1907年 | 明治40年 | 「百日のお指図」始まる。本席出直し |
更新日/2023(平成31.5.1栄和改元/栄和5)年.6.21日
(れんだいこのショートメッセージ) |
ここで、「百日のお指図始まる。本席出直し」を確認しておく。「【明治40年】お指図1」、「【明治40年】お指図2」。 2007.11.30日 れんだいこ拝 |
【「百日のお指図」始まる】 |
3.13ー6.9日、「百日のお指図」始まる。 |
【「百日のお指図」始めのお指図】 | ||
明治40年3月13日(陰暦正月29日)午前8時30分、平野楢蔵とお話しありし時、俄かに刻限の話し。
御運び後11時頃上原佐助、飯降政甚と話し合い居る時俄かに。
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午後8時頃、上田ナライトの普請の事情、尚増野正兵衞会計の事情話しの時に俄かに御話し。
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【上田ナライトに対するお指図】 | |
3.22日(陰暦2.9日)、「上田ナライト建物の屋敷どの辺というところ願い」に対するお指図(「神一条資料」)。
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4.5日、お指図。「「おじばの普請について」。
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4.8日(陰暦2.26日)、お指図。「未だ御身上すっきり致しませんが、何か運ぶべき事ありますかと申し上げ」。
「三軒あって一軒建っていないというところ、この辺如何の事でありますか」とお伺いすると、
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5.8日、お指図。
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5.31日(陰暦4.20日)午前6時、お指図。「本席御身上激しく苦痛につき、教長初め本部員一同出席の上刻限の御諭し」。
「午前1時より本席身上御障り少々相増しゝ処、今朝8時頃より激しく相成り、9時に至り苦痛激甚に付き、教長初め一同出席の上刻限の御諭し」。
恐れ入りますが申し上げます。 初め教堂24間に30間の図面引かして頂きましたが、それより縮めて26間に20間と致しましたが、その縮めた図より二分通り縮めますか伺い。
教祖殿の方も縮めますのでありますかと伺い。
神様御引き後、今御諭しありし事本席へ申し上げるや否や御諭し。
かんろだいの方は四方正面という事聞かして頂き居りますが、北の上段の間は人間で分かりませぬから、どういう事になりますや。
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【本席、身上に陥る】 |
1907(明治40)年、春頃から本席は身上になられた。6.5日からお障りが激しく、「お指図」によって真柱・中山教長を呼ばれ、色々と今後の事情に対して問答為された。 |
【本席、上田ナライトにお授けを渡す】 |
6.6日(陰暦4.26日)、初代真柱が、ご本席様に向かって、「寿命縮めましても 宜しう御座りますから、一先ず御踏み留め下されませと御願い」と仰せになり、それに対して、ご本席様は教長と飯降政甚との御手を御握り、「皆々よいへ」、「さづけ一点の順序やで。手伝いやでへ
。最初は不細工やでへ 。日々代わりさせるのやで。当分は不細工なものや。だんへ十分に成る」と仰せになられた。 |
【本席、最後のお指図】 | |
6.9日(陰暦4.29日)午前9時、各分支教会長の「本席様の身上もご普請の上からのお障りであり、教会長一同草鞋の紐を解かず、一身を粉にしても働かさせて頂きます」との心定めをお聞きなられて、
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【本席、出直し】 | |
1907(明治40).6.9日(陰暦4.29日)、ナライトに「おさづけ」を運んだ三日後、出直す(亨年75歳)。この日、奇跡的に小康状態となり、昼食をゆっくりと食べ終えた。守り役として増井りんがいた。伊蔵の娘のよしゑとまさゑも側に控えていた。伊蔵は、「おおきに御苦労さん」と云うと、両手を両脇に垂れたまま、ゆっくりとお辞儀するかのように静かに俯(うつむ)き、そのまま動かなくなった。異変に気付いた増井りんが、「御本席様、御本席様」と何度も呼びかけたが応えがなかった。慌ててよしゑが声をかけて揺すったが反応はない。直ちに関係者が呼ばれ、息子の政甚夫婦、更には真柱らも駆け付けた。
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平野楢蔵とお話有りし時、俄かに刻限の話。
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【ナライト宅が完成し移り住む】 |
本席出直し後ほどなく、ナライト宅が完成し、ナラトメ、楢太郎と共に移り住み、そこから、黒の紋付に黒の丸帯をしめて、本部へ出掛け、お運びをつとめられることになった。 |
【真柱と松村が上京、独立請願に付き折衝】 |
6.21日、真柱と松村が上京、独立請願に付き折衝。 |
【応法派イデオローグの流れ】 |
山沢良治郎→山沢為造→中山為信→中山正信→山沢秀信。 |
【増野鼓雪の意見】 |
明治40.6月以降、天理教本部は真柱派の支配下に入り、「完全主体的教会」となった天理教団には天啓は不要であると唱え始め、この見解が支持されて行く事になった。「啓示の一回性と完結性」という概念により新たなる啓示は否定されることとなった。この教会論は教祖三十年祭をピークとした天啓待望論の挫折が影響していると考えられる。 |
11月、「天理教会組合規定」が作成され、各道府県に組合事務所が設置された。
【井出クニが「朝日神社」を立教】 |
この年、井出クニが造反し、「播州の親様、二代教祖」を名乗り「朝日神社」を立教する。 |
(道人の教勢、動勢) |
3.29日、寺田半兵衛が出直し(亨年71歳)。天保8年(1837)1月10日、摂津国平野町‐(現・大阪市中央区平野町)生まれ。生家・堺屋より京都山科で目薬を商う寺田家の娘まつの婿養子となる。大坂でメリヤス業を興す。明治16年(1883)、長女たき(産後の患い)が、続いて長男・城之助(労咳)が泉田籐吉を訪ねる。その後二男卯之助が5才で急死。親子で信心を固め、そののち初参拝。長男・城之助の妻は上田ナラトメ(ナライトの妹)。本席より神水のさづけ(明治21年7月)。綱島分教会初代会長。 |
5.16日、飯田岩治郎が出直し(亨年50歳)。 |
6.9日、飯降伊蔵が出直し(亨年75歳)。天保4年(1833)12月28日、大和国山辺郡向渕村(現・奈良県宇陀郡室生村向渕)生まれ。安政1年(1854)、大工を目指し櫟本村(現・天理市櫟本町)へ出る。元治1年(1864)妻おさとの産後の患いから入信。明治15年(1882、)お屋敷に伏せ込む。明治20年(1887)3月25日、本席となる。扇・御幣のさづけ。 |
6.17日、平野楢蔵(ならぞう)が出直し(亨年63歳)。弘化3年(1846)9月3日、河内国高安郡恩智村(現・大阪府八尾市恩智)生まれ。生家・森家より平野家(郡山洞泉寺町‐現・大和郡山市洞泉寺)の娘とらの婿養子となる。明治17年(1884)、幻覚(精神障害)に悩まされ、翌年姉婿・森清治郎よりにをいをかけられる。明治19年(1886)、発作を起こし人事不省となるがお願いづとめでよみがえり、初参拝。明治20年のおつとめで地方をつとめる。郡山分教会(現大教会)初代会長。 |
(当時の国内社会事情) |
1907年、新刑法(旧刑法1882廃止)公布される。皇族・伊勢神宮に対する不敬罪規定(第73ー76条)。 |
(田中正造履歴) |
1907(明治40)年、67歳の時、谷中村残留民家強制破壊。谷中村復活運動に活躍。 |
(宗教界の動き) |
神社祭式行事作法。鈴木大拙『大乗仏教概論』英文。日本メソディスト教会成立。 |
(当時の対外事情) |
(当時の海外事情) |
(私論.私見)