来日宣教師列伝

 (最新見直し2006.2.5日)

 (れんだいこのショートメッセージ)
 ここで、ザビエルを始発として来日したイエズス会宣教師のプレ・ネオ・シオニストぶりを検証する。個々の宣教師の主観的意志はともあれ、共通してプレ・ネオ・シオニスト的傾向を持っていることを確認したい。


【ザビエル】
 1506.4.7日、フランシスコ・ザビエルが、現在のスペイン北部にあったナバラ王国ザビエル城で生まれた。1552.12.3日没す。聖フランシスコ・ザビエル」は、次のように記している。
 「15世紀に城はザビエルの祖父の所有となり、そこで生まれた母マリアは、城を持参金のひとつとしてヨアン・デ・ヤスと結婚し、城はザビエルの父のもの となった。そして1506年フランシスコは6人兄弟の末子としてその城に生まれ た」。
(私論.私見)

 「15世紀に城はザビエルの祖父の所有となり」とは、比較的新しいということを物語っている。
 「聖フランシスコ・ザビエル」は、次のように記している。
 「 1529年にパリ大学の新教員の名簿に次の名前が載っていた。"...Dominus Franciscus de Xabier..."。この名前の変遷について、一言書いてみたいと思う。
フランシスコ  洗礼の時(誕生日に)付けられた名前。13世紀のアシジの聖フランシスコの名前である。ザビエルの親族にあまり見られない。フランセスとも呼ばれた。
ザビエル  生まれた家の名前。その家は最初にEtxaberriと呼ばれた。バスク語でEtxe(家)+berri(新しい)、つまり「新しい家」という意味である。この名前は文書に多様な形で現れている。例えば、Exavierre(1217年)、Chavier(1516年)、Xabierre(1523年)、Chamer(1536年)、Chavyeresなど。

 本人は自分の名前をXabierと書いてシャビエルと発音し、現代のバスク人も同じように発音している。
 

 de:バスク人の名前がスペイン語で呼ばれるとき,ほとんどの場合この前置詞で導かれる(de Loyola, de Araoz, de Antxieta).それによって起源(家か町)を表すのである.聖人は,父の名前(de Jassu)も母の名前(de Azpilcueta)も取らないで,生まれた家(de Xabier)の名前を使用した.5人の兄弟姉妹の内で,末子の本人だけがその城に生まれたのである.世界の歴史に残った名前:450年の間,ザビエルの名前がいろいろな表現になったのは,時代や場所による言語の違いのゆえと思われる.スペイン語ではXabier, Xavier, Jabier, Javierなどの表現があるし,ポルトガル語や英語,フランス語ではXavierと言われてきた.ドイツ語ではXaver,イタリア語ではSaverio,ラテン語ではXaverius.

 日本語での表記について:当て字にされたこともあるが,仮名で書くときにXabierの名前ほど多様な書き写し方のある歴史上の人物の名前は,ほかにないと思われる.30以上の違った綴りが確かめられる.  現在ザビエルという言い方が標準になったので,教科書や新聞,百科事典などに出てくる普通の形になっている」。

(私論.私見)

 「ザビエル家」とは、「新しい家」という意味であるということは、そのこと自体はどういう意味も持たないが、代々の土地の者ではなくよそからやってきた異邦人である、ということを物語っているのではなかろうか。

 1512年、スペイン軍が、フランスと戦うという口実のもとにナバラを占領した。ザビエル家はもちろんのこと、ナバラ人の大部分は反対したが、3年後の1515年、700年前から続いていたナバラ王国は初めてスペインのものになった。翌1516年、城は、ナバラ人の暴動を防ぐため家族の住まいだけを残して壊された(現在では復元されている)。

 1525年、19歳の時、パリ大学に入学する。聖バルバラ学院で4年間哲学を勉強した。この頃、ファーブル、イグナチオ・ロヨラと親交した。ロヨラは、「人は、たとえ全世界を手に入れても自分の身を滅ぼしたり、失ったりしては、 何の得があろうか」( ルカ9・25)という聖書のみ言葉を引用してザビエルに回心を促す。

 1530年、M.A.の学位をとり、ボーベ学院で教え始め、その教授料を使って神学の勉強を修めることができた。1531年、プランポナ司教区の高位聖職者になるために貴族であることを証明する公文書を願い出た。

 1533年、世俗的憧れは霧散しザビエルは大回心した。
 1534.7.22日、パリの小さなモンマルトルの丘の聖堂で、イグナチオら6名の若者が清貧と貞節の初誓願をたてた。これが、イエズス会の出発点となった。つまり、イエズス会創立者の一人ということになる。(「イエズス会考」該当項目参照)

 パリの9名の同志は、勉学を終えてから、イグナチオの待っているベネチアに行くことになっていた。1536.11月、出発し、ドイツとスイスの敵の軍隊の間をかいくぐりながら寒い時期3か月かかって1537.1月にベネチアに到着した。そして病人の世話などをしながら、エルサレムへの巡礼の機会を待つ。続く3か月の間にローマへ巡礼を行なう。

 1537.6.24日、ベネチアで司祭に叙階され初ミサをささげた。9.30日、聖ミカエルの日にローマの聖ペテロ聖堂で、最初のミサをあげた。こうして、キリスト教宣教師の道へ踏み出した。 「聖フランシスコ・ザビエル」は、次のように記している。

 「一行は,聖地行きが不可能になったので,ローマに行き教皇の指示を仰ぐことにした.永遠の都での使徒的な働きが顕著であったので,いろいろな都市から呼ばれていた.各地に散らばって仕事をしようとしていた時に,すでに(有名なデリベラ ツィオ・パトルムの結果として)修道会をつくろうと決めていた」。

 1539.6月、ザビエルはイエズス会の初代の秘書となった。1540.3月、リスボンに向う前の晩まで秘書の任に当たっていた。「聖フランシスコ・ザビエル」は、次のように記している。

 「イグナ チオは,ローマに残る者は毎週,その他遠隔地にいる者は毎月という具合に,頻繁に手紙を書くように求めた.ローマに残った者が,こうした手紙のやりとりの任に当たった.1539年6月ザビエル一人がイグナチオとともに残り,次から次へと届く手紙の返事を書くことが彼の仕事になった.こうして彼はイエズス会の初代の秘書となった」。
 1540.9.27日、エズス会が教皇パウロ3世により公認された。(「イエズス会考」該当項目参照)

 1540.3.14日、ポルトガルの大使はローマを出て陸路でイタリア、フランス、スペインを通って目的地リスボンに着いた。ザビエルも随行員の一人として同行した。インドに派遣されていたもう一人のイエズス会員シモン・ロドリゲスは船でポルトガルに着いた。イエズス会活動が本格的に始まり、国王ジョアン3世は、二人の神父や会に加わったばかりの他の若者の活動を大いに喜んだ。束の間、ザビエルは、東洋宣教を志した。反対も強かったが、シモン・ロドリゲスがポルトガルに残り、ザビエルだけがインドに行くこと になった。

 1541.4.7日、35歳の誕生日であるこの日、ザビエルと共に二人の若者ミセル・パウロとマンシラスがインドに向かってリスボンをあとにした。インドのゴアに着いたのは1年1か月後の1542.5.6日であった。途中モザンビークで半年滞在を余儀なくされている。アジア(ゴア、コーチン、セイロン、マラッカ)布教が始まった。インドの西海岸にあり、北のイスラム教と南のヒンズー教の間に位置していたゴアには32年前からすでにポルトガル人が住んでいた。ゴアは、アジアの教会の中心であり、東洋のローマと言われた。フランシスコ会の修道者が活動していた。マンシラスは後にゴアで司祭となった。

 1543(天文12)年、シャム(現在のタイ)からポルトガル人を乗せた中国船が、暴風雨にあい、種子島(鹿児島県)に漂着した。彼らが、日本に来た最初のヨーロッパ人となった。このとき鉄砲が日本に伝えられた。戦乱の時代だったので、鉄砲は新兵器として注目され、たちまち全国に広がった。まもなく、堺(大阪府)など各地で刀鍛冶が鉄砲の生産を始め、やがて日本は世界一の鉄砲生産国となった。鉄砲の使用は、それまでの戦闘の方法を大きく変えて、全国統一を早めるという効果をもたらした。
 ザビエルは、マラッカで、若い日本人さむらいヤジロウ(鹿児島サツマ士族の出身。西洋側の資料で「アンジロウ」と呼ばれる池端弥次郎)に出会った。ヤジローは殺人を犯して逃亡していたが、ポルトガル人の勧めで「聖なる人」に会うつもりでマラッカまで行った。1547.12.7日、ザビエルが結婚式を挙げているところに友人のジョルジェ・アルバレスに連れられてヤジローが現れた。以来、ザビエルは、日本に強い関心を寄せることになった。この初めての出会いについてザビエルはローマの会員に次のような手紙を送っている。
 概要「ポルトガル商人たちとともに,アンジロウという一人の日本人が来ました。彼は私たちの教理を知りたいと熱望して、私に会いに来たのです。もしも日本人すべてがアンジロウのように知識欲が旺盛であるなら、新しく発見された諸地域の中で、日本人は最も知識欲の旺盛な民族であると思います」。

 1547.12月、ザビエルは友人のジョルジェ・アルバレスに日本について文書で報告してくれるよう頼んでいる。このアルバレスは、ポルトガル人の船長として1546年日本を訪れたことがあり、日本人のヤジロウをマラッカにいるザビエルのところまで連れて行った人である。彼の報告の内容は主に地理的な資料、日本の自然や建物、日本人の習慣などに関するもので、1548.1月、ザビエルは自分の手紙と一緒にローマに送っている。

 彼が1548年イエズス会士宛にあてた手紙によると、ある信用のおけるポルトガル商人から、最近日本と呼ばれる大きい島国が発見されたと書いている。その商人によると、日本人は知識欲が旺盛で、そこに行けば国中に布教することが出来るであろうと語っている。

 1548年、ザビエルがゴアに戻るとヤジロウとその弟と従者も従い、同地でキリスト教の洗礼を受けた。

 後にやはりザビエルの依頼で、ランチロッティ神父もヤジロウから聞いた話に基づいてもう一つの報告書を書いた。ザビエルがイタリア語からスペイン語に訳して、1549.1月、ローマのイグナチオへ送っている。内容はほとんど日本人の宗教(宗派,僧侶,僧院)についてである。インドの総督も、ガルシア・デ・サ,ランチロッティ神父に、ヤジロウから聞いた日本の政治や軍事的な報告書を頼んでいる。

 1549.4.15日、ザビエルは、イエズス会員コスメ・デ・トーレス神父、ファン・フェルナンデス修道士、マヌエルという中国人、アマドールというインド人、およびヤジロウら三人の日本人と共にゴアを出発、日本を目指した。

 1549.8.15日、聖母被昇天の祭日のこの日、鉄砲伝来の6年後、イエズス会の宣教師フランシスコ・ザビエルが、ヤジロウの案内で二人のイエズス会士、コスメ・デ・ドーレスと、ジョアオ・フェルナンデスと共に薩摩(鹿児島)へ上陸した。「初めて日本に歯車の時計を持ってきたのはザビエルでした」。

 9.29日、ザビエルは、薩摩藩主の島津貴久に謁見し、宣教のための許可を求めた。ポルトガルとの貿易を望んでいた貴久は、快く許可を与え、小さな家も貸し与えた。鹿児島で「多くの市民と奉行に歓迎を受け、領主から厚遇され、およそ1年鹿児島に滞在しました」とフェルナオ・メンデス・ピントは記録している。後に日本人初のヨーロッパ留学生となる鹿児島のベルナルドなどに出会っている。(1550.7月、ポルトガル船が、鹿児島ではなく平戸に停泊したことを契機に、貴久はキリスト教を禁止する)

 8月、ザビエルは仲間とともに平戸に行き、領主 松浦隆信に謁見し、宣教の許可を得た。彼は家臣の木村家に滞在した。木村家の家族全員が洗礼に導かれた。2カ月の間ザビエルは肥前の平戸に滞在し、100人の人々に洗礼を授けた。この頃のことと思われるが、次のように伝えられている。

 「布教においては困難をきわめた。初期にはヤジロウの知識のなさから神を『大日』と訳して『大日を信じなさい』と説いたため、仏教の一派と勘違いされ、僧侶に歓待されたこともあった。ザビエルは誤りに気づくと『大日』の語をやめ、『デウス』というラテン語をそのまま用いるようになった。以後、キリシタンの間で唯一の神は「デウス」と呼ばれることになる」。

 ザビエルは平戸の信徒の世話のためにトーレス神父を残して、鹿児島のベルナルド、フェルナンデス修道士と共に京都を目指した。11月、ザビエルは博多を経て周防(山口)に辿り着く。一行は、なんとか領主の大内義隆に謁見できることになったが、男色を罪とするキリスト教の教えに大内が激怒したため山口を離れ、岩国から海路堺へと赴いた。堺では幸運にも豪商の日比屋了珪の知遇をえることができた。

 1551.1月、一行は、了珪の助けによって念願の京に到着した。京都では了珪の紹介で小西隆佐の歓待を受けた。日本国内での活動は了珪の邸宅の一部を間借りして行われ、その場所が現在では「ザビエル公園」(大阪府堺市)として市民に開放されており、顕彰碑が建てられている。

 ザビエルは京で「日本国王」に謁見し、布教の許可を得ることで全国での布教が自由になると考えていたが、京は応仁の乱の戦乱で荒れ果て、足利幕府の権威は失墜し、後奈良天皇の住む御所も荒れ放題であった。ザビエルは比叡山で僧侶たちと論戦を試みたが、相手にされなかった。天皇への拝謁も献上品がなければかなわないことを知ってあきらめたザビエルは滞在わずか11日で失意のうちに京都を去ることになった。京都にきたものの、天皇との謁見も宣教も許されず、比叡山に入ることもできなかった。


 1551.3月、ザビエルは都を去り平戸に戻った。残していた贈り物用の品々をもって山口へ向かい、 再び領主の大内義隆に拝謁した。それまでの経験で、日本では外見が重視されることを見抜いたザビエルは一行にきれいな服を着せ、ゴア総督の国書を献じ、その他貴重な文物を献上した。大内義隆は喜んで布教の許可を与え、ザビエルたちのための住居まで用意し、教会を建てた。フロイスの日本史によると、概要「ザビエルはインドの総督の大使のように装い、絹の着物を着て大名を訪問し、インドからの贈り物を献上した」と記している。ミヤコの天皇の代わりに山口の大内義隆に贈物をささげたことになる。

 その時にささげられた贈物は、その数13であった。1551年に書かれた「義隆記」には次のように記されている。

 概要「十二時を司るに夜昼の長短をたがえず狭小の声」(その時までの日時計には不可能なことであった。フロイスによると「上手にできた」物であった)、楽器1台(クラビコード?)、きれいに彫り込まれた三つの筒のついた火縄銃、眼鏡(「老眼の鮮やかに見ゆる鏡のかげなれば」と書かれている)、望遠鏡(「ほど遠けれども曇りなき鏡の二面そうらえば」と書かれている)、きれいな錦織、スペイン布、ポルトガルの葡萄酒、書物、絵画、茶碗等々」。

 ザビエル自身は、ローマへの手紙で次のように書いている。

 「神の御教えを宣べ伝えるためには、ミヤコは平和でないことが分かりましたので、ふたたび山口に戻り、持ってきたインド総督と司教の親書と、親善のしるしとして持参した贈り物を山口侯にささげました。この領主は贈物や親書を受けてたいへん喜ばれました」。
 「大名は、私たちに、返礼としてたくさんの物を差し出し、金や銀をいっぱい下贈されようとしましたけれども、私たちは何も受け取ろうとしませんでした。それで、もし私たちに何か贈物をしたいとお思いならば、領内で神の教えを説教する許可、信者になりたいと望む者たちが信者となる許可を与えていただくこと以外に何も望まないと申し上げました。大名は許可ばかりではなく、学院のような一宇の寺院を私たちが住むようにと与えてくださいました」。

 無人の寺を住居として宣教をはじめたザビエルは、滞在した4カ月の間に、500人以上の人に洗礼を授けた。山口で布教しているとザビエルたちの話を座り込んで熱心に聴く目の不自由な琵琶法師が現れた。彼はキリスト教の教えに感動し、ザビエルに従った。彼こそが後にイエズス会の強力な宣教師となるロレンソ了斎である。

 陶晴賢の謀反で大内氏が滅ぶと、大友宗麟を頼った(陶晴賢は、謀反の事を大友氏に知らせ、ザビエルを大友に預けた節が見られる)。1551.9月、ザビエルは、山口の教会を、平戸から呼びよせたトーレス神父に任せて豊後に向かった。大分の府内に行き、22歳の青年領主大友宗麟に謁見している。後に宗麟は2番目の妻ジュリアと娘キンタとともにカトリックへ改宗した。

 インドのイエズス会に多くの困難があることを知らされたザビエルは、出港するドゥランテ・ダ・ガマの船で一度インドに帰り問題を解決することにした。トーレスらを残して出発、中国の上川島を経てインドに向かった。このとき、ザビエルはヨーロッパを見せようと優秀な日本人青年を選抜して同行させた。それが鹿児島のベルナルド、マテオ、ジュアン、アントニオという四人の青年たちであった。

 1551.11.15日、ザビエルは豊後を出港しマラッカへ向かった。ザビエルは日本には2年3ヶ月滞在したことになる。(日本布教が困難であることを知る、という理由付けも為されている。それによると、「日本文明の原点とも言える中国を布教をし、その後に日本をキリスト教化する事に政策を変換した」とのことである)

 1552.2月、途中、種子島に寄りながらインドのゴアに到着。インド司祭の養成学校である聖パウロ学院にベルナルドとマテオを入学させた。マテオはゴアで病死するが、ベルナルドは学問を修めて初めてヨーロッパに渡った日本人となった。

 ザビエルは、日本に滞在中、5通の手紙を送っている。すべて鹿児島から出した手紙である.日付は在日3ヵ月後の11.5日になっている。ゴアにいる同僚あての手紙が一番長く、日本人についての報告は驚くほど細かく正確である。日本から出した手紙は2年間の間ほかにはない。

 「日本についてこの地で私たちが経験によって知り得たことを、あなたたちにお知らせします。第一に、私たちが交際することによって知り得た限りでは、この国の人々は今までに発見された国民の中で最高であり、日本人より優れている人々は異教徒の間では見つけられないでしょう」。
 「私があなたがたにお知らせしたい唯一のこと、それは主なる神に大きな感謝をささげていただきたいことです。この島、日本は、聖なる信仰を大きく広めるためにきわめてよく整えられた国です」。

 1552.1月、インドへ戻ってから書いたローマの同僚あての長い手紙が残っている。鹿児島,都,豊後,そして主に山口での活動についての手紙である。

 概要「日本に行く人は困難とともに霊的な慰めも得ます。日本についてはまだたくさん書くことがあって尽きません……。私はこれほど親しく、これほど愛している神父たちや修道者たちに手紙を書いているのですし、またもっとも親しい間柄の日本の信者たちについて書いていますので、あり余るほど書くことがあるのですけれど、ここで筆をおきます」。

  1552.4月、体を休める間もなく、ザビエルはゴアを出発、マラッカを経て日本へ向かうつもりであったが、日本布教のためには日本文化に大きな影響を与えている中国にキリスト教を広めることが重要であると考え、バルタザル・ガーゴ神父を代わりに日本へ派遣した。

 ザビエルは中国入国を目指して8月に上川島に到着した。(ここはポルトガル船の停泊地であった。)そして、中国へ渡るために、すぐさまサンチャン島へ向けて出発した。しかし、彼を中国本土まで連れていってくれるはずのシナ商人がいつまでたっても現れず、そうこうしているうちに、1552.11.21日、ザビエルは広東に近い上川島(Sanchao)で熱病で倒れた。

 「聖フランシスコ・ザビエル」は、ザビエルの最後の様子を次のように記している。

 「ただ高熱の結果としてうわ言を聞くことができた。顔はどこまでも朗らかで、輝く眼を天に向け、恰も説教するかの如く、5時間も6時間も懸命に声高く、いろいろの国語を以って話し続けた。従って、アントニオには、神父がラテン語で『イエズス、我をあわれみ給え』と言ったことだけしか理解することが出来なかった。イエズスの聖名は、頻繁に聞くことが出来た。八日目の日曜日に至って、神父は意識を失い、ものも言わなくなった。それが再び快復したのは木曜日のことで、それ以後はまた『イエズス、我を憐れみ給え。聖母マリア、我を顧み給え』という言葉の反復されるのだけを了解することが出来た」。
(私論.私見) ザビエルのうわごとについて

 ザビエルが、うわごとで、概要「アントニオには理解できなかったいろいろの国語を以って話し続けた」との証言は意味深ではなかろうか。恐らく、ユダヤ人の母国語であるヘブライ語でうわごとを云っていたのではなかろうか。

 1552.12.3日の早朝、息を引き取った(享年46歳)。

 1619.10.25日、ザビエルは、教皇パウルス5世によって列福され、1622.3.12日、盟友イグナチオ・ロヨラと共にグレゴリウス15世によって列聖された。


【ザビエルの見た日本】
 ペドロ・アルベ、、井上郁二訳「聖フランシスコ・ザビエル書簡抄」は次のように記している。

 「そこで私は、今日まで自ら見聞し得たことと、他の者の仲介によって識ることのできた日本の事を、貴兄等に報告したい。先ず第一に、私たちが今までの接触に依って識ることのできた限りに於いては、この国の人々は、わたしが遭遇した国民の中では一番傑出して優れている。異教徒で、日本人より他にはかように優れている人々は見つけられないのではないかと考えられる。日本人は総体的に良い素質を有し、悪意が無く、交わって頗る感じが良い。彼らの名誉心は特別に強烈で、彼らにとって名誉が凡てである。日本人は大抵貧乏である。しかし武士たると平民たるとを問わず、貧乏を恥辱だと思っている者は一人もいない。

 彼らにはキリスト教国民の持っていないと思われる一つの特質がある。それは武士が如何に貧困であろうと、平民が如何に富裕であろうとも、その貧乏な武士が、富裕な平民から富豪と同じように尊敬されていることである。また貧困の武士は如何なることがあろうとも、また如何なる財宝が眼前に積まれようとも、平民の者と結婚など決してしない。それに依って自分の名誉が消えてしまうと思っているからである。それで金銭よりも、名誉を大切にしている。日本人同士の交際を見ていると、頗る沢山の儀式をする。武士を尊重し、武術に信頼している。武士も平民も、皆、小刀と大刀を帯びている。年齢が14歳に達すると、大刀と小刀を帯びることになっている。

 彼らは恥辱や嘲笑を黙って忍んでいることをしない。平民が武士に対して最高の敬意を捧げるのと同様に、武士はまた領主に奉仕することを非常に自慢し、領主に平身低頭している。これは主君に逆らうことが自分の名誉の否定だと考えているからであるらしい。日本人の生活には節度がある。ただ飲むことに於いて、いくらか過ぐる国民である。彼らは米から取った酒を飲む。葡萄はここには無いからである。博打は大いなる不名誉と考えているから一切しない。何故かと言えば、博打は自分の物でない物を望み、次には盗人になる危険があるからである。

 彼らは宣誓によって、自己の言葉の裏付けをすることは希である。宣誓するときには、太陽に由っている。住民の大部分は読むことも書くこともできる。これは、祈りや神のことを短時間で学ぶための頗る有利な点である。日本人は妻を一人しか持っていない。窃盗は極めて希である。死刑をもって処罰されるからである。彼らは盗みの悪を非常に憎んでいる。大変心の善い国民で、交わり且つ学ぶことを好む。

 神のことを聞くとき、特にそれが解るたびに大いに喜ぶ。私は今日まで旅した国に於いてそれがキリスト教徒たると異教徒たるとを問わず、盗みに就いてこんなに信用すべき国民を見たことが無い。獣類の形をした偶像などは祭られていない。大部分の日本人は、昔の人を尊敬している。私の識り得た所に依れば、それは哲学者のような人であったらしい。国民の中には、太陽を拝む者が甚だ多い。月を拝む者もいる。しかし、彼らは、皆、理性的な話を喜んで聞く。また、彼らの間に行われている邪悪は、自然の理性に反するが故に、罪だと断ずれば、彼らはこの判断に諸手を挙げて賛成する」。

 「私があなたがたにお知らせしたい唯一のこと,それは主なる神に大きな感謝をささげていただきたいことです.この島,日本は,聖なる信仰を大きく広めるためにきわめてよく整えられた国です」。

【「ザビエル対僧侶の宗義問答」】
 「ザビエル対僧侶の宗義問答」を採録しておく。(以下略)

【ザビエルの弟子ベルナルド】

 ベルナルドは、ザビエルに愛され弟子となった、もう一人の鹿児島の青年で、ザビエルの京都旅行にも随行し寝食を共にした。ザビエルは彼の才能を見抜き、学問のためヨーロッパに送った(天正の使節より約30年早い)。ベルナルドは日本人で初めてヨーロッパへ留学したことになる。ベルナルドはポルトガルのコインブラ大学で学び、その後ローマで、当時のローマ教皇パウロ3世やイグナチオ・ロヨラにも謁見し、ポルトガルの大学で、勉学に励んだ。1553年、リスボンで入会、修道士となった。1557年、コインブラで若くして客死した。


【琵琶法師であったロレンソ了斎が入会】
 1561年、琵琶法師であったロレンソ了斎が入会している。

【コメス・ド・トレス神父】
 コメス・ド・トレスがザビエルの後を継いで宣教長となった。トレスは、南部の島々でしばらく宣教した後、1560(永禄3)年に京都入りを許されるが、迫害を受けてしばしば堺に避難した。トレスは、1562(永禄5)年末、改宗する大名の多い九州に支持者を求め、キリシタン大名大村純忠のもとへ向かった。純忠はポルトガルとの貿易のために宣教師の協力を確保する必要を感じ、彼らに横瀬浦の港を提供する。そしてそこに住むのをキリスト教徒に限りポルトガル船に対しては10年間入港税の免除とする。さらにイエズス会会員には住居の寄贈を約束している。純忠は1570(元亀元)年、長崎を開港し、1580年〜1587年それらの地をイエズス会に教会領として贈与し、それらの都市はキリスト教の中心地となってゆく。

【フランシスコ・カブラル神父】
 この間に信長が京都で実権を握り、トレスに代わってフランシスコ・カブラルが宣教にやってきた。この新しい日本宣教長は信長から評価され宣教師の上洛が許された。1577(天正5)年、グネッキ・ソルディ・オルガンティノが京都と安土に教会を建てるに至る。

ヴァリアーノ神父】アレッサンドロ・ヴァリニャーノ
 1579(天正7)年、宣教状況の視察に訪れたヴァリアーノ東洋管区長(巡察師)は、カブラルが日本文化の独自性を尊重せず、宣教方針に柔軟性を欠くと判断した。彼は学校と助手の養成所設立を決めた。

 それまで各々の宣教師が書いた書簡がインドやヨーロッパへ送られていたが、1579年日本にやって来た、インド管区巡察師、アレッサンドロ・ヴァリニャーノが、書簡によってイメージしていた日本の様子と、現実の状況に著しい違いが有る事に驚き、各自の報告を、日本の布教長の責任で、1通の年報にまとめる様に指示して、以後、1年に1回の年報が、インドやヨーロッパへ送られる様になった。


 1582(天正10)年、天正遣欧使節とともに長崎を去った。

【ルイス・フロイス神父】(1530ー1590)

 1532(天文元)年、リスボンに生まれる。

 1548(天文17).2月、16歳の時、ポルトガル人イエズス会に入会した。同年、当時のインド経営の中心地であった東インドのゴアに派遣され、聖パウロ学院に入学。そこで養成を受ける。同地において日本宣教へ向かう直前のフランシスコ・ザビエルと日本人協力者ヤジロウに出会う。このことがその後の彼の人生を運命付けることになる。1561年、ゴアで司祭に叙階され、語学と文筆の才能を高く評価され、学院長や管区長の秘書となり各宣教地からの通信を扱う仕事に従事した。

 1563.7.6日(永禄6.6月)、31歳の時、横瀬浦(現在の長崎県西海町)入港の船で来日、念願だった日本での布教活動を開始する。平戸において日本語や日本の習慣などを学んだ後、大村領・有馬領の口之津・島原地方、などで布教を手始めに以後34年間在日し、1597.7月、長崎で死去するまで日本でのキリスト教の布教活動に従事した。フロイスがローマに送った数々の詳細な報告、年報は、その優れた観察眼と文才によって今日高い評価を受け、イエズス会の布教文献のなかで日本書簡が質量ともに卓越しているのも、その功績によるところが大きい。


 1564(永禄7)年、平戸から府内(大分県)を経由して京都に向かった。1565.1.31日、京都入りを果たした。 将軍足利義輝の保護を受けるが、同年義輝が三好党らにより殺害され、宣教師たちは京都を追われ、フロイスは自由都市堺に移る。66年、ヴィレラ神父の後継者として京都地方の地区長となり、困難を窮めながらも京都地方の布教で大きな成果を上げた。

 1569(永禄12)年、入京した新しい中原の覇者織田信長と二条城の建築現場で初めて対面し、信任を獲得する。延暦寺や石山本願寺など反信長の戦国大名と結託した既成の仏教勢力に手を焼き、そのあり方に辟易していた信長は、キリスト教義も含めて西欧事情に対する好奇心、仏教勢力をおさえる必要、南蛮貿易による畿内の商業の活性化、鉄砲の入手の利便さ等々の理由もあってフロイスの畿内での布教を許可した。畿内に教会堂やセミナリオが建築された結果、多くの信徒を得た。異国の物品を好んだ事で知られる信長は伝道にも寛容で、フロイスの京都居住を許可し、布教を大いに進展させた。その著作において信長は異教徒ながら終始好意的に描かれている。(フロイスの著作には『信長公記』などからうかがえない記述も多く、日本史における重要な資料の1つになっている)(「織田信長とルイスフロイス」)


 1569.5月、日蓮宗の僧朝山日乗と宗論を行った。

 1576(天正4)年、京都を去り、豊後の臼杵に移る。1577(天正5)年から81年までの4年間、九州豊後地方の布教長を勤め、日本巡察使・ヴァリニャーノが設けた年報制度にもとづいて、『イエズス会日本年報』の執筆者となる。その任期中に大友宗麟が洗礼を受けている。

 1580年、 巡察師アレッサンドロ・ヴァリニャーノの来日に際して通訳として視察に同行し、1581年、安土城で信長に拝謁している。同5月、ヴァリニャーノの命令で配流中の高山右近を訪ね、越前北庄(現福井県)を訪れ布教。その後、日本準管区長付として九州にとどまり、口之津・長崎・加津佐などの各教会の指導にあたる一方,イエズス会本部に送る報告書である「日本年報」の主執筆者をつとめた。

 1583(天正11)年秋、分筆の才と日本の知識が認められ、時のイエズス会総長メルクリアンの意向を受けたヴァリニャーノ巡察師から日本におけるイエズス会の活動の記録と日本史の編纂・執筆に専念するよう命じられる。宣教の第一線を離れ、1586.9月、下関滞在中に書き終えている。この本は1549年のサビエルの来日に始まり、1593年の記述でおわっている。構成は、序文、日本六十六国誌 (未発見)、日本総論(目次のみ現存)、第一部(1549年〜1578の記録)、第二部(1578年1589年の記録)、第三部(1590年1593年の記録)となっている。

 しかし、叙述があまりにに詳細なため、ヴァリニャーノの意に沿わず、原稿と数通の写本のままでフロイスの生前中し刊行されなかった。今日では彼の「日本史」 は各国の言葉に翻訳されて刊行されている、また歴史研究者にとって、日本におけるキリスト教宣教の栄光と悲劇、発展と斜陽を直接目撃し、その貴重な記録を残している点でも、単なる宣教師の布教活動記録にとどまらず、織田信長や豊臣秀吉といった武将から庶民にいたる様々な当時の 日本人の生活習慣や文化を記しており、且つフロイス自身の目で見た京都や、九州の諸都市の様子を伝えており貴重な歴史資料となっている。

 1586年、準管区長コエリヨの通訳として大坂城で豊臣秀吉に謁見。

 信長の対イエズス会政策を継承していた豊臣秀吉は、やがてその勢力拡大に危機感を抱くようになり、1587(天正15).6.19伴天連追放令を出すに至ったため、フロイスは畿内を去って有馬の加津佐でキリシタン諸侯の保護を受けたのち1590年、長崎に落ち着いた。フロイスは、それまでの誼が功を奏し、医学研究に協力することを条件に日本残留を許可される。「石田三成に従い、幻魔研究に没頭。周囲を顧みない非道な実験を重ね、三成たちにとって有益な結果をもたらしている」とある。

 1590年、帰国した天正遣欧使節を伴ってヴァリニャーノが再来日すると、フロイスは同行して聚楽第で秀吉と会見した。

 1592年秋、ヴァリニャーノとともに一時マカオに渡ったが、1595年、長崎に戻る。1597(慶長元)年、二十六聖人の殉教記録』を文筆活動の最後に残し、5.24日、修道院で没した(享年65歳)。大著「日本史」、「日欧文化比較」、「日本二十六聖人殉教記」他、多数の書簡を遺している。


【ルイス・フロイス神父の日欧文化比較論
 吉田幸男氏の「ルイス・フロイスと佐賀藩内儀方」を参照する。 

 宣教師ルイス・フロイスは、中世日本の女性とその風貌、風習について、次のように日欧文化比較している。

 「1、ヨーロッパでは未婚の女性の最高の栄誉と尊さは貞操であり、またその純潔がおかされない貞潔さである。日本の女性は処女の純潔を少しも重んじない。それを欠いても名誉も失わなければ、結婚もできる」。
 「29、ヨーロッパでは夫が前、妻が後ろになって歩く。日本では夫が後ろ、妻が前を歩く」。
 「30、ヨーロッパでは財産は夫婦の間で共有である。日本では各人が自分の分を所有している。時には妻が夫に高利で貸し付ける」。
 「31、ヨーロッパでは妻を離別することは最大の不名誉である。日本では意のままにいつでも離別する。妻はそのことによって、名誉も失わないし、又結婚もできる」。
 「32、ヨーロッパでは夫が妻を離別するのが普通である。日本ではしばしば妻が夫を離別する」。
 「34、ヨーロッパでは娘や処女を閉じこめておく事は極めて大事なことで厳格に行われる。日本では娘たちは両親に断りもしないで一日でも数日でも、一人で好きなところへ出かける」。
 「35、ヨーロッパでは妻は夫の許可がなくては、家から外へでない。日本の女性は夫に知らせず、好きなところに行く自由を持っている」。
 「43、ヨーロッパでは尼僧の隠棲および隔離は厳重であり、厳格である。日本では比丘尼(尼)の僧院はほとんど淫売婦の町になっている」。
 「44、ヨーロッパでは尼僧はその僧院から外に出ない。日本の比丘尼は何時でも遊びに出かけ、時々陣立(じんたち、軍陣の事、戦場か)に行く」。
 「51、ヨーロッパでは普通女性が食事を作る。日本では男性がそれを作る。そして貴人たちは料理を作る事を立派な事だと思っている」。
 「52、ヨーロッパでは男性が裁縫師になる。日本では女性がなる」。
 「53、ヨーロッパでは男性が高い食卓で女性が低い食卓で食事をする。日本では女性が高い食卓で、男性が低い食卓で食事をする」。
 「54、ヨーロッパでは女性が葡萄酒を飲む事は礼を失するものと考えられている。日本ではそれはごく普通の事で祭りの時にはしばしば酔っ払うまで飲む」。

 宣教師ルイス・フロイスは、中世日本の子供の様子、習俗について、次のように日欧文化比較している。

 「2、ヨーロッパの子供は長い間襁褓(むつき)に包まれその中で手を拘束される。日本の子供は生れてすぐに着物を着せられ手はいつも自由になっている」。
 「7、ヨーロッパでは普通鞭で打って息子を懲罰する。日本ではそういう事は滅多に行われていない。ただ言葉によって譴責するだけである」。
 「13、ヨーロッパの我々の子供はその立ち居振る舞いに落ち着きがなく優雅を重んじない。日本の子供はその点非常に完全で全く賞賛に値する」。
 「14、ヨーロッパの子供は大抵公開の演劇や演技の中でははにかむ。日本の子供は恥ずかしからず、のびのびしていて愛敬がある。そして演ずるところは実に堂々としている」。

【ガスパル・コエリョ神父】(1530ー1590)
 イエズス会初代日本準管区長。ポルトガルに生まれる。1556年、ゴアでイエズス会に入会する。1560年頃、司祭叙階。1571年、マカオに渡り、1572年、来日。大村で宣教活動にあたり、領民を集団改宗に導いた。1581年、日本準管区長となる。1590年、加津佐で亡くなるまで、準管区長を務めた。


【フランシスコ会】
 フランシスコ会について見ておく。「フランシスコ会」、「聖フランシスコ」、「修道会」、「パドヴァのアントニウス」等々を参照する。

 フランシスコ会とは、フランチェスコによってはじめられたカトリック教会の修道会を云う。フランチェスコとは「フランス風」の意味である。アメリカ合衆国のサンフランシスコは彼の名前にちなんでいる。1182年、イタリア中部ウンブリア地方のアッシジに生まれる。20歳の時、信仰に目覚め、隠修士となり、教会堂の修復などを行った。1206年の或る日、フランチェスコは、サン・ダミアーノ教会の十字架像から「私の家が壊れているのが見えないか。早く行って私の壊れかけた家を建て直しなさい」との主の声を聞く。宗教的回心を経て、それまでの裕福な生活を捨てて、無一物になり、神と人々に奉仕する生活に入った。

 古い教会堂を修理し、人々に神の言葉と回心を告げ、労働をして生活の糧を得、それが得られない時には托鉢をする、という生活を行なう。やがて、フランシスコの周りには、かれと志しを同じくする若者たちが集まるようになった。1208年、3つの戒律を定め、活動を始めた。かれらは、短い会則に基づいて全ての財産を放棄した厳しい貧しさのうちに生活し、祈りに時を過ごし、神の言葉と回心の福音を説き、平和について語り、病人の看護と労働に従事する。当時のベネディクト会則とはまったく違う独自の会則に従い従順・清貧・貞潔に生きた。そうして弟子たちとともに各地を放浪し、説教を続けた。マザー・テレサは彼の人生を聞き、修道女を目指したと言われる。

 次第に互いに兄弟と呼ぶ同志が増え、この小さな共同体が12人になった時、フランシスコはローマに赴き、1210年、ローマ教皇インノケンティウス3世に謁見し、修道会設立の認可を求める(教皇は口頭で認可を与えたとされる)。「原始会則」と呼ばれる会則の認可と修道会設立の許可を得る。こうして、「小さき兄弟会」(Ordo fraterorum minororum)という修道会が創立された。


 1215年、キアラ(日本ではクララとして知られる)を中心に第2修道会(女子修道会)が創設された。1221年、在俗の「償いの兄弟姉妹の会」(第3会、略称OFS)が承認された。1517年、「小さき兄弟会」は「コンベンツァル小さき兄弟会」、1619年、「カプチノ小さき兄弟会」が分かれ、主流派となった「小さき兄弟会」(改革派フランシスコ会)と共に3つの男子修道会がある。

 そういう訳で、フランシスコ会は、広義には第1会(男子修道会)、第2会(女子修道会)、第3会(在俗会)から成る。狭義には第1会に当たる3つの会の事を云い、特にその中の主流派である改革派フランシスコ会のみを指す事もある。この3つの会はいずれも「小さき兄弟会」Ordo Fratrum Minorum (OFM)の名で知られる。聖公会でもフランシスコ会が組織されている。

 小さき兄弟会は急速に発展し、ヨーロッパ全土に広がり、パレスチナおよび北アフリカに活動の場を伸ばして行く。1219年、フランシスコ自身エジプトに赴いてイスラムのスルタンと交誼を結び、聖地パレスチナおよびシリアを訪れている。会員たちは宣教、司牧、学問、社会福祉に携わって、神と人々への奉仕を行なう。

 
1223年、新しい会則が起草され、教皇庁によって「勅書によって裁可された会則」が認可された。小さき兄弟会の三つの修道家族はこの会則に従って生活する。グレチオで、牛や驢馬を入れた小屋を作り、そこで「キリストの降誕祭」(クリスマス)を祝う。この時から教会の中に小さな「馬小屋」をしつらえてキリストの誕生を記念する習慣が生まれた。1224年、ラヴェルナ山でキリストの五つの傷をその身に受けるという恵みに浴す。フランシスコはいくつもの書き物を残しており、「兄弟太陽の歌」が特に良く知られている。

 1226.10.3日、アッシジのポルチウンクラで44歳の生涯を遂げた。遺骸はアッシジの聖フランシスコ大聖堂(バジリカ)に安置されている。2年後には聖人の列に加えられた。


 小さき兄弟会はイタリア半島ばかりでなく、ヨーロッパ全土、北アフリカ、パレスチナおよびシリアへと広がる。会員たちは、宣教のために、中国にも赴く。活動も福音宣教、信徒の司牧、学問、教育、福祉活動の分野に及ぶ。神学・哲学の分野で貢献した小さき兄弟会員としては、ヘールスのアレキサンダー、ボナベンツラ、ヨハネ・ドゥンス・スコートゥスなどが知られている。

 時代とともに小さき兄弟会は発展し、種々の活動に伴って、初期の素朴さや厳しい貧しさは徐々に姿を変えて行く。生活も緩やかになってゆく。このような経過の中で、初期の素朴な生活と厳しい貧しさへ戻ろうと言う動きが芽生え、改革運動が始まる。こうして、14世紀には小さき兄弟会にはコンムニタス(コンベンツアルとも呼ばれた)という「共同体派」とオブセルバンテスという「改革派」の二つの流れが生まれる。
 
 
共同体派は大きな修道院に住んで、共同体生活を大切にし、主に都市部で人々の奉仕にあたった。改革派は初期の頃は小さな修道院や山の庵に住んで、観想生活を主とした。時代とともに、改革派も大きな修道院共同体を作り、都市部でも活動するようになった。また、改革派のほうが会員の数においても活動の面でも、主流派である共同体派を凌駕するようになった。

 
1517年、教皇レオ10世は、小さき兄弟会を共同体派の流れを汲むコンベンツアル兄弟会(コンベンツアル聖フランシスコ修道会)と改革派の流れを汲む小さき兄弟会(フランシスコ会)とに分割し、こうして小さき兄弟会は独立した二つの修道会となる。

 間もなく小さき兄弟会(フランシスコ会)からはカプチン小さき兄弟会(カプチン・フランシスコ会:1619年に独立した修道会となる)が分かれ、小さき兄弟会は三つの独立した修道会となる。


 16世紀から17世紀にかけて、「フランシスコ会」、「コンベンツアル聖フランシスコ修道会」、「カプチン・フランシスコ会」の三つの独立した修道家族に分かれる。三つの修道会ともアッシジのフランシスコが書いた同じ会則に従って生活するが、それぞれ異なった会憲を持っている。

 小さき兄弟会の分割後、コンベンツアル聖フランシスコ修道会は一時期困難な歩みをたどるが、その後活力を取り戻し、18世紀には会員2万5千名を数えるようになる。しかし、フランス革命とナポレオンの施政および西欧社会における修道会廃止令によって大きな打撃を受ける。多くの国々で修道院は没収され、会員たちは教区司祭になるか、個人で修道生活を送るか、または還俗するかの道を選ばなければならなかった。

 1549(天文18)年8月15日、イエズス会員聖フランシスコ・ザベリオの鹿児島渡来によって、わが国におけるカトリックの宣教が始められたが、その後続々とイエズス会、フランシスコ会、ドミニコ 会、アウグスチノ会等の会員がインド・フィリピン等から相次いで来日し、各地に教会、修道院、学校、病院等を設置して熱心に宣教に当った。

 1593年、フィリピン総督の使節としてペドロ・バプチスタが到着。

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(私論.私見)