イエズス会宣教士の布教史、日本渡来史 |
(最新見直し2006.2.23日)
(れんだいこのショートメッセージ) |
れんだいこは、ここで、「キリスト教の伝来」とはみなさずに「イエズス会宣教士の布教史」として見ることにする。イエズス会は他のカトリック修道会のフランシスコ会、ドミニコ
会、アウグスチノ会等とどこが違うのか。その後、フランシスコ会と争うが何が要因だったのか。ここを見なければイエズス会が見えないと思っている。 既述したが、ザビエルの来日はキリスト教の伝来としてのみ見られているが、それは大いに誤りで、ザビエルの個人的な親日的資質に拘わらず、イエズス会活動の実態は、宣教師の個々の資質をも包摂したプレ・ネオ・シオニズム期の、キリスト教の宣教を標榜しつつ実はローマカトリックに潜入した改宗ユダヤ人マラノを主とした組織的な世界事情の諜報であり、それはいずれ西欧列強ないしはネオ・シオニストにより本格的に行われる世界植民地化運動の先駆け的橋頭堡づくりであり、その足固めの役割を果たしていたのではなかろうか。そう問う視点が欲しい。 ウソかマコトか以下検証する。 2006.2.3日 れんだいこ拝 |
【「イグナチオ・デ・ロヨラ」】(1491ー1556) | |
まずは、イエズス会の中心となった「イグナチオ・デ・ロヨラ」(以下、ロヨラと記す)の履歴を見ておくことにする。 1491年、ロヨラは、スペインの北部バスク地方にあるロヨラ城で12人兄弟の末っ子として生まれた。「イグナチオ・デ・ロヨラ」には、「ロヨラ家はその歴史は12世紀にまで遡る名門であり云々」と記されている。ロヨラは後に「若いころは平気で罪を犯した。特に、バクチ、女、決闘が好きで、生活は乱れていた」と述懐しているが、青年時代を伯父のもとで過ごし、軍人としても文人としても恥ずかしくない教育を受けた、とのことである。1521年、スペインとフランスの戦争の際に軍人として従軍し、パンプローナの戦いで足に負傷した。これにより軍人の道を閉ざされ、信仰の道へ転換することになった。 1522年、ロヨラ城を出てバルセロナの近くにあるマンレサの洞窟でおよそ1年間こもって、祈りと断食の生活を送る。修業中に神霊体験(マンレサの洞窟でキリストを内的に見る)を経て「地上の王ではなく永遠の王イエス・キリストに仕えようと回心」する。後の1548年に「霊操(心霊修行)」を著すが、この時の霊的体験や草案をまとめたと云われている。 |
|
修行を終えたロヨラは聖地エルサレムに巡礼し、司祭になるという志をいだいて信仰生活に入る。 | |
|
|
1524年、32歳の時、バルセロナのサラマンカ大学でラテン語の勉強をはじめた。さらに2年後にはアルカラの大学で学び、1528年、パリに向かった。パリ大学の50以上もある学院の中で聖バルバラ学院に入学する。この時、学寮の寮生としてにフランシスコ・ザビエルらと出会う。この頃学院に取り入れられつつあったヒューマニズム(人文主義)的見地よりする新学問を吸収する。若い学生に負けずに勉強して教養学部の修士を取得、さらに神学課程に進学し、1534年、43歳の時に学位を得る。 パリでの生活の間にロヨラを中心とするザビエルら6名の信仰グループが形成された。6名の同志を年齢順に記せば次の通り。イグナチオ・デ・ロヨラ(1491ー1556年)、ディエゴ・ライネス(1502ー1565年)、(1506ー1546年)、フランシスコ・ザビエル(1506ー1552)、ニコラス・ポバディリヤ(1507ー1562年)、シモン・ロドリゲス(1510ー1579年)、アルフォンソ・サルメロン(1515ー1585年)。 宇野正美氏は、「戦後50年、日本の死角」の10章「新たなる歴史と民族の発見」の中で次のように記している。
この指摘は重要であるように思われる。 |
【イエズス会(Societas Jesy)】 | ||
1534.8.15日、聖母マリアの被昇天の祝日のこの日、ロヨラを含めた「7名の同志たち」が、パリのモンマルトルの丘のふもとにある小さな聖堂で次のような誓願をたてミッションとした。
「第1の誓願、貞潔。第2の誓願、清貧。第3の誓願、エルサレムへの巡礼。第4の誓願、教皇の命ずるままに世界のどんな僻地にも旅立ち伝道」(「モンマルトルの誓い」)という4点を見て取ることができる。これが、「活動における観想」、「神のより大いなる栄光のために」と標語されており、イエズス会精神となる。 1536年、さらに三人の同志パシャズ・ブロエ(1500ー1562年)、ジャン・コデュール(1508ー1541年)、クロード・ジェ(1504ー1552年)がこのグループに参加した。 この背景には、ルネッサンス(文芸復興)の時代を迎えたヨーロッパで、カトリックの腐敗と堕落を批判する宗教改革運動即ちプロテスタントが登場し爆発的に広まりつつあるという事情があった。16世紀、ドイツの神学校の教授マルチン・ルターが唱えた新教(プロテスタント)を契機として、宗教改革運動が北部欧州に起こっていた。
|
【イエズス会の特徴】 | |
イエズス会は、ベネディクト会、フランシスコ会、ドミニコ会、アウグスチノ会といった修道会と比べてイエズス会の特徴はどこにあったのか、これが精査されねばならない。
イエズス会の教義的特質はどこにあったのか、これが精査されねばならない。(肝腎のこことが確認されねばならないが、サイト検索的知識では分からない)。 |
【イエズス会の布教史】 |
イエズス会は大航海時代の波に乗ってアジア諸国や新大陸での布教に活動した。この時代、西欧列強による世界の植民地化が始まっていた(「世界植民地化考」参照)。イエズス会の布教は会士の足跡が及ばない地方は世界に存在しなかったといってよいほど広範多岐に進出していた。アジア教団はゴアに本拠を置き、
東南アジア、中国、日本を含む広大な(インド管区)を布教地域とした。 インド・日本における布教ではザビエルが、中国における布教ではマテオ・リッチが特に著名である。他にも、コンゴ、モロッコ、ブラジルへの宣教が早期に為されており、ザビエルが客死し(1552年)、ロヨラが死んだ(1556年)あとも、エチオピア、モザンビーク、エジプト、フロリダ、ペルー、メキシコ、フィリピン、ベンガル宣教に向っている。こうして、日本が信長ー秀吉ー家康へと政権交代していた同時代に、イエズス会士は世界各地へ布教の砦を作りつつあった。 会土の数はロヨラの死の年である1556年に約1千名に達し、1626年には1万5544名、17499年には2万2589名にのぼった。イエズス会の経営する学校は1615年で373校、1706年で769校、それらの学校に学ぶ学生の数は17世紀末で2万人にのぼった。また会士は宮廷付聴罪師や大学教授として活動することが多かった。 |
【イエズス会の禁止と追放】 | |
しかし、イエズス会の発展とその教皇至上主義は反感をひきおこした。フランスでとくに激しく、ジャンセニストの攻撃、啓蒙哲学者の嘲笑、宮廷での策謀がイエズス会に向けられた。1759年、ポルトガルでイエズス会士の追放と彼らの財産の没収がなされたのを皮切りに、1765年フランスで、1767年スペイン、ナポリで同様の処置がとられた。その他の国に於いてもイエズス会の禁止と追放が断行された。反イエズス会の波に応じて、1773.7.21日、教皇クレメンス14世は「小勅書 Dominus ac Redemptor」を発し、イエズス会の解散を命じた。
つまり、イエズス会と薔薇十字団の繋がりを指摘した上で否定し、その上で更に関係付け、フリーメーソンとの関係を臭わしている。「フリーメーソンとの関係」は思わせぶりであるが、これをネオ・シオニズム仲間とみなせば通底するのは無理も無かろう。 |
【イエズス会とイルミナティの関係考】 | |
太田龍・氏の「時事寸評」の2003.9.4日付けの「マルクスについて知らなければならない最低限の常識。ジューリ・リナ著『カール・マルクス − 悪のアイドル』」には次のように述べられている。れんだいこ風に要約する。
イルミナティーについて諸説述べられているが、かく把握するのが正式のようである。これによると、イルミナティー創設者のヴァイスハウプト教授は、元々はイエズス会宣教師であったことになる。他方、ヴァイスハウプト教授の反イエズス会を説く説もあり一定しない。いずれにせよ、イルミナティーとはフリーメーソンよりもより露骨にユダヤ主義とシオニズムを打ち出しているところに特徴がある。 そのイルミナティーの創設者がイエズス会宣教師であったとする説が正しいとすれば、これは果たして偶然であろうか。むしろ、イエズス会とユダヤ機関との通底性を証していることを窺うべきではなかろうか。仮に反イエズス会であったとしても、イルミナティーの組織論がイエズス会のそれを踏襲していたことは疑いない(「イルミナティ考」参照)。 |
【イエズス会のその後】 |
イエズス会は解散を命ぜられたが、ロシアでのみは皇帝エカチェリーナ2世が教皇の解散令を無視したので、会に留まったイエズス会員たちはプロシアやロシアに逃れ、主にロシアにおいて少数の会士からなるイエズス会がそこで命脈を保ち得た。但し、1720年、ロシアは一転して全国土から会士を追放した。 その後、フランス革命を経て、ナポレオンの失脚後、教皇ピウス7世はフランス幽閉からローマへ帰還して、1814年、イエズス会の復活を認めた。解散から40年以上経たいた。この間イエズス会は欧州諸国に於いて70回以上の禁止・追放-認可・歓迎の連続であった。 以後、イエズス会は世界各国における宣教、教育などの諸活動によって活躍し、カトリック教会内部の最大の修道会たる隆盛を回復した。日本に於けるイエズス会は、上智大学(1911年)・六甲学園(1911年)・栄光学園(1947年)、エリザベト音楽大学(1948年)、広島学院(1956年)を経営している。 |
【歴代総長一覧】 |
イエズス会の総長を確認しておく。(「イエズス会」参照)
|
【中国布教史】 |
中国では、リッチが1583年に広東に布教活動の第一歩をしるした。 教団は皇帝や中央地方の指導層と接触し、彼らの改宗を心がけた。
瞿太素、徐光啓、李之藻らの士大夫信徒は暦学・数学・地理学の科学知識を習得し、
イエズス会士とともにその普及に力を尽くした。 イエズス会は、中国の伝統的慣習を受容する布教方針をとり、
それはキリスト教の他教団との意見対立をもたらした。 1601年、北京に宣教本部を設置し、布教根拠地を確立する。 |
【南米ブラジル布教史】 | |
「松岡正剛の千夜千冊のフィリップ・レクリヴァン『イエズス会』」参照。 ブラジルはカブラルによって“発見”され、ジョアン3世がスーザに代表政府をおいたときすでに、5人のイエズス会士が派遣されているのだが、かれらはまず沿岸地方を宣教し、そののちに内地に入っていった。その間、わずか3年だ。さらにノブレガがリオ付近とサンパウロに宣教団を設置したのが1554年である。まだエリザベス女王が即位したばかり、日本では川中島に謙信と信玄が対峙していたころだった。 その後、信長が天下一統をとげたころには40名近いイエズス会士がプロテスタント派の海賊ジャック・スーリに殺害されるという宗教悲劇に見舞われている。しかし、日本で関ヶ原の戦いがおこるころにはふたたび勢いを盛り返して3つの学校を設立、これらを拠点にインディオの宣教に乗り出している。 ヴォルテールが「世界風俗史論」に次のように記している。
|
【インディオ布教史】 |
「ミッション」でイエズス会の宣教師たちのインディオ布教史の一端が開示されている。それによると次の通り。 1521年、コルテスがアステカ王国を滅ぼす。1533年、ピサロがインカ帝国を滅ぼす。イエズス会設立の頃、カトリック教会のアメリカ大陸への布教が始まっている。インディオにはインディオの文化があったが、全部否定された。 1550年、ラ ・プラタ河をさかのぼった所に栄えていたアスンシオン村(現在パラグアイの首都)にグァラニー族といわれる部族が住んでいた。パウリスタと呼ばれる奴隷商人が入り込み、奴隷狩りの手が伸びてくる。スペイン人のプランテーションで酷使させられる者もいた。この頃カトリック教会の大司教座が設けられている。 時を同じくして、ガブリエル神父らのイエズス会士が南米に上陸している。おり、イエズス会士は彼らの組織的改宗を目指し、グァラニー族の人々を集め、キリスト教の教えを説くとともに、生産活動を行い始めた。これがイエズス会の伝道村つまり「ミッション」(スペイン語では「レドゥクシオン」)である。彼らは奴隷狩りから逃れるために、保護を求めて「ミッション」に集まってきた。 イエズス会士とインディオたちによって、村にはサン ・カルロス教会が完成した。1620年までのあいだに、このあたりには10の伝道村が作られ、約4万人のインディオたちがこうした村で生活するようになっていた。宣教師が政治・経済・宗教のいっさいを指導した。「ミッション」がもっとも大きな成功を収めたのはその経済活動で、住民たちは主食であるマンディオカのほか、タバコ・インディゴ・サトウキビといった商品作物をも栽培し、富を築いた。こうした収益は、村全体の共有の財産とされ、個人が所有することは許されなかった。まさに「地上の楽園」が築かれようとしていた。 イエズス会のこの教化政策はやがて外部の植民者や行政当局から激しい反発を招くことになる。イエズス会とその「ミッション」は南米植民地をめぐるスペインとポルトガル両国の勢力争いに否応なしに翻弄させられていく。1750年、両国はマドリード条約を締結し、ポルトガルはラ ・プラタ地方から手を引く代わりに、ウルグァイ川以東の地をスペインから手に入れることになる。その結果、ウルグァイ川以東の地にあった「ミッション」に住むグァラニー族はすべて村を放棄してウルグァイ川の西に移住することを迫られた。現地のイエズス会士はこの決定に強く反対した。 スペイン国王はイエズス会総長に圧力をかけ、イエズス会本部はこれに応じ、この一帯の伝道区から手を引くことを決め、アルタミラノ卿をアスンシオンに派遣し、条約の決定に従うよう指令を発した。アルタミラノ卿は、神父たちにアスンシオンへの引き上げを命ずる。 が、グァラニー族の反抗は激しかった。イエズス会士となって赴任していたメンドーサは、インディオたちに対する教会の裏切りに義憤し、武器を取ってインディオとともに戦い、抵抗することを決意する。しかし、ガブリエルはそれを許さなかった。どんな理由があるにせよ、戦いの血を流すことは神の愛に背くことだと諭した。ガブリエルのもとを訪れたメンドーサは静かに言う。「服従の誓いを捨てます。私には従えません」。問答の後、ガブリエルは、首にかけたロザリオをはずして彼に与える。ガブリエルも理解していた。戦いは信仰に違背するが、村は守らねばならないと決意していた。 スペイン・ポルトガル両国はついに連合軍を送り込み、力づくで「ミッション」の殲滅を図る。この「グァラニー戦争」で連合軍はグァラニー族を敗走させた。それは同時に、イエズス会の終焉の始まりでもあった。ポルトガル・スペイン両国内では、あいついでイエズス会士の追放が行われ、1768年にはパラグァイのすべての伝道村からイエズス会士が姿を消した。そして、イエズス会そのものの活動も、1773年の教皇命令によって幕を閉じる。 |
【イエズス会布教の特質】 |
イエズス会は、土地でまったく別の宣教を工夫した。エチオピア布教の場合、宣教師ペドロ・パエスはエチオピア皇帝を改宗させている。パラグアイにおけるレドゥクシオン(原住民教化集落)の場合、宗教集落を作っている。 1965年から1983年まで日本に滞在した総長ペドロ・アルペ神父がさかんつかっていた言葉は、「インカルチュレーション」という造語であった。これは「インカーネーション」ではなくて、文化の受肉を意味していた。 |
【イエズス会とポルトガル、スペインの関係】 | |||
その後もポルトガルの商人とともにやって来た宣教師たちは、熱心にキリスト教を布教し、当時の日本人に新鮮な印象をあたえた。宣教師たちは病院や孤児院をつくって人々の心をとらえた。16世紀半ば、日本に伝えられたキリスト教は、貿易の利を求める戦国大名の保護を受けて急速に広まった。 | |||
16世紀末には、ポルトガル人に続いて、フィリピンを拠点とするスペイン人も日本にやって来た。日本人は、ポルトガル人とスペイン人を南蛮人とよんだ。彼らは、日本に火薬、時計、ガラス製品などヨーロッパの品々や、中国の生糸・絹織物をもたらした。他方、日本は当時、世界有数の銀の産出国だったので、南蛮人たちは日本で銀を手に入れて、アジア各地との交易に用いた。これを南蛮貿易という。 | |||
南蛮貿易の利益に着目した西日本の大名たちの中には、キリスト教を保護し、みずから入信するものもあらわれた。彼らをキリシタン大名という。最初のキリシタン大名となった九州の大村氏は、長崎を開港してイエズス会に寄進した。長崎は、貿易と布教の拠点となり、その後もヨーロッパとの窓口の役割を果たすようになった。
スペインの勢力はアメリカ大陸を経て、16世紀半ばには太 平洋を横断してフィリピンに達し、そこを足場にしてシナを始めとする極東各地に対し、積極的な貿易と布教を行っていた。宣教師達はその後もスペイン国王にシナ征服の献策を続ける。1570年から81年まで、10年以上も日本に留まってイエズス会日本布教長を努めたフランシスコ・カブラルは、1584.6.27日付けで、スペイン国王あてに次のような通信を送っている。
日本に10年以上も滞在したイエズス会日本布教長が、日本人を傭兵の如くに見ていたことが判明する。このようにスペイン帝国主義と、イエズス会の布教活動とは、 車の両輪として聖俗両面での世界征服をめざしていたことも判明する。 |
【イエズス会とフランシスコ会の争い】 |
イエズス会はその後、フランシスコ会との争い、スペインとポルトガルの争いに巻き込まれていく。 |
(私論.私見)