徳球の獄中闘争考

 (最新見直し2008.10.23日)

 (れんだいこのショートメッセージ)
 徳球と宮顕はそれぞれ網走刑務所暮らしの経験を持つ。「唯一非転向人士」として聖像視される宮顕は、終戦前の春から秋に掛けての過ごし易い網走暮らしであったが、徳球は6年過ごした。次のように述べている。
 「その寒さというのは骨の髄まで入ってくる寒さだった。今でも網走の6ヵ年を思い出すと五体がぞっとするような気がする」。

 その徳球は、「唯一非転向」を特段には売りにしなかった。それに比べて宮顕の「唯一非転向人士」売り込みは自尊的で、ここにも鮮やかな対比を見て取れる。世の中にはこういうことがままある、心せよ。

 2005.4.3日、2008.10.23日再編集 れんだいこ拝


 「」は次のように記している。
 「一九三五年(昭和十年)の十二月も暮れ近くなってからわれわれはにわかに北海道へ送られることになった。志賀君だけは函館刑務所、われわれは−−市川君と国領君とわたしとは網走刑務所ということにきまった。護送自動車で上野駅までもっていかれ、上野から汽車にのせられて、網走についたのは、年の瀬もおしせまった十二月の二十七日だった。北海道は、見渡すかぎり一面の雪にうずまっていた。

 網走は、なにぶんにもあの寒さだから、監獄のようすも、よそにくらべるとだいぶかわっている。屋根はぐっとひくいし、外気にふれるところはすっかりめばりがしてある。

 監獄の領地のなかに、水田が十三町歩、畑をあわせると四百五、六町歩もの耕地があって、米はいくらもとれないが、カボチャやジャガイモがいやというほどできる。もし寒くさえなければ、網走の監獄はわりと暮らしよいといえる。

 ただ、寒かった。骨のずいにしみとおるあの言語に絶する寒さは、六年間の網走生活の記憶をいまもなおつめたく凍りつかせている。

 真冬には、零下三十度に下がることもめずらしくなかった。そんなときには、暖房のはいった監獄のなかでも零下八度とか九度とかをしめす。はいた息が壁にあたると、みるまに凍りついて、無数のこんぺい糖ができる。こんぺい糖は壁にだけできるとはかぎらない。うっかりすると、眉毛のさきや鼻のあたまにもできる。しょっちゅう鼻をもんでいないと火傷のようにどろどろになって腐ってしまう。

 夜は、例のあかいつるつるてんの作業衣を寝巻に着かえて寝るのだが、着かえるまえには、必ず氷を割って、全身に冷水摩擦をしなければならない。これをおこたって零下何度の寒さでかちかちに冷えきった寝巻を、そのまま肌に着ようものなら、たちまち風邪を引いて肺炎をおこす。寝るときは、必ずふとんのなかに、頭ごとすっぽりもぐりこまねばならない。

 監獄のなかでは、自殺のおそれがあるというので、ふとんにもぐって寝ることは禁ぜられているが、そんな規則などかまっていられない。もし、ふとんから顔をだして寝たりしようものなら、寝ているうちに、自分のはく息で、口のまわりがすっかり凍傷にやられてしまう。

 とにかく、猛烈な寒さだった。わたしは、網走へいった翌々年、忘れもしないそれは二月十一日紀元節の朝だったが、目が覚めて起きようとしても、どうしても起きられない。全身に神経痛がおこって、ぎりぎりと錐をもみこまれるようで、足も腰もたたない。部屋のなかのすぐそこにおいてある便器のところまでも行けないのだ。人に助けてもらってやっと用をすませ、かつがれて病室へいって、手足に注射をしてもらって、やっと用をすませ、それから一週間ほど動けないまま寝ていた。そのときいらい、神経痛は私の持病の一つになった。

 それから一年半ほどたって、今度は右の手くびが動かなくなった。肩のつけねから指先まで、じーんとしびれたきりで、右手ぜんたいが自由にならない。

 一年ほどこの状態がつづいて、今にいたるも完全には直らない。網走生活の記念となっている」


 

氷のなかで 志賀義雄

 「一九三四年十月十七日に判決があり、懲役十年の刑を課せられることになった。そして、その年の十二月われわれはにわかに北海道へ送られることになった。徳田・市川・国領の諸君は網走へ、わたしは函館へ送られた。上野駅から、網笠、手錠姿で汽車に乗せられ、まっすぐに函館にむかった。北海道はちょうど吹雪のさなかだった。すべてをひっさらってゆくようなはげしい吹雪が函館の街じゅうを吹き荒れていた。

 函館というところは、網走などとくらべると夏と冬の温度差がすくなく、北海道ではしのぎやすいとされているが、函館刑務所の建設を設計した技師が、内地の頭で設計したものだから、鉄筋コンクリートづくりになっていて、北海道の気候にあわない。

 コンクリートには雪解けの水がしみこむが、それが夜中に凍結してコンクリートに大ひびをいれる。もともと世のどん底である監獄の暮らしの、住みよかろうはずもないが、なかでも、冬の寒さは一番からだにこたえて苦しかった。

 寒くなると役人はストーブをたくが、むろんわれわれには、真冬でも炭火一かけらも与えられない。コンクリートの壁は、わずかに外を吹く風をさえぎってくれるだけで、その壁のわれめからは、ようしゃなく水気がしみてくる。零下十五度にもなると、わるい監房では部屋中がばりばりと凍りついてしまう。電気のコードがつららになる。

 日が暮れて電灯がともると、そのかすかなぬくもりでつららがとけ、ぽたり、ぽたりと露がたれる。その露が、ふとんの上に子どものおしっこのようなしみをつくり、そのしみがだんだんひろがってゆく。このようにして、六、七年というものを冬は氷のなかで寝た。

 きものは、大寒にはいると増衣(ましぎ)というものをくれるが、それまでは監獄着のあわせとももひきが一枚きりだ。ふとんは一年を通して同じなのが一枚きりだ。

 わたしは函館へうつされたのが十二月で、いくとすぐにリウマチス性の神経痛をおこした。ふしぶしがさされるようにいたんで、一分間と仰向けに寝ていられない。ところが、うかつに横になると、肩から風がはいってこごえつきそうになる。

 『木曽殿と背中あわせの寒さかな』どころではない。こういう状態が三年間もつづいた。みのむしのように、一枚のふとんをしっかりからだにまきつけて、それでもまんじりともできずに、いたさとさむさをしのびなから夜明けを待ったこともしばしばだった。『神曲』で、地獄のどんぞこに氷地獄をおいたダンテは、人間の苦しみのもっともひどいものが寒さであることを、さすがによく知っていたものだと感心したことであった」。






(私論.私見)