イエズス会宣教師の日本布教史

 (最新見直し2006.11.2日)

【鉄砲伝来、宣教師ザビエル来日に纏わる改宗ユダヤ人マラノの介在について】
 1538年、ロヨラの聖イグナチオらが パりでイエズス会を結成し、イエズス会宣教士の世界布教が始まったことは「イエズス会考」で考察した。日本布教の始発は、1549年のイエズス会宣教師ザビエル、トレスフェルナンデスの鹿児島到着に始まる。これにつき、本サイトで検証する。

 イエズス会にネオ・シオニズムの陰を見て取るならば、即ちイエズス会活動をプレ・ネオ・シオニズムの動きとしてみれば、伝えられているものより本当の歴史はもっと根深い。1549年のザビエルの来日より6年前の1543年の鉄砲伝来から説き起こさねば真相が見えてこない。「ポルトガル人乗船のシナ・ ンヤンク船、種子島に漂着し、鉄旭が伝来」こそが、ネオ・シオニズムの最初の出来事として記録されるべきではなかろうか。

 鉄砲伝来がなぜネオ・シオニズムと関係するのか、その史実を確認する。鉄砲伝来の様子に就いては、1607(慶長12)年に記録された南浦文之(なんぽぶんし・玄昌ともいう)の「鉄炮記」やフェルナン・メンデス・ピントの「東洋遍歴記」が歴史資料として残されている。記述に若干の違いがあるが、それらを読み取ると次のようになる。

 1543年(天文12).8.25日もしくはその前年もしくはその1年後、いずれにせよ、1543年(天文12)年辺りに種子島へポルトガルの一行がやってきた。暴風雨にあって漂着してきたもしくは避難してきたとのことであるが、意図的に鉄砲売りつけの商売にやってきた可能性も考えられよう。いずれにせよ、領主時堯(ときたか)は、ポルトガル人フランシスコ・ゼイモトが持っていた火縄銃の鉄砲に注目し、その威力を知り金2000両を投じて2挺を譲り受けた。その後、鉄砲は僅か2年ほどで国産化され、驚くべき速さで当時の戦国大名に伝えられていった。鉄砲は、戦争における主力兵器として活用され、軍事革命を切り開いていくことになったことは周知の通りである。

 ここまでは調べれば誰でも分かる。ここから先が問題である。「日本・ユダヤ封印の古代史」、「ユダヤ5000年の智恵」の著者として知られる元日本ユダヤ教団のラビとして知られるマーヴィン・トケイヤー氏は、2006.1.31日初版「ユダヤ製国家日本」(徳間書店)の中で次のように述べている。トケイヤー氏は、日本とユダヤの親密な歴史的繋がりを説く為に記しているのだが、内容は重大である。ピントの活躍に注目し次のように記している。
 概要「1544(天文13)年、改宗ユダヤ人マラノにして貿易商ピントと二人のポルトガル人の仲間が、日本を初めて訪れたポルトガル人であって、種子島に鉄砲を伝えた」。

 つまり、鉄砲伝来に纏わる改宗ユダヤ人マラノにして貿易商ピントの介在に言及している。

  マーヴィン・トケイヤー氏の「ユダヤ製国家日本」の次のくだりも注目に値する。
 「16世紀に入ると、ポルトガル人や、スペイン人をはじめとするヨーロッパ人が、日本を頻繁に訪れるようになった。この中に、多くのユダヤ人が居た。この時代の日本人は、ポルトガル人とスペイン人を『南蛮人』、イギリス人とオランダ人を『紅毛人』と呼んで、区別していた。しかし、日本人はユダヤ人が存在していることについて、まだ知らなかった」。
 「ピントはインドと中国の間を頻繁に往復して、やがて財をなした。そして日本を、四回にわたって訪れている。ピントはインドで、カトリックのイエズス会の宣教師のフランシスコ・ザビエルと会って、親交を結んだ。ピントは鹿児島湾で、海賊の手からアンジロウという日本人青年を救って、ザビエルに引き渡している。ザビエルはアンジロウに洗礼を授けて、日本へ助手として同行させている。又、イエズス会の宣教師と、日本の仏僧との論争にも立ち会っている」。

 マーヴィン・トケイヤー氏は、日ユ親和論の証拠例として、ピントの活躍を縷々語っているのだが、企図してかどうかは不明であるが重要な情報を開示している。その1、16世紀以降、改宗ユダヤ人マラノがポルトガル人、スペイン人、イギリス人、オランダ人と混じって貿易商として活躍し始めたこと。その2、イエズス会宣教師フランシスコ・ザビエルの来日を手とり足とり手引きしたのが改宗ユダヤ人マラノのピントであったこと。

 マーヴィン・トケイヤー氏の言に従うと、以上のようになる。まずこのことを確認しておきたい。

 2006.2.4日 れんだいこ拝 

【鉄砲の波状伝来の可能性について】
 2006.11.2日付毎日新聞文化蘭で、伊藤和史氏が、「鉄砲伝来に新説 『種子島から全国に伝播』の定説を否定」の見出しで、次のように指摘している。
 現在、「歴史の中の鉄砲伝来、種子島から戊辰戦争まで」展が、千葉県佐倉市の国立歴史民族博物館で開かれいる。企画展の責任者、宇田川武久・歴史博物教授は、「鉄砲は、種子島に伝えられた頃、西日本の各地に分散的波状的に伝来しており、タルが島のケースはその中の一つに過ぎない」との新説を披瀝している。
 概要「定説は、1892(明治25)年、ドイツ史学の導入に努めた歴史学の大家、坪井九馬三(くめぞう)・東大教授が、1606(慶長11)年に書かれた『鉄砲記』を鉄砲伝来の根本資料として評価したところから定着したものである。ところが、宇田川武久教授は、『鉄砲記』は鉄砲伝来から約60年経過して書かれたものであり、領主である種子島先祖の功績誇示による脚色面が認められると云う。宇田川教授は、当時東シナ海で活躍していた倭寇ルートで入ってきた可能性が有り、『鉄砲は種子島も含めて、他に平戸や堺など、西日本各地に分散・波状的に伝来したのが真相』との新説を呈示している。

 伝来した鉄砲をモデルに日本で作られた「異風筒」(いふうづつ)が現存しているが、銃身や銃床の形などが様々であり、これは元になる伝来銃が多様であったと考えられる。定説のように種子島起点に全国に伝播したなら不自然で、『分散・波状的伝来』の重要な裏づけになる」。

【イエズス会宣教師の日本布教史】
 1549(天文18).8.15日、鉄砲伝来の6年後のこの日、イエズス会の宣教師フランシスコ・ザビエルが、ヤジロウの案内で二人のイエズス会士、コスメ・デ・ドーレスと、ジョアオ・フェルナンデスと共に薩摩(鹿児島)へ上陸した。ヤジロウとは、マーヴィン・トケイヤー氏がピントの活躍紹介のくだりでアンジロウとして述べている人物のことだと思われる。こうなると、ザビエルに引き合わせたのも、薩摩(鹿児島)上陸を手引きしたのもピントと云うことになり、ザビエル来日の背後にはピント勢力の意向があった、ということになろう。

 ここにイエズス会の宣教が始まる。ザビエルの足取りに就いては、「来日宣教師列伝」で考察した。ここでは、案外知られていない「イエズス会の宣教と国内の主要事件関わり」について憶測も含めて言及してみたい。

 宇野正美氏は、「戦後50年、日本の死角」(光文社、1995.1.30日初版)の10章「新たなる歴史と民族の発見」で、次のように述べている。
 概要「1549年(天文18年)、フランシスコ・ザビエル一行が日本にやってきた。キリスト教を伝播するためだったと伝えられている。しかし、ザビエル達が持ってきたのは本当のキリスト教だったろうか。(中略)ザビエル達はキリスト教を伝えただろうか。いや、むしろ、彼らが伝えたのはデウス信仰であり、マリア信仰であった」。

 この指摘は鋭いように思われる。

 イエズス会宣教師の日本布教史の概略の流れは「関連年表」、「来日宣教師列伝」、「キリシタン大名の実態考」で個別に行うとして、ここでは政治的事件のみを抽出する。

 鹿児島に上陸したザビエル一行は、平戸、博多、周防(山口)を経て、1551年、京都へ上っている。京で、「日本国王」に謁見することを望んでいたが叶わず、滞在わずか11日で失意のうちに京都を去っている。1552年、ガーゴ神父が府内に到着。1556年、イ ンド副管区長・ヌーネス・バレトが日本視察のためガスパ ル・ヴィレラ神父を伴い府内に到着。1559年、ヴィレラが、京都で宣教を開始している。総勢何名か不明であるが、かなりのイエズス会宣教師が来日していたと思われる。

 1560年、将軍足利義輝、ヴィレラに 布教許可状を交付している。この間、豊後の大友義鎮(後の宗麟)が宣教師との交流に熱心となり、続いて、 1563年、肥前の領主・大村純忠、大和沢城主・高山厨書、1564年、その息子高山右近がイエズス会の洗礼を受けたキリシタンとなっている。注目すべきは、1563(永禄6)年、日本最初のキリシタン大名となった大村純忠の領内教化政策に対し、内紛が発生していることである。寺社勢力がこれを後押ししており、早くも寺社対イエズス会の抗争が始まっている。

 1565年、13代足利将軍・義輝が暗殺されている。松永久秀三好三人衆のクーデターによって居城であった二条御所が襲撃され、衆寡敵せず、最後は三好勢によって殺害された。この将軍暗殺事件との絡みは不明であるが、この年、勅命 「大うすはらい」によりヴィレラ、フロイス神父らが京都から追放されている。

 1570(元亀元)年、この頃、イエズス会上長カブラルオルガンティーノが来日している。前上長トレス死去。

 以下、長崎開港、堺港開港、本能寺の変、千利休切腹。

【イエズス会宣教師の利権ないしは植民地化エージェント活動考
 TORA 氏は、「阿修羅空耳の丘42」の2006.1.27日付投稿「日本の歴史教科書はキリシタンが日本の娘を50万人も海外に奴隷として売った事は教えないのはなぜか?」で、当時の宣教師達の利権ないしは植民地化エージェントの動きを次のように伝えている。出典は、「日本宣教論序説(16) 2005年4月 日本のためのとりなし」のようである。これを参照する。

 「ザビエルがゴアのアントニオ・ゴメス神父に宛てた手紙」が残されており、次のように書かれている。
 「神父が日本へ渡航する時には、インド総督が日本国王への親善とともに献呈できるような相当の額の金貨と贈り物を携えてきて下さい。もしも日本国王がわたしたちの信仰に帰依することになれぱ、ポルトガル国王にとっても、大きな物質的利益をもたらすであろうと神かけて信じているからです。堺は非常に大きな港で、沢山の商人と金持ちがいる町です。日本の他の地方よりも銀か金が沢山ありますので、この堺に商館を設けたらよいと思います」(書簡集第93)。
 「それで神父を乗せて来る船は胡椒をあまり積み込まないで、多くても80バレルまでにしなさい。なぜなら、前に述ぺたように、堺の港についた時、持ってきたのが少なけれぱ、日本でたいへんよく売れ、うんと金儲けが出来るからです」(書簡集第9)。

 これを踏まえて、次のように述べている。

 キリシタンの宣教は西欧諸国の植民地政策と結びついていました。それは、初めに宣教師を送ってその国をキリスト教化し、次に軍隊を送って征服し植民地化するという政策です。秀吉は早くもそのことに気づいて主君信長に注意をうながしています。

 ポノレトガル、スペインのようなカトリック教国は強力な王権をバックに、大航海時代の波に乗ってすばらしく機能的な帆船や、破壌力抜群の大砲を武器として、世界をぐるりと囲む世界帝国を築き上げていました。その帝国が築き上げた植民地や、その植民地をつなぐ海のルートを通って、アジアでの一獲千金を夢見る冒険家たちが、何百、何千とビジネスに飛ぴ出していきました。

 そうした中にカトリックの宣教師たちも霊魂の救いを目指して、アジアに乗り出して行ったのです。彼らが求めたのは、霊魂の救いだけではなく、経済的利益でもありました。

 ザビエルはポルトガル系の改宗ユダヤ人(マラーノ)だけあって、金儲けには抜け目ない様子が、手紙を通じても窺われます。ザビエル渡来の三年後、ルイス・デ・アルメイダが長崎に上陸しました。この人も改宗ユダヤ人で、ポルトガルを飛ぴ出してから世界を股にかけ、仲介貿易で巨額の富を築き上げましたが、なぜか日本に来てイエズス会の神父となりました。彼はその財産をもって宣教師たちの生活を支え、育児院を建て、キリシタン大名の大友宗瞬に医薬品を与え、大分に病院を建てました。




(私論.私見)