イエズス会宣教士の布教史、日本渡来史

 (最新見直し2006.2.23日)

 (れんだいこのショートメッセージ)
 れんだいこは、ここで、「キリスト教の伝来」とはみなさずに「イエズス会宣教士の布教史」として見ることにする。イエズス会は他のカトリック修道会のフランシスコ会、ドミニコ 会、アウグスチノ会等とどこが違うのか。その後、フランシスコ会と争うが何が要因だったのか。ここを見なければイエズス会が見えないと思っている。

 既述したが、ザビエルの来日はキリスト教の伝来としてのみ見られているが、それは大いに誤りで、ザビエルの個人的な親日的資質に拘わらず、イエズス会活動の実態は、宣教師の個々の資質をも包摂したプレ・ネオ・シオニズム期の、キリスト教の宣教を標榜しつつ実はローマカトリックに潜入した改宗ユダヤ人マラノを主とした組織的な世界事情の諜報であり、それはいずれ西欧列強ないしはネオ・シオニストにより本格的に行われる世界植民地化運動の先駆け的橋頭堡づくりであり、その足固めの役割を果たしていたのではなかろうか。そう問う視点が欲しい。

 ウソかマコトか以下検証する。

 2006.2.3日 れんだいこ拝


【「イグナチオ・デ・ロヨラ」】(1491ー1556)
 まずは、イエズス会の中心となった「イグナチオ・デ・ロヨラ」(以下、ロヨラと記す)の履歴を見ておくことにする。

 1491年、ロヨラは、スペインの北部バスク地方にあるロヨラ城で12人兄弟の末っ子として生まれた。「イグナチオ・デ・ロヨラ」には、「ロヨラ家はその歴史は12世紀にまで遡る名門であり云々」と記されている。ロヨラは後に「若いころは平気で罪を犯した。特に、バクチ、女、決闘が好きで、生活は乱れていた」と述懐しているが、青年時代を伯父のもとで過ごし、軍人としても文人としても恥ずかしくない教育を受けた、とのことである。1521年、スペインとフランスの戦争の際に軍人として従軍し、パンプローナの戦いで足に負傷した。これにより軍人の道を閉ざされ、信仰の道へ転換することになった。

 1522年、ロヨラ城を出てバルセロナの近くにあるマンレサの洞窟でおよそ1年間こもって、祈りと断食の生活を送る。修業中に神霊体験(マンレサの洞窟でキリストを内的に見る)を経て「地上の王ではなく永遠の王イエス・キリストに仕えようと回心」する。後の1548年に「霊操(心霊修行)」を著すが、この時の霊的体験や草案をまとめたと云われている。
 修行を終えたロヨラは聖地エルサレムに巡礼し、司祭になるという志をいだいて信仰生活に入る。

(私論.私見) 「ロヨラの聖地エルサレムに巡礼」について

 「ロヨラの聖地エルサレムに巡礼」は何を意味するのだろうか。

 1524年、32歳の時、バルセロナのサラマンカ大学でラテン語の勉強をはじめた。さらに2年後にはアルカラの大学で学び、1528年、パリに向かった。パリ大学の50以上もある学院の中で聖バルバラ学院に入学する。この時、学寮の寮生としてにフランシスコ・ザビエルらと出会う。この頃学院に取り入れられつつあったヒューマニズム(人文主義)的見地よりする新学問を吸収する。若い学生に負けずに勉強して教養学部の修士を取得、さらに神学課程に進学し、1534年、43歳の時に学位を得る。

 パリでの生活の間にロヨラを中心とするザビエルら6名の信仰グループが形成された。6名の同志を年齢順に記せば次の通り。イグナチオ・デ・ロヨラ(1491ー1556年)、ディエゴ・ライネス(1502ー1565年)、(1506ー1546年)、フランシスコ・ザビエル(1506ー1552)、ニコラス・ポバディリヤ(1507ー1562年)、シモン・ロドリゲス(1510ー1579年)、アルフォンソ・サルメロン(1515ー1585年)。

 宇野正美氏は、「戦後50年、日本の死角」の10章「新たなる歴史と民族の発見」の中で次のように記している。
 「イエズス会は1534年に作られた。このイエズス会の設立メンバーであった数人の修道僧のうち、ある者たちはマラノだったのである。彼らはキリスト教スタイルではなく、キリスト教やキリストの教えと異なるものを、ある場合はユダヤ教そのものを広めていったのである。もちろんそれはユダヤ人同士の間で行われるユダヤ教ではなく、キリスト教の外見にアレンジされたユダヤ教であった。それ故に、イエズス会や当時の宣教師達がメッセージを伝えるところ、必ず貿易がくっついていったのである。日本に於いてもそうであった。だから多くの戦国大名たちは貿易取引を通じて得られる富に目がくらんで、彼らに宣教権を認めたのであった。日本各地に協会や宣教師養成学校が設けられたのも、そのためだったのである」。

 この指摘は重要であるように思われる。


【イエズス会(Societas Jesy)】

 1534.8.15日、聖母マリアの被昇天の祝日のこの日、ロヨラを含めた「7名の同志たち」が、パリのモンマルトルの丘のふもとにある小さな聖堂で次のような誓願をたてミッションとした。
 概要「私たちは、キリストの弟子としてキリストに徹底して仕え、キリストと労苦をともにして働き、キリストにならって清貧のうちに生き、隣人のために尽くします。貞操を守り、生涯を人々の霊的指導に骨身惜しまず、より大きな神の栄光のために捧げます。エルサレムに巡礼し、エルサレムに永住が許されない場合はローマに引き返してキリストの代理者であるローマ教皇に拝謁して、教皇に従順を誓います。どこにでも遣わしてください」。

 「第1の誓願、貞潔。第2の誓願、清貧。第3の誓願、エルサレムへの巡礼。第4の誓願、教皇の命ずるままに世界のどんな僻地にも旅立ち伝道」(「モンマルトルの誓い」)という4点を見て取ることができる。これが、「活動における観想」、「神のより大いなる栄光のために」と標語されており、イエズス会精神となる。

 1536年、さらに三人の同志パシャズ・ブロエ(1500ー1562年)、ジャン・コデュール(1508ー1541年)、クロード・ジェ(1504ー1552年)がこのグループに参加した。

 1537年、司祭を志願していたロヨラとその同志たちは、ベネチアの教会でビンセンテ・ニグサンティ司教によって司祭に叙階され、共同生活をしながら、新しい会について討議し合う。1539.9.3日、会の名称を「イエズス会」と名付け、会設立の要旨を作成して「会掟草案」をローマ教皇パウロ3世に提出した。

 イエズス会の「会掟草案」は、世界へ向けての福音を宣べ伝える意欲を示していた。ヨーロッパ内伝道のほかに異教地布教と学校経営という二つの目標を掲げていた。これがイエズス会の際立つ特徴であった。これが会憲であり、ミッションとなった。会士の養成への注力、厳しい内部規律をも定めていた。ここにも他の修道会とは異なる特徴を見て取ることができる。イエズス会は、布教の当初から会の組織の統一と指導を徹底させる為、上長に対して報告書を送る様に定めた。これによりその後の布教の足取りが逐一現代に伝えられる事になった。これも他の修道会と異なる特徴になるが、れんだいこの見るところ、これらはいずれもユダヤが歴史的に持つ特質であるからして、何らかの接点があることを窺わせしめられることになる。

 1540.9.27日、ローマ教皇パウロ3世は、「イエズス会設立勅書」を発し、イエズス会創設を正式に認可した。認可されるまでの経緯は不明であるが、何ほどの困難も無かったのであろうか。いずれにせよ、これにより、イエズス会は、カトリック教会に属する男子修道会として発足した。「教育・伝道・慈善活動」に精力的に取り組むことで他の修道会を凌いでいくことになる。

 イエズス会は、ジェスイット会、イエス会とも表記することがある。古く日本や中国ではイエスの漢訳が耶蘇であることから耶蘇会とも呼ばれた。略称は SJ(ラテン語:Societas Jesuの略)、シンボルマーク(紋章)はIHSまたはJHS。会のモットーは「より大いなる神の栄光のために」(ラテン語:Ad Majorem Dei Gloriam )。
翌1541.4.14日、会員の投票によってロヨラが新生イエズス会の初代総会長に選出された。

 この背景には、ルネッサンス(文芸復興)の時代を迎えたヨーロッパで、カトリックの腐敗と堕落を批判する宗教改革運動即ちプロテスタントが登場し爆発的に広まりつつあるという事情があった。16世紀、ドイツの神学校の教授マルチン・ルターが唱えた新教(プロテスタント)を契機として、宗教改革運動が北部欧州に起こっていた。

 カトリック教会は内的刷新が求められていた。南部欧州は、北部欧州の新教化の反動としてむしろ旧教(カトリック)保護運動を起こし始めた。そんな中でイエズス会が、熱心なカトリック教徒として産声を挙げ、積極的に宣教活動をしていくことになる。イエズス会は、教皇の命令に従い、キリスト教の敵と戦うことを宣言していた。

 ローマ教皇は、カトリック教会の腐敗と堕落を痛烈に批判するルターに対抗するため反撃を開始する。これを「対抗宗教改革」と云う。ローマ教皇は、イエズス会の精神と会掟を評し、「対抗宗教改革」の先兵として利用していく。イエズス会は教皇の要請によってヨーロッパ内伝道に従事し、反宗教改革のために大きな成果をあげていった。カトリック修道会の中でも特に厳格な規則を守り通すイエズス会は、堕落したカトリック教会の内部改革を推し進め、プロテスタント宗教改革に反する一大勢力して勢力を蓄えていった。この流れは、プロテスタント運動に対しカトリック教会が行った対抗改革の一環として捉えることができよう。

 ローマ教皇とイエズス会は連衡し、失われた北部欧州に代えて全世界の新天地に旧教流布の場を求めた。こうして、イエズス会宣教士が世界各地に派遣されていった。イエズス会が「法王の十字軍、世界宣教の主な担い手」として登場活躍していくことになる。

 「松岡正剛の千夜千冊のフィリップ・レクリヴァン『イエズス会』」は次のように記している。
 「このイエズス会の寡黙ではあるが徹底的な大計画は、当時の時代要請にあっていた。そのころヨーロッパ世界はポルトガル王とスペイン王によって支配されていたのだが、この二人の王がイエズス会士によるインドやアフリカへの宣教を期待したからだ。これには理由がある。そのころ世界は教会保護権による境界線によって分割されていたのだが、この境界線を決めたのは教皇アレクサンドル6世の勅書である。その勅書が、ポルトガル・スペイン両国は新たに発見した土地に対しては福音を伝えなければならないということを義務づけていた。かくてイエズス会士は一人の教皇と二人の国王の期待を背景に、それぞれのミッションを心に秘めて世界に旅立ったのである」。


【イエズス会の特徴】

 イエズス会は、ベネディクト会、フランシスコ会、ドミニコ会、アウグスチノ会といった修道会と比べてイエズス会の特徴はどこにあったのか、これが精査されねばならない。

 イエズス会は、修道会史上の新展開を画した。聖職者の階級制度を取り払い、中世以来修道士の伝統であった従来式の修道服規定や歌唱祈祷などの古い生活形式、義務的日課などを廃棄した。次に、会土に厳しい修練、勉学を要求し、正規の会士になるための長期の研鑽と試験を定めた。それ以上にイエズス会の特色は、軍務に等しい新たな服従規律を定めたことにあった。会士は教皇に対してのみならず、修道会内部の上長に対しても絶対的服従を誓わなければならなかった。

 これにつき、「松岡正剛の千夜千冊のフィリップ・レクリヴァン『イエズス会』」は次のように問うている。
 「いろいろ考えさせるところも多い。なぜイエズス会はヨーロッパの伝統である牧師や修道士の古い修行生活様式を捨て、苛酷な世界への派遣士となったのか。なぜイエズス会士は異国での自己犠牲を惧れないのか。また、その土地の王や皇帝や首長に向かえるのか。なぜイエズス会には完璧なドキュメントが残るのか。なぜイエズス会士は外国語にあれほど短期間に堪能になるのか。イエズス会の会員はフランシスコ・ザビエルの頃も現在も、そのあいだもずうっと2万人から3万人なのである。これはどうしてなのだろうか」。

 イエズス会の教義的特質はどこにあったのか、これが精査されねばならない。(肝腎のこことが確認されねばならないが、サイト検索的知識では分からない)。


【イエズス会の布教史】
 イエズス会は大航海時代の波に乗ってアジア諸国や新大陸での布教に活動した。この時代、西欧列強による世界の植民地化が始まっていた(「世界植民地化考」参照)。イエズス会の布教は会士の足跡が及ばない地方は世界に存在しなかったといってよいほど広範多岐に進出していた。アジア教団はゴアに本拠を置き、 東南アジア、中国、日本を含む広大な(インド管区)を布教地域とした。 インド・日本における布教ではザビエルが、中国における布教ではマテオ・リッチが特に著名である。他にも、コンゴ、モロッコ、ブラジルへの宣教が早期に為されており、ザビエルが客死し(1552年)、ロヨラが死んだ(1556年)あとも、エチオピア、モザンビーク、エジプト、フロリダ、ペルー、メキシコ、フィリピン、ベンガル宣教に向っている。こうして、日本が信長ー秀吉ー家康へと政権交代していた同時代に、イエズス会士は世界各地へ布教の砦を作りつつあった。

 会土の数はロヨラの死の年である1556年に約1千名に達し、1626年には1万5544名、17499年には2万2589名にのぼった。イエズス会の経営する学校は1615年で373校、1706年で769校、それらの学校に学ぶ学生の数は17世紀末で2万人にのぼった。また会士は宮廷付聴罪師や大学教授として活動することが多かった。

【イエズス会の禁止と追放

 しかし、イエズス会の発展とその教皇至上主義は反感をひきおこした。フランスでとくに激しく、ジャンセニストの攻撃、啓蒙哲学者の嘲笑、宮廷での策謀がイエズス会に向けられた。1759年、ポルトガルでイエズス会士の追放と彼らの財産の没収がなされたのを皮切りに、1765年フランスで、1767年スペイン、ナポリで同様の処置がとられた。その他の国に於いてもイエズス会の禁止と追放が断行された。反イエズス会の波に応じて、1773.7.21日、教皇クレメンス14世は「小勅書 Dominus ac Redemptor」を発し、イエズス会の解散を命じた。

 理由は、半ペラギウス主義(信仰の自由の釈義において、人間の自由意志より神の聖寵の優位性を軽視する思想)的な教説が見られたからだとされている。実際はイエズス会の活動を快く思わない、反教会的な意識の強かったヨーロッパ諸国の圧力によるものであった、とされている。真相はどうであろうか。

 これにつき、「薔薇十字団とイエズス会」は次のように記している。
 イエズス会は、こうした陰謀・謀略活動の一環として薔薇十字団の黒幕なのではないかという臆測が流れたことがある。基本的にこれはありえない。薔薇十字運動の思想は、ルターらの宗教改革の思想を強く受けていることは明白であり、そもそもこの薔薇十字章自体がルターの強い影響下にあると言われている。ルターの紋章は白薔薇と十字架を組み合わせたものである。ルターはこの紋章の象意について「シュペンクラーへの手紙」で解説しており、それを読む限りは薔薇十字思想と直接結びつけるのは無理がある。

 ルターの紋章では「信仰による喜びと慰めと平和」を象徴する「白薔薇」(世俗の喜びを象徴する赤薔薇とは異なる)の内に、心・魂を象徴する「心臓」を置き、その上に十字架を描くことによって、キリストへの信仰を象徴する。この十字架は「黒」であり、これは死を象徴し、真の信仰は痛みを伴うものだということを象徴するのだという。

 このように薔薇十字の思想とは直接関係ないが、これが少なくとも薔薇十字章のモデルないしヒントとなった可能性は大きい。形が非常に似ているからである。

 実際、初期の薔薇十字運動はプロテスタントの国で勢力が大きく、フランス等のカソリック圏内では迫害すら受けた。また、かのアタナシウス・キルヒャーが薔薇十字主義者にならなかったのも、ひとえに彼がカソリックであったからだとも言われる。しかし、彼がイエズス会修道士であったということは、何か奇妙な附合のようなものを感じる。

 ともあれ、薔薇十字運動はプロテスタントの影響下にあった。にもかかわらず、薔薇十字運動はカソリックのイエズス会と結び付けられたのである。先にも書いた通り、イエズス会は政治的な諜報活動をも行っていた。そこから、フリーメーソン等の秘密結社が、プロテスタントを混乱させるための陽動作戦なのではないか、という噂が流れた。

 ここで重要になってくるのがジャコバイト運動である。これはイギリスの名誉革命において、追放されフランスへ亡命したスチャート王朝の国王ジェームズ2世の子孫をイギリス国王に復帰させようという運動である。ジャコバイト派はフリーメーソンの会員が多く、フリーメーソンの組織を利用して資金集めすら行っていた。必然的に、これは秘教的な解釈をほどこされるようになる。メーソンにおけるヒラム・アビブ伝説テンプル騎士団のジャック・ド・モレーの復讐が、スチャート王朝の復活の象徴であるとさえ考えられた。

 さらに、スチャート家がスコットランドやアイルランドとも縁故があることから、ケルト復興運動とも結びついたのである。GDマグレガー・メイザースが、この政治運動に夢中になったのも、こうした背景があったのである。ともあれ、このジャコバイト運動には、カソリック信者が多かった。

 そこから、イエズス会がイギリスを再びカソリックの国に戻すために、ジャコバイト運動を盛り立てているという臆測が生まれた。ここから、カソリックのイエズス会、ジャコバイト運動、フリーメーソンの三者が結び付けられてしまったのである。

 さらにややこしいことにイエズス会とフリーメーソンとの間には交流があった可能性は否定できず、フリーメーソンの上位位階やイニシエーションにイエズス会からの影響が見られるとの指摘もあるのである。

 もともと、フリーメーソンと薔薇十字運動は結びついていたし、ジャコバイト運動にオカルティックな部分もあったことから、「イエズス会→ジャコバイト運動→フリーメーソン」が、「イエズス会→ジャコバイト運動→薔薇十字団」へと摩り替わってしまった。

 (ややこしい話しはまだある。イエズス会は諜報活動の一環として、薔薇十字の象徴を借用し、両者が同一であるかのように見せかけるようなこともあったらしい。)

 一方、イエズス会はイエズス会で、確かにオカルティズムの影響をも受けていた。実際、F・イエイツ等の研究者もカソリックの中で最も薔薇十字団に近いのは、このイエズス会だとさえ言う。

 というのも、イエズス会の神学の形成に関わった硬学の修道士たちが、ルネサンス期のヘルメス哲学の影響を受けていたからである。その極端な例が、カバラや錬金術に夢中になったのが、先にも挙げたアタナシウス・キルヒャーであろう。

 さらに、イエズス会は学問に対する考え方も極めて進歩的で、革新的であった。彼らは科学、技術の研究を合間をぬって行っていたし、ガリレオが木星の衛星を発見した時に、即座に望遠鏡を使ってそれを確認し、地動説に同調的な見解を示した修道士もいたくらいである。

 こうした科学、技術への進歩的な思想は薔薇十字運動のそれとも合致する。さらに、イエズス会は学問の啓蒙、教育活動にも強い関心を持ち、これも薔薇十字運動と合致する。

 とはいうものの、薔薇十字の「名声」は、多くの学者によって宗教改革支持、反カソリック、特に反イエズス会的であると指摘されてきたし、私もその通りだと思う。

 薔薇十字主義者たちは、イエズス会とハプスブルグ家の同盟関係をさして、「これこそ黙示録の予言したアンチ・キリストに他ならない」と攻撃した。両者は近親憎悪の敵同士の関係にあったと見るのが妥当である。しかし、この事実は後世の臆測の前にはたいした防波堤にはならなかった。

 また、薔薇十字系の団を組織した人々は、イエズス会を嫌いながらも、組織作りにイエズス会のそれを参考にすることも少なくなかった。

 こうしたややこしい状況がいくつも絡み、本当は犬猿の仲であり、不倶戴天の敵どうしの関係にあったはずの薔薇十字運動とイエズス会は、いつしか結び付けられてしまったのである。19世紀末にサール・ペラダンがカソリック薔薇十字聖杯神殿教団を創設した頃には、それに違和感を感じない人間も多くなっていたのである。

「イエズス会の歴史」 ウィリアム・バンガート著 上智大学中世思想研究所監修 原書房
「薔薇十字の覚醒」 フランシス・イエイツ著 山下和夫訳 工作舎
「秘密結社の事典」 有澤玲著 柏書房
「マルチン・ルター 原典による信仰と思想」 徳善義和編・訳 LITHON

 つまり、イエズス会と薔薇十字団の繋がりを指摘した上で否定し、その上で更に関係付け、フリーメーソンとの関係を臭わしている。「フリーメーソンとの関係」は思わせぶりであるが、これをネオ・シオニズム仲間とみなせば通底するのは無理も無かろう。


【イエズス会とイルミナティの関係考
 太田龍・氏の「時事寸評」の2003.9.4日付けのマルクスについて知らなければならない最低限の常識。ジューリ・リナ著『カール・マルクス − 悪のアイドル』には次のように述べられている。れんだいこ風に要約する。
 概要「イルミナティーとは、1773年、ロスチャイルド(初代)が、フランクフルトに、彼を含めて十三人の有力ユダヤ人指導者を集めて、極秘の会議を開いた。イルミナティは、そこで設立された。イルミナティの本当の創立者にして、奥の院の指導者は、ロスチャイルド(初代)である。このイルミナティの奥の院が、若きイエズス会士であったヴァイスハウプト教授を選抜して、彼を表面に立てて、1776.5.1日、秘密結社イルミナティを組織させた。

 ヴァイスハウプトが死去すると、イタリー人のマッチーニが、次のイルミナティ指導者として選抜される。モーゼス・ヘスは、マッチーニより少し下の世代になる。1847年、マルクスとエンゲルスは、義人同盟に加入した。この義人同盟は、イルミナティの地下組織の一つであった」。

 イルミナティーについて諸説述べられているが、かく把握するのが正式のようである。これによると、イルミナティー創設者のヴァイスハウプト教授は、元々はイエズス会宣教師であったことになる。他方、ヴァイスハウプト教授の反イエズス会を説く説もあり一定しない。いずれにせよ、イルミナティーとはフリーメーソンよりもより露骨にユダヤ主義とシオニズムを打ち出しているところに特徴がある。

 そのイルミナティーの創設者がイエズス会宣教師であったとする説が正しいとすれば、これは果たして偶然であろうか。むしろ、イエズス会とユダヤ機関との通底性を証していることを窺うべきではなかろうか。仮に反イエズス会であったとしても、イルミナティーの組織論がイエズス会のそれを踏襲していたことは疑いない(「イルミナティ考」参照)。

【イエズス会のその後
 イエズス会は解散を命ぜられたが、ロシアでのみは皇帝エカチェリーナ2世が教皇の解散令を無視したので、会に留まったイエズス会員たちはプロシアやロシアに逃れ、主にロシアにおいて少数の会士からなるイエズス会がそこで命脈を保ち得た。但し、1720年、ロシアは一転して全国土から会士を追放した。

 その後、フランス革命を経て、ナポレオンの失脚後、教皇ピウス7世はフランス幽閉からローマへ帰還して、1814年、イエズス会の復活を認めた。解散から40年以上経たいた。この間イエズス会は欧州諸国に於いて70回以上の禁止・追放-認可・歓迎の連続であった。

 以後、イエズス会は世界各国における宣教、教育などの諸活動によって活躍し、カトリック教会内部の最大の修道会たる隆盛を回復した。日本に於けるイエズス会は、上智大学(1911年)・六甲学園(1911年)・栄光学園(1947年)、エリザベト音楽大学(1948年)、広島学院(1956年)を経営している。

歴代総長一覧

 イエズス会の総長を確認しておく。(「イエズス会」参照)

  1. イグナチオ・デ・ロヨラ (1541年-1556年)
  2. ディエゴ・ライネス (1558年-1565年)
  3. フランシスコ・デ・ボルハ(1565年-1572年)
  4. エヴァラルド・メルクリアン(1573年-1580年)
  5. クラウディオ・アクアヴィーヴァ(1581年-1615年)
  6. ムツィオ・ヴィテレスキー(1615年-1645年)
  7. ヴィンチェンツォ・カラハ(1646年-1649年)
  8. フランチェスコ・ピッコロミニ(1649年-1651年)
  9. アレクサンドロ・ゴッディフレディ(1652年)
  10. ゴスヴィン・ニッケル(1652年-1664年)
  11. ジョバンニ・パオロ・オリバ(1664年-1681年)
  12. シャルル・ド・ノワイエル(1682年-1686年)
  13. ティルソ・ゴンサレス(1687年-1705年)
  14. ミケランジェロ・タンブリニ(1706年-1730年)
  15. フランティセク・レッツ(1730年-1750年)
  16. イグナチオ・ヴィスコンティ(1751年-1755年)
  17. ルイジ・チェントゥリネ(1755年-1757年)
  18. ロレンツォ・リッチ(1758年-1773年)
  19. タデウス・ブロゾゾススキー(1814年-1820年)
  20. ルイジ・フォルティス(1820年-1829年)
  21. ヤン・フィリップ・ロートハン(1829年-1853年)
  22. ペーター・ベックス(1853年-1887年)
  23. アントン・マリア・アンダーレディー(1887年-1892年)
  24. ルイス・マルティン(1892年-1906年)
  25. フランツ・サベル・ウェルンツ(1906年-1914年)
  26. ウラジシル・レドホスキ(1915年-1942年)
  27. ヨハネス・バプティスタ・ヤンセンス(1946年-1964年)
  28. ペドロ・アルペ(1965年-1983年)
  29. ペーター・コルベンバッハ(1983年- ) 

【著名なイエズス会員】
 著名なイエズス会会員を確認しておく。(「イエズス会」参照)

【中国布教史】
 中国では、リッチが1583年に広東に布教活動の第一歩をしるした。 教団は皇帝や中央地方の指導層と接触し、彼らの改宗を心がけた。 瞿太素、徐光啓、李之藻らの士大夫信徒は暦学・数学・地理学の科学知識を習得し、 イエズス会士とともにその普及に力を尽くした。 イエズス会は、中国の伝統的慣習を受容する布教方針をとり、 それはキリスト教の他教団との意見対立をもたらした。

 1601年、北京に宣教本部を設置し、布教根拠地を確立する。

【南米ブラジル布教史】
 「松岡正剛の千夜千冊のフィリップ・レクリヴァン『イエズス会』」参照。
 
ブラジルはカブラルによって“発見”され、ジョアン3世がスーザに代表政府をおいたときすでに、5人のイエズス会士が派遣されているのだが、かれらはまず沿岸地方を宣教し、そののちに内地に入っていった。その間、わずか3年だ。さらにノブレガがリオ付近とサンパウロに宣教団を設置したのが1554年である。まだエリザベス女王が即位したばかり、日本では川中島に謙信と信玄が対峙していたころだった。

 その後、信長が天下一統をとげたころには40名近いイエズス会士がプロテスタント派の海賊ジャック・スーリに殺害されるという宗教悲劇に見舞われている。しかし、日本で関ヶ原の戦いがおこるころにはふたたび勢いを盛り返して3つの学校を設立、これらを拠点にインディオの宣教に乗り出している。

 ヴォルテールが「世界風俗史論」に次のように記している。
 「パラグアイでのスペイン人イエズス会員による居留地建設の壮挙こそは人類の勝利であって、それこそが初期征服者の残酷を贖っているのである」。

【インディオ布教史】
 「ミッション」でイエズス会の宣教師たちのインディオ布教史の一端が開示されている。それによると次の通り。
 
1521年、コルテスがアステカ王国を滅ぼす。1533年、ピサロがインカ帝国を滅ぼす。イエズス会設立の頃、カトリック教会のアメリカ大陸への布教が始まっている。インディオにはインディオの文化があったが、全部否定された。

 1550年、ラ ・プラタ河をさかのぼった所に栄えていたアスンシオン村(現在パラグアイの首都)にグァラニー族といわれる部族が住んでいた。パウリスタと呼ばれる奴隷商人が入り込み、奴隷狩りの手が伸びてくる。スペイン人のプランテーションで酷使させられる者もいた。この頃カトリック教会の大司教座が設けられている。

 時を同じくして、ガブリエル神父らのイエズス会士が南米に上陸している。おり、イエズス会士は彼らの組織的改宗を目指し、グァラニー族の人々を集め、キリスト教の教えを説くとともに、生産活動を行い始めた。これがイエズス会の伝道村つまり「ミッション」(スペイン語では「レドゥクシオン」)である。彼らは奴隷狩りから逃れるために、保護を求めて「ミッション」に集まってきた。

 イエズス会士とインディオたちによって、村にはサン ・カルロス教会が完成した。1620年までのあいだに、このあたりには10の伝道村が作られ、約4万人のインディオたちがこうした村で生活するようになっていた。宣教師が政治・経済・宗教のいっさいを指導した。「ミッション」がもっとも大きな成功を収めたのはその経済活動で、住民たちは主食であるマンディオカのほか、タバコ・インディゴ・サトウキビといった商品作物をも栽培し、富を築いた。こうした収益は、村全体の共有の財産とされ、個人が所有することは許されなかった。まさに「地上の楽園」が築かれようとしていた。

 イエズス会のこの教化政策はやがて外部の植民者や行政当局から激しい反発を招くことになる。イエズス会とその「ミッション」は南米植民地をめぐるスペインとポルトガル両国の勢力争いに否応なしに翻弄させられていく。1750年、両国はマドリード条約を締結し、ポルトガルはラ ・プラタ地方から手を引く代わりに、ウルグァイ川以東の地をスペインから手に入れることになる。その結果、ウルグァイ川以東の地にあった「ミッション」に住むグァラニー族はすべて村を放棄してウルグァイ川の西に移住することを迫られた。現地のイエズス会士はこの決定に強く反対した。

 スペイン国王はイエズス会総長に圧力をかけ、イエズス会本部はこれに応じ、この一帯の伝道区から手を引くことを決め、アルタミラノ卿をアスンシオンに派遣し、条約の決定に従うよう指令を発した。アルタミラノ卿は、神父たちにアスンシオンへの引き上げを命ずる。

 が、グァラニー族の反抗は激しかった。イエズス会士となって赴任していたメンドーサは、インディオたちに対する教会の裏切りに義憤し、武器を取ってインディオとともに戦い、抵抗することを決意する。しかし、ガブリエルはそれを許さなかった。どんな理由があるにせよ、戦いの血を流すことは神の愛に背くことだと諭した。ガブリエルのもとを訪れたメンドーサは静かに言う。「服従の誓いを捨てます。私には従えません」。問答の後、ガブリエルは、首にかけたロザリオをはずして彼に与える。ガブリエルも理解していた。戦いは信仰に違背するが、村は守らねばならないと決意していた。

 スペイン・ポルトガル両国はついに連合軍を送り込み、力づくで「ミッション」の殲滅を図る。この「グァラニー戦争」で連合軍はグァラニー族を敗走させた。それは同時に、イエズス会の終焉の始まりでもあった。ポルトガル・スペイン両国内では、あいついでイエズス会士の追放が行われ、1768年にはパラグァイのすべての伝道村からイエズス会士が姿を消した。そして、イエズス会そのものの活動も、1773年の教皇命令によって幕を閉じる。

【イエズス会布教の特質】
 イエズス会は、土地でまったく別の宣教を工夫した。エチオピア布教の場合、宣教師ペドロ・パエスはエチオピア皇帝を改宗させている。パラグアイにおけるレドゥクシオン(原住民教化集落)の場合、宗教集落を作っている。

  1965年から1983年まで日本に滞在した総長ペドロ・アルペ神父がさかんつかっていた言葉は、「インカルチュレーション」という造語であった。これは「インカーネーション」ではなくて、文化の受肉を意味していた。


【イエズス会とポルトガル、スペインの関係】
 その後もポルトガルの商人とともにやって来た宣教師たちは、熱心にキリスト教を布教し、当時の日本人に新鮮な印象をあたえた。宣教師たちは病院や孤児院をつくって人々の心をとらえた。16世紀半ば、日本に伝えられたキリスト教は、貿易の利を求める戦国大名の保護を受けて急速に広まった。
 16世紀末には、ポルトガル人に続いて、フィリピンを拠点とするスペイン人も日本にやって来た。日本人は、ポルトガル人とスペイン人を南蛮人とよんだ。彼らは、日本に火薬、時計、ガラス製品などヨーロッパの品々や、中国の生糸・絹織物をもたらした。他方、日本は当時、世界有数の銀の産出国だったので、南蛮人たちは日本で銀を手に入れて、アジア各地との交易に用いた。これを南蛮貿易という。

 南蛮貿易の利益に着目した西日本の大名たちの中には、キリスト教を保護し、みずから入信するものもあらわれた。彼らをキリシタン大名という。最初のキリシタン大名となった九州の大村氏は、長崎を開港してイエズス会に寄進した。長崎は、貿易と布教の拠点となり、その後もヨーロッパとの窓口の役割を果たすようになった。

 キリシタン大名の保護を受けて、長崎、山口、教徒などには教会(南蛮寺)もつくられるようになり、キリスト教は西日本を中心に広がった。中学歴史教科書の一節は次のように記している。

 「宣教師は教会のほか、学校や病院、孤児院を立てた。地 球が球形であることを伝え、一夫一妻制を守りるよう説い た。これらにより、キリスト教の信者が西日本を中心に増 えた。この当時、キリスト教とその信者をキリシタンとい った」。

 スペインの勢力はアメリカ大陸を経て、16世紀半ばには太 平洋を横断してフィリピンに達し、そこを足場にしてシナを始めとする極東各地に対し、積極的な貿易と布教を行っていた。宣教師達はその後もスペイン国王にシナ征服の献策を続ける。1570年から81年まで、10年以上も日本に留まってイエズス会日本布教長を努めたフランシスコ・カブラルは、1584.6.27日付けで、スペイン国王あてに次のような通信を送っている。

 概要「シナ征服には次の6つの利 益があります。第1に、シナ人全体をキリスト教徒に改宗させる事は主への大きな奉仕であります。第2に、それによって全世界的に陛下の名誉が高揚されます。第3に、シナとの自由な貿易により王国に多額の利益がもたらされます。第4に、その関税により王室への莫大な 収入をあげることができます。第5に、シナの厖大な財宝を手に入れる事ができます。第6に、それを用いて、すべての敵をうち破り短期間で世界の帝王となることができます」。
 概要「シナ人は逸楽にふけり、臆病であるので征服は容易です。13人の日本人がマカオに渡来した時に、2〜3千人のシナ人に包囲されましたが、日本人はその囲みを破り、シナ人の船を奪って脱出した事件があります。その際に 多数のシナ人が殺されましたが、日本人は一人も殺されませんでした。私の考えでは、この政府事業を行うのに、最初は7千乃 至8千、多くても1万人の軍勢と適当な規模の艦隊で十分であろうと思います。日本に駐在しているイエズス会のパードレ(神父)達が容易に2〜3千人の日本人キリスト教徒を送ることができるでせう。彼らは打ち続く戦争に従軍しているので、陸、海の戦闘に大変勇敢な兵隊であり、月に1 エスクード半または2エスクードの給料で、ンンとしてこの征服事業に馳せ参じ、陛下にご奉公するでしょう」。

 日本に10年以上も滞在したイエズス会日本布教長が、日本人を傭兵の如くに見ていたことが判明する。このようにスペイン帝国主義と、イエズス会の布教活動とは、 車の両輪として聖俗両面での世界征服をめざしていたことも判明する。


【イエズス会とフランシスコ会の争い】
 イエズス会はその後、フランシスコ会との争い、スペインとポルトガルの争いに巻き込まれていく。





(私論.私見)