生涯履歴 |
(最新見直し2008.10.23日)
(れんだいこのショートメッセージ) |
【徳田球一の総合履歴】 |
1894年(明治27年)9月12日 - 1953年(昭和28年)10月14日) |
日本共産党創立者の一人にして終生の革命家、弁護士、政治家。衆議院議員(3期)、日本共産党書記長(初代)を歴任。 |
1894(明治27).9.12日、沖縄県名護市にて誕生。薩摩商人・佐平とカマドの長男として生まれる。「球一」の名は「琉球一の人物」になることを願って付けられた。家系について次のように述べている。
1911(明治44)年、旧制沖縄県立第一中学校(現沖縄県立首里高等学校)卒後、1912(明治45)年、旧制第七高等学校造士館(現鹿児島大学)に入学するも、教官の琉球出身者に対する差別に反発して1913(大正2)年、退学。この頃の気分を次のように述べている。
1917(大正6)年、小学校の代用教員(旧制度で、免許状を持たないで小学校の教員をつとめた人)、郡役所書記を経て上京。日本大学専門部法律科(夜間部)に入学。1917年、ロシア10月革命勝利。 1918(大正7)..7.23日、米騒動が始まった。次のように述べている。
1919.3月 共産主義第3インタナショナル(コミンテルン)が創立される。 1920(大正9)年、苦学して卒業、判事検事(判検事)登用試験に合格して弁護士となる。 |
1920(大正9)年、日本社会主義同盟に参加。1921(大正10)年、弁護士団体の「自由法曹団」の設立に参画した。 同年、ソ連を訪問。1922(大正11).1月、モスクワで開かれたコミンテルン主催による東アジアの共産主義者をはじめとする革命運動家の会議第1回大会(「極東民族大会に出席。」)日本の革命組織を代表して出席(海外組織を代表して片山潜) 、日本分科会にも出席、日本共産党創立の指示をうけ、帰国。その決議を日本にもたらす。 同7.15日、片山潜の支援の下、堺利彦、山川らと非合法の日本共産党結成に参加、コミンテルン決議を報告。中央委員に選ばれる。 1923(大正12)年、新潟県の木崎村小作争議(新潟県内の3大小作争議の一つ。豊栄地区の木崎を中心に起こった農民運動で、地主に小作料の減免を求め小作組合を結成したことから始まる)には浅沼稲次郎らとともに参加する。 同年6.5日、第1次共産党事件で検挙され、12月に保釈。1924(大正13)年、共産党は解党を決議したが、1925(大正14)年、上海で徳球を中心に党の再建が決議され再建ビューロー委員長となった。同年、ソ連に渡る。 |
1945(昭和20).8.15日、敗戦により終戦。府中刑務所を訪れたフランス人ジャーナリストのロベール・ギランによって発見される。GHQによる民主化政策の一環として10.10日、志賀らと共に出獄。日本共産党を再建し、同年12.1日、第4回党大会で書記長に就任。以後共産党のリーダーとして活躍、その強烈な個性(アジテーターとしてずば抜けた才能と親分的気質)から、戦後の民衆に支持され、「トッキュウ」とよばれて大衆的人気を博した。 |
1950(昭和25).1月、コミンフォルム(Communist Information Bureau の略)による野坂参三の平和革命論批判。同年2月、ソ連抑留者引き上げに関して、ソ連政府に「反動は帰国させるな」と進言したという問題(徳田要請問題)が起こり、参議院在外同胞委員会、衆議院考査委員会で調査が行われた。徳球と共産党はこれを否定した。この頃、共産党党内が徳球を中心とする所感派と宮本顕治、志賀を中心とする国際派に分裂する。 6.6日、GHQの「6・6追放」指令を受け、書記長・徳球以下24名の共産党全中央委員が公職追放され地下に潜る。徳球は野坂とともに日本を脱出、中華人民共和国に亡命し、北京に共産党指導部「孫機関」「北京機関」をつくり、やや遅れてやってきた伊藤律らとともに亡命先から地下放送の「自由日本放送」を通じて指導する。やがて武装闘争方針を指示し始める。1952(昭和27).7月、自己批判し党内団結を訴える。 1953(昭和28).9月、に北京で病死(享年59歳)。中国革命の偉大な指導者毛沢東は徳田球一の死を悼んだ。その死は2年後の1955(昭和30).7.1日の第6回全国協議会に先立つ同年6.30日に正式発表された。 |
1955.9.13日、北京で開催された追悼大会には3万人が参列した。毛沢東主席は「徳田球一同志 永垂不朽」と記して革命家の死をとむらった。遺骨は妻の徳田たつと志賀義雄の手によって帰国、10.14日、党葬が東京・豊島公会堂で行われ、東京・多磨霊園と東京・青山霊園の革命戦士合同碑、八柱霊園(千葉県松戸市)の徳田家墓所に分骨された。 墓は東京都府中市多磨霊園、東京都港区青山霊園の「解放運動無名戦士墓」、千葉県松戸市八柱霊園の徳田家墓に分骨されている。多磨霊園の墓には「永重不朽」の字があり、これは毛沢東が徳田の死に際して贈った告別題詞であり、墓銘碑の文字は周恩来が書いたものである。 徳球の故郷である名護市は、「郷土の英雄」・「国際的政治家」として、80年代はじめ頃に、市公報で北京の追悼集会の写真など、徳田球一特集号を出した。名護市は、社会党の戸口市長が徳球記念碑をつくることを発案(三鷹事件の喜屋武由放の働きかけもあって)、次の保守・比嘉市長も応じ、岸本市長の時に完成した。その総体は二千万円ちかいカネがかかり(一般寄付金は千万円で、多くは沖縄で集まった)、3年の歳月を要したが市は400万円の補助金をつけた。その市長提案に対して、自民、公明、社会党などは賛成したが、共産党議員は賛成も反対もせず(客観的には反対を意味する)、記念式典では、市の長老党員が他の人々とともにあいさつしたが、市委員会などの党代表のそれはなかった。この冷えた対応は、党本部即ち宮顕の徳球観の反映だった。徳球と宮顕は、路線でも沖縄運動観でも徹頭徹尾対立しており、その怨念が続いていたことになる。 1998(平成10)年、郷里の名護市に記念碑が建立された。ガジュマル公園には、功績を記念して市によって記念碑が建立されている。記念碑には肖像のレリーフとともに「為人民無期待献身(人民のために期待することなく献身する)」と彫刻されており、かつて徳田が好んで使い、書いた言葉である。この記念碑は1998年に公費によって建てられたが、建立に際しては自民党、公明党、社会党(当時)なども政党を越えて賛成をしたが、共産党は態度を保留していた。 この他、八王子市の東京霊園には「革命英雄記念碑」があり、徳田の功績を讃えている。これは日本共産党 (行動派)が独自に建てたものである。なお、徳田の妻、たつは後年日本共産党を除名され、日本共産党(行動派)に合流、同じく除名された渡辺政之輔の妻、丹野セツと共に「徳田・渡政会」を結成、相談役となった。 |
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(私論.私見)