1907年 明治40年 「百日のお指図」始まる。本席出直し

 更新日/2023(平成31.5.1栄和改元/栄和5)年.6.21日

 (れんだいこのショートメッセージ)
 ここで、「百日のお指図始まる。本席出直し」を確認しておく。「【明治40年】お指図1」、「【明治40年】お指図2」。

 2007.11.30日 れんだいこ拝


【「百日のお指図」始まる】
 3.13ー6.9日、「百日のお指図」始まる。

【「百日のお指図」始めのお指図】
 明治40年3月13日(陰暦正月29日)午前8時30分、平野楢蔵とお話しありし時、俄かに刻限の話し。
 一万二千足らんと聞いた。そんな事でこの道どうなるぞ。これでは(神が)働けるか働けんか(考えてみよ)。さあしっかりせい。教祖にこの道(を)譲りて貰ろたのに、難儀さそうと言うて譲りて貰うたのやない(と)、言うて居た日(が)あるのに、何と呆けて居る。さあさぁ今日はどういう話し(を)仕掛けるかも分からん。さあ(神の指図を)皆な用いるか/\。用いらねば(その結果現れて来る事について)世界へどうして詫するか/\。(道の継ぎ目を)これ知りて居るか。(今日までの)年限(を)数えてみよ/\。いつまでこんな事で通る(の)か。道は皆な継目(が)あるで/\。継目(を)知りて居るか/\。(継ぎ目のあることを)知らずに何と呆けて居る/\。皆んな(道の理の)取損いして居る/\。教祖という道(を)内から潰して居る。(この道は)世界の道(の理で)で立ってあるか/\。学問で立つと思うか。さあさぁ世界の機械は何時なりとある。何時なりと買えるで。神の機械(は今に云うて今に)あるか。あら(ありや)しょまい。神の機械は、年限の理(の)続く(理の者)が神の機械である。これ一時に聞き分けて今日に返事して来い。さあ手の空いた者席運べ/\。今の席四席連れて来い。さあさぁ決まるもの決まりて来い/\。早くこういう決まりして来たと言うて来い。

 御運び後11時頃上原佐助、飯降政甚と話し合い居る時俄かに。
 昼からもう四席出して了え/\。早う片付けにゃどうもならん。さあさぁ早く言うてやれ。

 午後8時頃、上田ナライトの普請の事情、尚増野正兵衞会計の事情話しの時に俄かに御話し。
 さあさぁ年限追うて、年限数えてみよ。四十年以来と言えば、余程古い事であろう。一度足らん事を台にするはどういうもの。残念でならん/\。残念やわい。そんな事言う場席ではあろうまい/\。聞かす場席ではあろうまい。残念聞いてくれ/\。いつも何事も聞かした事はない。物の上がりはっちゃ聞かさせん。そんな事でどうなるか/\。さあ前々話し一寸説いたる。この家明け渡そうかと言うた日がある。道理運ばす/\。何からどういう事現われるとも分からん。そんな事でどうするか。神に嘘を言うような事で、万事の取締りと言えるか。足らん事三年五年の後、年々の喰い込みと言うたが、言わにゃ言わんと言うてみよ。席一人やない。外に二人三人聞いて居た者ある。証拠人ある。この残念どうして解くか/\。さあ真柱呼んで来い。
 増野自ら、甚だ不都合なる事申し上げて誠に相済まず、と御詫び申し上げる。
 さあさぁ説いたる日変わらねども違わねども、席の場へ出て来て年々これだけ喰い込みと言うたやないか/\。よう聞き分け。そんな事でどうなるか。この南という理を知って居るか。畳んで了え/\。二十年以来になるで/\。この地所という境内という、二十年以来というは田の中楽しみ、席引き立て/\できた。神の残念神の残念、残念なわい/\。裏は藪で取り絡み、人家も取り払い、先祖代々続いた処の藪も取り払い取り除け、この一つの理というものは、これよう聞き分けにゃならん。杖柱にして一人育てゝ来て、年限経てば/\見えてあろう。そりゃ一人どころやない、皆んな心で成り立ちたのやなれど、中に一つの理というものあって、世界の道理適う処あって成り立つ。これ一つ、よく聞き分けにゃなろうまい。
 平野より、増野酒を呑んで御心配な事申し上げて相済まずと御詫び致し、将来慎みます、と申し上げ。
 神の自由現わした事分かろうまい/\。三日前より夜も横に寝られん程苦しみ、日日の食事も尋ねてみよ聞いてみよ。万人の子供楽しんで帰る者、今日か明日かと待って居る事分からんから、順序運んだもの。この順序聞き分けにゃ分からんで。さあそぁ言うた事は取り返やそうにも取り返やされん。なれど、一つの理誤りした事はどうもならん。この際これからは、どんな事も中に一人も洩れないようにして、どういう事も皆んな一つの心に成って、これからという一つ台として。皆んな困って居るはつなぎに困って居る/\。困って居るは、そのつなぎに困って居る。皆々今まで通りた理に困って居る/\。つなぎに困って居る/\。一つぼつぼつという、ぼつぼつなら何でもない事。二十年祭と言うて、ようよぅ仮式場という。それも思いの外世上に一つの理が治まり、よう/\成り立って今までない事言うて、中に日々重なりて来て、世界何よの事も同じ事、全国大層日々心が治まった。これも全く二十年祭の節である。掛かりは一つ大きい心に成れ/\と言うた日がある。どうしたらよかろうこうしたらよかろう、小さい心では、にっちもさっちもどうにもならん日に及ぶで。どうしたらよかろうこうしたらよかろう、数々の事はない。些かならん処の涙寄せてするようでは、受け取れん。三十年祭という長いように思う。もう僅かはっちゃない。これ聞かしておく。そこで楽しんで、多く何人居れど、一条の心に成ってすれば、たとい一つ理取損いあったて、何事もほんに取損いと言えば、そもそもに割れる心はあらしょうまい。さあさぁ今日の節にちょと楽しみな事匂い掛けておくによって、三十年祭には大きい小さい言わん。ほんの学び雛形なりとも一寸して貰いたい。匂い掛けておく。一寸二年三年匂い掛けたなら、どういう事に成るとも、どういう理増すとも分からん。これを一寸の節に匂うとこう。
 教長御出席になりし上の御話し。
 ウヽヽヽヽヽさあさぁ一寸一言説くで。さあさぁなあ遠からずの内やない/\。前々以て大層な物買えと言うたのやない。一本買うてくれと言うた日ある/\。そんなら快うわしが買うと言うた日ある。買うと言うたによって抑えてある。一本買うたらまだまだ買うで/\。一本や二本やない。買うと言うたら余計に買うで/\。有っても無うても、どうでも買わにゃならん。何処にもないと/\思うやろ。なれど、席が見てある。買うと言うたら売ってくれ。売ると言うてくれ。有る物買うね/\で。明らかに見えてある。席に買わせ/\。買う/\。席が買う/\。買わにゃどうもならん/\。明日日に買え/\。約束せい/\。今夜売るか/\。席の楽しみに買わすねで/\。三本や五本やないで。さあさぁこんな事言うたら、何を言うてるかと思うやろう。一本から始まり、後へ何本やら分からせん。有る物知って居る。買うたとて、何処へも持って行くのやない。買うたら早く楽しみの道を取り締まりてくれ。取り締まりくれにゃならんわい。さあさぁ売りゃ売るとなっと何となっと、答がなくばなろうまい/\。
 教長が前の刻限に買うて渡すと仰せられしと申し上げ。
 さあさぁ一本買え。席はもっと買う。三本や五本やない。楽しみに買うのや。
 押して
 さあさぁもうこれ始まりたら始まる。子供に心配さしてどうなる。国を隔てゝ戻りて来る。皆、道のため楽しんで帰りて来る。神一つの理あればこそ、戻りて来る。心配ばかりして居ては、見て居られんわい/\。皆んな嘘やあろうまい。よう聞き分け。疾うから説いてある。土持々々と言うたる。日々どんな中にも厭わず、国に一つの事情の中も厭わず、心楽しんで来る。一荷の土どういう事に成るとも、何ぼのこうのうに成るとも分からん。一つ心に成って、これをしっかり。心配すれば切りがない。心配は人に聞かしてあんまり良いものやないで。これをしっかり聞き分け。いつもの話しも同じ事。さあさぁもうよいか/\。得心したか。不服なら不服と言うてくれ。道変わりてから、何もならんで。
 (おさづけのお運びに対してのおさしづ)
 「一名暮らしと言うたる。年限を繰りてみよ。人足社と言うて貰い受けたで、と言うたは、もう何年経つか」。
 「三十年祭には大きい小さい云わん。ほんの学びひながたなりとも一寸して貰いたい」。

【上田ナライトに対するお指図】
 3.22日(陰暦2.9日)、「上田ナライト建物の屋敷どの辺というところ願い」に対するお指図(「神一条資料」)。
  「さあさあ事情一つ以て尋ねるところ、さあさあもう待ち兼ねて々十分待ち兼ねて居る。どういう事待ち兼ねて居るなら、前々事情順序心に数えてみよ。大祭という、多分多分の子供帰って来る事情楽しみ、一つ満足の理を与えたるところ、どういうところなら、一つ身上と云う。萬事のところ、喰わず飲まず二晩寝ずでも日限働かしてあるで。これを皆なの心に治めてくれ。何よのところ神の自由(じゅうよう)、日々食事喰わずに働かれるか。人間業(わざ)で出けるか。年を数えば働き出けるか。これをよう聞き分け。皆々この心あれば、どういう事も何不自由でも案じる事ありゃせん。自由知らんから皆なの心に案じが沸(わ)いて出る。

 神の自由は人間の思惑ところりと違う。何よ十分の道立ち切ってある。あちらで結ぼれこちらで結ぼれたる事は、ぼつぼつほどきに廻(まわ)りて居ること知らん知らん。何よのことどうなるこうなると思てはならん。皆な何を思て始め掛けたる。さあさあ今日一日尋ね出るところ、いついつまで萬事これをその心に治め。案じること要らん。あちらで結ぼれこちらで結ぼれたる事は、ぼつぼつほどきに廻りて居る事知らん知らん。

 これから先はこれまでの道を通ろうと思うても、神は連れて通さん。皆な印を打って組んで行くようなもの。心が違ったら、何よのことも喰い違って合わせんで。何事も出けやせんで。これを一つ心得にゃならん。そこから道理話し掛ける。どういうこと始め掛けるなら、重々話の台、さあさあ裏は鍛冶屋、表は大工、これは一つの台やで。これを聞き分けにゃ分からん。後々つなぎ切れ目あってはならん。あれも寄せこれも寄せ、つなぎは神の見込みを以て繋(つな)ぐ。どういうつなぎなら、後々替わり。つなぎなくばどうでもこうでも裏と表は立たん。どういう事なら、席の言葉出す事聞き分けるなら、神の自由聞き分け出けるやろ。いかな一つ話も聞き分けにゃならん。さあさあ表裏と云うたる。屋敷表ありて裏がある。これ一つ道理聞き分け。

 さあさあ尋ねるところ、後々つなぎ。地所何處へ持っていく所ない。南(女)より持って行く所ない。押して願どう云うところなら、空いた所席順序の事情些(いささ)かと言う。広い狭いはない。一寸した所いつまでも広かったら何もならせん。これ聞き分け」。

 4.5日、お指図。「「おじばの普請について」。
 「さあさあどうでもこうでも何にも大きな立派な事すること要らん。今の式場に一寸大きもので良い云々」。

 4.8日(陰暦2.26日)、お指図。「未だ御身上すっきり致しませんが、何か運ぶべき事ありますかと申し上げ」。
 「手遅れ/\。だめの諭と言うたる道は、先になりても立つ。内々や。何時どういう事できるとも分からん。人間というは死すると言う。生まれ更わり。何年居たとて同じ事/\。もうこれ暫くのところ、どういう事も幾年間なる。何年したらどうなる。皆な力を付けてある/\。皆々よく差し入ってくれ/\。そうして内々のところや、こうして三軒棟を並べてある。一軒の方々建ってない々、建てんとすれば楽しみがない。これも第一ながらえての道、よほど大望な事である、治まりないと云えば、あるときもなきも同じこと、さあさあさぁ」。

 「三軒あって一軒建っていないというところ、この辺如何の事でありますか」とお伺いすると、
 「西に余分々、余分は一人ありわい。一人こちらへ。それが気に合わんとすれば今限りやで。ウヽヽヽヽ。もう立て合いの日の立て合い/\、日の立て合いは正月二十六日、二月二十六日、これ日の立て合いや。さあさぁ何かの事も自由と言うてある。自由」。

 5.8日、お指図。
 「明日はこれ月次祭と云う。そこい皆戻り来たる。明日は々どうでもこうでも、明日からどうでもこうでも仮家普請急ぐ/\。東西何ぼう、南北何ぼう計り掛け計り掛け。急ぐで急ぐで。何でも彼でも、さあさあさあ、何間何尺しっかり計り取れ、計り取れ云々」。

 5.31日(陰暦4.20日)午前6時、お指図。「本席御身上激しく苦痛につき、教長初め本部員一同出席の上刻限の御諭し」。

 「さあさあ普請というは仮家。仮家によって仮家の積もりで掛かってくれ。十分と思えばできんではない。仮家の積もりで掛かってくれ。ちょと一言説いたる。かんろだいの場という、今は学びしている。地から上へ抜けてあるもの。建家の中へ学びさしたる。かんろだいは雨受けのもの。この話しは聞いている者もあれば、一寸も聞かん者もいる。ちょと筆の中へ込んでおかにゃならん。そうやさかいに仮家普請/\と云う」。

 「午前1時より本席身上御障り少々相増しゝ処、今朝8時頃より激しく相成り、9時に至り苦痛激甚に付き、教長初め一同出席の上刻限の御諭し」。

 「ウヽヽヽヽ、さあさぁ一寸一言言うておかんならん事がある/\。さあさぁまあ段々仮家普請おっとり大半何間何尺、大半の決まりある。皆なの者段々運ぶから一つの理も治まって来る。あれだけのものどうでもせんならんと言う。その精神は十分。今一時のところ建家、あれより大きせよと言うてもせにゃならんが大きいは要らん。何間何尺纏(まと)まったる上から二分通り皆縮めてくれ。定めの図面引いてこれで一つ治まれば何よの事も治まる」。

 恐れ入りますが申し上げます。 初め教堂24間に30間の図面引かして頂きましたが、それより縮めて26間に20間と致しましたが、その縮めた図より二分通り縮めますか伺い。

 「さあさぁ皆な何間何尺図面引いて纏まったと言う。それから二分通り縮めておけ。何処から見てもようできたなあと、それで十分形付いたる」。

 教祖殿の方も縮めますのでありますかと伺い。

 「さあさぁ何処から何処までも、二分通り縮めてくれ」。

 神様御引き後、今御諭しありし事本席へ申し上げるや否や御諭し。

 「大き建物望むのやない。そりゃその筈や。大き建物肝心の所に大きものあるか。大きものありゃしょうまい。これから思やんしてみよ。肝心の所皆知って居るやろう。よう考えてみよ。 これで分かってあるやろう。小さいものと思うやない」。

 かんろだいの方は四方正面という事聞かして頂き居りますが、北の上段の間は人間で分かりませぬから、どういう事になりますや。

 「もう仮家建てという台を出したる。一つ芯は動かす事できん。後という、こうして後の処決まった建家、又将来の図面引く事も出来ん。又話もできん。一つ建て方違うによってこれ未だ/\行かん。ちょとには行かん。それは一つ理に背くによって取らん方がよい。今改めただけどうでもやらにゃならん。どうでもできる。何も心配は要らん。心配は一つも要らん」。

【本席、身上に陥る】
 1907(明治40)年、春頃から本席は身上になられた。6.5日からお障りが激しく、「お指図」によって真柱・中山教長を呼ばれ、色々と今後の事情に対して問答為された。

【本席、上田ナライトにお授けを渡す】

 6.6日(陰暦4.26日)、初代真柱が、ご本席様に向かって、「寿命縮めましても 宜しう御座りますから、一先ず御踏み留め下されませと御願い」と仰せになり、それに対して、ご本席様は教長と飯降政甚との御手を御握り、「皆々よいへ」、「さづけ一点の順序やで。手伝いやでへ 。最初は不細工やでへ 。日々代わりさせるのやで。当分は不細工なものや。だんへ十分に成る」と仰せになられた。

 初代真柱が再度「ナライトに勤めさせるのでありますや」とお聞きなされると、本席は頷かれ、「今日から十分のさづけを渡す。詳しい事要らん。あしきはらいのさづけや。今日からは十分授ける。後は前の型通りや」。初代真柱が「只今より運ばせるのでありますか」とお尋ねされると、「夜が初まりへ 。晩でよい。今日はこれにて。踏ん張って来たのうへ 。えらかったのうへ 。一同大きに御苦労」、「肩の荷が降りた。よかったへ(安心や、満足や) 」、「これで一日の役が済んだなあへ 」と仰せられ、それからはナライト(45歳)がおさづけのお運びを始められことになった。この3日後に本席出直しとなる。


【本席、最後のお指図】

 6.9日(陰暦4.29日)午前9時、各分支教会長の「本席様の身上もご普請の上からのお障りであり、教会長一同草鞋の紐を解かず、一身を粉にしても働かさせて頂きます」との心定めをお聞きなられて、

 「もう十分の満足をして居る。席は満足をして居る居る。又今一時席の身上の処差し迫り、どうであろうこうであろうと、困難の中で皆心を合わせ、もう一度十年何でもというはなかなかの精神。その精神というは、神の自由受け取りたる精神。何も皆、身上は成っても成らいでも案じてくれる事要らん。篤と心を鎮め。皆々心勇んでくれくれ」。

【本席、出直し】

 1907(明治40).6.9日(陰暦4.29日)、ナライトに「おさづけ」を運んだ三日後、出直す(亨年75歳)。この日、奇跡的に小康状態となり、昼食をゆっくりと食べ終えた。守り役として増井りんがいた。伊蔵の娘のよしゑとまさゑも側に控えていた。伊蔵は、「おおきに御苦労さん」と云うと、両手を両脇に垂れたまま、ゆっくりとお辞儀するかのように静かに俯(うつむ)き、そのまま動かなくなった。異変に気付いた増井りんが、「御本席様、御本席様」と何度も呼びかけたが応えがなかった。慌ててよしゑが声をかけて揺すったが反応はない。直ちに関係者が呼ばれ、息子の政甚夫婦、更には真柱らも駆け付けた。

 6.15日、葬儀。会葬者2万人。

 増野鼓雪は、「天啓の再来」と題して、この時の教内の動きを次のように伝えている。

 「御本席の逝去は、かって本教に大なる狼狽と驚異を与えた。なぜなら本教幾百万の信徒は、教祖より連綿と続いたる天啓を中心として群集し、信仰しきたったものが、御本席の出直しによって、信仰の光明たる天啓が忽然として消え去ったからである。当時本教の状態は、不安の壁に閉ざされて、今後いかになり行くやと、何人も心深く危んだのである」。

 平野楢蔵とお話有りし時、俄かに刻限の話。
 「さあさあ今日はどういう話仕掛けるかも分からん。さあ皆な用いるか用いるか。もち用いらねば世界へどうして託するか託するか。これ知りて居るか。年限数えて見よ/\。いつまでこんな事で通るか。道は、皆な継ぎ目あるであるで。継ぎ目知りて居るか/\。知らずに何と呆けて居るか/\。皆な取り損ないして居る/\。教祖という道内から潰して居る。世界の道で立ってあるかあるか。学問で立つと思うか。さあさあ世界の機械は何時なりとある。何時なりと買えるで。神の機械あるか。あらしょまい。神の機械は、年限の理続くが神の機械である。これ一時に聞き分けて今日に返事して来い云/\」。

【ナライト宅が完成し移り住む】
 本席出直し後ほどなく、ナライト宅が完成し、ナラトメ、楢太郎と共に移り住み、そこから、黒の紋付に黒の丸帯をしめて、本部へ出掛け、お運びをつとめられることになった。

【真柱と松村が上京、独立請願に付き折衝】
 6.21日、真柱と松村が上京、独立請願に付き折衝。

【応法派イデオローグの流れ】
 山沢良治郎→山沢為造→中山為信→中山正信→山沢秀信。

【増野鼓雪の意見】

 明治40.6月以降、天理教本部は真柱派の支配下に入り、「完全主体的教会」となった天理教団には天啓は不要であると唱え始め、この見解が支持されて行く事になった。「啓示の一回性と完結性」という概念により新たなる啓示は否定されることとなった。この教会論は教祖三十年祭をピークとした天啓待望論の挫折が影響していると考えられる。

 「半主体的教会」から「完全主体的教会」へと変化した節目こそ教祖三十年祭であり、この三十年祭前後の教団の姿を思案してみる事はたいへん興味のあることである。 この頃、増野鼓雪が、本部の動きとは別に独自の見識を深め、次々と所説を発表している。(「増野鼓雪考」)


 11月、「天理教会組合規定」が作成され、各道府県に組合事務所が設置された。


【井出クニが「朝日神社」を立教】
 この年、井出クニが造反し、「播州の親様、二代教祖」を名乗り「朝日神社」を立教する。

 (道人の教勢、動勢)
 3.29日、寺田半兵衛が出直し(亨年71歳)。天保8年(1837)1月10日、摂津国平野町‐(現・大阪市中央区平野町)生まれ。生家・堺屋より京都山科で目薬を商う寺田家の娘まつの婿養子となる。大坂でメリヤス業を興す。明治16年(1883)、長女たき(産後の患い)が、続いて長男・城之助(労咳)が泉田籐吉を訪ねる。その後二男卯之助が5才で急死。親子で信心を固め、そののち初参拝。長男・城之助の妻は上田ナラトメ(ナライトの妹)。本席より神水のさづけ(明治21年7月)。綱島分教会初代会長。
 5.16日、飯田岩治郎が出直し(亨年50歳)。
 6.9日、飯降伊蔵が出直し(亨年75歳)。天保4年(1833)12月28日、大和国山辺郡向渕村(現・奈良県宇陀郡室生村向渕)生まれ。安政1年(1854)、大工を目指し櫟本村(現・天理市櫟本町)へ出る。元治1年(1864)妻おさとの産後の患いから入信。明治15年(1882、)お屋敷に伏せ込む。明治20年(1887)3月25日、本席となる。扇・御幣のさづけ。
 6.17日、平野楢蔵(ならぞう)が出直し(亨年63歳)。弘化3年(1846)9月3日、河内国高安郡恩智村(現・大阪府八尾市恩智)生まれ。生家・森家より平野家(郡山洞泉寺町‐現・大和郡山市洞泉寺)の娘とらの婿養子となる。明治17年(1884)、幻覚(精神障害)に悩まされ、翌年姉婿・森清治郎よりにをいをかけられる。明治19年(1886)、発作を起こし人事不省となるがお願いづとめでよみがえり、初参拝。明治20年のおつとめで地方をつとめる。郡山分教会(現大教会)初代会長。

 (当時の国内社会事情)

  1907年、新刑法(旧刑法1882廃止)公布される。皇族・伊勢神宮に対する不敬罪規定(第73ー76条)。

 (田中正造履歴)
  1907(明治40)年、67歳の時、谷中村残留民家強制破壊。谷中村復活運動に活躍。

  (宗教界の動き)
 神社祭式行事作法。鈴木大拙『大乗仏教概論』英文。日本メソディスト教会成立。

 (当時の対外事情)
 

 (当時の海外事情)
 





(私論.私見)