| 徳球書記長時代の党人脈図 |

| 総合評価 | 革命戦略 | 組合闘争 | 議会闘争 | 大衆運動 | 自主独立 | 党内統制 | ||||
| 徳田系 | 徳田 | |||||||||
| 伊藤律 | ||||||||||
| 志田重男 | ||||||||||
| 西沢 | ||||||||||
| 椎野悦郎 | ||||||||||
| 中西 | ||||||||||
| 山本 | ||||||||||
| 志賀 | ||||||||||
| 野坂 | ||||||||||
| 宮本系 | 宮本 | |||||||||
| 袴田 | ||||||||||
| 春日(庄)系 | 春日(庄) | |||||||||
| 亀山 | ||||||||||
| 神山系 | 神山 | |||||||||
| 中野 |
| @・徳田球一・伊藤律系 | れんだいこ評価 | ||
| 岩田英一 | |||
| 市川義雄 | 市川正一の実弟 | 「生粋党員」 | |
| 戦後、死んだ兄正一の分まで背負って徳田の相談相手になり、党内では「気のいいおじいさん」で通っていた。しかし、六全協後は、宮本・袴田ラインに干され、一切の職を解任され、パチンコの景品で生計を立てる状態に追い込まれた。71.11.4日「早く徳田君のところにいきたい」とつぶやきつつ77歳で逝去した。 | |||
| 黒木重徳 | 「生粋党員」 | ||
| 46.2月の5回大会で、中央委員、書記局員に選任され、4月に行われる22回総選挙に東京から立候補することになり、なれない選挙準備で忙殺された。三越で行われた各党代表の立会演説会で演説中に倒れ、3.16日逝去した。 | |||
| 伊藤憲一 | 「生粋党員」 | ||
| 徳田を支える「両伊藤」と命名されていたほどの徳田系で、六全協後は「変節した共産党本部の敷居は二度とまたがない、本当の共産党はここにあると胸を張っていた」と伝えられている。 | |||
| 伊藤律 | 「生粋党員」 | ||
| 長谷川浩 | 中央委員、政治局員 | 「生粋党員」 | |
| 戦後の党運動では労働運動の指導に専念。常に徳田書記長と行動を共にする。60年の安保闘争では党青年学生部長として羽田空港でのハガチー来日抗議のデモを指揮。61年に党の綱領に反対して除名された。67年に共産主義労働者党に参加したが、極左方針に反対して労働者党全国連絡協議会を結成。81年に労働者党を結成して全国委員として活動していた。84.2.25日逝去。 | |||
| 白川晴一 | 中央委員、政治局員 | 「生粋党員」 | |
| 国際派ばかりか志田派からも疎外され、51.10.27日結核が悪化して病死。 | |||
| 渡辺四郎 | 「生粋党員」 | ||
| 久保寅吉 | 「生粋党員」 | ||
| 前田俊彦 | 「生粋党員」 | ||
| 87.7.16逝去。宮顕、袴田から受けたスパイ嫌疑を晴らすことなく寂しく生を終えた。 | |||
| 椎野悦郎 | 「生粋党員」 | ||
| A・徳田球一・志田系 | |||
| 志田重男 | 「胡散臭い」 | ||
| 水野進 | |||
| 丸山一郎 | |||
| 吉田四郎 | |||
| 岩本巌 | |||
| 桝井とめ | |||
| 松本一三 | |||
| 牧野弘之 | |||
| 杉本文雄 | |||
| 多田留治 | 六全協後、宮本系へ転換。 | ||
| B・徳田球一・中立派系 | |||
| 紺野与次郎 | 「強・胡散臭い」 | 六全協後、宮本系へ転換。 | |
| 竹中恒三郎 | 六全協後、宮本系へ転換。 | ||
| 春日正一 | 「強・胡散臭い」 | 六全協後、宮本系へ転換。 | |
| C・徳田球一・その他系 | |||
| 西沢隆司 | 「強・胡散臭い」 | ||
| 志賀義雄系 | |||
| 松本惣一郎 | |||
| 野坂参三系 | 「超・胡散臭い」 | ||
| 中西系 | |||
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(私論.私見)