<09.12.05>白鳥事件関係裁判資料の公開と真相をめぐって<渡部富哉>
〈わたべ
とみや:社会運動資料センター〉
【徳田球一全集の刊行と資料センターの創立】
1983年10月、「徳田球一没30周年記念の集い」があり、「会報」18号(86年12月)から10年にわたって会報の編集を担当し、『徳田球一全集』(全6巻)の刊行の編集長になり、85年、第1巻を刊行、86年に第6巻を刊行し完結しました。私は徳田資料収集と月報、年表、著作目録、第3巻、「党建設」を担当しました。
これを契機として1980年に中国から奇跡の生還を果たした、伊藤律との交際が始まりました。徳田球一の国外の活動を知る者は彼しかいなかったからです。
その後、椎野悦朗氏をチーフとする「徳田球一とその時代」ビデオ制作へ活動は移っていきました。私がその実務責任者になりました。こうして映像資料の収集活動が本格的に開始されました。それと同時に堀見俊吉氏(詩人の槙村浩らと高知県で活動し、徳田、椎野氏らと予防拘禁された)の死後、遺言により彼のもっていた厖大な資料を私が引き継ぎ、社会運動資料センターが発足しました。
その2年ほど前から戦前の活動家の記録を収録(聴き取り)する作業が、それぞれ担当を決めて開始されました。
志賀義雄、椎野悦郎(中央指導部)、長谷川浩(労働運動)、渡辺四郎(労働運動)、永山正昭(海員運動)、小松雄一郎、久喜勝一(大森銀行ギャング事件・スパイM)、安斎庫治氏などです。
椎野悦朗氏の場合は月1回のベースで、1年半かけて行い、その全記録は椎野悦朗述『徳田球一を語る』として、私の生涯最後に残された課題になっていますが、本日も参加している椎野さんの娘さんの協力で活字化され、CDに納められております。
ただ今放映した日本共産党創立30周年記録映画「平和と独立の旗の下に」はカメラマンの宮島義勇氏(東宝争議の指導者、70年安保闘争の記録「怒りをうたえ」製作者)の指示によって、その所在を探り当て、引火性の強い昔のフィルムを16ミリフィルムにし、片島紀男氏によってビデオ化しました。
次いで、ビデオ「徳田球一とその時代」製作のためのプロモーションビデオを作成し、徳田球一の故郷沖縄県護市立図書館の「徳田球一の時代展」で上映しました。この映像も今回一橋大学に寄贈しました。
曹洞宗林泉寺の住職の協力などもあり、800万円のカンパを集め、徳田球一映像資料の収集とビデオ制作は進行していきましたが、カメラマンの家庭崩壊、任務放棄などがあり、企画は挫折しました。
本日、展示してある岩田義道のデスマスクと三・一五事件や、四・一六事件関係など、戦前の共産党弾圧事件の関係資料は、そのとき骨董市や古書市に出たものを提供されたのです。この人は本日も参加されていますが、単なる骨董品店主とは違い、明治大学自治会で活躍した幹部で、東大闘争の安田砦の攻防戦に連帯して、明治大学通りを封鎖して解放区をつくって東大闘争に連帯する闘争を指導した人です。
林泉寺の住職もただのネズミではなく、小林正樹監督の「東京裁判」のフィルムはこの住職がアメリカからとってきたもので、正に怪(快)僧といってよい人物です。この人は立正大学の教師を務め、カルチャーセンターで講義をしています。
岩田義道のデスマスクは徳田球一ビデオ制作の完成をまって、岩田義道の娘みさごさんに提供ししようと思って、彼女の所在を調べましたが、彼女は当時、精神を病んでいて外部とは連絡ができない状況でした。
そこで、いろいろとこれまで私は共産党と経緯はありましたが、このデスマスクは日本共産党にとっては、小林多喜二と同じ時代の特高に虐殺された、戦前、共産党が弾圧された時代の象徴のような人物ですから、渡辺図書館長とも相談し、一橋大学の図書館より、共産党に提供してやろうかと思って、由井さん(社会運動資料センター長野)とも相談したところです。
徳田球一の関係資料を取り戻し、NHKの片島紀男氏に委託して「徳田球一とその時代」を完成させ、NHKから2000年11月27〜28日、上下2巻を総合TVとさらに第3チャンネルの2度にわたって放映されました。
今日、皆さんにここにお目にかけたこんな貴重な資料がなぜ私の手元に集中したのか、その謎を明かすと椎野悦郎氏(戦後、臨時中央指導部議長)、鈴木市蔵氏(戦後国鉄労働組合副委員長)、長谷川浩氏(戦後、共産党政治局員)、堀見俊吉氏たちは私が葬儀を取り仕切ったのです。志賀義雄氏と椎野悦朗氏、鈴木市蔵氏は、私が死後、資料整理をまかされました。
鈴木市蔵氏の資料の場合は戦後激動期の国鉄労組の「中闘日誌」など関係資料は鈴木氏の遺髪を継ぐ「人民の力」の常岡氏とJR東労組に寄贈しました。
志賀義雄氏の場合は戦後出獄当時からの共産党中央部の資料をはじめ、共産党から除名後、「日本のこえ」結成に至る極秘資料や機関誌「日本のこえ」などを含めて貴重なものを私が整理、保存してきました。
1993年、五月書房から『偽りの烙印─伊藤律スバイ説の崩壊』の出版を契機に「伊藤律の名誉回復を求める会」を立ち上げ、伊藤律と第一高等学校の同級生だった元群馬大学学長の畑敏雄、樋口篤三、井上敏夫、村井征子氏らと活動してきました。
「週刊朝日」1999年10月29日号に掲載された「伊藤律元共産党幹部はキャノン機関の協力者!?」の記事をめぐって、事実無根であることを突きつけて、謝罪と記事訂正を求めて抗議行動を展開し、1年がかりで謝罪文の掲載を勝ち取り、これを会報12号に報告して会を閉じ、それ以後、ゾルゲ事件研究に本格的に取り組んでまいりました。
その間、96年に初めて、白井久也氏に案内してもらってモスクワを訪れ、ロシアのゾルゲ研究者と交流が始まりました。98年から本格的に石堂清倫氏との交流が始まり、石堂氏の要請で野坂参三研究に入り、山口県萩には4回、神戸にも何回も調査にいきました。その都度、本日も遠路神戸からお見えになった高木康行氏にいろいろとお世話になりました。
本年4月に実兄を亡くしまして、人生の終末を意識するようになり、厖大な資料の整理に取り組むことになり、2007年末から、不二出版社の協力を得て、マイクロフィルム3巻に1年がかりで復刻しました。本日、そのカタログをもってきております。
【共産党は徳田球一関係資料を廃棄した】
資料のひとつひとつには歴史があり、1枚の資料を読み込むにはその背後により大きな研究がなければならず、そうでなければ資料は1枚の紙切れにすぎないのです。
最近の事例を申し上げますと、大内兵衛が人民戦線事件で逮捕されたとき、早稲田警察署で書いた書の掛け軸を、大内さんの息子さんにお返ししようとしましたが、「自分もすでに高齢者であり、適当に処理してくれ」と返事が届き、法政大学に大内力さんのその手紙や、その経緯と七言絶句の解説をした新聞記事を付けて、寄贈の申し出をしたところ、「遺族のもとに保存されるべし」と、法政大学総長室長松崎義名義の慇懃無礼な文面をもって断られてしまいました。
渡辺雅雄図書館長に相談すると、「総長は新しく代わったから、話をつけてやる」ということになりました。法政大学の新しい増田寿雄総長はたいへんな喜びようで、「本学における貴重な資料であり、歴史的な資料として公開する」と情のこもった感謝状まで送ってきました。その総長室長は歴史を知らない、資料の価値もわからない人だったのか、歴史を伝えたくなかったのか、歴史を無視したい人だったのか、とそのときつくづく思いました。資料の価値は客観的、歴史的なもので、個人の好みによるものではないのではないか、そうでなければ図書館は成立しないだろうと思います。
新しい増田総長の下で、学長室長はどういう立場をとるだろうか、政権交替の自民党の政務次官の去就と同様に興味があります。
これと同じことは日本共産党にも言えます。本日、展示してある徳田球一の葬儀、追悼会、党葬、志賀義雄が北京に徳田の遺骨を引き取りに行くとき、羽田空港での挨拶、中国での葬儀の模様など、それらを録音したオープンリール(七巻)のケースの裏側を見てください。墨で「廃棄」と書かれ、×印が大きく書かれています。宮本顕治(共産党委員長)が廃棄処分にしたのです。
徳田球一は現職の共産党書記長でした。除名されたわけではありません。彼こそ戦後共産党を作った最大の功労者であることは誰もが認めることです。さすがに共産党の本部員がそれを廃棄するに忍びなく、自宅に保存していたものです。徳田の映像化の動きを知って提供してくれたのです。
そのほか徳田葬儀関連の資料は全部廃棄処分になりました。それも同様に本日参加している由井格(社会運動資料センター・長野)氏が沖縄県名護市立図書館に寄贈しました。
徳田球一のデスマスクもそうです。これは中国共産党が作成し、徳田たつ夫人が持ち帰ったものです。それは中国ニュースにも映っております。長いこと伊豆の党学校に掲げられていたといいます(私は見たことはありませんが)。それもごみ箱に捨ててしまったというのです。その真相はわかりません。これは「徳田球一とその時代」のビデオ製作のためにどうしても必要なものでしたので、私は懸命に探しました。予防拘禁所で徳田球一や椎野悦朗氏とともに共産党獄中細胞を作った松本一三氏が保存しているという話がありましたが、真相はついに不明でした。
ところが名護市立図書館で「徳田球一の時代展」があったとき、徳田の娘の西沢摩耶子さんの所にあることがわかり、彼女が徳田の故郷の名護図書館に寄贈しました。松本一三氏のはからいだと言われています。
毛沢東が書いた「徳田球一同志永垂不朽」の赤い布に書かれた横断幕はついに発見することができず、本日までいまだに行方不明です。保管の責任者は共産党ですからその所在がわかりましたら是非教えてほしいと思います。まさか毛沢東の書を廃棄処分したとは公にはできないでしょうが、共産党の本部にはないことだけは確かです。或る所に保管されていたことは確認されていますが、その後行方が不明になっています。本日、参加の井上敏夫氏はその現物を徳田の葬儀のときに見ていますが、6メートルくらいの物凄く大きいものです。私は中国ニュースでみました。現在、多磨墓地にある徳田球一の墓の碑文はこれからとったものです。
沖縄の「徳田球一の時代展」では今回、一橋大学に寄贈した「徳田球一プロモーションビデオ」を上映しました。その関連する映像資料には、当時、ソビエトから入手した「片山潜」の映像があります。片山潜の映像としては日本にはこれしかないのではないかと思われます。
また中国の徳田球一の葬儀の模様の映像(中国ニース)もあります。これも今回、一橋大学に寄贈しました。もうひとつ「アウシュビッツの解放」という記録映画(16ミリ)があります。これは本邦では未公開のはずです。私もまだ見ておりません。是非、大学で何かのおりに上映して頂きたい。そのときはみんなでもう一度ここに集合しようではありませんか。これは志賀義雄氏の書庫から発見したものです。
その経緯からすれば旧ソ連から入手したものと思われます。
【白鳥事件裁判資料はこうして公開にこぎつけた】
最後にどうしても報告しなければならないのは、それこそ私が心血を注いだ「白鳥事件裁判資料」のことです。
それはご覧のように大型の本箱一杯分の120巻以上(資料を含む)あります。杉之原舜一主任弁護人が保存していた、札幌地裁から高等裁判所、最高裁に至る全裁判資料です。なぜこれが私のところにあるのか。その経緯を申し上げます。
私は伊藤律が共産党の主張するようなスパイではないと確信していました。彼はご承知の通り野坂参三によって中国の監獄に27年間も投獄され、1980年に日本に奇跡の生還を果たしました。重い腎臓病で、一人で立ち居振る舞いができないほどの車椅子の生活と失明状態でした。
その彼が『徳田球一全集』に文字通り命を賭けたのです。彼は『徳田球一と議会闘争』(第4巻)の解説を書きました。徳田球一の国外に出てからの年譜は彼の協力なしにはできませんでした。「月報」の私の原稿も彼が手を入れたのです。それはまさに命懸けの闘いだったのです。さらに彼の晩年の命を削る闘争は国鉄労組解体に対する反対の防衛の陣形を作る組織活動でした。それは椎野悦郎氏と共同した活動でした。私はそれを目の当たりにしていました。
その実態を知るには『生還者の証言─伊藤律書簡集』(五月書房)をお読みください。私が伊藤律の書簡400通以上を収集し、16巻に及ぶ聞き書(妻きみ氏の聞き書を含む)録音を集めて編集したものです。
その伊藤律の映像の中には徳田球一の墓参会で「戦時下の党再建活動を語る」の映像記録や韓国独立運動の志士、李康勲(鹿児島刑務所を経て予防拘禁所に収容される)が語る「徳田球一の回想」などや、山本宣治の葬儀の模様を撮った「山宣葬」(ブロキノ製作)など珍しいものがあり、整理の上、必要なものは図書館に寄贈します。
伊藤律が死去してから私は彼のスパイ説の反論に取り組み、『偽りの烙印─伊藤律スバイ説の崩壊』(1993年、五月書房)を出版しました。
すると2〜3年後、私の田無反戦当時、同じ組織の北海道の動労追分反戦の書記をやっていた斉藤孝という人が札幌から訪ねてきて、『偽りの烙印』の手法で「白鳥事件」を書きたいのだが、私に資料協力をしてくれ、というのです。
白鳥事件は私の青春時代の事件であるだけでなしに、当時の北海道地方委員会の委員長だった吉田四郎氏ほか、国鉄労組出身の深倉其義(共産党北海道地方委員)氏など、私の知人が多く、深倉氏らが上京の際は私の家を定宿にしていましたから、関係者から真相はかなり深く聞いていました。
斉藤の話によると、当時の北海道地方委員会の軍事委員だった川口孝夫が中国から帰国(1973年12月)してから、自分が経営するビル管理会社に勤めさせて、生活の面倒をみている。その関係で、これまで何回も中国に行って、共犯者とされて当局から国際手配されている鶴田倫也氏から真相を聞いているし、記録もとっていると話し、犯人の佐藤博(1988年1月14日肺がんのため北京で死去)や軍事委員の宍戸均(同年、2月27日肝臓ガンで死去)の死去の模様なども鶴田氏から詳細な事情を聞き、葬儀の模様や事件の詳細な記録もとっていると言うのです。
佐藤博は1985年10月に食道ガンのために北京の友誼病院に入院して手術し、一時は快復に向かいましたが、1987年12月に癌は肺に転移し、鶴田倫也氏が斉藤に語ったところによると、翌年、1月に佐藤を見舞ったとき「俺は元気だから心配するな」と言ったという。そのわずか2時間後に息を引き取ったそうです。
鶴田氏に自分の病気はガンではないかと随分気にしていたという。
佐藤博と宍戸均は北京で偶然に出合ったとき、佐藤は「俺をこんな目にあわせやがって」と宍戸になじると、宍戸は「俺を男にしてくれ、と頼んだのはどこの、どいつだ」とやり返し、殴り合いの喧嘩となり、警察沙汰になったという。二人は日本への帰国は断念せざるをえませんでした。佐藤は中国人と結婚し、子供ができたといいますが、夫婦仲は極めて悪かったといいます。
やがて二人は同じ友誼病院に同じ時期に入院し、人生の終末を意識した二人はようやくお互いを許し合い、北海道時代の思い出を語り合うことができたという。その詳細な状況を鶴田氏から斉藤は聴き取り、原稿(未発表)に書いています。
当時、北京郊外の革命公墓で行われた佐藤博の葬儀に出席した高野広海氏から私はその模様を後に聞きました。佐藤博は革命家として中国対外連絡部の幹部たちによって葬られました。宍戸均の場合もそうです。
二人の遺骨は分骨されてそれぞれの故郷に持ち帰られ、佐藤博は札幌の博の弟が作った佐藤家の墓に眠っているという。その大任を果たした人物からその状況を聞くことができましたが、同じ時代を生きた者として他人ごとのようには受け取れませんでした。
私は白鳥事件の証拠として追求されてきた拳銃や、自転車の入手やその処置方法についても詳しく聞き取ることができました。また宍戸の才気煥発でユーモラスな側面のエピソードなども聞き記録しました。それらは斉藤が書くことになっています。
【共産党の軍事委員長小松豊吉の死】
川口が書いた遺稿「私はなぜ白鳥事件の真相を明かにするのか」によると、四川省で小松豊吉も一緒だったと書いています。小松豊吉氏について知る者はいまでは誰もいませんが、小松豊吉氏こそ当時の日本共産党の軍事委員長だった人物です。彼は北京で徳田球一亡き後の日本共産党在外代表部(俗称、徳田機関)の代表者となった袴田里見(党副委員長・のち除名)から「軍事問題について報告せよ」と査問されて、小松は「軍事は誰に対してもあきらかにはできないことになっている」と拒絶しています(渡部の聴き取りによる)。
その知られざる小松豊吉の経歴を記しておきましょう。
「1917年1月、東京江東区清澄町に生まれる。貧乏なため修学旅行にも行くことができなかった」という。「戦後、日本電気三田工場に勤務、組合の執行委員となり、全電工(現電機労連)の執行委員、産別会議の執行委員」という経歴の彼は1980年10月、病没したが、中国から帰国以後は宍戸均や佐藤博と同様にアルコール中毒となり、山谷でドヤ生活をしていました。看取るものもいない行き倒れ同然の死でした。
「特高月報」昭和16年4月、昭和17年3月号にそれぞれ小松豊吉の名があり、三田の印刷工グループで治安維持法違反容疑で検挙されている記録があります。彼にとって港区三田は戦前、戦後を通して馴染みのある古戦場だったことが分かります。私の前述した経歴でふれましたが東京貯金局はその三田にありました。
日電三田工場は東京南部の拠点工場であり、レッドパージ反対闘争を支援するために、私は「南部プチロフ行動隊」(非合法の反米宣伝隊)に、“独身者の活動家”という基準で選ばれ、工場周辺の反米ビラの貼付やデモ隊に加わりました。もちろん逮捕されれば占領政策違反(325号違反)で沖縄行きの重労働が待ち構えている状況でした。これが翌年の1951年2月21日の「反植民地闘争デー」の蒲田事件となって暴発していったのです。
そんな関係もあって帰国後の小松氏を私の家に呼んで、石川島田無工場の労働者と懇談したり、学習会で小松氏の話を聞く機会などを作り、交流を深めました。
彼の死後、昔の全電工の同志たち30人くらいが杉並公会堂の一室に集まって追悼会を開きました。椎野悦郎氏(臨時中央指導部)、小松雄一郎氏(宣伝教育部、二代目の臨時中央指導部)、増山太助氏(東京都委員長)たちと、それに小松が日電で育てた宇田正子氏(東京地評のオルグ)や私などが参加した。寂しいお別れの会でしたが、それぞれに革命家小松豊吉の在りし日を偲んで思い出を語りました。当日の記録に小松豊吉の闘病記録とともに「ものせんと焦れども心むなしく涼風の吹く」の小松の俳句が添えられていました。
白鳥事件で殺人幇助とされた村手、高安氏は懲役3年(執行猶予5年と3年)でした。75年当時、帰国した大林昇、門脇戌氏(中核自衛隊員)は白鳥警備課長殺人事件の共同謀議に加わったとされましたが、両名は起訴猶予になっています。
そこで真犯人は佐藤博であり、鶴田倫也氏は共犯とされているが、鶴田氏は「佐藤博、宍戸均らを中国においたまま自分は日本に帰れない」と言うのだそうです。その佐藤も宍戸も死んだいま、日本に帰国の用意があり、たとえ5年の実刑判決があったとしても2〜3年くらいで保釈にならないか、というのです。
川口がその受け入れ条件を作るために動いている。渡部も川口に会って協力してくれないか、というのが斉藤氏の話でした。
川口は事件当時、北海道地方委員会の軍事委員だった関係から、真犯人の佐藤博とともに中国に逃亡しており、関係者には川口が相談役になっていた。そんな経緯を川口は『流されて蜀の国へ』(1998年、自費出版)に書いていました。
川口がすでに鶴田氏の現況や、佐藤博や宍戸均が病没した様子なども書いています。白鳥事件は言うならば私の青春時代の事件であり、まさに極左冒険主義の代表例にあげられる事件のひとつでした。
ところが共産党は主犯とされた村上国治(札幌市委員長・無期懲役、1969年11月刑期43%で仮釈放)は冤罪、の立場で国民運動を展開(白対協)していましたから、白鳥事件が極左冒険主義の事例とは論理のうえからも位置づけておりませんでした。
もし鶴田氏が帰国を希望しているなら、私も救援の協力をしなければならないだろうと考えて、斉藤に協力することにしました。川口夫妻や斉藤が東京に出てきて、出版社(五月書房)と交渉に入り、私の協力を確認して、高安知彦氏(白鳥事件で共同謀議で逮捕される)、川口孝夫、斉藤孝の3人による共同執筆の計画で白鳥事件の真相を発表することになりました。
それは鶴田氏の帰国に対する側面援助でもあったのです。鶴田氏は犯人の佐藤博と一緒に白鳥警部を尾行したことは事実ですが、彼は北大のインテリですから、実行の意思はなく、「これ以上の追跡は困難」として、計画の中止を村上委員長に進言するつもりだったのです。
【白鳥事件の真相の著作とビデオ撮りは進行する】
途中経過を大幅にカットして結論を言うと、鶴田氏は帰国の準備をはじめたという。それと前後してNHKの片島紀男氏(ディレクター)に話して、鶴田氏の帰国に合わせて、白鳥事件の真相をビデオ化し、放映する準備を進めました。片島氏ほかスタッフを北海道に案内し、関係者に引き合わせ、インタビューしたのは私の紹介でした。それは鶴田氏の帰国の援助と防衛のための世論づくりにもなると考えたのです。
関係者の聴き取りと映写の作業が開始されました。それは1998年2月29日から3月2日までのことでした。拳銃の射撃訓練をしたとされる雪の幌見峠に案内されたときは、小雪が舞っていました。私が犯人佐藤博に扮して、雪の札幌市内を事件のあった夜8時に自転車で白鳥警部を追いかけ、射殺する犯人の役を演じました。ロケが終わった翌日は札幌雪まつりの最終日だったことを覚えています。
あとは北京空港から日本に帰国する鶴田氏と同じ飛行機の便をチャーターし、国境を超えたところで、日本の公安に手錠をかけられるクライマックスのシーンを撮ることになっていました。
ところがその寸前で思わぬどんでん返しが待ち受けていました。時事通信社の記者が北京の鶴田氏を追跡し、インタビュー記事をものにしたのです。それは「白鳥事件で手配 46年目の会見 鶴田容疑者 北京で生存」(北海道新聞1997年6月8日)のタイトルで社会面トップ記事として全国に報道されました。
中国側はこれで態度を一変させて、「鶴田なる人物は中国にはいない」と声明したのです。
著作は共謀者とされた高安知彦氏(『「白鳥事件」覚え書─日本共産党札幌委員会 元中核自衛隊員の手記』)と川口孝夫の原稿(「なぜいま『白鳥事件』の真相を公表するか」)は書き終えました。斉藤の原稿も書き進んだ。もちろん、私の資料協力は鶴田氏援助の一助として献身的に国会図書館や大宅壮一文庫、共産党関係資料などの収集に協力しました。
【白鳥事件裁判関係資料はついに公開される】
ところが斉藤はどうしても白鳥事件の裁判資料を一読しておかないことには不安が残るが、その資料がどこにあるかわからないという。やがてそれが松本市の司法博物館に保存されていることがわかりました。
杉之原舜一主任弁護士が保存していた北海道の戦後の白鳥事件を含む、芦別事件や公安事件の弁護はほとんど杉之原弁護士が担当していました。その厖大な裁判資料を自由法曹団員の石川元也氏(大阪在住、弁護士)が松本市の出身ということで、杉之原舜一氏の了解をとり、資料の公開を前提として、ダンボール30余箱の厖大な資料を司法博物館に寄贈したのです。
斉藤は文書をもって閲覧を申し出たが、「未整理のため」として閲覧ができなかった。半年あまりが無為に経過していきました。そんなある時、急に私の所に司法博物館から電話が入りました。
それによると北海道の白鳥事件対策協議会は、白鳥事件裁判資料の返還を求めて市民運動を起こし、「事件も弁護士も北海道のものだ、公開しないなら北海道に返せ」と署名簿をつけて要求してきたというのです。
全く偶然のことですが、司法博物館の館長亀井正氏は私の講演会に何回か出席していましたし、その博物館の理事は白井久也氏でした。亀井氏はこれまで司法博物館のために1億円ちかい私財をなげうっており、とてもこれ以上の財政負担はできず、といって返還要求に応じるわけにはいかないので、白鳥事件の裁判資料を整理して、一般公開ができるようにボランティアでやってもらえないか、というのです。
斉藤はどうしてもやってもらいたい、というので、先ず、資料の閲覧ということで、東京から10名ばかり私の友人を誘って、白井氏の案内で高速バスで松本に行って資料の閲覧をしました。
斉藤は北海道から飛んできて、先頭に立って捩り鉢巻で30余箱もあるダンボールの裁判資料調査の陣頭指揮をとりました。
そんな経緯で私が白鳥事件の全裁判資料の整理を引き受けることになりました。私が出した条件はただ一つ、「コピーは1セット提供すること。重複して存在する資料は1セット提供すること」でした。こうして私の白鳥事件裁判資料の整理が始まったのです。
それは本日この図書館でみられる通り全部で120巻を超えるものとなり、1年半の歳月を要しました。本日も参加している村井さんや長谷さんにも松本まできてもらって作業を手伝ってもらいました。
作業の途中で博物館のコピー代も嵩み、次第に財政的に重荷になり、すでに90%完成したにもかかわらず、作業中止を申し渡されました。しかし、ここまできて途中で投げるわけにも行かず、私の自費でやっと完成にこぎつけました。
製本した資料はついに司法博物館の一部屋に閲覧室が作られ、「社会運動資料センター渡部富哉氏の協力により─」と案内の掲示が掲げられました。公開にあたっては地方紙の記者がきて取材しました。開所式のテープカットもしました。わが青春の思いがこれでやっと果たせたと思いました。
ここでみられる120巻を超える「白鳥事件関係裁判資料」の製本は予算がないために、私の手作業によるものです。背表紙や奥付も私がワープロで打ち込んだものですから大きさはきちっと揃っておりません。まちまちになっています。北海道には95巻コピーした段階で送りました。これで斉藤の原稿ができればすべては終るはずでした。
【川口孝夫の裏切りの真相】
ところが全く信じられないことが現実になったのです。私は川口に騙されたのです。様子がどうにもおかしい。調べていくうちに仰天するような事実が次々に起こったのです。結論はこうです。
原稿がなかなか出てこないので出版社からリライトするために派遣した中田建夫氏の報告によると、川口は「渡部がこの件に介入するなら五月書房からの出版を拒否する」というのです。まさかと思いながら、その録音テープを聞いて私は本当に怒りました。
「渡部が聞いたら激怒するだろうな」と川口は笑いながら語っているのです。やがて川口は原稿を残したまま死去しました。
斉藤はノイローゼになって、原稿はストップしたままです。高安氏の原稿は完成しています。
川口と私の間に何があったのか、当時、私はその原因となる真相はわかりませんでした。ところがそのライターの録音テープによると、川口は当時の北海道地方委員会の議長吉田四郎氏に随分ふくむところがあることがわかりました。
吉田四郎氏は椎野悦郎氏、小松豊吉氏とともに六全協後、軍事関係の責任者として中国に送られ、徳田球一書記長亡き後の日本共産党の在外代表部(俗称徳田機関または北京機関ともいう)代表になった袴田里見から査問をうけることになりました。川口式に言えば「島流し」です。
吉田氏と椎野氏はその直前に、「このままだと伊藤律の二の舞になる可能性がある」と話し合って、人民艦隊(共産党の非合法の密出入国船)に乗船する直前に拒否してしまったのです。
川口と対談して分かったことは、川口が中国に送られる直前まで夫婦で潜伏し滞在していた所は、私の潜行時代の指導者だった御田秀一氏(組織・労対部長)の調布の家だったのです。御田氏は戦後、青年共産同盟の書記長時代から、関西で頭角を表した吉田四郎氏(五全協で中央委員候補となる)とは個人的にも家族ぐるみの親しい関係でした。
後年のことになりますが、御田氏が死去したとき、「徳田球一とその時代」ビデオ製作でお世話になった林泉寺に頼み込んで、私は東京で「お別れ会」を催しましたが、吉田氏はこのときも参加され、富士山麓の墓地の世話や納骨まで世話してくれました。そんな深い関係にあったのです。
いよいよこれで吉田ともお別れだと言うので、私の実家が吉祥寺の魚屋だったので、親父から寿司種をもらってきて、御田氏の家で吉田夫妻とお別れ会をやりました。その直後に吉田氏は椎野氏と話し合って乗船を拒否してしまったのです。
そんなことを川口に話しました。ところが川口はその話を認めようとはしなかったのです。「党の命令を拒否するなど、党員にできるはずはない」というのです。川口は六全協後、中国へ送られて、当時の党の混乱の実態を知らないのです。
ところがそのとき私は知らなかったが、もっと川口には差し迫った事情があったのです。同じ事件で中国に送られた門脇戌氏(1977年12月帰国)は川口孝夫著『流されて蜀の国へ』に対する抗議文の中で、次のように書いています。
川口は、「中国に行かなくてもよいのなら、党組織から離れると決意したのだ。こうして梶田茂穂氏(党統制委員)と川口は、双方で離党の件で合意したわけである。ところがどういうわけか翌年の3月まで、党を離れるかどうかの最終的な結論がでないまま、住居を転々と変えていただけだったという。
つまり、合意を実行しなかったのは、川口自身である。一旦、党組織の束縛から離れて、あくまで日本に残ると言い張っていたのだから、3月に梶田氏が再び中国行きの話を持ち出した時、拒否すれば「山流し」にされずに済んだのに、なぜきっぱりと断らなかったのか。中国行きを拒否しなかった自分自身に責任がないとでも言うのだろうか。
亀山幸三氏の回想によれば、中国行きをすすめられた椎野悦朗氏は、直前になって、きっぱり中止したし、川口の上司でもあった吉田四郎氏もその直前にぱっと逃げたではないか」(「蜀の国に追放され、山流しにされたのか?」)
このように、門脇氏は川口を批判していたのだ。
川口が「党の決定を拒否して追求もされずにそのままになったということなどあり得ない。吉田四郎が中国行きを取りやめたのは中央の決定があったとかんがえるべきだ。それなら川口が6全協後、中国行きになる経緯も説明がつく」と私に強弁し、認めたがらない事情がこうして判明した。私は吉田四郎氏の録音テープを彼にきかせたのです。中国行き拒否についての椎野悦朗氏側の証言は1年半にわたって私は聴き取りを行い、その全記録はCDに納められ記録されており、その聴き取の協働者中田建夫氏や記録をCD化してくれた長谷みどり氏は本日もこの会に参加しています。
なにより椎野氏は川口の要請をいれて北海道の温泉地で川口と対談する機会をつくりました。当然、そのことは本人から聞き取ったと思います。さらに6全協以前だとしたら、御田氏の家(調布市田にあった)に川口夫人が同居することはあり得ない。非公然の潜行ですから、家族とも同居は規律違反なのです。潜行中は御田氏はひどい喘息のため私は御田氏のアジトに同居していました。
「真相を公表する」という真実の証言者は事実に忠実でなければならないが、川口は私の証言を認めることができなかったのです。それが川口が私を裏切る結果につながったのです。
【決定的な証言・「追平雍嘉上申書」ついに発掘される】
ところで斉藤が先頭になって裁判資料をひっくり返して調べた最大の目標は「追平雍嘉上申書」の発見にあったのです。それが所蔵庫から杉之原資料のすべてのダンボールを大きな会議室に持ち出して、全部調べたときどうしても見つからなかったのです。「ないはずはないのだが─」と斉藤は落胆していました。
白鳥事件の最も大きな特徴は証拠がないことです。その最大なものは拳銃であり、犯人佐藤博が犯行に使った自転車です。そこには射撃の際にでる硝煙の痕跡があるはずでした。しかし、遂に検察当局はその証拠を発見することができなかったのです。
第一審判決を決定づけた最大の証言はまさにこの「追平雍嘉上申書」にあったのです。それは真犯人の佐藤博から、犯行の翌日に追平雍嘉氏が佐藤宅で直接、その犯行の状況を聞いた生々しい記録です。
これまで裁判ではこれが最大の証言とされて検察と弁護団や村上国治との間で最大の争点になりましたが、この手記は公表されたことはありませんでした。
安倍治夫検事は追平雍嘉著の『白鳥事件』(日本週報社 1959年)に協力していますが、その著作に使われた追平雍嘉氏の証言は、「上申書」から比べればそれはほんの一部分にしかすぎないのです。斉藤はこれさえ発見できれば追平雍嘉著「白鳥事件」を超える迫力のものが書けると期待したのです。その思いは当然と言えるでしょう。
私が全資料のコピーを終えて製本したときは、全95巻でした。その後、公開された資料室の飾りつけと挨拶のために司法博物館を訪れたときに、念のためにもう一度、倉庫を確認のため、というより資料とお別れのために書庫に入りました。ところが摩訶不思議なことが現実に起こったのです。
書庫の真ん前に見かけないダンボールがあり、「はてな?」と思ってその蓋を開けたところ、そこに「追平雍嘉上申書」があったのです。信じられないことですが、事実です。雑役の人に聞いてみましたが、私以外には誰も書庫には入らなかったと言うのです。
職員は館長と副館長の他には受け付けの2人と雑役の人しかいないのです。もし誰かが仮に倉庫に入ったとしても、その倉庫には芦別事件や、その他、杉之原舜一弁護士の関係した北海道の公安事件のトラック一台分の厖大な資料が山積みになっているのです。どうしてその厖大なダンボールのなかから「追平雍嘉上申書」だけをひきだすことが可能なのか。そんなことはありえないのです。
斉藤や川口が私を騙してまで一番見たかった資料の蓋はこうしてついに開けられたのです。
白鳥事件裁判関係資料の話はこれで終わったはずです。しかし終わらなかった。昨年、司法博物館は財政難も手伝って、松本市に移管になりました。すると白鳥事件資料はお蔵入りになってしまったのです。私には全く一言の連絡もありませんでした。
公開されては困る勢力のしわざだと思うのは私のひがみからでしょうか。いま白井久也氏が情報公開法による手続きをして、その決定の経過を調べることにしています。
白鳥事件についは松本清張著『日本の黒い霧』(文芸春秋)、山田清三郎著『白鳥事件研究』(白石書店)、佐野洋著『北の事件簿』(新潮社)、その他、山ほどの著作が出ています。その人たちはこの裁判資料を、せめて札幌地裁(第一審)の分だけでも目を通したのだろうか、疑問です。
この記録を読めば白鳥事件は日本共産党の軍事部(暗号名、Y)の犯行であることは確実であり、警察の犯人佐藤博の追跡記録(巻末の参考資料に掲載)はまさに現代史だけに、『長英逃亡』(吉村昭著)にもまさる「事実は小説よりも奇なり」というべき迫力のものです。
川口は「私は白鳥事件とは何の関係もない」と『流されて蜀の国へ』に書いていますが、この当局の佐藤博追跡記録には川口が佐藤を自分の親戚や知り合いのところに逃亡させていることが出てきます。犯行には関係がないにしても、「犯人隠匿・逃亡」を援助していますから当局が追跡するのは当然でしょう。
犯行の直前に川口は北大の教室で、宍戸均や鶴田倫也氏らのいるところで、佐藤博から「白鳥を殺っても浮かないだろうか」と聞かれて、「浮かないだろう」と答え、白鳥殺害計画が進行していると、北海道地方委員会議長の吉田四郎に緊急レポを送ったと書いている(『流されて蜀の国へ』)。
私の聴き取りに「佐藤博から中国でそう言ってなじられた」と語っている。それが事実なら、追平雍嘉氏と並ぶ佐藤博犯人説の重要な証言者ではないのか。「私は白鳥事件には関係がなかった」どころの話ではないでしょう。
事件の直後に機関誌印刷所で刷られた「日本共産党札幌委員会」名義の「天誅遂に下る」という犯行声明ビラが1万2千枚作成され、北大の正門前や一般市民に配布されました。執筆者は村上国治であることも、執筆の経緯も判明しています。
誰が印刷を注文したのか、その印刷の校正をした者(高安知彦が日本共産党札幌委員会の署名を入れた)は誰か、すべて分かっています。ところがこの「天誅ビラ」は2種類のものがあることが裁判で明かになっています。なぜ2種類なのか。だれが発注したのか、裁判では細かく印刷関係者に訊問が集中しています。もしこの裁判資料を松本清張がみていたら、当然、その謎に迫ったはずです。これについて書かれたものはどこにもありません。裁判では高安氏が「それは見たことがない」と証言しています。この謎を解く鍵は国警がはなったスパイにあると私は確信しています。
その印刷の担当者と印刷所で応対した印刷労働者は当局の追求によって、数カ月間逃亡の末、逮捕(自首)されました。この点についての有効な釈明と弁護側の反撃は遂にできませんでした。この裁判記録を見る限り第一審は弁護側の完敗です。
【第二審の争点となった弾丸をめぐって】
白鳥事件裁判が息を吹き返すのは、戦後、刑法の改正によって証拠を重要視する改正が行われたが、当局が前述したように証拠を挙げることができなかったためです。
拳銃の射撃訓練をしたという幌見峠でその弾丸を探し出せれば、白鳥警部の体内に残っていた弾丸と一致しするはずで、これが立証の要になるはずでした。当局はその弾丸探しをやったが、その場所の特定は高安氏しか現認者はいないのですから、高安氏に現場に案内してもらい、2度にわたって絨毯式に篩を使っての捜査になりました。
その肝心な高安氏に私も幌見峠の試射場跡を案内してもらいましたが、とくに雪の中だった関係もありますが、山は今日では札幌冬季オリンピックのジャンプ場として知られる大きな山ですから、高安氏も特徴は全く覚えていないのです。弾丸探しは事件後1年以上経っているのですから、特徴が全くない山肌ですから、覚えているはずがありません。そのときに手榴弾の試射実験もやりました。その残骸は発見することが出来ましたから、おおよその場所はわかったかも知れませんが、高安氏の証言によると、目標の木に向けて水平に撃ったと証言しています。
しかし、弾丸は発見されたのです。それは当局側の苦肉の策の謀略によるものでした。発見された弾丸はぴかぴかに光っていました。鑑定人は同じ種類の弾丸を2年間、同じ所に埋めて実験の結果、すべて腐食していました。
さらにこれはあまり問題にならなかった盲点とも言えることですが、弾丸よりも、もっと大きな薬莢がなぜ同じ場所から発見されなかったのか、という疑問はなぜか追求されずに、弾丸だけが問題になりました。
これが第二審(高等裁判所)の争点になり、これが国民運動につながって行ったのです。
当時、白鳥事件国民運動や現地調査に参加した人たちは、次々と暴かれる当局側の謀略と証拠偽造の実態から、これは冤罪事件だと印象づけられたのです。これはすべて当局側の責任です。本日の出席者にはかなり多くの人がその運動に参加した体験をもち、今日でも白鳥事件冤罪説を信じている人が多いのです。しかし、白鳥事件そのものは冤罪事件ではなかったのです。
共産党は六全協で極左冒険主義を自己批判して平和革命路線に転換しました。そのなかでまず最初に手がけたのは三鷹事件、松川事件、菅生事件などもろもろのいわゆる占領下の謀略事件と位置づけられた、冤罪事件の勝利を勝ち取って、権力犯罪であることを明かにすることでした。それは次々に勝利を重ねました。三鷹事件は犯人とされた共産党員の共同謀議説は「空中の楼閣」と裁判長に決めつけら、竹内景介を除くすべての被告は無罪を勝ち取りました。竹内景介の再審まで差しかかったときに、竹内は獄死してしまいました。今日、再び竹内の遺族は再審請求を決意しているところです。
【誰も知らなかった村上国治の「レポ問題」】
松川事件も最高裁で全員が無罪を勝ち取りました。菅生事件は権力側の自作自演の謀略だったことが明かになりました。続いて芦別事件、辰野事件も無罪になりました。これらの裁判資料は松本の司法博物館に保存されています。共産党は勢いづき、白鳥事件は冤罪であるとして、国民運動を展開しました。
当時の共産党の法規対策部長は戦後、一貫して労働運動を指導してきた長谷川浩氏でした。長谷川氏と私は前述したような関係にあり、懇意にしていました。彼の死後、所蔵する当時の記録の中に、松川事件、菅生事件などの冤罪を国会の法務委員会で次々に暴露し、政府側を追い詰めていった志賀義雄氏(共産党政治局員)に宛てて、白鳥事件を法務委員会で採り上げてもらいたい、と意見書を送った記録がでてきました。
もちろん,その記録は私の一橋大学に寄贈した白鳥事件関係資料に納められています。
志賀義雄氏は1950年の共産党分裂で国際派に属しましたが、のち、自己批判して党に復帰していました。彼は当時の志田重男の下で、潜行したのです。彼の仕事は党中央部の方針をチェックし、意見を中央に送ることです。彼は再三にわたって志田重男に対して極左的偏向に意見を書き送っていました。したがって白鳥事件が党の極左方針の結果であることを知っていました。
もっともこれは何も志賀義雄氏だけの専売特許ではなかったのです。党の中枢部にいた者や統制委員会の幹部たちのほとんどが白鳥事件は共産党の方針のもとに行われたと思っていたのです。
志賀義雄氏は結局どうしたか。今日では国会図書館は白鳥事件に関係するする法務委員会のすべての委員の発言をデーターベースに網羅しており、閲覧することが出きます。私はそのダンボール1箱分の全記録をコピーして調べました。
志賀義雄氏は白鳥事件に関して全く発言していない、とは言いませんが、明かに松川事件や三鷹事件の場合とは格段の違いがあります。事件そのものについて、当局側の冤罪を追求する姿勢は極端に見られないのです。それは何故かといえば、本人が冤罪とは考えていなかったことによります。
志賀義雄氏の八八歳の米寿の記念事業として「志賀義雄フォトドキュメント」を私と共同通信社の編集委員だった横堀洋一氏が担当しました。そこで横堀氏は端的に彼に意見を聞きました。志賀義雄氏は次のような秘話を明かしてくれました。
「もちろん、国会で追求するつもりだった。ところが、種々調べてみると下手な発言ができないことがわかってきた。そこで、手づるを求めて当時、自民党の大物だった賀屋興宣(近衛内閣当時の大蔵大臣、A級戦犯、のち国会議員)に面会して、意見をきいてみた。すると賀屋氏は『志賀君、君のために忠告しておくが、それだけはやめたほうがいい。村上国治は獄中から弁護士の面会の際に、『関係者を国外に逃がせ』というレポを渡し、それが当局側の手に渡っているんだよ』というんだ」志賀義雄氏はそう語ったあと重い口を閉じました。
志賀義雄氏の死後、私がその書庫のすべての資料を整理したのです。とくにその点に細心の注意を払って調べたが、志賀義雄氏がどのようにして賀屋興宣を調べ、どういうふうに話題をそこにもっていたのかを知る資料がそこにあった。
日本経済新聞に「私の履歴書」という、今日まで続く連載記事がある。賀屋興宣の場合は30回連載であった。丹念に切り抜かれてあるから、年月日はわからない。その記事は志賀義雄氏が暗記するほど読み込んだにちがいない。
ところどころに赤がひかれ、とくに賀屋興宣の父の出身が志賀氏と同じく山口県であること、一高、東大の同級生に共通する友人関係などに赤で囲みがあり、「社会主義が悪いからといって、研究してどこが悪いのか」と賀屋が校長にくってかかる箇所には二重線がひかれていた。
権力側は村上国治氏が獄中から出したレポは、当局側のスパイだった矢内鷹雄(北海道地方委員会のテク・非合法組織の連絡員)の手に渡り、それが裁判でも問題になっていたのです。それはこの裁判資料にもはっきりと書かれており、矢内の証言があります。
弁護団側はこれについて一言の釈明もありませんでした。その弁護士は責任を追及され、辞職させられたのではなかったか、裁判記録を読んだのは古いことなので詳細は忘れましたが、裁判記録にありますので各自ご覧になってください。
そういう都合の悪いことは「白対協」(白鳥事件対策協議会)の国民運動のなかではあまり知られていません。白鳥事件関係を扱った著書にも書かれていませんから、知っている人はいないだろうと思います。
ところが白鳥事件で問題になった関係者の証言ではなく、証拠(自転車や拳銃)がこの事件では発見できなかったことが、いろいろと問題になりました。当局側はこのレポの文面を村上国治氏の筆跡鑑定から、本人のものと断定し、これが最高裁で「特別抗告棄却決定」(1975年5月20日)の最大の理由とされたのです。
山田清三郎著「白鳥事件の真相」は2005年に新風舎から文庫版になって再版されました。その巻末の解説によると、著者が村上国治冤罪説を書いている意向とは反対に共産党軍事部の犯行説が書かれ、そこにこの裁判資料の一部が使われています。しかしながらそこには「追平雍嘉上申書」はありません。
松本司法博物館の公開された資料には第1巻から3巻に「追平雍嘉上申書」が展示してありました。その解説に使われた裁判資料は多分、高安氏の提供によるものなのだろうと思います。斉藤に送ったものからコピーをとったものでしょう。
【検事・安倍治夫という人物】
昨年末、白鳥事件を生涯の最後の仕事にすると言っていた、片島紀男氏が亡くなりました。彼は追平雍嘉氏や事件当時の札幌地検検事安倍治夫氏の聴き取りをやっています。安倍治夫という人物はその後、弁護士となり袴田事件や免田事件などの冤罪事件に深く関わった人です。
なかでも日本の岩窟王と言われた、大逆事件の吉田石松氏を支援する目的で書いた「再審理由としての証拠の新規性と明白性」という論文を『警察研究』に発表し、その後、再審問題について画期的といわれる「白鳥決定」(疑わしきは被告人の有利に、という再審の道をひろげた)が出たとき、『ジュリスト』臨時増刊号で、大野平吉広島大学教授が、「この決定の考え方は、つとに安倍治夫氏によって「証拠評価における『一体性』の原則として強調されたところである」と指摘しています(小松良郎「安倍治夫論」)。
安倍治夫氏は白鳥事件で権力の手先と松本清張から酷評され、『日本の黒い霧』に名指しで叩かれています。松本清張と安倍治夫の対決討論が雑誌「週刊読売」に掲載(安倍治夫「松本清張氏の『白鳥事件』推理に反駁する」、松本清張「現職検事のお粗末な雑文」1963年11月10日〜11月17日)されています。
片島氏に是非安倍治夫氏のインタビューをやってくれるように私は要請しました。片島氏はこの記事などをよりどころにして安倍治夫氏のインタビューをしてその「聞き書」を私に届けてくれました。安倍氏も片島氏も死去しましたが、その記録は残され、白鳥事件裁判資料とともに一橋大学図書館で活用することが可能になりました。
それによると安倍氏は「松本清張は自己批判すべきだ」と言っています。松本清張の所論はぜひ「日本の黒い霧」をご覧になっていただきたい。安倍治夫氏を権力の手先と位置づけて、冤罪説を展開していますが、安倍治夫氏が数々の冤罪事件に取り組んできた功績を全く無視していることは納得できないものです。
安倍治夫氏の真実も白鳥事件との関わりや、その後の彼の功績について明かにすべきだと思っています。
【関係者が帰国すれば冤罪は立証されるはずだった!】
自由法曹団の団長を長年にわたって務められ、白鳥事件の主任弁護士だった上田誠吉氏は2009年5月10日に逝去されました。緒方靖夫日本共産党副委員長による追悼文が共産党の機関誌「赤旗」に7段に及んで、メーデー事件や松川事件についての功績が書かれています。しかし、そのなかにはあれほど長期間にわたって白鳥事件の弁護団長として尽くした彼の功績については一言も書かれていないのです。「白鳥」の活字すらないのです。日本共産党は全く白鳥事件には触れてもらいたくないかのようです。
その上田誠吉氏は岩波新書で『誤った裁判』を出版しています。その中で、三鷹事件、松川事件、菅生事件など8つの事件を採り上げて書いていますが、なぜか白鳥事件は採り上げていません。初版は1960年です。版を重ねて、私のもっている本は1987年の32刷のものですが、そこにも白鳥事件は書いてありません。1960年という年は白鳥事件の第二審判決(1960年5月31日)があった時です。
上田誠吉氏は共産党機関誌「前衛」「特集 白鳥事件」(1963年10月号 215)の中で「村上国治は無実である」という論文を掲載しています。にもかかわらず、白鳥事件は『誤った裁判』ではなかった、とでもいうのだろうか? それとも全く触れたくないのか、それは個人の意思か、党の判断か、その真実はわかりません。
「中国に亡命した容疑者が冤罪ならば、なぜ日本に帰って来て村上国治氏の冤罪を晴らすために、堂々と法廷で冤罪を主張しないのか」と、当然の疑問を講演会で国民運動参加者が質問したとき、弁護団は「当局の弾圧がなければ当然帰国するはずだ」と回答していました。
その容疑者のひとり川口孝夫は1973年12月に帰国しました。続いて関係者たちが佐藤、宍戸、鶴田氏の3人を除いて、7名が帰国しはじめると、「白鳥事件対策協議会」は約束どおり、真相究明に拍車がかかり、当局を追い詰めて、再審請求はいっそう燃え上がるはずでした。ところが事態は全く反対に、「白鳥裁判運動」終結宣言(1975年7月)をして、帰国した関係者たちの事件関与については何の釈明も、説明もないまま解散してしまいました。
帰国した関係者たちは国民救援会の援助もなしに、独自に当局の追及と闘わざるを得ませんでした。
【衝撃! 革命家村上国治は焼死体で発見された!】
村上国治氏が自転車泥棒をしたという新聞記事が全国紙に掲載されたのは1985年1月18日のことです(読売新聞データーベース)。
村上国治氏がいつから深酒に溺れるようになったのか分からないが、新聞記事によると、「昨年(1984年)11月中旬、夜10時ごろ、歩道に止めてあった婦人用自転車を盗んだ(3000円相当)。12月15日未明、自転車に乗っているところを同署員が職務質問し、村上副会長が犯行を認めた」とある。
しかし、村上国治は「酒に酔っていたこともあり、駐輪場わきに山積みになって放置されていた自転車を拾ってきただけだ」と弁明したという。恐らくそれは事実だろうと私は確信する。
川口孝夫夫妻の聴き取りによると、「着の身着のままで帰国した夫妻は生活保護を受けたが、家財道具は全部拾ってきたものだ。中国の四川省の農村ではとても考えられないことだが、日本では高価な宝物が捨てられている。わが家にある家財道具のあれも、これも、カーベットまで買ったものは何一つなかった」という。
作家高橋治によると、「川口夫人がお茶を入れるために使ったジャーは押せども、押せどもお湯が出なかった」、「桂川良伸(同じく中国からの帰国者)の部屋に通されて、私は思わず家具を見回した。なによりも少ない。そして、古い。さらに奇妙にチグハグなのだ。桂川が笑った。『全部拾ってきたんですよ』なるほどと思った。店の奥にあるテレビはこわれかかった白黒のものだった」(『還ってきた“白鳥事件”』文芸春秋
1976年8月号)
北海道の開拓農家の貧しい家庭に育った村上国治や川口夫妻にとっては、廃品で処分されるものが宝物で、「勿体ない」という感情が先走るのは当然のことだろう。だが、問題はそんなところにはなかった。当局は村上国治から目を放さなかったということだ。事件にもならないことを「“犯行”を認めた」ことにした。所有者もわからない放置自転車の窃盗として新聞記事は書きたてた。
その直後の国民救援会の第40回大会で村上国治は国民救援会副会長職を解任された。かつて、宮本顕治共産党委員長が「北の村上国治、南の瀬長亀次郎」とまで讃えられた、革命家村上国治はこうして共産党から排除された。最早、使い道はないと言わんばかりだ。
村上国治氏の裁判に全力投球して弁護の任務に当たった杉之原舜一氏(94歳)が死去したのは1992年1月28日のことです。その葬儀には村上国治の姿はありませんでした。
長岡千代著によると「村上国治はメーデーになると、弁当を作って『会場で売るんだ』と言って、『おむすびいかがですか』と売り歩き、赤旗まつりでは京都西陣から反物を仕入れて売っていたという」(『国治よ 母と姉の心の叫び─謀略白鳥事件とともに生きて』)。
1994年11月3日、村上国治氏の自宅が午後10時5分ころ全焼し、村上国治氏は焼死体となって発見された。その悲惨な情景は村上国治氏の姉長岡千代著(上掲書)に書かれています。誰もいなかった家の二階で革命家村上国治は焼死体となって発見された。
その焼け跡には「車庫のシャッターの隙間に、ビニールの皿に三個づつ盛られたさつま芋が七皿ほど並び、焼け残っていた。無人販売でさつまいもの皿を置いていた」という。
村上国治氏が死ぬ前年に拙著『偽りの烙印』が出版されている。村上国治氏は多分この著作を読んでいると思う。同じ時代に日本共産党の最高指導者(政治局員)のひとり伊藤律が中国で、27年間の獄中生活から奇跡の生還を果たしたというニュースに関心を持たなかったはずはないし、伊藤律のスパイ説も全くの冤罪だったから村上国治氏は自分のこととして考えたに相違ない。村上国治氏はその著作からどんな思いを抱いたことだろう。
村上国治の実姉長岡千代著(前掲書)によると、国治の父親は一滴の酒も飲まなかったし、国治も酒はたしなまなかったという。その彼が深酒をするようになった。「闘い一筋の暮らしの中で、酒を覚え、酒にまぎらしていたこともあったのだろうと思われます。しかし、決して楽しい酒であったとはとうてい思われない」と書いています。
失火の原因は分からない、しかし、覚悟の上の自殺だろうと、筆者は小松豊吉の死にざまをみてそう考える。
1969年に村上国治氏は仮出所した。彼は精力的に冤罪を訴えて活動した。この5年間に村上国治が出席した集会は数百回に及んだ。現地調査でさえ、多いときは1000人もの人が全国から北の国札幌に結集した。白鳥事件裁判再審要請の地方議会の決議は150地方議会に及んだ。
73年ころから白鳥事件関係者の帰国が相次いだ。川口孝夫ら5名の帰国に当たって、共産党は「党が分裂していた時代の、誤った一派の指導による極左冒険主義の反党盲従分子」と決めつけ、「白鳥事件は現在の共産党とは関係がない」と声明したのだ。これほど国民を愚弄した無責任な声明はないだろう。
「白鳥事件対策協議会」(白対協)とは一体なんだったのだろう。村上国治は冤罪であり、釈放を求める国民運動は誰が指導したのか。今日ここに集まっている人たちはいまでも村上国治冤罪を信じている人が多い筈だ。この共産党の公式な態度表明は村上国治の肺腑をぐさりと射抜いたのだ。
高安氏も村上国治氏の出獄のとき網走刑務所に迎に行っているが、挨拶することも、口をきくことはなかった。川口も村上に帰国後、偶然会ったが話すことはなかったと二人は語っている。当然のことながら村上国治の姉長岡千代の著作には高安氏に対して「村上国治の罪は、元北大生の高安知彦が権力に屈伏して誘導・強要されるままに行った偽りの証言などによって捏造されたものです。
ありもしない「共同謀議」に参加していなかったポンプ職人の佐藤博さんが実行犯にされてしまったのも、変節した佐藤直道の証言によるものでした。権力に屈伏し、無実の人を罪におとしいれることに加担した、あるいは加担させられた人たちのその後は、いったいどういうことになるのでしょうか。
国治は獄舎にいるとき、『いずれ真実を語る時がある』と信じ、仮釈放されたあとも人間の良心を信じていました」と書いており、「高安知彦に会ったら私は尽きせぬ怒りを思い切りぶつけ、謀略で貶めた人々への詫びをなんとしても言ってもらいたいというのが偽らぬ心境です」と結んでいる。
恐らくこの長岡千代の心境は、当時、村上国治氏の冤罪を信じて共産党が主導する国民運動に参加人たちに共通する思いだろうと考える。
革命運動の歴史は負の経験から学ぶことは、二度と誤りを冒さないために必要不可欠なことだが、それがついに共産党にはできなかった。いま、日本共産党の歴史は何度も書き換えられているが、白鳥事件に書かれることは遂になかった。
私はごく限られた友人に「白鳥事件裁判資料抄録」(上・下)を作って、協力してくれた友人たちに配布した。
3年ほど前にゾルゲ事件研究の仲間たちと中国旅行したとき、鶴田倫也氏に手渡されることを想定して、北京飯店で高野広海氏(日本共産党在外代表部細胞長)に会ったときに贈呈しました。高野氏は「白鳥事件についてはいまやすべてが明かになっている」といいました。その1年後に高野氏は「回想録」を書き残して死去しました。その回想録にはもちろん、白鳥事件のことも鶴田氏のことも書いてないでしょう。
いま川口に続いて片島紀男氏が死去し、「白鳥事件の真相を明かにする」という彼の意図は費え去ろうとしているとき、これでいいのか、という思いにかられています。私の白鳥事件裁判資料にまつわる怨念の苦い体験をお話ししました。
一橋大学に白鳥事件裁判記録を寄贈するにあたって、その経緯を記録する必要があり、資料収集と所蔵の経緯を語りました。なにか参考になることがあれば幸甚に思います。長時間、ご静聴有り難うございました。
(完)
【追記】
本文は社会運動資料センターの所蔵する資料を一橋大学図書館に寄贈するにあたり、渡辺雅男図書館長が私の講演を企画してくれたものです。報告中に岩田義道のデスマスクを日本共産党に提供する用意のあることを述べました。それは渡辺図書館長が共産党の文化部長に話され、当日、文化部長は講演会に参加されました。私の講演の後、会場で「岩田義道デスマスクの贈呈式」が行われるはずでした。ところが私の講演で共産党の文化部長はぶったまげて、とうとう私に挨拶もなく、名刺交換もないままになってしまい、贈呈式はお流れになりました。
講演会に参加者された方は、私の白鳥事件関係の報告に大変驚かれたようです。当日、日本共産党・コミンテルン史などの研究者として著名な犬丸義一氏が参加していました。犬丸義一氏(代表作品に『日本共産党の成立』青木書店)は日本共産党のオルグとして白鳥事件の学習会に講師として呼ばれ、全国を講演してきました。
犬丸氏は徳田球一が中国に亡命したとき、彼も当時、北京の党学校にいました。そんな関係で私は犬丸氏と徳田球一の日本共産党在外代表部部(俗称・徳田機関)のことや、伊藤律問題など、かなり突っ込んだ討論をしてきました。
その犬丸氏が、「本当に『追平雍嘉上申書』が発掘されたのか」と驚き、相反する立場の二人は白鳥事件の真相をお互いに資料を持ち寄って、もう一度真相を究明しよう」と提案してきました。歴史家としての責任からでしょう。渡辺雅雄教授も全面的に賛成され、これに協力することを約束してくれました。
これまで白鳥事件関係資料について協力してくれた友人にも呼びかけて、対論会をおこないたいと思っています。
「追平雍嘉上申書」はパソコンに入力中ですので、校正後、その他の関連資料を付けて、申し込み者に発送の予定です。
「これでいいのか──」という私の思いは、いま急速に一歩前進する様相を呈しています。生前葬と位置づけた私の講演が文字通りの「遺言」になるかも知れせん。
ご多忙のなかご出席された方や、このような会を催してくれた渡辺雅男図書館長に感謝します。
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※編集委員会から;本稿は、社会運動資料センター所蔵資料の一橋大学図書館への寄贈に際して行われた講演の記録(一部略)です。講演は、2009年11月に行われました。
〈記事出典コード〉サイトちきゅう座
http://www.chikyuza.net/
〔study249:091205〕