【北一輝の履歴考】 |
(れんだいこのショートメッセージ) |
ここで、北一輝を確認する。まだ練れていないが北の生涯履歴を知る好適テキストになっていると思う。 2011.6.4日 2011.7.5日再編集 れんだいこ拝 |
【北一輝の履歴考】 | ||||||||
1883(明治16).4.3日-1937(昭和12).8.19日。北 一輝(きた いっき、本名:北 輝次郎(きた てるじろう)。戦前日本の思想家・社会運動家。早稲田大学聴講生の時に、社会主義に傾倒する。中国の革命運動に参加し中国人革命家との交わりを深めるなかで、中国風の名前「北一輝」を名乗るようになった。右目は義眼。このことから「片目の魔王」の異名を持つ。国家社会主義者で、1923年、「日本改造法案大綱」で国家改造を主唱、その後の国粋派右翼のバイブルとなった。2.26事件に連座して死刑。2.26事件を引き起こした青年将校達のイデオロギーになっていた。日蓮宗の熱狂的信者としても有名。 | ||||||||
1883(明治16).4.3日、新潟県佐渡郡両津湊町(旧両津市、現佐渡市)の湊町一、二の分限者の家にして酒造業の北慶太郎と妻リクの長男輝次(のち輝次郎)として生まれる。父慶太郎は初代両津町長を務めた人物。2歳下の弟は衆議院議員の北昤吉。ほかに4歳上の姉と、4歳下の弟がいる。父慶太郎は家業(酒造業)の傍ら政治に熱中する慌しい毎日を過ごしており、行き交う人々との激しい遣り取りが少年に「何か」を植え付けたものと思われる。学業の傍ら私塾で漢学を学ぶ。 1897(明治30)年、前年に創設されたばかりの旧制佐渡中学校(新制:佐渡高校)に1回生として入学。創立の意気に燃えた情熱的な教師たちは在校生に大きな影響を与えた。特に感化を与えた教師に長谷川清(後、淑夫と改名、号・楽天)がいる。英語教師の長谷川から北は英語の修習ではなく、進化論や英国史を始めとする世界史などの課外授業で、思想家として基礎が形作られた。北との師弟関係は僅か三年であったが、交友は続いた。以降長谷川は一生を文筆に生きた。後に筆禍事件を起こし不敬罪で入獄させられている。 1898(明治31)年、とび級試験を受け、3年生に進級する。 1899(明治32)年、眼病のため帝大病院に入院し、夏頃まで東京に滞在。 1900(明治33)年、5年生への進級に失敗する。この頃、眼病を患い、休学、復学、落第の不運に見舞われ退学した。 1901(明治34)年、新潟の眼科院に7ヶ月間入院する。退院した北は上京し、幸徳秋水や堺利彦ら平民社の運動にも関心を持ち、社会主義思想に接近する。激動の20世紀開幕の年。そこで北は、社会民主党結成の興奮をリアルタイムで味わった。 北の悲恋に終わる初恋もまたこの頃のことである。 1903(明治36)年、両津町初代町長などを歴任した父が衰運に向かう家産を残し死去。10月、「輝次郎」と改名した。孤島に沈潜する寂寥感、疎外感に苛まれながら、明星ばりの詩を詠み、時論を「佐渡新聞」に投稿。早熟な少年・輝次の思想家の芽は日に日に大木に育ち始めていた。 19歳頃、佐渡新聞紙上に「国民対皇室の歴史的観察」「咄(とつ)非戦論を云う者」等など次々と日露開戦論、国体論批判などの論文を発表、「国民対皇室の歴史的観察」は2日で連載中止となった。 1904(明治37)年夏、21歳の時、弟の北昤吉が早稲田大学に入学すると、その後を追うように上京、早稲田界隈の下宿で弟と共同生活を始め、同大学の聴講生となる。有賀長雄や穂積八束といった学者の講義を聴講し、著書を読破すると、さらに大学図書館、上野図書館に通いつめて社会科学や思想関連の本を読んで抜き書きを作り、独学で研究を進める。日露戦争の喧騒に関わらず古今の書籍に没頭した。この時、北は「佐渡中学生諸君に与ふ」と題する一詩を投稿し自らの旅立ちへの餞とし、苦く切なく悲恋に終わった青春への葬送曲とした。
1905(明治38).8月、この頃、日本には中国革命を決行せんとする革命党員が多数亡命してきており、日本を拠点に活動していた。それまで分立していた三派、即ち孫文の興中会、章丙燐の光復会、黄興・宋教仁の華興会の三団体が宮崎滔天、内田良平らの斡旋で大同団結し「中国革命同盟会」が結成された。総理には孫文が選出された。日本人部機関紙としての性格を持った同人誌「民報」その他が創刊された。 1906(明治39).5月、23歳の時、処女作「国体論及び純正社会主義」(1000ページにもわたる大著)を自費出版する。後に、板垣退助をして、「御前の生まれ方が遅かった。この著述が20年早かったらば我自由党の運動は別の方向を取って居った」と言わしめた。白眉の革命思想家誕生の登場となった。金策に苦労した末の発刊であったが、刊行5日後ただちに発禁処分を受けることになった。以後、特高警察に要注意人物とされた。北の人生の波乱万丈、容易ならざる航路を予感させるデビューとなった。詳細は「北一輝の国体論及び純正社会主義1」以下に記す。 北の思想の源流は、日本的共同社会主義者・西郷隆盛にあったと思われる。西郷的「天を畏れ民を安んずるの心」の持主による「敬天愛人政治」を理想としていた。この時点に於ける北一輝は社会主義者であり、「国体論及び純正社会主義」は北式社会主義社会建設に至る方策を提起していた。北の目指した政体は東洋的共和政に基づく社会主義社会であった。戊辰戦役から憲法発布、議会開設までを第一期・維新と規定した。維新の志士、自由民権の闘志が家郷を擲ち、命を賭け勝ち取った憲法。本来それは民主国である(はず)。然るに、誤れる支配層の恣意に依り、復古的国体論に眩まされ天皇が絶対専制君主となり、資本家・地主が恣に国政を壟断し、民を圧迫するに至っている。維新革命の心的体現者・大西郷が群がり殺された明治10年以降の日本は、道義去り復辟の背信的逆転が為されている。しかし日清、日露の両戦役を戦った国民は愛国に目覚め、国家の主体として意識が覚醒されたはず。普通選挙権さえ獲得できれば、議会において多数派が、平和裏に維新革命を成就できる。北は民権の活力とその可能性に全幅の信頼を置いた。「国民国家」の創出こそ北が見据えていた理想であった。北にとって父の時代の自由民権運動は羨望と憧憬の対象であった。政治は技術でなく意気であり『身は白刃に斃れんとして而も自由は死せずと絶叫』し、まっしぐらに突き進む、たぎる情熱だった。「普通選挙権」を獲得し、「ソーシャリズム」、「デモクラシー」実現が射程に入れられていた。 「国体論及び純正社会主義」は社会主義者河上肇や福田徳三に賞賛された。「国体論」の出版→発禁により北の存在が社会主義者に知られるようになった。幸徳秋水や堺利彦らとの交友が始まり、同年10月、革命評論社同人となる。 同士としての誘いを受けたが友人として幸徳との往来は続けたものの盟を約すことはなかった。「孤行独歩、何者をも敵として敢然たる可しという論客の一人位は必要に候」の言を放っており、群れを好まず、独自の道を闊歩する気概に溢れたこの頃の心境を伝えている。 1906(明治39).9月、宮崎滔天が主宰する「革命評論」が創刊された。同人には、平山周、萱野長知、清藤幸七郎などがいた。 この頃、弟に誘われて「支那風豪傑」が屯する梁山泊に「仮の止り木」に拠るほどの軽い気持ちで参画することになる。北は革命評論社同人との交流を深めるようになり、その機縁で中国革命同盟会に入党、以後支那革命運動に身を投じる。その後、右翼の大立者・内田良平を中心とする大陸浪人と知り合い、黒龍会の「時事月函」の編集員となる。内田、清藤幸七郎の紹介で、在日中国革命会の幹事にして民族主義的革命家・宋教仁(そうきょうじん)と親しくなる。こうして、北は躯幹偉大・革命浪人滔天との出会い以来、中国革命との結びつきを強めた。これが大正8年まで13年間に亘って没頭する中国革命への第一歩となった。 1907(明治40).3月、中国革命同盟会は内紛が絶えず修復不能状態にまでなった。 金銭問題から端を発したが、本質的には支那革命論の違いにあった。やがて孫文の独裁的会運営への不満となり溝を深めていた。孫文派は、本拠を香港、ハノイ、シンガポールなど外国に置き、海外華僑から資金を集め武器を調達、日本軍部やフランス安南総督などの外国勢力と結び、国内勢力と呼応する革命戦略戦術にシフトしていた。孫文に付き従っていたのは胡漢民、廖仲?ト、汪兆銘らであった。これに宋教仁や譚人鳳たちが対立し、外国勢力への依存は起義成った後に外国からの干渉を招く恐れありと危惧し反対し、「外邦の武器を持たず、外人の援助を仰がざる、革命の鮮血道」ことを良しとしていた。上海を全支那世論の神経中枢として日本の幕末維新期の京都に匹敵させ、その上海を拠点にして揚子江一帯に勢力を扶植し、「叛逆の剣を統治者の腰間から盗む」軍隊工作に全力を傾注、合体蜂起を策し、国家的統一を失わず、中央政権を奪取する戦略を練っていた。黄興派が孫派と譚・宋派の中間で彌縫策を巡らせていた。中国革命同盟会は、孫文の南方同盟会と譚・宋派の中部同盟会に事実上分裂していた。譚・宋派宋派の中央革命(長江革命)路線が採択されるに及び孫文は日本政府から餞別を受け離日した。 孫文は相変わらず地道な革命勢力の養成とその組織化に力を注がず、他力本願に過ぎ、僥倖頼みで蜂起を繰り返しては犠牲者を増やし続けていた。維新前夜、竜馬や松陰や晋作が斃された様に、支那でも幾多の志士が累々と屍を晒した。宋教仁をして「奉ずべき王者。没せずんば今日、孫愚袁奸をみざるべし」と嘆かせた趙聲のような志士が幾人も非命に斃された。後年、為政者は自身の統治の正当性を強弁する必要から、これらの「真の英雄」を抹殺し、その痕跡すら青史に留めない。 1910(明治43)年、大逆事件で逮捕され、辛くも釈放された。明治天皇の特赦による逮捕者削減の処置によりなんとか助かった。この頃、黒竜会編纂部に入る。 1911(明治44)年、間淵ヤス(すず子)と知り合う。 同 7.31日、中部同盟会が結成された。 10.10日、中国の武昌で辛亥革革命が起こる。10.19日、宋教仁から内田良平に血飛沫滴る電報が届く。北を「北君イツ発ツカ返待ツ」と招請していた。10.26日、北は、新橋駅を発ち、黒龍会特派員として10.31日、28歳の時、疾風怒濤の革命運動に単身乗り込み、上海に渡り宋教仁のもとに身を寄せる。白面の貴公子かくして大陸の革命家となり、「北一輝」と名乗るようになった。以降、武昌-南京、上海の間を往復し、弾丸の下革命軍と行動を共にした。南京では駐在武官であった本庄繁少佐に会い、日本軍の動きを聴いて革命派に伝達している。 12.2日、南京が遂に革命派に落ち、臨時政府の樹立が日程に上った。この時期、孫文は世界遊説に出かけ、母国・中国は元より日本にすらいなかった。孫文が蜂起の成功を知るのは、アメリカに於いて、それも新聞からであった。 12.25日、孫文が帰国。張繼の調停で、孫文・宋教仁との和解なる。 1912(明治45).1.1日、孫文が中華民国臨時大総統に就任した。北は、宋教仁を「冷頭不惑の国家主義者」、「一貫動かざる剛毅誠烈の愛国者」と評し、深く敬愛した。自分をのみ恃む事多かった北が生涯の契りを結び、共に革命の砲火を潜り、抱寝の夜熱く語り、成就の夢を追い続けた。他方、孫文に対しては「孫文式米国的夢想共和政は中国の歴史に照らしアメリカ共和政の翻訳に過ぎ実現不可能」と断じた。「辛亥革命は、失敗続きの孫文の辺境蜂起路線から訣別し、新たな路線を打ち立て、憂国の念に燃える国家民族主義者が為した回天であり、孫文は革命運動の代表者にあらず局外者なり」と断じた。「維新功業の火付け役は確かに水戸ではある。だが成った後、薩長政府に分け前寄越せと言えるや否や。革命は腐敗堕落を極めた亡国の骸より産まれんとする新興の声なり。産まれんとする児の健やかなるか否かは只この意気精神の有無に存す』怯懦の孫にその意気ありや」。 村上一郎はその著書「北一輝論」に於いて「武昌起義から数ヶ月間のプロセスはそれ以後のプロセスに比し、類なく美しかったと思うし、その美しさには北一輝や宋教仁の路線の推進が与って大きい力をなしたのではないか」と記している。この時期の高揚しながらも冷徹な北の心境を清藤幸七郎あての書簡で知ることができる。北は、日本が果たしてきた中国革命に対する貢献の大きさを強調し、「日本の国家主義、民族主義から、排満興漢の思想ができた」と誇りながらも、「日本は革命の父である。だが、これは両刃の剣である。中国は根本的に精神的に親日である。しかし対応を誤れば明らかに排日に転換する恐れがある。新興国に対し(中略)侮りがみえたら最後、日本は(中国)全四百余州からボイコットされるのだ」と警鐘を鳴らし「日本の対支那政策も一変しなければならぬ」と喚起を促した。 臨時革命政府では、北京を中心に勢力を維持する北方軍閥・袁世凱との決着が課題だった。革命派は、外国とりわけ日・英・露三カ国からの干渉に神経を尖らせた。満清朝廷温存に繋がる立憲君主制の強要や、袁・孫妥協の斡旋、ロシアによる蒙古蚕食への日本の黙認、そして切迫する財政状況、亡国的借款など課題山積であった。北が日本政府に望んだのは、「王者の如き善意なる傍観」好意的中立であった。「革命とは亡国と興国との過度に架する冒険なる丸木橋なり』革命の橋を渡り、興国の彼岸に達せんともがくも未だ渡橋半ばの支那に、アジアの盟主たるべき日本が、白人列強の走狗となり、旧権力の温存に加担する。愚呆、驕慢な為政者、雷同する大陸浪人に怒りの刃を向けるも、革命を知らず」とも述べている。支那軽蔑観に目を覆われた者たちに届くことはなかった。 明治45年2月13日、武昌蜂起から4ヶ月。袁世凱との南北和議成立。求心力なき「木偶・孫文」はわずか3ヶ月足らずで「臨時大総統」の座を袁世凱に譲り、悄然と中国を離れることになる。第一革命はかくして失敗に終った。宋教仁に日本の非を指摘された北は、「日本人たる不肖の忍ぶ能はざる所なりき」と慨嘆した。宋教仁は、袁世凱に請われ農林総長として入閣した。宋は強大な軍事力を擁する袁を恐れてはいなかった。革命を起こしたのは宋派であり、臨時革命政府組織大綱21条は宋の意が色濃く反映され「中華民国臨時約法」として3月12日に袁世凱により公布された。議会の開設ができれば、多数を獲得し責任内閣を作り大総統・袁を牽制できると読んだ。 宋教仁は孫文と共に国民党を組織した。 1913(大正2).2月の選挙に臨んだ。結果は目論見通り、宋の擁した国民党が圧倒的第一党となり、実権を握る宋が最大実力者となった。 1913(大正2)年(中華民国2年).3.22日、農林総長であった宋教仁が上海北停車場で暗殺された。宋は滝の如く流れる血潮を押さえながら「南北統一は余の素志なり。小故を以って相争い国家を誤る勿れ」と遺言した。宋の死は革命党の脳髄が砕けたに等しかった。 北伐討袁の旗挙がり、第二革命が勃発、内乱が繰り返され、群雄割拠、列強の介入を許す混乱へと繋がっていった。北の嘆きは尋常でなかった。真犯人を探し出さずば「革命に生き、彗星の如く消えた友」に顔向けできない。また成仏出来るはずもない。許さじとして宋教仁暗殺事件解明に奔走した。北は、日本にとっては紛争を呼ぶ爆裂弾であり邪魔な存在に過ぎなかった。北は、宋教仁暗殺犯人が孫文派であると新聞などに発表した。 4月8日、北は上海日本総領事館の総領事有吉明より「退清命令」と「向こう三年間の清国在留禁止措置」を受け上海埠頭より船上の人となった。ジャンク行き交う揚子江を下りながら遠ざかる日々を偲び、双頬を濡らし滂沱と流れる涙を拭いもせず、孤影悄然、川風に吹かれていた。「長江流れて濁流海に入ること千万里 白鴎時に叫んで静寂死の如し 断腸の身を欄に寄せて千古の愁を包める浮雲を望み 天日の悲しみを仰ぐ 限りなき追憶は走馬灯の如く眼前に浮かびては消え」。 1913年、日本官意による中国退去命令で帰国する。 1915(大正4)年から16年にかけて辛亥革命の体験をもとに「支那革命外史」を執筆、送稿し、日本の対中外交の転換を促した。大隈総理や政府要人たちへの入説の書として書き上げた。詳細は、「北一輝の支那革命外史1」以下に記す。 革命の実見者にして、革命の支那に熱い思いを傾けた実践者・北入魂の覚醒的日本外交論であった。「日・支」和すべし。革命中国を擁護し、共存の道を図り、連携して世界戦略を打ち立てよ。日本海を地中海に擬し内海とするアジアの大ローマ帝国構想である。日本に期待する中国国民を犲狼の羊言で裏切ってはならない。支那の割亡に繋がるイギリスを先頭にした鉄道敷設に名を借りた資本侵略の走狗に堕せば、その憎しみは倍化し熾烈なものになる。今のまま放置はできない。取り返しがつかなく為る。中国のナショナリズムを侮ってはならない。「日・支」共通の敵はイギリスでありロシアである。イギリス追随の外交方針を放棄せよ。アジアから駆逐すべきである。中国革命最大の妨害者、侵略者に兵を向けよ。ドイツと同盟し東西呼応しイギリスに当れ。日本がイギリスから奪取するのは、香港、シンガポール、豪州、英領太平洋諸島である。インドはイギリスから解放し独立させねばならぬ。中国は有史以来の敵・ロシアと戦うべきである。蒙古を奪い返し併合し、日本がシベリア諸州を奪う。日本人の血が滲み込んだ満州はロシアの南下を食止め、支那を保全する防壁。日本が進駐し防人たるべし。そしてアメリカと経済同盟を結び、中国開発にアメリカ資本の参加を促す。日・米戦うなかれ。日本が唯我独走の道を驀進すれば、イギリスに合体したアメリカを含む白人同盟軍と支那が手を結び日本に向かってくるは必定である。支那は民族的死力を結集し日本に抗戦する。日本は必ず滅亡してしまう。この後の、日本の運命を恐ろしいほど見通した眼力である。北一輝 32歳。 これをキッカケとして大川周名・満川亀太郎が北を知ることとなる。「支那革命外史」では、「支那保全」のための積極的方策として対英・対露戦争を遂行できる国家体制をつくりあげることを指向させていた。 1916(大正5)年、淵ヤスと入籍、上海の北四川路にある日本人の医院に行った。この頃から一輝と名乗る。 1917(大正6).6月、北は再び上海に渡る。北には、「対華21か条」の調印から始まる排日・侮日に結集する大衆の怒りが燎原の火の如く燃え盛るのが見えていた。 1918(大正7).8月、日本で米騒動が勃発。 1919(大正8)年、6月、北は、「21カ条を取消せ」、「青島を還せ」という中国民衆の排日の叫びを身近かに聞きながら、「五・四運動」で爆発する反日・民族運動の炎のなかに身を晒した。1919年は革命運動が世界的な高まりを見せた時期であった。第一次世界大戦が前年11月に終結し、ヨーロッパ諸国は疲弊し、アメリカが世界のリーダーとして勃興した。「五・四運動」は6月に上海に飛び火し全国に波及した。朝鮮でも「三・一万歳事件」が起こり、日本からの独立を求めるデモが京城で起き、蜂起は全国に拡大した。総参加者136万名、死者6670名、投獄52730名。 インドでもエジプトでも民族解放運動が激しさを加え始めていた。日本でも前年8月の米騒動を切っ掛けに階級闘争の萌芽が見られ、デモクラシー運動、普通選挙権獲得に結集した大衆行動や、労働争議も増発していた。 断食による精神統一を企てた。この断食中、満川亀太郎にあてて「ヴェルサイユ会議に対する最高判決」を書き送っている。当時北の生活を世話していた長田医師と譚人鳳の勧告で断食を止め、「身体の衰弱もまだ恢復しきらない中に、改造法案の執筆に着手した」。長田医師は、官憲の弾圧を憂慮し、執筆に際しては「何事も皇室中心主義でなければならぬと言ふことをくれぐれも注意し、書き上げた原稿は一々自分が目を通すと固く言い渡した」と回想している。 1919(大正8)年、36歳の時、8月、約40日の断食後に「国家改造案原理大綱」を一気に書き上げた。詳細は「北一輝の日本改造法案大綱」、「北一輝の日本改造法案大綱考」に記す。 『そうだ、日本へ帰ろう。日本の魂のドン底から覆へして、日本自らの革命に当たろう』。大正8年(1919年)12月、北一輝の13年間に及んだ中国革命との関わりは、汽船から吐き出される煤煙が万里長江を漂い行くように終わった。 緒言のなかで北は次のように述べている。「全日本国民ハ心ヲ冷カニシテ天ノ賞罰斯クノ如ク異ナル所以ノ根本ヨリ考察シテ、如何ニ大日本帝国ヲ改造スベキカノ大本ヲ確立シ、挙国一人ノ非議ナキ国論ヲ定メ、全日本国民ノ大同団結ヲ以テ終ニ天皇大権ノ発動ヲ奏請シ、天皇ヲ奉ジテ速カニ国家改造ノ根基ヲ完ウセザルベカラズ」。 「国家改造案原理大綱」は明治維新後の日本の国家再改造に関する著作であり北式憲法草案としての意義を持つ。明治憲法の見直しを北以外に試みた者は見当たらず、この点でこの時期の北の営為が注目される。第二次大戦後のGHQによる日本の改造において、北一輝の「日本改造法案大綱」のなかで記述された、例えば「国民ノ天皇」、「労働者ノ権利」、「国民ノ生活権利」などの「進歩的」もしくは「革新的」部分が、多少内容を変えながら、戦後日本国の新しい秩序の根幹をなす日本国憲法に織り込まれる形になった点で注目される。 北は本書を書いた目的と心境について、「左翼的革命に対抗して右翼的国家主義的国家改造をやることが必要であると考へ」と述べている。これをどう評すべきか。この言をもって右翼式改造論と看做すのは早計で、字面主義に陥っていると思われる。正しくは、「国際金融資本が裏で糸を引き操る国際共産主義運動の環としての徒な左翼的革命に対抗して、在地土着的な日本式維新革命論を生み出す必要があると考え諸提案した」と窺うべきだろう。史実は右翼式改造論と看做され右翼のバイブルと化したのであるが、それは当時の右翼、左翼の見識の低さによるものであり、正しくは「当時において稀有なる在地土着的な日本式維新革命論」としての位置づけを獲得すべきだろう。 この大著の執筆中に大川周名や満川亀太郎が上海に現れ、「中国の革命より日本の革命が先だ」と帰国を促し、北は作品を書き上げた後同年12.31日に清水行之助と共に帰国する。 1920(大正9)年、北が帰国する。会(年末年始)明け議会の劈頭、貴族院議員江木千之氏が「改造法案」を危険思想だと騒ぎ秘密会を要求した。第1回貴族院予算委員会で、「改造法案の発禁問題」を取り上げ、取扱方に就て政府に質問した。その結果、結局、不起訴処分になった。速記録によれば江木の質問は2.19日になっている。次のように記録されている。
1921(大正10).1.4日、大川周明、満川亀太郎らが設立した猶存社に入り、猶存社の中核的存在として国家改造運動にかかわるようになる。この前後より本名輝次郎を一輝と改める。上海から帰国した北が一番に行ったのは、時の皇太子(現天皇)への「法華経」の献上であった。次のように述べている。
これらの活動は回想録「支那革命外史」にまとめられている。 この頃、皇太子の婚約者(久邇宮良子女王)に色盲の遺伝があるとして、元老山県有朋が婚約解消を主張したことから起った対立・抗争の「宮中某重大事件」が起り、猶存社が反山県の陣営に加わっている。満川は次のように回想している。
北は、いわゆる怪文書を執筆してばらまき、子分の岩田富美夫らは山県暗殺を策謀したと云われる。「北が久邇宮家におくった桐の箱入りの『勧告文』は、いわゆる怪文書中の白眉といわれ、これを垣間見た警視庁の人々さえ感激おくあたわざる文章であったという」と田中惣五郎は書いている。しかしこの時、北がどんな内容の怪文書を書いたのかは明らかになっていない。 この事件では、長州閥の山県を抑えるために、内相床次竹二郎らの薩摩系政治家が動くなど、薩長対立の局面もあらわれたが、結局、山県が自己の主張を撤回し、1921年(大正10)2月10日、宮内省から「良子女王殿下東宮妃御内定の事に関し世上種種の噂あるやに聞くも右御決定は何等変更なし」との発表が行われて、事件は落着した。これに力を得た右翼勢力は、つづけて、3月3日出発と予定されていた皇太子外遊に対する反対運動を展開しているが、この点については、政界上層部の対立を引き出すことができず、何らの成果なく終っている。 北のこうした宮中某重大事件へのかかわりは、『改造法案』の観点から云えば、「平等ノ国民ノ上ノ総司令官ヲ遠ザケ」(2-223頁)ている閥族・天皇側近への攻撃であり、天皇を国民の総代表者たらしめる1つの方策として意識されたことであろう。この点から考えると、大正10年1月24日政界有力者に配布されたという「宮内省の横暴不逞」と題する怪文書1)が、北の筆になるものではなかったかとも思われてくる。しかしより重要なことは、北がこの事件の過程から、自らの活動方式を固めてゆくための端緒をつかみとったと思われる点である。まず第1に北は、彼自身の怪文書活動と彼が配下とした岩田富美夫、清水行之助、辰川静夫(龍之介)らによる暴力団的活動との組合せが、意外と効果あることに気づいたに違いない。そして、以後、青年将校運動が抬頭するに至るまで、北の活動はこの方式を基本として行われるに至るのであった。第2には、こうした活動方式が既成の政治勢力にとって利用価値があり、従ってそこから資金的援助を獲得できる可能性の生れることをみてとったのではなかったろうか。 9.28日、安田財閥の創始者安田善次郎が大磯の別邸で、朝日平吾に刺殺される事件がおこる。朝日はその場で自殺したが、彼の遺書が友人の手で猶存社に送られてきた。「死ノ叫声」と題されたこの遺書は、自らの行動を「富豪顕官貴族」を打倒する「最初ノ皮切」と意義づけ、あとにつづけと訴えていた。彼は、日本の現状を、既成の支配層が天皇と国民を隔離し、私利私欲のために国民を圧迫しているという形で捉え、当面の目標として、「第一二奸富ヲ葬ル事、第二ニ既成政党ヲ粉砕スル事、第三ニ顕官貴族ヲ葬ル事、第四二普通選挙ヲ実現スル事、第五ニ世襲華族世襲財産制ヲ撤廃スル事、第六ニ土地ヲ国有トナシ小作農ヲ救済スル事、第七ニ十万円以上ノ富ヲ有スル者ハ一切ヲ没収スル事、第八ニ大会社ヲ国営トナス事、第九ニ一年兵役トナス事」という9項目を掲げていた。 1921(大正10)年は北にとって1つの転期であった。宮中某重大事件、朝日平吾事件という二つの事件を体験した彼はそこから、怪文書=暴力団的行動によって、天皇大権・天皇側近、あるいはその反面としての共産主義排撃といった問題をとりあげ、既成政治家とも握手するという活動方式を生み出していった。そして同時にそのことによって猶存社のなかで次第に孤立していったと思われる。 1922(大正11)年春、西田税らの陸軍士官学校生徒がつくっていた「青年アジア同盟」に接触し、彼等の間に「改造法案」の思想を注入している。それまで、大陸浪人にあこがれ、黒龍会の方向を志向していた西田を、国家改造思想に転換させた。 1923(大正12)年、ヨッフェ来日を廻って大川と反目し猶存社が解散する。その後、大化会、大行社等に関係する。この頃、東京・千駄ヶ谷、後に牛込納戸町に転居し母リクの姪・従姉妹のムツを家事手伝いとして暮らした。 5月、北の「国家改造案原理大綱」原稿を右翼思想家である大川周明が日本に持ち帰り、「国家改造案原理大綱」を「日本改造法案大綱」と改名し改造社よりガリ版刷りで47部発行した。47部は赤穂義士になぞらえていた。一部伏字で発刊された。 10月、ロシアに於けるポルシェヴィキ10月革命。 この頃、北が大陸的豪雄・譚人鳳の孫を養子に迎え「大輝」と命名している。大輝は革命に起ち、革命を戦い、革命の大地に生を受けた「革命の子」。母を弑して産まれた幼子は肉親の温もりを知らず、我を父よと健気に慕い寄る。この子の同朋が父の故国に怒りと憎しみを燃やし怒涛の群集となり、叫び狂っている。見よ!先頭に立つは、悉く父の嘗ての同志ではないか。哀れなるかな、二つの国に引き裂かれる吾子よ! 北の苦悩と嘆きが伝わってくる。北は生涯、革命の孤児・大輝を盲愛した。気丈夫な彼が、妻に一度だけさめざめと泣く姿を見せている。『お前ほど不幸なものはない』。処刑前、大輝との最後の別れに際してである。 これを手にした者は、最も直截に「アジア解放」のための「大軍国組織」案としてうけとった。 刊行後、長く国粋右翼派のバイブルとなり、 北はこれによって昭和初期の国家社会主義運動における大物指導者の地位を獲得し、大陸浪人や壮士、青年軍人らのカリスマ的存在になる。この思想が2・26事件首謀者となる青年将校に大きな影響を与えた。村中孝次、磯部浅一、栗原安秀、中橋基明らに影響を与えたと云われている。 この頃東京・千駄ヶ谷、後に牛込納戸町に転居し母リクの姪・従姉妹のムツを家事手伝いとして暮らした。 1925年 安田共済保険ストライキ事件、朴烈・文子怪写真事件。 1926(大正15)年、「改造法案」第3回公刊。付した序文のなかで次のように述べている。
安田共済生命事件。北の子分の清水行之助が血染めの着物を着て安田生命にあらわれ、会社を威嚇したこともあった。 同年、北は十五銀行が財産を私利私欲に乱用し、経営が乱脈を極めていると攻撃するパンフレットを作製し、各方面にばらまいた(十五銀行恐喝事件)。同年、 宮内省怪文書事件で逮捕されている。1927(昭和2)年、保釈。 1930年、ロンドン海軍軍縮会議における統帥権干犯問題。その他、ロシア革命政府が派遣したヨッフェの入国を弾劾する怪文書を作成したり、昭和7年に外交国策の建白書を草したり陰に陽に活動をしていた。 1931(昭和6)年末から、三井財閥から年額2万円(現在に換算すると1億円前後)の資金提供を受けるようになり、この資金で、中国の人脈を維持し、在野の右翼暴力団員を食客として養い、青年将校に飲食遊興をさせて自らのシンパとしていた。企業幹部、政治家などに憂国談義を装って面会を強要し、そのたびに金を受け取っていた(長谷川義記、松本清張など)、とある。 松本清張は、国体論及び純正社会主義を書いた時の北は「社会民主主義者」であり、日本改造法案大綱を書いた時は国家主義者、その出版権を西田税に譲渡した後の北は、腹心の岩田富美夫一派の暴力的示威行動を笠に着た事件屋、強喝屋、1930年以降は青年将校の動向を利用して三井財閥などに金を出させる政治的強喝屋であったと評している。 1936(昭和11)年、2・26事件で逮捕される。 1937(昭和12)年、軍法会議で二・二六事件の理論的首謀者とされ、死刑判決。8.19日、民間側の首魁として愛弟子の西田税とともに処刑された。享年54歳であった。宮本盛太郎らの研究によれば、北は計画自体を知っていたものの、時期尚早であると慎重な態度を取っており、指揮等の直接関与は行っていなかったとされる。真崎甚三郎大将ら皇道派の黒幕が予備役退役の処分で済んだのと較べると極めて重い処分である。事件の際に「マル(金)は大丈夫か」と青年将校の拠点に電話した音声がレコードとして残っている。 北の養子・大輝はその後、父と同じ早稲田で学び、終戦直後の8月19日、父が愛して已まなかった上海で客死する。そこは自分の故郷であり、愛する父を追うように父と同じ命日でもあった。享年 31歳。 |
||||||||
法華経読誦を心霊術の玉照師(永福寅造)に指導され、法華経に傾倒し日常大音声にて読経していたこともよく知られている。北一輝は龍尊の号を持つ。弟の昤吉によると「南無妙法蓮華経」と数回となえ神がかり(玉川稲荷)になったという。 |
【北一輝の革命構想】 | ||||||
北一輝は近代日本のもっとも重要な思想家の一人であり、現代にも深い影響を与えている。彼の伝記の決定版は、松本健一「評伝北一輝」に詳しい。問題は、どう論ずるかである。 中国革命に参加して孫文式革命戦争を体験した北は、翻って日本革命を逆照射し始めることになる。1920年、革命構想「日本改造法案大綱」を著わす。同書はまず天皇制の扱いに始まり、「天皇=国民の総代表、国家の根柱」として次のように述べている。
法案巻一の「天皇は全日本国民と共に国家改造の根基を定めんが為に天皇大権の発動によりて三年間憲法を停止し両院を解散して全国に戒厳令を布く」と指針させる。
即ち、天皇の絶対主義的政治権力を利用して日本式革命行うべしとする着想に至る。これによると、天皇は、国民の総代表であり、天皇と大権によって憲法を三年間停止し、その間に在郷軍人が主体となって、日本を改造すると言うもの。個人の私有財産に制限を加え、総代表たる天皇も所有している土地と山林等を国家に渡し、その代わりに皇室費を当時のお金で三千万円支出するというもの。一般市民は、一家の所有する個人資産を百万円までとし、それを超える額は天皇に納め、もし、これに拒否したり、資産隠しをする場合は死刑とする。更に日本の安全の為に、シベリアを領有するのに必要な大陸軍を組織し、南方領土については、それを取得する為に大海軍を造る云々としていた。 「今ヤ大日本帝国ハ内憂外患並ビ到ラントスル有史未曾有ノ国難ニ臨メリ」として次のように批判している。
且つ、革命主体を、唯一の武器の所有者である軍隊に置いた。「支那革命外史」、「日本改造法案大綱」でも述べているように、軍隊の上層部は必ず時の政治権力に密着して腐敗しているから、下級士官が下士官・兵卒を握って主体とならなければならないと主張した。クーデター、憲法停止の後、戒厳令を敷き、強権による国家社会主義的な政体の導入を主張していた。ゆえに北を右翼思想家ではなく一種の革命家と見る意見もある。 「日本改造法案大綱」は、華族制の廃止、普通選挙、言論の自由、農地改革、労働8時間制、義務教育制、基本的人権の擁護など、戦後改革を先取りするような項目が含まれている。100万円以上の私有財産は国家が没収し、絶対的な平等社会を実現しようとした。児童の教育について、国家義務で行うべしとして次のように記している。
北のこうした思想が当時の青年将校の心をとらえた。事実、社会主義者の多かったGHQ民政局は、戦後改革を立案するにあたって「日本改造法案大綱」を参考にしたと云われる。 北は、日本改造法案大綱を書いた目的と心境について、「左翼的革命に対抗して右翼的国家主義的国家改造をやることが必要であると考へ」と述べている。このように北には単純な国粋主義者とは括れない面があった。久野収は北を「ファウル性の大ホームラン」と評している。坂野潤治は、「(当時)北だけが歴史論としては反天皇制で、社会民主主義を唱えた」と述べ、日本人は忠君愛国の国民だと言うが、歴史上日本人は忠君であったことはほとんどなく、歴代の権力者はみな天皇の簒奪者であると北の論旨を紹介した上で、尊王攘夷を思想的基礎としていた板垣退助や中江兆民、また天皇制を容認していた美濃部達吉や吉野作造と比べても北の方がずっと人民主義であると評している。北の思想は安岡正篤や岸信介にも強い影響を与えたとされている。 北は、世間との直接の交流を絶ち、日々「法華経」を読誦しながら、退役少尉西田税を陸軍の下級士官とのパイプとし、「地涌の菩薩」出現の日をひたすら待ち続けた。この思想が、青年将校の2.26事件、錦旗革命に繫がる。2.26事件時、北一輝、西田税と電話で最善策を協議したり、教えを請いだりしている。NHKのドキュメンタリーだかのビデオに肉声が収録されているので間違いはなかろう。 政治権力者(軍上層部含む)にとって、北の存在と思想は、他の社会主義者や右翼に見られないある種の不気味さを感じさせ、畏怖させた。これが、2.26事件を口実にして死刑にされた原因であると考えられる。北は、訊問に対し、「ただ、私は日本か結局改造法案の根本原則を実現するに至るものであることを確信していかなる失望落胆の時も、この確信を持って今日まで生きて来たり居りました」と答えている。 右翼の間で「魔王」と恐れられ、革命大帝国実現を主張した北の思想は、一国内の権力者、富豪を倒して貧しき者が平等を求める革命と、後進国が先進資本主義国の植民地化政策に抗議して民族独立闘争を行う主張は同じだとした。北一輝は一貫不惑のナショナリスト、革命家であった。北の基本思想は昭和期の右翼のような超国家主義ではなく、むしろマルクスに近い社会主義であった。天皇を前面に出したが、実質的には天皇機関説に近い立場をとっている。明治維新を、天皇という傀儡を立てた「社会主義革命」だと規定し、来るべき革命はそれを完成させる第二の革命だと考えている。 北の基本思想は、今風にいえば、国際金融資本帝国主義のネオシオニズム式世界支配に対抗する個人と社会を止揚した共同体国家を建設しようとするものだった。故に、孫文式の「単純欧化主義革命」に胡散臭さを感じ取っていた。「ネオシオニズム式近代化」は却ってアジアを駄目にするという意識を持っていた。マルクス主義に対しても警戒し、日本国民の魂の何たるかを心得ない振舞いだとして退けた。ここから、「革命」ではなく「維新」を呼号することになる。 北が幸徳秋水などと違ったのは、この革命を天皇の権威を梃子にしたクーデタとして実行しようと考えた点だった。さらに帝国主義が領土拡大のために互いに激しく争っている時代に、それを座視することは自国を侵略される結果になるとし、対外的膨張主義を主張した。これは単なる植民地主義ではなく、宋教仁(孫文のライバル)などの「支那革命」と連携して、国際金融資本帝国主義支配に対抗する東洋的共和政を実現しようとするものだった。北の思想は、そうとは意識されないで、今日の日本にも受け継がれている。 |
||||||
「北一輝が抱いたアジアへの夢」を転載しておく。
|
【北のその後の影響考】 | ||
「古澤 襄の北一輝と岸信介」に次のような一文がある。興味深いので確認しておく。
|
北は早くから独特の思想を持っており、現在まで彼の評伝や思想の解説は無数に出ている。大学にゆかず、学歴と言えば早稲田の聴講生としての経歴があるぐらいの北であるが、その思想的な立ち位置は近代日本史の中でも他の追随を許さない、非常に独自のものがある。
そのデビューはわずか二十四歳の時に著した『国体論及び純正社会主義』で、北はこの著作で明治期以降の天皇制や国家に胚胎する矛盾を指摘し、発禁処分を受けている
。北は現在一般的には右翼思想家とされているが、実際はかなり複雑な立ち位置にあった。安藤らの同志大蔵栄一は北からこんな話を聞かされている。「幸徳(秋水)はわたしの本(『国体論及び純正社会主義』)を読み違えてあんなことをしでかしてしまった。あのとき(大逆事件)、わたしは死刑のグループに入れられていた。だが明治天皇は、多すぎると仰せられて、お許しにならなかった。次々に死刑の人数が削られていって、わたしは何回目かに死刑からはずされてた。それからわたしは、仏間に明治天皇の肖像画を掲げて毎日拝んでいる」。
大逆事件とは、明治天皇暗殺を企てたとして幸徳秋水ら十二名が死刑となった事件である。事件が起きたのは明治四十四年で、北の著作はすでに出版されていた。さすがに幸徳が遙かに年下の北(幸徳は明治四年、北は十六年生まれ)からの影響を受けて事件になったとは考えにくいが、北自身が自分の著作について大逆事件と関連づけて回想しているのは興味ぶかい。つまり、北自身からみても『国体論及び純正社会主義』には反天皇制的と誤解されかねない部分があったことを証言していると言ってよい。北は処女作発表後に大陸へと渡り、中国革命を支援するなど独自の活動も行っている。
その彼が、大正八年に書いたのが『日本改造法案大綱』であった。『改造法案』は青年将校達にとっていわばバイブルとも言うべき存在であり、決起によって目指すべき国家像の理想を理論的に支えたものでもあった。実際に北は末松太平に向かって「軍人が軍人勅諭を読み誤って、政治に没交渉だったのがかえってよかったのだ。おかげで腐敗した政治に染まらなかった。今の日本を救いうるものは、まだ腐敗していないこの軍人だけです。しかも若いあなた方です」とハッパをかけている
。こうした北の発言が今まで肩身狭く暮らしていた青年将校らの革新への情熱に油を注いだことは言うまでもない。何せ、邪魔者扱いされていたのがいきなり「救世主」とよばれたのだ。言われた末松は北の言葉によってクラーク博士の「ボーイズ・ビー・アンビシャス」に匹敵する感銘を受けた、と記している
。特に、事件の首謀者である磯部浅一は北と『改造法案』に対して心酔と言ってよい程傾倒しており、獄中で記した手記で『改造法案』を神聖視している。
二.「昭和維新運動」の展開
昭和初期に国家改造や革新を目指しての動きは総称して「昭和維新運動」と呼ばれる。この言葉は安藤の訓示にも使われているが、自分たちの動きを明治維新に続く「昭和維新」と位置づけていた。先に挙げた三月事件、十月事件、五・一五事件などもこの系譜にある。
三月事件や十月事件では首謀者の橋本欣五郎大佐らはほとんど処分らしい処分を受けておらず、事件は当初明るみにすらならなかった。未遂に終わったとはいえ、この両事件は政権を転覆し、軍が国政の実権を握ろうとしたクーデターの陰謀である。それが、まともに処分すらされないとすれば、同様の目的を持った人間を増長させるのは目に見えている。その後に起きた五・一五事件は未遂ではなく実際に時の首相が暗殺されてもいる。さすがに裁判にはなったが、死刑になった者は一人もいない。「五・一五事件の判決では一人の死刑もなかったのである。〝よいことをすれば正しく遇せられる〟のだという考えが、いっそうつよく青年将校たちの行動への激化を誘っていった」。これは事件に連座した山口一太郎大尉の回想であるが、「正しいことをすれば正しく遇せられる」と事件参加者らに思わせ、決起を促してしまった責任は軍をはじめとする当局者にもあるといえる。
ところで、三月事件・十月事件と五・一五事件には大きな違いがある。前二つの事件が「桜会」と呼ばれる集まりを中心とし、参謀本部にいる幕僚の佐官クラスがその主要メンバーだったのに対し、五・一五事件ではほとんどが尉官クラス、中には候補生も混じっていた。また、方法としても三月事件・十月事件が軍を動員した大規模なクーデターであるのに対し、五・一五事件は少数者によるテロ(暗殺)であった。いわば、前者が政権奪取を目的とした「クーデター」により近いものであり、後者の方が下からの変革を指向する「革命」により近いものであったと言える。左翼のそれと違うのは、いわゆる革命とは王家の顛覆と殺戮が伴ったのに対し、「昭和維新」は逆に天皇を純粋な(彼等の考える)存在にしようした点にあると言えよう。
「皇室を頂点とする支配者階級が国民を虐げる」と考えるのではなく、「本来日本国民は陛下の赤子として皆平等の筈だが、側近の妨害によって陛下の恩徳が行き渡っていない」と捉えるのが「昭和維新」の考え方であったと言えよう。なお、十月事件とそれ以降の動きの違いについては当事者達も認めている。
青年将校という言葉は一般的、概括的で、つかみどころのない言葉である。漠然とした盛り上がりの気勢の中で、革新的熱気を帯びてきたのが『十月事件』当時の青年将校の動きであった。ところが『十月事件』をさかいにして、事件に対する批判と反省とが、青年将校運動に大きな変化を与えた。われわれはもっと深く日本の国体について掘り下げねばならぬ――、という声であった。歩三の菅波三郎中尉、安藤輝三中尉(陸士三十八期)、歩一の香田清貞中尉、栗原安秀少尉(陸士四十一期)、陸士予科区隊長の村中孝次中尉、戸山学校から私――。などで交わされていたが、事件直後にはまだ具体的にどうしようという方針は凝固していなかった。いいかえると『十月事件』、私らにとって思想的分水嶺であった。『十月事件』に対する軍当局の処置には、割り切れない多くの疑問があった。橋本中佐以下十数名は数か所に軟禁はしたものの、料亭で毎日酒とご馳走ぜめの上、馴染の芸者まではべらせたということは、まるで、はれものにさわるやり方であった。しかも二週間で軟禁は解かれている。たとえそれが事前にあばかれたとはいえ、天下を動乱に陥れようとした未遂事件である。当局のこれに対する処断がこんなに簡単にすまされようとは、思いもよらぬことであった。その上、面子保持のためか記事差し止めの強硬手段で国民をつんぼ桟敷に押し込めたり、都合の悪いことは握りつぶしたり、軍当局の姑息は手段に対して、心あるものは眉をひそめたのである 。十月事件の失敗は青年将校らに思想的な研究の必要を考えさせ、合わせて軍当局の事なかれ主義を露呈させた。軍が体面を守るために行った隠蔽工作は逆に若い士官らに上層部への反感と軽蔑をもたらし、決起へと促す要素の一つにもなったのである。もしこの時、軍当局が毅然たる態度で陰謀に参画した将校を罰していれば、あるいは後の惨劇をいくらかでも防ぐことができたのかもしれない。
三.皇道派と統制派
大蔵の回想にある「青年将校」という言葉は、「皇道派」と言い換えることもできる。皇道派とこれと対立する統制派という言葉は二・二六事件を語る際に必ずと言って良いほど聞かされる言葉である。ごく簡単に言えば、皇道派は隊付きの尉官クラスの将校で、直接行動によって国家を改造しようとするもの、統制派は合法的な手段によって目的を達成しようとする中央(陸軍省、参謀本部)の中堅幕僚という区別が出来る。前者は五・一五事件や二・二六事件を起こす者達で、彼等に同情を寄せ、また彼等から信頼されている荒木貞夫大将、真崎甚三郎大将なども皇道派に入れることができる。一方の統制派の中心人物は陸軍省軍務局長の永田鉄山少将、武藤章大佐、片倉衷少佐らがこれに当たる。後に首相となる東條英機も統制派として区分されている。しかし、何も当時の陸軍がこの二つの派閥に泰然と区別されたいた訳ではない。どっちつかずの者が当然多くいたし、どちらとも繋がりのある者もいた。こうした派閥を軽視してはいけないが、あまりそれに捕らわれすぎ、常に「誰々は何派」と考えすぎてはかえって理解しにくくなる恐れもある。結局のところ、この皇道派と統制派の対立も二・二六事件が起きる背景にあった派閥間の対立であったといえよう。
四.「皇道派」の隆盛と衰退
さて、五・一五事件の後に安藤らの動きはどうなったかと言うと、ますます活発の度を加えていった。彼等の理解者であり、また頭領とも頼む昭和六年に荒木貞夫は犬養内閣で陸相となり、翌七年には参謀次長には同じく皇道派の真崎甚三郎を据えた。当時参謀本部のトップは閑院宮載仁殿下であってほとんど実務にはタッチしないことから、実質的には参謀次長が統帥部のトップとなる。荒木は、自分とその同志で「陸軍三長官」の二つのイスを占めたのである。しかも、教育総監の武藤信義大将は荒木や真崎の先輩としてここまで目をかけてきた、いわば「庇護者」とも言える人物であった。人事面でもその影響は色濃く出た。昭和六年の人事異動で憲兵司令官に秦慎次中将、翌七年の人事で陸軍次官には柳川平助中を持ってきたりして脇を固めた。両者とももちろん荒木・真崎系統の人物である。憲兵司令官は「軍警察」であるから、内部ににらみをを聞かせる事が出来るし、次官の柳川はもちろん荒木の腹心的役割を果たす。この荒木―真崎がそろって省部(陸軍省と参謀本部)のトップに座った時期、皇道派はその全盛期を迎えたと言っていいだろう。当然ながら彼らを慕う青年将校らにとっても悪いはずはない。しかし、荒木・真崎の時代は間もなく終わりを告げた。昭和八年六月に真崎は大将に昇進したのだが、荒木・真崎らがあまりに自分たちの都合のよい人事を行うため、閑院宮参謀総長の不興を買い、参謀次長を辞めざるを得なくなった(後任は植田謙吉)。また昭和九年の年明け、荒木は肺炎を患って陸相を辞任した。荒木の推薦で後任には教育総監の林銑十郎大将が入り、教育総監には真崎甚三郎が復帰した。形の上では荒木自身が退いても真崎を残すことで影響力を保持出来たようにも見えるし、林はかつて武藤信義によって辞めさせられようとした際、真崎の嘆願によって首の皮一枚繋がったという経緯がある。当然、真崎やその上にいる荒木に逆うものとは思われなかった。これが間違いだった。意外にも林は陸軍省軍務局長に統制派の雄、永田鉄山少将を持ってきた。朝日新聞記者で陸軍の内情に詳しい高宮太平によれば、「真崎などは頭ごなしに林をやっつける。古い恩義があるから黙っていても、林の気持ちは徐々に真崎から離れていった」。つまり、自分たちの傀儡、安全パイと見込んで連れてきた林を、あまりにも粗雑に扱う真崎に対する反発心が湧いてきたということである。しかも、林は士官学校の年次では真崎より先輩である。いくら恩義があるとはいえ、いつまでも後輩に気を遣わねばならないのに嫌気がさしても不思議ではない。やがて両者の亀裂は深くなり、昭和九年八月の人事異動で林は皇道派の排除を始める。陸軍次官の柳川と憲兵司令官の秦はそれぞれ第一・第二師団長として中央から追い出され、まず皇道派の勢いを失墜させた。
これは林一人の知恵ではなく、林と陸士同期の渡辺錠太郎大将(軍事参議官)、及び永田、植田の助けによったものだった 。
特に軍務局長というのは軍制を担う陸軍省でも特に中心となる部局であることから、永田鉄山は林の懐刀となって働いた。彼は青年将校らが政治活動に身を入れるのを掣肘し、政府と折衝することで国防力の充実を実現しようとしていた 。
軍務局長としての永田は非常に優秀で、部下からは「合理適正居士」との渾名を奉られていた 。陸軍大学時代は試験前に他の生徒が必死に勉強しているのを尻目に、悠々と関係のない勉強をしている、という逸話を持つ秀才である。高宮記者などは「林軍政は永田軍政である」 という程で、いかに永田の存在が際立ったものだったかがよくわかる。
しかし、自分たちと対立する人物が優秀であればあるほど、青年将校らにとって恐るべき的として認識されることになってゆく。