「大綱」は、政治体制論、経済体制論、国家機構論を述べた後、国民の基本的人権論に言及している。まず「国民自由の恢復」の項で「従来国民の自由を拘束して憲法の精神を毀損せる諸法律を廃止す。文官任用令。治安警察法。新聞紙条例。出版法等」としている。その理由として注で「各種閥族等の維持に努むるのみ」としている。
これによれば強権的支配政治を排して、特に言論の自由を強く主張していることが読み取れよう。北は、国家主義を基調としながら西欧的近代思想の個人主義、自由主義を尊重せんとしていた。「国民は平等なると共に自由なり。自由とは則ち差別の義なり。国民が平等に国家的保障を得ることは益々国民の自由を伸張してその差別的能力を発揮せしむるものなり」と述べており、自由を個々人の能力、条件の違いを通じて実現されるべきものと捉えていたことになる。この点で右翼的思想家のなかでは異色であった。これが北理論の白眉の第12政策である。
「大綱」は次に、労働者保護について多くの頁を割いている。このこと自体、北理論の左派性を証左していることになるのではなかろうか。その労働政策は、「労働の自由、労働者の経営参加、争議の国家統制」という観点から成り立っている。具体的には次のような内容になっている。
労働者を「力役又は智能を以て公私の生産業に雇傭せらるる者」と規定し、「軍人、官吏、教師等」を労働者の範囲から除いたうえで、これらの原則は農業労働者を含めた全労働者に適用されるべきものとしている。
国家改造後には、各人の能力、個性に応じた労働の自由契約が実現され、職業選択の自由が尊重されるべきとしている。これにつき「自由契約とせる所以は国民の自由を凡てに通せる原則として国家の干渉を背理なりと認むるによる。等しく労働者と言うも各人の能率に差等あり。特に将来日本領土内に居住し又は国民権を取得する者多き時国家がー々の異民族につきその能率と賃銀とに干渉し得べきに非ず」と説明している。
且つ「現今に於ては資本制度の圧迫の下に労働者は自由契約の名の下に全然自由を拘束せられたる賃金契約を為しつつあるも改造後の労働者は真個その自由を保持して些の損傷なかるべきは論なし」と断じている。
留意すべきは、北理論の労働観が西欧思想に濃厚な「労働=苦役観」と違う点である。北は、「人生は労働のみによりて生くる者に非す。又個人の天才は労働の余暇を以て発揮し得べき者にあらず。何人が大経世家たるか大発明家、大哲学者、大芸術家たるかは、彼らの立案する如く杜会が認めて労働を免除すという事前に察知すべからずして悉く事後に認識せらるるものなればなり」として徴兵制の如くの強制労働を課すことに反対している。これが北理論の白眉の第13政策である。
このくだりに関連して「社会主義の原理が実行時代に入れる今日となりてはそれに付帯せる空想的糟粕は一切棄却すべし」と述べている。既に述べたが、社会主義の原理を認め、「それに付帯せる空想的糟粕は一切棄却すべし」としており、この観点は痛く刺激的である。
次に「労働賃銀の能力制」を打ち出している。その理由につき次のように述べている。「等しく労働者というも各人の能率に差等あり」、「現今に於いては資本制度の圧迫によりて労働者は自由契約の名の下に全然自由を拘束せられたる賃銀契約をなしつつあり。しかも改造後の労働者は真個その自由を保持して聊かの損傷なかるべきは論なし」。これによると、能力給を認めるのが自然であるということと、最近流行りの「自由契約の名の下での低賃金制」を許さないとしていることになる。これが北理論の白眉の第14政策である。この観点も戦後憲法大系に反映されてきたものである。
次に「幼年労働の禁止制その他労働者保護政策」を打ち出している。労働者の保護、これに伴う権利として「15歳(改題刊行後は16歳)以下の幼年労働の禁止、8時間労働制」を基礎とし、日曜祭日の休業日分の賃銀をも支払う。農業労働者は農期繁忙中労働時間の延長に応時手賃銀を加算すべし」としている。即ち、適正な労働時間、月給制、労働に応じた正当な報酬を受けるべしとしていることになる。これが北理論の白眉の第15政策である。この観点も戦後憲法大系に反映されている。
更に、労働者は単に労働能力を売るのみならず半期ごとに利益配当給付されるべきであるとしている。即ち、労働者の月給又は日給は企業家の年俸と等しく作業中の生活費であり、企業活動は両者の協同によるものであるから、利益は折半とするのが当然だとしている。しかし国家企業の場合には、全体的観点から損失を顧みずに投資を行う場合も多いのだからこの原則をあてはめるわけにはゆかないとして半期毎の給付を行うべしとしている。これが北理論の白眉の第16政策である。今日的なボーナス論に先駆的言及していることになる。この観点も戦後憲法大系に反映されている。
次に、労働者代表の経営計画及び決算への関与を認めようとしている。その論拠として次のように述べている。「企業家は企業的能力を提供し労働者は智能的力役的能力を提供す。労働者の月給又は日給は企業家の年俸と等しく作業中の生活費のみ。一方の提供者には生活費のみを与えてその提供の為に生れたる利益を与えず。他方の提供者のみ生活費の他に全ての利益を専有すべしとは、その不合理にして無智なることほとんど下等動物の杜会組織というの他なし。労働者が経営計画に参与するの権はこの一方の提供者としてなり」。これが北理論の白眉の第17政策である。
「労働的株主制の立法」の項で、労働者の株主権についても言及している。「労働者をして自らその株主たり得る権利を設定すべし」と述べて是認し、「これ労働と資本とが不可分的に活動するものなり。事業に対する分担者としての当然なる権利に基づきて制定さるべし。別個生産能率をも思考すべし」。かく述べて生産性の向上に繫がるとしている。あるいは又「労働的株主の発言権は労働争議を株主会議内に於いて決定し、一切の社会的不安なからしむべし」として労働争議の未然防止に繫がるとしている。これが北理論の白眉の第18政策である。興味深いことは、北理論には間接的な形態ながら労働者の生産管理思想が滲んでいることが見て取れることである。はっきりとは言及していないが、生産管理思想の手前まで関心を寄せている。
労働争議是認を打ち出している。即ち「この改造を行わずして、しかも徒に同盟罷工(ストライキのこと―筆者注)を禁圧せんとするは大多数国民の自衛権を蹂躙する重大なる暴虐なり」という。但し、「争議当事者は労働省の裁決に服さねばならない」としており、抗議権を認め闘争権までは容認していない。なお労働者にあらずと規定した軍人官吏教師等については、巡査が内務省、教師が文部省というように労働省は関与せずに関係省がその解決をはかることとしている。監督官庁として内閣に労働省を設け、労働者の権利を保護するを任務とさせる。労働争議は別に法律の定むるところによりて労働省が裁決する。裁決に対し、生産的各省個人生産者及び労働者は一律に服従すべきものとしている。これが北理論の白眉の第19政策である。
以上から見れば、北理論の労働問題論は資本主義的な企業活動を是認したうえで、労働者保護に向かおうとしていることになる。評価すべきは、その目線が社会的強者である資本家の方に向いているのではなく、弱者の労働者側に置かれていることであろう。戦後日本の労働組合が、労働組合でありながら資本側の傭兵として立ち回る傾向が強いのに比して反対の姿勢を見せていると云うことになる。
他にも、借地農業者(小作人)の擁護を打ち出している。「農業労働者は農期繁忙中労働時間の延長に応じて賃銀に加算すべし」とし、以下、労働者保護の諸原則を準用している。小作争議が激発しつつあった改題刊行時に、「私有地限度内の小地主に対して土地を借耕する小作人を擁護する為に、国家は別個国民人権の基本に立てる法律を制定すべし」と追加している。注で「小地主対小作人の間を規定して一切の横暴脅威を抜除すべき細則を要す」としている。これが北理論の白眉の第20政策である。
付言すれば、「一切の地主なからしめんと叫ぶ前世紀の旧革命論を、私有限度内の小地主対小作人の間に巣くわしむべからず。旧杜会の惰勢を存せしむる全てのところに、旧世紀の革命論は繁殖すべし」と述べており、小作争議の擁護というよりも争議の原因除去に力点を置いていることになる。
こういう政策提言を1919(大正8)年段階で為しているところに意味があろう。北理論が歴史の動向に後れをとっておらず、むしろ先駆的であることが分かる。それと、かような政策提言する北を右翼のイデオローグとして理解するのは甚だ困難である気がしてならない。せめて左派的にも面白い人物とみなすべきではなかろうか。
これによれば強権的支配政治を排して、特に言論の自由を強く主張していることが読み取れよう。北は、国家主義を基調としながら西欧的近代思想の個人主義、自由主義を尊重せんとしていた。「国民は平等なると共に自由なり。自由とは則ち差別の義なり。国民が平等に国家的保障を得ることは益々国民の自由を伸張してその差別的能力を発揮せしむるものなり」と述べており、自由を個々人の能力、条件の違いを通じて実現されるべきものと捉えていたことになる。この点で右翼的思想家のなかでは異色であった。これが北理論の白眉の第12政策である。
「大綱」は次に、労働者保護について多くの頁を割いている。このこと自体、北理論の左派性を証左していることになるのではなかろうか。その労働政策は、「労働の自由、労働者の経営参加、争議の国家統制」という観点から成り立っている。具体的には次のような内容になっている。
労働者を「力役又は智能を以て公私の生産業に雇傭せらるる者」と規定し、「軍人、官吏、教師等」を労働者の範囲から除いたうえで、これらの原則は農業労働者を含めた全労働者に適用されるべきものとしている。
国家改造後には、各人の能力、個性に応じた労働の自由契約が実現され、職業選択の自由が尊重されるべきとしている。これにつき「自由契約とせる所以は国民の自由を凡てに通せる原則として国家の干渉を背理なりと認むるによる。等しく労働者と言うも各人の能率に差等あり。特に将来日本領土内に居住し又は国民権を取得する者多き時国家がー々の異民族につきその能率と賃銀とに干渉し得べきに非ず」と説明している。
且つ「現今に於ては資本制度の圧迫の下に労働者は自由契約の名の下に全然自由を拘束せられたる賃金契約を為しつつあるも改造後の労働者は真個その自由を保持して些の損傷なかるべきは論なし」と断じている。
留意すべきは、北理論の労働観が西欧思想に濃厚な「労働=苦役観」と違う点である。北は、「人生は労働のみによりて生くる者に非す。又個人の天才は労働の余暇を以て発揮し得べき者にあらず。何人が大経世家たるか大発明家、大哲学者、大芸術家たるかは、彼らの立案する如く杜会が認めて労働を免除すという事前に察知すべからずして悉く事後に認識せらるるものなればなり」として徴兵制の如くの強制労働を課すことに反対している。これが北理論の白眉の第13政策である。
このくだりに関連して「社会主義の原理が実行時代に入れる今日となりてはそれに付帯せる空想的糟粕は一切棄却すべし」と述べている。既に述べたが、社会主義の原理を認め、「それに付帯せる空想的糟粕は一切棄却すべし」としており、この観点は痛く刺激的である。
次に「労働賃銀の能力制」を打ち出している。その理由につき次のように述べている。「等しく労働者というも各人の能率に差等あり」、「現今に於いては資本制度の圧迫によりて労働者は自由契約の名の下に全然自由を拘束せられたる賃銀契約をなしつつあり。しかも改造後の労働者は真個その自由を保持して聊かの損傷なかるべきは論なし」。これによると、能力給を認めるのが自然であるということと、最近流行りの「自由契約の名の下での低賃金制」を許さないとしていることになる。これが北理論の白眉の第14政策である。この観点も戦後憲法大系に反映されてきたものである。
次に「幼年労働の禁止制その他労働者保護政策」を打ち出している。労働者の保護、これに伴う権利として「15歳(改題刊行後は16歳)以下の幼年労働の禁止、8時間労働制」を基礎とし、日曜祭日の休業日分の賃銀をも支払う。農業労働者は農期繁忙中労働時間の延長に応時手賃銀を加算すべし」としている。即ち、適正な労働時間、月給制、労働に応じた正当な報酬を受けるべしとしていることになる。これが北理論の白眉の第15政策である。この観点も戦後憲法大系に反映されている。
更に、労働者は単に労働能力を売るのみならず半期ごとに利益配当給付されるべきであるとしている。即ち、労働者の月給又は日給は企業家の年俸と等しく作業中の生活費であり、企業活動は両者の協同によるものであるから、利益は折半とするのが当然だとしている。しかし国家企業の場合には、全体的観点から損失を顧みずに投資を行う場合も多いのだからこの原則をあてはめるわけにはゆかないとして半期毎の給付を行うべしとしている。これが北理論の白眉の第16政策である。今日的なボーナス論に先駆的言及していることになる。この観点も戦後憲法大系に反映されている。
次に、労働者代表の経営計画及び決算への関与を認めようとしている。その論拠として次のように述べている。「企業家は企業的能力を提供し労働者は智能的力役的能力を提供す。労働者の月給又は日給は企業家の年俸と等しく作業中の生活費のみ。一方の提供者には生活費のみを与えてその提供の為に生れたる利益を与えず。他方の提供者のみ生活費の他に全ての利益を専有すべしとは、その不合理にして無智なることほとんど下等動物の杜会組織というの他なし。労働者が経営計画に参与するの権はこの一方の提供者としてなり」。これが北理論の白眉の第17政策である。
「労働的株主制の立法」の項で、労働者の株主権についても言及している。「労働者をして自らその株主たり得る権利を設定すべし」と述べて是認し、「これ労働と資本とが不可分的に活動するものなり。事業に対する分担者としての当然なる権利に基づきて制定さるべし。別個生産能率をも思考すべし」。かく述べて生産性の向上に繫がるとしている。あるいは又「労働的株主の発言権は労働争議を株主会議内に於いて決定し、一切の社会的不安なからしむべし」として労働争議の未然防止に繫がるとしている。これが北理論の白眉の第18政策である。興味深いことは、北理論には間接的な形態ながら労働者の生産管理思想が滲んでいることが見て取れることである。はっきりとは言及していないが、生産管理思想の手前まで関心を寄せている。
労働争議是認を打ち出している。即ち「この改造を行わずして、しかも徒に同盟罷工(ストライキのこと―筆者注)を禁圧せんとするは大多数国民の自衛権を蹂躙する重大なる暴虐なり」という。但し、「争議当事者は労働省の裁決に服さねばならない」としており、抗議権を認め闘争権までは容認していない。なお労働者にあらずと規定した軍人官吏教師等については、巡査が内務省、教師が文部省というように労働省は関与せずに関係省がその解決をはかることとしている。監督官庁として内閣に労働省を設け、労働者の権利を保護するを任務とさせる。労働争議は別に法律の定むるところによりて労働省が裁決する。裁決に対し、生産的各省個人生産者及び労働者は一律に服従すべきものとしている。これが北理論の白眉の第19政策である。
以上から見れば、北理論の労働問題論は資本主義的な企業活動を是認したうえで、労働者保護に向かおうとしていることになる。評価すべきは、その目線が社会的強者である資本家の方に向いているのではなく、弱者の労働者側に置かれていることであろう。戦後日本の労働組合が、労働組合でありながら資本側の傭兵として立ち回る傾向が強いのに比して反対の姿勢を見せていると云うことになる。
他にも、借地農業者(小作人)の擁護を打ち出している。「農業労働者は農期繁忙中労働時間の延長に応じて賃銀に加算すべし」とし、以下、労働者保護の諸原則を準用している。小作争議が激発しつつあった改題刊行時に、「私有地限度内の小地主に対して土地を借耕する小作人を擁護する為に、国家は別個国民人権の基本に立てる法律を制定すべし」と追加している。注で「小地主対小作人の間を規定して一切の横暴脅威を抜除すべき細則を要す」としている。これが北理論の白眉の第20政策である。
付言すれば、「一切の地主なからしめんと叫ぶ前世紀の旧革命論を、私有限度内の小地主対小作人の間に巣くわしむべからず。旧杜会の惰勢を存せしむる全てのところに、旧世紀の革命論は繁殖すべし」と述べており、小作争議の擁護というよりも争議の原因除去に力点を置いていることになる。
こういう政策提言を1919(大正8)年段階で為しているところに意味があろう。北理論が歴史の動向に後れをとっておらず、むしろ先駆的であることが分かる。それと、かような政策提言する北を右翼のイデオローグとして理解するのは甚だ困難である気がしてならない。せめて左派的にも面白い人物とみなすべきではなかろうか。