キリシタン大名の実態考

 (最新見直し2006.3.6日)

 (れんだいこのショートメッセージ)
 キリシタン大名問題は勝れて現代的問題であるように思われる。今日かっての大名は存在しないが、これを現代的になぞらえればさしづめ国会議員、上場会社の社長、研究機関の学長ということになろうか。これらの連中の為している様が、当時のキリシタン大名の為している様と変らない。違っているのは、キリシタン大名は封殺されたが、今日のシオニスタンはますます隆盛し国家権力中枢を握っていることである。俗に、これを国家簒奪、権力乗っ取りと云う。

 それはともかく、織田信長が憤死させられた本能寺の変の黒幕にバテレンの動きがあったという仮説は有効だろうか。れんだいこは然りと考える。しかしながらこれを証する資料が無さ過ぎるのでこれ以上のコメントはできない。いずれにせよ、歴史の真相はなかなか表には現われないとしたもんだ。

 2006.2.3日 れんだいこ拝


キリシタン大名
 キリシタン大名(吉利支丹大名)とは、当時来日したキリスト教宣教師の伝道によりキリスト教を信仰するに至った大名の事を云う。聖フランシスコ・ザビエルは布教に当り、任地の大名に謁見して宣教の許可を願った。薩摩、平戸、山口と豊後ではそのようにした。その際、布教を円滑に進めるために大名自身に対する布教も行った。その4人の大名の中で、大友義鎮だけが信者になった。後から来日した宣教師たちも同様に各地の大名に謁見し、領内布教の許可や大名自身への布教を行った。

 宣教師達は、大名たちの歓心を得るために、布教の見返りに南蛮貿易や武器の援助などを提示した者もおり、大名側も宣教師を通じての利益を得ようとして、入信した者もいた。入信した大名の領地では、イエズス会の布教方針に則り領民が改宗し始め、爆発的にキリスト教が広がることになった。

 キリスト教が広まるにつれて、キリスト教の教義や、キリシタン大名の人徳や活躍ぶりに感化され、自ら求めて入信する大名が現れ、南蛮貿易に関係のない内陸部などでもキリシタン大名は増えていった。

 洗礼を受けた大名は30名をこえていた(信憑(しんぴょう)性のある記録により判明している)。主なキリシタン大名は次の通り。大村純忠(1563年洗礼)、高山右近父子(高山ダリオ飛騨守とその息子ユスト高山右近)(1564年洗礼)、大友宗麟(1578年洗礼)、有馬晴信(1580年洗礼)の九州大名。続いて、小西行長、黒田孝高(如水)父子(1585年洗礼)、蒲生氏郷、三箇伯耆守信長の孫岐阜中納言織田秀信等々。これらの大名は、程度の差はあれ熱心に宣教に協力した系譜である。他にも、宣教を迫害をしないで陰から支援した大名もいた。蜂須賀家政、豊後の佐伯の毛利高政、京極高知らがそうであった。キリシタン大名から迫害者になった大名も居る。黒田長政、有馬直純、寺沢広高がその道をとった。

 他に、大名夫人の系譜もある。細川忠興夫人ガラシャ、大村純忠の娘大村メンシア(1564ー1634)、浅井久政の娘。長政の姉マリア京極(1542ー1618.2.28)ら。

 マリア京極は、京極高吉の妻。1581年、イエズス会安土住院で、高吉とともにオルガンティノから受洗。次女龍子(豊臣秀吉の側室)をのぞく子どもたちにも受洗させ、大坂の布教に助力した。その後、長男・高次の領国若狭に退き、若狭や丹後の田辺(次男・高知の領国)で布教したといわれる。晩年は、若狭の泉源寺で暮らし、ここで亡くなった。

 他方、毛利輝元、加藤清正などは最初から敵対を示していた。

 豊臣秀吉伴天連追放令以降、キリシタン大名には政治的な圧力が強まり、多くの大名が改易され、もしくは棄教した。江戸時代にはいり1613(慶長18年)には禁教令も出されたため、最後まで棄教を拒んだ高山右近はマニラの呂宋(ルソン)に追放され、有馬晴信は殉死し、以後キリシタン大名は絶滅した。


【大友宗麟】(1530−1587年)
 中世・豊の国は大友氏が豊後に入国し,蒙古合戦には大友氏ら二豊武士団が活躍した。南北朝の争乱に大友軍は京都周辺まで出陣。戦国時代は大友氏は山口の大内氏と争い、そしてキリシタン大名宗麟(ソウリン)の時全盛になる。

 1530年、誕生。幼名、塩法師丸、後に新太郎、義鎮。入道して宗麟、休庵などと名乗る。1550年、父の後を継ぎ豊後(現在の大分県)の大友氏 21代当主として領主となる。大友氏は、戦国大名として豊後 を中心として九州6国を支配する戦国大名。1554年、肥後の菊池氏を滅ぼす。61年、毛利氏と門司城合戦。1569年、肥前で龍造寺氏と戦い、博多にて毛利氏と再び戦う。義鎮は、イエズス会宣教師達との密接な共存を続けていたが、その間に義鎮は禅宗に帰依し、入道して宗麟と名乗り、諏訪の丘に寿林寺を創設、開山として京都大徳寺の怡雲を招いている。

 1576年、既に48歳となっていた宗麟は自らの領土を息子の禅宗に譲り、ポルトガル人を忌み嫌っていた妻と離別。新しく洗礼を受けさせた次男、親家の妻の母にあたる女性と再婚している。ちなみに、宗麟の息子・娘は全て離婚した妻との間に生まれている。

 1578(天正6).8.28日、宗麟をキリスト教信仰へ導きたいと常に願っていたイエズス会の日本布教長・フランシスコ・ガブラルは、当時48歳の宗麟に洗礼を施した。洗礼名はドン.フランシスコ。
 概要 「自らの望みは満たされたが、時間と場所の不足により(洗礼は)臼杵の教会の中にある小さな礼拝堂で執り行うことで一致した。(中略)既に聞かされていたことは簡約し、ゆったりと説教が施された後に大きな喜びと慎みを持って洗礼を受けた。そして神父は以前から頼んでいたように宗麟にフランシスコの名を与えた」。

 こうして、キリシタン戦国大名として歴史に名を残した。南蛮貿易を盛んにして、豊後の府内を国際交易の拠点とした。78年、薩摩の島津氏との日向の高城,、耳川の合戦で敗れて衰退する。日向に理想のキリスト教王国を建設しょうとしたが、高城、耳川の合戦に大敗して幻となった。1581(天正9).11月、養子に出した子息の田原親家を大将に宇佐神宮に兵を送り7000人余の兵をもってこれを包囲し焼き討ちにした。宇佐神宮は豊前の国にあり山口の大内氏の領土であった時代も長くて、又宇佐神宮の宮司の宮成、益永、時枝氏らが毛利方の秋月氏に通じて大友から離反した。こういう政治的事情もあったが、宗麟は神社、仏閣にかなりの不遜な行為をしているので、キリシタンが故のイデオロギーに染まった宗教戦争であったと考えられる。

 1582.4月、キリシタン大名としてロ-マに伊東マンションら少年使節を送る。86年、秀吉に島津侵入の救援を大阪城で依頼して、九州征伐のきっかけを作る。
 
 大友家は朝鮮征伐の時の失態で文祿2年、秀吉から除国とされ、豊の国は小藩分立の時代となる。大友氏は千石の旗本高家、鎌倉以来の名門として幕末まで続く。

【大村純忠】(1533ー1587)
 戦国時代の武将。キリシタン大名。1533(天文2)年、島原の城主有馬晴信(純)の二男として肥前国有馬に生まれた。母は大村純伊の娘。純忠の実兄に有馬義貞がおり、その義貞の子供にあたるのが西肥前のもう一人の使節の派遣者有馬晴信である。したがって、大村純忠と有馬晴信は、伯父・甥の関係であった。晴信は永禄10年(1567)の生まれであるから、両者には34歳の年齢のへだたりがあった。幼名は勝童丸。丹後守,民部大輔。剃髪して理仙と称し,受洗名はバルトロメオ。文書には波留登路銘と署名。

 1538(天文7)年、6歳の時、肥前の有力豪族であった大村純前の養嗣子となり、1550年、家督をつぐ。肥前国の西部を支配していた21万石という肥前最大の有力者有馬家は、勢力拡大の為に次男純忠を大村家に養子へ送ったことになる。大村家と有馬家の間には姻戚関係が成立した。純忠が養子に入った大村家には庶子嫡男として貴明がいたが、有馬家を気にした大村家は貴明を後藤家へ養子に出してしまい、この事を恨んだ貴明と純忠は長い戦いを繰り広げることになる。

 有馬家の後ろ盾があったが、有馬家は積極的な動きをせず、2万石しかない大村純忠は自力で迫りくる敵と苦しい戦いを続けることになった。当時の大村領は攻撃的な佐賀の龍造寺隆信などによる周囲の圧迫もあり、打開策を模索していた。大村家は純忠の母親の実家だが、嫡男貴明を追い払い純忠が養子に入った事を嫌った一族や重臣の多くが後藤貴明の元へ去り、大村家へ攻め寄せる状況に、自分が養子に来た事が原因の戦いに悩み続けていた純忠は、そうした時にキリスト教に出会う。キリスト教の宣教師の話を聞くうち、不思議と惹かれるものを感じると共に、家臣や領民すべてをキリスト教徒にする事で一体化をし、今後迫り来る敵に備える事を思いつく。キリスト教に改宗した大村家に対し、後藤・西郷・諫早の三氏は連合を組み、仏教を棄てた事を理由に攻めてくるが、純忠を始めとする家臣達の懸命の働きにより撃退に成功する。

 1561年、松浦氏の領土であった平戸港でポルトガル人殺傷事件が起こった。ポルトガル人は新しい港を探し始め、修道士アルメイダが大村藩との交渉を始めた。純忠は、自領にある横瀬浦(長崎県西海市)の提供を申し出た。布教を認めるだけなく、教会を建てること、港の半分をイエズス会に譲ることなど破格の条件で横瀬浦の開港を約束した。イエズス会宣教師がポルトガル人に対して大きな影響力を持っていることを知っていた純忠はあわせてイエズス会員に対して住居の提供など便宜をはかった。1562年、横瀬浦(西海町)を南蛮貿易港として開港。結果として横瀬浦はにぎわい、純忠のこの財政改善策は成功した。

 1563(永禄6)年、宣教師からキリスト教について学んだ第18代領主大村純忠は、家臣とともにコスメ・デ・トーレス神父から受洗した。日本最初のキリシタン大名)となった。教名をドン・バルトロメオと名乗り、日本最初のキリシタン大名となった。領民の殆どがキリシタンになり、信徒6万、教会70を数えた日本の小ローマと呼ばれ、キリシタン王国と云われるほどであった。キリシタンを保護して南蛮貿易にも積極的に従事している。純忠の入信についてはポルトガル船のもたらす利益目当てという見方が根強いが、記録によれば彼自身は熱心な信徒で、受洗後は妻以外の女性と関係をもたず、死にいたるまで忠実なキリスト教徒であろうと努力していたことも事実である。

 大村純忠とポルトガルとの交渉は、その実家である有馬氏にも強い影響を与えていった。横瀬浦港が武雄の後藤貴明の攻撃によって廃港になると、それにかわる長崎外港の福田浦を65年、天草の志岐とともに、有馬義貞によって島原半島の南端口ノ津にも南蛮貿易が誘致された。同時に宣教師アルメイダを口ノ津にまねき、教会となるべき寺を与えて布教を許した。 時に永禄6年のことである。

 純忠は頃合を計って大村に戻り三城城を築く。1568年、城の側に大村市で最初の教会を造った。 

 1570(元亀元)年、純忠夫人、長男・喜前(よしあき)(洗礼名ドン・サンチョ)、長女・自証院(じしょういん)(洗礼名ドンナ・マリイナ)が大村で洗礼を受けている。

 1570(元亀元)年、純忠はポルトガル人のために1つの港を提供した。同地は良港として以後、大発展していく。当時100戸余りの寒村にすぎなかったこの港こそが、後の長崎である。1574年、諫早殿と他の敵の攻めのとき有名な「三城の七騎士」の戦いの後、全領土で積極的に宣教の手助けをした。その活動では後に準管区長になった。この時、ガスパル・コエリョ神父と図り、長崎開港と、少年使節の派遣を決めたと云われている。

 1571(元亀2)年、龍造寺隆信の圧迫に耐えたが、息子たちを敵の手に人質として渡し、坂口に引退させられた。1578年、長崎港が龍造寺軍らによって攻撃されると純忠はポルトガル人の支援によってこれを撃退した。

 1572(元亀3)年、大村純忠は、深堀純賢と図った西郷純堯からの攻撃を受けた。このとき、深堀純賢は長崎港を攻撃した。この攻撃で、深堀氏は長崎港の異人館や村、教会を焼きはらった。純忠は反撃し、西郷軍は兵を引き上げた。純堯は熱心な仏教徒で、大村純忠のキリシタン政策に反感を持っていたのが真相のようである。

 1573(天正元)年、純堯は純忠の実兄にあたる有馬義貞を手中に抑えていて、義貞に命じて純忠を誘殺しようと企んでいる。純堯は、純忠のキリスト入信を咎め、キリシタンであることを止めれば純堯と敵対することもなくなると忠告した。これに対して純堯は、自分がキリシタンであることには異義を唱えないでいただきたい。自分は領国・家・家臣および生命を失っても棄教はしない、と返答している。

 7月、後藤貴明も三城に攻め寄せている。貴明の要請を受けた平戸の松浦鎮信、諌早の西郷純暁も援兵を出し、三氏連合して1500の軍勢であった。大村方は、手勢僅かで籠城した。弓、鉄砲で威嚇するひとで窮地を脱した。この合戦が、大村家で「三城七騎籠」と伝えられている。

 その後も深堀・諌早西郷氏による大村・長崎港攻撃は断続的に行われ、その都度、大村氏は援軍を純景に送り攻撃を退けた。1580(天正8)年の戦いでは、大村勢が150名で長崎氏方に来援して西郷勢を打ち破っている。

 1574(天正2元)年、大改宗運動を展開して、領内すべての偶像崇拝の礼拝施設・神社仏閣を破壊し、先祖の墓所も打ち壊した。全領民6万人をキリシタン化していった。入信しないものは領外へ出ていくことを強要するほど徹底したものだった。純忠のキリシタン信仰は、この天正2年を契機として一気に高まった。それまでは、改宗後も伊勢神宮の神符をうけていたり、真言僧との交渉を保っていた。改宗後約10年を経て、イデオロギー的に純化させたものと思われる。「領民をキリシタンにすることと鉄砲との交換条件で領民何人で 鉄砲1丁との交換だった」とも伝えられている。

 しかし、この行過ぎたやり方は家臣や領民の反発を招くことになる。前君の庶子後藤貴明が反乱を起こして横瀬浦を焼き払うという事件を引き起こしている。純忠は多良岳に逃れ、そこで出家して理専と言う名前を取得した。この事情を解くのは難しいが、純忠のキリシタン信仰を棄てさせようとする外圧が係り、仏教的出家を余儀なくされたのではないかと思われる。しかし、純忠は引き続き宣教師たちと連絡をとりあい、むしろ次第に攻勢に出始める。

 1579(天正7)年、巡察使ヴァリニアーノの口ノ津来訪を機に、有馬義貞の子晴信も夫人とともに改宗した。教名をドン・プロタジオといい、時に13歳であった。

 1580(天正8)年、大村氏に属した長崎氏は西郷・深堀勢の攻撃をよく撃退したが、純忠は長崎港周辺をイエズス会の耶蘇会領として寄進した(後に秀吉によってイエズス会から取り上げられ、直轄領となる)。この頃、巡察のため日本を訪問したイエズス会アレッサンドロ・ヴァリニャーノと対面し、遣欧少年使節の派遣を決めている。 大村にはそれぞれ洗礼名を持つ四人の息子、喜前(サンチョ)、純宣(リノ)、純直(セバスチャン)、純栄(ルイス)がいたが、龍造寺隆信の圧迫により、人質に出さざるを得なかった。(後に純忠の後を継いだのは大村喜前であった) 彼の名代として甥にあたる千々石ミゲルが人選された。

 1581(天正9).8月、純忠は、龍造寺隆信に降った。嫡子喜前を人質として佐賀に拘束された。

 1582(天正10)年、巡察使ヴァリニャーニのすすめもあって、有馬晴信、大友宗麟と図りローマ法王庁に向けて遣欧使節を派遣している。

 1583(天正11)年、次男の純宜・三男純直の二人に息子も人質として送るように要求される。三人の息子を人質にとった隆信はさらに純忠に、主だった親戚の者たちも渡すように要求してきた。この者たちはみな純忠が頼みとする者たちであった。しかし、純忠は、やむなく彼等を隆信に引き渡した。すると、隆信は、別の使者をよこして、純忠に三城を出て波佐見の地にある小さく不便な場所に蟄居するように命じてきた。ここに至り、隆信から逃れ得ないことを悟った純忠は城から出て、波佐見に向かった。このとき、家臣を伴うことは許されなかった。この隆信の仕打ちは、あまりにも屈辱的でみじめであったため、純忠は退去に際して人目につくところを避けて、遠回りをしたという。

 隆信は純忠を三城から追放したのち、人質の喜前を三城に入れた。そして、自分の家来たちを伴わせて喜前を操り、キリシタン宗団の絶滅を狙った。大村に入ってきた隆信の家来たちは、キリシタンを殺害し、家財や妻子を奪うなど狼藉の限りを尽くした。こうして、大村氏を屈服させた龍造寺隆信は、同じキリシタン大名である有馬晴信に重圧をかえるようになる。晴信は先年、隆信の嫡子政家のもとへ政略として妹を嫁がせ、両家の和に心を砕いていた。しかし、領国内では隆信の残虐な仕打ちで離反する領主が増え、晴信もまた人望のない隆信を離れて島津義久の幕下となった。

 1584(天正12).3月、隆信は、島津氏に寝返った有馬晴信を討つため、3万の大軍を率いて島原に渡り、晴信の本拠日之江城に向かった。大村純忠も島原出兵を命じられた。純忠はやむなくこの命に応じ、嫡子喜前を出陣させ、喜前は三百余の大村勢を率いて有馬攻撃に加わった。この戦いは、純忠にとって同じキリシタン同士であり、しかも甥で、実家の当主でもある有馬晴信とその家臣を討つことであり、かれの苦悩は深かった。有馬攻撃に投入された大村勢は、みな有馬の勝利を祈り、隆信の部将たちから有馬軍への攻撃を命じられたときは、弾丸を抜き、空鉄砲を撃つことを申し合わせていたという。

 竜造寺隆信は、この一戦で一挙に有馬氏とキリスト教を壊滅させようとしていた。しかし、隆信の大軍は有馬・島津連合軍の巧みな作戦によって、沖田畷の戦いにおいて敗戦、隆信は戦死した。隆信の戦死で、龍造寺軍は敗走したが、大村勢は島津軍の危害も受けず、全員が武具、馬などとともに解放された。そして、純忠は隆信の死によってかろうじて大名の地位お回復し、三城に復帰した。

 1585(天正13)年、秀吉の九州征伐が始まった。純忠は秀吉に従い、所領を安堵された。純忠の死後、子嘉前(喜前)が家督を継ぎ、二万七千石が安堵され、近世大名として続いた。

 1587(天正15).5.18日、扁桃腺炎悪化により、隠居先の坂口館で祈りのうちに死去(享年55歳)。豊臣秀吉による第1回の禁教令・バテレン追放令発布の2か月前のことであった。没後、耶蘇会は聖堂内に葬り、のち改葬している。
 
純忠の死の2ヶ月後、豊臣秀吉によりバテレン追放令が出される。南蛮貿易の流れで教会領となっていた長崎を秀吉が没収した。17年間最大の収入源の長崎が大村氏の手から離れていくことになった。

 純忠が亡くなって、 長男・喜前(よしあき)が第19代藩主として大村藩を引き継いだ。この年の5月、九州の雄藩島津義久が豊臣秀吉に降伏し、これ以来九州は秀吉の支配下に入った。秀吉は、突如として「バテレン追放令」を発し、 全ての宣教師たちに20日以内に日本から立ち退くよう要求し、同時に、当時イエズス会領となっていた長崎6町、茂木などを接収し、更に大村領内の教会を破壊したり、長崎のキリスト教徒には多額の罰金を課した。キリシタンの排斥が始まった。

 1606(慶長11).1月、大村藩主・大村喜前(おおむらよしあき)も藩を守っていくためにはやむを得ず、マリイナの夫・浅田(あさだ)純盛(すみもり)と共にキリスト教を棄(す)て、日蓮宗に改宗し、大村に本経寺(ほんきょうじ)を建立した。

【有馬晴信】(1567ー1612.6.5、永禄10〜慶長17.5.6日 )

 肥前有馬のキリシタン大名。肥前国有馬日之江城主有馬義貞の次男。霊名アンドレ。鎮純・鎮貴・久貴・久賢・左衛門太夫・修理太夫とも称す。

 有馬家は龍造寺家と絶え間ない抗争を続けていた。龍造寺家は龍造寺隆信の時代に徐々に失った領地を取り戻し始め、有馬家は劣勢となる。その頃の1562年、有馬義直が領内のキリスト教布教を許可している。龍造寺家の攻勢はますます強まっていた。1576(天正4).12月、劣勢の中、有馬義直が死亡した。56歳。晴信10歳。晴信は兄義純の早世に伴い有馬家の家督を相続し、日野江城に住んだ。遺領を継ぐ。肥前国日野江藩初代藩主。

 1577(天正5)年、龍造寺隆信は更に支配を広げ、隆信の支配下に服してないのは、有馬領すなわち島原半島のみとなる。1578(天正6).3月、晴信は、人質を差し出し和睦した。 

 戦国時代に有馬晴純が現われて島原半島を根拠に肥前一帯に一大勢力を広げ、さらにポルトガルとの交易で最盛期を築き上げたが、その子の有馬義貞は、龍造寺隆信の圧迫を受けて衰退する。義貞の時代から、有馬の力は衰えていたが、龍造寺隆信からの脅威が増し謀叛を起こす家臣も出た。

 1580.3月、20歳の時、巡察師ヴァリニャーノから洗礼を受け、ヴァリニャーノの食料、武器、弾薬の援助によって危機を脱した。以降、ドンプロタジョと称しキリシタン大名として名をなした(洗礼名ジョアン)。

 1580(天正8)年、有馬城下に日本初のセミナリヨ(小神学校)を設置し西洋の合理主義教育を創造する。10歳前後の少年がここでキリスト教の教義はもちろん、日本古典・ラテン語とローマ古典に声楽・合唱・楽器演奏,絵画や銅版画・時計や楽器・天文機器などを学習・習得した。千々石ミゲルは、ポルトガル船司令官ドン・ミゲル・ダ・ガマを代父として受洗後、有馬セミナリヨ入学 。前年、ローマから来た巡察師バリニャーノは日本人の高い資質に驚いている。セミナリヨやコレジョ、ノビシャドは、いずれも島原地方に開かれ、いかにこの地が日本でのキリスト教布教の拠点として重要視されていたかがわかる。永禄年間(1558〜70)には口之津港を中心に南蛮貿易が行われた。次の有馬晴信も宣教師会議を開いたり、遣欧少年使節を大村純忠,大友宗麟らと共に送ったりとキリスト教を保護した。
 
 1582年、大友義鎮(よししけ)・大村純忠とともに天正遣欧使節を派遣し、領下より千々石ミゲルを配遣した。

 1582(天正10)年、有馬軍の反撃が始まる。1583(天正11).11月、肥後で島津と龍造寺の和議が成立。1584(天正12)年、龍造寺軍2万5千名が島原半島に攻め込んで来た。この中には隆信が出陣を命じた大村純忠300名も入っていた。純忠はやむなく甥の晴信を攻撃する事になる。島津勢(家久)・有馬勢連合軍は、7千。3.24日、島原の沖田畷で、戦闘となり隆信が戦死(3.28日、薩摩の川上忠堅が介錯)で龍造寺勢は敗走する。これによって大村・有馬らの大名は龍造寺隆信の重圧から解放された。フロイスの日本史の中に、この戦闘の中で晴信、直員兄弟が鉄砲の弾に当たりながらも果敢に戦っている様子が描いてあり、支援していたことを窺うことができる。1588年、龍造寺政家が実権を鍋島直茂にゆずる。

 1584年、島津義久と通じて沖田畷の戦いで龍造寺氏を撃退し滅ぼした。龍造寺隆信が島原沖田畷で戦死した。有馬晴信が浦上をイエズス会に寄進する。豊臣秀吉九州平定で本領を安堵された。

 1587年に豊臣秀吉の禁教令が出されるまで、数万を超えるキリスト教徒を保護していたという。 1587年、豊臣秀吉によりキリシタン追放令が出されるが、イエズス会士を自領にかくまった。有馬領には全国から宣教師が集まり、キリスト教文化がさらに発展した。

 1588(天正16)年、秀吉が長崎などを直轄地とする。自領長崎の浦上をイエズス会の地行に寄進する。同年コレジヨ(大神学校)を長崎より自領の千々石へさらに有家へそして加津佐へと移設した。そこへ1590(天正18)年、天正遣欧少年使節が長崎に帰る。活字印刷機が付設され,翌年日本最初の活版印刷が行われ出版活動が始まる。

 1592(文禄元)年、松浦鎮信、有馬晴信、大村喜前、宗義智らが朝鮮に出兵する(文禄の役)。1597(慶長2)年、長崎西坂で、26聖人が殉教する

 
有馬晴信と徳川家康との関係は豊臣秀吉より更に強固なものであった。家康はバテレン追放令発布後のキリシタン取り締まりの中、1601年、晴信の懇願により有馬に教会を建てることをあえて許可している。

 当時の日本で最も贅を尽くしたと云われる「有馬の大天主堂 」をセミナリヨの敷地内に建設した。ヨーロッパ人の神父が与えた図面を基にした最新の天主堂であった。同時期には後に島原の乱の舞台となる「原城」の増強工事も行っていたが、晴信は原城建設を中止してまで天主堂建設を優先させた。

 これはフェルナン・ゲレイロ編イエズス会年報集「1599−1601年、日本諸国記」に次のように報告されている。

 「その善良な国主(有馬晴信)が行った第2のことは次のようなことである。邸宅(有馬晴信が再婚した際に造った新居郡。日野江の城下町に建てられ、晴信が1年間使用したが、イエ ズス会に引き渡した。これが有馬のセミナリヨとして転用されることになる。)が譲渡され、既に(イエズス)会の 学院(有馬のセミナリヨ)になっているとはいえ、この善良な国主の熱情と良き志はこれに留まることなく、司祭 らがそこに教会を有していないことを知るとただちに教会を建てることに決めた。その教会は日本の中では最も 風格を備え、贅を尽くしたものであり、国主の願いにより、巡察師が彼に与えた図面を基にしていたが、3つの 祭壇を持ち、そのぐるりに縁側がある長崎の教会を模していた。また、その敷地は彼の居城や邸宅に面するき わめて適切な場所であり、海側には広大な空地があった。彼の家臣や側近の多くは、今はかくも大きな教会を 建設する時ではないと考えていたが、その理由は内府様(徳川家康)が司祭の復権をいまだに許していないし、 彼がその件を知れば恐らく気分を害するからであり、かつまた国主は時を同じくして、城(南有馬町の原城)をも 増強しており、これに多数の大工を働かせているから、両者に着手することは不可能と思われたからであった。

 (中略)また、それ以外の動機 としては、既に邸宅を学院のためにイエズス会の司祭らに寄進したが、デウスへの奉仕のため、たいそう必要 でありながら彼らに欠けている教会を速やかに建てることを希望し、また内府様(徳川家康)については、自らがキリシタンであることを明かしているし、内府様には宗団に対する悪意のないことがわかってもいるから、彼 を恐れる必要がない(と見なしていた)。さらには、迫害以後、信仰を大いに公然と掲げ始めた最初の者であることを殊のほか喜んでおり、それゆえ、両者の作業を共に行うことが不可能ならば、城(原城)の要所の作業を取りやめて教会の建設を行うということにあった」。


 1601.12月、有馬の大天主堂が落成した。その後反キリシタン勢力からの告発により、徳川家康が有馬と大村のすべての教会を破壊することを命じた。このとき、有馬晴信と大村の両領主は家康に仲介人を立てて、懇願し、「領内に好むままの教会を持つことを許可する」との返答を引き出した。この時の家康の発言は次の通り。
 「内府様の布告(有馬、大村の教会を取り壊すという内容)の3,4日後、有馬(殿)と大村(殿)の擁護を引き受けたかの友人である領主たちは、内府様に執り成す好機を見出した。そしてこれらの領主たち(有馬、大村)がかくも日本の習慣に反することを敢えて行おうとし、また内府様がこの執り成しに耳を傾け、仲介者たちが彼の意見を変えさせ、命令したすべてのことを撤回させたのは、実に驚くべきことと見なされた。彼が下した決定によって(有馬)ドン・プロタジオと(大村)ドン・サンチョが感じた不快と遺憾の念を聞き知った途端に、内府様は彼らに対する憐憫の情に動かされて尋ねた。『彼らは教会取り壊しを、お前たちが言うように本当にそんなに悲しんでいるのか』と。そして、(領主たちが)『死そのもの同様に悲しんでる』と答えると、(内府様は)また尋ねた。『キリシタンとして暮らし領内に教会を持つことを予が許可したら、彼らは喜び満足するであろうか』と。彼らは答えた。『殿下が日本のどの領地を与えるのにも劣らぬほど、あるいはそれ以上である。したがって、この恩義によって彼らは殿下に対して行ったすべての奉仕がきわめてよく報いられたものと思うであろう』と。(内府様はこう言った。)『すぐに彼らに伝えるがよい。全家臣と共にその(キリシタンの)教えに従って自由に生き、領内に好むままの教会を持つことを予が許可する』と。この返事を携えて、それらの領主たちは折りよく退出すると、直ちにドン・プロタジオ(有馬)のもとに行った」(「1601年度日本年報」)。 

 1603年、徳川家康征夷大将軍となり江戸幕府を開く。御朱印船貿易では晴信に大名の中では第1号の朱印状を発行し海外交易の代理人とした。アジアに近い地の利とそれまでの海外貿易の実績を認めたものと考えられる。1604年、原之城の新城を完成した。さらに有馬晴信は嫡男「直純」を家康の側近に送り込むことに成功する。15歳で駿府城において家康の近習(きんじゅう)として身近に仕え、その後家康の曾孫の国姫と結婚することになる。結果として外様大名であったにもかかわらず有馬氏は、有馬から延岡(宮崎県)、丸岡(福井県)への移封を経て幕末まで栄えることとなる。1605(慶長10)年、松浦鎮信が朱印状を受ける。

 1608年、晴信の運命を暗転させる事件が起る。晴信がチャンパに派遣した朱印船がマカオに寄航した際、乗組員がポルトガル人と紛争を起こし、乗組員と家臣あわせて48人が殺されるという事件が起きた。晴信は激怒し、徳川家康に仇討ちの許可を求めた。1609年、マカオにおけるポルトガル側の責任者アンドレ・ベッソアがマーデレ・デ・デウス号に乗って長崎に入港した来た。晴信は、多数の軍船でポルトガル船を包囲し船長を捕えようとした。ところが船長は船員を逃がして船を爆沈した。これを「デウス号事件」と云う。

 続いて、「岡本大八事件」が起る。「デウス号事件」の後、家康の股肱・本多正純の臣、岡本大八が晴信に近づき、デウス号撃沈の功を幕府に上申し、有馬氏の旧領、肥前三郡の返還を斡旋しようと申し出て、口利き料として晴信から多額の金品を収賄した。これが発覚するや家康は激怒した。大八は火あぶり刑、晴信も賄の罪をとわれて連座し、1612年、甲斐国に配流預けとなった。配流地は初鹿野村(現大和村)で、鳥居土佐守成次の監視の下にこの初鹿野村(現大和村)に蟄居幽閉を命ぜられた。現在もこの旧跡が残されている。

 1612(慶長17).5.6日、板倉周防守重宗及び鳥居土佐守成次は、検使役となり150人を従えて幕府の命を伝えて晴信に自刃を迫った。晴信はキリスト教徒であったため、自殺を選ばず、妻たちの見守る中で老臣梶左エ門に命じ首を切り落とさせた。霊名・ドン・ヨハネ、仏霊名・晴信院殿迷誉宗転大禅定門。 1616年、松倉重政が新しい領主になる。一国一城令により,原城は廃城となる。松倉氏のキリシタン弾圧ときびしい年貢取り立てに対し,寛永十四年(1637)10月25日に農民が起ち上がり,天草四郎時貞を中心に原城跡にたてこもり,島原の乱が起こる。原城には12月3日から翌年2月28日まで約37,000人がたてこもったが,最後は約12万人の幕府軍に倒された。

【高山右近】(1552ー1615.2.5)
 代表的なキリシタン大名。霊名はユスト。高山飛騨守厨書の長男として摂津高山に生まれる。1564年、大和国沢においてロレンソより受洗をうけ「ドン・ジュウスト」の洗礼名をもつ。
 和田惟政(これまさ)に従い摂津芥川城にいた。1569(永禄12)年、和田惟政が高槻城主になったが、1571(元亀2)年、白井河原の合戦で戦死し、惟政の子の惟長が城主となった。1573(元亀4、天正元)年、和田惟政の家臣であった高山飛騨守、右近父子が摂津の荒木村重と通じて和田惟長を滅ぼし、右近が高槻城主になった。村重の家臣となる。
 右近は、1573年(21歳)から1585年 (33歳)までの12年間を摂津の国・高槻城主で過ごした。この地に教会を建て、京都南蛮寺建立にも貢献し、領民の改宗に尽力した。パーデレ(神父)の報告によると「ある時期には2万5千人の領民のうち、1万8千人がキリシタンであった(約72%)」 としている。

 村重が信長へ謀叛した時、右近は明智光秀の配下に入る。本能寺の変後の山崎の合戦で秀吉方につき、光秀と戦う先鋒として武勲を上げ、摂津高槻城主(7万石)となる。以後、秀吉の武将として従軍する。安土にあったセミナリヨを高槻に迎えた。1581(天正9)年、イタリアから有名な巡察師ヴァリニァーノを招いて復活祭を催した。
 1582.10月、明石城主となったが秀吉によって播磨明石に移封された。1583(天正11).5月、賎ケ岳の戦いで佐久間盛政の猛襲をうけ、秀長の隊へ逃げ込む。小牧の戦いにも参加。紀伊浜城攻撃にも阿波−宮城攻撃にも参加している。 

 1587年の九州の役に加わり、この時大友吉統、小西行長、黒田如水(にょすい)らを洗礼している。同年7.24日、秀吉によって追放され、明石城を没収された為小豆島に隠れた。後に肥後の小西行長を頼り、剃髪して南之坊等伯と号した。その後、前田利家の家臣となり、小田原城征伐に利家麾下として参加、その後寄食する。関ケ原の戦いで利長軍に参加。1614(慶長16)年、家康のキリスト教禁令により追放され、マニラへいく。茶人としても名声を博し、キリシタンの布教に努めた。


 「〜慶長のクリスマス 〜金沢城下で聖夜祝う キリシタンにつかの間の春」は次のように記している。
 右近の一族だけでひそやかに守られていた信仰の灯は、関ケ原の合戦以降、急速に加賀藩内に広まった。イエズス会年報によれば、1601年に171人が洗礼を受け、3年後には信者数は1500人に達した。金沢には南蛮寺(教会)が建てられ、司祭と修道士が常駐するようになり、内藤如安や宇喜多休閑ら名のあるキリシタン武将が続々と加賀藩に迎えられた。

 1603年には、右近の娘ルチアが加賀藩の重臣横山長知の長男康玄(やすはる)に嫁いでいる。ルチアはもとより、康玄もキリシタンであった。この事実は、加賀藩では、キリシタン信者の藩士がもはや珍しくなくなっていたことをうかがわせる。
 実際、藩主利長は右近を深く尊敬し、キリシタンに好意的であった。イエズス会年報には、利長が金沢へやって来た司祭を丁重にもてなし、「自分たちの家臣がかくも立派で聖なる教えを奉ずることを喜ばしく思う」と言ったとある。

 また、自分の母(芳春院)と姉妹に対し、「予は若いので洗礼はしないが、キリシタンの教えが説くこと以外に確かな救済の道はない」言って、説教を聞いて、洗礼を受けるように勧めた。芳春院は都から13里離れた大坂へ自らの意志で説教を聞きに行ったという。

 1608(慶長13)年、金沢の南蛮寺で大掛かりなクリスマスが催された。この日のために、右近は自筆の書を招待客に送り、当日夜には異国の荘厳な儀式を一目見ようと多数の見物人が押し寄せた。聖歌が夜空にこだまし、厳粛な雰囲気の聖祭が終わると、右近は心をこめて招待客をもてなした。一同には結構なごちそうが出されたという。加賀藩におけるキリシタン信仰が頂点に達したのは、このころであろう。想像をたくましくすれば、ここで治部煮など南蛮風の料理が振る舞われたかもしれない。

 関ケ原以降10年間は、キリシタンの春が続いた。天下を手中にした家康は事実上布教を黙認していた。南蛮貿易の利と銀の採掘・造船技術をポルトガルやスペイン商人から得ようとしていたからである。だが、家康はいつまでたっても秀吉のキリシタン禁制を廃止しようとはしなかった。容易に腹の内を見せぬ家康のしたたかさを、右近は不気味に感じ取っていたに違いない。

 1614年、徳川家康の命によって長崎からマニラに追放され、翌年同地で病没した。
 1619(元和5)年、当時の高槻城主松平紀伊守によって神社は復興され、更に1649(慶安2)年、永井直清が城主になり、神社の例祭も盛大に行われるようになったようである。

【小西行長】(1558ー1600.11.6)
 堺の薬種商小西屋寿徳(小西隆佐)の次男として、堺に生まれる。摂津守。対馬国国主、宗義智は行長の娘婿にあたる。キリシタン大名。霊名は、アウグスチィノ(アウグスティヌス)。

 備前岡山の商人の養子となり、宇喜多直家に仕える。使者として秀吉とも交渉をもったといわれる。後に豊臣秀吉に仕え、1584(天正12)年、秀吉から小豆島、塩飽島を与えられ、秀吉の船奉行を務め水軍を率いる。岸和田に進出した紀伊根来・雑賀の一揆を海岸から攻撃し、翌年には雑賀の太田城を水軍をもって攻撃した。1586年には小豆島、塩飽諸島、室津などを領していた。1587年の九州の役にも水軍を率いる他食料輸送、補給役で従軍した。翌年の肥後国人一揆の討伐に功をあげ、1588.7月、秀吉から肥後南半の24万石領主に任ぜられ宇土に移った。宇土城を新規に築城し、本拠とした。
 1589(天正17)年、天草はキリシタン大名・小西行長の所領となる。その頃、天草には約60人の神父がいて、教会も30近くあったという。天草全島の人口、約3万人のうち約2万3千人の信者がいたといわれる。当時、志岐には美術アカデミアのような画学舎が置かれていた。イタリア人のジョバンニ・ニコラオの指導の下、聖画や聖像の製作、賛美歌合唱用のオルガンや時計などの製作が行われていた。志岐で作られたオルガンは、竹のパイプを使って日本風にアレンジされたユニークなものだったという。

 伴天連追放令で追われた神父を自領の小豆島にかくまった。文禄の役では先鋒部隊として加藤清正、黒田長政とともに朝鮮へ進攻。釜山や漢城の攻略や、平壌の防衛に功を挙げる。その後、李舜臣ら朝鮮水軍に制海権を握られ、兵力、補給が保てず苦戦した。この折、加藤、黒田らと対立関係になったと云われている。明との講和交渉に携わる。明の使者が秀吉を日本王に封じる旨を記した書と金印を携えて来日したところ、秀吉はこれに激し、このため講和は破綻、講和交渉の主導者だった行長は秀吉の強い怒りを買い、とりなしによって一命を救われる。慶長の役で、加藤清正と共に先鋒を命じられ、再び朝鮮へ進攻する。
 秀吉の死後、1600(慶長5)年、関ヶ原の役が勃発すると、石田三成、安国寺恵瓊らと共に、関ヶ原で徳川家康に敗れ、1600.10.1日、信仰のゆえに自害を拒否し、京都の六条河原で斬首刑された。

【黒田孝高(1546.12.22ー1604.4.19)
 キリシタン大名。姫路城に生まれる。小寺職隆の子で、はじめは小寺官兵衛と称した。1579年、黒田に姓を改めた。

 織田信長の中国出兵のとき、毛利との和平のために、秀吉を助けた。

 1585年、高山右近の影響で、大阪で洗礼を受ける。

 1586年、九州の役では、秀吉の使者として西下し、宣教師を援助した。また、小早川秀包、黒田長政たちを洗礼に導いた。1600年、関ヶ原の役では、徳川にくみし、勝利を得て豊後を治めた。1601、筑前博多の新領に移った。1604年に、伏見で病死。

【蒲生氏郷】(1556ー1595.3.17)(弘治2年〜文禄4年)
 キリシタン大名。会津若松城主。飛騨守。

 近江国日野城主蒲生賢秀の子。13歳の時、織田信長の人質になる。その才を買われ織田信長の三女冬姫をめとった。1582(天正10)年の本能寺の変の際に、安土城城番であった父・賢秀と共に安土城に居た信長の妻子らを、蒲生氏の居城である日野城へ避難させ保護した。光秀の誘いに乗らず秀吉の下で軍功をたてた。

 1584(天正12)年、伊勢松島城主。1585(天正13)年、茶人仲間の高山右近らの影響で大坂においてキリスト教の洗礼を受け、「レオン」というクリスチャンネームも得る。会津城下には教会やセミナリオ(神学校)が建てられ、南蛮(なんばん)文化が取り入れられていた。重臣の中にも切支丹が多かった。ユダヤ人にしてイタリア人宣教師・ロルテスを家臣とし、ローマへ使節団を送ろうともしていたという。ロルテスは蒲生の家臣として西洋の会計や測量技術をもたらした。「光秀はロルテスの影響を受けている」という推測も為されている。1590(天正18)年、巡察視のヴリニアーノが帰国する際には、「デウスが唯一の神であると言い」人々を驚かせたという。

 1587(天正15)年、秀吉の九州征伐に従軍。1590(天正18)年、小田原、奥州の平定の功績によって、陸奥の会津を拝領し若松へ転封した。この氏郷の奥州への配置換えは伊達政宗を監視するという意味合いと、氏郷を出来るだけ畿内から遠ざけたい、という秀吉の意志とされる。この転封について、氏郷は京都から余りにも遠いことを悲嘆し「これで天下を望むべくもなくなった」と落涙したと伝えられている。

 1592(文禄元)年、文禄の役が始まると、長駆、会津から肥前国名護屋城に参陣している。名護屋城滞在中に前田利家と徳川家康の配下の者同士の衝突が発生した際、氏郷はいち早く前田方に立ち、利家の親衛隊的な立場を示した。1593(文禄2).8月、秀吉の仲介で前田利家の次男・利政と娘の婚姻が成立する。

 聚楽第で諸大名との雑談の中で、秀吉の後継者についての話題が出た時に、「徳川家康」という意見を退け「前田利家である」と言い放ち、「利家がダメなら次は自分の天下である」と豪語したとも言われる。

 1595(文禄4).2.7日、伏見の蒲生屋敷で死去(享年40歳)。氏郷の最期を看取ったのは高山右近であったという。氏郷の死について「毒殺説」もある。辞世の句は、「限りあれば 吹かねと花は 散るものを 心短き 春の山風」。

 茶事を嗜み、利休七哲の一人として数えられている(茶人大系図)。千利休が、秀吉の怒りにふれ亡くなると、その子、少庵(しょうあん)を会津領内に保護し、その後の茶道三千家への道筋をつくっている。「宗及記」等に、自ら茶会を催した記録がある。

【織田秀信】(1580ー1605.6.24)
 キリシタン武将。織田信長の嫡孫、信忠の長男。幼名、三法師。

 本能寺の変で、二条御所にて父・信忠と共にいたが、前田玄以とともに脱出し尾張清洲城に避難した。信長と信忠父子亡き後、羽柴秀吉の後見で信忠の嫡男三法師(当時1、2歳)を擁立しようとする動きが高まり、織田家の家督を相続した。1582(天正10)年、秀吉によって安土に置かれた後、岐阜に移され、秀信と称した。1584(天正12)年、近江坂本城に移った。1592(文禄元)年、岐阜城に移り、美濃13万石を領有する。織田家は覇王の家門ではなく秀吉麾下の一大名にすぎなかった。

 1595年、弟秀則とともにひそかに洗礼を受けたが、その後キリシタンとして振る舞った形跡はない。1600(慶長5)年、関ヶ原の役に先だって、石田三成からの誘いで西軍につき岐阜城に籠城するも、福島正則や池田輝政らの東軍先鋒隊によって攻撃され、降伏する。その後改易となり、高野山に追放された。1605.6.24(慶長10.5.8)日、同地で没した(享年26歳)。





(私論.私見)