徳田球一――ヤマト沖縄
徳田球一は、五十九歳の若さで北京で死去した。骨や遺品類を日本に送るに当って、中国共産党は追悼集会を開いて三万人が参加、毛沢東主席は「徳田球一同志 永垂不朽」と記して革命家の死をとむらった。
徳田の故郷である名護市は、「郷土の英雄」「国際的政治家」として、八〇年代はじめ頃に、市公報で北京の追悼集会の写真など、徳田球一特集号を出した。私は「労働情報」の講演会に行った時に、その公報をみて、ウチナンチューの誇りと沖縄とヤマトの違いを強く感じた。
名護市は、社会党の戸口市長が徳田記念碑をつくることを発案(三鷹事件の喜屋武由放の働きかけもあって)、次の保守・比嘉市長も応じ、いまの岸本市長の時に完成した。その総体は二千万円ちかいカネがかかり(一般寄付金は千万円で、多くは沖縄で集まった)、三年の歳月を要したが市は四百万円の補助金をつけた。その市長提案に対して、自民、公明、社会党などは賛成したが共産党議員は、賛成も反対もせず―客観的には反対を意味する―、記念式典では、市の長老党員が他の人々とともにあいさつしたが、市委員会などの党代表のそれはなかった。
この冷えた対応は、党本部の宮本委員長の徳田観の反映だったのである。徳田と宮本の路線対立とともに沖縄観の根本的違いがあったのである。
牧瀬恒二は、七〇年「沖縄返還運動」の党担当者であった。彼は増山に「じつは、徳田が言っていたことだが、沖縄はヤマトではない。沖縄の共産党をヤマトの党の下部組織にしてはならない。そういうことをすると沖縄の人たちの自主性をそこなわれる」(二五〇頁、高安重正と牧瀬恒二―日本と沖縄は「対等の立場で結合」せよ―)と語っていた。
高安重正(旧性高江洲)―戦前の全協二代目委員長、戦後は党沖縄対策責任者―と、私は一九四九年に横浜市委員会オルグ団会議で何回も同席した。よく分からなかったが、彼が発表すると中央の京浜担当の春日正一(のちに党幹部会員、統制委議長など)や市委員長丸山一郎(五全協中央委員、志田派「代貸し」といわれた)が嘲笑的によく批判していた。
高安は一見、いかつい風貌だが、目と人柄はとてもやさしい様に感じた。鶴見に沖縄人部落があった関係でよく来たのだろうか。その高安は「徳田の考えを堅持していたが宮本顕治は人民党の党組織を解体して沖縄の共産主義運動を日本共産党の中央集権下におこうとした。だから、高安はこれに反対していたんだ」「それが除名の本当の理由かもしれない」と牧瀬は言ったという(二五五頁)。
徳田と宮本の沖縄党組織論
徳田と宮本のどちらの沖縄論が正しかったのか?
徳田は、第六回大会(一九四七年)の行動綱領で「沖縄の独立」を掲げ、大分裂下の国際派は、それを徳田の「民族主義的偏向」の一つと批判したことがあった。私も当時そう思ったが……。
だが、その「沖縄独立」は、保守の大山元コザ市長(九九年死去)によって、遺言のように出版された。「独立」か「自治州」か「特別県」か等の是非はここでは略する。が、米日政府への批判は高まり、数年前に建てられた読谷村役場前の記念碑は当時の村長山内徳信(大田県政時の県出納長。今年の「人間の鎖」総責任者)によって、日本政府ではなく、「ヤマト政府」と記されていることを、われわれはしっかりとうけとめなくてはならない。
沖縄の党組織(大衆団体も共通する)をめぐる徳田と宮本間の対立は、思想的には決着がついている、と私は信ずる。(つづく)
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