生涯履歴

 (最新見直し2008.10.23日)

 (れんだいこのショートメッセージ)
 


【徳田球一の総合履歴】
 1894年明治27年)9月12日 - 1953年昭和28年)10月14日
 日本共産党創立者の一人にして終生の革命家弁護士政治家衆議院議員(3期)、日本共産党書記長(初代)を歴任。

 1894(明治27).9.12日、沖縄県名護市にて誕生。薩摩商人・佐平とカマドの長男として生まれる。「球一」の名は「琉球一の人物」になることを願って付けられた。家系について次のように述べている。
 私か共産主義者になったのは全く特別な境遇のためである。私の父方の祖父は鹿児島の生まれで封建政府の時代に普通の船乗からようやく商人になった。彼は自分の船で琉球にやってきて商品を安く仕入れそれを鹿児島や門司、大阪に売った。祖父のような商人はみな琉球に妾を囲っていたが、私の父はこの鹿児島の商人と琉球の妾の間に生まれたのである。(中略)

 私の父方の祖母は非常に貧しい農家の出身だった。彼女の生まれた家というのは全く豚小屋同然で家では彼女を妾に売らなければならなかった。彼女は祖父の妾となり私の父を生んだ。私の母も同じような結合から生まれている。

 彼女の母親も三人姉妹の一人として貧しい職人の家に生まれ、そのうち二人は妾に売られた。(中略)その当時の相場では15、6の娘がざっと20円位だった。(中略)私が若いときには30円から50円の間だった。

 母方の祖母は高利貸しだった。彼女は月1割で金を貸していた。(中略)家が貧乏だったので私は中学校を終わるまで祖母の家の仕事をしなければならなかった。私は帳簿付けをやったり毎月貸金の取立てをしたりした。学校に行けると思ったが実際には1ヶ月のうち20日くらいしかいけなかった。

 1911(明治44)年、旧制沖縄県立第一中学校(現沖縄県立首里高等学校)卒後、1912(明治45)年、旧制第七高等学校造士館(現鹿児島大学)に入学するも、教官の琉球出身者に対する差別に反発して1913(大正2)年、退学。この頃の気分を次のように述べている。
 私は(中略)12の時、高利貸しや何かが農民、労働者、貧しい人々を欺き搾取する方法を知り尽くした。私の若い心は勤労者や農民に対する同情と彼らー祖母を含めてーのけがれた商売に対する憎悪で一杯だった。私は金貸しに金を借りるのはよくない、搾取されるだけだと云い、私が稼いで家計を助けるまで待てと言った。(中略)祖母は私を憎んだ。彼女は私に靴を買ってくれなかったので、体操のときには祖父から旧い靴を借りなければならなかった。学校にはたいてい裸足で通ったものだ(中略)。

 かような雰囲気に育ったので貧しき人々に向けられた圧迫や不正義に対する私の憤りは非常に強かった。私は心の奥底でこのような社会では人は正しく幸福には生きられないと思った。私が政治的に目覚めてからはこの暗い世界に輝かしい光がさし始めたように感じた。(中略)

 16歳の時誰かが私に幸徳秋水の書いた「社会主義の真髄」を貸してくれた。「マルクスは言った」、「エンゲルスは言った」というぶっきらぼうな言葉が出てきて私は殆ど毎頁つかえてしまった。私は幸徳の書いたものから始めて社会主義を学んだ。

 1917(大正6)年、小学校の代用教員(旧制度で、免許状を持たないで小学校の教員をつとめた人)、郡役所書記を経て上京。日本大学専門部法律科(夜間部)に入学。1917年、ロシア10月革命勝利。

 1918(大正7)..7.23日、米騒動が始まった。次のように述べている。
 私が万世橋にやってくると政府の軍隊が行動を起こした。士官が発砲命令を下したが、兵士はそれに従わなかった。両側は軍隊に包囲され後ろからは警官に殴られ、我々は命からがら逃げ出した。あの時どんなに息をきらして本郷に逃げ、湯島天神にかけ上がったかは決して忘れないだろう。ともかく私はやっと逮捕を免れ無事に下宿まで帰ることが出来たのだ。

 米騒動は私にとって最初の大衆運動の経験だった。(中略)。私は政府のテロを憤った。この憤りは何年も心の中に生き残っていた。

 1919.3月 共産主義第3インタナショナル(コミンテルン)が創立される。

 1920(大正9)年、苦学して卒業、判事検事(判検事)登用試験に合格して弁護士となる。

 1920(大正9)年、日本社会主義同盟に参加。1921(大正10)年、弁護士団体の「自由法曹団」の設立に参画した。

 同年、ソ連を訪問。1922(大正11).1月、モスクワで開かれたコミンテルン主催による東アジアの共産主義者をはじめとする革命運動家の会議第1回大会(「極東民族大会に出席。」)日本の革命組織を代表して出席(海外組織を代表して片山潜) 、日本分科会にも出席、日本共産党創立の指示をうけ、帰国。その決議を日本にもたらす。

 同7.15日、片山潜の支援の下、堺利彦、山川らと非合法の日本共産党結成に参加、コミンテルン決議を報告。中央委員に選ばれる。

 1923(大正12)年、新潟県の木崎村小作争議(新潟県内の3大小作争議の一つ。豊栄地区の木崎を中心に起こった農民運動で、地主に小作料の減免を求め小作組合を結成したことから始まる)には浅沼稲次郎らとともに参加する。

同年6.5日、第1次共産党事件で検挙され、12月に保釈。1924(大正13)年、共産党は解党を決議したが、1925(大正14)年、上海で徳球を中心に党の再建が決議され再建ビューロー委員長となった。同年、ソ連に渡る。

 1926(昭和元)年、帰国した徳球が第1次共産党事件判決で服役し、獄中にあるときに共産党が再建され、中央委員に選ばれた。1927(昭和2).1月、出獄。同年、ソ連に渡り、27年テーゼ〉作成に参加する。当時の日本共産党の指導理論となった福本和夫の福本イズムがニコライ・イワノヴィッチ・ブハーリンに批判され、福本イズムを支持していた徳球は委員長を辞任した。

 1928(昭和3).2月、第1回普通選挙労働農民党から出馬(福岡第3区)したが落選、逮捕される。同3.15日、3.15事件。徳球はそのまま獄中で18年を過ごすことになった。

 1934(昭和9)年、大審院で懲役10年。40年に恩赦減刑となり41年12月に満期となる。しかし予防拘禁制度でそのまま拘禁される。


 1945(昭和20).8.15日、敗戦により終戦。府中刑務所を訪れたフランス人ジャーナリストのロベール・ギランによって発見される。GHQによる民主化政策の一環として10.10日、志賀らと共に出獄。日本共産党を再建し、同年12.1日、第4回党大会で書記長に就任。以後共産党のリーダーとして活躍、その強烈な個性(アジテーターとしてずば抜けた才能と親分的気質)から、戦後の民衆に支持され、「トッキュウ」とよばれて大衆的人気を博した。

 1946(昭和21)年、支那の延安から帰国した野坂参三と共に党中央を構成する。同年、東京2区から出馬し衆議院議員に当選(続いて中選挙区の東京3区より以後33期連続当選)。同年、従兄・耕作の未亡人である徳田たつ(旧姓金原)と結婚。

 1947(昭和22)年、空前の盛り上がりを見せた2・1ゼネストがマッカーサーの禁止令により挫折させられ、一歩前進二歩後退。1947年ごろから強まった国際情勢の急変(冷戦の顕在化)によるアメリカ占領軍の戦後日本民主化政策の変転(反共政策への転換)により逆風となる。1949(昭和24).1.23日、衆議院議員総選挙では35人を当選させた。


 1950(昭和25).1月、コミンフォルム(Communist Information Bureau の略)による野坂参三の平和革命論批判。同年2月、ソ連抑留者引き上げに関して、ソ連政府に「反動は帰国させるな」と進言したという問題(徳田要請問題)が起こり、参議院在外同胞委員会、衆議院考査委員会で調査が行われた。徳球と共産党はこれを否定した。この頃、共産党党内が徳球を中心とする所感派と宮本顕治、志賀を中心とする国際派に分裂する。

 6.6日、GHQの「6・6追放」指令を受け、書記長・徳球以下24名の共産党全中央委員が公職追放され地下に潜る。徳球は野坂とともに日本を脱出、中華人民共和国に亡命し、北京に共産党指導部「孫機関」「北京機関」をつくり、やや遅れてやってきた伊藤律らとともに亡命先から地下放送の「自由日本放送」を通じて指導する。やがて武装闘争方針を指示し始める。1952(昭和27).7月、自己批判し党内団結を訴える。

 1953(昭和28).9月、に北京で病死(享年59歳)。中国革命の偉大な指導者毛沢東は徳田球一の死を悼んだ。その死は2年後の1955(昭和30).7.1日の第6回全国協議会に先立つ同年6.30日に正式発表された。

 1955.9.13日、北京で開催された追悼大会には3万人が参列した。毛沢東主席は「徳田球一同志 永垂不朽」と記して革命家の死をとむらった。遺骨は妻の徳田たつと志賀義雄の手によって帰国、10.14日、党葬が東京・豊島公会堂で行われ、東京・多磨霊園と東京・青山霊園の革命戦士合同碑、八柱霊園(千葉県松戸市)の徳田家墓所に分骨された。

 墓は東京都府中市多磨霊園、東京都港区青山霊園の「解放運動無名戦士墓」、千葉県松戸市八柱霊園の徳田家墓に分骨されている。多磨霊園の墓には「永重不朽」の字があり、これは毛沢東が徳田の死に際して贈った告別題詞であり、墓銘碑の文字は周恩来が書いたものである。

 徳球の故郷である名護市は、「郷土の英雄」・「国際的政治家」として、80年代はじめ頃に、市公報で北京の追悼集会の写真など、徳田球一特集号を出した。名護市は、社会党の戸口市長が徳球記念碑をつくることを発案(三鷹事件の喜屋武由放の働きかけもあって)、次の保守・比嘉市長も応じ、岸本市長の時に完成した。その総体は二千万円ちかいカネがかかり(一般寄付金は千万円で、多くは沖縄で集まった)、3年の歳月を要したが市は400万円の補助金をつけた。その市長提案に対して、自民、公明、社会党などは賛成したが、共産党議員は賛成も反対もせず(客観的には反対を意味する)、記念式典では、市の長老党員が他の人々とともにあいさつしたが、市委員会などの党代表のそれはなかった。この冷えた対応は、党本部即ち宮顕の徳球観の反映だった。徳球と宮顕は、路線でも沖縄運動観でも徹頭徹尾対立しており、その怨念が続いていたことになる。

 牧瀬恒二氏は、1970年の「沖縄返還運動」の党担当者であった。彼は、増山氏に、「実は、徳田が言っていたことだが、沖縄はヤマトではない。沖縄の共産党をヤマトの党の下部組織にしてはならない。そういうことをすると沖縄の人たちの自主性をそこなわれる」(250頁、高安重正と牧瀬恒二「日本と沖縄は対等の立場で結合せよ」)と語っていた。徳級は、第6回大会(1947年)の行動綱領で「沖縄の独立」を掲げている。それは、沖縄人の心を知る徳級ならではの政策ではなかったか。大分裂下の国際派は、それを徳級の「民族主義的偏向」の一つと批判したが、それは宮顕の徳球憎けりゃ袈裟まで憎む偏執によるものではなかろうか。

 高安重正(旧性高江洲・戦前の全協二代目委員長、戦後は党沖縄対策責任者)は、「徳田の考えを堅持していたが、宮本顕治は人民党の党組織を解体して沖縄の共産主義運動を日本共産党の中央集権下におこうとした。だから、高安はこれに反対していた」。当然の如く、後に除名されている。

 1998(平成10)年、郷里の名護市に記念碑が建立された。ガジュマル公園には、功績を記念して市によって記念碑が建立されている。記念碑には肖像のレリーフとともに「為人民無期待献身(人民のために期待することなく献身する)」と彫刻されており、かつて徳田が好んで使い、書いた言葉である。この記念碑は1998年に公費によって建てられたが、建立に際しては自民党、公明党、社会党(当時)なども政党を越えて賛成をしたが、共産党は態度を保留していた。

 この他、八王子市の東京霊園には「革命英雄記念碑」があり、徳田の功績を讃えている。これは日本共産党 (行動派)が独自に建てたものである。なお、徳田の妻、たつは後年日本共産党を除名され、日本共産党(行動派)に合流、同じく除名された渡辺政之輔の妻、丹野セツと共に「徳田・渡政会」を結成、相談役となった。


[編集] 共著

  • 『獄中十八年』(志賀義雄著、時事通信社、1947年2月)
  • 『若い人々え』(共同図書出版社、1948年)
  • 『私の青春時代』(九州評論社編集部編、九州評論社、1948年8月)
  • 『黨生活』(山邊健太郎編、日本勞農通信社、1948年12月)
  • 『国家とむすぶ独占資本の腐敗 . 戦後のフアッシズム . 民族問題について . 共産主義とモラル』(三一書房、1949年)
  • 『民族の危機と斗う : 第三・第四国会演説集』(日本共産黨宣傳教育部編、日本共産党出版部、1949年2月)
  • 『徳田球一自傳』(松筠譯、世界知識出版社、1955年)

[編集] 関連文献





(私論.私見)