS IS 読売』同年十二月号に、事件当時の陸軍大臣川島義之の調書の全文と石原莞爾・満井佐吉の調書の一部を紹介するとともに、「二・二六事件と陸軍中央」なる一文を寄せている。

 この正式裁判記録の読み込みを基礎にして、従来の資料や研究、或いはすでに明らかになっている事情からはなれて、改めて同記録中の調書などから得られる供述のみによって、事件を検討しようというのが本書の基本姿勢であるようにみえる。この裁判記録の場合には、蹶決に参加した将校のみでなく、「反乱者ヲ利スル罪」で起訴された、菅波三郎、大蔵栄一、末松太平らの青年将校運動の先駆者たち、現場で蹶決側の将校と接触した柴有時、松平紹光、山口一太郎の各大尉など、これまで利用されていない多くの調書や手記を含んでいる。しかし裁判そのものは、反乱罪とそれに関連する問題に狭く限られており、本書もそれを意識して、問題を「青年将校の意識と心理」(副題)に限定しているように見える。

 本書では、裁判の性格については何も言及されていないが、陸軍大臣を長官とするこの特設軍法会議は、陸軍省の「兵営を部隊が出発した時点で叛乱と認定する」との見解を基礎とし、出来るだけ速やかに厳罰に処するという方針に従って進められた。事件の二ヵ月後、四月二十八日に第一回公判が開かれた将校グループ二十三名の審理は、三ヶ月もしない七月五日に、十六名の死刑に至るというスピード判決で終る。それは裁判が、事実関係だけに止まっていて、事件の動機や原因に踏み込まなかったことを意味しており、それに抵抗する被告たちからは、裁判がとりあげてくれない主張や心情を訴えるために多くの手記が提出されることになる。本書は、こうした資料のあり方のなかから、いままで重視されてこなかった新たな側面を掘り出そうとしている。

 まず全体の方向について、「二・二六事件とは―通説的理解と実際との間―」と題された序説をおき、①事件の原因は陸軍部内での皇道派対統制派という派閥抗争ではない、②事件は北一輝や西田税の影響や指導によって起こされたものではない、という二つの点を強調する。①の派閥抗争の問題は、相沢三郎中佐による永田鉄山軍務局長の暗殺によって裁判闘争に転化され、そこから直接に二・二六事件を引き起こすような動きの無いことは、著者の言うとおりであるが、著者それ以上に、事件は陸軍内部の抗争による者ではない事を、以後のじゅここではまず、②の問題をめぐって、決起した将校の中には、北一輝の思想に反対の者、無皇道派対統制派という派閥抗争縁の者、名前さえ知らない者などがおり、また北との仲介者であった西田からみても、二二名中面識のあるのは八名に過ぎなかったし、蹶起趣意書の代表者・野中四郎も「未知の人」であったことを指摘している(四~五頁)。またある面では決起将校の代表とも見られる安藤輝三が、一時決起を躊躇した事情に触れながら、彼は元々「直接行動に反対の立場を貫」(一〇頁)いていたという見方を示す。

 つまり著者は、「裁判記録」によって、これ皇道派対統制派という派閥抗争まで明らかにされて来なかった指導的でない将校の問題を取り上げることで、事件の全体像を再検討しようとしているようである。

  そしてその観点から見れば、事件に参加した将校たちの意識は、いろいろの面で多様であり、バラバラである点が強調されることになる。そしてそのバラバラな多様性から、いかにして事件に至るのか。本書は裁判の被告=決起将校たちの供述を、時間的にさかのぼることから始める。

 二

 本書は、「一、青年将校運動とは何だったのか」、「二、青年将校はなぜ決起したのか」、「三,二・二六事件勃発」、「四、『解決』へのプロセス」、「青年将校運動の性格をめぐって―まとめにかえて」という形で構成されているが、これらの題名から見ても、著者が事件の基礎に青年将校運動をおいていることが分かる。しかしこの「運動」を一般的に規定する事はせずに、裁判記録の中の供述を具体的に取り出してくる。

 まず事件の指導者の一人である磯部浅一の調書から、自分も他の青年将校も北・西田の思想によって啓蒙されたことはあるが扇動されたことはない、との供述を引用して冒頭に置き、「青年将校はそれぞれ独自に」「思想形成を遂げ」(一六頁)たとの見方を強調する。そして一九二〇年代から、軍隊の現状・対外関係・庶民の窮状・共産主義への脅威感・政党政治・金権的風潮・日本人のあり方など、さまざまな方向から「現状変革志向」(二九頁)を持った青年将校が登場してくるというのであるが、著者はこの志向を、「彼らが『維新』を考えだす契機」(一六頁)としてまとめてしまい、それ以上「維新」の内容には踏み込んでいない。

 「維新」については一面では、「青年将校たちの決起目的が、『昭和維新』の実現にあった事は間違いない、それは、『神国日本ノ国体ノ真姿ヲ顕現セント欲スルニ在リ』(「坂井直手記」)という点に収斂できよう」(一三三頁)というように、彼らの発言を紹介、代弁するにとどめているが、他面では、その意識が軍中央にも通じている事を強調するのが本書の特色となっている。この部分の註では、他の調書を引用しながら「昭和維新の実現」は「陸軍全体の希望であった」(一四〇頁)とし、同じ場面について「陸軍中央が、青年将校同様、『維新断行』を念願していたことは明らかである」(二一九頁)と繰り返しており、著者は、青年将校たちの維新意識は、陸軍全体からみて、特異のものではなかったこという評価を下しているようである。そしてそれは「青年将校運動」を、陸軍内部の動きと見る見方とつながっている。

 本書が示す「青年将校運動」の形成についての要点をみると、まず一九二〇年代に改造・革新(この時期ではまだ「維新」ではないだろう)の方向に向かう青年将校が現れたが、その関係が「運動」の形をとるのは、三一年の三月事件クーデターが未遂に終った後、八月二十六日に、民間右翼と陸海軍青年将校が最初に一堂に会した日本青年会館の会合からであるとする。そこでは藤井斉を中心とする海軍青年将校に比べて少数派であった陸軍青年将校は、十月事件へ勧誘される過程で勢力を拡大する。しかしこの間に、事件の首謀者である橋本欣五郎らの幕僚たちと兵力の動員をめぐって対立し、事件発覚後、彼等は幕僚層から離脱してゆき、荒木新陸相への支持を軸として結集する、そして、血盟団事件、五・一五事件を引き起こした民間・海軍グループと「決別」して、陸軍だけで結びついた青年将校運動が出発したというのである。

 この運動は、「上下一貫左右一体」(五三頁)というスローガンを掲げ、「合法的」に、軍上層部を動かすことを、基本目標にしていたと、著者は評価する。つまり、「軍中央の『鞭撻』」が「もっとも特徴的行動」であり、従って「軍中央の『応援団』的要素を強くもった運動」(五九~六〇頁)であったと性格づける。そしてその基礎には、青年将校たちは首脳部と同様な対外強硬=軍備拡張主義者であり、「『兵器の充実』―軍事費の増大こそが、陸軍中央のみならず、青年将校側の主要な要求だった」(八〇頁)というような共通性が存在するとみている。

 そして同時に、青年将校運動が陸軍中央によって、上から作られたという側面が強調される。荒木陸相以下の首脳部は、青年将校の訪問を受け入れて懇談し、機密費を供与し、人事上の便宜を与えるなどして、「陸軍中央と青年将校の一体化」(八一頁)をはかったというのである。これらの指摘は興味深いが、とくに歩兵第一聯隊(赤坂)、歩兵第三聯隊(麻布)に、後の二・二六事件の主役となる青年将校運動の拠点が形成されたことと、「人事上の便宜」との関係は重要であったと思われる。しかしこうした捉え方と、青年将校運動は「何をしでかすか分からない」存在として他の勢力に対する「『脅し』の切り札の一枚」になり、陸軍の「抜かない宝刀」になった(五二頁)という評価とは、どう関連しているのであろうか。「応援団」では「宝刀」にはなりえないように思われる。

 著者は、青年将校運動が荒木を中心とした「皇道派」と呼ばれる勢力に従属していた、あるいはその一部であったと見ているが、彼らは「国体原理派」と自称していたようであり、青年将校の側から見ると、彼らの目的にとって上層部の「皇道派」が好都合な存在であったから支持したということになるのではないか。「上下一貫左右一体」という言い方は、かれらの関心が、政策よりも秩序に向けられたことを示しているように思われる。つまり「上下一貫」とは、「上」に対する「上長推進」だけではなく、「下」の下士官兵をも貫いた「統帥権秩序」とでもいうべきものを想定し、それを支える横軸としての「左右一体」は、兵隊の教育、訓練、指揮にあたる隊付将校の横断的結合の強化拡大を目指していた、そして皇道派の観念性が、こうした「統帥権秩序」に対応するものと感じられたのではないだろうか。そこに、皇道派の上層部も感づいていない下士官兵の同志化という発想が生まれてくる可能性があったともみられる。

 著者は、村中孝次が五・一五事件に参加を拒んだ理由として、「個人的ニハ蹶起セス兵力ヲ以テ起チ度イコト」と述べているのに対して、十月事件における橋本欣五郎の動員計画に違和感を抱いていたはずの村中が、このように語ることには「『逃げ口上』的印象さえ感じる」(五八頁)と批判する。しかしその「兵力」を、「同志化された下士官兵」と読み込むとすれば、そこには「上下一貫」の枠内に内在する決起への鼓動が感じられてくるように思われる。

 三

 本書は、こうした荒木陸相時代に形成された青年将校運動が、三四年一月に荒木が陸相を辞任して林銑十郎が後任となり、そのもとで三月に永田鉄山が軍務局長に就任する頃から、軍中央によって圧迫され始めたという。しかし、派閥対立史観を排するという著者は、そこに永田を中心とした「統制派」という新しい派閥が登場したという点は認めないようである。本書では「統制派」の問題よりも、青年将校たちが次の政変と関連づけて、宇垣朝鮮総督状況阻止を企てたという指摘(九一頁)の方が興味深い。それは彼らが皇道派に不利な状況を打開するために,軍を超えた政治状況全体の中に、「敵」を設定し直そうという方向に動き始めたことを示しているように見えるからである。

 著者は、青年将校たちは、永田らの幕僚たちを最初から敵視していたわけではないとして、三四年十月幕僚派の主張に基づくパンフレット『国防の本義と其強化の提唱』(陸軍省新聞班)が発表されると、その支持普及運動を起こそうとしている点に注目する。しかし永田らはこの運動に不快感を示し、意見具申に行った村中達の動きを「余計ナオ世話デアル」と一蹴したという(九五頁)。軍部の政策の立案実行は、中央部幕僚の職務だと考える立場から云えば、兵の教育に専念している筈の隊付将校が軍中央の政策に関与しようとする事は、軍の秩序の紊乱だということになろう。そしてその翌月には、運動の中心であった村中・磯部が、クーデター計画容疑で逮捕されるという事件(士官学校事件あるいは十一月事件)が起こる。二人はこの事件を、永田直系である片倉衷・辻政信らが士官候補生を使って「でっちあげた」として、片倉・辻を誣告罪で告訴し、更に翌三五年七月一一日付けで「粛軍に関する意見書」を作成・配布して反撃に移る。この意見書は、三月事件・十月事件の責任が隠蔽されている点に軍の混乱の原因があるとして、「粛軍」という新たな闘争目標を設定した。それは青年将校運動から二・二六事件への転回点を示す者と思われるが、本書では残念ながら、裁判記録に関連資料がない(三二八頁参照)として、簡単に概説されるに止まっている。

 村中らは、意見書を軍当局に提出した直後の七月一六日に、陸軍三長官の一角を占めていた皇道派・真崎甚三郎が更迭されると、この人事を統帥権干犯として非難する言論戦を展開し、八月一二日、その影響を受けた相沢三郎中佐が陸軍省に乗り込んで、永田軍務局長を惨殺、ショックを受けた青年将校たちは、三六年一月に始まる相沢公判支援に結集し、そこに歩一、歩三を含む第一師団の満州派遣内定の報が伝えられると、二・二六事件への決起は避けがたいものになったという。

 この過程のなかで著者は、これまでの「『皇道派』の青年将校の動きとは別に、相沢事件・公判を通じて結集していた少尉級を野中(四郎大尉)が組織し、決起へ向けて動きを開始していた」とみる。そして二・二六事件は、これまで運動してきた青年将校に加えて、相沢事件以後の新規参入者を「もうひとつの中心とする楕円のような構造を持っ」て決起したとされる(一二五頁)。しかし二つの中心は、「楕円」を描くように対等に働いているようには見えない。

 事件の計画は旧来からの中心である村中・磯部ら数人によって、短時日に秘密裏に決定され、その後、数日で参加要請が行われ決起に至っている。そこでは最早討議や説得をしている余裕はないのであり、それ以前の十一月・士官学校事件以来、村中・磯部らがいわゆる怪文書によって展開してきた言論戦が、決起への説明書の役割を果たしていたのではないか。そこでのキーワードは、昭和維新、粛軍、統帥権干犯など抽象的で意味内容があいまいな言葉であるが、あいまいであるが故に、さまざまな意識を投入して重臣ブロックの打倒・暗殺をめざす決起に、新たに参加する事が可能になったのではないだろうか。

 四

  二・二六事件の襲撃の過程については、裁判でも争点にならず、新しい証言も出ていないので、本書では概説するにとどめ、襲撃以後、鎮圧に至る経過を検討の主な対象としている。この過程は、首相官邸などの襲撃と同時に、丹生誠忠の率いる部隊が陸相官邸を占拠し、上部工作担当の村中・香田らが川島陸相に面会するところから始まる。

 香田はまず、「蹶起趣意書」を読み上げ、「断乎たる決意」で「速やかに本事態の収拾」に向かうことを求めたが、それ以上の具体的な要求は見られない。著者はこの態度を「従来からの青年将校運動のスタンス」とし、「陸軍大臣に事後処理を委任し、文字通り『上長を推進し維新へ』という姿勢を示した」(一五五~六頁)点に特徴があるとする。しかし彼らの期待するような方向は、本書の叙述する川島陸相や真崎甚三郎大将の動きを見ても、宮中の壁を崩せずに、二十六日の午前中に消えていったとみられるのであり、以後、陸軍中央部は、軍事力を行使する事なしに、決起部隊を撤退させようとする工作に転ずる。

 そしてこの工作は、実質的権限を持たない軍事参議官が表面に立って、「陸軍大臣告示」と名付けられた文書を作成して決起側を説得する、という方向で展開されることになる。本書はこの方向に沿って、さまざまな供述を重層的に付け合せ、現場の様相を詳細に検討して、新しい問題を提起している。

 まず重要なのは、「陸軍大臣告示」なるものは「青年将校たちを撤退させるための説得要領に過ぎ」(一八一頁)ず、それを作成した「軍事参議官会議は、最初から川島や杉山主導で、『説得要領』を立案する会議だったのではないか」(一八四頁)という推論である。これは、宮中での川島陸相・杉山元参謀次長(閑院宮参謀総長は病気で登場せず)・香椎浩一東京警備司令官(戒厳令施行にともない戒厳司令官となる)らの様子や会話についての、幕僚の証言によるものであるが、この三人は権限をもった責任者であり、彼らが辞退を誘導したという点が重要であろう。

 軍事参議官会議の模様や、「告示」の原稿を誰が執筆し、誰が修正したのか、軍事参議官と決起将校との会談の内容などについて、関係者やその周辺の、さまざまな新たな問題を提起している点が注目される。

 そこにはこれまで取り上げられて来なかった人物の証言もあり、この過程の解明は、これまでの研究史でも中心的課題とされてきた。本書でもこの会見の間に、山下奉文少将、真崎甚三郎大将、古荘陸軍次官らが呼び出され、また、青年将校運動で「別格」と呼ばれた(七二頁)山口一太郎大尉を先導役として、決起部隊の歩哨線を通過してきた小藤恵第一連隊長や石原莞爾参謀本部作戦課長などいろいろな人物が登場する。

 すでに憲兵調書が公刊されている場合でも、より細かな供述が得られているようである。特に決起将校の間を動き回り、彼等と軍事参議官らとの会見に立ち合っている山口一太郎の調書は、ここでの構成のひとつの軸となっていて興味深い。しかし全てが明らかになるわけではない。例えば、決起将校らの期待を背にして午前十時前後には宮中に入った川島陸相や真崎大将らが、事件解決のためにどんな構想を持っていたのかはさっぱり明らかにならない。具体的な動きとしては、午後二時ごろから宮中で、川島陸相が召集した非公式の軍事参議官会議が開かれたのが最初のようである。ここで川島陸相は軍事参議官たちに主導権を渡してしまい、決起側に渡すために作られた文書に、「陸軍大臣ヨリ」とか「陸軍大臣告示」という題名をつけることを了承しただけで、以後表面から姿を消している。また「強力内閣」や「大詔煥発」を構想していた(一七四頁)という真崎大将にしても、午前中の宮中での行動は明らかでなく、午後には軍事参議官の一員としての立場に終始するようになったといってよいのであろう。

 本書を読むと、事件処理の中心に軍事参議官や陸軍大臣告示が浮かび上がった時点で、決起側が何らかの成果を得る見込みがなくなっていたことが理解できる。

 以後も決起将校らはこの陸相官邸の占拠を続け、彼らとの接触を求める勢力との観を呈する事になり、この背後に三宅坂一体に展開した約一四〇〇名の決起部隊がある。これに対して、彼等に職場を追われた陸軍省・参謀本部の幕僚たちは、皇居の反対側、九段の憲兵司令部や偕行社などを仮住まいとしてこれに対峙している。

  望事項七項目をみても、今後の対策については、①「断固たる決意により速やかに本事態の収拾」をはかれ、という一項目しかない。他の項目では②「皇軍相撃つ不祥事」を起こさないよう処置し、⑦決起部隊を移動させないという占拠態勢維持の要求を除くと、③宇垣、南、小磯、建川の四将軍の逮捕、④中央部幕僚の根本大佐、武藤中佐、片倉少佐の罷免、⑤荒木大将を関東軍司令官に起用、⑥大岸大尉ら九名を東京に採用して意見を聞くこと、という人事に関する要求が四項目に及んでいる。著者は、この要求の特徴は「陸軍大臣に事後処理を委任」しており、「上長を推進して維新へ」という「従来からの青年将校運動のスタンスの具現化」と捉える(一五四~一五六頁)が、しかしここでは、その陸軍の「上長」が、次の内閣の指名のために、宮中を動かせるかどうかが問題となる。

 決起側の期待を一身に集めた真崎甚三郎も、海軍の加藤寛治大将と組んで伏見宮軍令部総長の上奏を促し、組閣のきっかけをつかもうとしたが、事件を不快とした天皇に取り上げられずに失敗に終る。宮中は二六日午後には、一木

 彼らが自らの行動を「維新」として正当化する背後には、軍人を正義を担うべき存在とする軍人観、軍を内部から革新し、更には社会や政治を、天皇を中心とする秩序を強化する方向に変革ようとする欲求などが絡み合っていたのではあるまいか。

 二・二六事件の裁判は、事件後の陸軍首脳部の意向を受けて、極めて短時日に、非公開、弁護人なしで

 この捉え方からは運動のスローガンは、左右=青年将校の横断的結合のうえに、上下=全軍を一体化し、その先に天皇を志向するということであろう。そしてその基礎である「左右一体」の要求は、荒木陸相就任以前に、十月事件での幕僚たちとの対立から出発しているように見える。

  その点で、本書で紹介されている十月事件についての菅波手記が興味深い。事件の首謀者橋本欣五郎と青年将校運動の先駆者菅波三郎との対立は、すでに色々と書かれているが、この手記では、幕僚である橋本の「指令的態度」に隊付将校であった菅波は強く反発し、橋本が「クーデター決行の指令を発せば之に和するが如くして、歩一、歩三の蹶起部隊を直ちに参謀本部に集中」し、「橋本以下妄動幕僚を捕捉」する決心をするにいたった(四四~四五頁)、と記しているという。

  中央部との関係については、例えば、五・一五事件突発に際して、栗原中尉が数人の将校たちと陸相官邸に至り、「戒厳令ヲ布キ軍政府ヲ樹立シ国家ノ改造ヲナスヘク主張」したのに対して、軍首脳部は、準備研究が不十分だが「ソノ方針ハ同意ナリ」と述べたとの手記を引用し、「陸軍中央と青年将校の発想は、ほぼ一致していたといってよい」(六一頁)とも断じている。

  当時日本の陸軍は聯隊単位で駐屯しており、歩一、歩三とはを指しているが、東京には、近衛師団以外には、第一師団に属するこの両聯隊しか存在していない(第一師団には他に第四九、五七の両聯隊があるが、駐屯地は山梨県甲府と千葉県佐倉)。これらの在京部隊のうち、近衛師団は特殊な存在なので、クーデターに兵力を動員するとすれば、歩一、歩三がまず狙われる事になる。そして軍の基礎的組織となっているのは「中隊」であるから、兵隊を部隊として出動させるためには中隊長(大尉)以下の隊付将校の協力が不可欠である。

  著者は「十月事件は、主導権の問題を除いては」「二・二六と相似の構造をもった計画だった」(四十七頁)とするが、 先の菅波手記は、自分たちが掌握している筈の兵隊を一片の指令で動かそうとする策謀への憤激を示しているのではないか。そして彼らの地位が、クーデターなど兵力使用の計画にとって決定的に重要であることを改めて認識し、そこから、その地位が他の勢力に利用されないように、陸軍部内だけでの結合を基本として、「上下一貫」体制の中に組み込もうとする方向が見える。同時にそれは、隊付将校を横断的に結合させようとする「左右一体」の横軸にもつながる。とすれば、縦軸の「上下一貫」には、「上」の首脳部ばかりでなく、「下」の下士官兵をも同志化する可能性を含んでいたのではないか。

  二・二六事件から振り返ってみれば、「上下一貫左右一体」のスローガンを掲げた運動によって、歩一、歩三の拠点を確保し続けたことの意味は大きい。

 重臣を「軍閥」打倒という新たな視点を加えているのであり、千四百名の武装兵力が三宅坂一帯を占拠し続けるという具体的事実の解消が急務であり、ロンドン海軍軍縮条約の締結を「統帥権干犯」として攻撃する運動が軍部にも深く浸透し、それが青年将校が登場してくる前提であったことを考えると、十月事件における対立は、統帥権の問題を身近に捉えるきっかけとなったのではないか。

  ここで青年将校とは、日本陸軍の彼等は部隊の中にいて天皇に直属する統帥権の基礎を支えながら、兵士との間に命令服従のみでなく相互信頼の関係をも加えることによって、軍隊の秩序を社会の模範とし、国家の機軸とする方向を模索していたのではないだろうか。
たとえば荒木時代末期の三三年一二月に、陸軍省(海軍省も追随)が軍部批判勢力に、公然と「軍民離間声明」をぶつけた際には、「抜かない宝刀」の威力は感じられていないように見えるのである。従って、統制派の登場によっての方針が困難になった事は実感されていた(九二頁)
 すでに最初に見たように、二・二六事件の原因は皇道派対統制派の派閥抗争ではない、と主張する著者は、青年将校運動から決起が生じてくる過程でも、派閥抗争のみでなく「統制派」の存在さえ。

  林新陸相は、はじめ皇道派に近いと見られていたが、次第に永田に実権を握られる、そしてしたというのがであろう。この名称は、総動員体制のための統制経済の強化という国政に対する主張と、青年将校運動を統制しようという幕僚の立場の双方を表現しているとして、広く流通しているが、軍首脳部の反皇道派を「統制派」と一括するわけにも行かない。むしろ永田派というのが実態に近かったようにも思われる。著者は「『皇道派』という概念の危うさ」(九四頁)を指摘するが、「統制派」についても同様であり、当時の用語があいまいなまま使用され続けているのではないか。

【軍当局の北一輝と西田税論】
 3.13日、「東京日日新聞記者、石橋恒喜の回想」が、記者クラブに現れた軍当局の松村少佐が次のように述べたと記している。
 「北一輝と西田税は、憲兵隊と警視庁とで厳重取り調べ中である。その結果、驚くべし、彼らは右翼の仮面をかぶった共産主義者であることが判明した。北の著書{日本改造法案}を見るがいい。それは共産主義を基調としていることは明らかである。彼らはこの左翼革命理論に基づき、世間にうとい青年将校たちに近づいて{上下一貫、左右一体、挙軍一体のための将校団運動}なるものを吹きこんだ。そして、巧みに軍隊を、こんどのような不祥事に利用したのだ。どうだ、たいへんなニュースだろう」。
 これに対し、記者たちはドッと笑った。石橋恒喜記者「松村少佐、見当違いなことをいうな。北、西田は右翼の浪人ではあるが、赤じゃないよ」。記者団から笑い飛ばされて、彼はカンカンになって出て行った。翌14日、「日本改造法案」を持ってきた松村大佐と石橋恒喜記者が次のような問答をしている。
松村少佐  「きのう諸君は、北、西田は共産主義者ではない、といって笑ったので早速、内務省警保局へ出かけてこれを借りてきた。読んでみるがいい。(憲法停止)(華族制の廃止)(国民自由の恢復)(皇室財産の国民下附)(私有財産の制限)(大資本の国家統一)(労働者・夫人・児童の権利擁護)など、どれをとってみてもマルクス・レーニン主義のにおいがプンプンしているじゃないか、それでもニュースにならないと否定するのか」。
石橋記者  「松村少佐、軍当局がどうしても書いて欲しいというなら、(戒厳司令部発表)ということにしたらどうか?発表というなら新聞も報道せざるを得まい」。
松村少佐  「いや、軍の公式発表というわけにはいかない。諸君の自主的な取材によるものとしてもらいたい」。
石橋記者  「戒厳令下で、軍と対立するわけにもゆくまい。そこでどうだ。ボクが模範原稿を書こう。万一外部からとがめられた時には戒厳司令部発表のものだと言ってすまされるじゃないか」。

 
翌3.15日の社会面トップ6段見出し「右翼の仮面かぶって、矯激な北一輝の思想、血気の徒を邪道へ・・・・直接行動によりクーデター、政権獲得の不逞描く」と大々的に扱った。他紙の扱いも同じく大きかった。今考えると、慚愧のいたりにたえない。これに対し、右翼団体から非難の投書が相次いだ。
 「北、西田両氏は革新将校の蹶起を抑制こそすれ、扇動した事実はない。また共産主義者呼ばわりは、まったくのでたらめである」

 第一師団司令部舞伝男参謀長の講演は次の通り。
 「純真なる将校が矯激な思想の持ち主たる北一輝、西田税と悪縁を結び、判断を誤りて彼らに動かされた結果である」。
 「赤色団体の過激思想に基づいたものとか財閥を恐喝して資金を出させたとか、第三国から資金の提供を受けた」。

【論告】
 「論告」は次の通り。
 一  諸言

 被告等は昭和十一年二月二十六日未明を期し 近衛、第一師団隷下の将兵千四百名と共に北一輝、西田税等民間側矯激分子と相呼応し、所謂 昭和維新決行の為 機関銃、拳銃、軍刀及弾丸九万六千発を携行し、大挙兵力を行使して 所謂元老、重臣、軍閥、財閥等国家要路の大官を惨殺し、以て帝都をして収拾し能はざる混乱状態に陥れ、輦轂(れんこく)の下達に戒厳令の一部を施行するの已むなきに至らしめ、以て平素包蔵せる改革の試案を軍首脳に迫り、政治、教育、経済等万般の政治機構の改変を企図したるは、国憲を紊り、国法を無視し、延ては皇軍の威信を内外に失墜し、好機る皇国三千年の青史に拭ふべからざる汚名を印し、畏くも上聖上陛下の宸襟を悩し奉り、下国民の信望を損じたり。之 聖代未曾有の不祥事にして、畏くも第六十九回帝国議会開院式に親臨し給へる陛下に於せられては事態の重大さを御憂慮あらせられ、其の勅語には、「 今次 東京に起れる事変は 朕が憾みとする所なり 」と 宣わせられ、臣下斉く恐懼措く能わざるところなり。惟ふに皇軍の使命は其の建軍の本義たる軍隊内務書冒頭に示さるる、「 皇基を恢弘し、国威を宣揚するに在る 」ものにして、真に憂国の道は之大義名分を弁へ、真に皇基を恢弘するに在り。然るに被告は其の職責と使命を逸し、一君万民国体顕現の美名の下に陛下の軍隊を私窃し、其の勢を利用、武力を行使して国家要路の大官を惨殺し、之加ならず国政の中心をなす重要建造物を占拠し、遂に民主主義的革命をなさしめたる、其の身 日本国民として且 軍人たるの職掌に依拠し 断じて許容し得ざるものなり。

 二  犯罪事実の概容  (省略)

 三  原因  動機

 被告等は曩(さき)に昭和六年頃より我国内外の情勢を達観し、時々国運の危迫せるを痛感し、就中香田清貞、安藤輝三、栗原安秀、村中孝次、磯部浅一等は夙に国運の危迫は一に元老、重臣、財閥、軍閥等が君側に蟠踞せる奸臣の策謀なりと信じ居たるが、偶々ロンドン条約の後 遂に五・一五事件の惹起を見、更に教育総監更迭、相沢事件等皇軍部内に相次で斯る事態の起るは明に自由主義者の蠢動するの所以なりとし、国体明徴問題の熾烈化と共に国体を顕現し 昭和維新の喫緊なるを想い、部内の同志 竹嶌、對馬、中橋、丹生、坂井、田中、中島、安田、高橋、麦屋、常盤、林、鈴木、清原、池田、今泉 及 民間側 山本又、渋川善助 等密に其の志を交へつゝありしが、曩に被告等は北一輝の著作せる国家改造方案を渉猟(しょうりょう)し、北の抱懐せる民主主義的国家改造を企図しありたるが、疲弊窮乏せる農村の実情を究め万般の政治機構の行詰は為政当局の腐敗と重臣、財閥、軍閥の横暴なるに起因するものなりとし、之を芟除(せんじょ)せざれば国政の明朗は得て期し難しとし、前記同志は廔々(ろうろう)目的の為に会合し昭和維新の断行を謀議画策しつゝある秋、偶偶 本春 在京部隊の満洲出動を察知するに及び平素画策せる手段方法の実行は其の出動前に於て決行せざれば機を逸すべしとし、同志相策応し 之が直接行動の気運を促進し、在京同志を糾合、更に地方同志たる豊橋教導学校等各地青年将校に飛檄し、遂に陛下の軍隊をして擅(ほしいまま)に窃用して、所謂 国体顕現昭和維新断行の美名を擁して 治下国憲の許容すべからざる武力行動を以て北一輝の唱導せる我国体に相容れざる民主主義的革命を敢行したるものなり。

 四  法律論  (省略)

 五  情状論

 被告等は夙に朝野の政局を観、昭和六年頃より我国内外の情勢に心を致し、其の国運をして危機逼迫(ひっぱく)せるものとなし、其の原因は元老、重臣、財閥、軍閥等が君側に蟠踞して其の奸政を弄するものと思惟し、頓に一掃して昭和維新を断行すべく画策中、偶々ロンドン条約に依り統帥権の干犯を見、後 遂に五・一五事件、真崎教育総監更迭、相沢事件等相次で起れる事象により其の衝撃を加へあるに臨み、香田、安藤、栗原等各被告の抱懐せる改新意識に対し当時民間一部矯激分子たる西田税、北一輝等の所信と相通じ、且つ北一輝の著作たる国家改造方案を渉猟して 之に染り、遂に武力を以て革新をなさんとし、国体顕現国家改新の名の下に民主主義的革命を敢行し、国家要路の大官を惨殺し、尚 帝都重要建造物を占拠し、之に伴ふに大官邸警護の任にある警察官を殺害したるは実に惨状極に達し、尚皇軍の長老として三長官の一人たる教育総監陸軍大将渡辺錠太郎をして残虐なる火器の洗礼に帰せしめ、高橋大蔵大臣に対して亦 惨忍を極め 軍人として詢に遺憾没武士道的行為をなし、加うるに何等増悪なき人をして焼死せしめんとして家屋に放火する等、被告等の行為は帝国軍人として武士道にもとり、神命に則したる帝国憲法を無視して国憲を乱り、陛下の軍隊を私窃して大挙事を揚げ、上聖上の御宸襟を悩し奉り、下国民の信望を失ひ、壮厳なるべき我国徴兵制度に一抹の暗影を投じ、為に政党人の指弾を集中せられ、外 露国に於ける共産党をして日本軍隊こそ将来共産党の利用するに容易なりとする観点を与える等、皇軍をして内外共に国軍の威信の名誉を失墜し、我国未曾有の不祥事にして、被告等の所信は一に国体顕現、国家改新として憂国の至情に出ずるものと称すと雖も、実は矯激なる思想より我国体と相容れざる民主主義的革命を敢行せんとして武力を行使したるものにして、その情状 断じて許容すべからざるものなり。

【論告に対する反駁】
香田清貞 「御勅諭の精神を実行する人が出るを念願す」
安藤輝三 「若い者を許してやって頂きたい」
竹嶌継夫 「斯くすることが大御心に副い奉る」
對馬勝雄 「形のみを以て律し、叛乱と為すは、正義を無視するもの」
栗原安秀 「呑舟の魚は網にかからず」
中橋基明 「維新は尊皇討奸に尽きる」
丹生誠忠 「吾々は天皇陛下のためにやった」
坂井   直 「大臣は蹶起趣意書を陛下の御前で朗読せられた」
田中   勝  「大詔渙発の原稿まで作製しておいて、説得する 必要はあるまい」
安田   優 「村中の背後には、大なる背景がある」
中島莞爾 「不義を知って打たざるは不忠なり」
高橋太郎  「蹶起の目的は国体護持にあります」
林   八郎 「吾々を賊にすれば、軍は崩壊する」
池田俊彦 「我々は断じて逆賊なとではありません」

【反乱軍将校のスピード審理】
 4.28日、事件の二ヵ月後、第1回公判が開かれ、将校グループ23名の審理が始まった。公判(裁判)は連日行われ、多いときは被告人が40人ほども法廷に入った。一人一人尋問している時間がないので、代表者に応答させ、異論があれば挙手で他の被告人に発言させるという形式をとった。被告人には弁護人が居らず且つ非公開という不利な中で問答無用式に審理が進められた。磯部の獄中文書では「自分らの証人の証言は全て棄却され、発言の機会もほとんどない。これほど不公平な裁判があるか」と憤慨している。また裁判中に磯部は、「川島、香椎、堀、山下、村上は青年将校と同罪である。大臣告示及び戒厳命令に関係ある全軍事参議官も同様ならざるべからず」と主張している。
 7.5日、事件から3ケ月のスピード審理で、「第1次処断」として栗原安秀、安藤輝三、安田優たち青年将校17名の死刑、無期禁錮4名、禁錮4年1名の判決が宣告された。 死刑は、「首魁」で、村中孝次・元歩兵大尉(37期)、磯部浅一・元一等主計(38期)。この二人は北一輝と西田税の裁判のために執行が延期された。「叛乱罪(首魁)」で、香田清貞・歩兵大尉(第1旅団副官、37期)、安藤輝三・歩兵大尉(歩兵第3連隊第6中隊長、38期)、栗原安秀・歩兵中尉(歩兵第1連隊、41期)。「叛乱罪(群衆指揮等)」で、竹嶌継夫・歩兵中尉(40期)、対馬勝雄・歩兵中尉(豊橋陸軍教導学校、41期)、中橋基明・歩兵中尉(近衛歩兵第3連隊、41期)、丹生誠忠・歩兵中尉(歩兵第1連隊、41期)、坂井直・歩兵中尉(歩兵第3連隊、44期)、田中勝・砲兵中尉(野戦重砲第7連隊、45期)、中島莞爾・工兵少尉(46期)、安田優・砲兵少尉(陸軍砲工学校生徒(野砲兵第7聯隊附)、46期)、高橋太郎・歩兵少尉(歩兵第3連隊、46期)、林八郎・歩兵少尉(歩兵第1連隊、47期)、渋川善助。

 「無期禁錮」は「叛乱罪(群衆指揮等)」で、 麦屋清済・歩兵少尉、常盤稔・歩兵少尉(歩兵第3連隊、47期)、鈴木金次郎・歩兵少尉(歩兵第3連隊、47期)、清原康平・歩兵少尉(歩兵第3連隊、47期)、池田俊彦・歩兵少尉(歩兵第1連隊、47期)。「禁錮4年」 は今泉義道・歩兵少尉(近衛歩兵第3連隊、47期)。

【六中隊のその後】
 六中隊では、永田露、堂込喜市の両曹長が二年の実刑、渡辺春吉、門脇信夫、奥山粂治、中村靖、小川正義の五人の軍曹と、山田政男、大木作蔵の両伍長が、執行猶予つきの二年の刑に処せられた。彼らは兵役から除かれたのに刑期が終わると、また 召集され、格下げになり、苦労の連続を味わされた。六中隊の下士官では四名が改名した。それでも安藤中隊長に対する思慕は変らない。

【「 安藤中隊長を偲ぶ会 」→「安王会」続く】
 二・二六事件の起きた翌年の昭和12年、二・二六事件のときに歩兵第三聯隊第六中隊に属し、安藤輝三大尉とともに山王ホテルに立てこもった兵士中間が 志半ばで処刑された安藤中隊長を偲ぶ会「安王会」(「安」 は 安藤大尉の頭文字、「王」 は 山王ホテルからとった)を発足させ、毎年2月、埼玉県の大宮の近くで一つの戦友会を開いた。今は亡き中隊長の大きな写真を上座に飾り、和気あいあいと語り合った。戦後、生き残った者は、敗戦国日本復興のため働きつづけた。「安王会」は戦後だけでも28回続いた。お互いの消息を確かめ合い、何時間かを昔の若者に返った。最後には中隊歌を歌い、記念撮影をして、散開となった。解散時の 「安王会」 会員36名。日本を震撼させた四日間をともにした仲間たちは「安王会」 を一応解散させた。
  「安王会」 の幹事の一人だった板垣秀男氏の回想を参照すると次の通りに経緯している。  安藤大尉の立像写真の原版取り寄せから始まる。板垣氏の兄が読売新聞社に安藤大尉の写真を貰いに行き、その原版を北満の戦地にいた板垣氏に送った。歩三の第六中隊は事件後の5月から北満のチチハルに派遣されていた。板垣氏はじめ9年兵たち ( 昭和9年に徴兵検査され昭和10年1月に入隊した事件当時の2年兵) は、この写真を見て懐かしい思いにかられた。昭和12年2月、9年兵は現役の期間が終わるので、北満から歩三の原隊に帰還した。この輸送途中に、「安王会」を作ろうという話が出た。板垣氏が中心となって、東京出身者と埼玉県出身者から二名づつ幹事となり会則を作った。歩三部隊への入隊者は、浦和、川口など埼玉県の一部と、足立、葛飾などの北東京から召集された。そこで 東京、埼玉からの幹事の選出となった。会則は七項目あり、「安王会」の名称、昭和九年兵の集り、会費は年一円、春秋に二回集り親睦を図ろうなどというものだった。当時の会員四十名の記名もある。第1回は2月頃? 浅草の 「いろは」で開催された。しかし後は続かなかった。臨時招集が相次ぎ、集れる者がいなくなったことによる。発起人の一人の板垣秀男氏も10月には北支へと派遣されて行った。それから三十年も過ぎた戦後の第1回の会合が、昭和44年、羽生市の金子春雄私宅で十二名で行われた。どういう経過で会を持てたのかは、多くの者が他界していて不明である。第2回は大宮、第3回は上尾市内、このころは9年兵だけの集りだった。熊谷のロイヤルホテルでの第4回目には板垣氏も出席した。集ったのは二十九名、このときに板垣氏が提案した。「戦後も大分たったから会の名称 「安王会」 を変えないか?」。たちまち全員の反対にあったという。その後、10年兵 ( 昭和11年の入隊) や8年兵 ( 同9年入隊 )、下士官も加わり、仏心会 ( 二・二六事件の遺族の会 ) 会長の河野司氏も何回か訪れた。「二十二士の墓 のある麻布賢崇寺での法要にも必ず出席した。賢崇寺で会を開催したこともある。けれども近年、会員の老齢化が進み、集まれる者が少なくなった。この辺で解散しようということになった。平成8年4月12日、安藤大尉の未亡人房子さんが亡くなった。房子夫人は会を蔭から支えていた。房子夫人の追悼もかね、6月4日の伊香保温泉旅館での会合を最後に、「安王会」 を解散することになった。集れた者十二名、一番若い人も八十歳を越えていた。「あれ ( 二・二六事件 ) から六十年も経ちましたからねえ」。板垣氏は感慨深げに話した。
 事件後、満洲で次のようなことがあった。軍法会議の結果、安藤大尉が処刑されたとの情報が入った後、伍勤上等兵が集合し 事件参加兵だけで大尉の冥福を祈ることを決議し、七月二十日頃、演習帰りの野辺の花をつみ、私の内務班に仏壇を飾り 兵隊を集めてしめやかに慰霊祭を執り行った。勿論秘密裡にやった筈だが いつの間にか野村中隊長の知るところとなり、私は呼び付けられて非常にきびしく叱られた。またその時事件参加兵だけで安王会を結成し、内務班帰還後時々会合を催すべく計画し早速会則を作り 各自に交付、残る原紙などを全部焼却して他に洩れぬよう配慮した。しかしこれもどこからか洩れて中隊長に発見されてしまった。そこで私は安藤大尉の部下として大尉個人の遺徳をしのび、冥福を祈るためのものである旨を回答した。野村大尉にしてみると安藤大尉に関する兵の動きは不穏のものに思われ、かなり神経を使っていたようだ。安王会の会合は本年も開催され 四十六回忌をすませたが、私たちは生ある限り続けてゆく決意である。この意味において 二・二六事件は 私たちの心の中に深く生き続けているのである。

2.26事件裁判記録
 判決は、「謀者17名死刑、69名有罪」となった。
 叛乱軍参加人員判決表
1.将校 死刑 13名
無期禁固 5名
有期禁固 1名
2.準士官、下士官 有期禁固 15名(執行猶予27名)
無罪 28名
3.兵 有期禁固 執行猶予3名
無罪  16名
5.在郷将校 有期禁固 1名
6.常人 死刑  4名
有期禁固 6名
 将校の処分は重いものだったが、下士官兵はお咎めなしとされたものの自ら進んで蹶起した下士官は禁固刑など処罰された。兵隊は徴兵とはいえ、支那事変勃発後常に最前線に送られた。
 軍は、事件鎮圧に当り、「事件に参加した兵士は寛大に処置すべし」という方針を示したが、投降を促す口実に過ぎなかった。戦前役場には兵事係という部署があり、そこに事件に参加した元兵士が担当していたが、その元兵士証言によると、事件に参加した者は終戦まで憲兵隊から身上調書がきていたという。現役の兵役を終えても事件に参加した兵隊は監視され続けていた。兵隊は、「上官の命令は天皇陛下の命令と心得よ」と厳しく教育されており上官の命令に従うしかなかったにも拘わらず。事件当時の軍上層部は、事件に参加した一般の兵士は単に将校・下士官の命令に従っただけであって、反乱の罪はないという方針で処理し、事件参加兵士にその後差別を行ったことはないとしているが事実はこの通りであった。
 安藤輝三大尉率いる歩兵第三聯隊第六中隊の生存者に昭和50年代に調査したところ、生存者41人の内、「何回召集されましたか?」の問いに1回が2人、2回が13人、3回が17人、4回が10人もいたという。昭和12年から昭和20年の終戦まで一般兵士の平均召集回数は2回である。召集3.4回が実に66%、しかも戦闘で負傷し再び召集という人が多いのである。賊軍の汚名を着た者は生かすつもりはなかったことになる。

【処刑囚の呻吟
 叛乱軍の首謀者の一人・磯部浅一はこの判決を死ぬまで恨みに思っていた。また栗原や安藤は「死刑になる人数が多すぎる」と衝撃を受けていた。銃殺に処される前に、こう呻吟していた。「日本には天皇陛下はおられるのか。おられないのか。私にはこの疑問がどうしても解けません」。

皇道派将校の免官処罰
 2.29日、反乱軍の20名の将校が免官となった。3.2日、山本元少尉を含む21名の将校が、大命に反抗し、陸軍将校たるの本分に背き、陸軍将校分限令第3条第2号に該当するとして、位階の返上が命ぜられる。また、勲章も褫奪された。3.10日、事件当時に軍事参議官であった陸軍大将のうち荒木、真崎、阿部、林の4名が予備役に編入された。3.30日、陸軍大臣であった川島が予備役となった。4月、侍従武官長の本庄繁が、女婿の山口一太郎大尉が事件に関与しており、事件当時は反乱を起こした青年将校に同情的な姿勢をとって昭和天皇の思いに沿わない奏上をしたことから事件後に辞職し、予備役となった。7月、戒厳司令官であった香椎浩平中将が予備役となった。皇道派の主要な人物であった陸軍省軍事調査部長の山下奉文少将は歩兵第40旅団長に転出させられ、以後昭和15年に航空本部長を務めた他は二度と中央の要職に就くことはなかった。

 また、これらの引退した陸軍上層部が陸軍大臣となって再び陸軍に影響力を持つようになることを防ぐために、次の広田弘毅内閣の時から軍部大臣現役武官制が復活することになった。この制度は政治干渉に関わった将軍らが陸軍大臣に就任して再度政治に不当な干渉を及ぼすことのないようにするのが目的であったが、後に陸軍が後任陸相を推薦しないという形で内閣の命運を握ることになってしまった。

下士官兵の悲劇
 以下この事件に関わった下士官兵は、一部を除き、その大半が反乱計画を知らず、上官の命に従って適法な出動と誤認して襲撃に加わっていた。事件後、中国などの戦場の最前線に駆り出され戦死することとなった者も多い。特に安藤中隊にいた者たちは殆どが戦死した。なお、歩兵第3連隊の機関銃隊に所属していて反乱に参加させられてしまった者に小林盛夫二等兵(後の5代目柳家小さん。当時は前座)や畑和二等兵(後に埼玉県知事・社会党衆議院議員)がいる。

公判記録隠匿の怪
 民間人を受け持っていた吉田悳裁判長が「北一輝と西田税は二・二六事件に直接の責任はないので、不起訴、ないしは執行猶予の軽い禁固刑を言い渡すべきことを主張したが、寺内陸相は、「両人は極刑にすべきである。両人は証拠の有無にかかわらず、黒幕である」と極刑の判決を示唆した。

 軍法会議の公判記録は戦後その所在が不明となり、公判の詳細は長らく明らかにされないままであった。そのため、公判の実態を知る手がかりは磯辺が残した「獄中手記」などに限られていた。1988年、匂坂が自宅に所蔵していた公判資料が、遺族およびNHKのディレクターだった中田整一、作家の澤地久枝、元陸軍法務官の原秀男らによって明らかにされた。中田や澤地は、匂坂が真崎甚三郎や香椎浩平の責任を追及しようとして陸軍上層部から圧力を受けたと推測し、真崎を起訴した点から匂坂を「法の論理に徹した」として評価する立場を取った。これに対して元被告であった池田俊彦は次のように反論している。

 「匂坂法務官は軍の手先となって不当に告発し、人間的感情などひとかけらもない態度で起訴し、全く事実に反する事項を書き連ねた論告書を作製し、我々一同はもとより、どう見ても死刑にする理由のない北一輝や西田税までも不当に極刑に追い込んだ張本人であり、二・二六事件の裁判で功績があったからこそ関東軍法務部長に栄転した(もう一つの理由は匂坂法務官の身の安全を配慮しての転任と思われる)」。

 田々宮英太郎は、寺内寿一大将に仕える便佞の徒にすぎなかったのではないか、と述べている。これらの意見に対し北博昭は、「法技術者として、定められた方針に従い、その方針が全うせられるように法的側面から助力すべき役割を課せられているのが、陸軍法務官」とし、匂坂は「これ以上でも以下でもない」と評した。北はその傍証として、匂坂が陸軍当局の意向に沿うよう真崎・香椎の両名について二種類の処分案(真崎は起訴案と不起訴案、香椎は身柄拘束案と不拘束案)を作成して各選択肢にコメントを付した点を挙げ、「陸軍法務官の分をわきまえたやり方」と述べている。

 匂坂春平はのちに次のように語っている。
 「私は生涯のうちに一つの重大な誤りを犯した。その結果、有為の青年を多数死なせてしまった、それは二・二六事件の将校たちである。検察官としての良心から、私の犯した罪は大きい。死なせた当人たちはもとより、その遺族の人々にお詫びのしようもない」。

 匂坂はひたすら謹慎と贖罪の晩年を送った。「尊王討奸」を叫んだ反乱将校を、ようやく理解する境地に至ったことがうかがえる。

 公判記録は戦後に連合国軍最高司令官総司令部(GHQ)が押収したのち、返還されて東京地方検察庁に保管されていたことが1988.9月になって判明した。1993年、研究目的で一部の閲覧が認められるようになった。池田俊彦は、元被告という立場を利用して公判における訊問と被告陳述の全記録を一字一字筆写し(撮影・複写が禁止されているため)、1998年に出版した。

青年将校の「父母への手紙」
 2020.7.23日、「「二・二六事件」85年目の真実 青年将校「父母への手紙」」。
 昭和11(1936)年2月26日に帝都東京で起きた「二・二六事件」――。「反乱軍」を率いた青年将校らはその後死刑判決を受け、同年7月12日、陸軍刑務所内で処刑された。命日にあたる今年7月12日、青年将校らが眠る麻布・賢崇寺では、事件で殺害された犠牲者の冥福を祈り、処刑された青年将校らを悼む85回忌法要が営まれた。

 二・二六事件当時、1500人近い陸軍将兵からなる「反乱軍」は、4日間にわたって赤坂・三宅坂一帯を占拠した。しかし、速やかな原隊復帰を命じる昭和天皇の「奉勅命令」が出され、各部隊ともに帰順するに至る。

 閏日(うるうび)の2月29日土曜日(奇しくも閏年の今年と同じ曜日のめぐり合わせ)、部隊を率いていた青年将校らは、建設中の国会議事堂の前にあった陸相官邸に集められた。そして、自決した野中四郎、河野寿両大尉らを除く全員が渋谷(宇田川町)にあった陸軍刑務所に護送・収容された。その後、将校らに対する処罰は、短期間に国民の目の届かないところで決められた。

 翌3月1日には緊急勅令が出され、3月4日に東京陸軍軍法会議が特設される。しかし、当初から弁護人は付けられず、将校らの発言も制限され、一審制で上告も許されなかった。のちに「暗黒裁判」とも評された審理は非公開で、わずか1か月半で結審となり、事件から約4か月後の7月5日には死刑判決が言い渡された。新聞報道は翌々日で、それから5日後の7月12日日曜日、陸軍刑務所内で刑が執行されたのだった。

 これに先立つ同種のテロ事件――昭和7(1932)年の「血盟団事件」や「五・一五事件」、昭和10年の「相沢事件」では、裁判も公開され、新聞報道もなされていた。たとえば、犬養毅総理大臣を暗殺した五・一五事件の裁判では、首謀した海軍将校らに対して最高で「禁固15年」の判決が言い渡されたが、それは事件から約1年半後のことだった。また、法廷での彼らの陳述はたびたび新聞で報じられたため、多くの国民が、青年将校らには私心がなく、悪政の元凶である政党や財閥、特権階級を打破し困窮する農民や労働者を救おうと意図していたと知ることになり、減刑を嘆願する動きすらあったという。

 そのような“義憤”は、二・二六事件を引き起こした陸軍将校らにも通じるものだった。しかし、1500人近くの兵を動かして帝都の中心部を占拠し、斎藤実内大臣、高橋是清大蔵大臣、渡辺錠太郎陸軍教育総監など20人近い死傷者を出した未曾有のクーデター未遂を起こした将校らに対する昭和天皇の怒りと危機感も、過去に例のないものだった。それが、異例の厳しい処罰へとつながっていく。

 判決が言い渡される7月5日を前に、将校の家族のもとに急遽、面会を許可する連絡が入った。犠牲になった渡辺教育総監の評伝『渡辺錠太郎伝』(岩井秀一郎著)によれば、渡辺邸襲撃を指揮した青年将校の一人、安田優(ゆたか)少尉(当時24歳/熊本県天草出身)も、最後に家族との面会が許されたという。

 同書には、安田少尉の弟・善三郎氏の次のような証言が収録されている。

 「父は、その年の5月ごろから東京に出て待機していたんですが、ある日、天草の実家に『7月5日に面会さし許す』という電報が届きました。後からわかりましたが、その日に判決が言い渡されることになっていたんです。そこで、今度は天草から東京の父宛にそれを電報で伝えなくてはいけない。村では電報を取り扱う郵便局がなかったので、急いで隣村まで電報を打ちに行きました。そうしたら、その1週間後の7月12日に今度は東京の父から『優、従容(しょうよう)として死す』という電報が天草に届いた。母ももちろん覚悟はしていたようですが、それを目にしてまた泣き崩れました」。

 父母に仕送りを続けた青年将校

 同書には、安田少尉が事件に至るまでに実家に書き送った手紙が多数紹介されている。それを読むと、「クーデター」を企図し、「反乱軍」の一部を指揮した軍人とは思えない、一人の純粋な青年将校の素顔が見えてくる。たとえば、二・二六事件の4か月前にあたる昭和10年10月には、両親あての手紙の中で、陸軍将校向けの生命保険(3000円=現在の価値にしておよそ600万円相当と推測)に加入したことを報告している。しばらくは結婚するつもりもないため、その保険の受取人を当時まだ幼かった妹(三女・久恵)にしたと明かし、続く11月の書簡では、翌月から実家あてに毎月10円ずつ仕送りすると書かれている。

 〈拝呈仕り候[中略]/尚 今般参千円の生命保険に加入 受取人は妹久恵に致し置き候間御含み下され度候/是十四五年の間は 結婚する考も無之候えば久恵にて宜しかる可く候/二三年間に戦争等勃発仕り候折は勿論の事にて三十年にて満期とか 最も確実なる偕行社の将校保険に候[中略]/父母上様/(昭和十年十月二十日)〉

 〈拝呈 砲工学校入校のために出京 姉の家に落ち付きました/旅費の関係で帰省しませぬ 年末には一寸暇がありますが帰省を見合せて金でも送りましょう/十二月からは一月に十円必ず送りますから今迄は悪しからず[中略]/父母上様/(昭和十年十一月十日)〉

 さらに、事件の一か月半前には、実家を離れた妹(次女・土の)の代わりに女中を雇うようにと父親に提案し、その費用は自分が負担すると明言している。

 〈謹呈 益々御清栄の事と存じます 土のが本渡町に行った間 手が足らなくて御困りでしょう/年に五六十円出したら女中がやとえるでしょうから 金は私が出しますからたのんで下さい[中略]/父上様/(昭和十一年一月十一日)〉

 これらの書簡を読んでいると、一家の大黒柱として、まだ幼い弟妹も含めて安田家を支えていこうとする若きエリート将校の姿が浮かび上がってくる。ここからは、未曾有の軍事クーデターに身を投じようとしていた気配など微塵も感じられない。それでも、安田少尉は引き返せない道へ踏みだした。

 7月12日朝の処刑5分前の記録に、次のような言葉が残されている。

 〈我を愛せむより国を愛するの至誠に殉ず〉

 このエピソードを紹介した『渡辺錠太郎伝』の著者・岩井氏は、こう解説する。

 「安田少尉が処刑前日に書き残した遺書には、家計が苦しいにもかかわらず故郷を離れて勉学を修めることを許してくれた両親への感謝と謝罪の思いが綴られています。それでも、『国家の更生』のために蹶起せざるを得なかった。そこには、二・二六事件を首謀した青年将校の多くが抱いていた、疲弊する地方の農村や窮乏する庶民を救いたいという思いがあったことがわかります。財閥・政治家が私利私欲を満たし、元老や軍閥、政党、役人が権力を恣(ほしいまま)にしている。理不尽な日本を天皇陛下の親政の下で『更生』させなくてはならない――そんな正義感が彼らを突き動かしていたのだと思います」。

 かたや五・一五事件を引き起こした海軍将校は、その義憤を法廷の場で訴えることができ国民からも同情を受けたが、二・二六事件の陸軍将校らに弁明の機会が与えられることはなかった。もちろん、彼らが多くの要人・警察官を殺傷した罪は重い。それでも、責任をとるべき軍首脳が無罪とされた一方で、“実行犯”の彼らだけを急いで処罰したという印象は否めず、それ以前のテロ事件と比べても公正な裁判が行なわれなかったことは明らかだろう。その意味でも、やはり二・二六事件は日本の大きな転換点だったといえる。

 安田優少尉の生命保険証券は、今も弟・善三郎氏の手元にある。刑死だったためか、その保険金が支払われることはなかった。

●参考資料/高橋正衛『二・二六事件 「昭和維新」の思想と行動』(中公新書)、岩井秀一郎『渡辺錠太郎伝 二・二六事件で暗殺された「学者将軍」の非戦思想』(小学館)


 この後は【2.26事件史その9、処刑史考】に続く。






(私論.私見)