増野鼓雪考

 更新日/2021(平成31.5.1栄和改元/栄和3)年.12.27日

 (れんだいこのショートメッセージ)
 ここで、「増野鼓雪考」をしておく。

 2007.11.30日 れんだいこ拝


【増野鼓雪の履歴】
 増野鼓雪の鼓雪は雅号で、本名を道與と云う。明治23.2.13日、父を正兵衛、母をいととして出生した。その出生に先立って、本席が、正兵衛氏に「不思議な子を授けてやると神様がおっしゃっています」と云われたと伝えられている。

 増野家は代々長州の旧萩藩の藩士。父の正兵衛は、1884(明治17)年、妻いとがソコヒを患い、失明寸前となった時、幼なじみからにをいをかけられたのがきっかけで入信。その年初参拝。1887(明治20).5.4日、本席よりお授けを受ける。1889(明治22).12.31日、お屋敷に移り住む。仮住居として、安達源四郎(照之丞)方の離れ座敷を借り、道與はここで生まれた。

 6歳頃、管長邸に起居し、天理教校、東京改正中学、天理教校、明治大学文科へと進んだ。

 明治42.9月、本部に勤め、10.9日、20歳の時、松村吉太郎本部員の息女つると結婚(大正2年、つるが出直す)。松村吉太郎は義父に当たることになる。

 大正5.1.24日、27歳の時、道友社編集主任を命じられ、同時に本部准役員に登用された。

 大正6.5月、松村吉太郎の息女(つるの妹)八重子と再婚。 なぜなら、増野鼓雪は松村吉太郎の娘つると結婚し、つるが出直し後、の八重子と再婚している。

 大正7.11.26日、29歳の時、本部役員に登用される。大正7年1月に茨木基敬父子が免職された後の同年秋に本部員に29歳の若さで登用されている。

 大正9年、天理教校長に任ぜられる。

 大正10.3.23日、敷島大教会会長に任ぜられる。

 大正14年、道友社社長に任ぜられる。

 昭和3年、出直す(享年39歳)。

 文筆と講演録が「増野鼓雪全集」(全23巻)に収められている。

【増野鼓雪思想】
 この頃、増野鼓雪が、本部の動きとは別に独自の見識を深め、次々と所説を発表している。西山輝夫著「増野鼓雪の信仰と思想」より転載しておく。

 「沈思雑言」と題して次のように述べている。

 「余は、近頃沈思黙考するのが面白くなった。原理的に沈思するともあれば、神秘的に黙考する時もある。時として、空想の混じるときもある。いずれも何らか得るものがある。その得たものは、読書して得たものより忘れない。今後も私はこれを続けようと思う」。
 「宗教に於いて、教理は行路なり。教師は案内者なり。目的は神霊認むるにあり。この場合、目的を見る目は、沈思なり。見る力は能力に存す。故にもし肉体の目が物を見る鍵ならば、沈思は神霊を見るの鍵なり」。
 「教義の尊重」と題して次のように述べている。
 「現在本教には、神そのままの教理より脱線し、人間の智恵にて作られた教理が散在しているのである。人間の手にて作られたるものは、また人間の手にて破壊さるるごとく、これらの教理も漸次消滅し、教祖及び本席を通じて語られた教理のみ、夜光の玉の如く輝かねばならないのである。この天*の教理を尊重し信頼するのが真の信仰生活であって、教理を説明し解釈するがごときは、厳密なる信仰の目よりすれば、第一義を知らぬ者である。いわんや書物や説明から頭の中で作り上げた教理など、神の恩寵に添うべきはずはない。

 教理は真実なる神の意志を素直に取り継ぐに他ならぬので、もし神意の取り次ぎを忘れ、自己の意思をその間に混じ、勝手なる教理を説けば、神は必ず心外に思し召すに相違無く、髪の働きが無くなるのは当然である。(中略)しかるにウソと高慢をもって布教せんとす。霊救のはなはだ少なきは当然のことで、これで人が救済それたら、木によって魚を得るのと同一である」。

 「理性の効用と弊昏」と題して次のように述べている。

 天理教を信じるわれわれとして深く考えておかねぱならぬことは、いかなる世界が、いかなる世界に立て替えられるかということである。換言すれぱ、立て替えられるべき現在はいかなる世の中で、立て替えられてできてくる世界はいかなる世の中であるかを、でき得る限り知っておかねぱならない。これを知らなかったら、神様の思召に従うてともに働かせて頂くという重大な使命を完うすることができないからである。

 そもそもこの世の中は昨日や今日にできたのではなく、かくなってくる原因があって、永の年月を経てできたのである。そこで、どういうわけでこの世界ができ、人間が生まれてきたかということを知りたいわけであるが、これについて教祖がお説き下さったのが泥海古記である。これによると、神様は人間を造り、人間とともに楽しもうという思召から、この世・人間を創められたのである。これが最も肝要な事柄であって、人間はこの世の中で陽気ぐらしをさしてもらうのがその暮らし方でなければならない。

 かく創造された人間は、虫のような五分のものから、今日のような姿をした五尺の人間にまで成人したのであるが、それで神様の思召が満たされたかと言うに、なかなかそうは行かない。なぜなら身体がいかに完備したからとて、生活を楽しむ心の働きがなかったならば陽気ぐらしの世界が現れてこないからである。それで神様は、五尺になった人間を精神的に完成なさる必要が起こってきた。つまり本能のみであった人間に理性が生じてきた。

 神様が人間に知恵の仕込みをされたのは六千年の間ということである。この頃には人間も神様から知恵を与えられるだけの容れものがあったに相違ない。しかしこれとて一朝一夕には行かず、一つ一つ経験して、知識の領域を拡めて行かねぱならぬのであるから、長い年限を要したのは当然である。こうした遅い歩調で進んできた心を、他人に通じる言葉として現すまでには、容易なことではなかったろうと思われる。そこで神様が、文字の仕込みは約四千年と仰せられたのは決してでたらめと見るべきものではない。ただ遺憾なのは、今日のわれわれの知識をもってしては、このことが立証されないことである。

 次に教祖は「人間の悪気が増長してきた」と仰せられている。これは事実を事実としてそのまま仰せられたので、なぜ悪気が増長したかについては何事も言われていない。しかし悪気というものは人々の心から生じてくるものであるから、人間が生まれ更わり出更わりしている間に、心に積もってぎたほこりが現れてきた、と見るのが至当であろう。ではどういうわけで心が発達してから悪気が激しくなったのであろうか。

 知恵と文字、この二つは、人間の心にとって最も便利な道具であるのみならず、これによって急速な進歩を遂げた。この意味で知恵と文字は人間にとって至宝である。しかし宝とされたり重要な道具とされているもの程、時によると大なる災害をなすもので、入間もこの宝によって災害を受けるにいたった。即ち知恵と文字の使用法を誤ったがために、人間の心を向上せしむる道具が、人間の悪気を増長せしむるにいたったのである。これは人類にとって不幸であったが、さらに大きい心をもって眺めたら、あるいは一度は通らなけれぱならない道程であったかもしれぬ。ともかく本能が知識的に働いてくるところに、人間としての悪気が生じてきたとは、歴史の上から考えても確かな事実として承認しなければならない。

 このように悪気が増長してきたので、神様はそれを鎮めるために、次には種々の教えを始められた。これも事実として認められる。

 人間の心の働きは互いに相反する二つのものから成り立っている。人間の肉体に病気になる素質も、その病気の癒ゆるべき素質もあるように、人間の心にも悪気があるとともに、半面それを嫌う心もある。だから世の中には、絶対的に悪い者もいなければ、よい者もいないのである。ただいずれが多いかによって善人とも悪人とも称せられるにすぎない。

 この道理から考えて、悪気が増長した結果、これを矯正せんがために一方には善良な意志が働いてくるのは当然で、ここに普通言うところの道徳が生じてきた。しかし道徳だけではこれを守らしむる権威がない。そこで道徳以上の大なる権威をもって人間に臨むものでなければ、悪気を押さえることができないということになって、初めて宗教が生まれてきた。

 こう言うと、宗教は人間の必要からつくり出されたように聞こえるが、これは分かり易く話しただけのことで、教祖は「悪気を鎮めるために、その時に応じ陰からの守護をした」と仰せになっている。子供でも六、七歳になると悪気が生じるものであるが、そういう場合親が道理を説いて聞かしたところで、それを了解することはできない。そこで人間以上の力を持っている化物などを持ち出して悪気を押さえようとする。これが方便である。

 これと同じく、古い時代の宗教は、この世で善良な者は死後において天国や極楽へ行き、悪気な者は地獄に行って苦しむというように説いて、悪気に流れて行くのを防いだのである。しかし現在では人間も十分に成長して「道理を聞き分けるようになった」のである。これは子供が成人して、親が利害得失を説いて聞かせたらそれを理解し、親の意志に従って働くのと同じである。
 「世の立て替えの動因」と題して次のように述べている。
 このように成人してきたから、今までのような教えを説く必要もなけれぱ、説いたところで人間が得心しなくなった。それで今度は道理を説き聞かせて、人間自ら神の意志に従って活動するような教えを、神様がお仕込みになったのが天理教である。即ち人間が自覚時代に進み、さらに進んで世の立て替えを力説する天理教が教祖によって立てられるにいたったのである。

 人間が知恵や文字を悪用したと言ったが、すべてを悪用したわけではなく、むしろ善用した方が多い。今日われわれが文明と称し文化と名付けているものは、すべてこの知恵と文字とを使用した結果であるから、この点については昔の人々に対し大いに感謝すべきである。

 しかしこうしてつくり上げられた文化が、人間の真の幸福にどれだけの効果があったかと問えぱ、あまり多くはない。なぜならその文化に浴して幸福を感じ得た者は一部少数の人であって、大多数の人間はかえって苦しむようになった。人間の最も大切な生命の保全が少しも変わっていないからである。

 これも一概に悪いとは言えないであろう。たとえて言えば、家を建て家族と住んで安心して生活していたのが、子や孫が増えてきて、その家では狭隘を感じるようになってきたとする。この場合、以前は家族を保護した家が、今度は苦の種になる。それと同じく、過去の時代においては過去の文化が、その時代の人々の生存を保護していたのであるが、次の時代即ち現時では人々を満足せしめることができなくなった。その不満が世の立て替えを要する動因となってきたのである。

 欧州戦乱(第一次世界大戦のこと)後、世界改造の声が高くなった。しかし教祖が世の立て替えを説かれたのは、今から数十年前である。教祖はその事実が現れない先に、やがて現れてくることを示されたが、教祖の仰せられた世の立て替えと世界改造は、同じ事実を指示されているものとしても、これを実現する方法が同じであるわけではない。

 では、どこに相違があるか。世界の改造と言われる近代の運動はすべて、外部に向かってせられる。一口に言うと、現在のような不公平な差別があるのは社会組織が悪いからで、この悪い組織を破壊して新しい組織を立てなければならぬという主張であり、共産主義とか無政府主義とか、種々な名目のもとに極端な説が主張されている。これらはしかし形の上のことであり、枝葉である。しかし教祖の仰せられた世の立て替えは、もっと本質的なものである。教祖はまず人間の心に立ち入り、心の改造から始められた。思うに現在のような社会状態ができたのは、畢竟人間がつくり出したのである以上、社会の欠陥は人間心理の欠陥から現れたとしなければならない。ゆえに、いかに現在の組織や制度を破壊したからとて、人間自身の心が改造されぬ間は、やはり同じ轍を踏んで行くより他に道はない。これは革命後のロシア民衆の状態を見ても分かることである。

 それで教祖は、社会組織の立て替えよりも、人間の心の立て替えを先にせられたのである。その人間の心を立て替えさす方法は二つあって、一つは心の欠陥を改めること、二つは人間に新しいことを教えることである。

 第一の方法であるが、要するところ人間の心の欠陥は必ず肉体の上に現れてくる。逆に言えぱ、肉体に疾病を持っている者は、善悪は第二として、必ず心に欠陥を持っていると言える。また疾病は人間にとって直接の苦痛であるから、これを救済して心の立て替えを行うことは、最も有効で確実な方法である。天理教が社会から医的宗教と称せられるのはこの方法によるがためであるが、これは病気によって心の欠陥を知り、その心を立て直して、神の大業である世の立て替えを実現せんがために、こうした方法によっているまでである。

 第二に人間に新しいものを教えられる方法であるが、教祖は、今まで十のものなら九つまで仕込んだが、あと一つを教えるために神が天降ったという意味のことを仰せられた。そこで仕込み残されているあと一つとは何か。大きく取れば天理教自身であるとも言えるが、それではあまりに漠然としているから、さらに考えると自由用自在ということである。思うことが思うようになれぱ、人間に嘆きや口説きはなくなる。

 この自由用自在の理が人間の心に納まったら、そこに新しい世界が展開してくるが、自由用自在の内容は天理教を深く信じ、かつ真実の心になった後でなければ分からないのでそれ以上は言わないが、とに角この自由用自在の理によって、立て替えの世が現れてくることだけはご承知頂きたい。

 「おたすけ活動が根本」と題して、次のように述べている。

 教祖は五十年の長きにわたって、世の立て替えの大業お始めになった。この立て替えに重要な思想上の事柄を指摘すると次のようになろう。

 第一は、病のもとは心からと、病の原因を明かされたこと。これは教祖の創見でないかもしれないが、教祖のように確実に実証し得た人はなかった。この真理は世の立て替えのために重大な働きをなすのみならず、多くの人はこの真理を体得することによって、疾病の苦痛から救済されているのである。

 第二には、因縁を切ること。教祖が出られるまでは、因縁というのは人力をもっていかんともなし得ない宿命とされ、因縁を知ったがために厭世的な気分になる者が多かった。しかし教祖は因縁の存在とともに、それを切る道を教えられた。因縁を切るといっても、自分の周囲に現れてくる出来事をすべてなくするというのではなく、そういう悪現象を起こす自分の心や性格を教理によって一変するのである。因縁が切れたら、それだけ過去の連鎖から脱して、立て替えられた世の中に新しく生まれ出たのと同じことになる。

 第三に、身上借物の理を教えられたこと。この教えは見方によっては私有財産制を否定しているかに思われ、非難されたこともあるが、要するに人間が欲を忘れて初めて真理を透見できることを教えられたものに他ならず、世の立て替えをするためには、この真理を明らかにして、各自の自覚を促進されたのである。

 第四に、真実の不可思議な働きを明らかにされたこと。ここで言う真実とは誠一つのことであって、人間の心が誠一つの上に定まったならば、一切の病気がたすけられるのみならず、過去の悪因縁も切断される。また神を見る境涯に入ることができる。自由用自在の理も、この真実の心から出てくる。従って真実の心になることは、世の立て替えの上に重要な役目をするものである。

 その他教祖が世の立て替えのために力説されたことは沢山にある。「女松男松の隔てない」とか、「一に百姓たすけたい」「谷底せり上げ」等、今日の世界改造を主張する人々がこと新しく問題にしていることを、教祖は遙か以前に説き明かしておられるのである。

 とはいえ、教祖の仰せられたことは何事も、その時直ちに現れることはなかった。この世立て替えの教えも、その理が事実として現れてきたのは四十年祭が提唱されてからである。ただ遺憾とするところは、世直りの旬ということを狭く解して、天理教のみに関するように、多くの人が考えていることである。そうではなく、大きい世界の立て替えがこの旬から始まると悟る方が神意に近いと思う。

 かく見てくると、世の立て替えの大業に従事するのは全くこれからである。
 「おたすけがあがらなくなったということに対しての発言」。
 「今日おたすけがあがらなくなったのは、つまり信仰が常識化したからである。教理を自分の頭でこなして、説明するようになったからである。教理を説明していては、人に話すのではなく、自分に話しているのである。そんなことで、相手の心が変わり、生活が変わり、たすかるということは起こるはずがない。これは結局、教師が本当の神をつかんでいないからである。現在の信仰者が二代目になりつつあるのだからそれも仕方ない。

 では、どうすれば神がつかめるかということであるが、これには二つの道がある。一つは偉大なる人格に接することであるが、教祖が再びそのままの姿でこの世に現れてくださるということがない以上、それは望めない。第二は、神を知る機会が与えられるということである。もし与えられないとすれば、自らの手でそれをつくり出すより他はない。大体、信仰は本来非合理なものであり、言うならば冒険である。それ故、常識では不可能であり、無茶だという自体の中に自分を投げ込み、捨て身になってその中に没入することによって、その機会をつかむということになる。その結果がどう出るかは人間には分からぬが、信仰とは、そうした中で自分を根底からつくり直すことに他ならない。

 これは主観的な面からの見方であるが、客観的な面からすると、もう少し違った見方が成立する。客観的にいうならば、不思議なたすけが少なくなるというのは時代の必然である。なぜなら、今日の天理教は、高山布教、海外布教を目指している。そこにはどうしても教理を整備する必要が出てくる。そうして教理と信仰が次第に分離するに至る。だから、今後の天理教の行方には、不思議なたすけがなくなるということは覚悟しておかねばならない。」

 「里の俗人」と題して、次のように述べている。
 「教祖は、里の仙人をつくるのが、この道であると仰せになった。里の仙人とは山の仙人に対して使用された言葉で、深山に入り難行苦行をして、その精神を練磨したと同様の結果を、里に住居しながら得るのを指されたのであるから、本教の信者にして相当年限を得た者は、仙人の如き心境に達していなければならぬはずである。

 然るに本教の実際を見るのに、そこまで精神を浄化した者も無ければ、その境地に到らんと志している者も少ない。朝に夕に想うたり考えたりすることは、俗人にも劣っているようなことがしばしばある。これでは里の仙人どころではない。山の仙人になっても、難行苦行の道は通れまい。

 教祖の御帰幽から年限が隔たれば隔たるだけ、本教が全体として発展するだけ、世俗的な思想が次第に普及し、真実の一筋道を精進する者が少なくなり、宗派内の栄達や物質的生活に憧れを持つようになる。これでは全く里の俗人と言うべきである。

 こういうと悪口のように聞こえるが、決して悪口ではない。私は正直に事実を語っているのである。今から二十年も以前に遣っていた心と、今日遣っている心とを自分で対照してみると、あまりの相違に自分も驚かされるのである。同時に周囲の人々の心遣いを考えても、私と同じ経路を通っているようである。ゆえに手を繋いで人々は、里の俗人となりつつあるのである。

 こうした道を進んだら、最後はいかなるものに突き当たるのであるか。これは誰にも分からないことであるが、しかしこの道を歩む者自らが苦しまねばならないことは、非を見るより明らかである。里の俗人、何と云う忌まわしい名であろう」。
  「無理を聞く」と題して、次のように述べている。
 「出来ん中をやってゆく、納められん、得心出来んところを得心してゆくのがお道である。ならん中を納め、納まらん中を通ってゆくのは、人間の目から見れば無理なことに違いない。けれども、無理なことを聞いて通るのがお道である。なぜなら、我々は神様に常に無理難題を聞いて貰わねばならぬからである。救からん身上も神様に無理を言うて縋れば神様は聞いて下さる。だから人間も、神様に無理を言うて貰い、それを聞いて通るのが道なのである」。

 「空さんのホームページ」の「「北の理」シリーズ、 昭和二年一月五日のお詞」の中の増野鼓雪関連を転載しておく。
 平成十四年四月十五日 東京錦心講に於いてお話
 昭和二年一月五日  刻限  寿 命 薬   
 立教165年4月15日   東京錦心講 勉強会

 【解説】

 これは、昭和二年のお詞ですので、丁度、二代真柱様が成人になって、東京大学を終わって、正式な真柱にお就きになったという時期なのです。二代真柱様は、昭和三年に東京大学を卒業した。二代真柱が十一歳の時に、初代真柱様が亡くなったから、本当は既に真柱なのですけれど、実務の方は、摂行役の山澤為蔵さんがやっていた訳です。それが、段々成人して、東大を終えられると同時に真柱様になって、それで、お地場の方針がガラリと変わったのです。教祖四十年祭の時は、大正十五年で、道が一番張り切っている時なのです。これを、指導したのが、松村吉太郎さんだとか、増野鼓雪さんなどで、増野さんなどは、若い人から神様みたいに憧れられた本部員だったのです。

 教祖三十年祭から四十年祭に掛けては、疾風怒濤の時代と言って、教勢倍加運動を打ち出し、全教的に華々しい大運動が起こった。そうして、教祖四十年祭をやって直ぐの時時ですね。昭和二年ですからね。この時に増野鼓雪が、重要なポストから外されるのです。これは、有名な話なのです。松村吉太郎さんも外されるのです。ガラッと方針が変わったのです。

 当時は、道の子弟のなかに秀才が沢山出たのです。二代真柱に年齢が近い人たちに、ね。皆有名な大学に入った。東大だとか、何だとかという大学に、本部の青年さん達がみな入ったのです。そういう学閥みたいなもので、固めたのです。それで、増野鼓雪などは、明治大学ですから、学閥の外だった訳です。でも人気はあった。そして、二代真柱を教育したのが、姉崎教授という人で、日本の一流の宗教学者だったのです。そういう背景があった訳です。その時代を、神様はどのように思し召されていたか、という事を、このお詞の前半に言っているのです。

 「天理青年必読「疾風怒濤の時代(1)」 木村牧生(西村輝夫)著」 、「天理青年必読「疾風怒濤の時代(2)」 木村牧生(西村輝夫)著」、「天理青年必読「疾風怒濤の時代(3)」 木村牧生(西村輝夫)著」、「天理青年必読「疾風怒濤の時代(終)」 木村牧生(西村輝夫)著」参照。
 大正五年一月二十四日、増野道興は本部准員を命ぜられ、同時に道友社編集主任となった。二十六才という若さであった。この頃、「教勢の推移」と題して大胆にして深刻な講演をしている。これを確認しておく。

 「明治四十一年、天理教は念願の一派独立を成すことができた。これは外面的には天理教の大発展であるには相違ないが、こうしたことが信仰の第一義であるかどうかについては、なお疑問の余地がある。しかし、これをもって、教会制度の基礎が出来上がったことは事実である。

 しかるに数年前から、信徒の心に一つの疑問が起こった。それは、現在のごとき天理教が果たして教祖の理想とせられたものであったかどうかという疑問であり、また、教祖の歩まれた道と現在の教会長、教師の道が一致しているかどうかという疑問である。それが一致していないから、〝教祖にかえれ〟ということが叫ばれ始めた。この声に対して教師は弁解に忙しかった。そこへ社会の動揺とともに、天理教外のいろいろな思想が入ってきた。この間に真の教理は忘れられ、従って不思議なおたすけも少なくなった。そこに苦しみが生じた。そしてその苦しみから何か新しいものを求め始めた。そのとき、管長公のお出直し、松村教正の投獄というふしがあり、何となく気の抜けた三十年祭になってしまった。

 ところで三十年祭後の本教はどこに向かって進んでゆくだろうかというと、おさしづにも示されてあるごとく、海外布教に向かうことになるであろうが、現在の教師のごとき弱卒では到底この大任に耐えることはできない。そこにどうしても神の手入れが始まらねばならないということになる。この神のていれは、従来の誤った信仰、思想に対するていれではあるが、一面、天理教を大きく発展せしめんがための準備である。

 こうしたていれが四、五年あって、そのどん底から再び天理教が勢い立つならば、そのときこと驚天動地の大活動が演ぜられるであろう。この間、本部の中心は動揺するであろう。そしてそれは若き真柱のご成長まで続くであろう。天理教の進路は、本部員会議で諮られることになろう。

 地方教会はこの間、経済問題で苦しむであろう。神殿は完成したから、各教会は内部を整理する必要を生じた。それまで本部中心の思想できたのが、各教会中心の思想になって整理しなければならなくなるであろう。その結果、三十年祭後三、四年にして、直属教会の全盛時代というべきものが来るであろう。それはやむを得ぬことであり、むしろ喜ばしきことである。その日の早く来たり、早く去ることを欲する。しかし教会中心の思想はやがて行き詰まる。窮してくる。しかしこれは真実に達するためには通らねばならない必然的な過程である。そこまで教会が窮していって、再び本部に新しい力が現れる。そして全天理教の思想を一新し、ぢば中心主義に立ち返り、海外布教にその勢力を集中するに至るであろう」。

 増野道興(当時26歳)氏の大正五年八月号のみちのとも寄稿文。
 「今更云うまでもなく、教祖の一生は主として内的生活の高調であった。……その当然の結果として総ての形式的なことは否定せらるるに至った。それ故に当時の信仰者は、物質的な要求を排して真実の生活に生きんと極度の努力を注いだのである。

 然るに教祖帰幽後に、天理教会が組織せらるるに至った。此の教会組織は、本教徒の内心への物質の必要を感ぜしめる種を始めて蒔いたのである。その後本教は、一面に於いては真実心の開発にしたがうと共に、その他面に於いて教会組織の完全を望むあまり、幾分形式的に流れたことは事実である。

 殊に教祖帰幽後十五、六年頃から、この形式を尊ぶ思想が非常に優勢になって、爾来日を追うて信仰と直接関係のない種々なる施設方法が天理教の名の下に講ぜられた。これがために天理教が改められたことは非常なもので、最後に独立を認可せらるるに至ったのである。而してつづいて本部建築が落成し、茲に本教の形式は残りなく完成された。……同時に今まで少なからず等閑視されていた信仰に目覚めようとする気運が、人心に領域を広めつつあった。更に之を換言すれば、教祖時代の燃ゆるような信仰を衷心から憧憬するに到ったのである。

 此の思想の転換期に、前管長様は突然死去せられた。一葉落ちててんかの秋を知るご如く、前管長の出直しは本教大勢の変化を暗示されたる神意である。

 教祖の御帰幽後、天理教会が組織せられたる如く、管長の帰幽後、熱烈な信仰の燃ゆるは、自然の経路と見るべきである。……三十年祭の捧げ物は神殿であった。然し本教の内容が神意と相反すれば、神の失望は火を見るより明らかである。かくて三十年祭の捧げ物は、五百万信徒の真実の宝より外はない。……」

 大正七年、本部員/増野道興の意見。
 「現在の青年諸君の信仰を大観しますと、次第に信仰が薄弱になってきたように思うのであります。何事も真剣になって、神様に御奉公という心持ちがなくなってきたように思われます。これでは本教将来のために大いに愁えなけれなりません。近年、信仰の衰退とともに、青年尾思想が信仰を離れて、社会的の標準によって何事もする傾向が現れてきました。これは一見甚だ良いようにでありますが、神意をもって生活の標準にする信仰生活とは、ほとんど矛盾するものであります」

  「ひのきしん」という課目が正科として取り入れられたのは、増野氏が初めて校長になって指導した第二十四期からである。これに対して多少面白くないと感じた者もいたらしい。あるとき氏はこう言った。 「お前たち、ひのきしんしたくなかったらしなくてもかまわぬが、その後お前たちがどうなるか考えてみろ」「お前たちは、土持ちしたらひのきしんで、それでいんねんが切れると思っているが、そんなら土方は毎日いんねんが切れていることになるな」。こんな調子で、生徒の常識、固定観念をかき回し、混乱に落し入れ、そこで各自に考えさせた。また考えさせる力を持っていた。教理を決して説明しなかったし結論を言わなかった。そこで生徒はいつも黙って考え込んで、休憩時間になってもたばこを吸うのを忘れる者が少なくなかった。しかしこんなことは、要するに方法にすぎない。ただともかく氏は、常識や人間思案に覆われた人間の心の茂みの中を分け入り、土足でズカズカとその中に芦を踏み入れようとしていたのである。道は真剣勝負であり、体裁も何も要らないというのがその信念であった。人間思案を破壊すれば、そこに真実に触れてくるものがある。では真実に触れたとき、人間はどうなるか。「そのとき人間は、怒るか、泣くか、笑うか、三つのうち一つだ。これ以外は皆うそだ」。実際増野氏は、人を怒らせ泣かすことの多かった人であったかもしれない。しかしそれでも恐れずに、頭ではなく心に向かって常に勝負を挑んだ。氏に向かってある人がこう言った。「先生のように、やることなすことすべて当たるのなら、相場師になったら良かったですな」そのとき氏は胸を張ってうそぶいた。「なあに、俺は人間を相手に相場を張っているのだ」と。

 しかし、こんなところに氏の教育の秘密があったわけではない。信仰の世界にそんな秘密などない。もしあるとすれば、別科第二十四期生を送り出した際、次のように述べたところにあるのかもしれない。「……心霊の開発ということのみを目的としては、大きな燃えるような信仰が生まれてこないことを実地の上から知ることができた。それで今度は、できるならば今一歩進めて、一切を神様にお任せ申して、神様によって教育していただこうと思うのである。これは、ちょっと考えると甚だ無責任のようであるが、自己というものの意義を真実に自覚した方々は、私の申すことは十分理解していただけると思う……」。この「一切を神様にお任せ申す」という信仰の中に、実は氏の面目があったと見るべきである。しかしこれには、多少の解説がいるかもしれない。例を挙げていうと、こういうことがあった。第二十五期生に対して、氏はあるときこう言った。「二十四期では、在学中に三分の一くらいが身上を頂いた。今度は二十五期だが、お前たちはこれでいくと半分は身上になるだろうな」。そして、あっけに取られている生徒に、なおもこう続けた。「しかし、お前たちは別にびくびくしなくてもいいし、勝手なことをしてもよい。俺は監督なんかしない。ほったらかす。神様が監督してくださるだけだ。しかし、もし俺が本当に誠真実になれば、お前たちは片っ端から、皆バタバタと倒れてしまうな」氏は信じていたのである。人間が真にさんげに徹し、真実の心定めをすれば、その心に必ず喜びが湧く。喜びが湧くということは、神様にその心を受け取ってもらった証拠である。神様に受け取ってもらえると次に何が起こるかというと、必ず困難が起きてくるのである。それが、神様の近づいてこられるしるしだと。困難というのは、人間にとって身上事情を意味する。すでに「一切を神様にお任せ申した」以上は、氏は生徒に何も要求しなかった。ただ責任者である自分が、真実を供えるだけであった。それは、生徒に代わってするものであったに違いない。すると神様は必ず生徒に身上のしるしを付けて仕込んでくださる。単なる人間から、神のようぼくとして生まれ替わるよう急き込んでくださる。だから自分としては、そのように神様が働いてくださるよう、真実さえ尽くしていけばそれで良いのだ。おそらくこれが底流にあった信仰信念であったに違いない。そのためには、容易ならぬ心定めがあったと想像されるのであるが、それはもはや、詮索すべきものではないであろう。信念がそこにある以上、氏の態度は極めて単純であった。何を生徒に対して話そうとしたのか。それは一つしかなかった。「誠真実になれ」ただこれだけであった。氏は、頼るべきものは心一つであるということに徹底していた。形の上の教会というものなど信じていなかった。もとより教会の数というものも、頼るべきものではなかった。もし頼るべきものがあるとするならば、名称の理の芯である教会長の心一つ、布教師、ようぼくのお心一つだけであった。その心が人間思案に覆われ、物質に追い回され、真実を喪失しているならば、それは教会でもなければ、布教師でもない。もとより神様の働きがあろうはずがない。言わんや神一条であるはずもない。その心一つを起こし、その心を真実にすること、それだけが信仰の目的であり、これが四十年祭の本当のささげ物であらねばならぬと信じていたのである。だから氏は別科生に向かっても、やたらに布教せよというようなことを口にしなかった。それは、当時の気風が布教へと向かっていたから、そうした反論的な態度になったとも思われるのであるが、本当は誠真実の心をつくることを忘れて布教してみたところで、信仰の世界においては何もできるものではないと信じていたからである。外なるものから内なるものへ。そうした方向の転換の中に、氏は「よなおり(世直り)」の意味を見いだそうとしていた。「よなおり」とは、世の中の客観的状態が立て替わるのではなく、一人ひとりの心が立て替わるということであり、この意味で「よなおり」とは、実は「天理教のよなおり」であった。「よなおり」したらそこに神一条の世界が開け、神意が悟れ、理の働きを如実に受けることができる。そして再び不思議なたすけも続出するであろう。そのために、人間として成すべきことは、ただ一つ、誠真実の心をつくることだけである。これが氏の主眼とした、いかにして神の働きを得るか、ということの内容であった。そのために破壊すべきもの、それと戦わねばならぬものとして、二つのものを見いだしていた。一つは、あまりに教会中心的、形式的に堕しつつあった当時の思潮と、もう一つはあまりに理知的、客観的に流れようとしている教理研究の態度であった。前者に対しては教会の行き詰まり、困窮を神のてびきとして、その中からぢば中心主義の神意を悟らしめ、また人間思案の枠から引っ張り出して再び混沌の中に投げ込むこと。すなわち、安定した教会生活、教会思想から、どう転ぶか分からない不安の中へ人々を投げ込むことであった。後者に対しては、教理はあくまで主観的なものであり、真実の心をつくるためのものであるということを強調し、教理即実行の世界へ突入せしめようとした。誠真実の、神に対する関係が神一条ということであると考えていた氏は、神一条の実現を四十年祭の目的としていたことが分かるのである。そしてそれは、氏にとっては復元であったに違いない。この実現のためには人間思案および新しい思潮との対決が必要であった。この対決とその推移が、実は四十年祭の主要テーマであったといって差し支えはないであろう。

 天理教校は、増野氏が校長になって一新するまでは、教師の資格を取るための施設という性格が主で、本当の信仰をここで培うという気風はそう強くなかった。こうした中において、ぢばはそうした事務の取り扱いではなく、もっと真実の意味におけるぢば、すなわち、たすけ一条のやしきとならねばならないと強く感じたのは、本部員松村吉太郎氏であった。松村氏は、三十年祭の時は収監されていて、暗く寒い獄中で、一人しみじみと教祖のひながたを身に味わいつつ遥拝した。それだけに、来るべき四十年祭に対して心に期するものは深くそして強かった。氏のこの貴重な体験は、その心に真実の信仰心を燃え上がらせた。あるいは、神に目覚めた人となったと言ってもよいかもしれない。

 大正九年、氏の提案が動機となって神殿における神前奉仕が始められた。これは神前に奉仕するとともに、参拝者に対して教理を取り次ぎ、神殿をたすけの道場たらしめんとするものであったが、そのもう一つ奥には、ぢばが名実ともにたすけ一条のやしきたる実を備えることを念願したものであった。これは教会中心の思想と違い、また布教中心の思想とも違った。教会をして教会たらしめ、布教を可能にする根本のもの、すなわち、親神・ぢばの理に仕えることによって信仰中心の気運を醸成し、親神の御力によって、すべてのことを図ってゆこうとする思想であった。

 増野氏が教校の改心を目指したとき、それは松村氏と軸を同じくする思想の上に立っていた。松村氏がぢばが信仰の雰囲気に包まれることを念願したとするならば、増野氏は、教校が信仰の雰囲気に包まれることを第一としたのである。しかし、いかに信仰の雰囲気があっても、人々の心にそれを受け取るだけの心の理がなかったならば、一方的なものにすぎない。本部の意思と一般教会の意思が一つにならなければ、自由自在の理は見せていただけない。しかし、順序から言って、まず本部が率先してそうした信仰的な雰囲気を求め、親神の自由をお働きによって事を進めてゆこうという心になった以上、それはおのずと一般教会に映るのは当然である。果然人々の心はぢばへ向かい、教校別科生は倍加倍加というふうに増えていった。ぢば中心主義は、こうした姿においてその正しさを実証し、人々はまた心の目を新たに開くことになり、一つの信仰の転機を迎えることになったのである。

 ところで、人間の心はそれぞれ皆違っている。その違っている心を一つにするためには、すべての人が自分中心の考えを捨て、神の心に合わしてゆかなければ、永遠に心が一つになることはできない。では、どうすれば皆銘々に違っている心を一つにし、すべての人々がぢば中心、信仰中心に立ち返ることができるのか。この点に、実は最大の課題と苦心があったのである。

 当時、道友社編集主任でもあった増野氏は、大正九年六月号の『道乃友』に、「暗黒世界へ」と題するいささか文学的な表現を持つ、型破りな巻頭言を書いた。大正九年十月号の『道乃友』の冒頭に「街頭に立て」と題する一文を載せ、「巷に出て、天理王命の名を高く唱えようではないか」と唱導した。この呼びかけによって、東京、大阪でのろしが挙げられた青年による路傍講演の動きは、全教に広がり始めた。教校生も秋季大祭を期として、有志百五十人が八組に分かれて三日間、親里の各地に赤い高張を立てて街頭に立った。神戸、京都、四国、さらには朝鮮の京城においてもその火は広がった。

 大正十年一月二十六日、教会本部は直属教会長を全員招集した。そして松村吉太郎、板倉槌三郎、高井猶吉の三本部員が出席して、教祖四十年祭を来たる大正十五年の一月に執行する旨の発表があり、その準備について種々相談するところがあった。五年も前に年祭の発表があるということは、本部が大きな決意をもって準備に当たろうとしていることを物語っていた。もっとも三十年祭は、九年も前におさしづによって打ち出された歴史がある。しかもこのときは、御本席の身上というふしがあり、また神殿建築という大事業が具体的な目標として示されていた。それに比すると、四十年祭の打ち出しには、そうした具体的な目標は示されていなかった。しかし松村吉太郎氏は、このとき大体二つの根本的な構想、方針を心に描いていた。その一つはぢばの拡張であり、もう一つは教勢の倍加であった。ぢばの拡張は、信仰的なぢば中心主義から出てくる根本方針であった。今は天理教人にとって確固不抜のよりどころとなるものは、ぢばの理をおいて他にない。したがって、ぢばの拡張に対して不満や疑念を抱く人はいないはずであった。当時、積極派の中心は松村吉太郎氏であり、さらに増野道興氏であった。ことに増野氏の信仰は、大正八年頃から十四年頃までが、その絶頂であった。四十年祭の打ち出しがあった同じ日の午前十時から、かんす山の校庭で、天理教校同窓会第二回総会が行われた。増野氏はその数日前の二十二日に、生後百日程で長女が出直すふしに遭い、悲しみの中に、いかなる神様のお知らせであるか判然とせぬまま心を悩ましていた。この日氏は、そういう個人的な事情も知って襟を正している同窓生を前にして、一場の講演を行った。これが四十年祭に対する直接の第一声であった。この講演は、感情に激した大声疾呼とは異なり、静かで深い口調であり、いくらか悲痛な色調を呈していた。氏は常々、大声疾呼して人を踊らせることを軽蔑していた。それで人はうごくものでないということを知悉(ちしつ)していたし、むしろ、深い心があるならば、うつむいて黙々と一人行くのが真の信仰者であると信じていた。講演の最後で氏は、あたかも自分に言い聞かせるようにこう結んだ。神様は「出来ん事出来るが神の道」(明治四十年四月九日)と仰せられている。自分でできると思うことは、そう思うことがすでに神様の力を無視しているから、かえってできぬことになる。できんと思うことは、神様にすがる心があるから、それは成り立ってくるのである。故に、自分の力ではできにくと思われるだけの、大きい心を定める必要がある。大体心定めをする上で、二つの重要なことがある。心定めをして、それが神様の御心に叶うたときは、心に勇んだ理が出てくる。故に心定めは、この喜びが心に湧くところまで定めなければならない。次に心を定めたなら、それが大きければ大きいだけ、苦痛も大きいのである。それは覚悟をしておかねばならない。しかし、苦痛の後には必ず神様が近寄ってきてくださるのだから、そこさえ通り越せば必ず幸福が与えられる。これを要約すれば、心定めは、内においては大なる喜悦を感じなければならず、外に対しては大なる苦痛を見なければならぬことを覚悟して、なるだけ大きい望みを持つことが必要である。それさえできれば、いかなる大事業も必ず完成し得る。私は心からその日の実現することを希望し、かつ憧憬するものであると。

 大正十年三月二十三日、増野氏は敷島大教会長に就任した。長女の出直しは、このためのお知らせであったに違いないと心に悟った氏は、その頃「眠れる獅子」と呼ばれた敷島に乗り込んだ。当時の敷島は、大教会も部内教会もドン底にあえいでいて、おたすけ活動も鈍りがちであった。就任早々、増野氏は爆弾を投げ付けるような提言をした。大正十年中に、五十カ所の教会名称を設置すること、また教校別科生を百五十人募集することである。そのために四月には早くも講習会を開き、眠りを覚まさせようと真剣命懸けの努力を傾けた。氏の言わんとすることを簡潔にまとめると、「大教会の借金は会長が責任を持って片付ける。だから部内の者は、一意専心おたすけに渾身の力を注げ」ということであった。しかし、この決心は多くの人には、三十を越したばかりの経験のない会長が夢のようなことを言う、ぐらいにしか受け取られなかった。しかし、そういう気分こそ一新する必要があった。深い心を定めて一歩も退かない覚悟さえあれば、必ず神様が働いてくださる。どういう形で現れてくるかは分からないが、それまで持ちこたえ、通り切ることができるかどうか、そこが岐路だ。しかし、すでのさいは投げられた。前に進むより他に道はない。こうして増野氏は、講習会において「おぢばのために玉砕しようではないか」と叫んだ。神様は人に難儀さそう、不自由さそうとしてこの道をつけられたのではない。もし難儀し、不自由しているのであれば、それは神様の道を歩いていないからそうなったのである。しかし今日からは、神様のおっしゃる通りにやってみよう。それをやって、もし自分のところが潰れてしまうのであれば、潰れてもよいではないか。大体やりもしない先から心配するような小さい心では、神様のお働きを心で止めているようなものだ。やってみて、教理が本当であるかどうか試してみたらよい。そうしたら本当の神様の働きが分かってくる。この意味で、敷島が四十年祭のために、御本部のために倒れても満足である。なぜなら、神の道を立てるために敷島が立っているからである  


 増野鼓雪の生死論」(「増野鼓雪全集」15巻の302-305P)。
 「・・・死と云うものは、人間が普通思うている程遠い所にあるものではありません。ほんの手近な生きる隣に居るのであります。故に人間が思わぬ時に、ふとやって来て、人々を驚かすのであります。それで人間は何とかして、死に近づかん様にと防いで、それに対し色々の準備もするのでありますが、死はかえって逃げる者を意地悪く追いかけて行くのであります。世界の人が金を貯めたり、その他色々の事をして居るのは、即ちその防禦であります。然るにそうしたことをする人程、妙に早く死んで行くのであります。そこで、その死から逃げずに、自分の方からその死を出迎えてやると、かえって死はその人から遠ざかるものであります。なぜなら人間が死ということを念頭において事に当たった時、その人の心は初めて清い心になるからであります。この意味で本教においては、この死と面々相対してきた者でなければ、本教の真味は会得できないと云われておるのであります。

 これをよく分かる事柄について申したら、神様のお話を聞いて、欲の心を持って通ると云うのは大変間違った心遣いであることが分かっていても、どうしてもそれを取る気になれない。・・・(中略)・・・ そのうちに神様から身上のお手入れになって、今日か明日か分からぬ、抜き差しのならん日が来る。その時自分は最早この世を外にして、死んで行かねばならぬと思うた時、初めて死と対面するのであります。その時になって、死んだと思えばという心が出てきます。その心になれば、今まで取る気にならなかった欲心を何とかして取って、たすかろうという気持ちになるのであります。故に人間は生死の巌頭に立って初めて、いかなる決心もできるのであります。だから死は、人間の心を最も美しくするものであります。

 それで人間は、日々にこの死が自分の近い所にあると云う心になっていたならば、いつも心がゆるむことがありません。従って自分の心が日々向上して行くのでありますから、人間はその死を怖れると共に、その死に飛び込むだけの覚悟をしておかねばならぬのであります。人間がわがままな心や勝手な心を出して、真実の理を守らんと云うのは、死が人間の側にあるということを忘れるからであります。人間が真実の心を失うならば、すぐ死が現れてくるものであることを自覚していたなら、不真実な心遣いはできないのであります」。





(私論.私見)