北一輝の「支那革命外史」 |
(れんだいこのショートメッセージ) |
ここで、北一輝の「支那革命外史」を確認する。これをどう評しようが評しまいが勝手であるが、ひとまずは目を通して知っておくのが先だろう。不肖れんだいこは今日まで読まぬまま経ている。2.26事件の解析を通じて、青年将校がバイブルにしていた北史観に興味を覚えた。ネット検索したところ、 「支那革命外史」に出くわした。どなたの労か分からないが感謝申し上げておく。これを読むのは、北理論を更に詳しく知りたいとする動機によるが、自ずと大正年代の国内国際情勢を知ることになると云う副産物があるようである。但し、現代に於いてこれを読むとき、古文的美文調で読みづらい面がある。故に、れんだいこ責のれんだいこ文法に則る編集で転載しておく。 読み進めて行くうちに分かったことは、1919(大正8)年な「国家改造案原理大綱」を世に問うた北が、その後の中国革命をつぶさに見守り、中国革命の行方、日本政府の対応、国際情勢を読み取り、「大綱」から6年後の1935(昭和10)年に「支那革命外史」を著わし、中国革命初動期の歴史の本流への接近、日本政府の対応の愚昧な対応、国際情勢に於ける米国の台頭を的確に批評していることである。その後の歴史が北の予見通りに進んだことを考えるとき、本書は一層の光芒を放っていると云えるであろう。もう一つ分かったことは、中国革命が日本の明治維新の中国版として担われ日中の国士によって推進された面があること、孫文の中国革命がこの波に乗りながら国際金融資本のエージェント的動きを示し、相互に暗闘していたこと、北が孫文を苦々しく思っていたことである。北理論には国際金融資本帝国主義論はないが、その一歩手前まで洞察を深めていることである。 2011.6.24日 れんだいこ拝 |
【目次】 |
序
一 緒言
二 孫逸仙の米國的理想は革命黨の理想にあらず
三 革命を啓發せる日本思想
四 革命黨の覺醒時代
五 革命運動の概觀
六 革命渦中の批評
七 南京政府設立の眞相
八 南京政府崩壊の經過
九 投降將軍袁世凱
十 英公使の買辧袁世凱
十一 對日警戒の爲めの北京中心
十二 亡國借款の執達吏
十三 財政革命と中世的代官政治
十四 支那の危機と天人許さゞる第二革命
十五 君主政と共和政の本義
十六 東洋的共和政とは何ぞや
十七 武斷的統一と日英戰爭
十八 露支戰爭と日本の領土擴張
十九 日支同盟と日米經済同盟
二十 英獨の元寇襲來
補 ヴェルサイユ會議に對する最高判決
補 ヨッフエ君に訓ふる公開状
補 対外国策ニ関スル建白書
補 日米合同対支財団ノ提議
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【支那革命外史序 】 |
日本の東方には今ワシントン会議なる名に於てヴェルサイユ条約が寸裂焼却されんとする国際的大舞台の回転が轟き始めた。而して西の方支那の革命的進行が十年間の下燃えから噴出して将に沖天の焔を挙げんとして居る。時を同じうして起れる東西両大陸の驚異の間に六年間埋もれて居たこの書を公けにする。
今秋の十月十日で清朝三百年の君主政治を転覆した武漢の烽火から満十年目になる。隔世の感の如く又咋今の想いもする。支那は民国元年となり、同時に日本亦大正元年となった。日露戦争の勝利と、日露戦争に打ち勝った日本の思想とに啓蒙されて起きたものが十年前の清末革命である。徒らに民主国の名を冠して、しかも何らの建設、何らの破壊を為し得なんだ爾後十年間の支那は、支那自身の為にも恥づべき限りであった。支那が日本の軽侮を招いたのは必ずしも不当でない。日本亦徒らに大正義の改元を宣して、しかもその支那に加えた言動は悉く不義の累積であった。支那の革命を啓発した戦争の国家的大道念そのものを喪失してウロウロして居たのが爾後十年間の日本であった。日本自身の恥辱に於て支那の百千倍である。日本が支那より排侮され列国より脅威さるゝのに少しも不当はない。
民国及び大正の三年、支那及び日本の為に、参加すべからざる世界大戦に先頭第一の軽燥を以て日本は引摺り込まれて居た。この書は翌四年、故袁世凱が帝政計画を遂行し日本の施策再び三たび謬妄を重ねんとしつゝあるを見て、その年の十一月、執筆の傍より印刷しつゝ時の権力執行の地位に在る人々に示したものである。第八章『南京政府崩壊の真相』迄がそれである。しかるに暗合の如く一致して同月、故蔡鍔が雲南から通称第三革命という討袁の兵を挙げたので、革命党の諸友悉く動き、故譚人鳳の上京して時の大隈内閣との交渉を試むる等のことあり、為に筆を中止した。後半の執筆は翌五年四五月の間で、革命も酣はならんとするかに見えたので真に寸閑を窺んで筆を走らせる後から後からと印刷を急がせた。元来文筆の士に非ざる者の文字更に拙惡蕪雜を加えた所以である。当時老眼鏡の人々に見易きため大きな活字のものであったのを、この册子に組み改める機会に於て章句段落等を整えて見たが、文章としては誠に申し訳ないものである。而して最後の印刷が配布されつゝある時、実に六月六日、討袁軍の目標として居た袁世凱が急死した。革命は又々頓挫した。不肖は別個満腹の決意を抱いて一人再び支那に渡った。
しかしながら後半の配布に論述してある凡ての題目、則ち支那の革命が如何に徹底し而して如何にそれが日本及びその他の国際政局に決定的方向を與えるかの洞察は、当時に於て不退転の大信念なりし如く今日に及んで不可抗の大現実として日本の東西に出現して来た。大兵乱を捲き起さんとしつゝある革命支那とワシントン会議とは、この書を道念と聡明を以て読み得る者の当たり得るところである。故にこの書は支那の革命史を目的としたものでないことは論ない。清末革命の前後に亘る理論的解説と革命支那の今後に対する指導的論議である。同時に支那の革命と並行して日本の対支策及び対世界策の革命的一変を討論力説してある。則ち『革命支那』と『革命的対外策』という二個の論題を一個不可分的に論述したものである。
書中、二十一ケ条の対支交渉を遺憾限りなしとし又、対支政策及び対外策の全局に於て日本は日英同盟に拠るべからず、日米の協調的握手にある事を指示した所が多い。今にして明かに見るのは当時の執権者全部よりも不肖の正当であったことだ。英国に引き摺られて鼻糞大の三五個の島嶼と山東の一角の為にヴェルサイユの暗礁に乗り上げたのは誰だ。これらを仕出来した加藤外務卿が首縊りをするだけの良心もなくて、今更日英同盟の無用を陳述するから凄まじい。已に日露戦争の大事実によりて決定されて居る満州の主権を、九十九ケ年に猿まねをして二十一ケ条に盛り込んだ汚らわしき小細工。反対に九十九年にして支那に返附さるることなき島を、『支那に還附する目的を以て』と自ら全世界に公約したべラボー至極の顛倒事。−大戦参加の発足より地獄の港に向けた船である。やる事為す事悉く国家を殘害するものであったのは勿論の事だ。
実に『日米経済同盟』は大戦中に於てもとより決行すべきものであった。例え大戦参加の途を誤れりとも支那に対して日米の同盟的利害を確定してあったならば、少なくもヴェルサイユに於て支那と米国とから一整に排日の泥を投げつけられることはなかったのである。この点に於て彼らの最悪に亞いだ寺内政府の対支策が亦最悪のものであったのは論ない。この書は、米国と及び米国に盲従して支那が大戦に参加せなかった以前に書かれた。しかも今日に至て権威を持てる者の如く日本の進むべき一道を指示して居る。
−ワシントン会議の議題の一つとさるゝ支那が大革命の火を挙げんとしつゝある時、ワシントン政府と革命支那との間にこの一事、−日米経済同盟の一事を決行することは政府及び国民の国家的大義務となった。これ日英同盟より日米同盟に転向する槓杆である。当時、日英経済同盟の如きを放言して居た大隈侯が、この書を熟読せしめられたことによりて、爾來米国資本団の来朝者等に向って日米経済同盟の説法を試みつゝあったのは悦ばしい。勿論、鉄道の大々的統一の為の日米合同借款と云う大眼目を把握し得ず単なる口頭的反響であったが、彼らとしては上出来の部である。書中、如何にこの翁をさえ正道に導かんとして期待激励に努めたるかを憫れめ。只経国の大業に仕うるを以ての故に、辞を厚うし礼を卑うするの文章がある。 書中、『革命支那』の為には支那の武断的大統一をカ説し、日本の『革命的対外策』の為には南北満洲とシベリアの領有を力説した。ロマノフのロシアがレニンのロシアに代われりとも日本の大アジア政策に一分の退転はない筈だ。国家内に於て国民生活の分配的正義が主張さるる根拠に立ちて、国際間に於ける国家生活の分配的正義を剣に依りて主張するのだ。−これ不肖の民主社会主義が日本群島に行わるる時革命的大帝国主義たる所以の一である。故寺内元帥が朝鮮に鎮坐まします時『この書物に読まれた』ことを感謝する。しかも大隈内閣に代るや直ちに日獨同盟の失言事件を生じたり、袁世凱の更に無価値なるものに過ぎざる段祺瑞に一億五千万円の軍資軍器を貢いだり、シベリアに−チエック、スロバックと申すものゝ為に−御覧の如き出兵をしたりした。何たる迷惑な読まれ方であるぞ。虎を描いて狗に類するとは真実この事である。
本書を読まるゝ方は文調の旧式であり、態度の諫諍的であるのを怪むであらう。不肖は六年後の今日これを校正しつゝ、符節を会する如き古今の一致に眉を顰めた。日蓮と雖も元寇襲来を警告せる立正安国論は彼自身の文調でなく又時の権力者に対する諫諍的態度であった。不肖はこの書を時の権力階級の人々に配布して支那に去る時、これ『大正安国論』なり、正義を大成して国家を安んずるの道を論叙せる者なりとして書いた。しかも、これを受取った彼らは殆ど悉く書中の作為名詞支那の『亡国階級』そのものではなかったか。不肖は日蓮に非ず又日蓮の奴隷に非ず。切に読者諸公の間より膽甕の如き相模太郎の出現を待望止まざるものである。
不肖はこの書が極めて限られた範囲の配布なりしに係らず、これに依りて滿川龜太郎君を得た。大川周明君を得た。五年に来訪を受けたゞけの滿川君に『ヴェルサイユ会議の最高列決』を書き送り得る信ョの大節義を見た。一面識だにない六尺豐かな大川君が、日本が革命になる、支那よりも日本が危いから帰国しろとワザワザ上海にまで迎えに来た大道念に刎頸の契を結んだ。この書が大隈寺内氏等に誤り読まれても、かく炎々焔の如き魂を以てこの書が何を欲し何を目的とするかを看破したものがある。もしこの書にして更に幾十人かの大川公滿川伯を得ば、日本の事、大アジアの事、手に唾して成すべしである。
相抱いて淵に投じた二人の中、一人は眠から覚めなんだ。一人は蘇生した。蘇生した一人が倒幕革命の一幕を終って空しく墓前に哭した時、頭を回らせば已に十有余年の夢である。不肖亦支那の革命に與みして十有余年、真に一夢の如し。碌々何事をも成す能はざりし遺憾は盟友らの墓石に対するも快くない。清朝顛覆の一幕、盟友らにとりて何程のことであらう。非命に仆れた宋教仁、范鴻仙君等の悽慘な屍を卷頭に弔らい掲げて、独り暗涙を呑みつゝ筆を執って居た六年前の不肖自身の心中が悲まれる。
当時世に在り、功罪を論ずるには余りに中心的人物であったので筆法に大なる制限を用いた譚人鳳も昨九年四月−共に或は生きて相見ざるべきかの袂別をして僅か四ケ月の後−老楠の摧くる如く上海に客死した。翁の遺像を掲げて三世を契れる知巳を弔って置く。実に彼は清末革命の大根柱であった。彼の雄略斗胆は豊太閤を現代支那に再生せしめたかとも見えた。宋范二友の遺志を一人生き残りて負えるかの如き干右任君の大徳と共に天の嘱望した双璧であった。今日、彼の愛孫を撫育しつゝあるにつけても思い出の種のみである。翁の二子故譚二式君が七年夏、湖南の獄を逃れんとして背後より銃殺されたゝめに、生後已に十日にして母を失って居た彼の愛孫−父と祖父との恨を負える孤児は今隣国革命家の手に養われて外国人なる我を父と呼んで居る。悲憤その者を搖藍にして睦み戯むるゝ児よ。不幸もし汝が今父と呼べる者の世に無き運命に会した時、汝の真の父と祖父と而して汝の故国とをこの書によりて学べ。
汝を抱く事によりて隣国の父は産れた許りな汝の革命支那を抱いて居るのだ。何たる不可思議なる一致ぞ。母を弑して産れた汝を懐ろにして祖父の老英雄が亡命の地に断腸の想をして居た時、−四年の十一月、−時を同じうしてこの書が汝の故国を憐国に訴えんが為に書かれ始めたのである。朝々暮々の祷は汝の健かに長じて汝の父と祖父の遺志を汝の故国に継ぐとであるぞよ。この書は汝一人の為にも世に留むべきものである。−三更経前に黙坐する時の如き、綿々の恨を引くこれら盟友の魂が迷う支那の山河がありありと眼底に現ずる。あゝ歴史とはかかる魂より滴り落つる血の連続であるのか。 この書の当時はロシア皇室の転覆せる革命も起らず、ドイツ、イタリ―の君臣満々歳に見えた事、あたかも今日大英帝国とその皇室とが然か見ゆる如くであった。フランス革命以後百年にして始めて、ロシアの革命がガポンの火花に一蹶して以来亦始めて、しかも意外なるアジア民族に突発した君主政転覆の革命であったのである。もとより深刻なる理解者に取りて古今凡ての革命とは君主政対民主政と云うが如きものでない。從って清末革命亦一民族の一体的復活の為にその命を革めんとする躍動、則ち民族主義の革命であったことは書中に説ける通りである。
しかしながら今日と全然時代の風潮が異って居た為に全世界、特に日本の驚異であった。実に大戦の始めと終りとに於て世界の革命風潮は真実一世紀を隔つる急変をした。従ってこの書は一世紀前の旧文字とも言い得る。しかしながら支那の革命的進行を推断してある部分、−例えば破産せる財政革命の基本として掠奪没收微発等の前提的過程を要することを指示したり、列強の分割を予画せる財政的侵略則ち外債全部の没收を避くべからざる道程なりとして論敍せる部分の如き、−当時日本及び支那の識者の首肯に危ぶんだところのものも今は却ってロシアの人々によりて実証されたのを見よ。 革命の鮮血舞台に演舞すべく天より遣わさるゝほどの者の思想行動には、国境と時代を一貫して枉ぐべからざる或るものがある。大西郷のしたことはレ―ニン君の為す所であり、大ナ翁の行ったところは明治大皇帝の踏める道である。彼これ相学ぶに非ず、先聖後聖その軌一なるが故である。有田ドラックの梅毒広告と皇室中心主義者流によりて維新革命の君臣二英雄が理解されると思うか。小田原のラスプーチンの前に最敬礼を表する軍閥者輩によりて、フランス革命の産んだマホメットが知悉されると思うか。しからばレ―ニン和尚ほどのもの亦凡骨でない限り、センチメンタルな翻訳蚊士共によりて窺知されよう道理がない。レ―ニン君が革命支那から何らの指導を受けない如くに、来るべき日本の英雄−諸公はレ―ニンと没交渉の後聖であると信ずる。しかり。来るべき支那がこの書以後ロシアの革命によりて立証された如く、革命の支那は東洋革命のロシアである。(日本は支那から火のつく東洋のドイツではない)。官僚と翻訳蚊士とはレ―ニンの宣伝によりて支那の赤化するかに考えて恐怖し又は待望して居る。その低能さ加減に於て両々相下らざるのろま共である。革命は維新の日本を赤化した。しからば支那が自ら燃ゆる時、その火の赤きに何の愕くことがある。 諸公。この書が革命の支那を解説せんとして筆をフランス革命と維新革命とに横溢せしめた所以はこの為である。今の元老(一世紀前のこの書なるが故に礼を厚うして指名した人々)及び死去せる元老なる者らが維新革命の心的体現者大西郷を群がり殺して以來、則ち明治十年以後の日本は聊かも革命の建設ではなく、復辟の背進的逆転である。現代日本の何處に維新革命の魂と制度とを見る事ができるか。押される者の押し返さんとする物理的原則、−封建時代への反動的要求を挾んで、これまた反動時代であった英佛獨露の制度を輸入せる−朽根に腐木を接いだ東西混淆の中世的国家が現代日本である。
屍骸には蛆が湧く。維新革命の屍骸から湧いてムクムクと肥った蛆がいわゆる元老なる者と然り而して現代日本の制度である。維新革命のナ翁皇帝の内容に大西郷とその他の二三子の魂が躍々充塞して居た時代と、伊藤山縣等の成金大名(権助べク内から成り上った)の輩が光輝を蔽ってしまった時代との差別さえつかない現代日本だ。我自ら中世的国家の泥の中に住んで居る鰌の如き人々に、支那の革命を理解せしめんとしたこの書は恥づペき努カであった。 大西郷が何故に第二革命の叛旗を挙げたか。而してその失敗が如何に爾後四十年間の日本を反動的大洪水の泥土に洗い流して、眼前見る如き黄金大名の連邦制度とそれを維持する徳川そのままの御役人政治とを築き上げたか。これら日本自身の一大事を心得て居るならば、清末革命の後に第二第三の革命あり、更に革命目的を徹底せんとする現下支那の戦雲に一々の註釈を要しない筈である。革命とは順逆不二の法門であり、その理論は不立文字である。湊川の楠公は二百年間逆賊であった。その墓碑さえも外国人の一亡命客に指示されて建つた。これ英国人自身のカーライルによりてクロムエルの泥が洗はれたよりも恥かしき逆賊である。大西郷亦足利尊氏でよろしい。彼の銅像は図々しくも彼を乱刺したプルタス共によりて築かれた。而して今や忠臣蔵のお化けの如く上野の森に迷って居る。−あゝ『支那革命外史』に万言を列ねて而して求むる所のものは何ぞ。不肖は歴史を書く為に生れては来ない。彼らと共に書かるべき運命の波に投げ込まれて居る。あたかもョ山陽の日本外史が日本の歴史的記録に非ざるが如し。 『ヴェルサイユ会議に対する最高判決』の全部的適中によりて不肖を売卜者の如く取扱うことに不可なし。しかもこれを以て過去のものと看じ去るならば、この憐むべき売卜者を遇する所以ではない。三年の前に、道理を卦とし事実を筮竹として下した断案が今日に至て世界的現実として表われたならば、未だ現実に現われて来ない部分の断案は更に三年の今後を指示するものでないか。−英米の割裂。延いて英米相屠るべき第二世界大戦の運命。その渦中に処してインドの独立と支那の自立とを負える日本国自身の革命的大帝国の破壊及び建設。日の本の神々は若き『明治三世』の御見学の為に、日英同盟の屍骸を土左衛門の如くテームス河に浮き上げて指し示した、而してワシントン会議がヴェルサイユ条約を葬むる会葬式である黙示を、亦米国々務省に蔵せる条約正文の盗失によりて全世界に掲げ示した。神々の照覽の下に敢てこの言をなさん。−つとにこの一書簡のみでなく、この書全部が今や我が日本国の進むべき唯一の対支策及び全部の対外策となったのである。もしこの書の指示する所と反対に日本国を導く者あらば、これ三千年の歴史を亡ぼすロマノフの廷臣でありカイゼルの臣僕である。
支那公使山座圓次郎氏と同参事官水野幸吉氏の遺影を書中に挾んで置いた理由につきては不肖自身の語るべき限りのものでない。歴史は沈黙のまゝに流れて居ればよろしい。あるいは天、選ばれた者の手を借りて歴史の唇を引裂く日もあろう。あゝ黒い血潮を吐いて前後任地に仆れた公らの道義的対支策を継承すべき第二の公らは今何處にあるのだ。凡ての聡明の源泉である道念の人々こそ、公等の尽くるなき恨を噛み殺しつゝ洩し訟えて居るこの書の謎を解き得るであらう。−そうだ。今日終に時機到来した日英間の袂別は公らの死を以て購い得たのであるか。支那と、インドと、而して日本国自身の為に、日英戦争の運命を憤叫して置いたこの書こそ、今は公らの恨の為にも公らの国家に捧ぐべきものとなった。
経文に大地震裂して地湧の菩薩の出現することを云う。大地震裂とは過ぐる世界大戦の如き、来りつつある世界革命の如きこれである。地湧菩薩とは地下層に埋るゝ救主の群ということ、則ち草沢の英雄下層階級の義傑偉人の義である。−支那は十年前の十月十日、清末革命の本義を徹底せんが為に禹域四百州の大地今將に震裂せんとして居る。ロシアの大地震裂に際して地湧の菩薩等は不動尊の剣を揮い不動尊の火を放った。ロシアと同じき中世的制度と中世的堕落を持てる支那は、ロシアの救われつゝある途を踏むことに依りてのみ救わるゝ。書中、革命過程に於ける議会の法理的不合理と事実的有害とを論究し、哲人的皇帝の意昧に於ける終身大總統制を革命の支那に見んことを提示した。これ亦内外に対する財政的沒收の主張と共に皮相的デモクラシーの徒の愕(おどろ)き否んだところのものであった。しかも不肖の革命哲学は支那の立証を待たずして先づロシアの不動尊共に裏書人を得た。レ―ニン君の現われざる以前、ナ翁皇帝と明治大帝とに学ぶペしとて示して置いた支那の大統一は、支那の何處より湧出する菩薩摩訶薩によりて為さるゝであらうか。泥人形の如き大總統が三頭交々迭立し、烏の雌雄を弁ぜざる議会が南北に正閏を争う。フランス革命に恥ぢ、維新革命に恥ぢ、而して後れたるロシア革命に恥ぢよ。
明かに告ぐ。隣国の革命的諸友と後進とは亦この書に学ぶべき者である。この書は公らの先進犠牲の魂を埋めた聖なる墓標である。何ぞ著者に抱かるゝ一孤児のみならんや。書中革命支那の大統一者を『オゴタイ汗』と名けた。これ革命的統一の潮頭に立つ程の大器は、必ずその馬首を中央アジアに進むべき必然を密かに暗示したのである。人口過剰の支那に欠くべからざる土地、則ち『第二支那本部』は中央アジアの沃野であらねばならぬ。これ中央アジアに国を建てゝ、欧亞両大陸を支配した古英雄の名を借りた所以である。ピーター大帝は東に来た。革命支那の大道は坦々として西に通じて居る。日英戦争が日本の運命なる如く、書中に論述せる露支戦争は、露国が如何に変化し支那が如何に変化すとも露支両国の避くべからざる運命である。
あゝ、支那は清末革命の十月十日に帰らんとする。しかも日本は何處へ帰れば宜いのであるか。隣国の生残者によりて『支那革命外史』が書かるゝ如きことは、日本の想いも寄らざるところである。
大正十年八月 北 一 輝
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【一、緒言】 |
政府も国民も支那革命につきて一の合理的理解なし。在支吏僚と派遣軍人と、いわゆる支那通とは真の説明者に非ず。無理解的代弁者として大隈伯の日英経済同盟論。フランス革命家自身、維新革命家自身が各その革命を理解せざりし如く、支那革命党その人より革命の合理的説明を要むる能わず。バークが対岸の革命を理解せざりし如く日本の朝野亦然り。根拠ある説明者たり得べき不肖の特殊なる地位。
支那革命党及び革命の支那に関する真の理解は日本の政府と国民に取りて誠に切迫せる必要となれるが如し。不肖は時に政府の或る者よりこれ等の説明を求めらるゝ時、又は国論の指導者よりこれらを聴聞せしめらるゝ時、常に感ずるところの遺憾は諸公の聡明を以てして実に根本より革命党の実体と革命を要求する支那の激変とにつきて明確なる概念を持たざることにあり。支那革命党の抱負する各種の理想、その結合及び覚醒、輿論と軍隊の間に行われたる運動の経過、革命勃発の真相と各勢カの離合、人物観及びそれと事件との交渉、日本人の援助なるものゝ評価、日本及び列国の態度の影響せる程度、今後の革命遂行中の驚くべき恐怖、物質的社会的原因の探究、東洋的共和政の将来、破産せる財政に対する彼らの覚悟、堅確なる有機的大統一の能否、経済的分割力を抹除すべき大策、それと日本の対支外交策の契合、日本国権の拡張と支那の覚醒との両輪的一致策如何、将来幾多の動乱に会して日本の取り得べき又取らざるべからざる責務、支那の経済的覚醒と政治的道徳的覚醒の関係。欧米の資本的侵略と将来の葛藤、日本及びフランスと同樣なる愛国的統一的要求の考察、日支両国の将来に対する合理的了解。
これらに関して正当なる解釈を渇望しながら未だ一の価値ある論究に接せざることは、東洋の盟主を自任し支那の指導者を以て居らんとする日本人の誇と矛盾する甚だしきものに非ずや。少くも当面の必要として、隣国の治乱が日本に及ぼす政治的経済的影響の深甚なるを考うれば永久にこの朝野の無理解を傍観することは、一国民たる憂に於て不肖の堪うる能わざるところなり。 もとより諸公の机上には幾多の調査報告の堆きものあるべく、又日夕多くのいわゆる支那通諸子より劇的色彩を加えたる功名談を聴取して已に各人各樣の形成せる見解を持する者あるべし。しかしながらその調査又は報告を爲す在支吏僚と派遣軍人と而していわゆる支那通の言説とが果して能く諸公の見解を正当に導くものなりや否やが寧ろ問題とすべきものに非ずや。
皮相なる卓上観察は吏僚の常にして、特に捕捉すべからざる革命渦中の事相を領事館の長袖者流によりて了解せんとするは殆ど火山の爆発に際して哲学ヘ授を派遣して報告を待つものゝ如し。軍人の調査なるもの亦当然にその專門的智識に局限せられ、従って思想的覚醒又は物質的原因の如き革命の主眼たるものを思考だもせざらんとするは止むなきことなり。而していわゆる支那通なるものゝ多くはその交遊せる領袖等の為に臣事的吹聴を努むるものに非ずんば、十年前の亡国的観察を革命されつゝある支那に推論せんとする論理的錯誤をさえ反省せざる程の疎雜なる旧思想家なり。諸公の見解を誘導し組織し結論せしむる所の三者已に悉くかくの如しとせば、諸公の聡明が独り支那革命党と革命の支那に対してのみ暗きは勿論の事と云うべし。 支那問題が日本の対外策の凡てに非ずと雖も日本の対外策の殆ど凡てが支那問題を機軸とするかの如き今日、彼の地に一動乱の起り彼の政府と一交渉の生ずる毎に朝野交々内に鬩ぎて日本の真意奈辺に存するかを解するに苦しましむる者、帰するところ革命の支那が未だ全然日本の当局と国論とに了解されざるが為ならずんばあらず。いわゆる第二革命失敗後大隈伯が日本の支那に対する智識と英国の資本とを以て日英経済同盟とすべしと公言して在支英人の哄笑を買いし如きは、国民の代表的地位に立ちて遺憾なく国民の無理解を代弁せるものに非ずや。不肖は数年間かくの如き現状を視て終に沈黙の謙遜を守る能わざることを痛感したり。 而して又革命の理由と革命さるべき原因とはそれに立働ける革命党とそれを要求する国民とより説明を求むべからざるものなり。維新革命に於て高輪の英国公使館を焼き打ちせる伊藤、井上等の元勲が回顧談中凡て無我夢中なりしと告白したるは革命の実働者その人より革命の意義を理解せざりしものなり。後藤象次郎が五万石封侯の御墨付を懐にしたるは、当時の形式を倒幕に求めたる廃藩置県の統一的理想を理解せざりしものなり。
又フランス革命に於てミラボーその人がプールボン王家に代うるにオルレアン公を以てせんとしたるは、二家共に革命さるべき貴族階級を代表せる大貴族なることを理解せざりしものなり。ダントンとロべスピールと、空論的系統の自由主義者を処刑するに矛盾にも却って自由の名を以てしたるは、自由の蹂躙を国家存立の為に要めたる愛国的要求を理解せざりしものなり。実に革命渦中の彼らに革命の説明を期待する能わざるは火中の人に向って出火の原因を尋ね消火夫に就きて新建築の図案を書くことを求むべからざるが如し。 即ち支那の革命が孫逸仙の根拠なき空想、譚人鳳の頑固なる国粹主義、黄興の混沌たる思想、故宋ヘ仁の偏局せる立法的頭脳に聴きて真の了解を望むべからざる事は寧ろ古今通じての革命期中の原則なり。特にフランス革命が百年を済たる今日漸く真理に近き論究を得、維新革命が五十年後の今日未だして大勢は奔流の如く急転し始めたり。北の方袁世凱あり。 願くは日本民族の誇たる任侠と多涙に於て不幸なる孫君に一掬の涙あるべし。滔々たる支那軽侮論者はいわゆる南北講和なる者の成立するや彼が数十万金の賄を受けて袁に譲位せるかの流言を為し憐むべき敗者を垢罵したり。誣妄何ぞ極まる。彼が革命の或る方面の指導者たる尊敬すペき資格は実に金錢を土芥視するこの美点にして、守錢奴的亡国階級を打破せんとする新興階級を人格的に代表するもの実にこの一事に存するは不肖の固く保証せんと欲するところなり。浪々二十年の亡命を以て得たる大丈夫一世の栄位を一月有半にして抛たんには、黄金の塔を築くと雖も彼の遺恨を償ふ能わざるなり。又弱者を凌犯して自ら快とする奴隷心の満足より、彼が電報談判を以て袁に讓りしかの如き外観を見て薄志弱行なりと嘲笑する勿れ。
彼の伝記の光輝ある部分は実に不屈なる意志と行動の終始一貫にして、交遊する者の時に処置に苦しむ剛腹の性格は利害の打算等によりて容易にかの栄位を退く人物に非ざるを知悉するものなり。理由は軽侮論者の言う如く彼の人格的欠陥に非ずして彼の局外者なりし事にあり。彼の利欲を超脱せる美性と、如何なる不利をも不利と感ぜざる楽天的剛腹とを以てして尚且つ袁の電告に萎縮せざるを得ざりし所以は、彼の理想的錯誤が革命的群衆の逆鱗を招きたる事にあり。約言すれは彼の人物問題に非ずして彼と討満革命とが没交渉なりし事なり。彼が革命的群衆に記憶せらるゝ点は東京に於て中国同盟会の総理たりし過去の名称に過ぎず。 ナ翁を見よ。フランスを分割侵入軍より救い更に同盟列国を馬蹄に蹂躙して十二分に報復せしめたる大恩を垂れし救国主なり。しかもフランスは彼がモスコーを走るとともにエルバ島に逐い、ウオートルローに破るゝと共に聖へレナに見殺にせしに非ずや。国家が己の利益に反すと感じたる時の無情冷酷はフランスが救国の恩主に為せるところの如し。当時の支那に分割侵入軍なく、従って彼は救国主として迎えられたる者に非ず。武漢も南京も彼に係りなく革命せられ、民国は彼に微細なる少恩だに蒙らざりき。彼が大總統たりしはあたかも南京占領後の連軍諸将が功を争いしが故に、かって巡撫たりし老廃程徳全を持出して都督としたる如し。則ち俘虜と敗将との故にかって中国同盟会総理たりし者に求めたるのみ。救国の大恩ある曠世の英雄に対してすら一戦の過を許さゞる彼が如く無情なりしとせば、統一的必要の為に埠頭より拾いし偶像を統一の障害と考うると共に路傍に投棄したる冷酷は国家至上主義より視て、むしろ恕すべき道徳的選択にあらざりしか。 不倫なる対象を止めん。軽侮観者の如く孫君が支那人なるが故の人格的薄弱にあらずして、一に只彼と革命政府との接合が薄弱なりし故に存す。否、薄弱なりと云わんよりも二者の接合の不合理なるは俘虜を大元帥となし敗将を副元帥となせるよりも擾りて、ほとんど悪魔の胴に天使の首を載せたる如し。天使の首はワシントンの楽園を夢み、悪魔の胴はフランス革命の地獄に血を嘗めんと欲す。米国独立後の楽園は財政も裕かに、強の窺う者もなく、自由も立ち、憲法も行われ、反動の蛇も潜まざりき。フランス革命の地獄を渡り始めたる革命党等はかかる天国の歓楽を語らるゝだに憤怒すべき苦痛を抱ける鬼なり。その根本的思想本能的感情より已に同席すべからず。 各省分割的憲法と割亡的借款とは単に破裂を求めたる噴火口に過ぎずして、二者の理論的討究によりて分離したるものに非ず。地獄に王たる者はサタンなり。革命を支配する者はダントンなり、ロべスピールなり。天使とワシントンとは寧ろ敵国の人に非ずや。苦痛の鬼、戦の地獄の支那に将にサタンとして来るべかりし孫君は、天使の心を以って三井との割亡的借款を企てたり。ダントンの如くロベスピールの如く大屠殺を以ても敢行すベき統一的要求の支那に帰りて、孫君はワシントンの十三州分立の翻訳より各省分割的憲法を強いたり。革命運動が彼に何の恩惠を蒙らざりしのみならず、革命の理想に対して彼の理想は却て明白なる反逆者なりき。 中国同盟会総理が放浪の間に染色して懐にしたる米国風の国旗は一顧だにされずして、別種の統一的理想を五族に及ぼさんとせる五彩の民国旗に見よ。−これ国家的理想のシンボルに於て彼の理想が全部抹殺されたるを四億万民に示せる明証にあらずや。則ち彼は始めより共の旗陰に立つ大總統たるべからざるものなりき。 かくの如き天下の大勢より孤立したる孫君を擁して北方の袁世凱に対立すべきを期待したる日本人は、不肖如何にすとも革命の理解ある援助者なりと信ずる能わず。革命的群衆がその推戴せる偶像の真相を看破して怒り始めたる時、群衆心理の殘虐は之を粉碎せずんば止まざりし事例は史に見るところなり。 孫君の活路は宋の提案せし当時に於てせば己れ非難の上に超越して一切の責任を内閣制に負わしむることにありき。遷延決せずして茲に至りし後のそれは唯一あり。即ち速かに袁に投げ出すことのみ。電報談判の妙境に入りて孫袁授受の決するまで援助団の代表頭山、犬養氏等も與り聴かざりしというは信用すべからざる民族性の故にあらず、活路を見出せしときの生物の本能なり。もし孫君にして頑然各省分割的憲法を維持せしとせよ。彼は米国のそれを主張せしラフアエットの運命に従いて断頭台に登らざるべからず。もし又依然割亡的借款を遂行せしとせよ。 彼は一月前諮政院に弾劾せられたる盛宣懐の後を追いて参議院の問責の下に亡命せざるべからず。実に支那浪人団の声援は大勢に取残されたる轍鮒の如き一紳士に大ナ翁も企つべからざる不可能事を強いし者と云うべし。声援の反動として講和後彼に対する嘲笑慢罵の風潮に一変せしは、革命の理想と運動の真相を理解せざるよりの過失にして深く責むべきにあらず。しかも任侠を誇とする日本人としては彼の思想的欠陥を論ずるに厳正なるべく、謂れなき誣妄を尊敬すべき人格に加うるは恥辱に非ざるか。日本人としての多涙は彼が微功なくして万死一生の実働者等より奪いし当時に惡むべく、王葬の威嚇に酬ゆるに一人の味方だに無かりし悲慘なる没落に及んで指笑するはその誇とする所を傷けざるか。 不肖は独り怪しむ、常に傲然として支那の指導者を以て任ずる日本及び日本人は、かかる革命に交渉なき別個の一思想家を選びて援助したる自己の無知無理解を反省せざる事を。力なき孫君は責を負うべからず。革命の実体を把握せずして眩影に後援し俗諺のいわゆる曖簾に腕押しの錯誤を演じて却って暖簾の薄弱を罵り、売節を誣い、怒の移るところ終に支那民族は革命の資格なしと独断するに至る。 不肖は実に日本人の反省的良能の健在む憂うると共に、無力なる孫君の不幸に同情を禁ぜざるものなり。事実に見よ、かかる笑うべき支那の指導者らが暖簾の後援に叫喚しつゝある間に於て、統一的要求は黒潮の太平洋を流るゝ勢を以て北に向いしにあらずや。卑むべき晏子の御者等が局外者を担荷して喧囂せし間に於て、愛国的覚醒は埠頭より拾いし偶像は路傍に放棄すべきものとして顧みざりしにあらずや。いわゆる南北の講和なるもの、彼らが故国に報告する如き袁孫の角逐にあらずして、孫に行き袁を選べる大勢の根本を把握せずんば考察すべからざることなり。罪は民族性の生理的約束にあらず孫君の人格的価値にあらず。実に五族統一旗の理想と孫君の空想とを混同するが如き日本人の非研究的性格を以ては解すべからざるのみ。不肖は日本及び日本人が新支那の指導者たらんとする抱負を歎賞するものなりと雖も、その前提としての道念智見に欠くるよりして今尚伝来的軽侮観の堕力に支配さるゝ風潮に遺憾なき能わざるなり。 実に不肖は日本朝野の反省を請わざる能わず。武昌に黎元洪の名を以て排満宣言したる十月十三日より南京参議院に孫逸仙が袁大總統を推選せし二月十三日に至る満四ケ月間、その始めより終りまでを通じて日本人は隣国の国士を罵詈して忘恩民族と呼ばわる程に如何なる援助の恩を估りしか。宋君等の南京に於ける九死を救いたる日本人諸君は義に勇む者を悦ぶ興国的気魄の自ら満足したるもの。黄君を拜跪し孫君を合掌したる者は亦自ら有する封建的奴隷心の快しとしたるに過ぎず。個人の間に於てすら感銘を受くる程の恩義には重大なる事実を要す。いやしくも一国が他の国家の建設に感謝さるべき授助を自任せんとするには建設者の運命を有效に確実に負担したる事実なかるべからず。
史家エミ−ル・ライヒは米国のフランスに対する忘屈を指摘して遺憾なし。米国は陰謀の当初より仏人ボーマルシエーより給付せられたる二百門の大砲及びそれに適当せる軍器を有したりき。(暴利を貪りたる廃銃が戦争終熄後に到着したる日本人の比に非ず) 独立軍は戦えば必ず敗れ、その卑怯と脱走と裏切とはフランス義人をして幾度か落胆せしめたりき。(欧米崇拜の奴隷心よりして米国独立戦相を買被れる日本人はその軽侮する支那の第一革命に於てはかかる薄胆を感じたる事あらず) 佛將ドグラス伯はヘンリー岬に英国の海上権を打破して叛乱植民地に陸兵を輸送する能はざらしめたりき。(ドイツが公然と清朝を扶け、その将校が漢口の砲列に号令しつゝあるを傍観せし日本の態度と較すべきことに非ず) 米国の建国が如何にフランスに援助せられたるかは、彼が米国の独立は自ら得たる誇に非ず、全然英佛戦争の結果として與えられたる賜なりと断言せるに見て察すべし。しかも愛国的自尊心は最も恩惠を垂れしボーマルシエーに感謝するを恥として空言虚名のラフアエットの銅像を以て代え、佛公使ゼネーが援助に誇りし態度あるやその召遼を要求したりと云う。国家の尊厳は国際間の恩義を軽んずる概ねかくの如し。 建国の戦に於ける同盟国むしろ保護国に対してすら忘恩ここに至ること米人の如しとせば、已に一種の軽侮観より忘恩民族なりとせらるゝ支那人の革命に於て何らか重大の援助ありしかの如き虚構誣妄を流布するは、革命遂行後の両国々交に恐るべき爆弾を埋むものにあらずや。義人の急に赴きて身命を保護し或は亡命客の安全を保証するは日本民族の興国的気魄より生ずる自然的発露にして、代償を伴う権利にあらず。乃公その大事に参與せり、乃公某々の秘密を企画せりというが如き虚栄浮誇は大丈夫の恥づるところ。いやしくも東亞の盟主たらんとする国民はかかる支那浪人の多きに誤られて革命後の支那に臨むに恩主の誇を以てし、終に忘恩民族の慢罵に雷同するが如き事あるべからず。 米国的夢想より十数年来日本の援助を哀求せる孫君の過失は彼自身の負うべきもの。かって一顧だにせざりし日本政府は北米植民地に関して英国に恨を構えしフランスに非ざるを以てなりき。植民地の独立軍が英国の支配を脱せんとしたる所以は、則ちフランス等の同盟国よりも永久に中立せんとしたる所以なり。排満を叫んで満人の征服を斥けたる興漢革命は日本の保護国となりて亡漢を再びせんが為に非ず。佛公使を召還せしめたる米人の怒は忘恩にあらず独立戦争の目的より見て正当なる愛国的行動なりき。 しからば頭山、犬養氏等が南北一統を非譏せしを憤りて日探速かに帰国すべしと宣言せる章太炎は亦堂々たる興国の先覚者なり。実に些の援助だになかりし自己を反省せずして忘恩民族の誣妄を逞うするは東洋の盟主たるべき国民的道念に非ず。革命党の援助を求むるは日本民族の任侠的国風に信ョし黄人種の先覚者なるが故に己の覚醒にも同情すべきを期待するもの。日本の保護の下に国家を措き無知驕慢なる浮浪漢の指導に甘んぜんが為に非ず。不肖が或る範囲に於ける実見者として、又不肖自身を一実例として、支那革命に於ける日本及び日本人の援助なるものの多く功績なかりしを論述せる所以は何ぞ。実に米佛に鑑みるを待たず、南北一統と同時に生じたる両国人士の惡感情を実見して、もし不法なる日本人の自負を改めずんば将来の国交或は却って革命の遂行によりて阻隔すべきやを憂惧するが為のみ。 否。つとに日本人が感謝さるべき何の援助を與えざりしのみならず、日本政府は革命の遂行を中途に阻止したる妨害者にあらざりしか。即ち流言の如く消えし長州元老等の清帝中心の南北調停策が英国本位の外交によりて袁世凱中心の講和斡旋に変形して現われたる前後を看よ。国民の声援を代表して来れる頭山、犬養氏等は革命の局外者を擁立して南方に喧囂し、ヂョルダンと伊集院氏とは同盟二国を代表して北に袁を擁護して譲らず。かかる発狂漢の如き外交策は日本の特産物なるにせよ。受動の立場に在る彼等に於ては同情者を探偵と誤認したる如く、当然に隣強の計必ず鷸蚌の争を煽して漁利を窺うに存すと解釈せざるを得ず。 強国がその貿易の保護を理由として申し出でたる調停は当然に弱者に於ては干渉來の恐怖を惹起すべく、この危機に当って袁孫を論ずべからずとなして終に主客顛倒の恨を呑で之に応ぜざるを得ず。袁に讓らざるを得ざらしめて、しかもその讓りたるが故に嘲笑さるべき民族なりというが如きは、援助の声にあらずして追害者の論法なり。己らの公使が妥協を斡旋し己等の領事がその調印に立合いて、しかも袁と妥協したるが故に革命の資格なき国民なりというが如きは、既に俯伏せる頭に足を加えんとする卑怯者の暴行なり。維新革命に於ける勝西郷の談笑の間に握手せる根本原因が、実に英佛の干渉起らんとするに顧みたる大局的行動なるを顧みよ。しからば独り日英干渉の殺到せる支那に於て福澤の『痩我慢誅』を孫逸仙に強いんとするは何ぞ。不肖は一般日本人と共に維新革命に於ける両雄の大局行動に誇を有するものなり。故に抑制すペからざる痩我慢を殺して一切を袁に讓りし革命党諸氏の統一的愛国的覚醒を同樣なる大局的行動なりとして敬重せざるを得ず。 不肖は明かに断言すべし。日本及び日本人は革命の支那に妨害を加えて感情を要求する顛倒事を夢むるよりも、忠実なる従僕として大英帝国の嘉称に甘んぜば足るべきなりと。英国の買弁たる袁世凱の為に己が背に負い胸に抱きたる革命党を弾圧して、あたかも租界の路傍に立てるインド巡査の如き恥辱なる任務を遂行せし以外、革命の支那より一点頭の謝意をだに期待し得べきものに非ざるなりと。言の礼を逸するものあらば憂国の微衷を掬で暫らく之を寛恕せよ。不肖は日本の朝野が挙りて支那の革命さるゝことによりて両国の親善を期待しつゝある天啓的信念を遵奉せんと欲する一人なるが故に、実に無理解の為に陷れるこの重大なる国際的罪惡に反省せずんば、却って反対の結果に至るべきを予見して憂慮恐懼禁ずる能わざるものなり。暴言何ぞ異を樹てんや。 (大正四年十一月起稿、十二月印刷配布) |
【二 孫逸仙の米國的理想は革命黨の理想にあらず 】 |
一般に孫逸仙を以て革命の理想的代弁者となす前提的誤謬。グッドノーの共和政不可行論。板垣伯の言論によりて日本憲法を解釈せんとする如し。米国と支那の建国精紳よりの相異。米国的自由政治は支那に於て他の自由を認めざる一党専制政治となる。米国的翻訳の連邦論。米合衆国の建国は十三独立国の対英攻守同盟を永久にしたるもの、その膨脹亦独立国を購買し征服したるもの。支那は建国より歴史を通じて統一国家なり。維新革命の時の独立国的各藩は各省的感情の比にあらざりき。ラファエットの連邦国的翻訳が封建的区画を存せしフランスにさえ行われざりし理由。米国的翻訳に捉はるゝ外国援助運動。外国に援助せられたる旧権カと戦える佛国革命と、外国の兵力援助によりてのみ独立を得たる米国独立戦争とは全くの別物なり。ワシントンは北米の永久中立を宣言したるモンローなり。日本が革命を援助せず又妨害せざりし所以は別個の倫理的理由にあり。革命は国士の事業。孫は革命運動の代表者にもあらず。日本浪人の援助運動と革命党との矛盾阻隔。個々人の褒貶に非ず革命の因果的研究なり。
孫逸仙の名は秘密結社時代よりの中国同盟会総理たり南京臨時政府の第一大總統たりしより、世人は彼を以て支那革命党の理想を代表し彼の言説する所は新支那の要求なりと推定し、従って彼を解釈することによりて支那革命党の真相を観、革命の支那を想察し得べしと感ずるに似たり。これ一見正当なる見方にして、凡て支那を論ずるもの袁世凱に対して孫逸仙と云い『北袁南孫』の語は支那自身に於ても新旧両党の代名辞として用いらる。彼の支那の革命に同情するものが彼を通じて同情し、革命党の理想を考察せんとするものが亦彼の思想を批判して可否せんとするは当然なる措置と言うべし。少くも彼の人格的価値を重視せざるものと雖も、孫逸仙は理想に過ぎずとして暗默の間に彼が支那革命の理想的代弁者たることを肯定するものゝ如し。
しかしながらこれ実に甚だ軽卒なる仮定より出発せんとするものに非ずや。不肖は秘密結社時代の中国同盟会に関与せし時、彼の邸に於て彼に対して誓盟せし関係上、常に彼を理解するに深き同情を以てしたるものなり。しかしながら長き歳月と厳正なる事実は終にかく断言せざるを得ざらしむ。孫君の理想は傾向の最初より錯誤し、支那の要求するところは孫君の與えんとする所と全く別種のものなるを見たりと。もしこの断定にして正しからば、彼によりて革命運動を察し革命されつゝある支那を考えんとする努力は徒労なるべきなり。即ち一般の世人が為す袁と孫の人格的重量の考較によりて両者の対立的勢力の消長を察せんとする如き、又は両者の代表せるかに見せる君主主義と共和主義との孰れが支那の国情に適当せる政体なるやを判定せんとする如き、実は甚だ枝葉なる皮相なる観察方法なりと云わざるを得ず。 根本の問題はかかる袁孫等の泡沫を浮消せしむる支那の革命的潮流の本体に存す。袁が誠に脆薄なる一泡沫に過ぎざることは後章に論ずべし。只孫逸仙の名が支那革命の権化なるかの如く観察者の明を蔽う陰影となれるが故に革命党の真の理想と革命的支那の真の要求を点検せんとするに当たり、先づ彼の米国的理想(彼の親米主義と判別すべし)が、彼等の理想にも彼国の要求にも非ざる殆ど沒交渉に近きものなることを明白ならしめざるペからず。 常識を以て考うるも、袁世凱の野蛮なる国体変更の計画に対し、又は君主政にあらずんば支那を統治すべからずとするグッドノー等の学究的批評に対して、孫君の米国共和制を以て対抗せんとするは余りに根拠なき主張にあらずや。則ち革命党の有する東洋的共和主義と彼の米国的それと同一なるものならば、共和政治は支那の統一を失うべしと云う袁の口実も、革命党の計画は凡て空想なりという外人の嘲笑も、悉く道理あることにして不肖亦袁とグッドノーに従わざるを得ざるなり。米国人たるグッドノーはその故国の共和政とそれを飜訳輸入せる孫君のものとを比較して支那にはこの意味の共和政は不可行なりと断ずるもの、この範囲に於ける彼の見解は正当なりとすべし。
何となれば日本自身が有する東洋的君主立憲政が数十年を経たる今日尚英国に解せられざる如く、支那自身が要求する東洋的共和政は短時日の政府顧問たりし米人の身を以ては考う可らざるものなればなり。即ち彼も亦一般の軽卒なる仮定に従いて孫逸仙の思想は則ち革命党の理想なりと観ずるものなるが故に、板垣伯の言論に基きて日本憲法を解釈せんとする如き笑うペき結論に走りたるに過ぎず。 孫君の支那とグッドノーの米国とは全然建国の精神より別個のものなり。北米の建国は君国を捨つるも自由に背く能わずとなし、信仰の自由のために君国に容れられずして移住せる者の子孫。自由の郷は米人の国民的誇りにして清ヘ徒の血液は移住者の多きに従いて濁れりとも自由は彼の歴史を一貫せる国民精神なり。支那は之に反して全く自由と正反対なる服従の道徳即ち親に服し君に従う忠孝を以て家を斉え国を治め来れるもの、被治的道念のみ著しく発達せる歴史の下に生活する国民なり。彼の建国は一粒選の自由移住民にしてこれの歴史は数千年間鞭打の奴隷なり。かく建国の精神より異にし歴史的進行の方向を同うせざる両国民の上に、その一の翻訳を以て他を包被せんとする孫君の空想は、敢て米人の論弁を待たずとも自覚せる革命党の疾(つと)に知悉せるところなり。 世界の共和似中独り米合衆国に於てのみ反動と革命の反覆なきはその建国が単なる分離にして革命に依りたるものにあらず、従って大統領が親ら責任を負いて反対党の監督の下に政治を為すは反対の自由監督の自由を尊重する国民精神の自由あるが故なり。自由の覚醒せざる、又は覚醒せんとして尚専制の歴史的堕力に捉わるゝ国に於ては、決して米国の如き制度に拠りて自由を擁護し得べきものにあらず。則ち米国の如き両党対立政治がかかる国に採用さるゝ場合は、反対の自由、監督の自由、批評攻撃の自由、交迭して自ら代わるべき自由、則ち反対党の存立し得べき凡ての自由を蹂躙せずんば止まざる一政党の専制政治となりて、在野党は『叛徒』を意味すべし。 支那の建国にも歴史にも在野党の自由を擁護すべき国民精神の自由を発見し得べからずとせば、孫君の米国的大統領政治の翻訳は却ってその理想とする民主的自由を裏切りて専制に顕現すべきは論理上推想し得べきところにあらずや。而してこの推想を彼自身の身を以て立証せんとするかの如く、袁の反対党たる彼は故国に居住するの自由をも奪われて亡命せるにあらずや。 実に自由の建国精神あるが故に独立後かって自由を犯すものなかりし米国の事実と、服従の歴史的約束あるを以て革命後忽ち袁の専制を見るに至れる支那の事実とを見よ。明かに両国の共和政が同樣なる形式を取る能わざることを指示するものなり。孫君の米国的夢想を革命党のそれなりとする不注意なる仮定は、博士グッドノーをして支那は君主制ならざるべからずという結論に急がしめて、終に支那の取らんとする共和政如何の前提を考察する眼目を閑却せしめたり。アジア各邦の衰うる久しと雖も国体の決定を米人輩の批判に仰ぐ程の哀れなる革命党にあらず。孫逸仙を視て革命党を解すべしとする日本人の多くは研究的用意を欠ける彼の失態に鑑みて相警むべきことなるが如し。 孫君の米国的夢想と革命党の東洋的共和主義とを混同するよりして否定的結論を為すグッドノーに反して、肯定的議論をなすものに我国の支那学者内藤博士あり。則ち孫君の米国的翻訳より来れる各省連邦論を容れて支那の將來は連邦共和制を可とすべしと論著せる如き是れなり。しかしながらこれ単に肯定に行くと否定に来るとだけの相異にして、孫逸仙の陰影に研究眼の聡明を蔽わるゝ遺憾に於て相選ぶところなし。かくの如き夢想が覚醒せる革命党の理想にもあらず革命されつゝある支那に行わるべき要求にも非ざる事は支那の歴史が明白に挙証すべきに非ずや。
米合衆国はその名の示す如く十三国の集合せる歴史に始まりて聊かも支那のそれと似たるところなし。彼の連邦制は独立せる意志を以て集まれる移住民の独立的小邦国が、他の征服又は併合に依らず、英国に対する攻守同盟の為に連合せる国際的提携を永久にしたるものなり。共に小邦国の独立的意志たる、実に清ヘ徒、ローマヘ徒、王党員等各宗派が地域を限りて植民し信仰の為に土地の交換を要せし程に相犯すべからざるものなりき。而して膨脹したる今日の四十八州と雖も、フランスより購入せるルイジアナ、スペインより購入せるフロリダの如く、メキシコより離反して加入せるテキサス、カリフオルニア、アリゾナの如く、欧州の各本国の支配を要せざりし程に已に十分に国家的発達を遂げたる邦国の連合なり。建国当時の十三州に五倍せる今日の米合衆国は実に十五回に亙りてかかる独立的邦国が連合し集合したるものなり。則ち米国は国家学上『集合国家』と名けられて『単一国家』に分類さるゝ支那と全然歴史的発達を異にせるものなり。 支那は歴史ありて以来統一せらる。例え古え群雄の割拠し両朝の抗争せし事あるも、これ日本に元龜天正の分立時代あり、南朝北朝の争覇時代ありしと同樣なり。もしこの中世あるが故に日本の帝国憲法に米国の翻訳を輸入して各藩連邦制を採るべしと言わゞ笑うべき歴史観に非ずや。春秋の時と雖も天下一に定まるの日を待望し、孔明の鼎立策と雖も統一の為の準備に過ぎず。治者と民衆の理想が常に統一に存してその分立し抗争せる時代は統一的覚醒が未だ拡汎せざりし歴史的過程に過ぎざることは多言を要せざるところなり。支那の表皮を観察するものはこの歴史的過程を考えず。各省の頑強なる団結カがその実却って国家的統一の第一歩なることを反対に解釈して、その土音の相違を示し排他の慣習を挙げてあたかも翻訳的連邦論に裏書きせんとするが如きは遺憾なることなり。 維新革命が統一的覚醒より来れるを見たる日本人は、尊王の大目的に於てすら薩長互いに妨害せる如き獰猛なる藩的感情も過渡時代として軽視するにあらずや。支那の省的感情は維新前の独立国的統治によりて養はれたる各藩のそれに比すべからざる稀薄なるもの。かかる微細なる障害に逡巡して統一的要求を放棄せんとする如き脆弱なる革命党は不肖の支那に視ざるところなり。由来中世的組織を脱して近代的新組織に移らんとする時、即ち革命の過程に於て新統一の為に旧き地方区画を排除する努力は、維新革命に於ける如く、フランス革命に於ける如く、支那の将に今後に踏破せんとする荊棘たるを失わざるを論なし。しかしながら四境より響く分割の声に恐怖する彼らは、省的感情に従いて各省分割的立法に禍さるゝよりも統一の大勢を鞭撻するの遙かに困難少なきを洞見するものなり。 フランス分割の同盟軍が潮の如く侵入せし時、封建的区画に従える連邦共和制は国家の存立を危うからしむとして、米国独立戦争より帰れる赫赫たるラファエットの主張を以てするも一顧だにされざりしを見よ。同樣なる支那の危機は孫君が大總統の権力を握りしその日に於て実に臨時憲法より全く翻訳的痕跡を拭い去られたるにあらずや。共和政治は支那の統一に不可なりとする袁世凱の口実は只孫君の連邦論が與えたるものに過ぎず。しかるを共和政その者を考うるに或る一人の空想を一切の前提として、各省自恣分割を速かならしめんと論断する如きを見るに至りては甚だ愼重を欠けりと言うべし。 事情に通ぜざる外人は孫君と革命党との混同によりて結論を妄りにするも、革命の支那が與えられたる『中華民国臨時憲法』なるものは中央集權的統一を根本義とするものにして聊かも米国の如き分権的惡臭に毒せられざるものなり。実に各々異れる論断に行ける有力なる二学者にしてすら全く革命党の理想と革命的支那の要求に触れざることかくの如しとせば、孫君を観察する事によりて革命過渡の隣国を理解せんとする者の悉く錯誤に陥るは止むを得ずとすべし。否、彼一人の過去の主張に過ぎざる米国的大統領責任制と、統一的要求に逆行せる各省分割的連邦論とによりて支那共和政の根本理想を誤解せしむるは尚忍ぶべし。彼の革命運動が亦米国的翻訳に捉えらるゝより、世人をして終に幾多憂国の士の意気精神を軽侮せしむるに至るものあり。何ぞや。 即ち彼が支那の革命を遂行せんとするに当りてあたかも米国の独立運動の如く外国の援助を願望することなり。彼は植民地の経済的政治的興隆によりて旧き本国の支配を要せずして分離せんとする別個の一新国家の創建と、経済的政治的頽廃より将に亡びんとする旧国家そのものが存亡の暗中に復活飛躍を試みんとする革命と、むしろ両極に立つべき反対的意義のものなることを考えず。為に外国−例えば日本の援助を哀求することを恥辱とも恐怖とも感ぜざるかの如し。創建されんとする一新国家が旧本国との開戦に於て、本国の敵国たる者に援助せらるゝことは恥辱にあらずして堂々たる国際間の攻守同盟なり。経済的独立による植民地にあらずと雖も、よしんばインドがその政治的興奮によりて一国家を創建せんとする時、英国の敵たるドイツと提契することは賢明なる国際的同盟にして、いわゆる独探の恥辱にあらず又第二の征服者を迎うる恐怖にもあらず。
革命とは疑いなき一国内に於げる内乱にして、正邪孰れが援けらるゝにせよ内乱に対して外国の援助とは則ち明白なる干渉なり。一国の革命に於て外国の援助を求めたる恐怖はフランスの亡命貴族に見ざりしか。フランス革命党の新興階級より驅逐せられたる彼ら亡国階級の人々は、国家の恥辱も恐怖も感ぜずして隣強の侵入軍のために故国分割の嚮導を努めたるに非ずや。同一なる亡国階級の貴族肅親王らが今日日本に向って言う所を見よ。宛然たるフランス王統の口吻を以て曰く、支那は腐敗紊乱して一国として立つ能わず、むしろ日本の保護の下に塗炭の苦を免かれんと。孫逸仙を指して亡国階級の人なりとするは以ての外なり。 しかも支那の存立其者が日本の疑問となれる今日、援助を求めらるゝものの立場より考えて愛国的注意の欠乏、興国的気魄の薄弱を侮蔑し、以て亡国親王と判別せざるは当然の取扱いにあらずや。孫君は決してかかる意味に於て侮蔑さるべきものにあらずして、罪は彼の米国的迷想にあり。フランス、オランダ、スペインの三国が植民地十三州の分離を援げて英国に宣戦せしは、三国の北米に有する植民勢圏が英国に打勝たれたる報復と、及びその未開植民地を英国の占領より永久中立国たらしめんとする欧州列強間の植民政策の衝突に原因す。特に佛国の海軍が反乱植民地に陸兵を輸送する能わざる程に英国の海上権を打破せしに見よ。両国の伝来的争覇戦が単に理由を植民政策に求めたるに過ぎずして、後日ナ翁退治の名に於てトラファルガルに撃滅せられたるが如し。実に米国の独立は支那革命と全然比較すべからざるものにして、単に英佛の国際戦争の副産物として永久中立を承認されたる事に過ぎず。ワシントンは革命家にあらず。未だ国力が南米に及ばざる時代なりしが為に、欧州の分割より先づ北米の永久に中立すべきことを宣言せるモンローに過ぎざるなり。則ちモンローが南北に拡充したる主義を彼は先づ北米に於て樹立したるものなり。支那は或る一国に領有せらるゝ属邦にあらず。千百のフランクリン来るとも日本がフランスを学び得べからざる事説明を要せず。 この迷想は彼の国体問題のそれに比すべからざる害毒を日支両国の将来に流すものなり。米国と全く異れる国体は最初より彼の米国的大統領制をも米国的連邦をも一[口へんの據]して顧みざりしが故に支那の禍を為す少なかりき。支那の革命に対する日本の態度という問題に至りては殆ど彼に於ては革命の成否を決し、日本に取りては将来永遠の国運に関するものにあらずや。日本が支那革命の成敗に当面の利害を感ずること米国の独立に於けるフランスの如くならざるはもとよりなり。むしろ対支貿易の上に蒙る経済的損失に至りては賠償を要求し得ざる莫大なるものあり。この不利を忘れて日本の朝野が一種の精神的声援を吝まざりしは、日本人自身の有する愛国心より彼らの愛国的奮闘に共鳴し、対岸の大陸が欧米の分割より免かれて復興せんとするを同人種的情操によって慶賀するもの。フランス革命に際して対岸の英国が為し隣境の墺普が為せし如く国家的野心を露わすべき好機を放葉して任侠的国風を発揮したるは、実に天啓の指導を享けしかの如き蕩蕩たる王道なりしなり。即ち当面の利害を超越せるかかる日本の同情は革命指導者の頸血を以て購うべし。断じて米国独立軍の如き利己的目的の下に逃亡脱走裏切内応を恣にして得べきに非ず。
本国より分離せんとする独立戦争は独立せる地域に拠りて戦う一種の国際戦争なり。故に他動的に運命的に平凡なる戦時犠牲者として死せば可なり。革命は国士の事業。隻手国運を飜えすべき意気、一人万夫に当るの精神、凡て犠牲の自動的なるものを要す。米国独立戦争に殆ど記すべき程の悲慘事なくして革命の支那に慘烈なる物語の漸く多からんとするを視よ。革命は腐敗堕落を極めたる亡国の骸より産れんとする新興の声なり。産れんとする彼兒の健かなると否とは一に只この意気精神の有無に存す。単なる中立的承認を他力本願によりて成就したる北米移住民の易きに学びて只啻外援を哀求する孫逸仙君は、道理より推し又事実に照して革命運動の代表者に非らず。二箇の事実を見よ。
−一撃清朝を推飜せる排満革命に於て、米国的夢想家は米国に在りて一点の関係だに無かりしに非らずや。−各省凡ての中心勢力等は全く日本に援助せられずして勃発し呼応し遂行したるに非ずや。孫君を視て革命党を解すべしとする者が五年後の今日に至りて未だ排満革命の真相を知らざるは止むを得ず。しかも或る一人の思想的欠陥が日本人の因習的対支軽侮観を喚起せしめて終に革命党全部の壮烈雄毅なる意気精神を蔑視せしむるに至るは洪歎に堪えざるところなり。革命を為すべき意気精神なくして革命を為したりというが如きは已に言語上の矛盾なりとす。 彼によりてこの誤解を與えられたる日本人は、その高貴なる任侠的援助が革命の支那に如何樣に了解されたるかを省察せざるべからず。孫君の後援に集まりし『支那浪人』なる者の数十百人は任侠以外の動機を有せざりき。しかも謠言一たび起りて日本機に乗ぜんの声あるや南北忽ち戈を收めて感恩手を飜えす如く惡声となれるにあらずや。いわゆる第二革命の起伏するや支那の上下挙りて日本の野心を流言されしが為に、袁に対する人格的憎惡を忍びて有力真率なる憂国者の多くが去就を誤れるに非ずや。内乱の或る一方に対する外国の援助は干渉の恐怖と実に紙一重の間隔なり。
日本に於ては隣国の分割を保護するを外交方針の基本とす。しかも彼国の民衆に普汎せる愛国的覚醒は実に積弱の今日、及び動乱の生ずべき今後、果して能く日本の侵略を免かれ得べきやの一事−只この一事を憂惧しつゝある時、孫逸仙の背後に日本在りの謠言は、革命を援助するものにあらずして革命党を売国奴の乱矢に屠る事となる。支那の革命は民主共和の空論より起りたるものにあらずして、割亡を救わんとする国民的自衛の本能的発奮なり。彼らが武昌に於て、長沙に於て、上海南京に於て、日本の援助を約せずして起り、日本の干渉を期待せずして進みたる独立独行の憂国者なりし眼前の事実を見よ。国民の自衛的本能の直覚は多く明敏なるものなり。 日本の援助によりて起たんとする孫君の米国的運動が則ち干渉の誘致なりと直覚せるを以て、犬養氏の南北統一を非議するや日探何をか為すとして一の聴く所なかりしのみ。頭山氏等の帰国に際して孫君の代理見送人すらなかりしは実にこの国民の愛国的直覚に憚かりしが為にして、再び亡命して氏の翼下に身を寄せしは亡恩民族なるに非らずして彼の米国的迷想より出づる依ョ心の故のみ。彼等は動乱中犲狼の爪牙を露わさずして王者の如き善意なる傍観を持続せし日本の態度に誠心感謝したり。しかも同時に他意なき日本の一挙手が国民の恐怖を煽起して回天の大業を中挫せられたる憾をも有するものなり。一米国的夢想家の他力本願主義によりて誤解せられたる革命援助の声が、今日終に日本の庇護の下に革命せしむべしとする積極的干渉に近きものに変化せざるや。不肖はこの侮蔑と恐怖と、革命後の両国々交に却って重大なる禍因たるべきを憂惧して止まざるものなり。 以上の概説によりて、孫逸仙君の日本に於て知らるゝ理想及び日本の朝野に試みつゝある運動が、支那革命党の理想にも革命的支那の要求にも非ざる事を了解せられたるべし。これもとより多く必要ならざる談義なりと雖も、孫逸仙の名が世界の観察眼を暗黒ならしめつゝある今日に於ては説明の明瞭の為に玉石の判別より出発せざるべからず。ここに於て疑問は当然に起らん。曰くしからば如何にして支那は共和政体を採りしか。曰く如何にして孫逸仙は民国の第一大總統に推挙せられしかと。不肖はこれ等に答うるに先ち革命の思想的原因より序を追いて考察せんと欲す。孫黄譚宋等の個々人の成敗を褒貶するは別にその人あるべく論述の目的は冷頭なる革命の因果的研究にあり。
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【三 革命を啓発せる日本思想 】 |
革命の理想は日本思想に啓発せらる。維新革命の理想を啓発したる支那思想。佛国革命に於ける英国思想の輸入と等しき日本翻訳の『百科全書』。奴隷的佛国が理想したる英国的自由と亡国的支那の理想する日本的国家民族主義。日本の国家民族主義は直に清朝を否定する革命哲学となれり。古今革命とは少数なる年少書生の事業。維新革命、佛国革命、露国革命に於ける例証。支那民族の雷同性に非ず革命的理解の普及なり。孫の追放に係わりなき日本留学生の革命化。支那革命の理解者は官吏登用試験の及第者に非ず。フランス革命に與えたる思想的指導に英国自身が自覚せざりし如くなるべからず。
問題は別個に提起せらるべし。曰く、果して孫逸仙の米国的理想に影響せられずとせば支那の革命は如何なる思想に原因するかと。不肖は少くともこの一点に於ては十分の信念を以て答う。曰く支那の革命は太平洋の遙なる雲間より来らずして対岸の島国、実に我が日本の思想がその十中の八九までの原因を為せるなりと。隣国を革命党の策源地と視革命の煽動者なりと猜するはもとより当らずと雖も、日本は爾が與えたる思想に対して責任と栄誉とを感ずべし。
不肖はこの重大なる事實が未だ殆ど日本そのものに自覚されざるを視て、フランス革命に與えたる英国の思想を対岸の島国自身が終に自覚せざりし歴史の反覆に驚かざるを得ず。実に史上屡々散見する如く思想の国際的交渉は一国一朝の興亡に原因を為す程に重大なるものなり。近く我が日本の維新革命を見よ。その革命の物質的原因は各種に考えらるゝにせよ、又その思想的原因も有力なる他の系統のものの存するにせよ、実に徳川氏の治安上奨励し普及せしめたる漢学が却って大なる原因たりし事は世人の知る所の如し。
徳川氏は治者の利益の為に忠孝を信条とするそれが馬上によりて得たる天下を維持するヘ義なりと期待したり。しかも馬上の威力衰えてその覆没を来すべき各種の政治的經濟的原因の醗酵するに至るや漢学は戈を倒まにして王覇之弁となり、王たるべき皇室の為に覇府に叛逆すべき理論を供給したり。当時の年少革命党伊藤公が洋行の笈中にも携帶せし日本政記は実に漢学の革命的理論によりて日本歴史を批判せしもの。義時尊氏の伝統政策を苛辣に徹底せる大逆不臣の徳川氏を反語的に尊王忠君なりと称揚し、その初を為せる歴代覇府の乱賊を筆誅する事によりて倒幕革命を諷示せる日本外史は、亦誠に支那の漢学が影響せる革命文学なりき。現支那の革命に於て師弟を一変せる日本の雄渾なる思想は果して王覇之弁にだも及ばざりしか。 否、日本の政法文武凡ての思想の莫大なる漢譯は宛として英国の翻訳がフランスを啓発せしと同樣なりというべし。欧米を崇拜し自身等の東洋を侮蔑して恥とせざる日本人は、支那革命党を見るに彼ら淺薄皮相なる翻訳書生何為る者ぞと嘲笑し去る。しかもフランス革命は英国の思想を浅簿皮相に輸入して覚醒せられたるを知らざるか。ボールテールの研究も英国法にして、モンテスキユーが二十年苦心の憲法論も英国法の祖述に過ぎざるは、あたかも故宋ヘ仁が比較財政学を訳し他の凡ての指導者等が日書の翻訳に汲々たりしが如し。日本外史の暗示の如き兢々たる態度、柔和なる調子、攻撃的筆法の欠乏はフランスの革命文学にして、論議の堂々たる支那の革命論に比すべからず。ルソーに独創的思想なくして論旨の支離滅裂なるは章太炎の徒らに絢爛にして組織的論理なきに等し。フランス革命の思想が英国の佛訳『百科全書』の如きに喚起せられしという歴史家の見解に従えば、汗牛充棟の漢訳を與える東洋の英国は支那革命の思想的原因たらずと見る能わず。
実に、革命の支那はその覚醒に於てあたかも日本のそれに国学の復興ありしが如く、もとよりそれ自身の国粹文学に依る東洋精神の復活にあり。しかもその復活を促進し鞭撻し東洋魂の溌剌たる光輝を示しつゝ鼓動したるものは日本及び日本の思想なりとす。強露を破って旭日沖天の勢ある日本を仰望したる彼らは、豚の如く活き蝿の如く死せし奴隷時代のフランス人が大憲章の自由を有する対岸の英国を眺る如くなりき。従って自由なきフランス人が己の乏しきを英国の思想に要めたる如く、将に亡国に瀕せる彼等は日本に就きて興国の精神を研めざるべからず。佛訳の自由論と漠訳の国家主義とは誠に奴隷と亡国とが渇望の泉を各々対岸の近きに求めたるもの。特に支那はその危急の迫まれるが為に訳書の間接的交渉を足らずとして留学生の派遣となれり。而して日本の興国的思想は遺憾なく彼等自身の東洋魂を覚醒せしめ、彼らはその覚醒によりて日本の興国学を直ちに革命哲学として受取りたりき。
かくの如きはもとより満清皇室の夢想だもせざりし所ならん。彼は日本の国民精神が国家民族主義にあるを見て、留学生等はその学ぶところを以て克く我が満室に忠に克く我が皇家の急に赴くべしと期待せしならん。しかしながら天は人智の量るべからざる飜弄を楽しむ。徳川氏の覇府を万世に伝えんとせし漢学が王覇之弁に変じて維新の革命運動に理論を供給すペしとは人智の量る能わざるところなりき。天の飜弄を知らざる満清皇室は己が人の君を亡ぼし人の国を奪える征服者にして被征服者の覚醒と共に顛覆さるべき説明を日本の国家民族主義に求めしめんが為に留学生を派遣したるに似たり。
覇者が王を族滅して両者の弁を為すを要せざる支那に於て治者の利益たる漢学は、王覇竝立の日本に来りては革命の道徳的説明たらざるを得ざりき。異民族の支配を蒙らざる日本に於て治安維持の国家民族主義は、満人に征服せられつゝある支那に渡りて革命の科学的理解とならざるを得ず。即ち日本の国家民族主義によりて解釈せられたる忠孝道徳は己の君を亡ぼし国を奪える者と共に天を戴かざる事をヘえ、他の民族の支配を受くるよりも死を勝れりと説くもの。即ち満清皇室に対して日本のあらゆるヘ科書は革命哲学たり凡ての学校は革命クラブなりしなり。況んや万千種を以て数うべき漢訳の『百科全書』は禹域四百州渉らざりしところなかりしに於てをや。 世人は『排滿興漢』の革命旗が武昌城頭に飜えりしを見てその不可解に驚異す。しかも満人の統治を排滅し漢族の復興に努めよという国家民族主義は、十数年来両国政府の奨励の下に東京の講堂に於て堂々として鼓吹されつゝありしなり。世人は一月ならずして二十二行省の半が呼応し三月にして排満の終局せるを見て無智の漫罵を民族の雷同性に加う。しかも革命のダイナマイトは漢訳の包装に陰れて三百九十一万方里の全土に埋没せられたりしなり。
或は曰はん、少数なる黄吻の書生輩何をか為さんと。これ恐るべき勢力を有してしかも一の根拠なき非難なり。古来何れの国と雖も革命的大変革が白髪衰顔によって成されたる一事例だにありしか。維新の革命が成就したる時、西郷の四十一歳を年長者として大久保、木戸ら之に亞ぎ、板垣、山縣、大隈、後藤の諸公亦実に三十歳前後、伊藤、井上、松方等は遙かに年少なりしとせば、彼らが革命に奔労せる頃の口吻の黄なるは想見すべし。
少数の非難を以てせばフランス革命の中堅たりし者パリの書生総数七八万中の只数千名が苦力窮民を煽起せしに比較せよ。彼らは日本留学生のみを数うるも十万に余り、各省各県に於ける中等階級の覚醒せる年少書生数十百万を有す。何ぞ革命の物質的原因たる財政破産の支那に於て雲霞の如き苦力窮民を煽起すること能わずと云うか。日露戦後シベリアの牢獄を脱せる露国革命党員ゲルシヨニー氏が日本を通過せる時、その全露を震撼せる革命を語りつゝ曰く、我が同志二百八十名が一網打尽されたるを以って再起する能わざるを歎くと。数百の露人が為し数千の佛人が遂げたる事を独り数万人の東洋民族に於てのみ企つべからずとは不肖等の自尊心が許さざるところなり。数十名の薩長革命党と京都に苦窮せる失職武士の数百人の団集とによって維新革命の中堅が作られたるを見よ。桜田門外の雪を染めたる少数なる水戸の脱走浪士によりて倒幕の大勢が滔天の波を挙げしを見よ。支那に影響せられたる少数の日本人が為し得たることを、日本に啓発されたる多数の支那人に於てのみ遂ぐべからずとは鎖国的感情にして不肖等の理性が服せざるところなり。 もし彼ら数十万の書生によって支那の全土に同一なる民族的覚醒、同一なる愛国的情操、同一なる革命的理解が普汎せられし事を否むか。武昌の一叛賊に呼応したる理由を如何なる解釈に求めんとする。支那軽侮観者は自己の欧米人に盲従するそれを反省せずして、この解釈を支那民族の雷同性に帰す。しかも問題はむしろ雷同し得たるほどに同一なる革命的情意が彼の広漠たる支那の領域に普汎せし根本にあり。実に古今東西革命の凡ては書生の事業にして、又実に満清皇室を顛覆せる支那の革命は我が日本に啓発せられたる年少書生の鼓吹し計画し遂行したるものなり。維新の革命に於ける漢学の如き間接的交渉にあらず。大西洋の島国が対岸のそれに影響せるよりも遙かに深刻なりしなり。 実に天の為せる飜弄は解すべからず。彼等を送りし清帝も彼らを受取りし日本政府も天の一笑を搏さんが為に孜々切々として排満興漢学を授受しつゝありき。彼等はもとより内地に普及せる漢訳の爆弾を発見し得るものに非ず。只日本に在る留学生が悉く革命的傾向を発表するを見るや、彼らを送りし慶親王は孫逸仙の在りて煽起誘惑するに基くとなし、密に伊藤公に向ってその追放を求めたりき。公亦隣国の幸慶の為に受けたる彼らが乱賊に與みするは以っての外なりとして孫君を追放したり。
明治三十九年星寒き冬の夜不肖等は天才的空想家の寂しき影を見送りて涙ありしと雖も、顧みて燎原の火の如き革命風潮の蔓延に些の妨げなかりしを見て微笑を禁ぜざりき。逐われたる者は一民主的革命家のみ。支那の渇望せる者は愛国的革命にありしが故に、東京全部の学堂を毀たずしては留学生の革命党たるを防ぐべき途なかりしなり。彼らは焚くべかりし日書の漢訳を以て却って変法自強を夢み、幣を厚うして日人の儒を各省各県に迎えてその坑にせざるべからざる所以を発見せざりき。何たる飜弄ぞ。かくの如くにして両国の治者の以て安んずべしとする数年間に、数万の子弟は留学生として來り革命党と化して帰り、漢訳の革命哲学に覚醒せられたる全国数十万の年少書生と相結び、終に排満興漢の暗流禹域の山河に漲るに及んで武昌の一炬憐むべし清朝焦土たり。 誠に日本は家鴨の卵を抱ける鶏なりしか。武漢義を唱うの飛報至るや朝野騒然として贊歎し同情したりと雖も、彼らの真要求を指示せる一説明だにも接せざりしにあらずや。壮士の剣を提げて赴き援くる者また数十百人。しかも帰来誰か彼等の真精神を伝へたるものぞ。不肖当時彼らに與みするの故を以て常に官憲の監視下に在り。倥偬の間もとより天下に訴うる暇のあるべくもなく、革命に同情し声援せる諸友中特に内田良平君が山縣、桂等の長州元老系に力説しつゝあるに望を嘱して去れり。
これ彼らが明治末政界の中心権力たりしが故のみにあらず。革命が書生の事業なるを心解し共鳴し得るもの、官吏登庸試験の及第者にあらずして日本に於ては残存せる維新の経験者に外ならずと期待せるを以てなり。堂々たる大帝国、何為れぞ雛鴨の水に入るを見て狂乱する鶏の如くなるか。日本は覇者の如く支那を指導すべき第五項案を待たず。王道蕩々として日本の雄渾なる思想は新支那を建設せんが為の旧支那の破壊に於て指導を全うしたり。動乱の煽動者は日本ならざるかを猜疑する列強に顧眄する要なし。アジアの自覚史は日本の東天に曙して実に禹域四億の民が少くもその征服者より解放されたる感謝を特筆すべきなり。 実にかくの如し。亡国的支那の要求が興国に在り支那の新理想が殆ど凡て日本の思想なるを見ば、孫君の米国的翻訳は革命の形而上的原因を探究するに多く注意を要せざる一主張に過ぎざるを発見すべし。フランスに與えたる責任と栄誉を自覚せざりし英国の覆轍は再び東洋の英国が踏む能和ざるところなり。単に繰り返すを能とするものならは歴史は六千年と雖も後世の治者に益なきに非ずや。
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【四 革命党の覚醒時代 】 |
排満の民族的革命を成功せる今日に於てしかも何故に革命を要するか。排満革命の元勳等が去就を誤れる所以。排満革命は興漢革命の前提的運動なり。今後革命乱の免かれざる支那に対して日本は徹底的理解を要す。佛国日本と等しく革命は兵火の勝敗に非ず思想戦なり。暗殺によって成れる維新革命。秘密結社時代の各思想系。章太炎と孫逸仙の争。東京政府よりの迫害時代。故宋ヘ仁等の国家主義的統一及び秘密連絡時代。孫と袂別したる革命系統の軍隊運動。青年トルコ党の実物ヘ訓。支那浪人等の滑稽劇。
実に、この満清皇室と倶に天を戴く能わざる民族的覚醒を了解せば、康有爲等保皇党が龍袖より離るゝと共に国民的後援を欠きし所以は不肖の絮説を要せずして察知するを得べし。これ維新革命前に両立すべからざる王覇を彌縫せんとする彼の皇武合体案が一の夢想に終りしと同樣なり。しかしながら以上の略説によりては、単に漢民族の民族的覚醒による革命のみの如くにして事情に通ぜざる諸公を益々迷路に導くに過ぎず。曰く、革命の目的が漢民族の復興に在り且つ米国的夢想の行うべからざることなりとせば、漢人たる袁世凱の治下に国家の統一を得ば目的の結局にあらずや。曰く、征服者を仰ぎたる康有爲は温和漸進の途を取りしのみ。已に排満の目的を達したる今日、漢人によりて統治せらるゝ漢人の為の政治たらば第二革命と云い第三革命というが如きは却って割亡を促進せしむるに過ぎざる乱賊に非らずやと。これ外人としては一見適中せる疑問なり。
而して不肖が革命家その人は革命を説明し得ずと言える如く多くの支那革命党自身に於ても亦明答し得ざる凝問なり。しかり。これあるが故に康の門下生等は勝海舟の涙を呑みて不倶戴天の袁に結びその変法自強策を存亡の国家に施さんと夢みしなり。日人の軽侮する如く附権阿勢の動機のみにあらず。これあるが故に国粋的覚醒の警鐘たりし章太炎の大器にして袁の顧問たりしなり。日人の風説する如く彼の学究的非常識の故に非ず。これあるが故に同志の蜂起によりて終身の獄を出でし革命の元勳胡栄孫毓[竹かんむりに均]君等の身を以て籌安会を組織し累卵の危きを快からざる梟奸の力を借りて統一せんと迷えるなり。 日人の指弾する如く一頭幾何の市価を以て政友会より同志会に売買されたるにあらず。これあるが故に旧主に裏切りたる袁は勳功第一を以て大總統の尊きを得たるなり。日人の妄論する如く兵力又は政略によりて旧主と孫君とより窃めるにあらず。これあるが故に国民悉く彼の治下に三年の安寧を求めて『乱徒』の誘惑に応ぜず、日支交渉の事あるや国を傾けて彼と共に排日を敢行したるなり。日人の放言する如く強圧の服従にあらず、治者の何人なるを問わざる国民性なるにも非ず。実に軽薄驕慢なる軽侮論者の如く一見不可解なる現下の支那政局は然かく皮相観に よりて穿たるべきものに非ざるなり。しからば問わん、
支那自らが已に然りとせば今後再三生ずべき支那の動乱は単なる政権争奪にして革命ならざるべしと。皮相観に従えば然りと言わざるべからず。滔々たる論客、袁倒すべし革党扶くべしとなす者と雖も多くこの政権争奪観の範疇を出でざるが故に、いやしくもすべからざる責任を国家に有する朝野諸公の首肯に躊躇するはもとより当然なりと言うべし。特に甚しきは日本に畏怖戦慄して些の抗争の慨なき恐日病者袁を排日主義となし、日本を専制国と侮る崇米患者孫逸仙を立てゝ親日を策せんとする説客の如き、仮に方便の致すところとするも一国の頭首を隣強の威によりて易置せんとする者。かかる援助は米国思想の論理的帰着なるべきも覚醒せる支那の奮って排撃せんとするところなるは亦明かに推想すべし。不肖愚と雖も新日本の一国民を以て誇とする者、如何んぞ後進隣人の権勢を争う走狗となりて危を踏み険を冒す者ならんや。実に革命なればなり。『排満革命』は『興漢革命』の前提的運動にして、袁世凱に対する革命党の抗争は亡国階級と興国階級との革命的決勝の継続戦なればなり。 袁の個人的人格に非ず、以夷制夷的外交策の故にあらず、又民国を蹂躙して皇帝たらんとする騎虎の冒險家なるが為にもあらず。支那が排満の民族的革命を求めたるは同時に袁が代表する亡国階級の根本的一掃を求むるもの。真の近代的組織有機的統一の国家を建設せんが為の興漢革命を要求するものなればなり。一掃さるべき階級とその代表者の覆没とは、支那が積弱割亡の禍根を芟除して能く一国として存立し得るや否やを決せんが為の革命にして、−則ち排満は興漢の予備運動にして、微少なる袁孫の交迭を意味せず。 この将来の観測は袁が皇帝たることによりて動乱生ぜざるやの警告を発したる日本及び列強に対して、袁が能く忠実なる大總統たるも尚平和を維持し得べきやの反問となるものなり。これに対して然りと答うるものあらばこれ袁世凱の人物を超人的に解するものにして敬遠争わざるを可とす。而して多くの一般的皮相観は支那に騒動は止むを得ずという程に笑過し去る。しかも隣国の治乱に休戚の責任ある諸公はかかる無智を粉飾する放言に安ずる能わざるべし。実に今の皇帝計画に支那の涙を呑むで服する所以は国家存立の為に動乱を避けんとする真率なる憂惧より出づるもの。袁を擁するの計画者等が割亡を免かるべく永久の統一を要すとして袁を以て弥縫せんとするは動機の同情すべき妄動と解すべからざるか。もとより憐むべき弥縫にして容すべからざる妄動なるは論なし。而して要するに袁が皇帝たるにせよたらざるにせよ、今後支那に革命乱の免かるべからずとせば是に対する朝野諸公の態度は予じめ今の時に於て定むべきものなるに似たり。しかも奈何せん第一革命当時に於ける朝野挙りての無理解が日本自身の為にも隣国の為にも無数無限の遺憾を残したる前例に鑒みて密かに僭越なる憂惧を抱かざるを得ざることを。
よって不肖は諸公が将来を観、将来に処するに一失なからんが為に、如何に過去の革命運動の観察を謬まり処すべき所以の途に踏み迷いたるかの反省を請はんとして、ここに運動の経過せる跡を略説せんと欲す。これ前逃の革命思想観が不肖一個の見解に止まる如く、一外国人たる不肖自身の実見し得たる狭き範囲に於ける運動の見解に過ぎず、しかしながら不肖の革命党に於ける秘密結社時代の立場と、革命乱中はその一中枢人物たりし故宋ヘ仁君と相携えて長江を上下し親しく離合集散の勢を視、全く渦中の人として南京政府の成立し崩壊せるを眺めたることゝによりて、外国人としての過誤なき便宜を有するものなり。もし諸公の知る所にして茲に語る所と異なるものあらば、そは悉く支那通等の遊侠的誇栄より出でし虚偽か吏僚等の卓上観察による誤謬なり。この範囲に於ける不肖の敍述は多く正当なりとすべし。 不肖はここに革命運動の跡を回顧するに当りて先づ支那軽侮観者と着限点を異にするを前置きせざるを能わず。彼らは排満革命が革命戦争と名けらるゝに係らず一の記すべき勝敗なきを見て罪を民族性に嫁し笑うべき発火演習に過ぎずと嘲罵す。不肖は之に反して古今凡ての革命運動が実に思想の戦争にして兵火の勝敗に非ざるを知るものなり。フランス革命史に於て隣国の侵入軍と交えたる国際戦争を除けば、革命そのものの為の戦記に幾頁を認むべきぞ。革命戦の死傷は大恐怖の虐殺数の百分の一にも過ぎざりしに非ずや。バスチールへバスチールへの叫びは大濤の寄する如くなりしに係らず救出せし囚徒只手形偽造犯七人のみなりき。しからば支那の革命に於て放釈されし国事犯人が汪兆銘、胡栄、孫毓[竹かんむりに均]君ら数氏に過ぎざりしを笑うべき理なし。板垣老伯かって不肖に語りて曰く、維新の革命は戊辰戦争に決せずして天下の大勢が頻々たる暗殺の為に決せられしに因ると。伏見街道の砲声に驚愕して榎本等の海軍を置き去りに逃亡せし徳川将軍と、故張振武君等の煽起せし小兵の鯨波に胆を冷やして奔竄せし瑞徴総督と幾何の差等ある戦史ぞ。会津城の砲撃と南京城のそれとは共に砲弾の命中せしことなき点に於て比肩すべき交戦なり。革命とは戦争と別物にして、日露の国際戦争を満洲の野に眺めたる軍人と浪士とが南下して考較すべからざる対照の下に妄論するは誉むべきことならんや。
不肖は実にフランスのそれを尊崇し日本のそれを誇示して独り支那の革命に対してのみ驕慢なる無智を暴露する今の論客を敬重する能わざるものなり。革命史は戦記にあらず、従ってここに不肖の語らんとするところは革命思想家の運動にして、その運動によりて起伏せる軍事的現象は多く留意せざらんと欲す。 回顧は大観に止むべし。明治三十八年、内田良平、宮崎滔天二君等の斡旋によりていわゆる広東派と湖南派の合同となりて『中国同盟会』なる秘密結杜は東京に成立したり。十年前の微力少数にして半覚醒なりし当時に於いて二省は革命の先達としてあたかも維新前の薩摩と長州にも比すべし。薩長の反目が倒幕を挫折せしめその握手が維新の中堅たりしに視るも、孫党と黄系との合同を策せる二君の功績は後の民国史を編すべき隣国史家の閑却すべからざるところなり。
しかしながら合せ物は終に離れざるべからず。孫逸仙君の米国的思想は勢ひその運動に於て余りに多く世界主義的なるに過ぎ、黄興君の系統のむしろ排外的なる国家思想と距離甚だし。則ち同一目的の下に或る機会に際して連合し得べきも一党として融合すべきものなりしやはもとより問題たりしなり。加うるに『[九言]書』を著わして明の復興を唱えたる章太炎の出獄して、三百年不世出の文豪たる雷名とその熾烈なる国粋的覚醒を齎らして来り投ずるあり。大陸的豪雄譚人鳳の江畔一帯の哥老会匪を率ゐて負嵎虎睨するあり。当時その内訌が不肖の入党数月後に起りしを以て諸友は不肖の行動に責を負わしめたり。しかも不肖は彼らの思想的色彩の漸く鮮明ならんとするを悦び覚醒の各々向うところに徹底せんことを望みて敢えて自己一身の非難を顧慮せざりき。 思想の異同に依る離合は気運の計らい以外に人工は多く效なし。孫君が革命の始を為せりという広東独立案と、譚黄等が各々企てゝ各々破れたる明の復興運動とは、已に国家観念の根本に於て越ゆべからざる溝壑あり。更に章太炎の鼓吹により日本的思想の普及によって彼ら領袖らの覚醒が深刻を加うるに従い、孫君の世界的民主々義と他の凡ての国粋的復古主義国家民族主義とは当然に手を別たざるを得ず。疎隔の事情は今日之を是非するの要なし。孫君の英米化せる超国家観を以てせばその追わるゝに当りて日本政府より出でたる数千金の餞は亡命客に対する国際的憐憫とも解せられたるべし。しかも太炎の国粋的自尊心を以てすれば孫君が留学生を率ゐて去るの威を示さざるを憾み、何ぞ阿屠物を密かにして喪狗の如く追わるやとなして総理辞任を迫れる所以も解せらるべきなり。隔裂が如何なる動機を仮りて来たりしにせよ、かくの如き思想傾向の両極的相異は凡ての行為に悉く相異を生じ、革命運動に於て亦自ら撰ぶところを異にせざるを得ず。大同団結的気勢を殺ぎし当時一時の遺憾は、今日之を顧みるに各自の思想に基く運動の自由となりて大局の幸慶たりしものゝ如し。 寛洪にして彌縫を事とする黄君は合せ物と考うるよりも疎隔その事を憂惧したり。熱狂児張繼君は当時已に一党の輿望を負いて立ち、革命の前に先づ革命党を革命せざるべからずとして排孫の第一先声を叫びたり。彼は党首の恃むべからざるを視て自ら暗殺団を組織したり。太炎はその炎炎たる火筆を揮って亡明の熱涙を留学生団の熱頭に注ぎたり。四十年夏、黄君憂を抱いて南に去り故宋ヘ仁は北の運動より帰り来れり。張君に導かれて来訪せる彼は交を重ぬるに従いてその組織的頭脳と蘇張的才幹の誠に歎賞すべきものを具備したりき。彼は冷頭不惑の国家主義者にして生れ乍らに有する立法的素質はその集団を組織するの任に当りたりき。革命指導者等の最も能く覚醒したる当時の一二年間に於て、彼の完璧なる国家主義は太炎の国粹文学張繼の雷霆的情熱と相並んで如何に遺憾なく革命党の理論と情熱と組職とを作り上げしぞ。しかも不幸は革命に伴う影なり、黄君は鎭南関に再起する能わざるべく破れたり。
汪兆銘君等は攝政王暗殺の成らすして終身の獄に捕われたり。幹部に在りし一員の飜えりて彼らの釜中に毒を投じて世を驚かしたるあり。隣国政府の依嘱によりて唯一の鼓吹機関たりし『民報』の日本官憲より永久に発行を禁止さるゝあり。不肖の幸徳秋水氏に介せるが禍して張君の思想は意外にも無政府主義に奔逸し僅かに捕吏の手を免かれてパリに逃れたるあり。 かくの如くにして孫去り、黄去り、張去れる後の中国同盟会は声焔の外に顕わるるものなく日本官憲の弾圧亦甚しくして、来り顧る一遊侠子だになかりき。しかも故宋君の卓越せる組織的天稟はこの間に於て著しく発揮せられ、深透拡汎して止まざる国家的覚醒民族的情熱はこの間に於て殆ど一党一理想の健確なる結束をなし、実戦のヘ鞭に打たれて愛国魂を鍛冶されたる軍事留学生は亦この間に於てその征服者と戦うべき叛軍の訓練の為に陸続として帰郷したり。而して実に革命勃発の二年前、故宋君は団匪的豪雄老譚を擁立して徐ろに密かに愛国的革命運動の参謀府を主宰しつゝあるを見たりき。かくの如く不肖は少しく考うるところを異にして孫去後の支那革命党の暗黙なる秘密運動に接近したるが故に、武漢爆発の運動につきて誤りなき真相を敍述し得べし。
思想の相異は当然に運動の袂別なり。米国的思想より出づる運動方法はその独立の密謀と共に英本国の抗争国たる佛人より多量の武器弾薬を給付されし便宜に習いて、隣国の黙諾の下にそれ等を密輸すべき『辰丸』を浮ぶることにありき。而して覚醒せる愛国者は日本が清国政府と何の抗争の利害なきのみならず、その保全が犯すべからざる外交方針たるを以てこれを一白昼夢となし、辰丸事件によりて蒙れる如き国家的侮辱は彼らの愛国的情操より繰り返すを許さずとしたり。もとより彼らは独立戦争と革命運動との学究的考察を経て茲に出でたるものに非ず。又米国の創設と支那の革命との比較的差別を発見して撰ぶところを取りしものに非ざるは論なし。只彼らが支那人にして運動が革命なりしが為に、米人の行きしところと方向を異にして断岩絶壁の革命道を蹌踉として歩みたりき。則ち叛逆の剣を統治者その人の腰間より盗まんとする軍隊との連絡これなり。
−革命さるべき同一なる原因の存在は革命の過程に於て同一なる道を行く。実に腐敗頽乱して統制すべからざる軍隊は古今東西、革命指導者の以て乗ずべしとするところ。彼らは全党の心血をここに傾注したり。フランス革命に於てバスチールを陷れたるとき已に近衛兵二大隊の援助を得、国王をマルセーユよりパリの議会に引致するときスイス傭兵三百名の死守せし以外親兵護国兵の凡てが戈を倒まにしたる歴史を見よ。対岸の島国より一発の弾丸と雖も密輸せられたることなし。維新革命に於て薩長の革党がその藩内の幾政争に身命を賭して戦いしは蝸牛角上の争に非ず。その藩侯の軍隊を把握せずんば倒幕の革命に着手する能わざりしを以てなり。攘夷せんとする外国の浪人より囂々たる助カを受けたることなし。支那が革命さるべきならは革命の途は古今一にして二なし。特に当時青年トルコ党の軍隊を味方とせる革命の成效は如何ばかり彼ら指導者らを啓発したるべきぞ。 彼らは米国的夢想家が黄白二人種の二大連邦共和国と比較して自ら楽しむとは正反対なりき。常に割亡さるべき悲慘なる対照として中亞の老大国を悲しめる東亞の年党は、実に愕然としてトルコ革命の実物ヘ訓に決起したり。トルコと支那。年トルコ当と中国同盟会。天下またかかる符節を合する如き同似あらんや。この如くにして半亡国の要求に沒交渉なる米国的夢想家と分離したる革命党領袖の多くは更にその革命運動に於て外邦の武器を持たず外人の援助を仰がざる革命の鮮血道を踏歩したりき。四十三年夏、追われたる孫君は突として来り、数日にして再び追われたり。故宋君との会見は誠に冷かなるものなりき。 不肖は当時親しく接近してこの数年間の思想的徹底より来れる革命運動の漸く正道に入りて躍進しつゝあるを視、分割の亡運或は彼らの頸血 によりて既倒に廻らし得べきを待望したりしなり。而して他方、幾多日本のいわゆる支那浪人等が置酒高歌して当時尚廃銃払下運動を以て大に東亞の大策に参画しつゝある残酷なる滑稽を眺めたりき。この滑稽劇は頭山、犬養二氏を座頭として翌四十四年、革命地方を興行し廻われる脚本の一齣なりとす。あゝ諸公。かくの如くんば国士窮時の交によりて賓客たるべきも、革命運動の参與指導を以て誇負するは僭も極まれりと言うべし。
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【五 革命運動の概觀 】 |
愛国革命は凡てその始めに於て排外党なり。革命党が日本思想系なりと云うを以て親日主義なりと云うは全く没理なり。革命党が或る場合に於て最も強烈なる排日運動の中堅なる所以。故宋は愛国革命の一指導者たるを以て孫系浪人に排斥さる。故宋に於ける不肖の立場。間島問題に於て日本を挫きし宋の苦衷。革党の借款拒斥運動。新統治的心意を支配せる形なき中央政府『民立報』。広東の失敗と逍声の大器。『中部同盟会』の大運動と譚人鳳の人物評。軍隊運動の手段。黎元洪は元勲首唱に非ず、革党に捕虜となりて強迫せられたる者。革党の輿論運動と粤漢鉄道国有の導火線。チュレリー宮殿と等しき北京城内の売国王。四川より武昌長沙の烽火。
革命運動は日本が行きフランスが行ける道を歩めり。運動がかくの如くにして全党を傾けて軍隊との連絡に熱中すると共に彼らは自ら期せずして切迫焦眉の国家問題を提げて起てり。民主王権の争にあらず自由平等の談理にあらず実に禹域四百州の存亡問題なり。始めより愛国心を無視して本国を見捨てゝ移住せる米人の如き国家に対する反逆にあらず。将に亡びんとする故国を累卵の危きに支えんとする彼ら愛国革命党に於ては、運動の目標が自ら国家問題に集中するは要求の自然なる発現にあらずや。而して故国の積弱割亡を救わんとする愛国党は積弱に乗じて凌辱し割亡を迫促する列強に対して亦当然に排外党たらざるを得ず。これ封建政治を顛覆せしフランス革命が転進してナ翁の侵略戦争となり、三百貴族を一掃せし維新革命党が外国船を砲撃せる薩長の団匪なりし如し。武漢に発せし支那革命党は北清事変の薩長的攘夷党が日本思想によって合理化せられしのみ。則ち一面娼樓醉舞の運動に於て軍隊と連絡せる彼らは、輿論の広野に立ちて対外硬の火を掲げ愛国の鐘を鳴らし、全国に拡汎せる憂国的情操愛国的覚醒を大濤の如く煽りたりき。
この説明は換言すれば、日本が支那の恐怖たる時に於ていわゆる排日運動の中堅は、則ち革命党なりと言うことなり。憐なる鶏よ、爾が抱きし卵は終に爾の産める鶏なりしことに安んぜよ。日本の興隆と思想とに抱かれて孵化せる支那の国家的覚醒は、三国干渉に対する臥薪嘗胆の大ヘ訓を服庸すべし。日本が己に向って強露たる時俯伏して国を売るべしとは日本に学ばざるところなりと言わん。自由国たる英国に生れし北米の自由民は自由の保護の為に英国その者と戦えり。支那学によりて多くの啓発を得たる日本の忠孝道徳は後年支那その者に加えたる征服となれり。日本的愛国魂が漸く支那に曙光を露わして彼ら革命党となれるに於ては、日本の或る場合の処置に対して排日運動を煽起するは寧ろ却って歎美すべき覚醒にあらずや。フランス学者なるが故に日露戦争を戦うに日佛同盟の締結を夢みしものなし。ドイツ学派の将校なるが故に島攻撃に勇敢ならざりしものなし。しかも独り支那革命党の多くが日本留学生たり日本思想系の者なるを以て直ちに指して親日主義者となすは殆ど何の謂ぞ。
日本が十年前の始めに於て隣国年のヘ導を引受けしはもとより革命の意味ならざりしにせよ、支那自らが自立独行すべき一国家としての存立が日本の利益の為にも希望せられたるに基く。しからば彼ら年が国家の栄辱に敏感となり国権の得喪に活眼を開き得たるは日本の希望の満たされたるものにして、亦実にアジアの盟主たらんとするヘ導者の誇に非ずや。同文同種と言い唇齒輔車と言うが如き腐臭紛々たる親善論に傾聴すべく彼らは遙かに覚醒したり。 亡国階級を凌迫し慣れたる日本の伝習的軽侮観を以て親善ならんには彼らは余りに愛国者なり。彼らは理解と希望とを以て両国の将来が彼ら自身の統治と日本の改まれる態度とによりて親善なるべきことを期す。しかも奈何せん強者と弱者の親疎は弱者の心意によりて決せられずして一に能動的なる強者の態度如何によることを。即ち革命党の多くが日本的思想家なりという事は誠実なる親日主義者たり又熱烈なる排日論者たり得と云うだけの事なり。その焉れかの一たるは強者たる日本の態度が決せしむべし。これを排日の物質的一小部分たる彼の日貸排斥につきて見るも数年前の辰丸事件に施せし地方的それと、今春の日支交渉に対せし全国挙りてのそれと、強烈の差等に較ぶべからざる国家的理解あり。袁の亡国階級の治下に於てすら已に然り。日本的精華に錬冶されたる革命党の憂国者が統治すべき今後は予じめ想像に堪うべきにあらずや。 これを要するに支那は十年前の支那にあらず。十年前の先入見より演繹を事とする吏僚と支那通との触れ得る所は只支那の表皮にして武漢の一拳に亡ぶべき程に腐爛頽廃せる亡国階級なり。その表皮を剥落して代わるべき新統治階級、則ち革命党及び革命的年は未だ彼らの視界より陰れたりしなり。為に稍々革命党諸氏と交遊あるものすら革命党は日本に依ョし日本の呼吸の下に立国せんとする亡韓的親日党なりと誤断して顰蹙さるゝ援助を押売りする者比比として然らざるなし。彼らは自ら認めて支那の通とすと雖も、今日支那上下の凝懼が実に『孫逸仙は李完用ならざるや』の一事に注集して、袁施策の妙諦亦実にこの疑懼を基本とするをだに解せざるは何ぞ。かくの如くにして革命党を語り革命運動に参わり日支の親善を論ずるも憂国の士は終に與みせず。 不肖が思想の絲を辿りて武漢革命の運動系統を考察せんと欲するはここに存す。孫君の民主的理想は天下之を知らざるなく、仮にその理想が革命渦中の人の常として全然錯誤せるにせよ、他の経済的政治的論拠より漢民族の必ず到達せざるべからざる国体として中華民国史の開卷第一章に特筆さるべきは後章に説述すべし。しかもその第二章に相並んで亡国の支那が飢渇しつゝある現実的理想として故宋ヘ仁君等の国家的理想の大書さるべきを深く留意せざるべからず。前者の革命運動は国際的にして外邦又は外人の援助を受くるは正当なりとの信念の下に行われ来りしが故に自ら世界の了解を得易かりき。これに反して後者のそれは理想の国家的なるよりして愛国運動となり、従って外人の容吻を潔しとせず外国の援助の如きは万不得止場合と雖も国権を毀損せざる限りに於て受くべしとの熱情に基きて行われたり。為に終に未だ隣国に於てすら行動の跡を窺知する機会なかりしは論なし。
則ち前者の他力本願的政略が数十百の支那浪人を周囲に嘯集して声援万軍の如かりしに反し、後者の愛国的自尊心は終に彼らを結束せしめて排宋の一勢カたらしめしは止むを得ずとす。しかもこれがために革命党に対する智識延いて対支政策の輿論が殆ど彼らの団集によりて作らるゝ今日、不肖は実に革命運動の真相が未だ全く日本に理解されざるを痛歎せざるを得ず。 革命中上海總領事有吉君が一般に親日論者なりという宋君に漁夫の号を用いたる頃の排日論あるは支那人の反覆計るべからずと論じて、失笑を抑制せる不肖に向って吏僚的軽侮観を浴びせかけたる如きあり。頭山翁が一国の任命権によりて決せる宋ヘ仁君の遣日全権代表に代うるに、支那その者が存在を知らざる何天烱君を以てせん事を孫君に勧告せる如きあり。如何に革命が愛国運動なるかの根本義より無智なるかを暴露せるかくの如し。動乱政局の中枢地に於て実見直聞せる代表的二氏にしてすら然りとせば、それらの報告に拠るの外なき政府と彼ら浪人団に依りて動きし輿論とが、困惑迷妄の限りを極めたるも宜なりと謂うべし。実に故宋君の愛国的自尊心が彼ら属邦観的援助者と両立し得ざりし如く、革命の勃発は決して彼らの伝習的軽侮観を以ては想像だもなし得ざる愛国運動によりて火蓋を切りしものなり。民主共和にあらず、又自由平等にあらず。而して又実に故宋君の革命史上に於ける価値は彼らのかって察知せざるこの方面に於ける一代表的指導者なることにありき。 不幸なる生涯を彗星の如く消えし友よ。彼が北京に入りて国民党を組織し正式大總統を決すべき総選挙に於て両院に亙れる絶対過半数の全勝を占めて袁を威嚇し、武昌一夕の懼語黎を掌裏に圓ろめて長江を下り来るや彼らは始めて彼の光焔を仰ぎ視たり。革命家にふさわしき上海停草場の横死は前に讒誣垢罵せし彼らをして掌を飜えすが如く全革命党の運命を荷いし偉人なりと激賞せしめたり。しかもかくの如く表面に統率的状態の顕現せしならば、それ以前に於てもまた等しく彼が革命党の国民運動を号令したることかくの如くなりしなるべしと察知すべし。しかるを褒貶只雷同する彼らは之を支那の民族性と差等なき痴鈍なる団集と名づけざるを得んや。
不肖は彼らが評する如く宋派なる者にもあらず彼の顧問にも参謀にもあらず。只能く和し能く争える同齢の一益友として他年の交遊ありしが為に彼の真価を他と異れる点に認むる者なり。即ち不肖が彼に相容すべしとしたる一事は世人の謂う如き彼の多策にあらず学識にあらず弁論文章にあらず。一に只彼が一貫動かざる剛毅誠烈の愛国者なりということのみ。 幽明を隔てたる今日に於て回想するに、実に彼の愛国心は存亡の危機に現わるゝ古人のそれの如きものありき。四十一年日清両国に間島の争わるるや不幸なる愛国者はその熱誠の賜として、間島が朝鮮の領土にあらざることを明記せる朝鮮王室編纂の古書数種を帝国図書館に於て発見したり。これ該繋争地が日本の領土にあらざることを日本の材料を以て立証するものにあらずや。彼はその写を抱いて隣強の不法なる主張を挫くべくしかも不倶戴天の清朝を扶けざるべからざるヂレマに立ち迷えり。しかるに一日本人のそれを日本政府に売りて革命の資を補うべしと勧むるに逢うや彼は猛然として北京に郵送し終れり。十数日後の電報は日々清国の主張が彼の給付せし論証に基きて有力に日本のそれを拒斥しつゝあるを報じ、日本は他の事情と相待ちて間島の領有を放棄したり。これ革命党の愛国党なる所以が実際問題に触れて現われたる事例に過ぎず。しかも、かって犬養氏ら憲政党全盛時代に扶けしと云う、広東の独立のために台湾を根拠とするを得ば福建の鍵鑰は顧みるに足らずとせる明治三十三年頃のそれと雲泥の相異に非ざるか。後、彼がこの故を以て日本官憲より清国の密偵の如く迫害せられ、同志亦猜疑して清室に結ぶは党を売るものなりと讒誣するに会し、終に身の措き処なきに至るや悲憤一夜胸を叩いて這裏の丹心君知るのみと痛歎せし樣の何ぞ惨ましかりしや。希くは諸公。この如き彼と血盟せしが故に不肖を売国奴なりと誤認せざるべし。
不肖は十年前『国体論及び純正社会主義』の一著書を禁止されしことありと雖も、当時万国社会党大会が日露戦争の反対決議をなせしに対し思想の自由は万国の名を以てするも犯さるべからずと自序して自ら信ずるところを屈せざりし者。而して十年後の今日最も空想的なる佛国社会党と雖も欧州の大戦乱に非戦論を唱うる者なきを見て時流に迎合せざる国士の分を全うしたるを自ら足れりとする者。滔々たる贋造愛国者の間に処して不肖自身の愛国心の尊厳の為にも、孤憤苦闘せる彼の愛国魂を擁護せしは日本が産める豎子なりしが故のみ。要するに革命党の愛国運動を指導したる故宋君は誤解されたる意味に於ける親日論者に非ざりしなり。 実に愛国運動はかくの如き先覚者の血涙に滴りつゝ国家的覚醒が奔流の如く全支那に漲るに従いて漸く輿論の潮頭に起てり。支那の憂は北境よりする日露の武力的分割と、英米獨佛が清室と結托してする經濟的分割の二あるのみにして他なし。その一に対して対外硬を唱うる彼及び革命党は、当然に経済的分割を策するストレートの四国借款に向って頑強なる排外運動を試みざるべからず。四十三年彼が上海に潜みて故范鴻仙千右任の二君と共に『民立報』を刊して、満洲の租税徴收権を担保とする該借款に死力抗争せしは讃美すべき一貫の行動に非ずや。売国階級に取りては日露の武力的侵略を防ぐに四国の資本を招致するは夷を以て夷を制する伝來的外交策と考えたるべし。将に興らんとする新統治階級はこの四国の挑戦を以て二国の結束を促がすものとなし、二国対四国の勝敗が何れなるにせよ満洲の終に割断せらるべきを見たり。章太炎と雁行せる国粹的覚醒の先達干右任君と、不肖の常に生ける王陽明を見る如しと敬重措く能わざりし故范鴻仙君と、彼れ宋君との一体的奮闘は、如何に輿論の嚮うべきを導き一個断々なる決意を全国の新知識階級に與えたりしぞ。偉人の価値は只国民に與うる決意一に存す。これ薩長浪士の二三子が各地より集まれる浮浪武士の団集を京都に決意せしめ、終に各藩の革命軍を煽起せしめたると同樣に考うべし。
革命とは政府と輿論とが統治権を交迭する事なり。而して上海は当時全支那輿論の神経中枢たりし事尚維新前の京都の如し。実に革命生起前に於て已に彼らの所説は悉く各地の各報に転掲せられて陰れたる新統治階級の心意に号令したる形なき中央政府として統治したり。これ『民立報館』が後革命起り各省都督立ちて未だ新中央政府成らざりし期間、各省海外より雲集する電報の集中点たりし奇観にも想察し得べし。従って四国借款に反対せる故宋君は誤解されたる意昧に於ける排日論者に非ず。漁夫の名を以てしたるは日本に感謝されんが為にも恐怖したる故にも非らずして、ヘ仁を以ては捕斬さるべき身なりしのみ。あゝこれをしも飜覆常なき民族性なりと嘲罵するや。
却説す。革命運動の軍隊連絡は洪水の如く長江一帶の各省に浸汎せり。革命家の本質たる年少血気はその辞書に『待』の一語を欠けり。時機の熱否は史家の後世に之を論ずべきもこれ劇中の人の察すべきに非ずして知るものは天のみ。四十四年三月黄興の招きに応ぜる革党書生の一団は広東の勃発に於て破れたり。この一敗の如何に後の革命党に禍せしかは殆ど量るべからざるものあり。花顔熱陽の幾多丈夫児は武装せる十万の壮夫を以ても償う能わざる貴き犠牲なりき。『北に於て呉録貞死せず南に於て趙聲没せずんば今日孫愚袁奸を見ざるべし』と惜まるゝ程の趙聲は死せり。聞く彼は宋君が哭して我は覇才なり奉すペき王者なきを奈何と言えるほどの大器なりき。孫黄を掌上に飜弄する陳其美君の策士を以てするも彼の一言に背かざりしというほどの王徳なりき。故范君が不肖に語りて、その始め従うに不平なりし黄興が一会忽ち心服し悦んで命を仰がんと誓いし如き天命を享けたる統御のヒーローなりき。これらの犠牲を払いて彼らは破れたり。軍隊の内応運動に任ぜる胡漢民の家兄君が責任あるや否やは言うの要なし。この悲痛なる事実は革命運動が軍隊運動ならざるべからざる活けるヘ訓なりき。幾多盟友の屍を棄てゝ僅かに逃れたる黄君の沮喪して再起の勇なかりしというは人情察すべきに非ずや。彼の人物が大局を視るの明を欠くは不肖の知悉するところなれども、この時に一指を失いしの故に死の怖るべきを感ずる如き怯者にあらざるは亦固く保証せんと欲す。かくの如くにして多涙多恨なる黄興は盟友流血の地に低徊して香港を去らず。後れて至れる故宋は漸く生き残れる胡服辮髪の老譚を擁して愛国運動と軍隊運動の中枢、上海に帰り来れり。
かくの如くにして前年東京に於ける彼と孫君との冷かなる会見、一民主的夢想家と国家的思想系との事実上の分離が僅に黄興という一個の人によりて弥縫し来れるに係らず、孫君の故郷たる広東に於て孫系の人の軍隊内応を誤れるより生じたる幾多犠牲の出現は、弥縫者を香港に放置して長江一帶に一党を結束せり。『中部同盟会』これなり。形式を中国同盟会内の一党に仮りて大合同の障害を避けたるものゝ如し。しかしながらその盟主たりし譚人鳳は外国思想に聊かの影響だにせられざる純乎たる大陸産の豪雄なり。彼自身は愕くべき博覧強記の読書家なるに係らず、彼の革命伝は年読書生の一団を以て崑崙山なるものを組織し中清南清の大勢力たる哥老合の各山を統一し覚醒せしめ以て興漢を策せる一見甚だ古怪なる者なり。しかも支那の気運が一般書生にこの大陸に磅[石薄]せるそれ自身の国粋的覚醒を喚起せしを以て、僅少の年月中に日本の輸入思想を排満革命に消化し得たるを解せよ。しからばこの気運の権化たる彼の下に愛国革命党の包容せられたる理由を想像し得べし。
彼の人物は堕落せる支那人が持てる不徳の凡てを正反対にして持てる支那人なり。即ち東洋魂が大陸に腐敗して支那人となり島国に洗練されて日本人となれる如く、換言すれば彼は頑固なる日本古武士なり。而して亦腐敗堕落せる大陸より東洋魂が復活して革命党となり躍動して革命運動となれる所以を解せよ。しからば鼎鑠甘きこと飴の如しとする彼の決死的実行の下に革命党の実行分子が統一されたる理由も亦諒察し得べし。之を要するに宋君ら国家主義者の団集が国粋的団匪的権化たる彼を党主として結束したることは事情の偶発又は一時的連合に非ず。実に犠牲心の共鳴と同類なる思想系の合理的融合なり。而して中部同盟会に入るものは彼を盟主とし彼に宛てゝ誓盟せること、あたかも中国同盟会に入るに孫君に宛つる如くなりしに見よ。二系統の間は将来或る機会に於て提契し得べき条件附の分離なりしことは蔽う能わず。 彼らはその軍隊との連絡運動に於て大隊長以上に結托せざることを原則としたり。革命さるべき程に堕落せる国に於ては大隊長以上の栄位に在る者は悉く飽食暖衣の徒にして冒険の気慨なきはもとよりなり。特に已にかかる栄位を得たるは軍功学識にあらずして一に請托贈賄の賜なるが故に、その関係上直ちに反覆密告に出づべきは推想し得べし。
彼らは又大隊長以下に連絡するに於ても下級士官に働げる手と、兵士を招ぐ手とを互に相聞知せざらしむることを規定したり。かかる複雜煩累なる手数を重ねずしては陰謀の漏洩を保つ能わざるほどに道念の頽廃し国家組織の崩壊せる支那の現状を察せよ。黎元洪がその一隊を率ゐて『大義の首唱者』たりしかの如き顛倒事を信ずる日本人は秩序整然たる維新後に生れて、師団長より連隊長に連隊長より大隊長に命令するかの如き類推を為すが故なり。かって太陽が西より出でざる如く古今革命が上層階級より起れることなし。黎は彼らの運動が顛覆さるべく彼らの密告者たるべき飽暖階級の者にして、当時彼らの運動が連絡を禁じたる旅団長の身なりしなり。咄嗟決起して彼を脅威迫擁したる故張振武、蒋翊武君は当時実に曹長の下級士官にして孫武劉公楊玉如の諸君との連絡に出でたるものなり。 而して見えざる他の手より結ばれたる兵士らは下級士官の決起が他の手より煽られたることを知らずして黎を主謀者と誤認して集まりしのみ。『弁髪を断つか、首を切らるべきか』を威嚇せられ、左右より差尚けらるゝ拳銃の監視の為に兵士の発砲を制止する能わざりし彼と總督瑞徴との差は、一が即夜城を捨てゝ奔竄せしに反しこれは逃亡の隙を得ずして捕虜たりし相異のみ。革命史のレコードを破れる副大總統閣下よ。天の執筆せるコメデーの脚本は日本浪人団の登場によりて申分なき名優を得たり。彼らはかかる噴飯すべき副大總統の輝ける武昌の空を眺め、孫君の南京に拠り袁の北京に在るを顧眄し、以て妓を擁し盃を傾けて曰く、天下三分せり将に鼎立の計を策すべきなりと。謂う所の南北講和なるものかかる通俗三国史に養成せられたる痴鈍なる孔明諸君によりて理解さるべからざること、あたかも維新革命に於ける勝、西郷のそれが時代を隔絶せる元龜天正の軍談を以ては説明されざるが如し。これを要するに革命党領袖等の軍隊運動は広州の戒を機として明白に孫系と分離し、武漢勃発の一例に察し得べき如く長江上下の各省に亙りて軍隊の下屠階級に堅確なる連絡を拡げつゝありしなり。 再び却説す。革命党の愛国運動は一面の軍隊連絡がかくの如く各省の地下層を流れつゝありし間に於て天人倶に容るさゞる国家問題を捉えたり。老譚を『連絡部長』とし『文事部長』なる名を以て諸省同志の声息相通に当りし宋范の二君は已に『民立報』に拠れり。−二君共に前後して凶匁に仆れ譚翁独り老いて壽きを悲しむ。春、広東に敗れたるこの年は秋武昌に発せる四十四年なり。革命は動き輿論は将に政府に代りて統治せんとするの時なり。而して民立報に陰れたる文事部長等の愛国論は『形なき中央政府』の号令として全国新統治階級の憂国心に共鳴し政府も世界もその響だに聴かざる声を天の耳に達せしめたり。天は終に許すべからずとして人の容るす能わざる国家問題を革命党に授けたり。則ち四国借款の契約に基ける粤漢鉄道の国有これなり。
希くは諸公。皮相観に誤られて国有民有の学説に陥り給う勿れ。問題は可否の卓上にあらずして存亡の根本に存す。又利権回収の支那に有利なるや否やの打算論に傾聴せざるべし。愛国的覚醒は古今凡て攘夷的形式の胞衣に包まれて産るゝものなり。高輪の公使館を燒打ちせる井上、伊藤らの団匪的精神あるを以て彼ら自身の欧化政策にも国を亡ぼさゞりしを解せよ。しからば盛宣懐の四国借款をキッカケに爆発したる排外党の譚人鳳が直に彼に亞ぎて粤漢鉄道督弁たりしを皮相観に従いて批判せざるべきを信ず。攘夷党に取りては公使館の建築だに見るに忍びざりき。 借款が我大陸国を割亡しつつあるに奮起せる彼ら愛国党に於ては外債の利害は打算だも潔しとせざるところなり。関門海峡に黒船を打払いたる団匪は後世に感謝せらる。粤漢鉄道は攘夷論より遙に進みたる愛国的覚醒によりて国民自身の膏血を以て回収したる利権なる事を回想せよ。フランス革命に於て王の売国行為は自家の安全の為に亡命貴族を通じて国家分割に同盟せる列強侵入軍を招きたり。支那の革命に於て借款が国を売る者なりとの実証を国民の耳目に提示する能わざりしは論なし。彼に於ては国民の耳国境を破れる敵蹄の響を聞き市民の眼首都を距る四十里の間に迫れる剣戟の閃光を見たるものなり。北境に於ける日露の武力的分割軍を見て漸く日本に学ぶべきを悟りし以外、清朝の覆えすべきをその当時に発見せざりし程度の国民に非ずや。皇族大臣らの浪費に消ゆべきストレートの四国借款が終に満洲を売買するものなりと警告する先覚者の声は裂帛杜鵑の血に叫ぶとも、国民の肉感に見聞するを得ざる将来の予言に属す。従って、単に買方の将来を恐怖するに止まり、未だ売方の北京城そのものがチュレリー宮殿の如く破壊さるべしとの激怒を喚起するに至らざりき。 しかも四国借款は滿洲の北より更に中原に延びて粤川漢鉄道の上に蔽い来れり。盛宜懐は革命党の予言する国家売買の将来が如何なる状態なるかの実証を示さんとするものなるかの如く民有の株券を沒收し始めたり。その国有とは人民の成せる国家が所有者たる意味に非ずして征服者の財政破産の為に四国に売らんとして今人民より掠奪する者なることを目に視耳に聴かしめたり。国民は利権回收の故に血を絞りて持てるものを奪われつゝ始めてチュレリー宮殿の売国奴を発見したり。『市民よ国危うし』。民立報は輿論の鐘樓に登りて存亡の急を乱打したり。遙か北の方を指せる愛国運動者の指揮刀は転じて蜀の天に向えり。四川乱る。革党の軍隊運動は武昌に突発したり。が長沙応ずるに至て両湖の中原火を噴く如く、愛国運動は終に諮政院の弾劾となり、盛宜懐は北京を亡命せり。万里長江の雲黒うして革党の飛躍電の如し。 |
【六 革命渦中の批評】 |
革命爆発に於て孫黄譚宋等悉く計画者に非らず。四川の動揺と長江各省の爆発すべき気運動く。爆弾破裂より起れる武昌の挙兵。日本人だに革命に関係なき論証。その証明として上海奪取の実見談。日本人の倫理的共鳴を以て革命援助と誇る勿れ。東京公使館の占領に東京市民の無関係なりし如し。革命党自ら号令者たるべき規定。武昌に於て老譚が自ら指揮者たらざりしよりの根本的失策。宋の軍政府組織に隨わざりし黄興の失策。黄の敗走は明の暗きに出づ。宋の南京占拠方針。敵城出入中に於て実見せる彼らの興国的冒険的気魄。支那悲観論者は徳川時代の日本観を以て亡国を類推せる外人の如し。
不肖はここに外人の身を以て彼ら革命家の勳等を審判する者にあらず又要なき事なり。しかしながら動かすべからざる一事は、かくの如き思想系の分離と運動手段に於けるかかる截然たる袂別より推して、少くも孫逸仙君が一九一一年の革命に於ては全く局外者なりということなり。これ彼自身の承認するところにして後の史家も亦論証すべし。特に当時彼は米国の遠きに在りしが為に、支那浪人等の臣事的吹聴に聴く如く遙かに四百余州を指揮したりという超人的解釈は首肯し得べきものに非ず。革命とは国家の統一なく社会組織の崩壊せる国民に起るもの。未だ新国家新社会を成さざる前にかかる有機的統一と組織とを持てるものゝ存在して、西半球の果てより東半球の治乱を号令したりとは人類の頭脳を以ては思考すべからざる事なり。又故宋君が事に会する毎に不肖に繰り返へしたる如く、武漢挙兵の一週日前より日々老譚が武昌に行くべしと迫りしに係らず遷延機を失せしを終生の恨とすというとも、史家はこれによりて勳等を憐むものにあらず。將又老譚は宋君の決せざりしに焦心して自ら南京の病院を出で薬瓶を携えて遡江しつゝありし間に張蒋君らの決起せしを画策の齟齬と感じたるべきも、これ等しく天が夫の豪快なる老翁に戯れたるものにして勳らとは交渉なき事なり。勳功は天の認むるものあるべく等級は運命に決せらる。しかしながら要するに彼ら愛国党の一団が全国の輿論を粤川漢諸省の売国問題に指導し集中せしめて全国民に国家存亡の危機を指示すると共に、湘蜀動搖の機を捉えて括躍したる経世的大局眼と興国的気魄とは、不肖実に掌を鳴らして歎賞せざらんと欲するも能わざるなり。彼の剣に杖いて来れるの徒に至りてはもとよりこの微妙なる爆発期に交渉あるものにあらず。
四川の諸友は常に語りて曰く、革命は蜀人に始まり蜀人に終ると。これ四川の騒擾を以て革命の始を為し清朝の柱石良弼を北京に爆殺して皇帝退位の終をなせしもの亦実に四川省の出なりし誇りを意味するものなり。不肖は身親しく革命の渦流に漂うに及んで維新革命を説明せる板垣老伯の言が同時に支那の革命を解釈しつゝありしを切実に心解したり。革命は戦争に非ず大勢の決定なり。誠に蜀人の誇りとする如く四川の乱を以て革命の幕は切り落され、長江の舞台は将に俳優の登場を待てり。陜西に発すべきか、湖南に起つべきか、安徽江蘇に乱るべきか、将た四川その地より兵を挙ぐるに至るペきかは只時日の問題にしてもとより敢て武漢を必せざりしなり。これ当時不肖の親しく各省諸友の語るところに聴き且つ前述の思想的覚醒と彼らの運動とに察して明かに推想したるところなり。而して事実は雄弁に立証して諸省の挙兵自立する前後通じて僅々月余の日子を要せざりしなり。如何ぞ軽侮を事とする皮相観が見る如く単なる雷同によりて然るを得べく、又臣事的吹聴者の云う如く一夢想家の太平洋の彼岸より発したる命令によってかくの如くなるを得べき理あらんや。これ気運の至れるのみ。
しかも機の熟否を知らざる劇中の人は尚漢口ロシア租界の支部に於て爆弾の密造に熱中したりき。天は機の熟せるを示さんが為に密造者の手よりそれを奪いて床上に投じたり。轟然たる爆声。孫武劉公楊玉如の諸君は大事洩るとなして脱兎の如く逃れたり。逃れたる背後より捕縛の手は来り、結社員の名簿を押收せられたり。かかる時、簿册を置き忘れたる彼らの狼狽を責むるに酷なるべからず。これ亦天の意あって奪えるなからんや。故宋君が武昌に赴かざりしを終生の恨事とすとも天意計るべからず。彼張人傑張斗樞三君の商売を装いしという『賓慶公司』の隔壁より爆発せるこの変事に於て、彼が如き不運の星の下に産れたる児は或は逃るゝの機を得ずして無名の首を梟木に曝したるも知るべからず。老譚地を蹶って計策の齟齬を叱咤する事なかれ。天意爾を壽からしめて亡命の異域に憤死せしむるにあり。 かかる一瞬時、実に興亡の転機を視る。溌剌たる興国の気は磅[石薄]して已に革命的年の心胸にあり。軽侮観者が見聞する亡国階級の支那人なりしならば、押収されたる名簿中の人、故張振武蒋翊武君らは当時漢口に在りしが故に直ちに逃亡して身の全たきを選ぶべきにあらずや。一曹長に過ぎざりし彼らが気運を察し大局を算して然かりしかの如きはもとより想像を入るべき動機にあらず。彼らは孫武等の急を告ぐるに会すると共に如何にして名簿中の諸友を救うべきかのみを協れり。興国の気は年の冒険のみ。彼らは孫楊劉諸君とともに即夜江を渡りて武昌の軍営に帰り。簿册が黎元洪の前に運ばるゝより前きに、彼らは黎を逃る能わざるべく擁捕したり。逃れたる瑞總督のなき武昌城は冒険家の支配に落ちたり。彼らは黎の温良厚順なる好々翁なると兵卒の親愛を受くるとにより、彼を推挽して諮議局に赴き擁立して以て革命を宣せんとしたり。可憐なる『大義の首唱者』は服を易えて逃れ、寝床の下に僭慝したり。擾々たる兵乱の城中かくの如くにして陸軍中学生数十名に監視さるゝもの三日。翌老譚城に入り水軍の向背亦定まるを報ずる者あるに至りて漸く弁髪を薙ぎ張彪に戦を開きたる者なりとす。あゝ諸公。かくの如き黎元洪と、三日を後れたる譚人鳳と、上海に沈思せし宋君と、香港と灰心せる黄興と、而してワシントン伝を耽読しつゝありし孫逸仙君と。日人遊侠子は各そのの親しむ所によって功罪を妄論するも、武漢の発たるや実に天の為せる所。
従って不肖は只革命の思想的系統と革命的運動系の大綱を把握して支那全局の大勢を概観し得ば足れりとするものなり。而して日本人に交遊ある以上の諸氏凡てが機に後れたりというこの正直なる事実は、不肖を始めとして、いわゆる支那浪人なるものゝ全部が微少なる援助だになかりし事を証明するもの。日本政府が列強より隣国動乱の煽動者なりと猜推さるゝの寃罪を拂拭するものなり。而して又同時に支那の革命は東洋のフランスが自ら成せる革命にして外援に惠與せられたる米国独立軍に非ざることの論証たるもの。彼の痴鈍なる団集が市井に誇らんが為に大に参画せるかの如き虚構を流布するは一個重大なる国際的罪悪に非ずして何ぞや。彼らは只亡命時代に於て内田、宮崎諸君が日本官憲の暴圧より庇護せし温情侠義に対して忘恩民族ならざるのみ。
武昌の起義に支那浪人らの全部が何らの援助なかりしと同樣に、日本及び日本人がその他各省凡ての革命に些少の援助だになかりし事実は上海の決起に於ける不肖自身が証明の材料たるべし。当時『中部同盟会』の評議員たり上海の支部長たりし陳其美君は長躯に弁髪を垂搖して紫紺の胡服せる好個の縉紳の如くなりき。彼と不肖との話題は只数百挺の拳銃にありき。しかしながら日本人として些少の援助を與えんとしてしかも能わざりし所以は、上海の何處の兵器商館と雖もその地に武器弾薬を貯藏する事を許されずして各種の見本を持てるのみなりしことなり。彼らが突撃に用いたる数発の爆弾は(日本浪人の密輸入せるものなりという如きは悉く虚言にして)実に革命党自身の軍隊運動によりて腐敗せる機器局の吏僚に賂して得たる火薬を以て製造したるものなりしなり。
来訪せる某少佐と語りつゝ時針の行くを眺め居たる不肖は、彼らが已に機器局に到着したる頃なるを見計いて今上海が戦わるべきを告げ最善の援助を求めたりき。少佐は驚愕し且つ快呼して帰り武官室の受話器を耳にしたり。大勢の已に決したるところ上海の夕は『排満興漢』の白旆を飜えし江南停車場の護卒は革命の記号たる白布を左腕に卷けり。民立報館及び秘密機関部の諸友は家を空うして赴けるが為に事の成否を報ずるものなかりしと雖も、不肖は武官室の電話より祝賀を受けて目的の遂成に安んじたり。而して諸友の生死を氣づかえる不肖は、祝賀と反対に失敗を報ぜんとして逃れ来れる黄興の息一歐君の血に汚れたる手を握りて愕然たりき。 −四囲に注意を配りつゝ帽子目深かに歴階して室に入れる彼は、一に武器なきを訴え弾丸を購う能わざるが故に同志の持てる拳銃が始めより空砲なることを歎きたり。出発前それ等の豊富を告げたる前言に照して訝かれる不肖は、機器局の敵中に内応あるべきを以て庫中に豊富なりという彼の答に驚きたり。何らかの援助を要めんとして武官室に走れる不肖は、少佐が更に該方面に照会せる勝利の確報によりて、彼が年少なるの故に或は敵影に驚きて奔逃せしならずやとの一般的支那人観に迷わされざるを得ざりき。深更の寂寞を驅れる不肖は支部に眠れる彼を醒まして別隊に分れたる陳君の占領ならざるかを詰り乃父の名誉の為に杞憂したり。彼は今陳君らの捕われて敵手に在るを語り、語りつゝ耳を聳てゝ馬蹄の戞々を聞けりぐ月白き街道を再び少佐の門に驅れる不肖は非常識にも警備艦の拳銃を借らんことを訴え、同情に溢れたる少佐は事の不可能を説き只拱手歎息したり。 焦悶眠らず曉に至って武官室の電話は前報の確実にして今松江の騎兵によって守らるゝ事を報じ、再び前夜の杞憂に迷える不肖は譚人鳳の息盍材君の都督府に迎えんとして来れるに会し車中始めて一切を諒知したり。実に天長節の夜会、領事と道台とが日清の親交を交換せる間に於ける革党諸君の上海襲撃は一たび失敗して部長等は城中に捕縛せられ、松江の騎兵の来り援くるに及びて再挙して進み陳君等を救い出せる者。古今凡ての革命が軍隊運動による歴史的通則を眼前に立証せられたるものなりとす。而して同時にこの立証は、当時未だ浪人団の渡来なく彼らの間に唯一人の日本人なりし不肖と日本政府の一員たる某少佐とが、心如何に援助せんとするも能わざりし活ける事実を論拠として、日本及び日本人が支那の革命と没交渉なりしを論断せしむるものなり。不肖と某少佐とが支那浪人より価値なき人物なりと言わゞそれまでなり。しかも無き物品は如何なる同情を以てするも寒中に筍を掘るべからざるが如し。出先の援助よりも輿論と伊集院公使との中間に迷いて本国政府は只々当惑せるのみなりしにあらずや。徒に同情と援助とを混同して独立独行の隣邦国士を詬辱する勿れ。 しかしながら、他の極端に走りて不肖は全然日本人の革命に交渉せる価値を認めずというにあらず。かかる或る種の物質的助力は事変の突発せると、親交国政府に対する国内の反逆なりしとの故に能わざりしというのみ。則ち日本人は民国より多大の報恩さるべき勳功ありしかの如く自任して、野蛮なる罵詈を民族性の上に加えて亡恩呼ばわりを為すことの実に国際的罪悪なりという反省を求むるのみ。日本人の誠心より出でたる同情と日本の全国挙りての声援とが彼ら革命党に與えたる心的影響の量るべからざるものありしことを無視するにあらず。これ邪を憎み正を悦ぶ正義的本能自身が懼喜する同情なると、勝敗が決勝点に入る刹那に起る観客の本能的喝采なればなり。校庭に戯むるゝ選手すら同情と声援に影響せらるゝを見ば、鮮血を踏んで国家の存亡を争う彼らが隣人の倫理的共鳴に鼓動せられ、険を奪って進む毎に起る隣国の喝采に奮躍したることの大なるべきはもとより論なきことなり。
しかしながらこれ単に日本人が倫理的動物なりというだけのことにして、他の在支列強国民が非倫理的野獣なりという意味にあらず。実に彼ら英米獨佛人の悉くは滑稽にも彼ら四国が壟断せんとせし鉄道そのものより起りたる革命なる事を打ち忘れて、その正義的本能より同情し本能的喝采を挙げて声援したり。これ不肖の親しく上海決勝の日に実見して或は日本人の上に出でしやも知るべからずと考うるものなり。則ち何らの援助なかりし点に於て日本人は諸外人に優るものに非ざると共に、等しく人間たる本能より発せる同情声援に於て諸外人は決して日本人に劣りたるに非ざるなり。只彼らのそれは紅顔颯爽たる一歐君を囲みて婚約の媒酌を申込める等の愛嬌あるに反し、日本人は声援の埒を躍り出して切齒し扼腕し怒罵争闘し終に彼らの優勝旗に泥土を塗らずんば止まず。日本人の伝習的論法に従いてかかる無礼沒分曉をその国民性なりと断ずる者あらば如何する。特に況んや独力亡運を廻らさんとする踏屍浴血の国士を誣妄して、己等の庇護援助の下に然りしかの如き虚偽を流説するの唾棄すべき罪悪なるを。不肖は実に憂う、日本将来の人道的国辱は南洋に密輸さるゝ売春婦に非ずして対支貿易表にのみ見るかかる操守なき男性の輸出品ならざるかを。 あゝ諸公。日本人の支那革命に対して受くべき光栄は当面の物質的助力又は妓樓に置き酒して功を争う者の個人的交遊に非ず。実に日本の興隆と思想とが與えたる国家民族主義に存するなり。而して不肖は亦これを上海に於ける活ける実見を以て論証せんと欲す。則ち不肖がその秘密機関部に於て出入往来するものを見るに殆ど全部日本留学生にして、その機器局襲撃の勢揃いに集れる凡ての服が悉く詰襟金釦なりしことなり。武漢の突発を聞きて各自の各省に赴かんとして落ち合い、先づここに通路の関門を打破したる彼らは、咋日まで神田の下宿屋に在り士官学校の寄宿生たりし無届欠席の学生のみなりしことなり。留学生服が革命服と呼称せられたる事なり。否。上海に実見せる不肖の論証を待たずとも東京に於て日本人の悉くが目睹耳聞したる筈にあらずや。則ち陳猶龍君が出発前の留学生を率ゐて清国公使館を占領したることこれなり。 公使は謂うまでもなく大清皇帝の遣外代理なり。陳君は唐才常と共に叛して自ら鄭州王と称せしほどの泰西的臭気だになき時代後れの国粹党なり。留学生の全部は民主共和の学校に入らずして国家民族主義のみをヘ育されし者なり。この一断が大清皇帝の代表的官舎を占取せりといふ眼前の事実は、支那革命が日本的思想家の事業にして革命の根本要求が日本と同樣なる国家民族主義なることを、日本人の諒解を請わんとして日本の首都に於て演じたるに似たらずや。繰り返して云う。武漢の挙兵に於て上海関門の占領に於て日本及び日本人が些の援助なかりしことは、東京公使館の奪取に於て市民が何の力添えを為さゞりし事実の証拠の如く明白なりと。不肖は何が故に日本人が估らざるの恩を誣いて忘恩民族呼ばりをなし、却って四億万民に愛国的覚醒を導けるこの嚇々たるヘ鞭を揮って誇らざるかを怪しまずんばあらず。 上海の占領は覚えず不肖が陳君の長頸を叩いて危うかりし首かなと哄笑せし程に実に危機一髪の勝敗なりき。従って革命と戦争とを混同する者に取りては他力の推挽によりて都督たりしのみと解釈すべし。しかしながら彼は江南新興の気を代表して己が破りし軍隊も己を救いしそれをも手足の如く統御し九鼎の威を以て彼の大都に号令したり。武昌に至ては然らず。一個の俘虜を都督として全国の耳目を欺ける第一歩の発足点の不幸は、呪の如く革命運動の展開に附き纒いたりき。十日後に独立せる湖南に於ける如き、則ち故蕉達峯君が三百の新軍を率ゐて巡防隊統領を斬り諮議局の承認を経て長沙に都督たる間もなく譚延[門+豈]に屠られし如き都督の交迭は望ましからざりしは論なし。
しかも革命党が常に準備規定せし所に従いて一省の首長として権力の主体が党員自身たるべき事、陳君の上海に都督たるが如くならざるペからざりき。何となれば何らの節度なく統一なき革命中に於て、恐惶し動搖し惑乱するのみなる群衆心理を統制すべき中枢として新精神の体現者を欠くことは則ち全軍全省に與うる決意を欠く事なればなり。黎は一俘虜に非ずや。俘虜の恐怖と因循とを動乱の群衆に暴露してしかも全省を新精神に節度し全軍を必勝的決意に統一せんと考えし革党の愚や実に計るべからず。老譚が三日を後れしを遺憾なりとするはこの故なるべきも、彼の入城せし時は黎の尚決意せざりし時なり。假令張蒋孫劉等が黎を推すの便を主張せしとも、彼にして断乎規定の勵行を訓示せば黎は一個の降将として犬馬の労役に服すべかりしなり。勿論両湖の南北的感情の顧慮を要すべきこと維新前の藩的それの無視すべからざる如き事情もありしなるべし。しかも十数日後に湖南に挙げし故蕉達峯故楊任謝介僧曾傑の諸君が悉く彼の統制に属したる如く、諸君と常に謀を共に與にして只死地に陥れるが為に湖北に先んじたる孫劉楊の諸君亦等しく彼の盟主の下に血盟せしものに非ずや。中部同盟会の頭首たりし当然の責任として、黎が軍を率ゐて彼を推戴するの形を踏んで親ら群衆心理の神経中枢として立ち、国民の前に新精神の体現となり全軍の上に必勝的決意を與えざるべからざりしなり。
三日は後れたるにあらず。彼の禅譲的旧道徳が彼にかかる大失策を為さしめて革命の発足に禍せるに非ざるなきか。故宋君は他の語を以てこの批判を不肖に立証したる事あり。彼が袁大總統の下に一農林總長を忍びて北上せんとし不肖の苦諌して終に書生交遊の常たる怒罵の交換に至るや、彼は焦悶に堪えざる如くその倚れる椅子を叩いて曰く。この椅子なり。老譚の迫れる武昌行を熟圖してかくの如くこの椅子に倚れる間に革命は起れり。余の北上はこれより革命を始めんが為にして今日までの革命は余に取りて始めより失敗の革命なり。彼の黎輩すら今は則ち副大統領たるに非らずやと。当時尚譚を擁し黄を籍らざるを得ざりしほどの年少なる彼に於てすら、武漢に在りしならば敢て大總統に当らんの慨を洩らす事かくの如し。況んや白髯の盟主実に三日にして倒れるをや。しかるに何事ぞ俘虜を擧げて全軍を指揮せしむ。 その軍が因循の氣を受けて忽ち漢口を奪還せられ、死守健鬪せるもの金釦革命服の書生のみなりとは想見すべきにあらずや。その軍を借りて戦える黄君は怯者にあらず、又略を誤れるにあらず。革党団の先鋒が苦戦に陥るや全軍悉く先を争い江を渡りて逃れたる者、漢陽の敗亦逆睹すべかりしにあらずや。否、その敗るゝと共に黎が武昌を棄てゝ蔡甸に走るや、直ちに城に入りて驚卒を鎭し民心を撫し『北面招討使』を兼ねて『武昌防御使』たりしもの実に彼老譚その人なりしを見よ。逃亡俘虜の発見引致と共に再び禅譲的旧道徳を頑守せる彼の愚や終に及ぶべからず。実に江を挾で戦える革命発祥地の一勝一敗は天下人心の向背を決せしむるもの。春秋の筆法を学ばずと雖も、漢口に敗れ漢陽を失える敗責の第一人者は黎にあらず黄にあらず誠に譚人鳳その人なりと云うべし。 老譚の愚の及ぶべからざる如く黄君の痴も亦測る能わざるものありき。黄宋相携えて武昌に入るや宋君は直ちに臨時軍政府を組織するの必要を力説したりというに係らず、黄君は一戦に功を建てゝ後にすべしとて首肯せざりき。彼は革命家その人が革命を理解せざる古今の通則によりて、革命と戦争とを混同せること彼の周囲に於ける浪人団と異ならざるものなり。軍政府の組織は已に、且つ常に、革命党に明文として書かれたるものを有し、只人民の承認の形式を経て発表せば足るものなりき。政府を建てゝ軍民の依る所を示せば黎はその一軍官として命令を奉ずべきこと当然にして、新政府の名に於て革命党の新精神と決意を以て全省全軍を統治し振起せしむるを得べきにあらずや。
譚と等しき因習的旧道徳は黄をしてこの見易き道に出でず、却って反対に黎の一稗將として節刀を授けらるるの古式を踏み、以て漢陽の戦線に立つの顛倒事を為さしめたりき。革命党はその秘密時代に於て党員自身が都督たり軍師たるべきは確定せられたる規定にして、須らく故蕉君が長沙を奪うと共に自ら都督となり、陳君が己を救いし騎兵の万歳声裡に指揮刀を挙げたる如くなるべし。堂々たる黄興の器を以て一俘虜の下に稗将たる如きは革命の本義に対する無理解者なり。革命が日本的思想の覚醒にして日本留学生が出洋の指導的新知識として中堅たりしことを一考せよ。それら全部の輿論を負いし彼が自ら起ちて革命的理想の体現者となり、中央臨時軍政府の名に於て黎輩に号令するに何の憚る所ぞ。維新革命の時、大阪滯陣の徳川將軍と京都の薩長連合軍との対峙を危機なりと視て、坂本龍馬が太政大臣に親王を奉じ左右大臣に三條公と慶喜を以てすべしとの意見書を書けることあり。 これ彼が土佐の人にして伏見鳥羽の革命戦争が明日なりし事を知らざるの故に弁護さるべし。黄は武漢の伏見戰爭が勝てる後に来れるものに非ずや。湖北人より見れば土佐の局外者たるべきも、湖北の都督たらんとするにあらずして全支那の中央政府に首脳たることにあらずや。特に彼の多く大局的見解を與へつゝ来りし宋君が、溯江の船中に於て、城中の会議に於て、秘密時代の革命遂行計画を現実にすべきを固守力説したるにあらずや。然るを終にかくの如くなりしこと譚の責と共に彼の革命に対する罪責の許すべからざるを覚えずんばあらず。事後の批評を為す歴史家が独り聡明なる如く、不肖は漢陽敗走の事後に至るまで武昌に於ける宋君の何が故に憂惧し沈思しつゝあるかの所以を発見せざりき。 乃公援助参画の大功ありと誇示する日本人の一人たる不肖は呑氣千万にも対岸の殷々たる砲声を悦び、菅野君が浪人団の一隊を率ゐて戦列に加われることを聞き、あたかもガリバルヂーが銃を負いて佛人の急に赴ける如しなどと恥づべき詩的感懐を恣にしたりき。かくの如き無責任なる外人が尨大なる亡国を両肩に負える責任者の苦心の何程の援助を加え得べきものぞ。不肖は幽明相通ぜざる今日、卓上に頭を抱いて黄の能く漢口を囘複し得たる場合と、永く対峙して戦局の進展なき場合とを考較沈思しつゝありし故友の風格を想起する毎に、古今国士の痛心に涙なき能わざるものなり。故宋君は自ら知れる如く覇才なりしと雖もその長所は巨眼一閃大局を打算することに在りき。黄君は熱情雅量に優りてしかもこの一事を欠如せる者。彼が宋に聽かずして事を誤れること屈指に暇あらず。 世人は黄興の漢陽に破れて上海にまで逃れたるを視て支那民族の怯かくの如しと断ず。しかも彼の敗は常に勇の足らざるに非ずして一に明の暗きに出づ。その上海に逃れたるに至りては亦実に不明の為に日本浪人団の樽神輿となりて、歌舞弦琴の巷に担がれ来りしに過ぎず。宋君は覇者として常に革命の遂行に力を考えたりき。彼は老譚の国粋的系統の上に有する力と、黄君の日本的思想系に有するそれとを以て覇才の発揚に努めたりき。譚の乾坤を一抛するの斗胆に聴かざりしことの屡々なりしは彼の為に不肖の惜むところ。しかも彼に聴かざりし黄君の幾多の失は彼の憤懣を洩らすを聞く毎に不肖の黄君の為に遺憾とせしところなり。譚の人物が或は垓下の一敗に自刎せし楚項の運命を逐うべきや否やは不肖の保せざるところなり。しかも黄君は生死よしんば前後するも趙声の如く彼に哭せらるべき王器に非ざることは不肖の確信せんと欲するところなり。
冷頭なる宋君と雖も神ならぬ身のもとより対岸の黄君が漢陽に破るべしとまでは考量中に加算せざりき。彼は武昌都督府の玻璃窓に震う弾丸の夜の抱寝に於て不肖に物語りて曰く。ここに来りしは例の如く黄興が余に聴かざりしが故なり。ここには已に老譚あり。重複して二人の来る要なし。我南京の新軍を率ゐて江南諸省を奪い以て天下に制令せんと策す。黄聴かずしてここに余を拉し終に黎の配下に我党を措くに至る。昨南京代表者の来り迎うるあり、余下江して彼處に拠らんと欲す。黄の成敗に係らず南京を得ば漢口の回復も亦容易なりと。
彼は翌直ちに一書を認めて漢陽の陣に在る黄君にこの旨を報じ、不肖亦好便に託して息一歐君の上海に於ける丈夫児的行動の乃父を辱めざりし事を告げ、且つ江を渡りて相見ゆる能わざる遺憾を敍せり。驟雨大江に暗かりし日、両軍の砲弾交々落下して挙ぐる水烟の中を漕ぎし彼の一行は辛うじて将に解纜せんとする大利丸の客となれり。しかも一たび捉えざりし機会は再び掴む能わず。南京は黄と彼とが武昌に溯らざりし以前の南京に非ざりき。革党の用いんとせし新軍は携帶せし弾丸を奪われて城外に逐われ、闘士滿々たる張勳の城門を閉ぢて堅守せる南京なりき。願くはここに当時の一実見談を挿ましめよ。実見者は微少なる不肖に過ぎずと雖も、諸公の活限或は之によりて彼らの革命運動が如何に冒険的犠牲なるかを察し、彼らの意気精神が実に国運を旋転して国を興すに足るを解得せらるべきか。 実に行く行く聞けるに違わず埠頭に着きて眺めたる南京は全く黄龍旗の領域なりき。見渡す限りの山丘、蜿蜒たる城壁は遺憾なく戦闘を準備し、城民の老幼を携え家財を負荷して逃るゝ騒擾は世に比すべきものあらざりき。一行は船室に鳩首して一昨夜より咋夜に亙りて行われたりという革党嫌疑者大虐殺の結果如何を考え、城に入りて事を成すの緒の絶えたるに当惑したり。連絡せる新軍の城外に追われたるを知りて、派遣されたる南京の代表者倪鐵僧君は已に機会の去れるに落胆したり。宋君亦もとより策の立つべきなく、不肖は只一行の面色を注視したりき。武昌に於て然りし如く革命は只不可能の暗中に飛躍する冒険のみ。倪君は曰く生殘りたる者のあらば事を挙ぐるに足ると。微笑を含みつゝ不肖の手を握りて、いざ共に入らん、城に入りて見ば亦何等かの途を見出すべしと云へる故宋の断乎たる一語は、史家之を後世に敍するに当りて千万人と雖も我行かんの慨を以てせし維新革命党諸氏の意気に劣れりと見ざるべし。
一行は遙かに騒乱の群衆を分けて我般に馳け来れる二台の馬車を発見したり。宋君等二三氏及び一名の從卒を城外の日本旅館に陰くして、便乗を得たる倪君と不肖とは城門に向えり。日清戦争の絵草紙に見し怪異なる山東兵は、前に避難の為に去れる美人等に代わって今城門を入らんとする車上の有髯子を怪しみ、龍刀を鼻頭に擬して誰何しつゝしかも南京勃発の点火を見出さんとする驚くべき潜入者を捉えざりき。事の巧みに運ばるゝに得意なりし一実見者は軍中より出でて追い来れる一兵の車台に昇れる靴音に驚悸したり。彼は一行の保護者たる責任感より生ずる恐怖に加えて、更に船室に於て宋君が吾今日生死を計らず外人の君に安全を託すといえる各省同志の居所名簿及び暗号電報等を胴卷に潜めたる恐怖を持てり。而して漸く心臓の鼓動の鎭まると共に仰ぎ見るを得し怯懦なる彼は、車台に立てる兵が黄旗を掲げ大虐殺後の街道を保護して日本領事館に送るものなるを知り再び微笑揚々たる前きの実見者に豹変したり。しかも失える機会は終に握るべからず。南京同志の機関部は覆され散髪せる年は只辮子を垂れざることによりて殺され、一千の学生を虐殺したる後の都城は外人と雖も暮夜一歩外出する能わざる腥風満目の戎嚴なりき。領事館の樓上樓下は婦女老幼を上海に避難せしめて引上げたる強壮居留民を以て充満し、殆ど義勇軍の軍営に等しかりき。領事館の一室はもとより陰謀の巣窟として借さるべきに非ず。倪君は殆ど手の着くべき一端緒だに見出さずして已に得べかりし南京城の空しく敵手に委せらるゝに切齒したり。 不肖は某大佐らに就きて我軍が已にここを遠からざる地点に進撃し来れるを知り、翌直に城を出でて下江せん事を勧めたり。何たる悲牡なる眺めなりしぞ。樓上より見渡せる歴史多き金峻の山河は雨に烟ぶりて清朝三百年の亡び行くを咽ぶ者の如く、古今の興亡一夢の如しといえる古人の涙は今一実見者の双頬に滂沱として流れたり。昔者ローマの将軍シピオ、カルセージ城に挙がる火を眺めて、誰か百年の後我ローマの亦この如くならざるを知らんやと言えり。興の道を踏んで興あり亡の跡を追いて亡あり。日本亦焉んぞカルセージの火に泣き金峻の雨に咽ばしむる日の来るなきを保するものぞ。 不肖はこの飛雨蕭々たる靜朝の感慨を認めて、諸友中最も熾烈なる大ローマ主義者内田君に送り以て憂国の情を訴えざるを得ざりしなり。あゝ諸公。日本何ぞ独り史上永遠の覇ならむ。国運の盛なるに驕りて隣邦の存亡亦実に爾が五十年前の危機なりし事を忘却して、慢態驕恣戒むるところを知らず、殆ど亡清の跡を追うが如くなるは何ぞや。彼らが外国の国旗に身を潜めたるが故に屠られざりしことは事実なり。しかも南京には外国粗界地なきが為に、不肖等が宋君等に会して旅館を去れる後より拔剣銃鎗の蛮兵が躍り込みしということも亦事実なり。領事館の馬革を再びして正門を開かしむる能わず、兢々たる不肖に伴われて鉄道門の番卒に囲燒されたる時、倪君の面色土の如くなりしことは、同行の一日本人と共に卑怯なりとすべし。 しかも二日に亙りて同志虐殺のありしその翌日生殘者を尋ねて事を挙ぐべしとせる彼に興国の兆を見る能わずというか。実に一日本語を知らざる日本官吏となり済ませる倪君の風姿が注意されざりしよりも。不肖が宋の従卒の兵服に替えんが為に一居留民氏より惠まれたる古洋服の重ね衣したる異装が怪訝されざりしよりも。番卒等が不肖の分與せる仁丹に集りて面色を窺わざる滑稽なる幸運に失笑せしよりも。篠つく雨に変じたる中を走りて、生死を憂い合いし故友を見るや同時に生きて居たかと相抱きし時の懼喜の忘るべからざるものよりも。漸く安全なる外国船の甲板に上りて一声の汽笛と共に万軍の都城を飜弄せしかの如き微笑の湧起を味いしよりも。遠ざかり行く城樓を望みて遺憾多き面貌を河風に吹かせつゝある一行の胸中に同情せしよりも。靜江の騎兵に警蹕せられて柏文蔚君の軍営に一泊せし安堵の思よりも。 −不肖は世に不可能事の存するを知らざるかの如き彼ら革命的年の猪勇を親しく実見して、一縷興国の希望をこの気魄に繋ぎ得べき満足を禁ぜざりしなり。これ土下座的百姓と奴隷武士の幕末より大日本帝国を誕生せしめたる維新革命党のそれと全く同一なる興国的気魄に非ざるなきか。一米国的夢想家の外援政策より招ける軽侮は自立独行せんとする革命支那の負うべき責任に非ず。将た又粛親王の日本併合の招致は亡国階級の常套語にしてフランスの亡命貴族は已に之を實にしたり。革命後の明治日本を亡国的封建時代を以て解すペしとする外国人あらば笑うべきにあらずや。一九一一年以後の支那はこの興国魂の或は顕現し或は潜伏する過渡期として察すべし。断じて亡国的清朝時代の先入見に基きて演繹すべきものにあらざるなり。日本と同じき種族が日本と同じき思想に覚醒せられたるならば後年の事亦日本と同じかるべきこと何の疑を容るべけんや。不肖は敢てこの南京に於ける一実見を提げて支那悲観論者の面前に立たんと欲す。 |
【七 南京政府設立の眞相 】 |
封建的奴隷心を脱せざる現代曰本人。支那浪人の神輿となれる黄興の禍因。最後の南京占領も亦日本人に一の負うところなし。故宋の大局的眼光と一貫の行動。中央政府設立に於ける彼の苦心。章太炎の黄興否認の宣言。大元帥の暗示より生ぜる形勢の逆転。孫の帰来と浪人団の擁立。張繼の孫宋調和。寸功なくて大總統を辞せざりし孫の心理は如何。孫の歴史的勳功は建国の際に於て共和政を宣布せる一事にあり。革命期に於て一般国民が新政体を理解せざる日本フランスの前例。ルソーの無理解。『中華民国臨時政府組織大綱』は全然欧米の翻訳より独立したる東洋的共和政なり。孫と握手せる宋が憲法に於てまで讓歩せる大失策。中央政府設立者はその設立と同時に排陥せらる。
劣弱者を侮蔑するの心は則ち優強者に拜跪する奴隷の心なり。米人に凌辱されて一挙を加えざる卑屈は支那の覚醒を侮懐し成敗によりて国士を笑罵する尊大なり。ロンドン外務省のエゼントとなり東洋のインド巡査を拜命する盲従は一個独立国の威信を無視して最後通牒に指導権の要請を加えんとしたる倨傲なり。日本の朝野が未だこの封建的奴隷心を脱却せざる今日、不肖は敢て独り浪人団の言動を責むる者に非ず。彼らが北支那に於て、亡国階級との交渉に於て、賤民の駆使に於て、恣にし来れる尊大倨傲が、漢陽の敗将たる一黄興の前に卑屈盲従を極めたる臣事的拝跪に一変したるは奴隷心の表が裏を示したる尋常事なり。しかも不肖の如き新日本の空気に育成せられたる純正的日本人としては面を蔽いて視るに忍びざるところのものなりき。臣従は侫偸を要し讒言を要し排陥を要す。
不肖ならずと雖も多少の侠骨を有するもの、よしんば久濶を敍するの礼を欠くもこれらの間を通過して敗将の兵を談ずるを聞くに堪えんや。彼が漢陽を失いしは兵家の常たる勝敗にしてよしんば局面を重大に逆転せしめしにせよ、この故を以て彼を評価せんとするものに非ず。しかしながらその敗報と共に上海に於ける首脳らの連名を以て彼に武昌に止まるべきを電告したるに係らず、已に陳あり宋ありて敢えて彼を要せざりしこの地に来れるは何ぞ。誹る者はその怯を云う。断じて然らず。弁ずる者は武昌の兵、城に入るを拒みしという。否。黄君の対岸に破るゝを見ると共に黎は已に蔡甸に走り城中只混乱を極めたる者。拒むべき命令者なかりしはもとより、一将の入りて中心たるを待望したるべき筈。事実亦厳に立証して、当時漢口の租界に在りし老譚は直に江を渡りて入城し、黎無き後の軍民に制令して『武昌防禦使』たりしに非ずや。 只臣従的浪人団の神輿となれるが為に、ここに至れる彼の不明は重大なる敗軍の汚名と共に一敗千里を走る怯者の寃を天下に流布し、後の中央政府設立に於ける根本的禍因たりしとは何たる遺憾ぞや。漢陽の敗は黄に責なく上海の来走は多く日人に罪あり。断じて怯者に非ざる彼は一敗挫折したるに非ず。軍資軍器公の欲するまゝなりという支那浪人等の甘語を聞き、それなきが故に黎の軍を借り黎の軍に誤られたる彼は、自らの渇望に欺かれて遠く求むるところありて来りしに過ぎず。何ぞ千里を走る黄興の為人ならんや。不肖は当時実にかかる甘言侫を一時に糊塗する援助者なるものに禍さるゝ黄君の不明に対して罵倒を伝語せざるを得ざりき。あゝ政府は傲然として指導権を強要し浪人なるものは懼然として臣従に甘んじ、而して朝野交々対支政策の可否に鬩ぐ。隣国の猜疑と侮蔑と奴隷心の自ら招くところならざらんや。 軍事的素養も興味も有せざる不肖は南京が隣省連合軍の如何なる戦略戦況の下に陷落したるかは当時より知らず又知るの価値なき事なり。只一事の記憶せることあり。陷落後上海都督府の軍機科長として後方勤務の重大任務に当りし張群君が城門を破壊したる攻城砲につきて物語りて曰く。機器局に驚くべき古物ありき。左右に回転せず上下に動くのみの大砲とは貴国に学びし時かって見ざりしものなり。しかも軍器なきが故に輸送せしに幸いにも有效なりき。この古物の如きは革命の紀念として保存さるべきなりと。不肖は誠実大胆なる彼の将来に嘱望せしが故に殊更に答えて曰く。これ革命の紀念に非ずして亡国の残片なり。攻守共にかかる武器を有する程に国綱腐朽したるが故に革命書生の一撃に亡国せるに非ずや。もし攻むる者の国外よりせば如何すると。更に他の記憶せる一事あり。不肖の紹介によりて連合軍の隊中に加わりし二三侠骨君は陥落の進捗せざるに焦慮して上海に来りて曰く。彼輩に放任して南京を拔き得べきに非ず、願くば爆弾を與えよ決死の一隊必ず城門を破るべしと。軽侮的援助者がかくの如く乃公あらずんば勝敗決せずとなして燕飲流連せし間に陥落の報告は来れり。不肖の一喝を喫して醉眼呆開せし滑稽は支那革命に赴ける日本浪人に価値を類推すべきものに非ずや。
而して渡来囂々たりし日本人が殆ど全部かかる酒間の声援者なりという事実と、かかる古物によりて城門の破壊されたりという事実とは−日本商館の暴利を貪りたる廃銃廃砲が未だ横浜の税関をも通過せざりし頃なるが故に−実に武漢の起義に於て上海の関門に於て他の各省の凡てに於て然りし如く、最後の南京に於ても日本及び日本人は革命に対して何ら感謝さるべき恩を估らざる立証たるものに非ずや。之を要するに戦争としてはかかる古物の砲撃によって陷落せしほどに一顧の値なきものなり。しかも革命と戦争と判別して考うる者に取りては、南京の占領は漢陽の敗によりて将に逆転せんとせし天下の大勢を盛り返し、以て革命党の威信を繋ぎたる点に於て大局的意義を認むべし。前に黄君の漢陽に敗れ更に電告に従わずして下江するを聞くや、窓を隔てたる隣室に於て終夜黙考椅坐せし宋君は一睡して欠伸しつゝ入れる不肖に向いて曰く。足下碁を囲まず。 一石の投下を誤れば全局面の勝敗地を替うる者はそれなり。黄の敗走は誠に我党を死地に陥れたる者。余万考曉に至るもこの局面を回復するの途は只速に南京を得ることのみ。武昌の杞憂を終にここに視ると。かくの如く彼は漢陽の敗後天下の革党に対する向背一に繋りて南京の成敗にあるを洞察せる者。則ち徐固卿朱瑞及び故林述慶君等連軍諸将の交々都督を争うを調停して老廃程徳全を推し、身親ら民政長の名を以て全權委任を執り、以って革党の力を堅確に明の古都に樹立したり。不肖は死者を万能神視する東洋的慣習を醜くしとするものなりと雖も、彼が武昌都督府を出でし決意と、南京を出入せし冒険と、都督の実権を把握せる民政長官との間に不惑不屈の方針を視、その堂々たる大局的眼光に兄事したるものなり。 実に彼は黄君と共に江を溯りつゝ謀り、独り江を下りて企てたる中央臨時政府設立の地を占領せられたる南京に得たり。彼は十数日前将にその首を城門に梟さるべかりし都城に今実権都督として連合各軍の勢力を負いて臨めり。而して彼は各省の日本的思想系の全部に普く認識さるゝ黄興を以て中央政府の首脳となさんとしたり。武漢の挙義と共に月余ならずして各省競いて呼応したる所以は各省の彼等に同樣なる国家的意識民族的情操の覚醒せられて存するが故なりとは前説の如し。従ってその共通的心意を組織し統一する意識中枢としての中央政府に首脳たる者は同一なる意識情操に共鳴し共通的心意に普く認識されたる人物ならざるべからず。実に有形的組織立法的統一はこの心的共通の上に築かるべきもの。旧組織旧統一の除かれたる後を享けて新らしき中央政府を組織して各省を新らしく統一せんとするに当り、已に心的中心たる黄興を推さんと決意せるは亦正当なる計画なりと言わざるべからず。
彼は黄君が敗軍の逃將なることに苦心したり。而して急遽大總統の名を用いることの共和政の本義に於て各省の感想如何を考慮したり。不肖は日本人の頭脳を以て革命戦争中兵馬の大権を総覧せば可なるかの如く考え、『大元帥』の文字を勧め彼は交遊の好意に誤られて後の災禍を熟圖せざりしとは何事ぞ。敗将を大元帥となすの不合理は宋君の知らざりしに非ず。一に各省の統一の為に心的中心を要めたると、黄君をして今一度び兵馬の功を立てゝ敗辱をすゝがしめ己れ自ら総理として経世的確信を乱麻の間に施さんとしたるにありしが如し。彼は顯然たるこの不合理を遂行するに渾身の猪勇を揮いたり。彼は戦勝の誇を負いて御すべからざる連軍諸将を説伏して敗将の推戴を承認せしめたり。諸将は不満ながら歓迎の準備を整えて新頭領の入城を待てり。しかるに又何事ぞ、迎えらるべき黄君は来らずして逡巡し始めたりとは。支那のルソー章太炎は東京より帰り来りて先づ反対の声を挙げたり。
動乱の群衆はこの愚なるが如き大賢を渇仰して一宣言の出づる毎にその金玉の文字を拜跪したり。彼は先づ宋君の総理たるべきを天下に推薦したり。而して大總統は必ず黎元洪たるべく、黄輩の如きは一逃将須らく一戦の功を建てて罪を償うべしと宣言したり。彼の文字は今日袁世凱が登極の上諭を求めて得ざるが為に毒殺せしと伝えられし程に支那に有力なる者にして、何事も理解せざる群衆はこの堂々たる宣言に隨喜したり。革命の洶濤に渦き流るゝ不可解不可測なる群衆心理は逡巡せる黄君を視るに却って功なくして栄を窃むものとなし、波動の及ぶところ総理たるべしと推宣せられたる宋君を以て専制を企て野望を抱く者なるかの猜疑に雷同したり。しかも確信と猪勇に満てる彼は逡巡せる黄君と太炎の宣言と南京諸將軍との間に立ちて天稟の組織的手腕を揮いつゝ、大元帥黎元洪副元帥黄興の決定を断行し、副を以て正の実権を行使せしめんとしたり。彼はこの正副元帥の決定を以て正副大總統の別名となし、当時の天下亦之を以て中央政府設立の根柱を樹てたる者と信じたるは論なし。しかも神ならぬ身の俘虜と敗将を挙げて天下の耳目を欺くの終に破綻すべき弥縫なることに気付かざりき。年少三十歳に過ぎざりし彼は頭首を堵して得たる南京を以て天命革党に降るの確信に赤熱し、己れ大権を総覧せば手に唾して満清を蹴倒すべしの血気に逸りたり。 これ脚下の陥穽を知らずして七卿の都落ちを演じたる桂小五郎の若さにも比すべし。革命の洶濤は渦き流れ、群衆心理は猫眼の如く変じて朝に夕を知らず。弥縫は忽ち破綻したり。破綻の口を外人の要らざる差出口に求めて、群衆は已に大元帥のあらばその上に何人を奉ずべきかの問題を提起したり。−これ等しく日本人が援助なきのみならず革命に禍せる例証ならずや。日本に於て大元帥の音響が絶対至上権の感想を暗示するとは反対に、支那に於てはこの同一文字が古來元帥在於域外不奉天子之命の如くその上に何らか或る者の存在を暗示す。而して俘虜と敗将に不満なる群衆心理はこの暗示と欧州より帰来しつゝある孫逸仙とを結合せしめて考えたり。沸々洶々として渦きつゝありし大勢はここに断崖を見出して奔瀑の如く急転直下したり。 数十日前揚子江の水軍が未だ黄龍旗を飜えせる頃なりき。不肖は武昌に溯らんとして万里の平野と大江の上に照る満月に会したり。靜寂その響なるかの如きスクールの音を聴き深更の甲板に落つる我影を踏みつつ俯仰古今の感に堪えず、終に船窓一書を認て在京の一友に送れり。書に曰く。昔者革命兒ナ翁パリの危急を聞きその軍をエジプトの沙漠に棄てて単身帰京したり。孫公今にして尚帰らざるに何の愚ぞと。しかしながら武漢の勃発と共に米国に在りし孫逸仙の体躯は五彩の光輝を放ちたり。全世界は全く秘密の鉄函に封ぜられたる革命党の爆発を見てもとより解すべき道理もなく、一に彼とそれとを同視したり。ナ翁が敵艦の封鎖を破りて直行せし如くに、ナ翁よりも多く偉大ならざる彼は直路故国に到るの断を欠けり。しかしながら光の尾を引きて欧州の天に懸りし彼は兎に角英雄の如く上海の埠頭に立てり。彼の刎頸の友池亨吉君が語る如く広東の同志らが彼の行を憂いて長江に入らば旧同志に殺さるべしと諌止したるや否やは保せず又池君、滔天君らが各々その団集を代表して彼を香港に迎えたるを見て、ワシントンよりも更に善良なる彼は日本人によりて保護さるべしとの他力本願的米国宗に安堵したるや否やは亦詮議するの要なし。
英雄は限前に立てり。俘虜と敗将に不満なる群衆心理は大元帥の上に立つべき或る者の実にこの英雄なる事を視たり。世界の誤認によりて後光を負える彼は本国同志の決意より以前に、先づ日本浪人団数十百名の脚下に礼拝合掌する者を得たり。池君は太田海軍大佐、中村法学博士ら数十名のいわゆる振中義会を宰して彼の傍に侍従長の如く立てり。宮崎君は遊侠子数十百人の頭領として彼と黄興との間に昔年の連合策を計り、已に逡巡せる黄君をして愈々弥縫家の面目を発揮せしめたり。渡来せる浪人団と投機的商売の狂熱的声援に感激を極めたる革党諸氏は日本の後援已に孫君に存すとせば益々この英雄を擁立せざるべからずと速断したり。革命の渦中は一切の事理性の判断を許さず。 革命の群衆心理は日比谷原頭に見る以上のものにして、経世家も学者も解し得べきものに非ず只精神病医のみその心埋状態を診断し得べし。革命の心理はフランスに於て支那に於て婦人が街頭に革命を叫ぶ如く、全然ヒステリックにして馬を鹿と信じ鹿ならずと言はゞ殺さる。群衆は俘虜と敗将を拜することを拒めり。彼らはしかしながら偶像を要す。フランス革命に於て僧侶を廃し寺院を毀ちたる後に礼拝すべき何らの偶像なきに至るや、女優を担ぎ出し『正義の神なり』としてパリの市中を騒ぎ廻りき。同一なる群衆心理は倖いにもかって己等の指導者たり党首たりしものを担荷すべき偶像として得たり。かくの如くにして孫君は大勢に濤に乗じ以て大丈夫一世の栄位に立たんとす。 不肖は交友の情としてこの潮流の旋廻せる勢を眺めて宋君の為に憂えざるを得ざりき。彼の擁立によりて輿論の乱矢を蒙れる黄君は滔天の勸説によりて活路を発見したり。彼は直に偶像の勢力に吸込まれその壇下に立てる一使徒となれり。憐むべし偉大なる故友はその擁立せんとするものゝ変心によりて一切の計画を破壊せられ独り南京諸将軍の手に殘されたりき。時にパリに在りし張繼君は四年振りを以て旧友の間に帰来せり。彼はその脱線せる無政府主義を益々熾烈ならしめし事は遺憾なりしと共に、その私心なき超越的性格はかかる間に於ける調和者として恰当のものなりき。不肖は旧友懼会の情を淺酌に酌みつゝ排孫の第一先声を挙げし彼自身の口より大總統の必ず孫逸仙ならざるべからざるを主張するを聞き、かって革党分裂の責任者の如く視られし不肖自身の反省を要すと考えたり。
而して各省の心的中心を要むるの根本点に於て敗将を頑守するよりも未だ何らの傷損なき往年の党首を以てするは正道なるべく、滔天の取るところは誠に大局を收拾する所以ならずやと省慮せざるを得ざりき。不肖は即夜直に南京に向い宋君に説くにこの事を以てしたり。何たる無情なる忠告なりしぞ。尊王革命の本体たる皇室との連絡を絶たれ幕軍の討伐を蒙り連合艦隊の砲撃を受けつゝ漸く伏見の一戦に勝てるばかりなる長州の革命党らに向いて、卒然として勤王の大義を唱えたる者は大日本史なるが故に天下を水戸藩に讓るべしと勸説する者のあらば如何。彼は満面朱を注ぎて曰く。足下にして尚紛々たる日本浪人の云為に学ぶか。已に足下の大元帥説に誤られ、黄の優柔不断に誤られ、更に孫の空夢に誤らしめてこの革命を如何する。黄言を食みて来らざるも亦可、余は兵力を有す。孫輩の足一歩この城門を入るを許さずと。 かくの如き彼を後を追いて来れる張君が如何にして緩和せしやはもとより察すべく、刎頸の旧交は一切を凡て友情によりて解決せしめ、相携えつゝ彼を上海に引出せし事情は不肖の親しく実見せるところなりとす。実に張繼は無政府主義の名が世俗に與うる如き破壊党に非ずしてかかる危機に於ける天來の調停者なりき。不肖はこの危機を回想する毎に彼が天より降下せる如くこの一髪の際に来らずんば孫君と故宋との運命は共に予見し得べからざりしを覚えずんばあらず。(而して只その調和性たるや時に人間の頭上を超越するが故に、後宋君等が武昌起義の真個元勳張振武氏の銃殺事件を提げて趙内閣を弾劾し延いて以て袁大總統の脚下に及ばんとするや、単身袁を訪いて今の時公辞職せば天下再び乱れんとて留任を力説せる如き脱線を憾むのみ。而して翌年宋君亦同じく趙秉[くさかんむり均]を共犯としたる暗殺に仆れて張振武の跡を追う。繼君以て如何となす)。 論ずる迄もなく、武漢の革命と沒交渉なりし孫逸仙君は米国の新聞紙を飜えして只驚愕したるに過ぎざりしなるべし。彼が米国より又その通過しつゝある欧州の先き先きより打電して、大總統は黎元洪その他起義の元勳たるべしとの意志を表示したる再三なりしに見よ。彼が上海に来らざりし以前、少くも香港に於て日人諸君に迎えられざりし以前まではこの最高の栄位が己を待設けつゝあるが如き甘夢は午睡にも見ざりしなるべし。黎が張振武君等に擁立せられて諮議局に運ばるゝまで己の生死を知らざりし如く、彼は俘虜と敗将との故に空しくなれる椅子を見るまで身の安全を日本人の侠義と黄君の友情に託するを得んという程の希望より持たざりしなるべし。則ち彼はナ翁の如くパリに帰らざりしなり。彼が大總統の黎元洪たるべきを電告せるは、同一なる宣言をなせる太炎と同じく二者共に言論の雄にして革命の運動より度外視せられ、従って武昌蜂起の内情に盲目なりし明証にあらずや。しかしながら彼は支那の文字を誤記する代わりに英語の練達せる如く、思想に於て支那人と云わんよりも英米人なり。英米人の如き権利思想を有する彼は『正義の女優』を渇望しつゝある群衆の前に中国同盟会総理たる権利によりて立てり。彼は陳腐なる禪讓的形式を蔑視して言下に大總統の推戴を受理せり。これ中部同盟会の盟主たる譚人鳳が武昌城中に於て禪讓的旧道徳を墨守せる純支那人なると両極の反対なり。彼は譚人鳳の頑固なる団匪的愛国党にして至純なる犠牲心の魂なるとは正反対に、国家観念に於て許すべからざる欠陥あり決死的犠牲心の驚くべき程乏しき人物なり。
しかも彼の顕著なる長所は自由民権の宗ヘ的信者なることゝ、己を信ずるの篤くして動かざる一事にあり。当時革党有力者はかかる局外者の大總統たるを見て武昌に於ける黎元洪の擁立と大差なき木偶として顰蹙せるは論なし。しかも彼の自信力と権利思想と当時の群衆心理とを考うれば敢て必ずしも然らざるべきなり。特に彼の中華民国史に於ける百代不磨の功績として看過すべからざる事は、彼がこの新建国の始めに於て支那の将来は必ず共和政ならざるべからずという大憲章の精神を宣布したることなりとす。厳格に言えば彼の来らざる以前十一月末武昌の十一省代表者会議に於て宋君の草案せる『中華民国臨時政府組織大綱』が決議せられ、戦時中明確に支那の共和政なるべきを宣布したる事は事実なり。 −後の史家は共和政の宣布者が何人なるかを厳査すべし。もとより孫君のそれは全く錯誤せる米国的思想の祖逃に過ぎずして甚だ皮相淺薄なるはもとよりなり。しかもこれ維新革命に於て然り、フランス革命に於て然りし如く、又宋君の国家主義の然らざるを得ざりし如し。これ革命さるべき程に頽廃せる国民に深遠なる思想の生るべからざる古今の通則のみ。しかしながら共和政は支那の国粋的革命党に萠芽せず又日本の国家民族主義にも片影だに見られざるものなり。しからば彼が如き自由民権の宗ヘ的信者が已に秘密結社時代に於て各省の先覚者に影響せる所を、更に大總統としてこの建国の際に宣布したる支那将来の幸福や測るペからざるものあるべし。 軽薄なる軽侮論者は英公便の輿夫が共和政とは大清皇帝に代わりて袁陛下を見ることなりと云いしとかを盾として南京臨時政府の精神を軽視す。しかもこれ一国の過渡期に於て賤民階級が常に新理想と沒交渉なる歴史的原則を忘却せるものなり。フランス革命に於て自由とは神を拜せず淫蕩を恣にすること、平等とは富家を掠奪して財を等分する事なりと解して彼の戦懐すべき暴民の信条が作られたりというに非ずや。これ袁を皇帝と同視する輿夫を待たず、已に南京政府設立の祝電に孫逸仙陛下と称せし外電の二三ありし彼らよりも罪惡多き誤解なり。日本の維新革命に於て革命の理想たる武力の階級的専有を打破する血税の文字が却って子弟の血を絞りて電柱に塗布するものなりと直訳せられて幾多の暴動を起したりというに非ずや。これ南孫北袁戈を收めて共に和する之れを共和政というと解せし彼らよりも本義に反せる同音同字の取扱なり。由来無文字階級は過去を語る者にして新理想を問うところに非ず。 一国家一民族の思想的交替期を考察するには須らく学究的愼重と国士的同情とを以てすべし。賤民の一言に基きて侮蔑的感情を洩らさんとする如きは士君子の齒せざるところなり。英人輩の如きは常に人種的倨傲に陥り敢えて今日支那の共和政を冷笑するを待たずとも已にかって日本の立憲政を指笑して沐猴の冠するとせるもの。かかる顰に倣いて侮蔑を加うるの慣慢は則ち欧人の言々を拜跪する卑屈にして、むしろその奴隷心の暴露を恥づべしとせずや。欧人の誇とし近代政治の源泉とするフランス革命に於てすら共和政の明確なる理想は何人も有せざりしところ。彼のルソーその人すら明言して、共和政はスイス、アメリカの如き小国(米国は当時新開の小国なりき)には行わるべきもフランスの如き広大なる王国には不可行なりと音き残せるを見よ。聞く日本帝国憲法の精神たる五ケ条の誓文は由利公正が横井小楠より欧米政治の一端を聞知して起草せしものなりと。欧州覚醒史の始を為せるフランスと東洋覚醒史の始を為しつゝある日本と、その覚醒の始めに於て共にその新理想の混沌たることかくの如しとせば、豈独り支那に向ってのみ完きを求むべけんや。特に況んやその共和政たる、革命党の未覚醒時代に於ては孫君のそれを盲守したりしとは云え、中華民国憲法に現われたる理想は全然彼の米国的迷想を払拭し除却して一個厳然たる東洋的共和政体を樹立したるものなり。 則ち大總統は米国の責任制と反し自ら政治を為さず内閣をして責を負わしめ単に栄誉の国柱として立つ事と、米国的連邦に非ずして統一的中央集権制なるべしと云う二大原則の下に編纂されたる、むしろ佛国のそれに近き支那自らの共和政体なり。則ち厳密の意味に於て孫君は単に支那共和政に暗示を與えたるもの。その具体的理想の実現者は武漢起義の原動力たりし一団の人々なるは明なりとす。フランスが幾多の変乱を経しにせよ、日本が万機公論に決すべきを二十三年間口約に止めたりしにせよ、支那の将来を観ずる者はよしんば時に反動の波浪に洗わるゝ事のありとも、日本に東洋的立憲政ある如く支那に東洋的共和政の動かすべからざることを思念せざるべからず。孫君の洋学者としての米国的思想の翻訳は横井小楠の洋学が日本憲法に於ける功績と多くの差等なかるべし。しかしながら他の国粹的復古主義者も日本的国家民族主義者も、異人種の統治を排除したる後にルヰ十六世に代うべきオルレアン公を有せず、徳川に代うべき天皇を持たず。為にここに欧米の一政治的形式を取り入れて東洋的消化を經たる共和政体を樹立したるもの。一孫の影響又は欧米の模倣と云わんよりも、実に漢民族の政治能力がラテン、チェートン等のそれに劣らざる有カ明白なる実証として寧ろ吾人の光栄に非ずや。 とにかく孫逸仙君は共和政の犯すべからざる首唱者にして同時に権化なりき。張繼君の居中調停によりて彼と宋君との握手は上海に帰りしその夜の談笑に成立したり。彼は不肖の眠りを覚ましべッドに腰かけつゝ釈然として曰く。今朝南京に於ける暴言は之を陳謝す。孫君は実に好人物にして東京に於て見たる如き不遜無体を悔悛せり。反対多き黄君よりも輿望ある彼を立つる事は人心の緝攬に於て如何ばかり革命を利すべきぞ。彼は大總統として革命の中心に立つべし、黎と黄とは武昌と南京とより各々軍旗に従うべし、余は内務総長即ち国務卿として実権を把握して全力を統一に注がば各々適處にその適する所を用いる者ならずや。今夜孫君と約せしところかくの如し。
米佛の政体的形式は今日論ずるの時機に非ず、請う安んぜよと。不肖は書車中の懽語に於て国家至上主義者と無政府主義者の温情を視、夜又米国的夢想家と佛国的実際家の握手を聞き、実に旧友懽会の涙が一切を溶解する一に茲に至るに感じ戯れに椰揄して曰く。貴国古語あり呉越同舟これなりと。彼は色を正して討滿の大目的を説き勳功の有無に係はるべきに非ざるを弁じたり。不幸なる運命の児よ。彼はその手孫君と握れる間に於てその足が孫の輩下馬君武氏に攫われつゝありし事を知らざりき。神も恐くは知らざりしなるペし。何となれば孫君の人格に於て最も称すべき点はその欧米化せるだけに支那独特の陰謀の如きは聊も無かるべき一事にして、凡ての言動の公明正大なる事は不肖の保証せんと欲するところなればなり。しかしながら大勢なり。大勢と名くる群衆心理は彼が敗将を擁立せんとしたる不合理の為に已に彼の不利に渦けり。而して彼が孫君と握手せる事はこの渦流の堰を徹するものにして彼自ら奔瀑に卷き込まれざるを得ず。孫君は誠実にその手を差し延べ彼は懽喜してそれを握れり。この間に何の陰謀権略の存すペきなし。 彼らの握れる手と手は旧友の温き血と亡命せる頃の涙と、回天の大業に相携えんとする鼓動の通ぜるのみ。孫君の公明なる心胸には彼が連軍総司令部転交を以て彼に宛てたる電報の如く『文祖国を離るゝ十余年、今日故土を践むを得たり、楽何ぞ言うべけんや、これ皆公等の賜なり』とする至純なる感謝に満てり。宋君に於ては『文の遲々として帰国せる所以は外交問題の解決を待てるを以てなり』という弁を悦びて、その外交問題なるものの如何に笑うべきものなるかを問わず直路帰国せざりしを重大なる意義の如く諒承したり。かくの如く一が大総統として天下に臨み一が国務卿の実権を以て革軍諸省の中央政府を組織すべき約諾は誠心誠意両者の間に成立したりしなり。 しかしながら宋君は自己の佛国的共和政を彼に承認せしめて彼を栄誉の中心たる意昧に於ける大総統たらしめず。却って孫君の米国的理想にまで讓歩し総理を置きて責任を負わしめず大総統自ら権を握り責に当るところのものを許容したり。彼はこの讓歩を不肖に弁ずるに今の臨時政府は北伐を終るまでのものなりとして曰く。今日の時は只討滿と共和の大同団結のみ。米制佛制の可否は天下統一の後決すべき問題なりと。これ彼が蹉跌の原因なりしのみならず国家新建の際に於て建国の大典そのものをも一夕の讓歩に包括したることは彼の重大なる不注意なりと言わざるべからず。彼は革命前より居常自ら草せる寧ろ佛国制に近き支那自身の憲法草案を懐にせしに非ずや。而して又当時の実力に於て孫君は事実上単なる栄誉の中心に過ぎずして自ら権力を握り責任に当らんとする野望なかりし筈に非ずや。倥偬の際として彼は懐の草案を出して孫君に承諾せしめ、孫君を名実共に無責任なる大総統たらしむべき正直にして最善なる政略を忘却したりしなるべし。彼が世評と反対に単に頑固なる愛国者にして無策の士なりしは不肖の屡々実見せるところなり。実に彼の無策概ねかくの如し。 孫君の系統の執筆せる憲法に各總長は大総統の任命により参議院の承認を経ベしという一項ありて衆議院を通過したり。孫君は提契の約諾に基きて宋君を内務總長として提出したり。或る者は南京参議院を評して彼は参議院に非ずして顛狂院なり議論せずして騒擾し討究せずして怒罵し卓上に躍り上りて号叫すと云えり。革命中の議会は今の秩序和平なる各国に視るべからざるものにしてフランス革命中のそれを回顧して想像すべし。当時の参議院は道理を容さずして感情が凡てを支配したり。雄弁が議案を動かさずして大音声が裁決したり。卓上に拳銃を置ける議席すらありき。彼らは他の凡ての総長を承認して独り宋内務に於てのみ飄風の如く擾乱したり。卓上の号叫と、議席の拳銃と、遺憾なく革命議会のヒステリック昂奮を爆発せしめたり。怒罵は曰く、宋の家に鄭州王たりし陳猶龍の居たるを見たり、彼は専制家なりと。これ革命党の二大目的の一たる共和の反逆者にして、フランスに於て人民の敵と誣いらるゝが如し。大音声は曰く宋の居は満人の家なり彼は必ず漢奸なりと。これ亦その一たる倒満の裏切を意味して、フランスに於て貴族党なりと疑わるゝが如し。
この群衆心理の音頭を取りし馬君は勿論不正なる人物にあらず、只小器の熱血男子なるが為に討究も調査も許さゞる革命議会には適役たりしのみ。かくしてフランスの参議院が自由の名に於て自由の元勳等を断頭台に送りし如く、支那の革命議会はこの国家主義の代表者民族運動の指導者を漢奸の寃に於て否決したり。後、老廃程徳全を内務たらしめしは亦彼の実権的国務卿を代表せしむること南京都督に於ける如くならしめんとせし者。しかも大勢は如何ともすべからず。之を要するに故宋君は黄擁立の不合理と孫に讓歩せる時の一歩の不注意との為に、その頭首を堵して企てたる中央政府設立と同時に身先づその門外に驅逐せられたる者なりとす。何たる顛倒事ぞ。俘虜は大元帥となり、敗将は副元帥となり、正義の女優は中華民国大総統となり、而して中央政府建設の実働者は終にかくの如し。特に悲憤見るに忍びざりしことは長江各省の盟主たりし譚人鳳の独り『北面招討使』として自髯を撫しつゝ一千の親兵を上海龍花廟に閲みして政権争奪を知らざるものゝ如くなりしことなり。不肖はここに於て前に閑却せし問題に答うべし、即ち孫逸仙は如何にして第一大総統たりしか。曰く黎元洪が副大総統たりし意昧に於て大総統たりしのみと。 この変事を報ぜる宋君の特使と共に南京に向いつゝ、不肖は車中默想の胸裏に屡々憤情の迸り来るを感じたり。敢て私交の故ならんや。革命生起の由来とその展開の真相を熟知する者誰かこの顛倒事を憎まざる者ぞ。
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【八 南京政府崩壊の經過】 |
統一的共和政の憲法編纂に当れる宋。日本元老等の妥協勧告の風説と宋の遣日全権代表。孫党日本人の宋排斥運動と孫自身の迷惑。盛宣懐を再びせる孫の漢冶萍借款交渉。革命生起の根本精神に反逆せる孫の四面楚歌。孫政府の動搖に対する張宋等の苦心。孫の始めより革命政府に首長たるべからざる説明。袁に投げ出せしは孫唯一の活路なりき。日本人の或る者は革命を援助せりと云う虚妄よりも甚しく妨害したり。佛国の北米独立援助後両国々交の阻隔を戒とせよ。南北妥協の大局的行動。日本朝野の相扞格せる妾動を反省せよ。
南北講和にあらず、かくの如くにして成れる中央政府の一月有余にして土崩瓦壊したるはもとより其處なりとすべし。嚇怒せる外国人に反して宋君は冷靜なる微笑を以て迎えたり。彼は不肖の勧告に従いて直に法制院総裁を選べり。よしんば革命中の暫行的憲法とは云え大統領政治と連邦制を原則とする米国的夢想を輸入することは支那の禍なるべしとは一外国人の警告し得べきところなりき。特に彼は佛国的統一制と大統領無責任制とが同樣なる政治的経過を辿りつゝある−即ち君主制より共和制に激変せんとする支那に於て、フランスの如き反動と革命の反覆を避くべき結局的憲法なる事を洞見せるを以てなり。彼は自己の草案を以て新国家を編むことは政治的活動に優りて重大深遠の責務なりと感じたり。しかも常に政治的考量を忘れざる彼は、その副総裁に武昌の民政長たりし湯化龍君を以てしたり。
実に漢陽を敗走せる事は全く武昌を危険に暴露せるもの。従って武昌の同志及び他の凡ての黄君等に抱ける憤恨が漸く彼地と南京との疎隔たらんとしつゝありしことは彼の大局的眼光の看過せざりしところなり。彼は群衆心理が黎派との密通者ならずやと猜推しつゝある時、自己に対する排斥同盟が企てられつゝある時、正副元帥が意義を失えるを以て孫を大総統とせば黎元洪の副大総統推挙は当然なりとして奔労せる如く、湯君の推選も等しく彼が武昌と南京との連鎖を憂惧せし一例と見るべし。
−実に南京と武昌との断絶は同時に袁と黎との握手を意昧す。これいわゆる南北講和の時を待たずして当時に彼及び具眼者の凡てが孫系の盲進を憂惧せしところなりき。而して彼の憲法草案は佛人より見れば佛国的大総統なりと感ずべき如く、日本人より見れば日本的統一制なりと解すべき如く、又支那人自身が見て唐の郡県的盛大の復活なりと自負し得べき如く、一個厳然たる東洋的共和制なり。不肖は実にこの国家大典の樹立せし際に於て支那の覚醒が深き根拠を有するを見たり。則ち日本的思想により国粋文学によりて已に国家的覚醒統一的要求の真精神なくんば、米国制の非国家的分立的翻訳は当時の孫君の光輝と群衆心理によりて新共和国に禍因を播きしやも知るべからざりしなり。不肖は日本的思想の勝利を悦ぶ日本人たる立場よりも広く東洋民族の誇に立ちて、覚醒せる東洋精神がかくの如く恣に欧米の長短を取捨しつゝありしを視て満腔の欣快を感じたるものなり。 一夜張君が自己の高遠なる社会革命的要求の或る者、即ち万人は平等に土地を所有するを得との一ケ条を加えしめんとして彼と争いつゝ不肖を顧みて、宋君の如くんば日本憲法の翻訳なり民国と帝国と何の差ぞと痛語せし事あり。しかも傍聴者はこれ反対語を以て支那の統一的覚醒を立証するものとして欣快愈々深からざるを得ざりしなり。しかしながら故宋君は日本帝国憲法を編纂せし伊藤公の如く泰平の学究的研究に耽る能わざりき。彼は革命党の秘密運動頃に於て常に革命の成否を決するもの実に日本の向背如何に存すとして憂慮せし如く、弾雨中の武昌都督府に於て日本国民の赤熱的同情に落涙感謝し日本政府の善意なる傍観に胸撫下したる如く、彼は一たび日本に赴きて革命の目的と両国の将来をその朝野に訴えんと欲する切迫せる願望を抱けり。彼は法制院総裁として憲法草案の筆を執りつゝ再び不肖の勧めに従いて自ら遣日全権代表の任に当れり。群衆心理は悪夢の醒めたる如く満場一致の拍手を以て参議院を通過したり。彼はその手大典の章句に動きつゝその耳は霞関の[口耳]に聳ちたり。
果然、内田君の長電によりて不肖は彼に戦慄すべき警報を伝えざるを得ざりき。即ち長州元老等の発意なるべき満清皇室を存続せしめ、立憲君主政を樹てゝ妥協すべしとの勧告これなり。而して各方面の風説は隣国に共和政の出現する事は日本の帝政に害ありとする元老等の真意にして、あたかもフランス革命に対する列国の干渉をこの意味に誤解する低級の歴史的觀察を以て裏書とせるものなり。不肖が宋君の名を以て内田君等の活動に斯待せしはその山縣、桂諸公の長州系に有する地歩によりて当時の中心的権力なる彼等の黙諾又は冥助を得る事にありき。同君が朝鮮及び支那の秘密結社に通曉せりとの信用は、武漢勃発と同時に杉山茂丸氏等と共に桂を動かし山縣を動かし以て伊集院公使の殘虐なる提案−ドイツの為せし如く武漢を鎮圧して満洲の屑々たる諸懸案解決の好意を買うべしとする打算的無道−を破碎して革命の萠芽を蹂躙せんとする過失を一髪の間に阻止したるものなり。 これ実に他の囂々者流の企及すべからざる氏の勲功にして宋君等革党一団の深く認めて感謝せしところなりき。しかるに彼らを動かせし彼が、今却って彼らに動かされてその妥協勧告の取次を為す彼とならんとするに会す。不肖は宋君の面色見る見る土の如くなるを見たり。南京の埠頭に於て敵兵監視の間を声色自若たりし彼は、不肖が彼の名を以って同君ら及び各方面に打電せし寫を披見するにその手の打慄うを知らざりき。彼は漸く冷靜に復し瞑目久うして曰く万事を放抛して日本に行かんと。 当時を回顧する毎に、不肖は革命に何の理解を有せざる支那浪人団の言動に対して冷汗背を流るゝを覚えずんばあらず。彼らは単なる人間として有する倫理的本能と本能的喝采とを表わすに、卑しむべき奴隷心を外人環視の間に晒らすを恥とせざりき。彼らは御者の奴僕的誇栄を己が臣従する晏子の為に競い、日人互に凌辱して以て快しとしたりき。彼らは後進国の覚醒を善導せんとする日本国士の適当なる責務を閑却し、却って革命渦中の群衆心理に隨伴して彼ら自身の群衆を妄動せしめたりき。
而して支那の群衆が孫君を拜するに足らざる偶像なりと感じ始めたるにも係らず、彼等の群衆は隨伴に後れて独りそれを担荷して喧々囂々たりしは実に市井の祭典に見るべからざる滑稽事なりき。担荷せられ瞑眩せる孫君の難有迷惑は十分に同情せざるべからず。池君が革命の説明に渇望せる日本内地に帰りて、武漢は孫逸仙の命令を待たずして発せるものなりという主意の大阪に於ける演説の如きこの一例なり。瞑眩せる孫君はこの功を窃むの流言を掲げたる新聞紙を差しつけて一喝せらるゝや、池君が己の莫逆の友なる事も己を香港に迎えて大総統の栄位を受くるに至らしめし保護者なりしことをも顧みずして蒼皇その委任せし大総統秘書を取消さゞるを得ざりき。池君は自ら信ずる篤き稀世の才子、求めて虚偽を捏造するが如き人物に非ざるは不肖の熱知するところなり。特に不肖は前に滬寧往來の車中に氏と邂逅せし時、孫君の親しく説明せるところなりとして革命生起の真相を講義せられ孫則革命の三位一体的論法に会して噴飯を抑制するに頗る努力したるもの。当時の談話と日本に於ける演説とが同旨意なりしに見て恐くは同君の捏造に非ざるべく、孫君が外国人の前に自己の価値を飾りし悪意なきものなり。しかも狼狽して外国の紙上に取消を広告する如き巾幗的態度に出でざるを得ざりしもの、いわゆる贔屓の引倒にして瞑眩せる孫君の難有迷惑や察すべきなり。 明敏なる池君にしてすら然り。支那革命の元老として兒女子も知らざるなき滔天の名誉を以てしてすら宋ヘ仁排斥の文電を諸所に発せし如く然り。他の擾々たる晏御的団集の孫君を拜跪する奴隷心の迸発するところ、失脚せる宋君に対する理由なき垢罵に至ては殆ど聞くべからざるものありしなり。而して三百年の鎖国政策の為に外交的訓練の全く欠如せる日本人の常として内地の政争に外交問題を利用する如く、遠く援助の為に来れる頭山、犬養氏等の一団は宋君の日本行を以て己が本国に於て政敵とする長閥に結托する者となし、彼が隣国に訴うるにその政権の中心を主眼として人の如何を問わざるべき正当の行動を非難したり。 多く発言せざる頭山翁が宋君の遣日全権代表に代うるに支那に於て存在を認知せられざる何天烱君を以てすべきことを、無力にして改易の力なき孫君に勧告して当惑せしめし如き実に当時の事なり。これ不肖を始めとして日本人全般の今後鑑戒すべき卑陋なる党同異伐に非ずや。この四面に起る楚歌を聞きて不肖は日本人としての反省を忘却し、民立報樓上に於て干右任張繼の二参議に怒を向けて曰く。遣日全権代表は孫君に排斥せられて日本に亡命せんとするものなるか。諸君の汚辱せし失敗者を導きてこれ革命政府を代表して交戦団体の承認を求めんが為に来れりとは不肖の故国に欺き言う能わざるところなり。孫君自身が已に宋に中心より全権を代表せしむる者に非ず。 南京を出づる時八分権代表たり上海を発する時五分権代表たり長崎に達して三分権代表たらば諸君は彼に何者を期待せんとするか。対日外交は孫の空想と浮浪漢の大陸経営論を以て当るべし。不肖は断じて行く能わず。宋も亦然るべしと。借問す。あゝかくの如くにして日本人は革命に一滴水の援助だに敢てせりと言うや。只天意は人の盛んなるを以て枉げず。日本々くの厳然たる輿論によって長州元老の干渉説を一流言に終らしめしを天に感謝す。 天は実に革命に倖いせり。しかしながら革命党は自ら招ける禍を蒙りて窮地に陷れり。宋君の言える如く勲功の有無を論ずべき時に非ざりしにせよ、現実の理想を異にし眼前の運動に没交渉なりし外国人の如き孫逸仙君を大総統に擁立したる責罰は直に群衆の上に降れり。孫君が米国的共和国の出現に揚々たる間に於て、彼らは彼の国家観念の許すべからざる欠陥を発見したり。囂々たる日本浪人団が局外者を拜跪合拜しつゝある間に於て、彼らは彼と日本とが愛国運動を根本より覆えさんとしつゝあるを見出せり。 則ちかかる多くの者の中の一、彼と三井との間に進捗せる漢冶萍借款これなり。外国に生れて国家的執着心を有せず且つ現下の革命運動に局外者なる事等しく外国人の如き孫君は該借款を以て目的の為の手段と考えたるペし。しかもこれ目的の為の手段に非ずして臨時政府の政費に過ぎざる一手段の為に革命勃発の大目的とせるところを蹂躙するものに非ずや。粤川鉄道借款に反対して四川より起れる革命は、南京に拠れる革命党の首領が漢冶萍借款を企つるを寛恕する能わず。満洲に於て日露の武力的侵入を扞禦せんとして更に英米獨佛の経済的侵略を誘引したるものは亡国階級の事なり。 中原に於て四国が鉄道を奪取する事を坐視せざりし革命的新興階級は、他の一国が鉄山を占領することを拒斥せずして止む能わず。彼らは禹域割亡の因実に借款に存すとして万死の間に四国の虎を前門に禦ぎたり。しかるに数十百の日人に奉ぜられて威を振える局外者は何為れぞ最も恐るべき狼を後門より進めんとするか。支那は孫君が広東の独立を扶助せば福建に日本の勢力を樹立するを得べしとせる十数年前の支那に非ず。貧寒の亡命書生を以て猫額大の間島を争いし幾多の宋ヘ仁に導かれて、鮮血を踏みつゝ将に興国の第一歩を踏み始めたる支那なることを想見すべし。彼等は日本浪人団の倫理的共鳴と本能的喝采を過信して、これ先進の愛国者が後進の憂国的奮闘を援助するものなりとして感謝したり。 彼らは彼らの偶像と日本とが内外相応じて国家売買を計ること、盛宣懐と四国とが為せる如くなるべしとは期待せざりき。彼らは革命の始めに於て四国に向けたる鋒先を今日本に転ぜざるを得ざる恐怖に戦慄すると共に、彼らの奉戴せる偶像を仰ぎ視て実に売国奴の相貌を持てる事に驚愕したり。浪人団が大資本家の侵略と国権の拡張とを混同する盲目の如く、彼らは三井の利欲と頭山、犬養氏等の声援とを判別する冷静を有せざりき。日本と日本人とが隣国の覚醒を慶賀し一点の私心なき義侠を以て革命の進行を援助せんとしたることは俯仰天地に誓いて詐らざるところなり。しかも侵略的資本はこの国家と国民の真意に反して興国の企図に割亡の毒汁を注がんとしたり。後に回収されたる滬杭甬鉄道の一部を担保せる三百万両の借款が宋君の不同意より行悩むと聞きて大倉組が彼の説得を委嘱したる時、言下に拒斥したる不肖は非愛国者に非ず。 日本の長計とすべき対支政策は列強の資本的侵略によりて亡びんとする大陸を保全するにありとせば、借款亡国の警鐘に決起せる革命は日本帝国の将来取るべき根本政策と符合すべきものなり。しからば国家の大策と資本家の利権とを判別して考慮せる不肖の拒絶は世のいわゆる社会主義者なるが故に非ず。一外国人にしてすら支那の将来を憂うる者の見る所かくの如し。擁立の内情が如何なりしにせよ、堂々たる大総統の身を以て革命の本義を屠る如き非国家的妄動を敢てして如何ぞ大勢の憤怒を免かるべけんや。理由を北伐の軍費に求むる勿れ。隣強に国を売りて討伐を進むるは文王の師に非ずして桀紂の交々相鬩ぐのみ。群衆は超国家的思想の孫君と売国的腐腸の盛宣懐との差別すべき所以を視ざりき。一に英米化を能事とする孫君は支那の開放がかかる意味を以てすべからざることを解せず。只自己に逆行して波立ち始めたる群衆心理を呆然として眺めたりき。 日人の群衆はこの心理的一変に隨伴する暇なくして尚孫君の讃美に熱狂し却って益々彼を非難の渦中に陷らしむる事に気附かざりき。彼の秘書長胡漢民君の実権総理としての感ずべき努力も却って彼の家兄が咋春廣東に於ける犠牲の責任者なる回想を新たにせしめ、古来の連坐的刑罰観に加えて、梟首さるべきものを重用する孫文の横暴測るべからずとする激怒を煽ぐに過ぎざりき。在住英人等は自己が畫せる長江流域の勢力範囲内に乱入して日人の揚躍飛舞するを嫉視堪えずとし、十百年来練磨せし外交的舌頭を揮って日本と孫政府との間に秘密なる恐怖の存するを流言し中傷したりき。−日本が今日漸く対支外交の範囲内に於て日英の両立せざるを感ずるは遲きに過ぎたらずや。
宋君等の弥縫何の效なくして益々隔絶を深めつゝありし武昌は、漢冶萍が湖北に在り且つ己の戦利品たる発言権の上より直に南京との断絶を決意し、黎都督を代表せる三名は袂を連ねて参議院を辞去したり。実に法制院總裁の憲法草案が提議さるるまで暫行せられたる孫君の各省連邦的空夢は茲に遺憾なく害悪を暴露し、各省を統一せんとする中央政府が却て一省の一吹によりて飜倒すべき脆弱を示したることを見よ。敗将の大元帥を許さゞりし如く局外者の大総統を承引せざりし章太炎は、終に統一の大勢に鞭つて立ち政府の所在地たる浙蘇の二大勢力張謇湯壽潜の二総長を従えて統一党を組織し一挙孫君を驅逐するの威を示したり。ロベスピールの果断なき黄興は、参議院を解散すべしと威嚇して却ってその激怒に萎縮したり。断頭台上より我首を人民に示せ我首こそ人民に示すべき価あらんと叫びしダントンの胆勇なき孫君は、殆ど策の出づべきなく日本浪人団の担荷に益々瞑眩するのみにして只輿論の恣濤に喪心したり。俘虜を副総統としたるの故に漠口漢陽の敗戦を招きたる天理は、ここに局外者を大総統として天下を欺ける中央政府を責罰して仮借せざらんとす。 外來の一賓客として起居を共にせる不肖はこの際に於ける宋君の痛心を日夕目睹したり。彼は日本の干渉説が風説に止まりし安堵の思に撫でたる胸を再び政府それ自身の動搖に痛めたり。同盟会系の二三氏を除きて有力なる総長は悉く南京を見捨てゝ上海に悠遊し、調停の為に往來せる張繼君は連日の汽事に疲労を極めたり。第一総統は孫逸仙ならざるべからずと主張せし張君も、米国制の暫行に迄讓歩せし宋君も、天理に背ける責罰なる事に考え及ばずして一に倒滿の大事に当りてこの危磯を如何せんの憂惧に焦慮したりき。火の発する時人原因を論ぜずして消火に奔る如く、彼らは只如何にしてこの中央政府を維持すペきかに碎心したり。彼らは天の局外者を怒る者なるを反省せずして、日人の崇孫に耳を蔽い太炎の排孫に眉を顰めたり。法制院総裁はその起革しつゝある憲法によりてのみかかる危機を免かれ、又かかる危機を生まざる事の実物ヘ訓に会したり。米国的大総統政治は大総統が責任を負うものなるを以て、かく議会と輿論に弾劾さるゝに当りては大総統その者の引責辞職に至るべく、即ち国柱の交迭を見ざるべからず。平時ならば或は以て忍ぶべし。漸く覚醒せる各省の心的共通を統一せんとして求めたる心的中心を、今の南北対立の際に突として交迭し得べくんば始めより孫君を上海の埠頭より逐うに如かざるに非ずや。しかしながら彼の心的傾向は全く別個のものにして已に共通的心意に背反する言動を広居に立ちて天下に示したり。革命党は憐れにもヂレマに立てり。不肖はこの危機の最中に於て○○○君のクーデター敢行を宋君に力説しつゝあるを聴けり。
不肖は彼がその指命者なるという譚人鳳の旨を矯めたる者なる事を知悉し、且つ宋君ももとよりその旨に出でしに非ざるを洞見し慰諭して追えり。しかも批評の自由なる事後の今日、外国の感想を顧慮すべしとせる無用なる差出口よりも、宋君の大局的考慮よりも、かかる純乎たる支那自身の必要より発せる革命的行動は或は袁の天下たる局面を一変せしやも知るべからざるを回顧せざる能わず。○君はもとより内外の大勢を知る者に非ず。只彼の飾無き憤怒は孫愚我が革命を僭奪して更に袁奸に贈呈せんとするは許すべからずとするに在りしが如し。事後の批許は聡明なり。当時の天下に漲ぎれる統一的要求は南京に中心を得ずんば北京に要むべく、則ち孫政府の崩壊は同時に袁政府の設立を意味す。彼の冒險的計画は成敗の今日より見れば革党が陷れるヂレマより脱して一道を驀進せんとする同情すべき要求なりき。偶像を路傍に放棄して『十月十日』の空拳奮闘に復へらんとせる興国的猪勇を暴挙と一[口へんの據]し去れる不肖の如きは終に外国人なりき。 輿論の鼎沸を聞き事変の或は勃発すべき不平の醗酵を憂いたる宋君は終に黙すべからずとして政府の交迭を要めたり。彼はクーデターに依る国柱の変改が彼の一貫せる各省の心的統一策に反し且つ南北対立の際鼎の軽重を問わるゝの不利を考え、孫大総統の下に責任内閣の設立を要求したり。これ革命党の窮地を脱すると共に孫君個人の為にも凡ての非難を超越すべき唯一の途なりしなり。しかしながら米国大総統政治は孫君の十数年来の固疾的信仰にして、佛国的大総統として単なる栄誉の中心たることは彼の手より権力を奪取するものなりと感じたるやも知るべからず。加うるにこの革命に没交渉にして僅かに擁立せられたる立場上より、内閣の交迭を要求せらるゝはあたかも貸付せる物件の返還を督促さるゝかの如く感じたるやも亦知るべからず。遷延決せず、而 |
【九 投降將軍袁世凱 】 |
天末だ支那に英雄を與えず。理論を没したる超人的説明を以て孫を視袁を考うるは一種の支那人崇拜論者なり。袁は猟官運動者として偶々起用を得たるのみ。袁は簒奪の奸雄にあらず卒凡なる忠臣なり。彼は起用後直ちに武昌に降伏密使を送れり。全支那の連日的呼応蜂起に包まれたる袁内閣の隆伏方針。彼は事大主義者として革命風潮に恐怖隨従したるのみ。彼が端方の如く殺されざりし所以は一に京漢鉄道に近かりしのみ。勝海舟の役割を演ぜるモリソン。『革命』は統治者として講和使に臨めり。革軍の勤降僕に一変せる事大主義の唐紹儀。革命を中挫せしめたる英国及びその附庸国日本。革命を決したる北京最後の爆烈弾。良弼の爆殺と袁の爆殺未遂は日英の妨害を突破して清帝退位を決す。官革両軍を飜弄せし奸雄とは何の謂ぞ。革命終りたる時に来れる孫は残される唯一の任務たる対袁交渉に於ても到底凡骨なりき。
あゝ排満興漢の革命旗が武昌城頭の砲烟中に翩翻たりし時誰か亦四個月後にかかるべきを想い見しぞ。不肖は徐ろに前後を回想する毎に、実に孫逸仙君が新支那の根本要求を体現せる英雄ならざりしことに一切の遺憾を帰納せざるを得ざるものなり。誤認せられたる大義の首唱者としてもし黎元洪が英雄なりしならば孫君は議院の一討論家たるに過ぎざりしなるべし。これと同樣に、革命運動の統率者と誤認せられ、全支那全世界の輿望を負いし彼が已に奉ぜられて大総統たりし今日、袁輩の如きはもとより一降将、免罪起用を得ば歓天喜地の満足なるべかりしは亦論なし。
黎の怯懦喪心の俘虜なりし事が孫君を大総統たらしめしと同一の理由によりて、彼が革命の理想にも運動にも没交渉の木偶なりしことが、終に袁をして南北統一の終局を立ち働ける英雄なるかの如く天下に誤認せしめたるのみ。何たる不可解の顛倒事ぞ。大ナ翁の超人的天才を以てすら自己の個人的価値の微少なるを省みて曰く、吾は時勢の寵児なりと。天実にその寵児を大義の首唱者に求めて得ず、中国同盟会総理に尋ねて得ず、四億万民中未だ天寵を享くべき一児を見ざるに怒りて禹域猶未だ興すに足らずとなし、終に遺憾なき亡国階級の代表的人物を送りて暫く国運を傍観するの自暴に出でたるのみ。俘虜と木偶とを以てしては興国の天寵を妄にすべからざるが故に、代表的一売国奴を與えて売国行為を恣にせしめ、以て更に真個徹底的の覚醒を試練せんとする天意ならざらんや。 袁を買い被りて奸雄となし、支那の治安を彼の人物に期待したる滔々たる吏僚及び支那通諸氏は根拠なき独断を以て理智を暗ますこと街頭の賣卜者と選ぶところなし。亡国の恨を呑める外国人の英雄児を却って己が亡ぼしたるコルシカ島より得て分割の危機を免かれたるフランスは天寵を享けたるが故なり。袁世凱を奸雄、少なくも奸悪なる英雄なりと観ずる者は、その前提として英雄の出づべき天寵已に支那に降下せることを論証したる後に於てすべし。彼は瀕死の亡国階級がカンフル注射によりて蠢動せるが為に恰も新時代の国運を代表せるものなるかの如く凡俗に誤解されしのみ。 凡て凡俗は何事に於ても超人的説明を歓迎するものなり。講談師の岩見武勇伝を悦ぶ印半纒諸君と、孫君が西半球の果てより東半球の革命を支配したりと信ずる支那浪人諸君と、超人的説明によりて満足する凡俗的情操に於て同一なり。袁世凱を奸雄となす者も等しくこの同一なる凡俗的範疇を脱せざるよりして、笑うべき超人的説明に陥るもの比々として然らざるなし。則ち彼の多智多策を称して人類の智嚢を超越する怪物に非ざれば能わざる事にまで及ぼして南北統一の解釈となす如き、不肖は支那を説き対支政策を論ずるものゝ名誉の為に惜まざるを得ず。凡俗的情操はアメリカに在りし孫君と漢口の爆弾破裂とを人為的に結合せしめて考えずんば満足せざる如くに、袁と革命党との握手を考察せんとするに当たりても亦然らざるを得ず。彼が西太后の死去によりて失脚すると同時に河南の草廬より常に孫黄との間に密使の往来ありしという[口耳]を聽きて首肯せんと欲す。 かくの如きは彼を以て国運の興亡を洞見せし予言者的神人なるかの如き独断より出発するもの。当時僅に二三千人の年少読書生の結社に過ぎざる革命党は彼の皮相なる俗眼には康有爲よりも遙に価値なく、土匪草賊の団集よりも無力なるものに映じたるは疑いなし。事実又彼は亡国階級の典型に従いて常に官職に眷恋しその起用運動に日も亦足らざりし幾年間は内外人の等しく見聞せしところに非ずや。同樣なる超人的説明を悦ぶ凡俗的情操は彼が大兵を擁して私かに革命党と握手し、一面清朝の為に計るかに装いて胸中歴々たる簒奪の成竹を有して進退せしものゝ如く信ぜずんば止まず。もしかかる『偶然の成行』より『必然の計画』を推論せんとする俗情に従えば、比較的最も無策なる大隈伯は袁に帝政延期の警告を発せんが為に有賀博士を遣わして日本の承認すべき事を彼に軽信せしめ、更に周特使の来朝を謝絶して彼を窮谷に陥れんが為に小田切萬壽之助氏坂西大佐らを招きて満蒙案漢冶萍案の解決を運動せしめたりと云わざるべからず。伯やもとより聊か耄せりと雖も山縣公と共に残存せる維新の革命児なり。しかも天行の健なる推移に対して予め計策を立る能わざるは論なく、昨是今非の行動天の指導によりて偶々その宜しきに合せるものに過ぎず。 袁輩の凡々たる俗物。滔天飜海の端睨すべからざる革命渦中に於て一小策一小方針の画かるべきもの非ざるは常識に照して何人と雖も推想し得べき筈なり。支那軽侮論者はその実支那崇拜論者にして、興国日本に於ける山公隈伯に難しとする深遠なる謀略が独り最も腐敗せる一支那人に企画せられ実現されたりと云うか。事実は一切の論断を支配すべき権威なり。事実によりて不肖の判断し得るところは西太后の没後故山に幽居して再起の望なかりし彼としては、猟官熱に没頭して岑春?の一言に拒斥せしものを抃舞拜受したるのみと。餓ゑたる彼は食を選ぶ能わずして食べり。凡眼俗頭の彼は武漢の烽火が何を意味するやを知らず、又漢人の身を以て排満興漢の大潮流に逆行し得べきものなるや否やをも考察すべき智慮を有せず。只その猟官的慾望を凡俗なる道徳的形式の踏襲に求めて忠臣義士の嘉称を蒙り、以て往年の軍機大臣を夢みたるに過ぎざるなり。亡国階級に生活し飛舞したる彼は凡ての事亡国的範疇を出づる能わざるはもとよりなり。即ち旧道徳を維持すべき誠実なる良心を欠如すると共に、新に興隆したる気運を眼前に提示さるゝも明確なる理解を有し経綸を画き得べきものに非ず。即ち彼は清室の重臣として不忠不臣の誹毀を免かれんと欲しながら忠臣義士たるべき強固なる道念を欠き、革命の風潮に恐怖しながらそれに棹して潮頭に立べき計策を有せざりしのみ。 一言にして尽くせば彼は飢えたる官職を頬張りて嚥下する能わざりし狼狽者に過ぎず。彼が曹操董卓の大野心を包藏して官革両軍の間に縦横の略を運らせしかに考うる如き低扱公武合体論に止まりし事実の明白なるものあるにあらすや。維新革命に於て公武合体論は亡国階級の人々即ち諸侯と上級武士との間に於て唯一の妥協案たりき。同樣に、新気運の視界に入るべからざる階級の人、袁は垂涎美膳に臨みつゝ箸を下すに先ちて抱腹絶倒すべき四ケ条の大策を提起して裁可を得たり。一に曰く、明年国会を開くべし。二に曰く、責任内閣を組織すべし。三に曰く、革命党検挙令を廃すべし。四に曰く、党禁を解くべしと。これ公武合体論の如く妥協案の如くにしてその実は古今亡国階級が興国的運動に提出したる降伏条件の完備せるものに非ずや。一と二とはフランス革命に於て王が国民議会に降伏したる条件なり。二と三とは維新革命に於て徳川政府が薩長の年に降伏したる条件なり。あゝ諸公。東洋に人となれる不肖等が奸雄の音響より與えらるゝ暗示はよしんば道義人情を蹂躙するも須らく雄大剛毅なるものなるべし。 腐敗旗本と痴呆大名とが為せし如き浅薄屈辱なる妥協案に依ョして一に主家及び自家の無事を僥倖せんとする如き腐腸軟骨なる忠臣義士は奸に非ず又雄に非ず。袁氏行動の跡の不忠不義なりしは彼が忠臣義士の美名を希わざりしに非ず。亡国階級の凡てが旧道徳を死守すべき良心すら腐朽せる原則に基きて彼が旧道徳の勇者たる能わざりしが為のみ。旧道徳的良心の朽腐して而も新道徳的良心の萠芽せざる無道徳なる人物が単に肉塊の如く勢力に阿附隨従するは当然なるべし。之を却って超人的見解者の如く或る遠大なる野心の下に立てられたる計策となす如き誠に以ての外なりとす。彼の智謀胆略を絞りたる一切の大策は四ケ条の降伏条件のみ。卑むべき猟官運動の食丐は燎原の火に一荷水の力だになき降伏条件がよしんば亡清朝廷に納れらるゝとも革命的団集に如何樣に受取らるべきかを看守せず、卒爾として湖広総督欽差征討大臣を拜命したり。食丐はこの大官の将に岑春?に任ぜられんとせしを見て狼狽したるべきも、武漢一角の兵乱が後彼を如何に狼狽せしむべき大事なるかを考うる能わざりき。彼の智識程度として全国土に拡汎せる民族的情操国家的覚醒を理解し得べからざるは論なく、諮政院の声を以て直ちに革命的要求なりと誤断し、四ケ条の大策が朝廷にだに許容せらるれば可なるかに盲信したり。火中に栗を拾うことは比較的得意なりし岑の敢てせざるところなりき。永久に官場より封鎖されし彼は欽差大臣の名に眩して進退を顧慮する怜悧を失いしのみ。 果して彼はその愚策が嘉納せられたるに安じて起つと共に、始て排満興漢の澎湃たる大勢を見て狼狽したり。武漢勃発を聞きて伊集院公使を筆頭とせる日本の吏僚凡てが清朝の尚万歳なるべきを盲信せし如くに、彼が慶親王の文書を携えたる陰昌と河南の草廬に会見せしは実に十月十七日にして黎擁立後五日目なりし事を忘るべからず。当時もとより革命の噴火口は湖北省の一地域に過ぎず。為に伊集院氏が清朝を扶けて暴動を鎮圧すべしと進告せしと等しく、彼は武功を以て君寵を買わんという軽卒なる楽観に基きて大命を拜受したるものなりとす。しかも彼の軽卒なる楽観は二十二日、湖南の長沙及び宜昌の噴爆と、更に同日、北京に近き山西省太原府に於ける独立の声に打破せられたり。翌々二十四日、江西の九江亦陥落し、吏に翌二十五日陜西の西安府革命の火を挙げ、諮政院は北京に於て盛宣懐を弾劾し、南に向える鳳山将軍は叛徒に殺され、驚心核目の凶報櫛の歯を引くが如し。凡々たる俗吏は大命を拜受して而も一週日に激変せるこの不可解不可測の大勢に錯愕喪心したり。馮國璋と黎元洪とが漢ロを争奪しつゝある間に於て、彼は亡国階級の典型に従いて已に敵に媚を呈する巾幗的行動に出でたり。馮の軍が確実に漢口を回復せし如く更に武昌を衝きて陥るるを得たりしならば、彼は忠臣義士の因襲的堕力に従って或は少しく勇者を学びたるべし。
大命拜受後腹背の各地に起れる革命の声に萎縮したる彼は、獨の軍が武昌の砲弾に辟易して江の半より退却せし如く、亡国階級としての怯懦に襲われたり。革命党及び日本留学生等が上海関門の襲撃を企てつゝありし日、攝口に屯せし彼より武昌に送られたる彼の密使は明白なる投降の申出なりき。一戦漢口を奪還して革軍の胆を寒からしめ以て妥協を申込める彼の遠謀計るべからずとなす者の如きは噴飯すべき支那崇拜論者なり。去就に迷える彼は清室に対する旧道徳の排満興漢の大勢に逆行し得べからざる恐怖との間に立ちて首鼠両端を持せざるを得ざりしのみ。
革命のモットーが満漢の争を掲揚したるが故に凡ての亡国的官僚が吾亦漢人なりとして投降の口実たりしと同樣に、内閣総理の任命を飛電辞退せし彼は攝政王の歎息して袁も終に清室を輔けざるかと言えりし如く、已に投降の易きに選びつゝありし一亡国的官僚に過ぎず。武昌都督府に於て黎元洪、胡瑛、故宋ヘ仁三氏の前に恐惶俯伏せし二人の密使は、彼が清室に対する臣節と漢人たる義務に迷える事を愁訴し、宋君等より漢奸となりて墓陵を発かるゝよりも、明末忠臣の跡を継ぎて興漢の義士たるべしと鼓舞せられて活路を発見せし事実を見よ。而して密使の送派が北京に洩るゝと共に、実に十一月一日、袁内閣を決定し、即時帰京を促すの上諭となりし事実を見よ。彼は北京朝廷の看破せしに違はず、召還を受けずんば凡ての亡国的官僚の為せし如く革命の雷同的投降者たりしなるべく、又革命政府より漢人の功あるものは一律に重用すべしとの保証を受けずんば召還に応じて北京に入る能わざりしなるべし。あゝこれをしも簒奪の遠謀を包蔵して官革両軍を飜弄せし奸雄なりという乎。怯懦なる狼狽者の妄動に過ぎず。 怯懦なる狼狽者を迎えたる北京朝廷は、亦もとより怯儒狼狽を極めたる平家の一族なりき。狼狽者が革軍政府より活路を指示せられ起用の約諾を受けて北京に入り裕隆太后に謁したる十一月十四日に至るまでの形勢を見よ。四日、揚子江流域の咽喉たる上海は堅確に革軍の手に帰したり。付近の通州、杭州、揚州、蕪湖の陷落は翌五日にして、同日貴州は雲南に呼応して独立したり。南京の攻撃開始は八日にして風声鶴涙陥落に至らざる以前に於て已に敗報は各地に電告せられ、山東省民は連邦組織を要求し、安慶、靜江、桂林相次ぎて応じ、翌九日、広東は独立し海軍は挙げて革軍に投じたり。福州、汕頭、廈門の独立は翌十日にして、更に翌十一日に至ては宮城の守護たるべき奉天山東及び芝罘亦独立して北京は全く革命的潮濤に包囲さるゝ孤島となれり。連日連夜接踵して到る所の凶報かくの如きは古今の興亡に比類なき激変にして狼狽せる亡国的官僚の為し得べきところは只亡国貴親等の悲泣に和して涕涙を流すことのみ。実に十四日の謁見が討伐を全然不可能として如何に革軍と和を議し皇家の存続を望むべきやを諮問奉答せし涙物語なりしというは当然に非ずや。而して南に在て革命的要求を察知するを得たる岑春?が北京の貴親に共和政体採用を勧告せし十五日に於て、尚未だ公武合体論に捉われたる彼は貴親内閣に代うるに自己等の漢人内閣を以てし以て排満興漢の要求を迎え得べきものと考えたりき。浅薄短見なる彼はかくして革軍政府の賞讃を期待すると共に旧道徳的形式に従いて忠臣義士たるべきを夢みたり。−彼は世評の如き奸雄の器に非ずして堕弱なる俗吏なりき。攝政監国の退位が彼に取りて積年の失脚を報復せしものか、勢の止むを得ざるに出でしかは末葉なり。
亡国階級内に於ける満漢の争より外見聞せざる彼は、武漢に挙がれる排満興漢の声が根本に徹底的要求を有することを理解せずして、浅薄にも今の貴親内閣を廃して満人の君主の下に漢人の責任内閣と国会とあらば国乱平定すべしと妄想したり。しかも彼が攝政王の退位と共に発表せし君主立憲政の愚策は天下の革命党をして洪然として笑倒せしめたり。革命は雷の如く振い電の如く馳けれり。袁内閣成立の十六日とその翌日とに於て京畿背面の鎭台吉林黒龍の二省は各々保安会を組織して両端を持すべきを表白したり。二十二日に至りては四川の重慶独立を宣布し、二十六日に至りては藍天蔚を都督として眼前指呼の奉天に革命の炬火を見たり。翌二十七日、黄興が漢陽の敗走は彼及び亡国貴族等に於て聊か愁眉を開きしやも知るべからずと雖も、対岸の武昌は馮軍の嘗て江の半ばより却走せしところ。特に同日、成都独立し、全蜀挙げて革軍の領有たりし驚愕を相殺し得るものに非ず。而して翌二十七日、彼の自ら認めて大策とせる一切の降伏条件を具備せる憲法信条が大廟に宣誓されたる日、彼の同僚端方は四川に進む能わず湖南に退く能わずして資州に屠られたり。討伐将軍の血髑髏がその親兵の鎗尖に懸かれりとは如何に清室三百年の大廈傾きて支うべからざるを全天下に示すもの、怯懦なる袁輩の戦慄や想見すべきなり。更に五日を隔てゝ南京陥落の飛報あり。全局の勝敗明かに決して堕弱なる忠臣義士は浅謀小策の案出すべきものだになし。 之を約言すれば、数年間の猟官運動者は革命が単なる暴動なるかの如く湖北省の一角に噴出しつゝありし十月半ばに於ては軽卒なる欽差征討大臣たりしことは事実なり。湖南直ちに亞ぎて起ち、長江の各省動き、北方の守亦危うからんとし、江の両岸勝敗視るべからざるに至りし同月末に於ては彼は自ら変じて講和大臣となれり。而して実に北京に入りて太后に謁せし十一月ばに於ては、彼は恰も革命軍政府より派遣せられたる勧降使なるかの如く豹変したるものなり。即ち彼は一定の謀略計画を有せしものにあらずして単に大勢に附随せし事大主義者なりしのみ。
不肖は支那軽侮観者と異なれる論拠に立ちて支那人の多くが事大主義者なることを唾棄す。事大主義とは多くの支那人に見る如く、維新前の日本に於て又欧州各国の衰亡ここに於て示されたる如く、亡国階級の通有性なり。知己を百世に待つの論議、千万人と雖も吾行かんの操守は独り新興の国民に於てのみ視るを得べく、内治外交たゞ強者の勢力に阿付隨従するに至りて国は則ち亡ぶ。衰亡期の清国が只強国に阿従するを事とし、その亡国階級の一人たる袁の外交が常に事大主義なりしことは世人の周知するところにあらずや。しかるに独り革命の大渦乱中に於ての彼の対革党策が事大主義ならざりしとは不肖等の信ずる能わざる論法なり。事大主義者とは謂うまでもなく卑怯屈従を意味して、天下を奪わんとする奸雄の堂々たる胆略と何の相似たるところぞ。操守なく識見なく大勢に阿従して頭首の全きを僥倖せんとする軟骨腐腸の老爺を指して奸雄と名くぺくんば老いて邪悪なるもの悉く然るぺし。彼が大兵を擁して自ら護れるは超人的見解者の考うる如く簒奪の野望を包蔵せしが故にあらず。支那の内地に於て富豪が日常武装せる家人を養い家壁を守りて群盗の襲來を防御すると同一なる自衛方法を軍職にありしが為に大規模にしたるに過ぎず。彼が端方の如く深入りして進退を革軍に断たれしならば、その自ら護らんとする親兵その者によりて屠られたるべきは推想し得べし。 彼は倖運にも当時官場の失脚者なりしがために起用を受けて未だ任に赴かざる一週日間に天下の大勢の已に全く抗すべからざるを視たり。彼は革軍に降伏を申込みつゝ唯一の退路を北京に発見したる事は、退路を塞がれたる端方より長命なる所以なりき。彼の救主は京漢鉄道なりき。敏活に逃亡したる總督瑞徴と、逃亡する能わずして俘虜となりし黎元洪とがその運命を天地に分ちたるを笑う勿れ。端方と袁世凱とは一に退路の有無によりて生死を異にしたり。二者共に革命の猛火に包まれたるは同樣にして、只彼は地理的幸運より戸口に近かりしが為に端方の如く燒死を免れたるに過ぎず。賣卜者に従いて言えば彼は端方の如く火難剣難の死相を有せざりしと云うに過ぎざるなり。富士川の水禽に驚走せし平家の大将の如くに彼は京師に入れり。満清の公達は退却将軍の袖に縋りて身家の安全を悲泣鳴号したり。敵軍に投降を申込みたる二心の事大主義者は尚腐朽せしと雖も旧道徳の良心を有したりき。彼は武昌の密使が復命せし興漢の義士たるべき積極的道念を欠如すると共に、この悲劇を眼前に見ては流石に主家の保全に努めざるべからずという旧道徳の堕力に従えり。 彼は主家の保全の下に於てのみ自家の安全なるべきを見たり。彼は申分なき亡国階級の典型的人物なりき。怯懦無気力にして狼狽悲泣するの外なき彼及び彼らはもとより一戦して敵勢に当るの概なきは論なし。則ち一切の要求に降伏して一に自家の安全を僥倖したり。これあたかも維新革命に於て徳川将軍が大阪城に陣して軍容堂々将に皇居に迫りて威嚇せんとし、却って伏見の一戦に却走すると共に戦意頽然として碎け一に勝海舟によって首級と封地の安泰ならんことを祈願せしと等し。亡国階級の代表者として彼の企画し得たる所の一切は無条件降伏と主家の存続とに在りき。流布せらるゝ世評の如く彼は主家を簒奪せんが為に講和を計りしに非ずして、全く主家の存続の為に降伏を努力せし汚穢なる忠臣なりしことは疑いなし。しかしながら彼の君主立憲政とは漢人の主権に屈従して満清皇室を存続せしむべしという意味のもの。 皇帝の主権は依持して犯さるべからずとする字義に基きて解すべきに非ず。彼は彼の鳴号が全支那の革軍に笑殺せらるゝや即ちその事大主義によって英国の保護を求めたりき。かの租界に近き富家翁がその財産を外国銀行に委托する如くに、汚穢なる清末の一忠臣はジョルダン公使のポケツに三百年の帝冠を保管すべく哀求せり。一新聞通信員モリソン氏の活動は犬養氏の十把頭山翁の八ダースを以てするも及ぶべからざる者なりき。−即ち袁のその器に非ざるが為に勝海舟の役割はこの一英国人の演舞するところとなれり。 あゝ諸公。袁世凱の英国に於けるや彼が朝鮮公使として日清戦争を挑発せる三十年前よりの後援者に非ざるなきか。英国の認めて以て己の勢力範囲となす長江の各省に日本人と日本の資本とが侵入する事を制御すべく保守的勢力を維持せんとするはジョンブルの智慮に非ざるなきか。永年の官場に習熟せる袁は突発せる革命に対しては一小策だに無かりしと雖も、英国を動かせば日本の自ら追隨し来るを知悉せり。伊集院公使はジョルダンの従僕の如く忠実なりき。諸公。英国本位の対支外交は加藤前外相が英国的紳士なるが故にあらず又日支交渉に始まれるに非ず。実に日英同盟を自主的に理解する能わざる日本外務省の結核性遺伝病なり。五年前不肖等が動乱の渦中に在りて、彼の浪人等の多くが異口同音支那に於て日本に何の敵意なきドイツを怒罵するを視て遺憾なりとせしもの今に至て一書生の狂言にあらず。 果して英国の附庸国としての日本は君主立憲政に盲従したり。内田君等の電告によりて故宋君の錯愕したるは実にこの時にして、君主立憲の名に於て満清皇室を維持せんとする袁の妥協案に対して共和の主張を讓歩するは排満の根本目的を放棄するの結果に陥るべし。維新革命に於て攘夷鎖港の文字が倒幕の異名詞なりし如くに、共和政の主張は征服者の主権を顛覆せずんば止まざる民族的要求の符号として政体論以上の意義を有したるものなりき。水禽将軍が北京に於て降伏内閣を組織したる十一月十六日より正に二週間を経て漢口の英国領事立会の下に武漢両岸の軍は和議のために停戦したり。十二月八日、北京を出発したる講和使唐紹儀一行は実に十八日の上海会議に於て四ケ条の要求を提出せられて純然たる投降使となれり。一に曰く、大清朝廷を撤廃すること。二に曰く、共和政体を採用すること。三に曰く、皇室及び皇族には所定の年金を支給すること。四に曰く、貧窮なる旗人に対し新政府は可成之に官職を與え又は年金を給與し寛仁の処置を取ること。あゝ之をその始めに於て袁が清朝の尚万歳なるを信じて欽差征討大臣を拜命したる時に立案したる四ケ条に較すべし。明年国会を開くべしと云い責任内閣を組織すべしと云う朝廷の屈従に対して一と二とは明かに主権者の交迭したる事を宣告するものに非ずや。革党検挙令を廃すべし党禁を解くべしと云う讓歩に対して三と四とは君主を降伏者として取扱い戦勝者の須らく寛洪なるべきに信ョせよとするの態度にあらずや。四ケ条はかくの如くにして倒まに提出されたり。『革命』は明白に統治者として殺活與奪の大権を把握したり。
しかしながら諸公。袁に取りては双方の四ケ条共にその本心の要求を充たせるものにあらざるか。何となれば彼の主張する君主立憲政とは−−彼が往年排陷せし康有爲の如き一個の政見より出でたるものにあらずして−興漢の声に抗すべからざるを見て降伏せんとする恐怖と、満清の主家を存続せしめざるべからずとする旧道徳の堕力との二要求を捏ね合せたるものなればなり。漢人の責任内閣も共和政治も降伏者に取りては同一なり。主権の維持も優待条件付の退位も主家の存続を望む上に於て差等なし。十一月十四日の謁見に於ける太后攝政等と彼との問題は必ずしも上諭に表われたる四ケ条を固執するものに非ずして、恐くは亡国階級共通の心理に於て寧ろ革軍政府より與えられる四ケ条に甘んずべきに落着したる事は推想し得べし。 只彼は亡国階級の代表的事大主義者なりき。京漢鉄道に救われて北京に却走せし時かかる最少限度の希願より持たざりし彼は、英国及びその附庸国たる日本の後援を期待し得べきを発見するに及びて俄然として強硬なる一政治的理想を持てるものの如く豹変したり。彼は何人かの入知恵によりて君主共和の国体問題は国民議会に於て決定すべきを主張したり。革軍政府は戦勝者の正義に基きて自ら問題の決定者となり、実に一月一日、孫逸仙君を立てゝ共和政府の成立を告げ断乎として彼及び満清皇室に服従を強いたり。亡国階級通有の事大思想は北京に入れる袁をして革軍の勸降使たらしめし如くに、上海に来れる唐紹儀は共和政府の使節に一変して彼に向ってその主張の放棄を勧めたり。(かかる唐輩を革命的一人なるかに待遇する支那及び日本の昏迷こそ抱腹すべき限りならずや) しかしながら彼は英国の後援によりて二週日前に見るべからざる強硬に変ぜり。唐紹儀は講和使を辞任したり。 モリソンは自ら爲を上海の政戦場に驅りて日本浪人団の幾百は雜兵の如く蹄塵を浴びたり。ジョンブルの外交的能カは日本政府の手を借りて革命援助に来れる日本国民を列国環視の間に侮弄唾辱せしめたり。独立国政府が或る一国の頤使の下にその国民の対外活動を裏切りたる無恥卑陋なる奴隷的外交は不肖始めて之を日本の外務省に見たり。日本浪人団の声援を以て日本政府の同情なりと斯待したる革命党はこの政府と国民と相扞格残害せる外交的乱調によりて将に無援孤立せる叛徒の団集たらんとしたり。 日本人の空虚なる同情は如何に鯨波の如く起るとも、日本政府が英国のインド巡査たらんとせしこの一事は革命の進行を中途に挫折せしめし最後有力なる圧迫なりき。いわゆる南北講和なるものゝ真因が支那人の民族性的欠陥に帰すべきや否やは少くも日本人に於て之を論ずべき面皮なし。彼らは彼らの政府が英国の利益の為に頤使せられつゝありしことを知らず。而して特に英国の巧みなる使嗾に煽せられて、凡ての彼らは却って何の利害背馳なきドイツを支那に於ける日本の敵国なるかの如く解して些の悟るところなかりし者に非ずや。切に諸公の憐憫に訴えんと欲するは隣邦国士が当時の悲痛なる遺憾なり。しかも一挙革命を弾圧し延ひて日獨相疾視するに至らしめし英国の詐謀を察知するところなき日本政府及国民の愚呆に至ては、不肖実に声を放って諸公の面前に慟哭せざらんとするも能わず。 しかしながら『支那人之支那』はその革命の遂行を支那自らの手を以てしたり。漢口の爆弾が革命の始なりし如く、その終は北京に於ける爆弾なりき。英国及びその附庸国日本が君主立憲政によりて妥協を斡旋しつゝありし間に於て、孫逸仙君と袁世凱とが政体論の名に藉りて絶体的降伏か否かを電報談判によりて争いつゝありし間に於て、興国的年は断々としてその進路を驀進したり。北京は巷は爆弾の血烟となれり。不肖は渦中の人として、易水粛々の古へを忍ばしむる隣邦志士の陸続として北上するを見送りて泣けり。一月十六日、轟然たる爆烟は袁の馬車を包めり。火難剣難の人相なき彼は肉体に微傷だも無かりしと雖も、実に一点微かに腐朽して存する旧道徳の良心を吹き飛ばされたり。顛倒せる亡国階級の代表者は路傍に落ちたる良心を拾う能わずしてその肉体のみを馬車に載せて逃走したり。日英両国を後援としたる彼の外交的成功も、一発の爆弾より受けたる戦慄を緩和する能わずして直ちに忠臣義士を廃業したり。この廃業届は二国公使の後援なかりし以前に於て将に武昌に送られたる密使の提出すべきものなりき。
唯北京に入ると共にこれ等の後援を発見したるが故に逡巡惑迷して出し後れたるものに過ぎず。而して更に十日後、同一なる爆弾は同僚良弼を雷撃の如く彼の眼前に屠りたり。已に君主立憲の主張を吹き飛ばされて顛倒せる袁は察すらく恐怖戦慄に七顛し八倒したるべし。誠に蜀人の誇る如く良弼の爆殺は清朝の唯一支柱を斫り倒したるもの。三百年の腐朽せる大廈は轟然として崩壊したり。−不肖は少くも支那革命に於て暗殺が革命成否の全部を決定せる実証を見しことを特筆す。−彼は主家を存続せしめざるべからずとする旧道徳的良心を遺失したると同時に、幸運にも存続し得べからざるべく主家それ自身の崩壊するを見たり。彼は漢人の名によりて投降の口実を得たる官軍諸将が連名して共和政体採用の上奏をなせるに習いて共和政府の一将軍に豹変したり。彼は清室に対する良心を遺失して空虚となれる懐に、明末義人の良心を詰め込みて革命政府の北上先発隊なるかの如く一変したり。 彼は天が造りたる事大主義者の傑作なりき。革命党を許して憲政を布くべしという君主の四ケ条と、君主を優待して共和政を探るべしという革命党の四ケ条とは根本の精神を異にす。しかも両者孰れもの良心を有せざる一肉塊の彼に於ては其の一より他に移るの不合理を感知せざりしは論なし。孰れの四ケ条なるにせよ主家及び自家の安全を保証せられたる事は投降者の願望の十分に充たされたるものなりき。笑うべき支那人崇拜論者よ。(軽侮論者たるべき奴隷心の故に崇拜論者たる者よ) 悲泣狼狽せし一俘虜を大義の首唱者なりと誤認するは事実の蔭蔽されたる故に恕せらるべし。一挙一動明々白々に報告せられたる怯懦無策のこの投降者を指して官革両軍を掌上に飜弄せし奸雄となすは殆ど何の謂ぞ。二者共に彼に飜弄せられたるものにあらず。満清皇室は存続の願望を容れられたり。革命政府は排満革命の大目的を遺憾なく貫徹したり。飜弄したるものゝあらば英国にして、飜弄せられたるものゝあらば伊集院公使と然り而して日本外務省のみ。
しかしながら一俘虜を挙げて大義の主唱者たらしめし革命の第一歩に於て譚人鳳の許すべからざる責任ありといえる前言と別個の精神、則ち道義的彈劾に於て論結せざるべからず。則ち革命の終局に於てこの一投降者をして南北統一の役者たらしめしことは孫逸仙君の弁解すべからざる責任なりと。凡ての遺憾は孫君が革命の理想を体現し運動を統轄したる英雄ならざりし事に帰納すといえる不肖の断言はこの南北講和の一事に於て明かに立証さるべし。 孫君の上海到着の日は十二月二日南京城は陥落して天下の形勢殆んど全く定まり、翌三日実に武漢の両軍は和議の為に停戦したる後。彼の全任務は唯革命政府の優勝的地位を維持して投降者を処分するに寛厳宜ろしきを得ば足れりとす。加うるに敗者の身を以て主的地歩を保たんと企つる君主立憲政の主客顛倒事は烈士爆弾の一撃に破られたるに非ずや。彼の凡腕は投降者を主位に置きて革党の客たるべき実質上の顛倒事を現出せしめたりとはこれを何とか言わん。彼は革命の始めに来らざるのみならず、革命が終りつゝある時に来たり、他の凡ての革命的指導者等が凡てその任務を尽くしたる後に来れる者。而して只彼の為に殘されたるこの一任務にすら孤負したるかくの如し。支那浪人団とそれに雷同する衆愚とは孫逸仙の名に眩惑して恥となさず。しかも当時隣邦国士の挙りて、孫文虚栄の為に虚位を窃みて天下の大事を誤れりとせる切齒痛憤の情は不肖敢て一管の筆を以て之を後世史家に残さざるべからず。ここに於て疑間あるべし、−袁世凱の大総統たりしは孫君の木偶なりしが故なるかと。
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【十 英公使の買辧衰世凱 】 |
日英同盟と支那保全主義とは両立せず。日英同盟はロシアの恐怖なき今日に於ては本來の意義なし。正義に根拠せる日本の支那保全主義と英国の資本的侵略の為のそれ。日本を南満に占拠せしめたる天の配剤。揚子江各省に対して英国は勢力範囲を主張する何らの根拠なし。北支那の為の日露戦争は南支那の為に日英開戦となる。英国の資本侵略を翻訳する日本の対支策。日本はカルセーヂよりもローマたるべし。日本の対支策は分割か保全かを分つ能わず。英国の資本的侵略を打破したる後に日支提携を云い得ペし。保全主義の本來の面目より堕落せる日本に対して支那の憤恨する論なし。南京政府は日本に対する国民的反感の為に倒されたる者。己の買弁を擁立しつゝ日本を讒誣したる英国。日支交渉とは英国の指導権下に在る支那に向って等しく英国の指導権下に在る日本が指導権を要請したる被保護国同志の掴合いのみ。英人の活躍と醉眼朦朧の孔明諸君。同族相食ましめて巧みに擒縱する英国の下等人種統御策。日本の堕落外交の犠牲たりし革命党の悲慘なる末路。
もとより然りと言うべし。唯然らずと言わんと欲する一事あり。何ぞや。日本の英国に附随せる奴隷的外交と日本の不信用不徹底なる支那保全主義これなり。諸公。不肖は支那保全主義と日英同盟とが絶対的に両立する能わざることを信ずるものなり。而して支那の革命によりて支那自らの力を以て領土の保全を主張せんとするの日は、当然に両立せざる日英同盟は日本及び支那の一撃によりて破却さるべきことを信ずるものなり。この信念は不肖の首級を掛けて諸公に訴えんと欲するところのものにして、本書論述の主眼亦実にここに存す。英国と日本とがロシアの南下東侵に対して同一なる利害を感じて締結したる政守同盟は、日露戦争と同時にその存在の意義を失えるものなり。英国の或る論客が同盟を以て日露戦争の為に英国の利用されたるに過ぎずと評せしことも一の真相なり。日本の多くの識者がポーツマスに於ける小村大使の大失敗を英国の対獨政策上露佛同盟の勢力失墜を慮りて日本を制肘したるに基くと看破したることも一の真相なり。日英同盟とはロシアがかって両国の共通なる恐怖たりし期間に於てのみの意義なればなり。故に日英共通の恐怖に非ざる米国が日本の威嚴を毀損せんとしたる時英国が却って米国に向って英米仲裁条約の締結を求めたりし事も彼の自由なり。従って支那に於て日本に何の恐怖たらざるドイツが英国の敵国たる今日、日本が同盟条約を曲解して戦争に參加すとも又正解して傍観すとも日本の自由が全く絶対的のものなりしことは『日英同盟の誼』に照して明かなり。
−不肖の断乎として拔くべからざる信念と痛憤限りなき遺憾とは、日本が日露戦後常に英国の掌上に飜弄されつつ終に一の悟るところなく、現下の大戦に際して選ぶべきところを根本的に錯誤し国運将に九仭の淵に臨めることなりと。これ不肖の後章に詳述せんと欲するところなり。実に日本の英国に飜弄せらるゝの甚しき敢て南洋の獨領を赤道の南北に相争えるが如き屑々たる小事にあらず。不肖等は五年前の支那に親しく視て、支那に於ける二国同盟は日本の正義の為に存せず英国の利権の為に存するかの如く感じたることなり。由来正義に根拠する日本の支那保全主義と利権の保持に汲々たる英国の資本的侵略政策とは、よしんばロシアの分割的勢力に対抗せし期間外見上相似なるかの如きも根本精神に於て全く氷炭相容れざるものなり。 日露戦争は支那全部の保全的正義の為に戦われたるもの。ロシアと協商して北支那を分割し揚子江流域の南支那を英国利権の範囲として割讓せんが為に同盟したるものに非ず。全世界の富を以てするも購う能わざる十万の枯骨はアジアの盟主がアジアモンロー主義の天啓的使命の故に吝まざりしところ。北より脅かさんとする武力的分割と、南より漸侵せる資本的侵略を助長せんが為に非ざることは、旅順白王山巓の表忠塔に誓いて不肖の断言せんと欲するところなり。終に南北満洲の分割を結果して戦前の保全主義を形式に於て損傷したることは、当時の清国が已に露国に割讓し更に加るに日露戦争に参加せざりし権利放棄としてロシアの領有より讓渡せられたるもの。三国の条約関係は外交の無能の為に如何樣に存するかは問題に非ず。南満領有の精神に於て、日本がその保全せんとする支那その者より割取したるに非ざる事は炳乎として蔽うべからず。 視易き引例を用いれば、彼の沿海黒龍江州の如き昔時清国の領有たりしものをロシアより占有する場合に於て、日本が支那保全主義を欺むかざると同樣なりと言うべし。不肖は固く信ず。天の配劑によりて日本が満洲に占拠したるが為に全支那は北露の分割より消極的に保全せられ、更に日本がバイカル以東黒龍沿海州の一帯に進出したる時始めて支那保全主義は根柢より積極的に確立すべきものなりと。奴隷的外交は支那の聊か関係なき日露二国の大戦の戦利品としてロシアより得、且つ戦争の意義の為に守持せざるべからざる南満洲を以て、単に支那を欺きて約束せしめたる揚子江流域の不割讓と相殺し得べきものと考うるや。不割讓の誓約は団匪乱の当時支那分割の将来を仮想したるもの。則ち日本がその腰間の秋水に掛けて保全主義を取るべしと宣明せざりし以前の想定に過ぎず。之を換言すれば日本の支那保全主義が列強の経済的分割に敗退したる日本自身の亡国の場合に於てのみ有效なるべき空文なり。日本がその陸軍と海軍とを有して、誠実に而して勇敢に全アジアの保護者を任じて毅立せば千百の不割讓条約ありと雖も反古に等し。しかり而して特に不肖等の如何にすとも了解する能わざる他の一事は割亡の仮想の下に存せし不割讓の誓言と、利権を獲得し得べき勢力範囲とが、英国の利益の為に日本に於て混同せられて承認さるゝかの如き疑惑これなり。 この全然異なれる二者の混同−揚子江流域不割讓の誓約が同時に英国利権の勢力範囲なりという曲解が英国によりて主張せられ而してこれが承認せざるべからざるものとせよ。島占領後袁政府をして宣言せしめたる沿岸不割讓の誓約を更に袁現時の窮境に乗じて全支那に拡充せしめ、十八省全部の不割讓を日本に対して誓約せしめたるとき−これ何たる平易にして合理的なる可能事ぞ−日本は支那全土を日本利権の勢力範囲なりと主張し、英国亦これを承認して鉄道と鉱山を荷ひつゝ東洋より退却すべきや。功利弄策を事とする白人国外交の顰に倣わず日本が厳然その国際的正義を支那保全主義に持して動かざるならば、揚子江流域に於ける不割讓誓約は全然無意義なり。特に況んや擾越権の如きは保全主義の本義に撞着する一個の侵略として許容すべき限りのものに非ず。不肖は日本対外策の根軸が支那保全主義に存すべきを確信す。故にそれと両立せざる日英同盟の存続を南支那の為に理解する能わざるものなり。支那保全主義は北支那の為に日露戦争を戦わんとして英国を利用したり。同一なる保全主義が更に南支那の為に日英開戰の準備として或る他の一国を考慮せざるは何ぞ。不肖らは五年前の第一革命当時に於て日本の対外方針が恐るべき迷路を辿りつゝあるを見て粟膚戦慄に堪えざりしなり。 誤解すべからず。不肖がこの言を為すは日本の正義の為にして日本の利権の故にあらず。英国はドイツを語らいて支那を南北に分ちて鉄道借款権の協定を為し、経済的分割を策して日本の保全主義を脅威したり。しかも日本はこれあるが故に全アジアの保護者たらんとする天啓的任務に違背するが如きことあるべからず。則ち欧州各国の経済的分割に習いて日本亦紛々たる割前の要求者たらんとする如きはその主義に違い任務に背く自殺的堕弱にして、歴史の批評に対して赤面するが如き足跡は堂々たる大国民の残さゞるところなるべし。詐略と投資とを以て外交なりと考うる如きは吏僚輩の翻訳的智識にして、日本民族の対外行動は挙手投歩唯正義と強力とあるのみ。不肖が揚子江流域に於ける英国のいわゆる優越権を否認せんと欲するは、彼及び列強の支那に加えつゝある経済的侵略を保全主義の名に於て許容する能わざるが為なり。これに換うるに三井、大倉等の資本を『悪用』して国家の正義を覆えさんと考うるものに非ず。保全主義がかってロシアの武力に脅かされたる時、敢然として之を撃破したるものは日本の正義と強力なりき。日本の正義と強力は今日、英国の資本に支那の将に屠殺されんとしつゝあるを視てその保全主義の[厂萬]行に怯懦なるべきか。日本が大胆聡明なる道義的信念の下に、その保全主義を資本的侵略を企てつゝある英国に遵守せしめんとする決意あらば、今の経済的亡国たらんとする支那を救うことは易々たり。同時に日本亦自ら二三資本家の欲望を犠牲に供せざるべからず。日露戦争に於ける保全主義は十万の国民と租税の二十億万金とを犠牲に供したり。
しからば英国の資本的併呑より支那を保全せんとする国家の大策に於て、或る種の資本家を満足せしめざる程度の抑制は之を犠牲というべからず。彼の黄金を以って購入したる各州を附加して膨脹せる黄金建国の北米合衆国すら、六国借款加入がウヰルソン政府の正義に反すと考うると同時に果敢に脱退せる事例を見よ。不肖は資本に国境なしといえる原則に抗争して、日本の資本が如何なる意昧を以てするも支那に入るべからずとするものにあらず。しかも外債利子の高低や数千万円の償否が内閣の交迭を来すほどの債務国の身を以て、国権の拡張を債権の設定に求めんとするが如き現状を見て、実に欧米外交の翻訳的模倣を痛歎せざる能わず。日本の陸軍と海軍とはカルセージを学ぶよりもローマたるべきの遙かに易きをヘう。支那を奪わんと欲せば須らく一個師団の陸兵と三隻の巡洋檻を以てすべし。
白人国の卑陋なる高利貸政策を学びてしかも支那の信ョを要請するの矛盾は発狂せるアジアの盟主なり。アジアの安全の為に支那と共に日本の擁護せざるべからざる経済的利権の存するあらば至誠一貫堂々として支那と共に之を協るべし。資本的侵略に根立する英国の優越権を承認して而も夜盗の如くその一角を窺[穴かんむり兪]するの附庸国はアジアモンロ−主義の発言者たるべきものに非ず。ロシアの武力が支那を脅かせし時日露戦争ありき。英国の資本が支那を半ば亡国に陥れつゝある今日、日本は終に英国の隨伴より脱出する能わざるか。不肖は切に諸公の指導によりて日本の支那保全主義が国家的正義に根拠して更に英国の併呑に抗して徹底するに至らんことを祈る。 かくの如き現実の理想に向って躍進しつゝある支那革命党及び革命の遂行によりて両国の国交に革命的進転を期待しつゝありし不肖らは、身親しく英国の外交策内に局限駆使せられたる日本の堕弱卑屈なる行動を見て如何に失望したるべきぞ。漢冶萍が白人国の分割を予想したる債權の下に置かるゝ事が日本及び支那の危機なりとせば、誠実聡明なる両国の協定は支那の進で求むるところなるべし。経済的分割を確定せんとする英国のいわゆる擾越権を承認して、日本先づ自ら根本に於てその保全主義の不徹底を表白す。対支外交の真意保全に存するか分割に存するかゞ不肖等日本国民自身に理解されず−政府その者亦理解せざる如くにしてしかも独り支那の不信を責めんとするや。保全主義が俯仰神明に恥ぢざる正義に立脚して而してその故に漢冶萍が売国階級の手に懸かりて白人国に占有さるべからずとならば正道自ら歴々として存す。何為ぞ革命の血祭に挙げられたる盛宣懐と孫逸仙とを結合せしめて南京政府を覆すが如き革命援助の大恩を估りしか。私かに国を売らんとするものに結べる日本は他の白人国と等しく国を買いて侵略する者と解せらるべく、仰いで以て東洋の盟主となす能わざるは支那民族の狡獪なりとするか。保全主義を資本的侵略の排除に徹底せしめて英国の優越権を拒否したる後に於てせよ。日支両国が両国の必要に基きて如何なる協定を敢てすとも、爾が誤りて敵国となせるドイツ又なさんとする米国の賛同も亦難しとせざるべし。
英国がその同盟国を傷くるに巧妙なる流言と術策を以てしたる事は断じて許す可らざるは勿論なり。しかも罪は如ち承認すべからざる彼の優越権を認めたる日本の無智にして卑屈なる外交に在り。四国の分割に結托せる盛宣懐の日本に擁護さるゝを見たる支那が、日本の保全主義を全く犲狼の羊言として解したるは却って賞すべき聰明に非ざるか。英国の日が西に没せんとして歴史の筆は將に彼の国交に些の道義的規道なかりし罪業を弾劾せんとしつゝある時、保全の名に陰れて分割の走狗たる如き国辱は日本民族の忍ぶべき事に非ず。保全と分割と、立策の当否は論究もとより恣なり。しかも不肖の切に諸公に望まんと欲するところは陰險詐略の外交圏外独りり日本の言動堂々として大丈夫の如くならん事これなり。かかる無主義無方針的外交より生ずる小策小術数は日本民族の誇に於て不肖再び之を支那に見るを恥とす。 この日本の英国本位外交と支那保全主義の矛盾撞着せる不信用とは則ち一投降者袁世凱をして倒まに大總統たらしめし有力なる原因なり。強大なる国家が弱国の信ョを繋ぎて一点の不安なからしむるに於ては、その国交正義の大道に基きて常に眼前の小利害を超越せる道義的弾力の充実せるものを要す。如何なる善意を以て解釈するも英国の保全政策とは單に揚子江流域に於ける利権を保守せんとする純乎たる打算なり。日本の保全主義の四億万民の独立を擁護して白人の地球儀に一角の黄色を殘存せしめんとする人道的発奮と対較し得べきものにあらず。単なる利権の保守は清帝を存続せしむるも、袁世凱を擁立するも、將た出來得べくんば自己の利益圏を可成拡大して分割さるるも、もとよりそのいわゆる保全主義を傷げざるべし。人道的要求より迸発せる保全主義は支那その者の自立によりて真の実現を見るべく、国家を白人の競売に附しつゝありし亡国階級を存在せしめて期待すべきものにあらず。
これを換言すれば、日本が誠実に支那の保全の爲めに支那の復活を望みしならば、亡国階級を擁護せんとする英国に盲従したる奴隷的外交と、債權の設定に參加し競争せる資本的侵略とは、日本の国家的道念に訴へて為すべからざりしなり。大局に放眼して断案一下せよ。支那の危機は日本の国運の傾かざる限りロシアの武力に非ず。しからば今日の財政的亡国を原因せしめ、財政的に支那の主権を把握し終らんとする英国は支那の併呑者にして日本の保全主義に対する唯一の敵なるに非ずや。孫君が英雄なるか凡骨なるかは言うの要なし。日英同盟が内乱の他の一方に加担して明白に干渉を始めたる時愛国の憂惧によりてその鋒の自ら鈍らざるを得ざりしは之を憫察せよ。日本思想系の革命的年は日本の保全主義の薄弱動搖に怒るよりも、先づ輿論の乱矢を蒙りて自家を防御するに急ならざるを得ず。 北に於て亡国階級を擁護しつゝ終に恐くは兵力を以て、南に於ては革命政府を声援しつゝ現に資本を以て、第二の朝鮮を支那に求めんとすとの猜疑恐怖は、彼らの過渡なる憂国的警戒に非ず。日本の道義的堕弱の外交が支那の信ョに背きしが故なり。不肖は諸公の信念が明確に徹底的ならん事を期待す。革命的新興階級の親日主義は日本の左顧右眄せる保全主義がアジアモンロー主義の天啓的使命によりて正義化したる後始めて至純至誠なる信ョに表現すべしと。日本に啓発せられたる思想によりて、而して日本国民の熾烈なる声援を負いて、将に支那自らが支那の保全に目醒めたる時、その政府は保全主義の本義と両立せざる資本的侵略を南に学び、北に於ては却って財政的亡国を原因したる亡国階級の維持に努むるを視る。かかる不安不徹底なる空言の盟主に対して諸公仮に不幸にして支那に国籍を有する者ならしめば、これに一絲毫の信ョを繋ぎ得べしとするか。いわゆる日支の親善が常に口邊唇頭の辞令に止まる所以は革命的新興階級に道念の覚醒なきが故に非ず。
日本の支那保全主義が徒に英国の財政的併呑の走狗となりて全く道義的弾力なき空虚の声なるを以てなり。憐むべし日本に対する支那の不信用は直ちに革命党に対する国民の不信用となれり。彼ら国民は分割か保全かの察知すべからざる卑劣なる犲狼の盟主に望を嘱するよりも、日本を圧迫頤使しつゝある英国の危険なる保全策に依ョするの遙に危険少なきを見たり。日本に対する信ョ感謝の誠実なりしだけ猛烈なる反動は一撃にして南京政府を打破したり。英国の附庸国政府と国民は非難の矢を孫の好紳士に集中し或は譚黄の人物を批判して革命の責を負荷し得べきや否やを論争しつゝあり。しかも不肖を以て視れば寧ろ日本は爾が天啓的使命たる支那保全に就て道念の鼓動なく聰明なる大策の樹立せるものなきを反省せざるべからざるを考う。かくの如くにして愛国的覚醒統一的要求は木偶の南京に中心を失いて武昌の俘虜に還る能わず、滔々として北を指したり。彼ら国民の多くが袁の投降者なることを解せざるは黎の俘虜なるを知らざりし如し。寄せては返す革命の大濤は孫君を砂岸に投棄して朽木の如き袁を潮頭に搖り上げたり。諸公の微笑の為に一言せしめよ。 大義の首唱者と南北統一の奸雄との差は只その擁立に際して涕泣せしと涕泣せざりしとの相異のみ。しかも英国及びその附庸国日本の清帝中心の妥協斡旋が直ちに清帝の任命せる降伏大臣袁本位の者に転化すべきは論なく、一面孫政府の崩壊と相待ちて終に統一政府の大総統としての袁世凱を見たり。在支英人の日本に対する中傷讒誣は当時不肖等の忍ぶ能わざるものなりき。頭山、犬養氏等に対する日探の怒は章太炎の狂に非ずして支那の包む能わざる恨なりき。日本に期待したる革命的年は国民に対してその面皮を失えり。不肖ら革命に関与せる日本人の恥辱は一に諸公これを憫察すべし。本国政府に一個の意志なく一にヂョルダン公使の命を仰ぐのみとは高祖高宗の名誉に対して告白する能わざるところに非ずや。日本は英国のインド巡査として駆使せられたる事によりて革命党と亡国階級との両者に信を失い、英国は日本を駆使しつゝ誹謗する事によりて全支那の景仰を受けたり。あゝ袁輩の俗吏を指して日本を飜弄し得る外交的怪腕あるものゝ如く考うるものよ。自己に向って盟主を強要しつゝあるものゝ上に更に盟主の存在するを視ば、その最高の権威に結托するはアフリカ土人と雖も難しとせざるべき外交ならん。袁は日本を飜弄したるものに非ず。日支両国実に一英公使に驅使せられ蹂躙せられて奴僕の如く取扱われたるのみ。歎ずべきかな英国の買弁に過ぎざるこの国家の競売人を擁立したることによりて、日本は東洋の盟主に非ず又支那を保全し得るものに非ざる一弱少国なる事を暴露したり。
あゝ諸公。かくの如くにして支那の軽侮嗤笑するを怒る日本政府及び国民はヂョンプルの手を拍って以て御し易しとする所以に非ざるか。支那の革命、及び従いて来るべき日支両国の自覚的結合が、終に英国の財政的併呑策を顛覆せずんば止まざる大勢なる事をヂョンプルの巧慧を以てして看破する能わずと考うるか。支那の指導的年等が未だこの点まで自覚せざることは事実なり。しかも日本の朝野尚未だここに覚醒せざることも亦事実ならずや。昨春の愚劣罪悪に満ちたる日支交渉は実にこの覚醒せざる両国の衝突にして、英国の指導権下にある日本の要求を扞禦せんとして、支那亦共の指導を英国に仰ぎたる盲人の掴合いのみ。支那の不信は言うべきことに非ず。支那は支那人の支那にあらずして英国の支那なればなり。支那に対して英国は指導権を有す。あらず!支那に指導権を強要したる日本の上に英国の指導権あり。 かくの如くにして、面縛將軍袁世凱は日本の外交的堕弱と擁護との為に全く主客を顛倒したり。かくの如くにして、新興め頸血を注ぎつつ国家の根柱礎石より再建せんとしたる革命党は一切の外交的関係を断絶せられ、その最も信ョを懸けたる隣邦の指導者より裏切られたり。革命期中のヒステリ的神経は曩きに宋ヘ仁を漢奸なりとして排斥せる参議院ありし如くに、支那国民は英人を中心とせる在支欧人の中傷讒誣に昂奮して日本を支那の侵略者なりと誤解したり。四国と盛宣懐との記憶を忘れて三井と孫君とを怒り、英国の奴僕たりし憐むべき妄動を察知せずして排満革命を阻止せんとするものの元兇として日本に警めたり。かかる理否を弁ずる能わざるもヒステリ的昂奮に際して、清帝を退位せしめたる者は袁世凱なりと誤解せしめ、日本の立憲政維持の主張を制御し得るものは只英国のみと錯覚せしむるは易々たるべく、敢て運動費三十万元を散ぜるモリソンを偉なりとするの要なし。ヒステリ的錯覚は已に武昌の俘虜を大義の首唱者と視たる者、北京の投降者を革命の終局者と聴くに何の意義あらんや。同一なるヒステリ的発作が將に孫君を擁して割亡を図らんとする日本を怒りつゝある時、袁の英公使とのありて之を扞禦すべしと慰諭せば忽ち首肯百偏して狂喜すべきは論なし。−不肖等日本国民は幾年胸裏に呑みし恨をキング・ヂョージの国旗に報ゆるの日を見ざるべからず。
三井の偸盗よりも山賊の如く揚子江流域に蟠据せるものは彼に非ずや。日本の顔色を窺いつゝ蒙古の一角を蠶食せんとするロシアよりも、全支那の破産を誘致して將にエジプトの如く監督し始めたる者は彼に非ずや。伊集院公使の從属的賛同よりも清朝の維持を努力したるものはヂョルダン大人に非ずや。醉眼朦朧の孔明諸君が通俗三国史の鼎立策を論じつゝありし時、島国内の小政策小術数に慣熟せる犬養氏等が日人相互間の紛争を事としつゝありし時、翻訳的外交官等が一点の恩怨なきドイツを以て支那に於ける日本の抗争者なるかの如く惑乱しつつありし時、かの英人の計は恣に日本と支那とを離間し終りたり。あゝ同族を相食ましめて巧みに檎縦するは彼らのいわゆる下等人種統御策として英国殖民史を一貫するところ。かってインドに加えエジプトに用いたるものを執りて之を日支両国の間に施したる深甚なる厚意は『日英同盟の誼』として不日干戈相見ゆるの時に感謝せずして止まんや。納税の多少国債の償否の如きは国民悉く解知するを要せず。只外交の事に至っては国家の存亡誠に一髪に懸ることあり。いやしくも血税の義務ある者挙りてその終始表裏を知得して駟も亦及ばざるの悔あるべからず。いわゆる第一革命の中挫、罪何ぞ革命党と支那浪人とにあらんや。不肖は実に帝国外交の根本精神に就きて適帰するところなき不安を諸公に愁訴す。 あゝ諸公。革命の支那が再び英國の支配に落ち英国の買弁が統一政府の中心たるべき形勢に逆転したる時、革命党の悲慘は之を推想するに難からざるべし。不肖は法制院總裁としての宋君が孫逸仙君の米国的大総統制を削り各省連邦的翻訳を除きつゝ、しかもその臨時約法に於てかって己れが苦しめられたる總長大公使等の任命に参議院の同意を要すとの個条を起草しつゝあるを見て訝かり問えり。彼は答えて曰く。統一後今日の形勢を以てせば袁或は大総統たるべし。吾党議会によりて彼を拘束すべきのみと。革命の日は西に落ちたり。不肖は忠言を頑守する能わざりき。怪む事を止めよ。革命中のフランスが十六回憲法の変改ありしに比較せば、暫行を標榜せる『臨時約法』にこの事ありしは諒とすべし。革命議会の議員が多く反覆して王朝の臣たりしが故に、凡て議員は大臣たるを得ずと規定したるフランスを以て立憲政の本義に矛盾すという者なし。
しからば敵将の元首を迎へざるを得ざりし支那に於て、守を憲法の城廓に求めんとしてこの事ありしは亦笑うべきなし。彼の革命を理解せずして軽侮を事とするの徒と、袁を中心として立君統一あるのみと論ずるの輩とは諸公の聡明を蔽いて曰く。支那は一人の皇帝にて足る。革命党の輩共和立憲の知識なきこと、この一条を見ると。不肖は省みて東洋の盟主支那の指導者がその外交的転進の活機を捉うる能わずして、隣邦復興の運動を却て参議院の城塞に退守せざるを得ざらしめしを悲しむ。孫逸仙君の英雄ならざりしことが袁をして大総統たらしめしことはもとより一の原因なり。しかも投降将軍を倒まに南北統一の元勳たらしめることは、英国の走狗たりし日本の外交が最も有カに原困したり。断じて云う。袁を誹謗することを止めよ、−日本が英国の指導権に服従する限りに於て。 |