北一輝の「日本改造法案大綱」考



 (最新見直し2011.07.03日)

 これは今はスケッチ段階であり、どんどん書き換える途次のものです。】

 (れんだいこのショートメッセージ)
 ここで、北一輝の日本改造法案大綱を論評しておく。古屋哲夫「北一輝論(4)」その他を参照させて貰った。

 2011.6.4日 れんだいこ拝


Re::れんだいこのカンテラ時評941 れんだいこ 2011/06/27
 【「日本改造法案大綱」各論考その1、政治改造論(天皇制考)】

 「大綱」はまず政治改造論から説き起こしている。ここでは第1章「国民の天皇」の天皇論の要点を確認する。最初に天皇の位置に言及して、曰く「国民信仰の伝統的中心」、「国民の総代表」、「現代民主国の総代表として国家を代表する者」、「国家の根柱たるの原理」と述べ、ここに天皇制の本質と基盤を見出している。

 「日本国民の国家観は国家は有機的不可分なる一大家族なりという近代の社会有機体説を、深遠博大なる哲学的思索と宗教的信仰とにより発現せしめたる古来一貫の信念なり」とも述べ、ここに天皇制の論拠を見出している。これを仮に「象徴天皇制論」と命名する。これが北理論の白眉の第1政策である。北式天皇制論に於ける政治的活動を制約し、文化的象徴制の面を濃くしたものが戦後憲法に取り入れられていると考えられる。

 留意すべきは、これも「マルクス主義の北式改造」に由来していると考えられることである。俗流マルクス主義の王朝打倒論に反対し、堂々と天皇制護持論を打ち出していると読むべきだろう。北理論の場合、殆ど全て俗流マルクス主義との理論的確執から生まれていることを窺うべきだろう。北理論は全般にわたってマルクス主義の北式改造を試みており、結果的に反対の政策を打ち出しているが、北式革命の青写真即ち国家改造論を提示していると解するべきであろう。

 北は、1923(大正12)年の「改造法案」改題刊行に際して内容に若干の修正をしている。最も重要なものとして、「天皇は第三期改造議会までに憲法改正案を提出して改正憲法の発布と同時に改造議会を解散す」としていた規定を削除して次のように書き換えている。本文「国家改造議会は天皇の宣布したる国家改造の根本方針を討論することを得ず」。

 これによれば、天皇の絶対主義的権限を打ち出しているように思われる。してみれば、北理論は、天皇の権限と地位を「君臨すれども統治せず」式に留めるのではなく、天皇の神格化と絶対主義権限化を強めることにより能動的な政治的役割を果たさせようとしていることになる。

 その理由として、注4で「かかる神格者を天皇としたることのみに依りて維新革命は仏国革命よりも悲惨と動乱なくして而も徹底的に成就したり。再びかかる神格的天皇に依りて日本の国家改造はロシア革命の虐殺兵乱なくドイツ革命の痴鈍なる除行を経過せずして整然たる秩序の下に貫徹すべし」と述べている。これによるとフランス革命、ロシア革命の動乱的事態による流血、ドイツ革命の遅滞を防ごうとして、天皇制にこのような意味と役割を負託せんとしていることが分かる。逆に天皇制強化に向かおうとしていることになる。

 北は他方で、「皇室財産の国家下附」の項目を設け、「天皇は自ら範を示して皇室所有の土地山林株券等を国家に下附す」、「皇室費を年約三千万円とし、国庫より支出せしむ。但し、時勢の必要に応じ議会の協賛を経て増額することを得」としている。これによれば、政治的には天皇制を強化するが、経済的にはむしろ皇室財産を制限しようとしていることになる。日本一の財産王としての絶対主義王政的な天皇制ではなく、財政的に議会に婚と炉―される天皇制を展望していることになる。これも戦後憲法に取り入れられているのは衆知の通りである。

 北は続いて天皇親政クーデター発動論を打ち出している。北史観によれば、日本は明治維新によって天皇を政治的中心としたる近代的民主国となったにも拘わらず、財閥や官僚制、それに尻尾を振っておこぼれや名誉を得ようとする政党政治家によってこの一体性が損なわれ、天皇制が捻じ曲げられているとした。この弊害を取り除かなければ幕末維新―明治維新以来の流れが全うしないとして天皇大権クーデターを発動し、あるべき天皇制の姿に戻すことを目論んでいる。

 北式クーデター論がこのように位置付けられていることを確認しておく必要があろう。それは、幕末維新―明治維新以来のいわば永続革命の夢を求めており、その方法として天皇親政クーデター発動論を主張していることになる。これは天皇の政治利用論である。その是非はともかく北の天皇制論が制度そのものの盲信パラノイア的なものではないことが分かる。

 留意すべきは、この手法も明らかにマルクス主義的階級闘争論に掉さしているところに意味がある。西欧的な革命はよしんば階級闘争論で遂行されようとも、日本には別途の日本式革命があり、それは「天皇親政型の政治革命」であるとして対置していることになる。その是非はともかく、マルクス主義式階級闘争論に代わる革命論として維新論を提起している点が注目されるべきだろう。

 なお、北式クーデター論は、ナポレオンクーデター、レーニンクーデターと等値させており、次のように述べて是認している。概要「クーデターを保守的権力者の所為と考うるは甚だしき俗見なり。クーデターは国家権力即ち社会意志の直接的発動と見るべし。その進歩的なるものにつきて見るも国民の団集そのものに現わるることあり。日本の改造に於いては必ず国民の団集と元首との合体による権力発動たらざるべからず」。

 ちなみに、北はマルクス及びマルクス主義に対して次のように述べている。但し、23年の改題刊行にあたって、この部分が削除されているとのことである。「マルクスの如きはドイツに生れたり雖も国家なく社会をのみ有するユダヤ人なるが故にその主義を先ず国家なき社会の上に築きしといえども、我が日本に於いて社会的組織として求むる時、偏に唯国家のみなるを見るべし。社会主義は日本に於いて国家主義そのものとなる」。

 これによれば、マルクス主義の国家無用論はマルクスのユダヤ人性によるものであり、本来の社会主義理論に於いては国家無用論は必然とならない、むしろ国家社会主義として達成されると指摘していることになる。歴史の軍配は、北理論の方に挙げているのではなかろうか。

 このことと関連させて、北は、民族主義、国家主義を打ち出している。マルクス主義の階級闘争論を一定認めつつも、民族主義、国家主義を溶解していることにつき次のように批判している。「階級闘争による社会進化は敢えてこれを否まず。しかし、人類歴史ありて以来の民族競争国家競争に眼を蔽いて何のいわゆる科学的ぞ」。

 これによると、北は、マルクス主義的階級闘争論は認めよう、但し、民族問題、国家問題に眼を塞いではならないとしていることになる。ここにも、北とマルクス主義の観点の差が見て取れる。しかして、これまた歴史の軍配は北理論の方に挙げつつあるのではなかろうか。これを北理論の白眉の第2政策と見立てたい。

 問題として、この民族主義、国家主義が自国利益中心の排外主義に陥ることなく世界と協調平和的なものとして創出できるかどうかであろうが、北理論はここを解明していない恨みがある。我々が知りたいのは、排外主義に陥ることのないような形での各国の伝統文化に根差した多様な民族主義、国家主義が有り得るのかどうか、有り得たとして戦後憲法の説く国際協調平和主義に連動するのかどうかということであるが、これについては考察していない。

 以上、簡略であるが北理論の天皇制論として確認しておきたい。

 2011.6.24日 れんだいこ拝

Re::れんだいこのカンテラ時評942 れんだいこ 2011/06/27
 【「日本改造法案大綱」各論考その1、政治改造論(議会制考)】

 北は、かく象徴天皇制論、民族主義論、国家主義論、天皇親政クーデター発動論を述べた後、具体的には「三年間憲法を停止し、両院を解散し、全国に戒厳令を布く」と云う。

 戒厳令下で最初に為すことは、華族、貴族院の廃止による宮中の一新、現時の枢密顧問官その他の官吏を罷免、天皇を補佐し得べき器を広く天下に求め天皇を補佐すべき顧問院を設け天皇が任命し議員50名とする、「華族や貴族院を廃止する代わりに審議院を置き衆議院の決議を審議せしむ。その審議院議員は各種の勲功者間の互選及び勅選による」としている。加えて、「特権的官僚閥、軍閥の追放。新たな国家改造を行うための議会と内閣の設置」を指針させている。

 憲法の3年間停止を主張した理由について、北は、二・二六事件の軍法会議法廷に於いて「戒厳令下に於て時局事態を収拾せられるに際し、不忠なるものが憲法に依り貴衆両議会を中心に、天皇の実施せられる国家改造の大権を阻止するを防止する為、論じてあるものであります」と述べている。法廷での北の弁明をもっと知りたいが、これ以上は分からない。どなたかサイトアップ頼む。

 華族、貴族院の廃止、その代わりとしての顧問院の設置なる政策は一考に値する。北理論では天皇の補佐機関として位置づけられているが、これを仮に議会の補佐機関として位置づけるとどうなるか。「器を広く天下に求める」とあることからすれば、政財官学報司警軍の八者機関及び労働界、文化人、スポーツ選手等で有能なる能力を証明したものから構成される機関として焼き直しできる良案ではなかろうか。参議院を有識者に限定縮小し、参議院の中に顧問院を組み込むとかの方法さえ考えられよう。現下の特徴の薄れつつある衆参二院制よりよほど実効的であるように思われる。こういう先駆け提案を随所にしているところが北理論の魅力であろう。

 次に、25歳以上の男子普通選挙の実施を指針させている。「納税資格の拡張せられたる普通選挙の義にあらず。徴兵が国民の義務なりという意義に於いて選挙は国民の権利なり」と位置付けている。「女子の参政権を有せずと」としている。これについては、別章「女性の保護政策考」で触れることにする。

 議会は「改造を協議せしむ」機関として位置づけられている。内閣について、「戒厳令施行中現時の各省の外に下掲の生産的各省を設け、さらに無任所大臣数名を置きて改造内閣を組織す」、「改造内閣員は従来の軍閥、吏閥、財閥、党閥の人々を斥けて全国より広く偉器を選びてこの任に当らしむ」とある。

 これらによれば、象徴天皇制下での議会の積極的活用を主張していることになる。表見的には「天皇親政独裁国家」となるが、南北朝時代の後醍醐天皇の御代の如くの公家政治復古に向かうのではなく、フランス革命以来の近代的な議会政治の役割を強めようとしていることになる。いわば「天皇制議会政治」とでもいうのだろうか。留意すべきは、単に普通選挙により人選するのみでなく、真に優秀な人士を各界から選出し参画させようとしている工夫が認められることである。これが北理論の白眉の第3政策である。戦後憲法では、男子普通選挙のみならず女子の選挙権も与えられているのは衆知の通りである。

 今思うに、戦後憲法下の二院制による議会制民主主義、議院内閣制の結果として菅派政権の如くな愚劣お化けの政治が現出している。日本政治の中枢にありながら合法的な売国政治を上から陣頭指揮しているところに特徴がある。こういう政治を生みださない為の仕掛けが必要であり、戦後憲法体制には何か重要な欠陥があると云うことになるのではなかろうか。これは憲法改正論シフトで云うのではない。護憲的立場から何か一つつっかえ棒が要るのではないかと思う。

 もとへ。北は、天皇制議会政治の翼賛団体として在郷軍人団会議を立ち上げ、改造内閣に直属したる常設機関とし、国家改造中の秩序維持と共に例えば各地方の私有財産限度超過者を調査し、その徴集に当らしむ等々様々な役割を果たさせようとしている。

 在郷軍人とは「かって兵役に服したる者」を云い、「その大多数は農民と労働者なるが故に、同時に国家の健全なる労働階級なり」と看做している。「ロシアの労兵会及びそれに倣いたるドイツその他の労兵会に比する組織である」としている。これによれば、在郷軍人団会議が「愛国的常識を持つ日本式労農ソビエト」と見立てられていることになる。「現在の在郷軍人会そのものにあらず。平等普通の互選により選出される」として民主化を要請している。立法機関を補翼する施行機関的役割を担う機関として活用が目論まれていることになる。これが北理論の白眉の第4政策である。

 してみれば、天皇親政の下で審議院、議会、在郷軍人団会議を三種の神器とする政治体制を構想していたことが分かる。北理論に陥穽があるとすれば、天皇親政、審議院、議会、在郷軍人団会議のそれぞれのベクトルが親和統合された場合の理想であり、対立し始めたらどうなるかであろう。クーデター式強権政治はクーデターによって覆され、それが繰り返されると云う泥沼に嵌まる恐れがなきにしもあらずであろう。そういう危惧があるが、一つの政治体制論としてみなせば傾聴に値するのではなかろうか。

 もう一つは、クーデター発動の権限者として天皇が政治利用される仕掛けにされているが、当の天皇自身の思惑はどうなのかということであろう。分かり易く云えば「有難迷惑」とされる場合もあろうし、時の天皇自身が国際金融資本側に取り込まれていたらどうなるのかという問題がある。現に、この理論的欠陥が2.26事件で露呈し、北自身が刑場に追い込まれることになった。歴史にイフが許されるなら、刑場から奇跡の生還をした北がどういう風に理論改造したか見てみたい。

 2011.6.27日 れんだいこ拝

Re::れんだいこのカンテラ時評943 れんだいこ 2011/06/28
 【「日本改造法案大綱」各論考その3、経済改造論(私有財産制考)】

 「大綱」は次に経済改造に向かっている。第2章「私有財産限度」、第3章「土地処分三則」、第4章「大資本の国家統一」に記されている。まず、俗流マルクス主義の如く私有財産制を否定するのではなく主として肯定している。具体的には高額所得制限を課す(一家で100万円の仕切りを設けて私有財産を認め、財産の規模が一定以上となれば国有化の対象とする)ことによって所得に釣り合いのとれた社会を構想している。これを仮に「私産限度制」と命名する。

 「限度以下の私有財産は国家又は他の国民の犯すべからざる国民の権利なり。国家は将来ますます国民の大多数をして数十万数万の私有財産を有せしむることを国策の基本とするものなり」(「私有財産の権利」の項)として、これにより社会主義的要素を兼ね備えた経済体制へと移行するとしている。これが北理論の白眉の第5政策である。戦後憲法に累進課税が導入されているが、北理論の反映と思われる。

 北の改造案はマルクス主義に似て且つ非なる二面性を持っているところに特徴がある。この場合の「似て非なる」とは、「似ているがまるで異なる」と云う意味ではなく、「一見否定しているようであるが、実質的により良いものを対置している。むしろ違うようで似ている面が強い」ように思われる。

 「大綱」は、私有財産制肯定につき次のように述べている。「個人の自由なる活動又は享楽はこれをその私有財産に求めざるべからず」と述べ、私有財産は人間性の本源的なものであるとしている。その上で、「人は物質的享楽又は物質的活動そのものにつきて画一的なるあたわざればなり」と述べ、俗流マルクス主義の「貧富を無視したる画一的平等理論」を否定している。

 概要「私有財産制は自由の物質的基本の保証に関わっており、民主的個人の人格的基礎は即ちその私有財産である。私有財産を尊重せざる杜会主義は、如何なる議論を長論大著に構成するにせよ、要するに原始的共産時代の回顧のみ」と判じている。即ち、北理論によれば「適当の私有財産は個人の自由なる活動、又は享楽に関係しており進化の一つの原動力」とみなしていることになる。その上で「活発な経済活動が私的所有なしには展開しえない」との認識を示している。更に北は、私有財産制が労働意欲に関係することを見抜きいている。その上で、北式高額所得制限政策を自画自賛している。北理論のこの正しさは、歴史によって軍配が挙げられているのではなかろうか。

 「平等分配の遺産相続制」の項で、「長子相続制は家長的中世期の腐屍のみ」として「均等相続制」(「平等分配の遺産相続制」)に言及している。これも戦後日本国憲法に反映している。これが北理論の白眉の第6政策である。但し、均等相続制にしながら家督権継承者に一定の配慮をすべしとでもすれば、戦後憲法の均等相続制の弊害を修正せしめるであろうが、この方面の言及はない。

 次に、土地の私的所有制に言及している。私有と公有の両形態を認めた上で合理的な仕分けを弁じている。俗流マルクス主義の一律的国有化論、「画一的平等の土地分配論」を斥け、「物質的生活の問題は或る画一の原則を想定して凡てを演繹すべきに非ず」、「国家はその国情の如何を考えて最善の処分をなせば可なりとす」と判じている。革命ロシアの土地没収政策に対して「維新革命を五十年後の今に於いて拙劣に試みつつあるものに過ぎず」、「土地問題に於いて英語の直訳やレ―ニンの崇拝は佳人の醜婦を羨むの類」と弁じている。この言は、進行しつつあるソ連の社会主義的政策を「同時代に於いて批判」しているところに値打が認められる。

 「大綱」は、一般的な土地所有と都市の住宅地と農地とを区別して、一般的な土地所有については「日本国民一家の所有し得べき私有地限度は時価拾万円とす。この限度を破る目的をもって血族その他に贈与し又はその他の手段によりて所有せしむるを得ず」、「私有地限度以上を超過せる土地はこれを国家に納付せしむ」としている。

 農地については「農業者の土地は資本と等しい」として、「農業者の土地は資本と等しくその経済生活の基本たるをもって、資本が限度以内に於て各人の所有権を認められるる如く、土地も又その限度内に於て確実なる所有権を設定さるることは国民的人権なり」としている。「国家は皇室下附の土地及び私有地限度超過者より納付したる土地を分割して土地を有せざる農業者に給付し、年賦金をもつてその所有たらしむ。年賦金額年賦期間等は別に法律をもって定む」と述べ、自作農制の創出を促している。これが北理論の白眉の第7政策である。戦後の農地解放による自作農創出は、この北理論に照応していることになる。

 私有財産制、土地の私的所有制に関して次のように弁論している。「この日本改造法案を一貫する原理は、国民の財産所有権を否定するものにあらずして、全国民にその所有権を保障し享楽せしめんとするにあり。熱心なる音楽家が借用の楽器にて満足せざる如く、勤勉なる農夫は借用地を耕してその勤勉を持続し得る者に非ず。人類を公共的動物とのみ、考うる革命論の偏局せることは、私利的欲望を経済生活の動機なりと立論する旧派経済学と同じ。共に両極の誤謬なり。人類は公共的と私利的との欲望を併有す。従って改造なるべき社会組織また人性を無視したるこれら両極の学究的憶説に誘導さるることあたわず」。

 小作人問題に対しては、存在はやむを得ずとしている。理屈で解決できない長い歴史性の問題であるとして次のように述べている。「全てに平等ならざる個々人はその経済的能力享楽及び経済的運命に於いても画一ならず。故に小地主と小作人の存在することは神意ともいうべく、且つ杜会の存立及び発達の為に必然的に経由しつつある過程なり」。

 他方、都市の住宅地については私有を認めず、都市土地市有制を打ち出している。その理由として、都市の地価が騰貴するのは「土地所有者の労力に原因する者に非ずして大部分都市の発達による」ものであり、従って地価騰貴の利益を宅地所有者に与えることはできないとしている。都市居住者は市に借地料を支払い、地価の騰貴は借地料の騰貴となって市財政をうるおすという経済循環を想定していることになる。「五年目ごとに借地料の評価を為す」ともしている。これが北理論の白眉の第8政策である。戦後日本に於いては都市の土地も民有制にしているが、北理論は少なくとも固定資産税、都市計画税の先駆け理論となっているのではなかろうか。

 家屋については、「家屋は衣服と等しく各人の趣味必要に基づくものなり」として、規制不要論を唱えている。「ある時代の社会主義者の市立の家屋を考えし如きは市民の全部に居常且つ終生画一なる兵隊服を着用せしむべしと云うと一般、愚論なり」と判じている。他方、「国有地たるべき土地」の項を儲け、「大森林又は大資本を要すべき未開墾地又は大農法を利とする土地はこれを国有とし国家自らその経営に当るべし」、「全てを通じて公的所有と私的所有の併立を根本原則とす」と弁じている。

 北理論のこれらにつき、れんだいこに異存はない。若干の手直しと精緻さを追求すればなお面白いと思う。

 2011.6.28日 れんだいこ拝

Re::れんだいこのカンテラ時評944 れんだいこ 2011/06/30
 【「日本改造法案大綱」各論考その4、経済改造論(市場制社会主義考)】

 「大綱」は次にいわば今日的な市場制社会主義論の先駆け理論を提起している。所有論のみならず産業形態論についても然りで卓越した見解を披歴している。俗流マルクス主義の如くな産業、事業の国有制理論を否定し、逆に民間的な事業活動の旺盛化を推奨している。その上で、「私人生産業の限度を資本壱千万円とす。海外に於ける国民の私人生産業また同じ」、「私人生産業限度を超過せる生産業は全てこれを国家に集中し国家の統一的経営と為す」と述べ、所有理論に於けるアイデアと同じような「私産限度制」を指針させている。これが北理論の白眉の第9政策である。

 北理論が「私人的生産業」を認める理由として、「国民自由の人権は生産的活動の自由に於て表われたるにつきて特に保護助長すべきものなり」と述べ、自由権の範疇で是認している。「マルクスとクロポトキンとは未開なる前世紀時代の先哲として尊重すれば可」と述べている。この辺りはマルクス主義がどう云おうと惑わされることのない確固とした北の分別だったように思われる。歴史は、北の認識方に軍配を挙げたように思われる。

 但し、「改造後の将来、事業の発達その他の理由によりて資本が私人生産業限度を超過したる時は全て国家の経営に移すべし」として大資本の国有化を指針している。その理由として、大資本化すると社会性を強め始めることにより国有化の方が相応しいことになり、故に転化させるべしとしている。企業が国家を超えるのは危険であるとして、国家の安寧秩序の観点からも国有化すべしとして次のように述べている。「積極的に見るとき大資本の国家的統一による国家経営は米国のトラスト、ドイツのカルテルをさらに合埋的にして国家がその主体たるものなり。トラスト、カルテルが分立的競争より遙かに有埋なる実証と理論によりて国家的生産の将来を推定すべし」。

 主要産業について混合経済体制論を打ち出し、公営事業と半官半民事業体、民営事業の適宜な仕分けを理想としている。本来これは「共産主義者の宣言」ではそうなっていたものを、その後の俗流マルクス主義が勝手に国有化オンリー論を打ち出した経緯があり、北の仕分け論の方がむしろ「共産主義者の宣言」の指針通りであるのは皮肉なことである。これが北理論の白眉の第10政策である。

 戦後憲法下での日銀の下での都市銀行、地方銀行と云う系列体制、国鉄に並列する形での民間電鉄体制等々を想起すれば良かろう。「親方日の丸式、護送船団方式」と云うことになるが、この仕組みが中曽根式民営化論によって毀損される前の1970年代までの日本経済の型であったことは衆知の通りである。

 「大綱」は「大資本家、大地主の独占排除」を打ち出している。「経済的貴族、黄金大名の権益独占を打破すべし」と述べ、概要「現時大資本家、大地主等の富はその実社会共同の進歩と共同の生産による富が悪制度の為に彼等少数者に蓄積せられたるものであるから社会に返還させるのは当然」と云う。言わずもがなであるが、少数者への富集中の排除を主張している訳で、私有財産制そのものの否定を唱えているのではない。これが北理論の白眉の第11政策である。戦後憲法下での公正取引委員会の役割などが北理論に基づいていると考えられよう。

 興味深いことは、現在、旧社会主義国がこぞって市場制社会主義論に向かおうとしていることであろう。先だっては遂にキューバが事業の国有制から市場制に転換する決議を見せた。旧ソ連、東欧諸国、中国然り。長い社会主義実験の廻り道をして漸く北式市場制社会主義論に戻った感がある。但し、これらの諸国が市場制社会主義論に転換したのか正真正銘の資本主義に向かい始めたのかは定かではない。しかし、今頃になって市場制社会主義に向かうとすれば、もっと早くに北理論に真摯に耳を傾け検討すれば良かったということになるのではなかろうか。

 「大綱」は次に、 「国家の生産的組織」として、銀行省、航海省、鉱業省、農業省、工業省、商業省、鉄道省の7省を挙げ、それぞれの役割を記している。一々尤もな省ではある。「国家の非生産的組織」については言及していないが仮に外務省、自治省、法務省、厚生省、労働省を付け加えれば、戦後憲法下の省体制とさほど変わらない。

 続いて「莫大なる国庫収入」の項で、次のように述べている。「生産的各省よりの莫大なる収入はほとんど消費的各省及び下掲国民の生活保障の支出に応ずるを得べし。従って基本的租税以外各種の悪税は悉く廃止すべし。生産的各省は私人生産者と同一に課税せらるるは論なし」、「塩、煙草の専売制はこれを廃止し、国家生産と私人生産との併立する原則によりて、私人生産業限度以下の生産を私人に開放して公私一律に課税す」、「遺産相続税は親子権利を犯すものなるをもって単に手数料の徴収に止む」。

 これによると「基本的租税以外各種の悪税は悉く廃止すべし」とある。「国家生産と私人生産との併立する原則」を打ち出しており、「私人生産業限度以下の生産を私人に開放」ともある。今頃の言葉で云えば要するに規制緩和であろう。1980年以降の規制緩和が外国資本の参入の規制緩和であって、国内の民間事業に対しては規制強化に向かっているのは見事なお笑いと云うことになろう。

 北理論のこれらにつき、れんだいこに異存はない。若干の手直しと精緻さを追求すればなお面白いと思う。

 2011.6.30日 れんだいこ拝

Re::れんだいこのカンテラ時評945、2011年7月 1日
 「日本改造法案大綱」各論考その5、基本的人権論、労働者保護政策考
 「大綱」は、政治体制論、経済体制論、国家機構論を述べた後、国民の基本的人権論に言及している。まず「国民自由の恢復」の項で「従来国民の自由を拘束して憲法の精神を毀損せる諸法律を廃止す。文官任用令。治安警察法。新聞紙条例。出版法等」としている。その理由として注で「各種閥族等の維持に努むるのみ」としている。

 これによれば強権的支配政治を排して、特に言論の自由を強く主張していることが読み取れよう。北は、国家主義を基調としながら西欧的近代思想の個人主義、自由主義を尊重せんとしていた。「国民は平等なると共に自由なり。自由とは則ち差別の義なり。国民が平等に国家的保障を得ることは益々国民の自由を伸張してその差別的能力を発揮せしむるものなり」と述べており、自由を個々人の能力、条件の違いを通じて実現されるべきものと捉えていたことになる。この点で右翼的思想家のなかでは異色であった。これが北理論の白眉の第12政策である。

 「大綱」は次に、労働者保護について多くの頁を割いている。このこと自体、北理論の左派性を証左していることになるのではなかろうか。その労働政策は、「労働の自由、労働者の経営参加、争議の国家統制」という観点から成り立っている。具体的には次のような内容になっている。

 労働者を「力役又は智能を以て公私の生産業に雇傭せらるる者」と規定し、「軍人、官吏、教師等」を労働者の範囲から除いたうえで、これらの原則は農業労働者を含めた全労働者に適用されるべきものとしている。

 国家改造後には、各人の能力、個性に応じた労働の自由契約が実現され、職業選択の自由が尊重されるべきとしている。これにつき「自由契約とせる所以は国民の自由を凡てに通せる原則として国家の干渉を背理なりと認むるによる。等しく労働者と言うも各人の能率に差等あり。特に将来日本領土内に居住し又は国民権を取得する者多き時国家がー々の異民族につきその能率と賃銀とに干渉し得べきに非ず」と説明している。

 且つ「現今に於ては資本制度の圧迫の下に労働者は自由契約の名の下に全然自由を拘束せられたる賃金契約を為しつつあるも改造後の労働者は真個その自由を保持して些の損傷なかるべきは論なし」と断じている。

 留意すべきは、北理論の労働観が西欧思想に濃厚な「労働=苦役観」と違う点である。北は、「人生は労働のみによりて生くる者に非す。又個人の天才は労働の余暇を以て発揮し得べき者にあらず。何人が大経世家たるか大発明家、大哲学者、大芸術家たるかは、彼らの立案する如く杜会が認めて労働を免除すという事前に察知すべからずして悉く事後に認識せらるるものなればなり」として徴兵制の如くの強制労働を課すことに反対している。これが北理論の白眉の第13政策である。

 このくだりに関連して「社会主義の原理が実行時代に入れる今日となりてはそれに付帯せる空想的糟粕は一切棄却すべし」と述べている。既に述べたが、社会主義の原理を認め、「それに付帯せる空想的糟粕は一切棄却すべし」としており、この観点は痛く刺激的である。

 次に「労働賃銀の能力制」を打ち出している。その理由につき次のように述べている。「等しく労働者というも各人の能率に差等あり」、「現今に於いては資本制度の圧迫によりて労働者は自由契約の名の下に全然自由を拘束せられたる賃銀契約をなしつつあり。しかも改造後の労働者は真個その自由を保持して聊かの損傷なかるべきは論なし」。これによると、能力給を認めるのが自然であるということと、最近流行りの「自由契約の名の下での低賃金制」を許さないとしていることになる。これが北理論の白眉の第14政策である。この観点も戦後憲法大系に反映されてきたものである。

 次に「幼年労働の禁止制その他労働者保護政策」を打ち出している。労働者の保護、これに伴う権利として「15歳(改題刊行後は16歳)以下の幼年労働の禁止、8時間労働制」を基礎とし、日曜祭日の休業日分の賃銀をも支払う。農業労働者は農期繁忙中労働時間の延長に応時手賃銀を加算すべし」としている。即ち、適正な労働時間、月給制、労働に応じた正当な報酬を受けるべしとしていることになる。これが北理論の白眉の第15政策である。この観点も戦後憲法大系に反映されている。

 更に、労働者は単に労働能力を売るのみならず半期ごとに利益配当給付されるべきであるとしている。即ち、労働者の月給又は日給は企業家の年俸と等しく作業中の生活費であり、企業活動は両者の協同によるものであるから、利益は折半とするのが当然だとしている。しかし国家企業の場合には、全体的観点から損失を顧みずに投資を行う場合も多いのだからこの原則をあてはめるわけにはゆかないとして半期毎の給付を行うべしとしている。これが北理論の白眉の第16政策である。今日的なボーナス論に先駆的言及していることになる。この観点も戦後憲法大系に反映されている。

 次に、労働者代表の経営計画及び決算への関与を認めようとしている。その論拠として次のように述べている。「企業家は企業的能力を提供し労働者は智能的力役的能力を提供す。労働者の月給又は日給は企業家の年俸と等しく作業中の生活費のみ。一方の提供者には生活費のみを与えてその提供の為に生れたる利益を与えず。他方の提供者のみ生活費の他に全ての利益を専有すべしとは、その不合理にして無智なることほとんど下等動物の杜会組織というの他なし。労働者が経営計画に参与するの権はこの一方の提供者としてなり」。これが北理論の白眉の第17政策である。

 「労働的株主制の立法」の項で、労働者の株主権についても言及している。「労働者をして自らその株主たり得る権利を設定すべし」と述べて是認し、「これ労働と資本とが不可分的に活動するものなり。事業に対する分担者としての当然なる権利に基づきて制定さるべし。別個生産能率をも思考すべし」。かく述べて生産性の向上に繫がるとしている。あるいは又「労働的株主の発言権は労働争議を株主会議内に於いて決定し、一切の社会的不安なからしむべし」として労働争議の未然防止に繫がるとしている。これが北理論の白眉の第18政策である。興味深いことは、北理論には間接的な形態ながら労働者の生産管理思想が滲んでいることが見て取れることである。はっきりとは言及していないが、生産管理思想の手前まで関心を寄せている。

 労働争議是認を打ち出している。即ち「この改造を行わずして、しかも徒に同盟罷工(ストライキのこと―筆者注)を禁圧せんとするは大多数国民の自衛権を蹂躙する重大なる暴虐なり」という。但し、「争議当事者は労働省の裁決に服さねばならない」としており、抗議権を認め闘争権までは容認していない。なお労働者にあらずと規定した軍人官吏教師等については、巡査が内務省、教師が文部省というように労働省は関与せずに関係省がその解決をはかることとしている。監督官庁として内閣に労働省を設け、労働者の権利を保護するを任務とさせる。労働争議は別に法律の定むるところによりて労働省が裁決する。裁決に対し、生産的各省個人生産者及び労働者は一律に服従すべきものとしている。これが北理論の白眉の第19政策である。

 以上から見れば、北理論の労働問題論は資本主義的な企業活動を是認したうえで、労働者保護に向かおうとしていることになる。評価すべきは、その目線が社会的強者である資本家の方に向いているのではなく、弱者の労働者側に置かれていることであろう。戦後日本の労働組合が、労働組合でありながら資本側の傭兵として立ち回る傾向が強いのに比して反対の姿勢を見せていると云うことになる。

 他にも、借地農業者(小作人)の擁護を打ち出している。「農業労働者は農期繁忙中労働時間の延長に応じて賃銀に加算すべし」とし、以下、労働者保護の諸原則を準用している。小作争議が激発しつつあった改題刊行時に、「私有地限度内の小地主に対して土地を借耕する小作人を擁護する為に、国家は別個国民人権の基本に立てる法律を制定すべし」と追加している。注で「小地主対小作人の間を規定して一切の横暴脅威を抜除すべき細則を要す」としている。これが北理論の白眉の第20政策である。

 付言すれば、「一切の地主なからしめんと叫ぶ前世紀の旧革命論を、私有限度内の小地主対小作人の間に巣くわしむべからず。旧杜会の惰勢を存せしむる全てのところに、旧世紀の革命論は繁殖すべし」と述べており、小作争議の擁護というよりも争議の原因除去に力点を置いていることになる。

 こういう政策提言を1919(大正8)年段階で為しているところに意味があろう。北理論が歴史の動向に後れをとっておらず、むしろ先駆的であることが分かる。それと、かような政策提言する北を右翼のイデオローグとして理解するのは甚だ困難である気がしてならない。せめて左派的にも面白い人物とみなすべきではなかろうか。

Re::れんだいこのカンテラ時評946、2011年7月 2日
 【「日本改造法案大綱」各論考その6、女性保護政策、姦通罪考

 「大綱」は、「女性の社会的地位の向上、男女同権思想、母性保護」を打ち出しており、これも先駆的である。戦後憲法では第24条で「家族生活における個人の尊厳と両性の平等」を規定しているが、これは北理論とハーモニーしているのではなかろうか。

 注目すべきは、北理論では女子参政権反対を弁じていることである。これは女性蔑視ではないと云う。いわば男と女のサガの差による社会的役割の違いを認め、女性には伝統的な良妻賢母主義に基づく内助の功的在り方があり、日本式婦道を維持せんが為に敢えて女性の政治への参加資格を取り上げているのだと云う。これを次のように諭している。

 「欧州の中世史に於ける騎士が婦人を崇拝しその春顧を全うするを士の礼とせるに反し日本中世史の武士は婦人の人格を彼と同一程度に尊重しつつ婦人の側より男子を崇拝し男子の春顧を全うするを婦道とするの礼に発達し来れり。この全然正反対なる発達は社会生活の凡てに於ける分科的発達となりて近代史に連なり、彼に於て婦人参政運動となれるもの我に於て良妻賢母主義となれり」。即ち、日本と欧米では伝統と歴史が違うのであり、「日本型良妻賢母主義」は日本の良き伝統なのであり育むべきであるしている。

 女性が下手に男性化するのではなく、女性として保護され認められるならば「妻としての労働、母としての労働が人格的尊敬をもって認識」されるようになり、そうするとわざわざ政治の如くな「口舌の闘争」に引き入れる必要はない。婦人を政治に近づけるのは「人を戦場に用うるよりも甚だしい愚策」であり、日本婦人には「欧米婦人の愚昧なる多弁、支那婦人間の強好なる口論」とは違う婦道が確立されており、これを育むのが良い。婦人参政権間題は「西欧思想の直訳の醜」である云々。これが北理論の白眉の第21政策である。

 これを白眉政策とするには是非論があろう。但し、れんだいこは面白い知見と思う。見て取るべきは、北はここでも「西欧的な近代的個人主義」を単に先進国制度として直訳的に受け入れるのではなく、十分に咀嚼した上で欧米文化、政治の導入を取捨選択する姿勢を見せていることであろう。

 これ以外に於いては「女性労働の男女平等自由制」、「女性教育の男女平等国民教育制」を推奨している。これにより、裁縫、料理、育児等の女子だけの特殊課目の強制を廃止せんとしている。男性による婦人労働に対する侮蔑言動につき、「これを婦人人権の蹂躙と認む。婦人はこれを告訴してその権利を保護せらるる法律を得べし」と述べている。更に改題刑行の際には、「但し改造後の大方針として国家は終に婦人に労働を負荷せしめざる国是を決定して施設すべし」と述べている。これが北理論の白眉の第22政策である。

 北は女性観につき次のように記している。「大多数婦人の使命は国民の母たることなり。妻として男子を助くる家政労働の他に、母として保姆の労働をなし、小学教師に劣らざる教育的労働をなしつつある者は婦人なり。婦人は既に男子のあたわざる分科的労働を十ニ分に負荷して生れたる者。これらの使命的労働を廃せしめて全く天性に合せざる労働を課するは、ただに婦人そのものを残賊するのみならず、直にその夫を残賊しその子女を残賊するものなり。この改造によりて男子の労働者の利得が優に妻子の生活を保証するに至らば、良妻賢母主義の国民思想によりて婦人労働者は漸次的に労働界を去るべし」、

 「婦人は家庭の光にして人生の花なり。婦人が妻たり母たる労働のみとならば、夫たる労働者の品性を向上せしめ、次代の国民たる子女を益々優秀ならしめ、各家庭の集合たる国家は百花爛漫春光駘蕩たるべし。徳に杜会的婦人の天地として、音楽・美術・文芸・教育・学術等の広漠たる未墾地あり。この原野は六千年間婦人に耕やし播かれずして残れり。婦人が男子と等しき牛馬の労働に服すべきものならば天は彼の心身を優美繊弱に作らず」。北の女性観が伝わるくだりである。

 「婦人人権の擁護」の項で、「男子の姦通罪」新設を唱えている。「現行法律が売淫婦人をのみ罰して買淫男子を罰せざるは片務的横暴であり、国家は両者共に法律をもって臨むべきで、拘留罰金を適当とする。有婦の男子の蓄妾又は姦通罪を課罰す」としている。他方、「売淫婦の罰則を廃止しそれを買う有婦の男子はこれを拘留し又は罰金に処す」としている。「もしこの立法が行なわれざるならば忌むべき婦人労働となり婦人参政権運動となるべし」と述べている。

 さて、これを白眉政策とすべきだろうか。フェミニストなら喜びそうだが、れんだいこは採らない。戦後憲法秩序が採用していないのは偉いところと見立てる。但し、現下の状況から考えるのに3S政策の一つとして性の解放と云う名の愚民化政策が煽られている面があり、これに対抗すると云う意味で北理論式正しさを理解できない訳ではない。問題は過剰規制の難しさにあるとコメントしておく。性問題は生問題と直結しており一筋縄では解けないと読む。

 恋愛自由論について次のように弁じている。概要「自由恋愛論の価値は恋愛の自由を拘束する時代の政治的経済的宗教的阻害者を打破せんとする点にある。全ての自由が社会と個人とその人の利益の為に制限さるる如く、恋愛の自由また国民道徳とその保護者との為に制限せらるるは論なし。この一夫一婦制は理想的自由恋愛論の徹底したる境地なり。但し今はこれを説くの時期到来せず」。

 関連して、「純潔結婚論」を唱えており、次のように弁じている。「独身の男子を除外せるは決してその性欲を正義化する所以にあらず。婦人が純潔を維持する如く男子がその童貞を完うして結婚することは双方の道義的責務なり。これを罰せざる理由は、末婚婦人が純潔を破るも法律の干与せざると等しく道徳的制裁の範囲に属するをもってなり」。

 北理論の趣意は分かるが、ここまでの様々な改造的提案に照らして何となく不似合いな感じがする下りである。しかし、これを逆に照射すれば、北理論はマルクス主義を改造して日本改造に資するよう様々な有益提言をしているが、この男子の姦通罪規定新設提案の如くまだまだ粗雑なのではなかろうかと逆に思えてくる。れんだいこ史観に照らせば、男女の問題も社会も国家もそう容易くは解けない。むしろ複雑怪奇として、その中で一つ一つ筋道を手繰っていくぐらいで丁度良い。

 「純潔結婚論」のくだりで「道徳的制裁の範囲に属する」としているのなら、同じ理由で法の制裁の範疇に非ずとした方が良いのではなかろうか。この「男子の姦通罪規定」新説提言は逆に北式クーデター論の威勢の良さの危うさまで透かせているように思えてくる。北にもう少し寿命が許され、せめて還暦辺りまで生き延びたら、もう少し違う見解を創造したのではなかろうかとも思う。そういう意味でも北の絞殺刑が惜しく悔やまれる。

 かような政策提言する北を右翼のイデオローグとして理解するのは甚だ困難である気がしてならない。せめて左派的にも面白い人物とみなすべきではなかろうか。

【Re::れんだいこのカンテラ時評947、2011年7月 2日】
 【「日本改造法案大綱」各論考その7、児童保護政策、社会的弱者政策考


 「大綱」は、児童の保護と義務教育制、男女平等教育政策を打ち出している。児童の保護位置づけについて「児童の権利として児童そのものを権利主体とせるは、父母の如何に拘わらず、第二の国民たる点に於いて国民的人権を有するをもってなり」、「児童の権利は自ずから同時に母性保護となる」と弁じている。

 児童の保護政策として「幼年労働の禁止」を掲げている。曰く「満16歳以下の幼年労働を禁止す。これに違反して雇傭したる者は重大なる罰金又は体刑に処す。尊族保護の下に尊族に於いて労働する者はこの限りにあらず」としている。その理由の一つとして「実に国家の生産的利益の方面より見るも幼童にして残賊するものよりもその天賦を完全に啓発すべき教育を施したる後の労働が幾百倍の利益なるは論なし」と弁じている。これが北理論の白眉の第23政策である。戦後憲法第27条「労働の権利・義務、労働条件の基準、児童酷使の禁止」がハーモニーしている。

 国民教育の権利として「10年間義務教育、学費、昼食無料制」を打ち出し次のように記している。概要「国民教育の期間を、満6歳より満16歳までの10ケ年間とし、男女を同一に教育す。満15歳未満の児童は一律に国家の養育及び教育を受くべし。国家はその費用を児童の保護者を経て給付す。学制を根本的に改革して、十年間を一貫せしめ、日本精華に基づく世界的常識を養成し、国民個々の心身を充実具足せしめて、各々その天賦を発揮し得べき基本を作る。無月謝、教科書給付、昼食の学校支弁を方針とす。男生徒に無用なる服装の画一を強制せず。校舎はその前期を各町村に存する小学校舎とし、後期を高等小学校舎とし、一切物質的設備に浪費せず」。

 これが北理論の白眉の第24政策である。戦後憲法体系では9年間義務教育制にしているが、教科書有料、昼食有料制である。早く北理論を適用すれば良かろう。戦後憲法第26条「教育を受ける権利、教育の義務、義務教育の無償」がハーモニーしている。

 体育についてもユニークな弁を展開している。「丹田の鍛冶」を心がけるべきとしている。その理由として、「単に手足を動かし器具に依頼し散歩遠足をもって肉体の強健を求むる直訳的体育は実に根本を忘れて枝葉に走りたる彼らの悪摸倣なり。特に女子をして優美繊麗のままに発達したる強健を得せしむるには丹田の根本を整うる以外一の途なし」。これが北理論の白眉の第25政策である。「丹田の鍛冶」につきどのようなものか分からないが、恐らくかなり有益な提言ではなかろうかと思われる。

 「児童の自由遊戯論」を展開して次のように述べている。「男女の遊戯は撃剣・柔道・大弓・薙刀・鎖鎌等を個人的又は団体的に興味づけたるものとし、従来の機械的直訳的運動及び兵式訓練を廃止すべし。変性男子の如き醜き手足を作りてしかも健康の根本を培わざる直訳体操は特に厳禁を要す。兵式体操を廃止する所以は、その形式また実に丹田の充実を忘れたる外形的整頓に促われたるものによるも一理由なり。兵役に於いてすべきことは全て兵営に於いてすべし。国民教育の要は根本の具足充実にあり。単純なる遊戯として男子が撃剣柔道に遊び女子が長刀鎖鎌を戯るるはその興味に於いてべースボール、フートボール等と雲泥の相違あり。精神的価値等を挙げて遊戯の本旨を傷くべからず。これは生徒の自由に一任すべし。現今の武器の前に立ちてこれらに尚武的価値を求むるに及ばず」。

 即ち、軍事教練式体育に反対し、子供は子供の感性で自由に好きな技芸、スポーツに取り組み、伸び伸びさせるが良いとしていることになる。これが北理論の白眉の第26政策である。

 「基礎教育有益論」を次のように述べている。「男女共中学程度終業をもって国民たる常道常識を教育せらるるもの。ようやく文字を解し得るか得ざるかの小学程度をもって国民教育の終了とするは国民個々の不具と国家の薄弱を来すものなり。これ教育すべき国家の窮乏せると、教育せらるべき国民に余裕なかりしをもってなり。一貫したる十年間の教育は、その終了と同時に完全具足したる男女たるべく、さらにその基本をもって各々その使命的啓発に向って進むを得べし」。即ち、義務教育で基礎をきっちりと教え、その後は独学でも歩めるようにするのが肝要なりとしていることになる。これが北理論の白眉の第27政策である。

 「男女平等教育政策」を次のように述べている。「女子を男子と同に一教育する所以は、国民教育が常識教育にしてある分科的専攻を許すべき齢にあらざると共に、満十六歳までの女子は男子と差別すべき必要も理由もなきをもってなり。従って女学校特有の形式的課目女礼式、茶湯、生花の如きまた女子の専科とせる裁縫、料理、育児等の特殊課目は全然廃止すべきものとなる。前者を強制するは無用にして有害なり。後者は各家庭に於いて父母の助手として自ら修得すべし。女子に礼式作法が必須課目ならば男子にも男子のそれがしかるべく、茶の湯、生花が然るならば男子に謡曲を課せざれば不可。車夫の娘にビフテキの焼方を教授し外交官の妹に袴の裁方を説明し、月経なき少女に育児を講義する如き、今の女子教育の全ては乱暴愚劣真に百鬼夜行の態なり。学校は全てにあらず。各人の欲するところに随い各家の生活事情に応じて学ぶべき幾多のものを有す」。

 即ち、子供を早くより余りに型に嵌めてはいけない、成長に応じて相応しい礼儀作法を与え習得させるのがよろしいと諭していることになる。これが北理論の白眉の第28政策である。

 「十年一貫の国民教育の必要」を次のように弁じている。「社会主義者のある者の如く一切の犯罪なき理想郷を改造後の翌日より期待するは空想なり。もとより現今の政治的経済的組織より生ずる犯罪の大多数は直ちに跡を絶つべきは論なし。国家の改造とはその物質的生活の外包的部分なり。終局は国民精神の神的革命ならざるべからず。十年一貫の国民教育が改造の根本的内容的部分なり」。即ち、義務教育を重視して子供の能力、人格をしっかり磨くことが理想社会の第一歩であるとしていることになる。これが北理論の白眉の第29政策である。

 「国家扶養の義務」の項で、貧民保護、不具廃病者援助政策も打ち出している。「貧困にして実男子また養男子なき六十歳以上の男女、及び父又は男子なくして貧困且つ労働に堪えざる不具廃疾は国家これが扶養の義務を負う」、「兵役義務の為に不具廃疾となれる者の国家扶養の義務は別に法律をもってその扶養を完うすべし」。「不具廃疾者をその兄弟遠族又は慈善家の冷遇に委するは不幸なる者に虐待を加うると同じ。その母又は女子に負荷せしめざる所以は、愛情ありといえども扶養能力なきが故に、結局その兄弟又は娘の夫の負担となりて、立法の精神を殺すものとなるをもってなり」。

 この辺りは、戦後憲法25条の最低限文化的生活生存権規定の先取りをしているのではなかろうかと思われる。これが北理論の白眉の第30政策である。してみれば、北理論はかなりな程度に於いて戦後憲法に採用され今も生きていることが分かり興味深い。

【Re::れんだいこのカンテラ時評948、2011年7月 2日】
 【「日本改造法案大綱」各論考その8、その他諸政策考

 「大綱」は、「国民人権の擁護」の項で、国家権力による基本的人権侵害抑止政策を打ち出している。曰く「日本国民は平等自由の国民たる人権を保障せらる。もしこの人権を侵害する各種の官吏は別に法律の定むる所によりて半年以上三年以下の体刑を課すべし」、「末決監にある刑事被告の人権を損傷せざる制度を定むべし。また被告は弁護士の他に自己を証明し弁護し得べき知己友人その他を弁護人たらしむべき完全の人権を有すべし」。

 注1で、「人権を蹂躙して却って得々たること我が国の官吏の如きは少なし。これ欧米諸国より一歩を先んぜんとする国民的覚醒を裏切る大汚濁なり。体刑と明示せる所以はその弊風実に体刑をもってせずんば一掃するあたわざる官吏横暴国なるをもってなり。この戦慄より来たる反省改過は鏡にかけて見るが如し」。

 注2で、「末決監にある被告を予備囚徒として待遇しつつあることは純然たる封建の遺風なり。これを反対に無罪なる者と仮定するとき現時の如き凌辱なし。警察また然り。要するに有罪を仮定するが故に末決期の日数を刑期に加算する等のことあるにて明らかなり。この根本にして明白ならば末決監中の人権蹂躙は自ずからにして跡を絶つべし」。

 注3で、「被告人は罪人にあらず従って弁護人の自由を無視又は制限さるる理由なし。特に職業弁護人と限らるるが為に被告の平常事件の真相に通ずる者をもって直接に法官と対せしむるあたわず。為に事件の鑑察、法の適用に於いて遺憾多く、被告の不利及び延いて法官の判断を誤り法の威厳を損傷する甚だしき現状なり」。

 これが北理論の白眉の第31政策である。れんだいこは、戦後憲法が第32条「裁判を受ける権利」、第33条「逮捕に対する保障」、第34条「抑留・拘禁に対する保障」、第35条「住居侵入・捜索・押収に対する保障」、第36条「拷問及び残虐な刑罰の禁止」、第37条「刑事被告人の諸権利」、第38条「不利益な供述の強要禁止、自白の証拠能力」、第39条「刑罰法規の不遡及、二重刑罰の禁止」、第40「刑事保障」と云う具合に7条にわたって最高法規である憲法に於いて細かに規定していることに対し肯定的に驚いていたが、北理論の影響があったのではなかろうかと感慨している。これはかなり必然性の高い推論なのではなかろうか。

 「勲功者の権利」の項で、勲功者表彰制度を打ち出している。曰く「国家に対し又は世界に対して勲功ある者は、戦争・政治・学術・発明・生産・芸術を差別せず、一律に勲位を受け、審議院議員の互選資格を得、著しく増額せられたる年金を給付せらるべし。婦人また同一なるは論なし。但し政治に干与せざる原則によりて審議院議員の互選資格を除く」。

 注1で、「国民は平等なると共に自由なり。自由とは即ち差別の義なり。国民が平等に国家的保障を得ることはますます国民の自由を伸張してその差別的能力を発揮せしむるものなり。かの勲位を忌み上院制を否む革命的思想家は、人類の化程度を過上に評価せる神学者的要求に発足する者なりと見るべし」、注2で、「勲功に伴う年金が現時の如き消極的の小額なるは不可なり。全ての光栄はそれを維持すべき物質的条件を欠くべからず」。これが北理論の白眉の第32政策である。戦後憲法下での各種勲章制度がこれに当たると思われる。

 「英語教育廃止」、国際語としてエスペラント語の第二国語化政策を打ち出している。草稿では「現代日本の進歩に於て英語国民が世界的知識の供給者にあらず又日本は英語を強制せらるる英領インド人に非ればなり」と述べるに止っていたが、改題刑行にあたっては、「英語が日本人の思想に与えつつある害毒は英国人が支那人を亡国民たらしめたる阿片輸入と同じ」と断じ、キリスト教、デモクラシー、平和主義非軍国主義などを列挙している。そして、「言語は直ちに思想となり思想は直ちに支配となる」のであるから、「国民教育に於て英語を全廃すべきは勿論、特殊の必要なる専攻者を除きて全国より英語を駆逐することは、国家改造が国民精神の復活的躍動たる根本義に於て特に急務なりとす」として、英語文化を排撃せんとしている。その上で第二国語としてエスペラント語を推奨した。

 即ち、英語がキリスト教と同じく西欧列強の植民地主義の道具として使われていることに対して警告していることになる。但し、代わりの言語としてエスペラント語を推奨するとはどういう得心であろうか。ここではエスペラント語論は省くとして、エスペラント語を推奨するよりも、母国語を尊重し、次に英語のみならず独語、仏語、伊語、露語等々任意に精通させるべしとして一向に構わないのであろうか。ここでも北理論の統制的潔癖主義を感じる次第である。

 北理論がエスペラント語を推奨した背景に日本語軽侮論が介在しているように思われる。曰く「国民全部の大苦悩は日本の言語文字の甚だしく劣悪なることにあり。その最も急進的なるローマ字採用を決行するとき、幾分文字の不便は免るべきも言語の組織そのものが思想の配列表現に於て悉く心理的法則に背反せることは英語を訳し漢文を読むに凡て日本文が転倒して配列せられたるを発見すべし」。このような「我自ら不便に苦しむ国語」を将来拡張した領土内の諸民族に押しつけるわけにはゆかないと云う。

 そこから「合理的組織をもち簡明正確で短曰月の修得可能なエスペラントを異民族間の公用語とせよ」という。もしこのことが実現されるならば、劣悪なる曰本語は自然淘汰され、「50年の後には国民全部が自ら国際語を第一国語として使用するに至るべく、今日の日本語は特殊の研究者に取りて梵語ラテン語の取扱を受けるに至るだろう」とまで述べている。

 この主張は、日本語の中に特殊曰本的なものを求め擁護せんとするいわゆる「日本主義者」の観点と決定的に対立する。しかし北は「言語の統一なくして大領土を有することは只瓦解に至るまでの華花一朝の栄のみ」としている。北は、エスペラント国際語によって近代化、世界化を構想していたことになる。

 さて、これだけは決定的に白眉政策と云う訳にはいかない。北理論の未熟さがここに決定的に表れていると看做すべきだろう。れんだいこによれば、母国語が保護されるに値する言語であるならば徹底的に磨かれ、民族のアイデンティティとして尊重されるべきである。日本語は世界に優れた言語であり、北理論の如く卑下するものではない。これについては別の機会に論じたい。

 同時に国際語をも持つべきである。この時、国際語をエスペラントに絞る必要がありやなしやを問わねばなるまい。英語、仏語、独語、その他その他必要如何は時代の要請と各々の必要が自律的に決めて行けば良かろう。母国語も国際語も歴史の淘汰に堪え得る言語が生き延びるとすればよいのではなかろうか。

ともあれ、北理論が目指した趣意は分かる。英語は帝国主義、植民地主義の臭気を濃くしている為に排撃した。それに代わる言語として日本語を押し付ける訳にもいかないとしてエスペラント語に注目したのであろう。しかし、ごく近年に創造されたエスペラント語が歴史の試練に耐える言語である保証はない。あれこれ考えると、やはり早計な勇み足であろう。

 以上が北理論の日本改造論提言集である。知らぬより知っておいた方が有益であろう。れんだいこは不肖にも知らぬままに今日まで過ごして来た。今ようやく知り得て安堵している。やや遅きに失したことが不明の至りであった。しかし、れんだいこ同様に今日まで知らぬ方も居られようから、ここで一緒に確認していただければ本望である。

 この後は、「大綱」最終章の対外政策論、日本使命論に入る。これで完結する。これがなかなか難しい。簡単に予告しておく。

【Re::れんだいこのカンテラ時評949、2011年7月3日】
 「日本改造法案大綱」各論考その9、朝鮮、台湾、樺太統治論考
 「大綱」は以上、日本改造論を縷々述べた後、これらの社会改革は日本本土だけでなく朝鮮、台湾にも及ぶとして植民地統治問題について言及している。まず朝鮮問題から始め、軍事的地政学的見地から日本が朝鮮を支配下に置くべきとしている。朝鮮併合の正当化を次のように弁舌している。

 「実に朝鮮は含併以前自決の力なかりしことは八十歳の老婆の如く、合併以後未だ自決のカなきこと十歳の少女の如し。末節枝葉に於いて如何なる非難あるにせよ、朝鮮はロシアの玄関に老婆の如く窮死すべかりしものを、日本の懐に抱かれて少女の如く生長しつつあるはこれを無視するあたわず。既に日本の懐に眠れる以上、日本建国の天道によりて一点差別なき日本人なり。日本人とし日本人たる権利に於いてその生長と共に参政権を取得すべきものなるは論なし」。

 その際、日本の属邦、植民地に位置づけるのでなく、その地位は内地と平等でなければならず、日韓合併の本旨に照して日本帝国の一部として日本内地と同一なる行政法の下に置き、日本の一行政区として北海道と等しく西海道とせねばならぬとしている。これが朝鮮統治の眼目であり、日本改造論の諸原則、諸施策をそのまま拡張せねばならないとしている。

 そういう意味で、日本には朝鮮統治の能力が問われているとして次のように弁じている。「由来、朝鮮人と日本人とは米国内の白人と黒人との如き人種的差別あるものにあらず。単に一人種中最も近き民族に過ぎざるなり。従って過般の暴動と米国市中の黒白人争闘とを比較するときのその恥辱の程度に於いて日本は幾百倍を感ぜざるべからず。朝鮮間題は同人種間の問題なるが故にいわゆる人種差別撤廃問題の中に入らず。ただ偏に統治国たる日本そのものの能力問題たり、責任問題たり、道義間題たりとす」。

 その上で、現下の朝鮮政策を次のように批判している。「実に現時の対鮮策なるものは甚だしく英国の植民政策を模倣したるが故に、根本精神よりして日韓合併の天道に反するものなり。朝鮮が日本の西海道なる所以を明らかにするとき百般の施設悉く日鮮人の融合統一を来たさざるものなく、独立問題の如き希うといえども生起せざるは論なし」。東洋拓殖会杜が英国の東インド会社の統治を真似て植民地経営している様子に対して次のように批判している。「朝鮮に於けるいわゆる拓殖政策なるもの又実に欧人の罪悪的制度を直訳したるもの多し。日本は全てに欠いて悪摸倣より蝉脱してその本に返らざるべからず」(「三原則の拡張」の項)」。

 但し、朝鮮人の参政権即ち政治参加については、朝鮮が朝鮮として主権国家足り得るまでの間の「約十年と云い約ニ十年と云う年限」に於いては認められないとして次のように弁じている。「医学に万能の薬品なきに拘わらず政治学に参政権を神権視することは欧米の迷信なり。かの投票神権説に累せられて、鮮人にまず参政権を与えて政治的訓練を為すべしと考うるは、その権利の根本たる覚醒的生長を閑却したる愚人の云為なりとす。日本は真個父兄的愛情をもって、かかる短時日間にこの道義的使命を果たし、もって異民族を利得の目的とせる白人のいわゆる植民政策なるものに鉄槌一下せざるべからず」。

 即ち、地方自治の政治的経験を経てから日本人と同様の参政権を認め、日本の改革が終了してから朝鮮にも改革が実施される。将来獲得する領土(オーストラリア、シベリアなど)についても文化水準によっては民族に拘わらず市民権を保障する。その為に人種主義を廃して諸民族の平等主義の理念を確立し、そのことで世界平和の規範を打ちださねばならない云々と論じている。

 朝鮮に続き台湾、樺太等の改造に言及しており、朝鮮統治を準用すべきとして次のような要諦を述べている。「私有財産限度、私有地限度、私人生産業限度の三大原則を決定するに止め、漸を追いてその余を施行し、十年ないし二十年後に於いて日本人と同一なる生活権利の各条を得せしむるを方針とす。但し日本内地の改造を終り戒厳令を撤廃すると同時に三大原則の施行に着手す」、「将来の新領土は異人種異民族の差別を撤廃して日本自らその範を欧米に示すべきは論なし」。

 新領土では土着人を司令官として行政に当たらせるべしとして次のように述べている。「将来取得すべき新領土の住民がその文化に於いて日木人とほぽ等しき程度にある者に対しては、取得と同時にこの改造組織の全部を施行すべし。但し日本本国より派遺せられたる改造執行機関によりて改造せらるるものなり」、「その領土取得の後移住し来れる異人種異民族は、十年間居住の後国民権を賦与せられ、日本国民と同一無差別なる権利を有すべし。朝鮮人台湾人等の未だ日本人と同一なる国民権を取得すべき時期に達せざる者といえども、この新領土に移住したる者は居住三年の後右に同じ」。

 日本の統治の質の違いにつき、従来の西欧列強の如くな収奪主義による植民地経営に列するのではなく「真の公平無私」で臨むべきであるとしている。それまでの朝鮮の内乱につき次のように批判している。「今の総督政治が一因ならずとは云わず。しかも根本原因は日本資本家の侵略が官憲と相結びて彼らの土地を奪い財産を掠めて不安を生活に加え怨恨を糊ロの資に結びたることに存するを知らざるべからず」。

 欧米列強の帝国主義、植民地主義に対して次のように批判している。「英国は全世界に跨る大富豪にして露国は地球北半の大地主なり」。その欧米列強の帝国主義、植民地主義に対する抗戦権を主張し次のように述べている。「国際間に於ける無産者の地位にある日本は、正義の名に於いて彼らの独占より奪取する開戦の権利なきか」と問い、「国際的無産者たる日本がかの組織的結合たる陸海軍を充実し、さらに戦争開始に訴えて国際的画定線の不正義を匡すことまた無条件に是認せらるべし。もしこれが侵略主義軍国主義ならば日本は全世界無産階級の歓呼声裡に黄金の冠としてこれを頭上に加うべし」。

 以上、北理論が欧米列強の帝国主義、植民地主義とは違う質の日本型統治を鼓吹していることが分かる。分かるが、所詮は日本帝国主義の掌中の話であり、仮に朝鮮、台湾、樺太を統治したとして、当地での民族独立運動にどう向き合おうとするのだろうか。朝鮮、台湾、樺太を幼稚扱いするのは無理とすべきではなかろうか。北理論に共通していることであるが常に半ば肯定し半ば否定する、あるいは半ば否定し半ば肯定すると云う二面性、優柔不断性を有しているのが特徴であり、ここでもその見解が見事に表れていると云うべきではなかろうか。

 れんだいこ史観、観点によれば、日本軍が他国に軍靴を乗り入れること自体がそもそも無謀であり、諸国の維新派に対する裏方支援辺りを原則とすべきではなかろうか。軍靴を乗り入れたうえでのあれこれの細工を凝らす、その際欧米列強の植民地主義とは違う政策で歓心を買うと云うのは単に調子の良い話ではなかろうか。却って無間地獄に陥る破目に遭う恐れが強く、史実はその通りになった。そもそも日本軍の朝鮮、台湾統治、続く中国大陸への蚕食活動は国際金融資本の入れ知恵で促進された面があり、ここを批判的に捉えることなく統治の方法を問うとする北理論は当時の帝国主義的動きに加担した変種理論として捉えるべきではなかろうか。

 補足すれば、この当時、日本が樺太の統治まで視野に入れていることが興味深い。日本が戦勝国で在り続けるならば樺太を取り込んでいた可能性が強い。ということは敗戦国になった場合、どういう目に遭わされることになるのか。勝っても負けても権利が通用するとするのはやや調子が良過ぎることになりはすまいか。この辺りにつき、北方領土返せ論、日共の如く全千島列島返還請求当然論者に尋ねてみたい。

【Re::れんだいこのカンテラ時評950、2011年7月3日】
 「日本改造法案大綱」各論考その10、大東亜共栄圏構想、開戦聖戦考

 「大綱」は、後の大東亜共栄圏構想に繫がる次のような方針を掲げている。将来の新領土として朝鮮、台湾、支那、濠州、インド、極東シベリアまで構想し、日本を「東西文明の融合を支配し得る者地球上只一の大日本帝国あるのみ」と位置づけている。

 「先住の白人富豪を一掃して世界同胞の為に真個楽園の根基を築き置くことが必要なり。単なる地図上の彩色を拡張することは児戯なり。天道宣布の為に選ばれたる日本国民はまさに天譴に亡びんとする英国の二の舞を為さざるは論なし」。「三年後の施政権返還」を構想しており、「理由は、既に移住し居住するほどの者は大体に於いて優秀なるをもってなり。第二に白人の新移住者、インド人、支那人の移住者が取得するところを、既に早く日本国民たりし彼らに拒絶すべき理由なきをもってなり。第三の理由は東西文明の融合を促進する為に、特に日本の思想制度に感化せられたる彼らの移住を急とするが故なり」。

 大東亜共栄圏創造の為に次のように好戦論、聖戦論を弁じている。「支那インド七億の同胞は実に我が扶導擁護を外にして自立の途なし」(「緒言」の項)、「国家は自已防衛の他に不義の強力に抑圧さるる他の国家又は民族の為に戦争を開始するの権利を有す。(即ち当面の現実問題としてインドの独立及び支那の保全の為に開戦する如きは国家の権利なり)」、「国家はまた国家自身の発達の結果他に不法の大領土を独占して人類共存の天道を無視する者に対して戦争を開始するの権利を有す。(即ち当面の現実問題として濠州又は極東シベリアを取得せんが為にその領有者に向って開戦する如きは国家の権利なり)」。

 「他の民族が積極的覚醒の為に占有者又は侵略者を排除せんとする現状打破の自己的行動が正義視せらるる如く正義なり。自利が罪悪にあらざることは自滅が道徳にあらざると同じ。従って利己そのものは不義にあらずして他の正当なる利己を侵害して己を利せんとするに至って正義を逸す」、「日本に加冠せられたる軍国主義とはインド独立のエホバなり。この万軍のエホバを冒涜して誣妄を逞しうするいわゆる平和主義なるものは、その暴戻悪逆を持続せんとしてエホバの怒を怖るる悪魔の甘語なりとす。英人を直訳する輩はレ―ニンを宣伝するよりも百倍の有害なり」。

 北は、戦争には自衛戦争だけでなく、不当に抑圧されている外国や民族を解放するための植民地解放戦争、人類共存を妨げる西欧列強の帝国主義支配に対する戦争があるとしている。西欧列強との抗争を前提にする領土紛争は国家の権利としていた。国内における無産階級(労働者階級)が階級闘争を行うことが正当化されるのであれば、世界の資本家階級であるイギリスや世界の地主であるロシアに対して日本が国際的無産階級として争い、オーストラリアやシベリアを取得するためにイギリス、ロシアに向かって開戦するようなことは国家の権利であると主張していた。世界に与えられた現実の理想は、いずれの国家、いずれの民族が世界統一を成し遂げるかだけであり、日本国民は本書にもとづいてすみやかに国家改造をおこない、日本は世界の王者になるべきであるとしていた。

 結びの「給言」で次のように述べている。「全世界に与えられたる現実の理想は何の国家何の民族が豊臣徳川たり神聖皇帝たるかの一事あるのみ。日本民族は主権の原始的意義、統治権の上の最高の統治権が国際的に復活して、『各国家を統治する最高国家』の出現を覚悟すべし」、「英国を破りてトルコを復活せしめ、インドを独立せしめ、支那を自立せしめたる後は、日本の旭日旗が全人類に天日の光を与うべし。世界の各地に予言されつつあるキリストの再現とは実にマホメットの形をもってする日本民族の経典と剣なり。日本国民は速やかにこの日本改造法案大綱に基づきて国家の政治的経済的組織を改造しもって来るべき史上未曽有の国難に面すべし。日本はアジア文明のギリシアとして既に強露ぺルシャをサラミスの海戦に砕破したり。支那・インド七億民の覚醒実にこの時をもって始まる。戦なき平和は天国の道にあらず」。

 「過去に欧米の思想が日本の表面を洗いしとも今後日本文明の大波濤が欧米を振憾するの日なきを断ずるは何たる非科学的態度ぞ。エジプト、バビロンの文明に代りてギリシア文明あり。ギリシア文明に代りてローマ文明あり。ローマ文明に代りて近世各国の文明あり。文明推移の歴史をただ過去の西洋史に認めてしかも二十世紀に至りてようやく真に融合統一したる全世界史の編纂が始まらんとする時、ひとり世界史と将来とに於いてのみその推移を思考するあたわずとするか。インド文明の西したる小乗的思想が西洋の宗教哲学となり、インドそのものに跡を絶ち、経過したる支那またただ形骸を存してひとり東海の粟島に大乗的宝蔵を密封したるもの。ここに日本化し更に近代化し世界化して来るべき第二大戦の後に復興して全世界を照す時往年のルネサンス何ぞ比するを得べき。東西文明の融合とは日本化し世界化したるアジア思想をもって今の低級なるいわゆる文明国民を啓蒙することに存す。

 天行健なり。国は興り国は亡ぶ。欧州諸国が数百年以上にジンキス汗、オゴタイ汗ら蒙古民族の支配を許さざりし如く、アングロサクソン族をして地球に濶歩せしむるなお幾年かある。歴史は進歩す。進歩に階梯あり。東西を通じたる歴史的進歩に於いて各々その戦国時代につぎて封建国家の集合的統一を見たる如く、現時までの国際的戦国時代につぎて来るべき可能なる世界の平和は、必ず世界の大小国家の上に君臨する最強なる国家の出現によりて維持さるる封建的平和ならざるべからず」。

 次に「インド独立問題」に言及して次のように述べている。第一次世界大戦中に於けるインド独立運動があり失敗したのは、日本が「日英同盟の忠僕」として働いていたことが関係している。今後は、日本が実力援功に向かわねばならない、その為に海上支援を重視し英国海軍を撃破せねばならない。その為に、日本は、英国の海上軍国主義を砕破するに足るべき海軍力を強化し「日本はこの改造に基づく国家の大富力をもって海軍力の躍進的準備を急ぐべし」としている。次に対ロシアとの緊張関係から「支那保全主義を堅持する」としている。「支那保全にかける日英開戦は既に論議時代にあらざるなり」との認識を示している。

 北理論のこういう大東亜共栄圏構想、日本の世界史的使命論をどう窺うべきだろうか。当時の時代的雰囲気が生んだものには相違ない。この雰囲気に乗った以上は北理論的戦略戦術が生まれるのも必然かもしれない。北理論には日本の帝国主義化そのものを疑う視線はない。それ故にこういう展望に至ったのも致し方ないのかと思う。総評をすれば軍略家ではあるが経世家ではない気がする。

【Re::れんだいこのカンテラ時評951、2011年7月3日】
 「日本改造法案大綱」各論考その11、日ソ対決論、日米協調論、日米決戦予兆論考
 「大綱」は、次のような日ソ対決論を述べている。いずれ支那を北方より脅威せるロシアとの抗争が避けられず、支那保全主義の見地に立つと日本の極東シベリア領有が課題となっており、その為にはまず内外蒙古を抑えねばならないとしている。ロシアの外蒙古進出に押されて内蒙古防衛に止まるようでは稚拙であり、日本のアジア連盟の盟主化の道に反する。国家の積極的開戦権を駆使して、レ―ニン率いるソ連政府に向って堂々と極東シベリアの割譲を要求すべしとしている。

 北理論は、千島、樺太どころか「極東シベリアの割譲を要求すべし」としている。軍事防衛と云うものの「キリなし普請」ぶりを見る思いがするのはれんだいこだけだろうか。いやはや大変な時代のムードがあったことになる。今日の惨状日本からすれば畏敬すべき気宇壮大な好戦論と窺うべきかも知れない。

 「大綱」は、次のような日米対決論を述べている。既に来るべき日米開戦を感じ取って次のように述べている。「米国の恐怖たる日本移民。日本の脅威たるフィリッピンの米領。対支投資に於ける日米の紛争。一見両立すべからざる如きこれらが、その実如何に日米両国を同盟的提携に導くべき天の計らいなるかの如き妙諦は今これをいうの『時』にあらず。偏にただこの根本的改造後に出現すべき偉器に待つものなり」、「内憂を痛み外患に悩ましむる全ての禍因ただこの一大腫物に発するをもってなり。日本は今や皆無か全部かの断崖に立てり」。北の対米論は、米国との軋轢を「一大腫物」としており、「日本は今や皆無か全部かの断崖に立てり」と認めている。米国を手強いと認め、その後揺れ動く様を見せている。或る時は日米協調を、或る時は日米決戦に備えよと云う。

 これは、北が感知した国際動向論のなさしめる戦略戦術によってもたらされていのであろうが、北のこの分析と感覚は正しかったことは歴史が証左している。問題はここでも国際金融資本帝国主義論を介在せしめているかどうかにある。北理論にこれがない、仮にあっても弱いことは既に指摘したが、このことが致命的となって確固とした対米論の確立を毀損しているように思われる。その割には対ソ対決論だけが確固としている。これはどういう意味だろうか。普通には、根底的なところでの北の事大主義性が垣間見られるとすべきではなかろうか。

 北のその後の対米論の変遷が興味深いので確認しておく。これは「支那革命外史」の付録の 昭和7.4.17日付けの「対外国策に関する建白書」、昭和10.6.30日付けの「日米合同対支財団の提議」で展開されている。

 「対外国策に関する建白書」では、今後の日本を悩ましめるのは「日米戦争あるのみ」で、「日米戦争を考慮する時は則ち日米二国を戦争開始国としたる世界第二大戦以外思考すべからざるは論なし」と予見している。その上で、第二次世界大戦では英国が米国の側につくこと、ソビエトロシアが好機とみて日本攻撃に向かうこと、支那がこれに呼応し排日熱、排日政策を強めることをも予見している。次のように述べている。「要するに米露何れが主たり従たるにせよ、日米戦争の場合に於ては英米二国の海軍力に対抗すると共に支那及びロシアとの大陸戦争を同時に且つ最後まで戦わざるべからざるものと存じ候」。

 国際情勢がかく流動しているのに対し、「大正8年より昭和6年秋に至る迄の日本歴代政府の方針は無方針の方針なり」と叱責している。その上で、「日本は昭和六年九月十八日を以て明かにルビコンを渡り候。江南の大軍未だ屯して帰らずと雖も衰亡政策の道は閉じて再び返る能わず前路大光明と大危機に直面したるものに御座候」と見立てている。「昭和六年九月十八日を以て」とは、柳条湖事件勃発から始まる満州事変発生を指している。この辺りの北の歴史観は的確で、満州事変以降の日本は次第に泥沼に誘われ、遂に日米決戦へと向かうことを余儀なくされるのは衆知の通りである。

 「対外国策に関する建白書」より3年後の「日米合同対支財団の提議」では論がもっと進められている。北は、日米決戦論が次第に深刻さを増している状況下で、「日米を相戦はしむることからの回避」に呻吟している。その為の方法として、日本の独占的な支那支配権を転換させ、日米共同統治に向かうよう指針させている。その為に日米経済同盟の必要を訴えている。これは名案であるとして次のように述べている。

 「米国と合同し混和したる日米財団なる時は反政府的勢力排日的勢力と雖も一切の疑惑猜疑なく一に只謳歌万歳を叫ぶのみと存じ候。特に排日的勢力の期待する所は日米戦争によりて日本が敗戦するか甚しき弱小国に墮するかに依りて日本の支那に加ふる所を免かるべしと云う目的の下に言動する者に有りて、日米の基本的提携を眼前に見るに於てはその排日的理論も目的も雲散霧消すべきは御推想可遊ばされ候。則ち支那の親日的勢力は何等後顧又は脚下の憂なくして日本との根本的捏携に猛進し得べく、その親米的に走りし者も亦自ら日本の傘下に来り投ずべく、説明の要なき自明のことに御座候」。

 且つ、それでも日米決戦が避けられない場合には、秘策としてかっての日英同盟のような日仏同盟を模索して対抗すべしとしている。「四年前日仏同盟に関する建自書奉呈仕候。以後フランスの現状はヒットラーの出現に狼狽して共産ロシアと結ぶ等の次第にして暫く冷静にその推移を見るの外なく候。只日仏同盟の目的は実に英帝国の海軍力を東西に二分すべき大事に有りて、支那に於て日米合同財団よりフランスを除外せるが為に、日仏の間に著しき疎隔を来すまじきは目的の別個に在る点より御了承なさるべしと存じ上げ候。現在の世界状勢及びその推移を大処達観する時、大日本帝国は太平洋に於て米国、大西洋に於てフランスと契盟する外なく、又運命必ず然るべきを確信罷り在じ候。第二世界大戦を極東に於て点火せしむる勿れ。しかも欧洲の天地再び戦雲に蔽わるるなきは何人がこれを保せん。日仏の事、日米の事、閣下等に於て誠に誠に最大最重の儀と奉じ存じ候」。

 なかなかの策士ではある。その後の歴史は、北が予見、危惧した通りの経緯を見せたことは衆知の通りである。れんだいこ見解を述べれば、北が2.26事件で連座することなく延命したとして、北が日米決戦の趨勢に対応能力を持っていたかどうかは甚だ疑問である。なぜなら、米英の背後に鎮座するのは国際金融資本であり、その彼らが太らせた豚たる日本帝国主義の殲滅に鉄の意思で向かい始めており、これは日本の独占的な支那支配権の放棄、支那からの完全撤退しか道はなかったとて思われるからである。常勝の日本軍にそのような分別ができる筈もあろうまい。

 北理論は、米国、英国、仏国、独国、露国をそれぞれの帝国主義的権益での闘争と見立てている。しかしながらその背後に巨大な国際金融資本が蠢いているとすれば、日仏同盟で米英同盟に対抗するなぞ漫画的な話になる。つまり何の役にも立たない論をぶって建言していることになる。この辺りが策士としての北の限界だったのではなかろうか。

【Re::れんだいこのカンテラ時評952、2011年7月3日】
 「日本改造法案大綱」各論考その12、日本文明論、徴兵制考
 北式日本革命論には、これを単に日本の問題としてではなく、当時の世界情勢に於ける日本解放、アジア解放、世界解放と云う解放ベクトルが介在していたことを知るべきであろう。こういう企て自体をナンセンスとしている今日の基準から批判するのはほどほどにして、敗戦前の当時の思考様式として読み取る必要があるのではなかろうか。 

 北理論は根底で仏教文明をアジア思想の精髄とみなしており、その伝統が日本文化のなかにうけつがれていると捉えていた。北理論は、曰本文明の中に息づいている「仏子の天道」を世界化的に開花させることによって、即ち広宣流布させることによって日本式世界秩序の構築に向かうべしという図式を画き次のように述べている。

 「欧米革命論の権威等ことごとくその浅薄皮相の哲学に立脚して遂に『剣の福音』を悟得するあたわざる時、高遠なるアジア文明のギリシアは率先それ自らの精神に築かれたる国家改造を終ると共に、アジア連盟の義旗を翻して真個到来すべき世界連邦の牛耳を把り、もって四海同胞みなこれ仏子の天道を宣布して東西にその範を垂るべし。国家の武装を忌む者のごときの智見遂に幼童の類のみ」(「緒言」の項)

 北が日蓮系の法華経信者であることは知られている。これによって、日本式仏教文明をアジア思想の核として「仏子の天道」を世界に広宣流布すべしとしているように思える。しかしながら思うに、日蓮系の法華経はそのように戦闘的教義を内蔵しているが、浄土宗、浄土真宗、真言宗、天台宗、禅宗系各派では互いの聴き分けを重視しておりいわば共生的である。日本神道でも、皇国史観系では戦闘的教義を内蔵しているが、それ以前の古神道では自然とも社会とも共生的である。してみれば、日蓮系の法華経の型でもって日本文明を説き、これをアジア、世界に広宣流布せんとするのは少々やり過ぎではなかろうか。北式理論未だ練られておらずと断定する所以である。

 「大綱」は、徴兵制に関して、庸兵制ではない徴兵制を導入すべしとして次のように述べている。「国家は国際間に於ける国家の生存及び発達の権利として現時の徴兵制を永久にわたりて維持す。徴兵猶予一年志願等はこれを廃止す」。「現役兵に対して国家は俸給を給付す。兵営又は軍艦内に於いては階級的表章以外の物質的生活の階級を廃止す。現在及び将来の領土内に於ける異民族に対しては義勇兵制を採用するものあるべし」。

 日本式徴兵制につき次のように賛辞している。「兵営又は軍艦内に於ける将校と兵卒との物質的生活を平等にする所以は自明の理なり。古来将は卒伍の飲食に後れて飲食すというが如く、口腹の欲に過ぎざる飲食に差等を設けて部下の反感を平時に養成し戦時にも改めざる如きはほとんど軍隊組織の大精神を知らざるものなり。敗戦国又は亡国の将校が常に兵卒の粗食飢餓を冷視しておのれ独り美酒佳肴を列べしは一の例外なき史実なり。これに反して皇帝に堕落せざる以前のナポレオン軍の連勝せし精神的原因は、彼の無欲とその物質的生活が兵卒と大差なかりし平等の理解に立ちしが故なり。日本の最も近き将来はナポレオンの軍隊を必要とす。

 乃木将軍が軍事眼より見て許すべからざる大錯誤を為してかの大犠牲を来たせしにも拘わらず、彼が旅順包囲軍より寛過されし理由の一は己自ら兵卒と同じき弁当を食いし平等の義務を履行せしが故なり。士卒を殺して士卒に赦さるる将軍は日本の最も近き将来に於いて千百人といえども足れりとせざる必要あり。まさかに兵卒と同じき飲食にては戦争に堪えずという者あるまじ。これその飲食を為す兵卒が戦争するあたわずというもの。かかる唾棄すべき思想が上級将士を支配するとき、その国の往くべき唯一の途は革命か亡国かなり。労兵会を作らしむべき宮廷の権臣と腐欺将校とは、実に日本に「レニン」の宣伝を導くべき内応者なりというべし。但し家庭等の隊外生活に於いて物質的差別あるべきは兵卒が等しくその範囲に於いて貧富に応じたる自由あるが如し」。

 日本の企業社会における上司と一般社員が社員食堂で同じ飯を食う作風があるが、これが日本の型である。この型が崩れる時、「その国の往くべき唯一の途は革命か亡国かなり」と云う。この言も示唆的である。

 以上で、れんだいこの「日本改造法案大綱」解析を終えるものとする。いろいろ教示される点が多く勉強にはなったと思う。今日的にはいろいろ欠陥も認められるが、かの時代のインテリの方が質が高かったと思える点も多々ある。総評としては好人物だった気がする。諸賢の評を賜りたい。
 但し、天皇親政クーデター発動論にはやはり問題がある。どう問題かと云うと、天皇を理念的に語り象徴天皇制を打ち出した上で且つ天皇の政治利用を企図しているが、生身の天皇は必ずしも理念通りには動かないと云うことである。実際、2.26事件では青年将校の決起要請とは無縁なところで断固たる事件の鎮圧と関係者の処罰を要求した。その昭和天皇自身が国際金融資本に籠絡されている可能性もある。















(私論.私見)