北一輝の「国体論及び純正社会主義1」



 (最新見直し2011.06.24日)

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  2011.6.24日 れんだいこ拝


【目  次】
緒  言
第一編  社会主義の経済的正義(第一章〜第三章)
第二編   社会主義の倫理的理想(第四章)
第三編  生物進化論と社会哲学(第五章〜第八章)
第四編  いわゆる国体論の復古的革命主義(第九章〜第十四章)
第五編   社会主義の啓蒙運動(第十五章〜第十六章)

【緒  言】
 現代に最も待望せられつつあるものは精細なる分科的研究に非ず、材料の羅列事実の豊富に非ず、誠に全てに渉る統一的頭脳なり。もとより微小なる著者のかかることの任務に堪えうるものに非ざるは論なしといえども、僭越の努力は、総ての社会的諸科学、すなわち経済学、倫理学、社会学、歴史学、法理学、政治学、及び生物学、哲学等の統一的知識の上に社会民主主義を樹立せんとしたる事なり。

 著者は古代中世の偏局的社会主義と革命前後の偏局的個人主義との相対立し来れる思想なることを認といえども、それらの進化を承けて今日に到達したる社会民主主義が、国家主義の要求を無視するものに非ざると共にまた自由主義の理想と背馳すというが如く考えらるべきものにあらずと信ず。故に、本書は首尾を一貫して国家の存在を否む今の社会党諸氏の盲動を排すると共に、彼らの如く個人主義の学者及び学説を的に鋒を磨くが如き惑乱を為さざりき。

 すなわち本書の力を用いたるところはいわゆる講壇社会主義といい国家社会主義と称せられる鵺的思想の駆逐なり。第一編『社会主義の経済的正義』において個人主義の旧派経済学に就きて語るところ少なくして金井・田島諸氏の打撃に多くを尽くしたる如き、第二編『社会主義の倫理的理想』において個人主義の刑法学を軽々に駁して樋口氏等の犯罪論を論破するに努めたる如きこれなり。社会の部分を成す個人がその権威を認識されるなくしては社会民主主義なるものなし。ことに欧米の如く個人主義の理論と革命とを経由せざる日本の如きは、必ず先ず社会民主主義の前提として個人主義の充分なる発展を要す。

 第三編『生物進化論と社会哲学』は社会哲学を生物進化論の見地より考察したるものなり。すなわち正確に名付けるならば『生物進化論の一節としての社会進化論』と云うべし。しかしながら今日の生物進化論はダーウィン以後その局部的研究においては著しく発達したるに係わらず、全体に渉りてなお混沌たり。すなわち『組織』と『結論』となし。故に本書はその主たるところが社会哲学の研究にあるに係わらず、単に生物進化の事実の発見として継承せられつつあるものに整然たる組織を建てて総ての社会的諸科学の基礎となし、更に目的論の哲学系統と結び付けて推論を人類の今後に及ぼし、以て思弁的ながらも生物進化論の結論を綴りたるものの始めなる点において、著者は無限の歓喜を有することを隠蔽する能わず。もとより人類今後の進化につきては今日の科学は充分なる推論の材料を与えず、かつかかるものの当然として著者その人の傾向に支配されるところの多かるべきは論なしといえども、これ慎重なる欧米思想家の未だ試みるに至らざるところ、後進国学者の事業として最も大胆なる冒険なり。

 しかして著者は社会民主主義の実現がすなわちその理想郷に進むべき第一歩たるべき宗教的信念として、これを社会民主主義の宗教と名づけ、社会主義とキリスト教との調和衝突を論争しつつある欧米社会主義者と全く異なれる別天地の戸を叩きたり。由来キリスト教の欧米において思想界の上に専権を振るうこと今なおローマ法王の如くなるは、あたかも日本において国体論と云うものの存するが如し。日本の社会主義者に取っては『社会主義は国体に抵触するや否や』の問題にてすでに重荷なり。更に『社会主義はキリスト教と抵触するや否や』という欧米の国体論を直訳によって輸入しつつある社会主義者のある者の如きは解すべからざるもはなはだし。しかしながら本論はもとより宗教論にも非ず、また生物進化論そのものの説述が主題に非ざるは論なく、人類社会という一生物種属の進化的説明なり。著者は、憐れむべきベンジャミン・キッドの『社会進化論』が人類社会を進化論によって説明せるダーウィン以後の大著なりとして驚嘆されたる如き今日、この編を成したるにつきていささかの自負を有す。

 第四編『いわゆる国体論の復古的革命主義』はすなわち日本のキリスト教につきて高等批評を加えたるものなり。すなわち、社会主義は国体に抵触するや否やの論争にあらずして我が日本の国家そのものの科学的研究なり。欧米の国体論がダーウィン及びその後継者の生物進化論によって長き努力の後に知識分子より掃討せられたる如く、日本のキリスト教もまた冷静なる科学的研究者の社会進化論によって速やかにその呼吸を断たざるべからず。この編は著者の最も心血を傾注したるところなり。

 著者は今の総ての君主主権論者と国家主権論者との法理学をことごとく退け、現今の国体と政体とを国家学及び憲法の解釈によって明らかにし、更に歴史学の上より進化的に説明を与えたり。著者は潜に信ず、もし本書にして史上一片の空名に終るなきを得るとせば、そはすなわち古今総ての歴史家の挙りて不動不易の定論とせるところを全然逆倒し、書中自ら天動説に対する地動説といえる如く歴史解釈の上における一個の革命たることにありと。この編は独立の憲法論として存在すると共に、更に始めて書かれたる歴史哲学の日本史として社会主義と係わりなく見られ得べし。

 第五編『社会主義の啓蒙運動』は善悪の批判の全く進化的過程のものなることを論じ、第二編『社会主義の倫理的理想』において説きたる階級的良心の説明と相待て階級闘争の心的説明をなしたり。しかして更に国家競争に論及し帝国主義がまた世界主義の前提なることを論じたり。権威なき個人の礎石を以て築かれたる社会は奴隷の集合にして社会民主主義に非ざる如く、社会主義の世界連邦論は連合すべき国家の倫理的独立を単位としてのことなり。百川の海に注ぐが如く社会民主主義は総ての進化を継承して始めて可能なり。個人主義の進化を承けずして社会主義なく、帝国主義の進化を承けずして世界主義なく、私有財産制度の進化を承けずして共産社会なし。故に社会民主主義は今の世のそれらを敵とせずして総てを包容し、総ての進化の到達点の上に建てらる。かの、社会主義の理想は可なりといえども果して実行せられ得るやというが如き疑惑は、今日の社会民主主義を以て人為的考案のものと解して歴史的進行の必然なる到達と考えざるが故なり。本書が終始を通じて社会主義を歴史的進行に伴いて説き、また多く日本歴史の上にその理論と事実とを求めて論じ、ことにこの編において儒教の理想的国家論を解説したるが如きこの故なりとす。

 総ての社会的諸科学は社会的現象の限られたる方面の分科的研究なるを以て、単に経済学もしくは倫理学の如き局部の者を以て社会主義の論述に足れりとすべからず。ことに本書は繁雑なる多くの章節項目の如き規準を設けず、議論の貫徹と説明の詳細を主として放縦に筆を奔らしたるが故に、一の問題につきても全部を通読したる後ならずしては完き判定を下し得ざるもの多し。もとより一千頁に渉る大冊を捧げてかかる要求をあえてする著者の罪は深く謝するところなりといえども、全世界の前に提出せられたる大問題の研究として多少の労力は避けざるべきなり。

 著者は弁護を天職とするいわゆる学者等にあらず、また万事を否認する事を以て任務とする革命家と云うものに非ず。ただ、学理の導きに従って維持すべきは維持すべきを説き、棄却すべきは棄却すべきを論ずるに止まる。学者の論議は法律の禁止以外に自由なり。故に、著者は本書の議論が政府の利益に用いられて社会党の迫害に口実を提供するに至るとも、もしくはまた社会党それ自身の不利と悪感とを挑発するに至るとも少しも係わりなし。例えば、万国社会党大会の決議に反して日露戦争を是認せる如き、全日本国民の世論に抗して国体論を否認せる如きその例なり。政府の権力といえども一派の学説を強制する能わず。社会党の大勢力といえども多数決を挿んで思想の自由を軽視する能わず。一学究の著者に取っては政府の権力と云い社会党の勢力と云い、学理研究の材料たる以外に用なし。

 故に、著者の社会主義はもとより『マルクスの社会主義』と云うものにあらず、またその民主主義はもとより『ルソーの民主主義』と称するものにあらず。著者は当然に著者自身の社会民主主義を有す。著者は個人としては彼等より平凡なるは論なしといえども、社会の進化として見るときにおいては彼らよりも五十歳百歳を長けたる白髯禿頭の祖父曾祖父なり。

 新しき主張を建つるには当然の路として旧思想に対して排除的態度を執らざるべからず。破邪は顕正に先つ。故に本書は専ら打撃的折伏的口吻を以て今のいわゆる学者階級に対する征服を以て目的とす。

 著者は絶大なる強力の圧迫の下に苦闘しつつある日本現時の社会党に向かって最も多くの同情を傾倒しつつあるものなり。しかしながらその故を以て彼らの議論に敬意を有するや否やは自ら別問題なり。彼らの多くは単に感情と独断とによって行動し、その言うところも純然たる直訳のものにして特に根本思想はフランス革命時代の個人主義なり。すなわち彼らは社会主義者と云わんよりも社会問題を喚起したる先鋒として充分に効果を認識せらるべし。著者は社会民主主義の忠僕たらんが為めに同情と背馳するの議論を余儀なくされたるを遺憾とす。

 本書征服の目的なりと云う学者階級に至っては、ただ以て可憐なりと云うの外なし。率直の美徳を極度に発揮して告白すれば、余りに難を割くが如くにして徒らに議論の筆を汚辱するに過ぎざるの感ありといえども、それぞれの学説の代表者として大学の講壇に拠り、知識階級に勢力を有すと云うことのみの理由によって指定したるもの多し。言責はもとより負う。しかしながら今の日本の大学教授輩より一言の弁解だも来るが如き余地を残し置くことあらば、これ著者が義務の怠慢にして弁解その事が本書の不面目なり。故に著者はある学者-例えば丘氏の如き-対してはもとより充分なる尊敬を以てしたりといえども、大体において-特に穂積氏の如きに対しては-はなはだしき侮弄を極めたる虐殺を敢行したり。かくの如きは学術の戦場にジュネーブ条約なしと云うが為にあらずして、今の学者らが長き間勝ち誇れる驕傲と陰忍卑劣とが招きたる復讐とす。

 文章は平易の説明を旨としたり。しかしながら寛恕を請わざるべからざるは、開放せられたる天地に論議しつつある学者らの想像し得ざるべき筆端の拘束なり。為に学者階級との対抗に当て土俵の七八分までを譲与し、時に力を極めて搏たんとしたる腕も誠に後より臂を制せられるを常とす。加えるに今の大学教授輩のある者の如きは口に大学の神聖を唱えながら、権力者の椅子にすがり哀泣して掩護を求むるに至ってはいかんともすべからざるなり。権力者にしてこの醜態を叱斥せざる間は決して思想の独立なし。

 社会民主主義を讒誣し、国体論の妄想を伝播しつつある日本の代表的学者なりとして指名したるは左の諸氏なり。故に本書は社会民主主義の論究以外、一は日本現代の思潮評論として見らるべし。

 金井延氏『社会経済学』
 田島錦治氏『最新経済論』
 樋口勘次郎氏『国家社会主義新教育学』及び『国家社会主義教育学本論』
 丘浅次郎氏『進化論講話』
 有賀長雄氏『国法学』
 穂積八束氏『憲法大意』及び帝国大学講義筆記
 井上密氏 京都法政学校憲法講義録
 一木喜徳郎氏 帝国大学講義筆記
 美濃部達吉氏 早稲田大学講義筆記
 井上哲次郎氏 諸著
 山路愛山氏及び国家社会党諸氏
 安部磯雄氏及び社会党諸氏

  日露戦争の翌年春 著者
(私論.私見)
 北は「緒言」で次のように述べている。社会的諸科学を踏まえた総合的な社会思想を形成する必要を説き、当時の時代が到達した社会民主主義、国家主義を、それまでの自由主義、個人主義、進化論の系譜を踏まえながら持論展開したい云々。西欧では社会民主主義とキリスト教との調和衝突に苦しむが、日本で同じよう問う必要はない。日本では「欧米社会主義者と全く異なれる別天地の戸を叩く」必要があり、それは国体論との整合である。日本では「社会主義は国体に抵触するや否や」を問わねばならない。かく述べたうえで、従来の国体論に対し、「天動説に対する地動説といえる如く歴史解釈の上における一個の革命たる」転換理論を呈示するとしている。

 続いて、本書を純然たる学理研究の賜物として上宰することを述べ、政治的には社会民主主義にも政府公認の御用的な国体論にも与さず、「一学究の著者に取っては政府の権力と云い社会党の勢力と云い、学理研究の材料たる以外に用なし」と述べている。末尾で、「社会民主主義を讒誣し、国体論の妄想を伝播しつつある日本の代表的学者」の名を挙げ、これらの欺瞞論と闘う「日本現代の思潮評論」として位置付けている。

【第一編 社会主義の経済的正義】

【第一章】
 いわゆる社会の秩序と国家の安寧幸福。政府の迫害と学者の讒誣。貧困の原因。機械の発明。機械工業の結果にあらず。経済的貴族国。経済的勢力と政治的勢力。人格なき経済物。奴隷制度。個人主義の旧派経済学。個人主義の発展と歴史の進化。個人主義経済学の革命的任務。スミス当時の貴族国経済組織。経済界の民約論。個人主義の反逆者。階級に阻害されたる自由競争。機械と云う封建城廓。自由競争の二分類。機械中心問題の社会的諸科学。個人主義は革命に至る。個人主義の論理的帰結。官許無政府党員。いわゆる社会主義者に混ぜる個人主義者。
 
 社会主義の深遠なる根本義は直に宇宙人生に対する一派の哲学宗教にして厳粛なる科学的基礎の上に立ち、貧困と犯罪とに理性を撹乱せられて徒らに感情と独断とによって盲動するものに非ず。しかしながら貧困と犯罪とを以ておおわれたる現社会より産れて、新社会の実現に努力しつつある実際問題たる点において論究の順序が先ず貧困と犯罪の絶滅ならざるべからず。故に吾人は第一編『社会主義の経済的正義』において社会主義の物質的幸福を説き、第二編『社会主義の倫理的理想』において社会主義の精神的満足を論じ、しかして第三編において『生物進化論と社会哲学』として社会進化の理法と理想とを論じ、社会主義の哲学を説き、社会的諸科学の根本思想たる者を述べ、以て第四編『いわゆる国体論の復古的革命主義』に入って古来の妄想を排して国家の本質及び憲法の法理と歴史哲学の日本史を論じ、第五編『社会主義の啓蒙運動』に及びて実現の手段を論ぜんとす。

 貧困と犯罪。実に社会主義の実現によってかくの人生の悲惨醜悪なる二事が先ず社会より跡を絶つとせば、社会主義はこの地球を導きて天国に至るべき軌道を発見せるものと云うべし。しかして社会主義は実にこの発見のために今や全地球に征服の翼を張るに至れり。
 いわゆる社会の秩序と国家の安寧幸福

 しかるに転倒のはなはだしき。かえって今の政府と学者とは社会主義を迫害し讒誣するに当たって、常に必ず社会の秩序を紊乱すといい、国家の安寧幸福を傷害すという。しかしながら、かくの如き誣妄はすでに現今の社会に秩序あり、今日の国家に安寧と幸福とあることを確実として伝えるものなり。社会主義は実に反問せざるべからず、現今の社会に紊乱すべきだけの秩序ありや、今日の国家に傷害すべからざるほどの安寧と幸福とありやと。今日の科学的社会主義は徒らに感情的言辞を弄して足れりとするものにあらず、理性にしてその光を文明の名におおわれざるならば、この反問は実に総ての口より聞かるべき疑問なり。

 もしある階級の権勢と栄華とを築かんがために警察官の洋刀と軍隊の銃槍とによって危うく支えられる状態を指して秩序なりと云わば、現今の社会はかかる秩序の精微複雑なるものを有す。身命を失うもの日に限りなくして財産は野蛮部落の如く多く各自の物質力によって各自に保護せられるに係わらず、吾人は財産を保護し身命を安固にすという法律の下に国家の安寧幸福を受けつつあり。社会主義はかかる状態の秩序とかかる安寧幸福とを以て地球の冷却するまで維持すべきものなるかの如く信ずるものにあらざるが故に、政府の迫害と学者の讒誣とはこの意味よりせば試実なる憂慮より出づるものなりとすべし。

 同類なる人類の血と汗とを絞り取って肥満病に苦しむものに取っては今日の国家は安寧幸福を与うべしといえども、かかる滋養物の供給を負担せしむる社会の秩序は血と汗との階級に取っては紊乱すべからざるほどに尊貴なるものとは考えざるべし。生まれるとより死に至るまで脱する能わざる永続的飢饉の地獄は富豪の天国に隣りて存す。

 この餓鬼道の餓死より逃れんが為めに男は盗賊となり女は売淫婦となり、しかして国家はまた赤レンガの監獄を築きて盗賊に安寧を与え、妓桜を警官に護衛せしめて売淫婦に幸福を受けしむ。この幸福を受く可き売淫婦を繁栄ならしめんがために売淫の料を以て政府は設けられ、洪澣の法典は学者の脳漿を絞りて安寧を与えらるべき盗賊の歓迎のために存す。文明の華なりと称する新聞紙は強窃盗の記事、毒殺刃傷の報道、老病の縊死、貧婦の投身、幼児の遺棄、乞食の凍餓というが如き記事を補綴してその文明の華を紙面に飾りつつあり。しかして残忍に慣らされたる吾人にはその紙面に付着せる斑々たる血痕と紙背より洩れる悲鳴の声を忘却して、かかる平凡なるものの代りにより一層の悲惨なる出来事の物語を待たしむ。

 かかる永続的飢饉を出すべき秩序、凍餓の幸福、殺傷の安寧は学者の奴隷的弁護を受くべきある階級に取っては一指も触れしむべきものに非ざるべしといえども、社会と国家とは実に社会主義の下に真の秩序と安寧幸福とを求めざるべからず、ああ貧困と罪悪、これ人類に伴う永遠の運命のものか。キリスト教徒はこれ神の御旨なりと誣い、仏教徒は未来において極楽に行くべしと偽る。しかも貧民はたとえ極楽に行くともすでにマルサスの在って人口論を以て拒絶すべく、己の形に似せて作れる男をして盗ましめ、女をして淫をひさぎて糊口せしむるの残虐は神の観念と相納れずして悪魔の名あり。

 政府の迫害と学者の讒誣

 しかしながら社会主義者は決してかかる障害に対して徒らに憤怒するものにあらず。新しき理想の前に旧思想の横たわりて急歩ならしめざるものは社会進化の常態にして、彼らは障害として横たわると共に社会維持のある任務に服し、以て新社会の誕生までをおおうべき卵殻たるものなり。しかして社会進化の断崖に臨みて権力階級の圧迫あるはこれすなわち権力者の権利にして、社会主義を実現すべき運動の本隊たる階級のなお未だ奴隷として彼らの鞭の下に唯々たる間は、社会主義は社会の秩序と国家の安寧幸福の名において迫害さるべきを避ける能わず。-社会主義が社会より冷笑せられ、国家より恐怖せられるはその空想なるが故に非ず、また激烈なりというが為にもあらず、ただ政府の迫害と学者の讒誣あるを以てのみ。社会主義! 何ぞ彼らの言うが如きものならんや。

 社会主義とは何ぞ。 

 先ず説明の順序として現牡会の大多数階級の貧困なる原因を察せざるべからず。いかにして大多数はかくまでに貧困なりや。

 貧困の原因、機械の発明、機械工業の結果にあらず

 経済学者はこの解釈として近世文明の機械工業の結果なりというを以てせり、吾人社会主義者もまた然く信ずるものなり。しかしながらもしこの問に対して、かく答えられて吾人が満足し得るならば、実にはなはだしき奇怪なりと云うべし。鉄道は地球の周囲を六十回し月までの距離の二倍に達せりという。しかも人類の多くはその生れたる地方に植物の如く定着して遊行の自由だもなきなり。ウォターべリ会社の懐中時計は僅かに一個五分間を以て完成せらるというにあらずや。しかも農夫にしてこの必要品の一個を夢むならば贅沢なりとせらる。アダム・スミスが分業の利を説くに引例せし留針の製造において、かの当時分業の結果十人にて一日四万八千個を作るとして驚嘆されしもの、今日は僅かに一個の器械にて一分間に百八十個を製し、単に三人の監督者は七十個の器械を運用して一日七百五十万個を容易に製出すという。農業につきて見るも、僅かに八馬力の蒸気脱穀器は八十人の農夫に休息を与うべく、蒸気犁は一日に五六町歩を耕やし、風力、水力、蒸気力によるポンプは一時に数百町歩を灌漑するを得べし。かって八十年前に五百人の強壮なる男子労働者が終日の労働を要したるもの、今は一人の監督者だにあらば一個の器械にて足るというにあらずや。

 一八八七年の古き統計によるも、世界諸国の蒸気力のみを合してなお全世界の人口すなわち十億人の労働に匹敵すと云い、イリーの言によればアテネ全盛の時すら一家十人の奴隷を有するもの僅少なる富豪なりしに、今日吾人は一家六十人の奴隷を有する割合の機械の発明なりと云うにあらずや。-この近世文明の機械工業は何を意味するぞ。かかる農具の発明あるに係わらず、可憐の童幼の時より弓腰の老衰に至るまでカカシの如く泥土の中にその生を送らざるべからずとせば意義なきことなり。

 全人類に匹敵すべき蒸気力は全人類をして労働の苦痛より脱せしむることにおいて始めて理由あるべし。ギリシャの自由民が十人の奴隷によってその燦爛たる文化の階級を作り上げしならば、それに六倍せる機械の労働力を有する吾人は人類種属という階級を挙りてギリシャ自由民の如く精神的活動に入るべき理にあらずや。

 機械が発明されるならば、その発明されたるだけ社会より貧困を駆逐すべく、近世機械工業の為めに社会大多数が貧困に陥れりとは実に八に五を加えて三となると云うが如き転倒せる答案なり。
労働の苦痛に代るべきものが機械ならば、機城の発明によって労働者はその苦痛の時間を減少さるべく、しかるに減少は労働時間の上に来らずして労働者の数の上に落下し、絶間なき失業者を産む。失業者は更に新たなる機械によって需要されるまで食うべき労働の道なきなり。しかしてその辛うじて道を得たるものといえども、休まず眠らざる機械と共に終日終夜を労働に過ごして不霊の自働機械と化し去る。物質的生活の資料を供給すべき機械はかえって労働者の維持し来れる物質的資料を奪い、精神的生活に入るべき閑暇を与えずして、かえって機械の周囲に労働者を精神なき動物としてつなぐに至れり。-貧困の原因はここに求めよ。これ機械工業の罪に非ず、近世文明の与り知らざるところなり。原因はここに存す。-即ち経済的貴族国の故なればなり。経済的君主経済的貴族の秩序的略奪あればなり。

 経済的貴族国、人格無き経済物

 実に今日のいわゆる大資本家といい大地主という者は単一なる富豪にあらず国家の経済的源泉を私有して殺活与奪の自由あることにおいて全き意義の大小名なり。北米の富豪の如きは広大なる領土を有し幾万の賃金奴隷を殺活するの自由なることにおいて、あたかもルイ十四世の如き主権の本体たる家長君主なり。幾多の実業雑誌と称せられる黄金宗の宗教時報とも称せらるべきものを開きて巻頭に載せられたるその御真影を見よ。石油王某、鉱山王某、製鉄王某、某々の銀行某、某々の石炭王。かかる尊号は決して比喩において用いられるに非ず、彼らは実に王位の尊厳と権力とを有するものなればなり。

 -否、現今世に存する近代国家の国家機関たる君主らは殺活与奪の権を有する彼らに比するならば誠に無権力なるものに過ぎず。独立戦争によって英王の苛政より脱せるワシントンの子孫は国土及び人民を君主の財産として所有せる時代の絶対無限権の家長君主等を奉戴してその下に奴隷として呼吸しつつあるなり。フランス革命の名において皇帝と貴族の手より土地を奪いて自由平等を呼びたる全欧州は、かかる新国王と新貴族とに一切の経済的源泉を略奪せられて再び革命以前に逆倒せり。

 我が日本においても然り、往年の貴族はその国土を国家に返還せしめられたるに、更に国家の経済的源泉を略奪して私有せる新たなる大小名は生じつつ始まれり。今日日本皇帝といえども国家の領土を略奪し国家の臣民を殺活すべき権利なし、国土及び人民は天皇の私有地にあらず天皇の経済物たる奴隷にあらず。しかるに普天の下地主の王土にあらざるなく、率土の浜資本家の王臣にあらざるなし。もし某々の王と称せられる経済界の家長君主等にしてその帝王の名なく大名の称なきが故に彼等の恐るべき権力を注意せざるならば、これ南面して朕と称せざる者は王にあらずと伝える王覇の弁なり。

 一切の政治的勢力は経済的勢力なり、国土及び人民を所有せる経済的勢力の上に立てる幕府時代の大小名を見て単に公債の所有者たる今の華族のいかに権力の皆無にして痕跡に過ぎざるかを見よ。しかれば限られたる王室費によって支えられる欧州諸国の君主よりも、土地と資本との経済的家長君主のいかに優かに強盛なる権力を有するかは想像せらるべし。一年の収入八千五百万円のロシア皇帝の経済的勢力はその政治的勢力をして専制ならしむるゆえんなりといえども、二億八千六百万円のロックフェラー第一世が人類の咽喉に対して直接の権力あるに如かざるべく、またトルコ皇帝がいかに東洋の暴君なりとも、その収入が二千万円に過ぎざる間は、それに二倍してなお余りある、カーネギー戦勝王が叡聖文武にましまさざる時より以上の権力を振るうこと能わず。ドイツ皇帝がいかに実質なき神聖ローマ皇帝の虚名を踏襲せんがために帝国主義を主張すとも、その歳入が一千八百万円のラッセルセージ陛下の三分の一のそれに過ぎざる間は三分の一の算盤において権力を得べし。

 -全社会の貧困はかかる経済的君主経済的諸侯の略奪あればなり。かの大小名に代わって再び大小名となりし地主の下における土百姓は、国家に対して多くの権利なき代りに大小名に対して無限服従の義務あり。地代借地料と称せられたる苛重なる年貢租税を奉納し、少しく滞納し御意に逆らうことあらんか、土地の取上げとなり御所払いとなる。彼らは『百姓は死なぬやう生きぬやう冶むべきこと』と定められたる幕府の貴族政治の如く、新たなる貴族の下に蜜蜂の如く働き、働きて得たる総ての蜂蜜を地代なる名においてことごとく取り上げらる。しかして彼らは地主の前に総ての独立を失いて土百姓の如く土下坐せざるべからず。大阪の大資本家等が坐して地方の土地を占め最も冷酷なる代官をして苛斂誅求をたくましうせるは実に将軍家直轄の御領地なり。彼らは地方の地主が旧慣等に制限せられて契約をなすに反してリカードの地代則そのままにおいてし、土地の騰貴に伴う地代の増加を以て契約を継続する能わざるを待ち、猶予なく土地を取り上げて御所払いをなす。御所払いとは旧幕時代のことにして居住の自由を剥奪することにあらずや。かかる権力は平等の国民にあらず、単一なる地主にあらず、事実上の疑いなき貴族国の君主なり。

 否! 彼らはただに事実上の貴族なるのみならず、大名たるの栄誉と権力に伴うべき尊号を有す。『殿様』といい『御前』と呼ばれ、その邸宅は旧大名の跡に構へられて『御屋敷』と称せらる。かの資本家なるものに至っては工場と名付ける城廓を築き、学者と政治家とを家老とし、無数の年俸奴隷月給奴隷を武士となし足軽としてその範囲内に号令し他の経済的君主と混戦しつつあり。彼らの街頭に馬車を駆るや大名の御通りの如く考弱男女を追い散らして行く。彼ら大小名は今や全く当年の馬鹿大名となり、忠勤と私利と相半ばする家臣等の画策によって、その尊栄と安全を維持しつつあり。

 利子と名づけ利潤と称せられる租税は、家臣等の忠勤によって大名の馬鹿をして更に馬鹿たらしむべく、大名の知らざる方法を以て知らざる間に河の如く流れ込み山の如く積む。しかして四囲の迎合阿諛のために馬鹿大名が『身共』の身体は特別の構造を有すと考えたる如く、彼らは彼ら自身を国民と同胞なりと考えうることにおいて貴族たる面目を汚すかの如く感ず。旧大名が道楽半ばに御仁政を敷きて快を取りしことのありしが如く、彼らにおいても慈善なる名において天下を欺かんと試みること無きにあらず。しかしながら彼等黄金大名においては黄金によってのみその権勢を維持し得る大名なり。彼らにして黄金の一片を失うときはそれだけ他の大名に対する対抗力の失墜なり。

 -ああかかる貴族国の土百姓と素町人よ! 彼らは人に非ず。商品として見らる。市価を有す。この商品は魚の如く早く沾らされば腐敗するものなり。市価は需要供給の原則によって支配せらる。法理的に云えば彼らは人格にあらずして物格なり。封建諸侯の百姓町人が経済物として大名の自由なる処分の下にありしが如く、彼らは資本家の自由に処分するを得べき経済物にして人格ある国家の一分子にあらず。故にかかる経済物の多く集り来たることは供給過多による物価下落の経済学によって経済物の物価を下落せしめ、この経済物が空腹によって斃死せんとするや、一切の条件を考えうる暇なからしめて貴族らの自由なる処分権を認識せしむ。

 -すなわち、破産者、失業者、地方よりの放逐者が工場の門前に供給過多と空腹の圧迫を以て群がり集まることは、経済的貴族国の群雄諸侯が驚くべき権力を振るい、その家臣等が乗じて以て忠勤を抽んじ功名を博すべき機会なり。-しかしてこの機会が不断に存在し、永続して絶えることなきが故に、その足に一たび縛せられたる契約の鉄縛を墓穴にまで引き摺り行き、ここに厳然たる奴隷制度は復活せり。

 奴隷制度

 奴隷制度! 鎖と鞭とあるもののみが奴隷制度にあらず。法理的に云えば人類の人格が剥奪されて他の同類の自由なる生殺の下にあるを名づく。すなわちかの群雄戦国封建制度において土地と共に人民が貴族らの所有権の下に経済物として存したりし者の如きまた奴隷制度なり。吾人は鎖と鞭とありし時代の奴隷が三百ドルの価せし間は今の労働者より幸福なりしや否やを知らず。しかも昼は鉄鎖に繋がれて働き夜は暗黒なる穴倉の中に眠りしローマの奴隷と、今日、九尺二間の病毒に充満せる裏長屋に豚の如く父子重り合いて眠り、一日十三四時間の長き一分の休息だに得ずして機械に縛せられる賃金奴隷とが然く差別あるを信ずる能わざるなり。

 ローマの奴隷は餓うることだけはなかりき、しかも今日の契約奴隷、賃金奴隷は、会社の破産のために、失業のために、不景気の為めに、雨天のために、数日数十日に渉る断食-しかして餓死は稀有のことに非ず。正義を顕現すべき法律は実に明かに自由と平等とを万人に与えたり。しかしながら餓えて昏倒せんとするものの耳に就きて自由を囁き、眼に平等の法律を示すとも一片のパンの皮は遥かに正義よりも高貴なり。自由と平等とを呼吸して生活する能わざる動物はその妻子の恩愛のためにいかなる苦痛をも侮蔑をも忍びて、かってその足を顧みて繋がれたる鉄鎖を疑わんとだにせざるなり。

 昔時奴隷の子孫は家系によって永久に奴隷となり、近世封建時代の百姓町人は階級によって子々孫々百姓町人たりしが如く、賃金奴隷の腹より世に落ちたる子女は永劫に賃金奴隷を脱する能わず、小作人の子は小作人に、日雇取の孫は日雇取たらざるべからず。戦敗の捕虜が奴隷とせられ、債務者が身を奴隷にして債権者の使役に致せし如く、この惨憺たる経済的戦闘の敗者と債務者とはまた賃金奴隷たるより外、生くるの道なし。ロシアの農奴がその主人の名を記せる金属を頸に捜みて働ける如く、蟻の如く工場より這い出づる賃金奴隷はその印半纏に奴隷所有主の記号を付けられて侮辱せらる。過度の労働時間は彼らをして全く動物化せしめ、面貌は黒奴の如く、野蛮性の回帰のためにはなはだしく粗暴にいよいよ野卑となれり。

 かって米合衆国の南部において、四年間に利益を得、尽くさんがために奴隷を極度まで酷使して斃死せしむべしとの動議が拍手喝采を以て可決せられし連邦議会ありしが如く、天命を短縮する長時間の労働、人性を残賊する婦人小児の労働を禁ずべき工場法案がうやむやの間に消え去りし大日本帝国議会あり。ローマの奴隷の病む者あるときは餌薬を与えるよりも、更に強壮なる奴隷を買い求むる方が遥かに利益なりとして之を河中の離れ島に棄て嗚号して死せしめたりと云う。しかも今日の労働者は病気老衰にあらず職業のために受けたる負傷も職に堪えずとして棄てらる。しかもその棄てられるや大都会の中央においてし、無知なる世人は彼等の病みて路傍に呻吟するをあたかも頑童の湖辺に打ち上げられたる猫の死骸を見んとして集まる如く彼等の周囲にめぐりて憐憫と好奇の面貌とを以て眺めつつあるは累々見る所なり。農夫の如きは土地と共に売買せらる。ローマ人のいわゆる『話し得る農具』なり、中世史の土百姓農奴なり。しかしてこの奴隷の繁殖は廉価なる黄色奴隷として海外に輸出せらる。かの国法の保護の下に立てる移民会社なるもの、一個厳然たる奴隷貿易商人にあらずして何ぞ。-貧困の原因は近世文明にあらず機械工業にあらず、実にこの経済的貴族国の故なり。(貴族国、家長君主、奴隷制度等の法理的意義及び歴史的説明につきては更に第四編の『いわゆる国体論の復古的革命主義』及び第五編『社会主義の啓蒙運動』を見よ)。

 個人主義の旧派経済学、個人主義の発展と歴史の進化

 しかるに解すべからざることは、かって貴族国の貴族政治と奴隷制度とを転覆したる個人主義が、今やかえってこの新形式の貴族政治と奴隷制度とを弁護して経済的貴族国の維持に努力しつつあることなり。これ燦爛たる国家の被布に幻惑して内容の醜怪なるを忘却せる、いわゆる旧派経済学なるものなり。 

 社会主義はもとより個人主義と根本の思想において相納れざるものなりといえども、個人主義の理想がいかに文明史の潮流を指導して流れつつありしかを考えうるならば、個人主義の尊厳なる意義につきて決して不注意なるべからず。人類の歴史が進化の断崖に漲り落ちんとせる時、すなわち過去の革命は常に個人主義の名においてせられたりき。ルターがローマ法王の権力に対して思想の自由を呼びて起ちしより、フランス国民が天賦の平等を論じてマルセーユ城に突貫せしに至るまで個人主義は実に革命思想の源泉なりき。

 これ理由ある事なり。個人主義は之を説明の理論としては誠に一の憶説に過ぎずといえども、理想として考えうるならば、ある高貴なるものを有す。社会の組織は自由の活動を理想とすることにおいて進化すべく人類の幸福は万人の平等を理想として達せらるべし。今日の野蛮人はいかにすとも数百千年来の奇異残忍なる旧慣を脱する能わずして、個人は唯その奇異なる習慣や残忍なる迷信の犠牲として生まれるかの如し。老いたる父母を殺して饗宴する習慣も幼児を捕らえて猛獣に供ふる迷信も、その一たび古来よりの習慣とされるや個人は一の疑うことをだに得ざるなり。故に彼らは幾万年を経たるべき今日といえども依然たる食人族の蛮風に止まりて進まず。

 吾人の歴史もまた始めは然らざるを得ざりき。当時においてはただ社会的本能によって社会的動物として存在せる社会を維持し以て他の社会との生存競争にのみ忙しく、為に個人は全く犠牲たるの外なかりき。エジプトの驚嘆すべき文明も単に王及び僧侶の無用なる土木に過ぎずして、しかも個人は何が故に彼らの犠牲たらざるべからざるかにつきては一の考えうるところなかりしにあらずや。バビロンの栄華然り、アッシリアの富有また然りき。ギリシャ・ローマの末年に及びてはいささか個人の権威の認められるに至りしといえども、しかもソクラテスは無知の群衆に急の自由を蹂躙せられ、自ら社会国家なる名の前にその大なる人格を放棄して毒盃を仰ぎたりき。ローマの大都は貴族と乞食の府となりしといえども、個人は何が故に乞食たらざるべからざるかという事の疑問はなかりき。

 以降一千年、いわゆる中世暗黒の時代となってゲルマン蛮族が文化に浴するに至るまでローマ法王なる名において社会の圧力は個人の総ての者を無視したりき。総ての者、習慣も、挙動も、行為も、言語も、思想も、政治も法律も、天下のことを挙げて法王の一命の下に在るに至れり。僧侶の破戒も、僧職の売買も、贖罪符も、いささかの疑問なしに信ぜられたりき。これ法王一人の専制にあらず、社会の権力が法王を通じて個人を蹂躙したる者なり。

 -歴史の進化は個人人格の覚醒にあり。人類は宗教革命においてここに個人の権威を知り、『信仰の自由』となりぬ。-個人人格の覚醒は歴史の進行に伴いて更にその覚醒を拡げ行く。人類は更にフランス革命の名において貴族と帝冠を転覆し、ここに『政治の自由』を宣言したり。無用の貴族に土地を私有せしめて国民は奴隷たるべからず、国民の運命は誕生の僥倖に過ぎざる一個人たる国王輩の掌中に置かるべからずと。個人主義の経済学はこの革命の風潮に乗じて唱道せられたるものなり。(第三編『生物進化論と社会哲学』において偏局的社会主義と偏局的個人主義を論じたる所を見よ)。

 個人主義経済学の革命的任務

 実にこの個人主義の旧派経済学は過去の貴族国経済組織の革命のために起り革命の任務は充分に尽くしたるものなり。歴史は経済界のルソーに感謝せざるべからず。アダム・スミスの富国論は実に貴族国経済組織に対する革命の民約論にあらずや。総ての分科的諸科学は時の根本思想たる本流の分派なり。個人主義という大潮流は、ルターにおいて信仰の自由となり、ルソーにおいて政治の自由となり、しかして彼アダム・スミスにおいて実に『職業の自由』となって発せるなり。スミスにおいて当時の貴族国経済組織を見る、蜘蛛の巣の如き法制定規、雑多なる習慣慣例は全部破壊せざるべからざるものなりき。すなわち革命の外なかりしなり。

 スミス当時の貴族国経済組織

 国内に刺激を与えるに欠くべからざる外国人の営業を排斥せんがために居住法あり。その居住法によって組合に属せざれば何人もその市府において営業を為す能わず。これがためにジェームズ・ワットもその発明せる蒸気機関を以て営業する事をグラスゴー市のために拒絶せられたりき。公平と名づけられたる判事あって、資本家と労働者との間に立って賃金を公平に決定すとの名義を以てする権力階級の残虐なる爪牙ありき。名は国家においてするも実は経済上の知識もなく誠実も公平もなき官吏の方寸にて物価を公定する専制ありき。組合の権力は絶頂に達し、徒丁の年期より種々の慣習より製作品の品質形状大小に至るまでほしいままに制限を設けて一歩経済界の民約論もその外に出づる能わざりき。しかして無用なる貴族国王等の寵幸によって特許せる無数の独占営業ありき。経済界の民約論はかくて経済的方面より貴族国に対する革命的任務を果すべく書かれたるなり。

 個人主義の反逆者、階級に阻害されたる自由競争、機械と云う封建城廓、自由競争中二分類、機城中心問題の社会的諸科学 

 今の富国論を継承する個人主義の経済学者にして真に個人主義の意義を解するならば、それを以て今の経済的貴族国を弁護するが如きは実に個人主義の反逆者なり。今の社会に個人の自由ありという者あらば、そはそれらの音響を発するときの唇のみにあり。唇にもあらず、言論の自由、思想の自由は遠き以前に去れり。ルターの信仰の自由によって戦える新教徒の子孫は、今や黄金大名の寄付金のために信仰の自由を売却して侍僧となり全く当年の旧教の地位に代りぬ。ルソーの政治の自由によって得たる鮮血の憲法は今や黄金貴族の玉座を築かんがための礎石たるに過ぎずなれり。スミスの職業の自由、今はた何処に在りや。

 経済的貴族等がその縁故と寵幸者とを以て職業の統治権を独占するが為めに、余りある経綸の才を抱けるものも三四十銭の賃金を得て終生を暗黒なる鉱坑の中に送らざるべからず。自由競争によって彼取って代るべしと云うか。これ徳川の封建制度において一剣天下を横行せし元亀・天正の戦国を夢むる者、今の法制経済を学ぶ青年書生は総て、これなり。馬鹿大名の下に匍匐する封建時代よりも由井正雪等に取っては戦国の昔は遥かに鼓舞せられたるべし。もし一剣を以て徳川の封建制度に反抗して諸侯に取って代りしものありしならば猿の如く口より手に生活しつつある労働者は一時間に坐ながら数百万円づつの利潤ある経済的諸侯に取って代るを得べし。あるいは往年の山田長政の如く北米に渡航し満韓におもむきて経済的諸侯たらんとするか、しかも海外の版図はすでに更に大なるそれらに分割せられ終りたるに非ずや。

 今日三井・岩崎を望む者あらばその不可能なる日本皇帝たらんことを企だつるが如く、不敬漢とは呼ばれざるべきも発狂者と見らるべきは論なし。自由競争とは競争すべき機会の自由なる獲得を前提としての立言なり。重き一台の車に、老病の父母と、貧血の妻と、飢餓に泣く子女とを載せて、よろばいながら坂を昇り行く失望の子を、軽裘肥馬の一鞭を振って嘲笑し去る者ありとせば、そは地獄に存在すべき自由競争なり。繊弱なる婦女子と可憐なる童幼とを駆りて終生を機械囂々の下に繋ぎ、かって拝顔する事をも得ざる工業主と自由に競争せよと云う。これ封建諸侯と一土百姓とが自由競争に在りというと等しき残酷なる侮弄なり。

 自己の殺活の権下に在る奴隷の戦うべき武器なきを知りて、しかも教育財産の鎧に身を固め雲の如き家臣に護衛せられ、資本の槍を閃かして対等の勝負を求む、こは自由競争にあらずして捕虜の虐殺なり。スミスは自由競争のために自由競争を説きしに非ず、貴族国転覆のために自由競争の対等に行わるべき平等の天地を理想せるのみ。然るに今や再び経済的貴族国が美しき自由平等の法律を被布として建てられ、社会は当時の如く上下の二大階級に越ゆべからざる空間を隔てて割裂したり。職業の自由とは空しく富国論の紙上に残りて。-見よ、吾人は囚徒の如く機械の周囲に繋がる。実に人類の労働に代わるべく期待せられたる機械は、今や貴族階級の城廓となって徒年の平民を威圧したる如く全社会の上に轟々の響を為して臨む。

 社会より貧困を駆逐せんがために歓迎せらるべき機械は、今や貧困者を絞磔し、絞磔を免れたる僥倖者をも失業の不安に脅かして運転す。ああ機械発明に逆比例する貧民階級の拡大と失業者発生の驚くべき速力。かかる石壁と溝墟とを以て築ける城桜よりも遥かに金城鉄壁の器械を以て黄金貴族の護られる時、何の自由競争あらんや。自由競争とは階級に伴いて二つに分類さるべし、すなわち黄金貴族間の残虐なる経済的混戦の放任、及び賃金奴隷間のパン屑に対する餓鬼道的争奪これなり。

 -尊き個人主義と我がスミスとはかかることの為めに自由競争を説かんや。富国論が児戯に類するニューコメンの蒸気機関をただ一ケ所にしかも偶然に引用せるに過ぎざるは彼が一百年前の人なればなり。彼にして存するならば今日の経済学は機械を本論とし他は総て付録に組み替えよと云わん。今日一切社会の問題は機械より湧沸す、社会的現象の総ては機械を中心としてめぐる。実に機械と云う封建城廓を貴族階級に占領せしむ可きや否やが一切社会的諸科学の根本問題なり。

 個人主義は革命に至る、個人主義の論理的帰結、官許無政府党員、いわゆる社会主義者に混ぜる個人主義者

 個人主義の根拠なき誤謬なることは後に説く。ただその誤られるにせよ之を今日の経済的貴族国の下において唱道せんとする者あらば、そはかってスミスが為せる如く革命の先鋒たらざるべからず。経済的貴族の闕下に匍匐して、徒らに望みなき賃金奴隷を欺瞞するを以て職業となす如きはそのものに取っては職業の自由たるべしといえども、スミスは地下に慟哭すべし。否、個人主義の論理的帰結は国家を以て『止むを得ざる害物』と名付ける如く一の無政府主義にあり。かの個人の絶対的自由に憧憬して無政府主義を唱える者の如きは論理的進行の当然にして、そのある者の爆烈弾に訴えうるが故に強力禁圧せらるといえども、現社会の『止むを得ざる害物』を個人主義において讃美しつつある者は爆烈弾よりも大規模なる餓死に訴えてその主義を実現しつつある官許無政府党員なり。

 社会主義にせよ個人主義にせよ、その現社会の経済的貴族国なるを認めるならばことごとく反対の側に立たざるべからず、今日日本において一括して社会主義と目せられるものの中に依然として旧式の独断的自由平等論を為しつつある者を見るが如きその個人主義者にして現社会革命の余儀なきを認める者の例なり。(故に彼らは広き意味における社会革命家と云うべし、後に説く)。
(私論.私見)
 「第1章」で次のように述べている。社会主義は貧困と犯罪対策より生まれた思想であり、これである限り社会主義は是認されるべしものである。政府がこれを取り締まるのは粗脳対応であるとしている。次のように述べている。「社会と国家とは実に社会主義の下に真の秩序と安寧幸福とを求めざるべからず、ああ貧困と罪悪、これ人類に伴う永遠の運命のものか」。次に、機械文明の登場はそれ自身に咎はない。機械に咎を求めるのは愚論である。問題は、機械の登場によって生産力が上がり、その恩恵を受けるべき筈なところ却って労働者自由が奪われ、労働強化をきたし、その恩恵を受けられない仕組みにこそある。なぜか。それは、「経済的貴族国の故なればなり。経済的君主経済的貴族の秩序的略奪あればなり」としている。

 即ち、特権的なブルジョアジーによる収奪に原因を求めて次のように述べている。「フランス革命の名において皇帝と貴族の手より土地を奪いて自由平等を呼びたる全欧州は、かかる新国王と新貴族とに一切の経済的源泉を略奪せられて再び革命以前に逆倒せり」、「全社会の貧困はかかる経済的君主経済的諸侯の略奪あればなり」、「貧困の原因は近世文明にあらず機械工業にあらず、実にこの経済的貴族国の故なり」。

 次に、話題を転じて、個人主義、自由主義は歴史の当然の進歩的流れであるとして次のように述べている。「個人主義という大潮流は、ルターにおいて信仰の自由となり、ルソーにおいて政治の自由となり、しかして彼アダム・スミスにおいて実に『職業の自由』となって発せるなり」。












(私論.私見)