第69部 1882年 85才 伊蔵伏せ込み、かんろだいの没収と迫害、毎日つとめ
明治15年

 更新日/2021(平成31.5.1栄和改元/栄和3)年.12.12日

 (れんだいこのショートメッセージ)
 ここで、「伊蔵伏せ込み、かんろだいの没収と迫害、毎日つとめ」を確認しておく。
 
 2007.11.30日 れんだいこ拝


【お筆先十七号のご執筆】
 教祖はこの頃、お筆先十七号を執筆している。

【合図立てあい、合図立てあい】
 教祖は、この年初めから「合図立てあい、合図立てあい」としばしば仰せられている。お道では、道の理と世界の理が同時に立て合って起こることを「合図立て合い」と云う。

【教祖他高弟が奈良警察署へ呼び出される】
 2月、奈良警察署から出頭命令が為された。教祖、秀司の妻まつゑ、山沢良治郎、辻忠作、仲田儀三郎、桝井伊三郎、山本利三郎の面々が呼び出され、それぞれに科料の言い渡しが為された。その時の警官の申し渡しは、「本官がいかほどやかましく取り締まるとも、その方らは聞き入れない。その方らは根限り信仰いたせ。その代わりに、本官も根限り止めに入る。根比べする」というものであった。

【伊蔵の「伏せこみ」】
 3.26日(陰暦2.18日)、伊蔵は長女・よしえと共に櫟本(いちのもと)村の家を引き払ってお屋敷に移り住んだ。「お道」ではこれを「伏せこみ」という。飯降伊蔵の大工の最後の弟子となった音吉も伊蔵一家と共に中山家に移り込んだ。伊藏の妻・おさとと、マサエ、政甚(せいじん)の二人の子供は明治14年の9月にお屋敷に移り住んでいたので、こうして伊蔵一家全員が伏せこみ人衆となった。この時教祖85才、伊蔵49才、おさと48才、長女よしえ17才、次女マサエ11才、長男政甚8才であった。この時、教祖は次のように宣べられた。
 「今日から親子もろとも伏せこんだから、誰に遠慮もいらんで。こちらは真之亮とたまへと三人やで。これからは一つの世帯、一つの家内やで」。

 稿本天理教教祖伝逸話篇「98、万劫末代」は次の通り。
 「明治15年3.26日(陰暦2.8日)、飯降伊蔵が、すっかり櫟本を引き払うて、教祖の御許へ帰らせて頂いた時、教祖は、『これから一つの世帯、一つの家内と定めて、伏せ込んだ。万劫末代動いてはいかん、動かしてはならん』と、お言葉を下された」。

 明治31年8.26日の刻限お指図は次のように記している。
 「この道筋という年限数え、何カ年のと云う。来る者に来んなと云わん。来ぬ者には来いとは云わん。いついつ順序にも諭しある。この一つの順序難しい。教祖と云うは女であった。学を学んだ者でない。この屋敷、人間始めた真実一つ胸に始めて、この一つ順序。今と云う、へばりつき、どちらこちら草生え、そんな時、誠一つもなかった。来いと云うても、今日々と云うように、十分時々神の云う事聞いて来れば、その時貰い受け、夫婦貰い受け、荷物持って屋敷へ伏せこんだひとつの理、何と思うか」云々。

 お屋敷に引き移ってからの伊蔵一家は、内蔵の中二階6畳に、中山家の方々は中南に住んだ。従来中山家の営業であった宿屋と空風呂は、おさとの名義に切り替えることになり、4.1日から一切を引き受けることになった。伊蔵は、官憲が取り調べに来ると、年若いよしえに門を開けさせ、その隙に参拝者や宿泊人を裏口から抜け出さすなど教祖を護る勤めに当たっていた。
 諸井政一「正文遺韻」113-114pが次のように記している。
 「明治15年旧2.8日、ご本席様〈お屋敷へ〉お入り込みあそばさる。もっとも神様より度々(たびたび)『入り込め』とのお話あり。奥様と小児二人は前年の暮れ12月より、『今行かねば旬が外れる、遅れてしまう』と仰るゆえ、どうあっても、やらしてもらう、とてお屋敷にお勤めになり、ご本席様と姉娘よしゑ様とは躊躇(ちゅうちょ)してお残りなされたりしが、ここに至りて決断し、ついに諸道具売り払い、また、値安物はみな人にやりて、わずかの日用品のみを持ち、お入り込み相成(あいな)る。これは神様のお話に、『道具も何も一切、屋敷の物を使えばよいから何も持ってくるに及ばぬ』とお聞かせ下されしゆえなりと。しかるに入り込みてみれば、秀司先生の未亡人まちゑ(松枝)様は厳しき痛手をなされて何一つお貸し下さらず、火鉢を借りても、布団を借りても、みな損料貸しにして(使用料をとって)、すべて神様より聞いたことと違うにより、なかなかの困難にて、また折々それがため不足心を起こすことも多かりしと。それより後、ある時、ご家内おさと様、ご身上お障りにつき、お願い申したるに、『親としては子によいもの着せたいと思うやろ。子供があれ欲しい、これ欲しいと言えば不憫(ふびん)に思うやろ。なれどよいもの着せたいと思うやないで。よいもの要らん、不自由しよう、難儀しようと言うたて、出けぬ日があるほどに』と仰せられ、それまでは、とかく子供をいじらしく思うて、不足の心の湧くこともありしが、これより心改めて、末を楽しんでお暮らしあそばしたりと。正月になりて子供に一かけの襟(えり)を買うてやりたいと思うたが、買えなんだ、とある時、ご本席様のお物語りのなかに聞けるが、さまで(ここまで)困難の道なれば、ご不足の心の湧くも尤も(もっとも)の事にて、因縁にあらざれば、とてもその道通りきることは能(あた)うまじきなり」。

【まつえ一行の花見遊び】
 4.16日、まつえ一行の花見遊びの様子が高安大教会史40-41頁に記されている。これを確認しておく。
 「それから又、明治15年4.16日、栄治郎主(ぬし)が地場へ参詣せられた時のことである。その夜は一泊せられたが、翌朝図らずも神様より結構なお指図があった。そしてその日の午後は折から桜花爛漫と咲き匂える柳本在の崇神天皇の御陵の池の堤で桜狩りをしようと云う相談が持ち上がり、松枝様、玉恵様、飯降伊蔵父子、村田長右衛門の娘、中山政女なとど共に、それに栄治郎主も加わり、同勢都合九名で、半日の長閑(のどか)な花見遊びに時を過ごして、19日に帰宅せられたような閑日月(かんじつげつ)もあった」。

【石工・七次郎の行方不明事件発生で甘露台建設頓挫する】
 かんろだい石普請の様子は、天理教教祖伝158Pに次のように記されている。
 「明治十四年春以来、かんろだいの石普請は順調に進み、秋の初めには二段迄出来た。(中略)」

 秋の初めには二段までできた。甘露台普請への寄付金の記録が残っており、これを見ると、大阪からは23名、河内から37名が寄付をよせ、総額で103円91銭になっている。これを現在の貨幣価値に換算すると幾らになるのであろうか、恐らく相当な金額になと思われる。教祖は、お筆先十七号で、元のぢばの理を詳らかに述べ、人間創造の証拠として、元のぢばに甘露台を据えて置くこと、この台が揃いさえしたならば、どのような願も適わぬということがないこと、その完成までにしっかり世界中の人の心を澄ますように、と明るい将来の喜びを述べて胸の掃除を急込まれていた。
 しかし、その直後思いがけない事が起った。甘露台の建設に当たっていた石工の横田七次郎が突然居なくなるという事件が発生した。「度重なる警察の干渉に恐怖を覚え逃げ出したのが原因であった」とされているが、異説として、「石工が警察に拉致され留置場で変死」とも記されている。「復元」第37号の「教祖伝史実校訂本下一」には、失踪原因について、「石工がかんろだいの石を削る時に欠けさせてしまった、石工が大酒飲みであちこちに借金をつくって逃げざるをえなかった」(高井猶吉談)、「石工がなまくらで働かなかった」(宮森與三郎談)、「七次郎が警察へ連れていかれて、そのまま留置所で病死した」(子孫の後日談)の4つが伝わっていてるが、真相は明らかになっていない。 

 しかし、石普請は継続できなかったのか?。「おふでさき」でも急き込まれているかんろだいの建築がなぜ頓挫したのか?、七次郎がいなくなったとしても他の石工の手配はできなかったのか?という疑問が残る。雁多尾畑村の横田七次郎の隣りに藤村石工・石原巳之助の名が見られるが、神社仏閣が多い大和地方には他の地方よりは多くの石工がいた筈で、その証拠に明治20年のウテント橋修築には、ひのきしんの石工が活躍している。してみれば、石工が一人居なくなったくらいで、教祖のお急き込みによるかんろだいの石普請が中止させられた方が不思議に思える。

 かんろだい石普請頓挫の理由について、天理教教祖伝158 ~ 159ページに「人々の心の成人につれ、又、つとめ人衆の寄り集まるにつれて、かんろだいは据えられる。(中略)余りにも成人の鈍い子供心に対して、早く成人せよ、との、親心ゆえの激しいお急込みであった」との記述がある。何やら漠然とし過ぎている。「早く成人せよ」との急き込みが、教内全般に向けてのものなのか、当時のお側の方々に対してのものなのか、その答えは容易には見つからない。「成人が鈍い」というのが、教勢の伸展についてのことを指すのであれば、「この頃には、講の数は、二十有余を数えるようになった」とあり、また「明治14年5月から10月までに総計84件103円91銭の寄付があった」(「ひとことはなし その二」)と述べられているように、御供の額もひのきしん者の数も、石普請をキッカケに格段に増えており、教勢はこの頃にはむしろ急激に伸展していたと考えられるので、不具合な事に成る。もし、お側の方々だとすれば、まつゑ、眞之亮、たまへ、梶本ひさ、仲田、辻、高井、宮森などの方々になる。

 こうして、甘露台の石普請が二段目まで積まれたところで頓挫し、野ざらしの状態になった。「復元」第37号の「教祖伝史実校訂本下一」は「石屋が居なくなって了うてから、まんなかの柱石なんかは漬物の重しに使ったりしているうちに何処かへなくなって了うた」(高井猶吉談)と記している。


 (2022年3月26日付けブログ、「石工・七次郎の行方不明の原因やかんろだいの石普請を思案する 」その他参照
(私論.私見)
 天理教史上、石工・七次郎行方不明事件はもっと詮索を要するように思われる。

【甘露台破壊弾圧事件発生】
 甘露台事件の起こった明治15年のこの頃には、お筆先の執筆も既に終結編である十七号までに筆が進んでおり、「お道」教義の大綱が確立されつつあった。道人も、「お道」の信仰の眼目が何であるか承知する時節にもなっていた。即ち、「お道」の信仰は、心の入れ替えによる「陽気ぐらし」の世の実現であって、単にご守護を頂く信仰ではなくて、心の入れ替え、心の普請を通じて「世の立替、世直し」に向かうことが一層明確にされつつあった。

 明治8年、「甘露台据え付けのちば定め」が執り行われ、その後早速に「一列澄ます甘露台」とおつとめの歌と手振りを教えられ、後は甘露台の据えつけ完成を待つばかりとなっていた。教祖はここまで道人に順々に「理」を教え、「おつとめ」を整備し、その完結態として「おぢば」に甘露台を据えつけ、これを取り囲んで「神楽づとめ」を勤めることを目指していた。「ぢばの甘露台を取り囲んでの神楽づとめ」を勤めることによって一列の心を澄ませ、陽気ぐらしへと導き、「世界一列助け」を思し召されていた。これが教祖のひたむきな親心であった。甘露台建設は、こうした信仰の眼目であり、理想の実現として、道人の楽しみと期待を担った事業であった。

 明治15年、5.12日(陰暦3.25日)、お道50年の準備がまもなく完成しようとしていた矢先、奈良警察署長上村行業(ゆきなり)が数名の警官を引き連れて出張し、当時二段まで出来ていた甘露台の石を取り払い没収するという「甘露台事件」が起こった。(別稿「かんろだいの理」)

 この時教祖の衣類など14点も没収された。「差押物件目録」は次の通り。
一 石造甘露台                一個
   但二層ニシテ其形六角 上石径二尺四寸 下石径三尺二寸厚サ八寸
一 唐縮緬綿入                一枚
一 唐金巾綿入                一枚
一 唐縮緬袷                 一枚
一 仝単物                  弐枚
一 仝襦袢                  弐枚
一 唐金巾単物                一枚
一 縮緬帯                  一枚
一 寝台                   一個
一 夜具                   一通
  但 金巾ノ更紗大小貮枚
一 敷蒲団 但坐蒲団ヲ云         一枚
一 赤腰巻                  弐個

 右ハ明治十四年十月中祈祷符呪ヲ為シ人ヲ眩惑セシ犯罪ノ用ニ供セシ物件ト思料候条差押者也

 明治十五年五月十二日
               大和国山辺郡三島村ニ於テ
                  大坂府警部 上村行業            印
                  立会人 山辺郡三島村平民 中山マツヘ 印
                  立会人 仝郡新泉村平民  山沢良治郎 印
 「甘露台没収」は、教祖の思召しに対する官憲の正面からの弾圧攻撃であった。但し、八島教学では、秀司亡き後戸主となったまつえが、山沢良治郎の指図で甘露台の撤去を警察へ依頼したのが真相であるとしている。こういう事情により、警察書類に立会人として署名している、と述べている。 

【かんろだい没収の教理的意味】
 甘露台が官憲に取り払われ、しかも没収されるという運命に遭遇することとなった。これより後、「お道」には石造りの甘露台を建てる計画はなく、「一列澄まして」後に建立されることに変わったと口伝されている。「お道」は、教祖の「せき込み」のままにお連れ通して頂く中に幾重の節も通り抜けてきた。道人は既に、常に教祖がお聞かせ下さる通り却って芽の出る「活き節」であることを悟っていた。例え、どんなに恐き危なき道筋であっても、教祖の仰せのままにお連れ通り頂きさえすれば、絶対に間違いないという堅い信念を、幾度かの節を通して身につけていた。道人は、ぢば中心、教祖目標に強い信仰の紐によって結ばれていた。教祖のお導き下さる方向なら、どんなところへでもついていこうとする信仰の団結ができていた。これらの信念堅くした道人を講元とし、既に各地に数々の講中組織も結成されつつあった。

【教組のご立腹】 
 この事態に際して、教祖は、どんな風にこれに対処されたであろうか。1882(明治15)年頃のお道の状況は、教祖の積極的に働きに出る前夜であった。教祖は、お筆先三号の73-74で予告をされていた。それは、教祖が115歳在世を前提に考えられていた助けのシナリオで、世界救済の75ヶ年計画だった。その計画とは、天保9年立教の年から準備期間としての長き50年の艱難辛苦の道を通り抜けて、明治20年の正月を期して太陽が東の山から昇る如く、道はいよいよ世界に躍り出ると予告していた。その50年の準備が完成する角目が甘露台建設だった。甘露台こそ「元の理世界」湧出の為の神の手立てであった。その甘露台が二段までできていた頃の1882(明治15).5.12日(旧暦3.25日)、官憲によって没収されるという大きい節に遭遇した。

 道人が固唾を飲む思いの中、教祖は、従来にない調子で「残念、立腹」と仰せられ、お筆先に次のように記されている。
 珍しい この世始めの かんろ台
 これが日本の 治まりとなる
二号39
 この台を どふゆう事に 思うている
  これハ日本の 一の宝や
十七号3
 今までは このよ始めた 人間の
 元なるぢばは 誰も知らんで
十七号34
 このたびは この真実を 世界中へ
 どふぞしいかり 教えたいから
十七号35
 それ故に かんろふ台を 始めたは
 本元なるの ところなるのや
十七号36
 こんな事 始めかけると ゆうのもな
 世界中を 助けたいから
十七号37
 それをばな なにもしらさる こ共にな
 とりはらハれた この残念わな
十七号38
 この残念 なにの事やと 思うかな
 かんろふ大 が一の残念
十七号58

 続いて、教祖は断固として次のように仰せられた。これまでも官憲の理不尽な弾圧に見舞われてきたが、その度に「節から芽が出る」と諭されてきていたが、この度の激怒は尋常でなかった。お筆先に次のように記されている。

 この先ハ 世界中は どこまでも
 高山にても 谷底までも
十七号61
 これからは 世界一列 段々と
 胸の掃除を するとをもへよ
十七号62
 この掃除 何と思うぞ 皆なの者
 神の心を 誰も知るまい
十七号63
 月日には どんな残念が あるとても
 今までじいっと 見許していた
十七号64
 さあ今日は 日も十分に 詰んできた
 何でも返し せずにいられん
十七号65
 この返し 何のことやと 思うている
 神の残念 ばかりなるぞや
十七号66
 この残念 一寸のこととは 思うなよ
 積もり重なり ゆえのことやで
十七号67
 月日には 世界中は 皆な我が子
 可愛い一杯 思うていれども
十七号68
 それ知らず 皆な一列は 銘々に
 埃ばかりを 思案している
十七号69
 この心 神の残念 思うてくれ
 どうも何とも 云うに云われん
十七号70
 今までの ようなることは 云わんでな
  これから先は 悟りばかりや
十七号71
 この先は 何を云うやら 知れんでな
 どうぞしっかり 思案してくれ
十七号72
 さと々 たをと々 ひよさま々 十七号73
 この話し 合図立て合い 出たならば
 何についても 皆なこの通り
十七号74
 教祖は敢然と抵抗の姿勢を見せた。本部教理は、「一列人間の胸の掃除をすると強い警告を発し、切に人々の心の成人を促された」と穏和に記すが、むしろ教組の反転攻勢の決意を窺うべきであろう。 (歴史観世界観としての「上、高山論」参照)

 次のようなお言葉が刻まれている。
 「この何度も上からとめられるのは、残念でならん。この残念ははらさずにおかん。...今度ハ、助けより、残念はらしが先...」(明治19.3.12日、山田伊八郎文書「お言葉」)。
(私論.私見) 教祖の返し思想について
 お筆先最後となった十七号の仕舞いの文句が、「神の残念はらし」、「神の側からの返し」であった。これが、教祖の辿り着いた最後の指針だったことに着目すべきではなかろうか。爾来、お道教理は、ここの解析に背を向け過ぎている。物足りないというべきだろう。れんだいこは、理不尽に対してかくも敢然と闘う教祖の実像に感動し且つ慄然とせざるをえない。日本宗教史上、こういう教祖を持ったことは誉れではあっても逆ではなかろう。

【つとめの地歌の「いちれつすまして」への変更】
 これに呼応して、おつとめの地歌を、これまでの「一列澄ます甘露台」から「一列澄まして甘露台」と改められた。より意欲的積極的なお言葉に改められたように拝察される。

【お筆先絶筆】
 この頃から刻限話しが増え、お筆先は第17号で終り、全1711首が誌された。教祖は、最後となるお筆先にこう記した。
 これをはな 一列心 思案頼むで 十七号75

【その後のぢばとかんろだい】
 甘露台が設置されるはずにして二段までできていた石を没収された後のぢばには、直径三,四寸の票石が高さ一尺ぐいに積み重ねられていた。この間、道人は、取締りの警官の目を盗んで門から飛び込んで行き、「人々は綺麗に洗い浄めた小石をもってきては、積んである石の一つを頂いて戻り、痛む所、悩む所をさすって、数々の珍しい守護を頂いた」(「教祖伝」239頁)。その石を頂いて患部をさすると、どんな病気も鮮やかにご守護頂いたという話が残っている。

 明治21年、板張りの二段甘露台が据えられる。「仮かんろだい」について、次のようなお指図がある。
 「さあさあ天理教会やと云うてこちらにも始め出した。応法世界の道、これは一寸の始め出し。神一条の道は、これから始め掛け。元一つの理というは、今の一時と思うなよ。今までに伝えた話、かんろ台と云うて口説き口説き詰めたる。さあさあこれよりは速やか(に神一条の)道から、今の間にかんろ台を建てにゃならん、建てんならんという道が今にあると云う」(明治22.4.18日)。
 「ぢば証拠人間始めた一つの事情、かんろうだい一つの証拠雛型を拵え、今一時影だけのもの云うて居るだけでならんから、万分の一を以って、世界ほんの一寸細道を付けかけた」(明治30.7.14)

 昭和9年10月 現在の木製十三段の雛型かんろだいが据えられる。
 「真座のまなか、ぢばにお鎮り頂きました親神様の御前に眞柱中山正善慎んで申上げます。只今仮の御座所で申上げました通り、立教百年祭を御迎へする仕度として親神様の御守護の下に神殿の改築と礼拝殿の増築をさせて頂きました。とりわけ神殿は親神様の思召しに則り、芯を土台に四方正面に形造り、ひながたではありますが、木製の甘露台をも造らせて頂きました。従って今後は陽気神楽のつとめを始め、一切の神事をお言葉に則り勤行(ごんぎょう)させて頂きたく存じて居りますが、然し成人への道すがら中で御座いますので、御思召にかなはぬ点も沢山ある事と存じます。何とぞ私共子供の心をおくみ下さいまして、今日からはこの甘露台にお鎮りの上、子供等がまごころこめて御願ひ申上げる事柄を御聞き取り下され、ろくぢにふみならす親神様の御心を畏(かしこ)み、尚も世界たすけの為に勇ましく働かせて頂く私共の堅い決心を御受け下さいまして、一列一体の道を早くおつけ下さいますよう一同に代って慎んで申上げます」。(田川虎雄『祭文のてびき』30頁参照、「甘露台の歴史」より)
 なお、後に、本来、甘露の食物を「お供え」として信者に払い下げする予定であったと思われるが、甘露台が取り壊されてより不可能となった。そういう事情から仮に洗米を小袋に包んで手渡す儀式が執り行われるようになった。「をびや許し」の場合には「をびや御供え」が別に用意されている。教祖の時代は、お指図の中で、「何もお供え効くのやない。心の理が効くのや」と諭されている。教祖後になると、本部がその一手販売権を握ることになった。

【松村さくのお助け】
  6.18日(陰暦5.3日)、教祖が、赤衣を着て人力車に乗り、飯降伊蔵、山中栄蔵(山中忠七の息子)を連れて河内国教興寺村(大阪府八尾市教興寺)の松村さくのお助けに赴かれ三日滞在された。

 稿本天理教教祖伝逸話篇「102、私が見舞いに」。
 「明治15年6.18日(陰暦5.3日)、教祖は、まつゑの姉にあたる河内国教興寺村の松村さくが、痛風症で悩んでいると聞かれて、『姉さんの障りなら私が見舞いに行こう』と仰せになり、飯降伊蔵外一名を連れ、赤衣を召し人力車に乗って、国分街道を出かけられた。そして、三日間、松村栄治郎宅に滞在なされたが、その間、さくをみずから手厚くお世話下された。ところが、教祖のおいでになっている事を伝え聞いた信者達が、大勢寄り集まって来たので、柏原警察分署から巡査が出張して来て、門の閉鎖を命じ、立番までする有様であった。それでも、多くの信者が寄って来て、門を閉めて置いても、入って来て投銭をした。教祖は、『出て来る者を、何んぼ止めても止まらぬ。ここは詣り場所になる。打ち分け場所になるのやで』と仰せられた。さくは、教祖にお教え頂いて、三日目におぢばへ帰り、半月余りで、すっきり全快の御守護を頂いた」。

【手踊りのお手つけ】
 8.27日(陰暦7.14日)、山田伊八郎心勇組講元が、講社の人々に手踊りのお手つけをしていただきたく、講師のご派遣をば教祖にお願い申し上げ、山本利八が派遣されている。なお、翌明治16年に入ってからは高井、山沢、仲田が指導に来ている。

 「山田伊八郎・こいそ逸話集」36Pの「山本いさ、徳次郎談話」(天理教敷島大教会編、1983年1月発行)は次のように記している。(「天理教教祖中山みきの口伝等紹介」の「てをどり お手つけ」)
 「この先生達が、やかましく、厳しくお仕込み下された共通点は、『お手ふりおつとめは理振りである、手の指を離さないよう、特に親指や子指を離さないよう、充分注意するよう』とのことであったのであります」。

【心勇講(後の敷島大教会)の献木】
 8月、心勇講(後の敷島大教会)が、教祖のお言葉により普請の献木を引き受けている。これにつき、「天理教教祖中山みきの口伝等紹介」の「敷島として最初の献木」が次のように記している。
 敷島として最初の献木

 「明治十五年八月のある日、山田伊八郎の目が急に見えなくなった。”こいそ”がお願いしたら八分通り見えるようになったので、すぐおぢばに参拝すると、『少し用があったから目をおさえたのや』と教祖が仰せられ、伊八郎は困惑して『この若ざかりに目が悪くなっては困りますから、どうぞお助け下さい』と、お願い申し上げると、『ふしんするのやが、お前のところに山があるやろう、その山の木をこのふしんに使いたいのやが』というようなお言葉である。大恩ある教祖へのご恩報じはこの時とばかり、伊八郎は喜んで、『ご用材は、この私に献納させて下さい』と、お願いした。そこで飯降伊蔵がわざ/\出屋鋪の山田家へご出張になり、立木に印をお入れ下さったのである。それを早速切り倒され、心勇組の人たちに手伝わせておぢばへ運び込んだ。この松材献納を警察が問題視する形勢となり、その夜三里半もある山田家まで飯降様がお越し下されて、木材売渡証や金銭受取証文など作り、表向きは売った、買ったということに話を決めて、夜の明けきらぬうちにお立ち帰り下さった。このご用材の余材を台として十六年正月、おぢばのお節会を初めて屋外で設営して開催下さる」。(伊八郎談話、倉之助手記)(昭和58年1月発行「山田伊八郎・こいそ逸話集」(天理教敷島大教会編)34-35pより)
 「御休息所ご用材献納」(昭和49年8月発行「山田伊八郎伝」(天理教敷島大教会編)44-47pより )。
 「明治15年の8月のある日、伊八郎は急に眼が見えなくなった。”こいそ”のお願で、八分通り見えるようになったが、例によってすぐおぢばへ参拝して教祖にお伺いした。すると教祖は、『少し用があったから眼をおさえたのや』と仰せられた。伊八郎は困ってしまって、この若さ盛りに眼が悪くなっては困りますからどうぞおたすけ下さい、と願ったところ、教祖は更に、『普請をするのやが、あんたの所に山があるやろう。その山の木を普請に使いたいのや』と仰せられたのである。教祖へのご恩報じはこの時だと、すぐさま伊八郎の心は決った。ご用材は、この私に献納させて下さい、と願い出た。教祖も喜んでお聞きとり下さり。眼の障りはほどなく全快した。教祖は早速飯降伊蔵先生を出屋鋪までお遣わしになり、先生は山田家の山の立木(松材)に印をお入れになって、ご一泊の上お帰りになった。その後間もなく、心勇組の人たちのひのきしんの手で、印を入れられた木の全てを切り出し、おぢばへ運んだのである。ところが明治15年は、五月には「かんろだい」の石が没収されるなど、官憲の取り調べも殊のほかきびしくなって来ており、当然この普請の用材についても、入手経路のきびしい取り調べがあったようである。飯降先生は、寄付があったと返答すれば、すぐに教祖にご迷惑がかかるからと、取り調べに対して、倉橋の山田伊八郎氏から買い取りました、とお答えになったのである。嘘の返答をした為に、先生は大変心配されて、その日の夜中に、村田長平氏を伴い、わざわざ十四キロも離れた出屋鋪の伊八郎のもとまで、その打ち合せの為にお越しになったのである。真夜中に表戸をトントンと叩く者がある。伊八郎は誰かと思うて見たところ飯降先生だった。真夜中の事とて、伊八郎は一体何事が起ったのだろうかと驚いたが、話を聞くとひと安心、早速招じ入れて、二人で木材売渡し証や金銭受取証などを作成して、表向きは売った買ったという事に話を決めた。そして先生はすぐ又、夜の明けぬ内にと、おぢばへお帰りになったのである。こうしてこの件に関しては、うまく連絡がとれて、事なく治まったのであるが、思えば当時の教祖のご苦労、おぢばの先生方のご苦心の程が、身に痛切に感じられる一件であった。

 (中略)なお、この御休息所の普請は、明治15年11月から始められ、翌16年5月に棟上げ、秋に完成した。三間に四間、四畳八畳の二間である。またこの時献納の松材の残材を利用して、おぢばでは、16年正月のお節会会場をはじめて屋外に設営され、お節会が催されている。この点からも、飯降先生が印を入れられたもの以上に、相当多くの木材を伐り出したようである。ともあれ伊八郎は、こうして教祖直々に結構な徳をいただいたのであった。この年の夏のある日、伊八郎は、教祖から、『山田家の定紋を末代、丸に梅鉢を用いるよう』との結構なお許しをいただいたのである。(※これ迄の山田家の定紋は「剣かたばみ」の丸定紋であった)」。

 9.21(22)日、新治郎(真之亮)が、中山家の家督を相続し戸主となる。


 10月頃、内蔵をつぶすことになり、伊藤蔵一家は小二階と呼ばれる二階座敷の下に移った。


 (道人の教勢、動勢)
 「1882(明治15)年の信者たち」は次の通りである。明治15.3月改めの講社名簿によると、新たに結成された講も含めて大和国5、河内10、大阪4、堺2の講名が記載されている。その他に記載されていない以前からの講社が7つあり(天元、積善、天徳、栄続、朝日、神世、明誠)、信者の分布は遠江、東京、四国辺りにまで及んでいた。これを確認しておく。

 神清組(教興寺村)、天神組(恩知村)、神恵組(法善寺村)、神楽組(老原村)、敬神組(刑部村)、清心組(国分村)、神徳組(飛鳥村)、榊組(太田村)、一心組(西浦村)、永神組(梅谷村)、平真組(平野郷)、真実組(大和国法貴寺村、海知村、蔵堂村、檜垣村)、天恵組(大阪)、真明組(大阪)、明心組(大阪)、信心組(大阪)、真実組(堺)、心勇組(大和倉橋村出屋舗方講中)、誠心組(同国佐保庄村講中)、信心組(同国忍坂村講中)、神恵組(堺桜之町講中)。以上の大和国五、河内国十、大阪四、堺二の講社が結ばれて居ることが分かる。
 小松駒吉(18歳)
 1882(明治15)年6月、大阪市南区瓦屋町(現・大阪市中央区瓦屋町)の大工/小松駒吉(18歳)がコレラにかかり危篤のところを、泉田籐吉のお助けでご守護頂き入信。明治20年1月、教祖より赤衣。明治20年12月、本席よりおさづけ。御津支教会(現大教会)初代会長。

 1934(昭和9).2.13日、出直し(享年70歳)。
 稿本天理教教祖伝逸話篇「103、間違いのないように」。
 「明治15年7月、大阪在住の小松駒吉は、導いてもらった泉田藤吉に連れられて、お礼詣りに、初めておぢばへ帰らせて頂いた。コレラの身上をお救け頂いて入信してから、間のない頃である。教祖にお目通りさせて頂くと、教祖は、お手ずからお守りを下され、続いて、次の如く有難いお言葉を下された。『大阪のような繁華な所から、よう、このような草深い所へ来られた。年は18、未だ若い。間違いのないように通りなさい。間違いさえなければ、末は何程結構になるや知れないで』と。駒吉は、このお言葉を自分の一生の守り言葉として、しっかり守って通った」。
 鴻田忠三郎
 夏頃、北桧垣村の鴻田忠三郎が入信する。

 稿本天理教教祖伝逸話篇「95、道の二百里も」。
 「明治14年の暮、当時、新潟県の農事試験場に勤めていた大和国川東村の鴻田忠三郎が、休暇をもらって帰国してみると、二、三年前から眼病を患っていた二女のりきが、いよいよ悪くなり、医薬の力を尽したが、失明は時間の問題であるという程になっていた。家族一同心配しているうちに、年が明けて明治15年となった。年の初めから、この上は、世に名高い大和国音羽山観世音に願をかけようと、相談していると、その話を聞いた同村の宮森与三郎が、訪ねて来てくれた。宮森は、既に数年前から入信していたのである。早速お願いしてもらったところ、翌朝は、手の指や菓子がウッスラと見えるようになった。そこで、音羽山詣りはやめにして、3.5日に、夫婦とりきの三人連れでおぢばへ帰らせて頂き、7日間滞在させて頂いた。その三日目に、妻のさきは、私の片目を差し上げますから、どうか娘の儀も片方だけなりとお救け下され、と願をかけたところ、その晩から、さきの片目は次第に見えなくなり、その代わりに、娘のりきの片目は次第によくなって、すっきりお救け頂いた。この不思議なたすけに感泣した忠三郎は、ここに初めて、信心の決心を堅めた。そして、お屋敷で勤めさせて頂きたいとの思いと、新潟は当時歩いて16日かかった上から、県へ辞職願を出したところ、許可はなく、どうしても帰任せよ、との厳命である。困り果てた忠三郎が、如何いたしましょうか、と教祖に伺うと、『道の二百里も橋かけてある。その方一人より渡る者なし』との仰せであった。このお言葉に感激した鴻田は、心の底深くにをいがけ・おたすけを決意して、3.17日、新潟に向かって勇んで出発した。こうして、新潟布教の第一歩は踏み出されたのである」。
 「鴻田忠三郎」(「清水由松傳稿本」120-121p)。
 「大和磯城郡桧垣村の人、永原の中村直藏(二宮尊徳翁の弟子、贈從五位通称善五郎)という農業の先生について修業、明治17、8年、いわゆる“坊主こぼち”の流行した頃、珍しい南瓜や綿の種などをもって全国に勤農講演行脚をされた。生れは河内で鴻田家へ養子に来た人である。百姓によく丹精し、桧垣の鴻田と言えば、地方の有志や警察上中流の人達で知らぬ者のない人望があった。明治15年、55才の時、次女りきの眼病より入信し、山沢良次郎さんが明治16年、出直したあとお屋敷へ引寄せられた。その頃読み書きの出来る人が尠(すくなか)ったので、それ迠に村役もし世界でも顔が利いた人で読み書き講演も出来るので重宝がられ、明治廿一年、教会本部が出来てからは祝詞書きと説教とがその受持のように成っていた。その時分説教日が月に二、三回あって、説教の際には狩衣をつけ冠をかむり笏板もってやったものである。美鬚をはやした格服のよい茨木基敬さんと二人が交替でつとめられた。息子の利吉さんの話に、親父が目をふさいで熱心に説教をしていたが、ふと目を開けると聴手が一人も居なかったことがあった、とある。勤農の旅先新潟で道の種をおろしたのが今新潟大教会となっている。品行方正、先生方の中では一番の早起で、御神饌が先生の受持のようになっていた。老年になって耳が遠くなり、初試験を辻忠作先生と二人でやっておられた。明治36年7.29日、76才で出直しされた」。
 小西定吉
 稿本天理教教祖伝逸話篇「100、人を救けるのやで」。
 「大和国神戸村の小西定吉は、人の倍も仕事をする程の働き者であったが、ふとした事から胸を病み、医者にも不治と宣告され、世をはかなみながら日を過ごしていた。また、妻イエも、お産の重い方であったが、その頃二人目の子を妊娠中であった。そこへ同村の森本治良平からにをいがかかった。明治15年3月頃のことである。それで、病身を押して、夫婦揃うておぢばへ帰らせて頂き、妻のイエがをびや許しを頂いた時、定吉が、この神様は、をびやだけの神様でございますか、と教祖にお伺いした。すると、教祖は、『そうやない。万病救ける神やで』と仰せられた。それで、定吉は、実は私は胸を病んでいる者でございますが、救けていただけますか、とお尋ねした。すると、教祖は、『心配要らんで。どんな病も皆な守護頂けるのやで。欲を離れなさいよ』、と親心溢れるお言葉を頂いた。このお言葉が強く胸に食い込んで、定吉は、心の中で堅く決意した。家にもどると早速、手許にある限りの現金をまとめて、全部妻に渡し、自分は離れの一室に閉じこもって、紙に天理王尊と書いて床の間に張り、なむてんりわうのみこと なむてんりわうのみこと、と一心に神名を唱えてお願いした。部屋の外へ出るのは、便所へ行く時だけで、朝夕の食事もその部屋へ運ばせて、連日お願いした。すると、不思議にも、日ならずして顔色もよくなり、咳も止まり、長い間苦しんでいた病苦から、すっかりお救け頂いた。又、妻イエも、楽々と男児を安産させて頂いた。早速おぢばへお礼詣りに帰らせて頂き、教祖に心からお礼申し上げると、『心一条に成ったので、救かったのや』と仰せられ大層喜んで下さった。定吉は、このような嬉しいことはございません。このご恩は、どうして返させていただけましょうか、と伺うと、教祖は、『人を救けるのやで』と仰せられた。それで、どうしたら人さんが救かりますか、とお尋ねすると、教祖は、『あんたの救かったことを、人さんに真剣に話さしていただくのやで』と仰せられ、コバシを2,3合下された。そして、『これは、御供やから、これを、供えたお水で人に飲ますのや』と教えられた。そこで、これを頂いて、喜んで家へもどってみると、あちらもこちらも病人だらけである。そこへ、教祖にお教え頂いた通り、御供を持っておたすけに行くと、次から次へと皆救かって、信心する人がふえて来た」。
 冨田伝治郎(当時43才)
 稿本天理教教祖伝逸話篇「104、信心はな」。 
 「明治15年9月中旬、冨田伝治郎(当時43才)は、当時15才の長男米太郎が、胃病再発して命も危ないという事になった時、和田崎町の先輩達によって、親神様にお願いしてもらい、三日の間に不思議な助けを頂いた。その御礼に生母の藤村じゅん(当時76才)を伴って初めておぢば帰りをさせて頂いた。やがて取次に導かれて、教祖にお目通りしたところ、教祖は、『あんたどこから詣りなはった』、と仰せられた。そこで、私は兵庫から詣りました、と申し上げると、教祖は、『さよか。兵庫なら遠い所、よう詣りなはったなあ』と仰せ下され、次いで『あんた、家業は何なさる』とお尋ねになった。それで、はい、私は蒟蒻(こんにやく)屋をしております、とお答えした。すると教祖は、『蒟蒻屋さんなら、商売人やな。商売人なら高う買うて安う売りなはれや』と仰せになった。そして、尚つづいて、『神さんの信心はな、神さんを、生んでくれた親と同んなじように思いなはれや。そしたら、ほんまの信心ができますで』とお教え下された。ところが、どう考えても、高う買うて安う売る、という意味が分からない。そんなことをすると、損をして、商売ができないように思われる。それで、当時お屋敷に居られた先輩に尋ねたところ、先輩から、問屋から品物を仕入れる時には、問屋を倒さんよう、泣かさんよう、比較的高う買うてやるのや。それを、今度お客さんに売るときには、利を低うして比較的安う売って上げるのや。そうすると、問屋も立ち、お客も喜ぶ。その理で、自分の店も立つ。これは、決して戻りを喰うて損することのない、共に栄える理であると諭されて、初めて、成る程と得心がいった。この時、お息紙とハッタイ粉の御供を頂いてもどったが、それを生母藤村じゅんに頂かせて、じゅんは、それを三木町の生家へ持ちかえったところ、それによって、ふしぎな助けが相次いであらわれ、道は播州一帯に一層広く延びて行った」。
 宇野善助
 稿本天理教教祖伝逸話篇「105、ここは喜ぶ所」。
 「明治15年秋なかば、宇野善助は、妻と子供と信者親子と7人連れで、おぢばへ帰らせて頂いた。妻美紗が産後の患いで、もう命がないというところを救けて頂いた、お礼詣りである。夜明けの4時に家を出て、歩いたり、巨掠池では船に乗ったり、次には人力車に乗ったり、歩いたりして、夜の8時頃おぢばへ着いた。翌日、山本利三郎の世話取りで、一同、教祖にお目通りした。一同の感激は、譬えるにものもない程であったが、殊に、長らくの病み患いを救けて頂いた美紗の喜びは一入で、嬉しさの余り、すすり泣きが止まらなかった。すると、教祖は、『何故、泣くのや』と仰せになった。美紗は尚も泣きじゃくりながら、生き神様にお目にかかれまして、有難うて有難うて、嬉し涙がこぼれました、と申し上げた。すると、教祖は、『おぢばは泣く所やないで。ここは喜ぶ所や』と仰せられた。次に、教祖は、善助に向かって、『三代目は清水(せいすい)やで』とお言葉を下された。善助は、有難うございます、とお礼申し上げたが、過分のお言葉に身の置き所もない程恐縮した。そして心の奥底深く、有難いことや。末永うお道のために働かせて頂こう、と堅く決心した」。
 今川清次郎
 稿本天理教教祖伝逸話篇「108、登る道は幾筋も」。
 「今川清次郎は、長年胃を病んでいた。法華を熱心に信仰し、家に僧侶を請じ、自分もまたいつも祈祷していた。が、それによって、人の病気は救かることはあっても、自分の胃病は少しも治らなかった。そんなある日、近所の竹屋のお内儀から、お宅は法華に凝っているから、話は聞かれないやろうけれども、結構な神様がありますのや、と言われたので、どういうお話か一度聞かしてもらおう、ということになり、お願いしたところ、お道の話を聞かして頂き、三日三夜のお願いで、三十年来の胃病をすっかり御守護頂いた。明治15年頃のことである。それで、寺はすっきり断って、一条にこの道を信心させて頂こうと心を定め、名前も聖次郎と改めた。こうして、おぢばへ帰らせて頂き、教祖にお目通りさせて頂いた時、教祖は、『あんた、富士山を知っていますか。頂上は一つやけれども登る道は幾筋もありますで。どの道通って来るのも同じやで』と結構なお言葉を頂き、温かい親心に感激した。次に、教祖は、『あんた方、大阪から来なはったか』と仰せになり、『大阪というところは、火事がよくいくところだすなあ。しかし何んぼ火が燃えて来ても、ここまで来ても、ここで止まるということがありますで。何んで止まるかと言うたら、風が変わりますのや。風が変わるから、火が止まりますのや』と御自分の指で線を引いて、お話し下された。後に、明治23年9.5日(陰暦7.21日)新町大火の時、立売堀の真明組講社事務所にも猛火が迫って来たが、井筒講元以下一同が、熱誠こめてお願い勤めをしていたところ、裏の板塀が焼け落ちるのをさかいに、突然風向が変わり、真明組事務所だけが完全に焼け残った。聖次郎は、この時、教祖からお聞かせ頂いたお言葉を、感銘深く思い出したのであった」。
 新潟に布教する。
 秋頃、遠州に信仰が伝わる。
 11.10日(陰暦9.30日)、中山まつゑ出直し(32歳)。
 11月、大阪土佐堀町の茨木基敬が入信。

【この頃の逸話】
 当時を物語る逸話が次のように伝えられている。
 この頃の逸話と思われる「天理教教祖中山みきの口伝等紹介」の「正直のこころ(その一)」を転載しておく。
 「教祖御在世の時分は、その筋の圧制極めて甚だしく、御神楽勤めをすることも堅く禁じられていたのでありますから、常に秘密にこれを執行していたのでありますが、一日(あるひ)の事、遠国から帰って来た数名の信徒が初代管長公(初代真柱/中山真之亮)のお屋敷、即ち中山家のお座敷に集って、一心不乱にお勤めをさせて頂いている最中、巡査が来たと云う通知(しらせ)がありましたので、ソラコソ大変と、一同が驚き遽(あわ)て、手に/\面や楽器を持って、吾れ先にと逃げ出し、初代管長公だけ御一人その場に居残り、何食わぬ顔していられましたが、巡査はツカ/\と入り来り、その光る眼で四辺(あたり)を見廻し、腹の底から出た尖り声で、『禁制に背いて又つとめをしているな』と、嚇(おど)すように咎めた。前管長公は沈着(おちつ)いた物謂(ものい)いで、イエ、決して……御覧の通り、誰もおりませぬ、と静かに答えられた。巡査は一足前に進んで、真之亮、偽りを申すな、その方が何と申しても、彼所(あそこ)に確かな証人が居るッ、と座敷の一隅(かたすみ)を指さした。管長公は何心なく巡査の手首の向いている方に目を注がれると南無三宝、今しもつとめに用いていた鼓が一個置忘れてあった。若年ながら胆(きも)のすわった管長公はビクともせずして莞爾一笑(にっこりわらい)、アハヽヽヽあの鼓ですか。あれは妹[管長公夫人玉惠子の方、当時猶(まだ)12、3の令嬢であった]が稽古屋から持って帰り、ポン/\鳴らしていましたが、置き放しにして、何処かへ行ったのです、と平気な返答。管長公のこの当意即妙の挨拶に、作り事とは知りながら、巡査は返す言葉がないので、管長公を尻目に懸け、そのまま教祖の御居間に進入した。

 教祖は例(いつも)の如く、端座瞑目、神様との御霊交(おはなし)に余念なくいらせられた。巡査は立ったまま、婆ァさん、今日は誰も来ていないのか、と尋ねたが、教祖は閉じたる眼を開かれて莞爾(にこやか)に、『ヲヽ御苦労様、イエ、五六人の子供等が、今がた彼所(あちら)で、つとめをしておりました……』。これを聞くが否や、巡査は後から随(つ)いて来られた管長公を見返って、眼からは雷光(いなずま)、口からは雷鳴(かみなり)、コラ真之亮、貴様、よくも己(おれ)を欺(だま)したな、今、婆ァさんは何と言った。貴様等がつとめをしていたと、明かに申したでないか。さすがの管長公も教祖の御前、この上陳述(いいわけ)の言葉もなければ、只教祖のお顔を見上ぐるのみ、堅く口を結んでいられると、教祖はうなずき給いつつ、『コレ真之亮、今巡査さんの言わしゃるところによれば、お前は何か嘘を言うたと見える、何故嘘を言わしゃる。わしはお前等に何を教えている。人は正直でなければならぬ、正直でなければ人ではない、正直のもとは嘘を言わぬにあると、あれほどねんごろに言い聞かせてあるでないか。イヤ、言い聞かせたばかりじゃない、私はこれまでお前等(まえたち)に、只の一度でも不正直なことして見せたことがあるか、嘘を言うて聞かせたことがあるか、お前は神様のお子じゃないか、私の孫じゃないか、何故人様に嘘を言うたのじゃ、サア、タッタ今この所で懺悔さっしゃい』、教祖は常のやさしさにひきかえ、厳然たる口調にて教戒された。

 管長公は眼に涙を浮べて、うや/\しく両手をつかれ、巡査殿、実は只今七、八名の信者等と一緒につとめをいたしておりました。貴下(あなた)のお目に触れゝば、禁制を犯した科(とが)で、一同が拘引されるは必定、信徒の人々の中には、百里二百里の海山隔てた、遠方より参った者もありまする。それらの者に憂き目を見するも気の毒と存じ、身を隠させたに相違ござりませぬ。しかし、勧めてつとめをさせましたのも、この私、逃がしましたのも、この私、他の人々に科はござりませぬ。何卒私だけを御拘引下されまするよう、と従容(しょうよう)として言い出した。この教祖の厳重なる訓戒と、この管長公の柔順なる服従を見て、さすが法律の外何も知らざる巡査も胸を打たれて、物柔かに管長公に向い『以後心得違いのなきよう』と、簡単に説諭して立ち去った」。(つづく)
 辻忠作
 明治14.15年頃の次のような逸話が伝えられている。辻忠作に対し、お屋敷の者が「お前さんが来るから教祖が警察に引っ張って行かれるのや。もう来てくれるな」と云ったのに対し、気色ばんで「教祖が来てくれるなと仰るなら来んけど、おまはんが云うのやったら、わしは意地でも、子も孫も連れてくる」と云った。

 明治15年には、お屋敷の玄関口に「参詣人お断り」の張り紙が出されていたが、忠作は毎朝早く参拝し、農事に励んだ後の夕刻また参り、夜遅くまで勤める。息子由松は、「秋の忙しいときでも、昼は精一杯働いておいて、夜は寝しな過ぎても、今宵参らな、お話が聞かれんと言うて、遅うても参る。又、暑かろうが寒かろうが、雨が降ろうが何が降ろうが、闇の夜でも提灯持たずに暗がりの道を、毎日毎夜、通いました‐‐‐」と伝えている。お屋敷に信者が来ると、自分から飛び出していって神様の話を取り次いだとも言われている。
 土佐卯之助
 稿本天理教教祖伝逸話篇「99、大阪で婚礼が」。
 「明治15年3月のある日、土佐卯之助は、助け一条の信仰に対する養父母の猛烈な反対に苦しみ抜いた揚句、親神様のお鎮まり下さるお社を背負うて、他に何一つ持たず、妻にも知らせず、忽然として、撫養の地から姿を消し、大阪の三軒屋で布教をはじめた。家に残して来た妻まさのことを思い出すと、堪らない寂しさを感じることもあったが、おぢばに近くなったのが嬉しく、おぢばへ帰って教祖にお目にかかるのを、何よりの楽しみにしていた。教祖のお膝許に少しでも長く置いて頂くことが、この上もない喜びであったので、思わずも滞在を続けて、その日も暖かい春の日射しを背に受けて、お屋敷で草引きをしていた。すると、いつの間にか教祖が背後にお立ちになって、ニッコリほほえみながら、『早よう大阪へおかえり。大阪では婚礼があるから』と仰せられた。土佐は、はい、とお受けしたが、一向に思い当る人はない。謎のような教祖のお言葉を、頭の中で繰り返しながら大阪の下宿へかえった。すると、新しい女下駄が一足脱いである。妻のまさが来ていたのである。まさは、夫の胸に狂気のようにすがり付き、何も言わずに顔を埋めて泣き入るのであった。やがて、顔をあげたまさは、「私と、もう一度撫養へかえって下さい。お道のために、どんな苦労でもいといません。今までは、私が余りに弱すぎました。今は覚悟が出来ております。両親へは私からよく頼んで、必ずあなたが信心出来るよう、道を開きます、と泣いて頼んだ。今、国へかえればどうなるか、よく分かっていたので、情に流れてはならぬ、と土佐は、一言も返事をしなかった。その時、土佐の脳裡にひらめいたのは、おぢばで聞いた教祖のお言葉である。土佐家への復縁などは、思うてもみなかったが、よく考えてみると、大阪で嫁をもらう花婿とは、この自分であったかと、初めて教祖のお言葉の真意を悟らせて頂くことが出来た。自分が、国を出て反対攻撃を避けようとした考え方は、根本から間違っていた。もう一度、国へかえって、死ぬ程の苦労も喜んでさせてもらおう。誠真実を尽し切って、それで倒れても本望である、とようやく決心が定まった」。
 山田こいそ
 稿本天理教教祖伝逸話篇「101、道寄りせずに」。
 「明治15年春のこと。出産も近い山田こいそが、おぢばへ帰って来た時、教祖は、『今度はためしやから、お産しておぢばへ帰る時は、大豆越(こいその生家山中宅のこと)へもどこへも、道寄りせずに、ここへ直ぐ来るのや。ここがほんとの親里やで』とお聞かせ下された。それから程なく、5.10日(陰暦3.23日)午前8時、家の人達が田圃に出た留守中、山田こいそは、急に産気づいて、どうする暇もなく、自分の前掛けを取り外して畳の上に敷いて、お産をした。ところが、丸々とした女の子と、胎盤、俗にえなというもののみで、何一つよごれものはなく、不思議と綺麗な安産で、昼食に家人が帰宅した時には、綺麗な産着を着せて寝かせてあった。お言葉通り、山田夫婦は、出産の翌々日真っ直ぐおぢばへ帰らせて頂いた。この日は、前日に大雨が降って、道はぬかるんでいたので、子供は伊八郎が抱き、こいそは高下駄をはいて、大豆越の近くを通ったが、山中宅へも寄らず、三里余りを歩かして頂いたが、下りもの一つなく、身体には障らず、常のままの不思議なおぢば帰りだった。教祖は、『もう、こいそはん来る時分やなあ』とお待ち下されていて、大層お喜びになり、赤児をみずからお抱きになった。そして、『名をつけてあげよ』と仰せられ、『この子の成人するにつれて道も結構になるばかりや。栄えるばかりやで。それで、いくすえ栄えるというので、いくゑと名付けておくで』と御命名下された」。
 梅谷タネ
 稿本天理教教祖伝逸話篇「107、クサはむさいもの」。
 「明治15年、梅谷タネが、おぢばに帰らせて頂いた時のこと。当時、赤ん坊であった長女タカ(後の春野タカ)を抱いて、教祖にお目通りさせて頂いた。この赤ん坊の頭には、膿を持ったクサが一面に出来ていた。教祖は、早速、『どれ、どれ』と仰せになりながら、その赤ん坊を、みずからの手にお抱き下され、そのクサをごらんになって、『かわいそうに』と仰せ下され、自分のお座りになっている座布団の下から、皺を伸ばすために敷いておられた紙切れを取り出して、少しずつ指でちぎっては唾をつけて、一つ一つベタベタと頭にお貼り下された。そして、『おタネさん、クサは、むさいものやなあ』と仰せられた。タネは、ハッとして、むさくるしい心を使ってはいけない。いつも綺麗な心で、人様に喜んで頂くようにさせて頂こう、と深く悟るところがあった。それで、教祖に厚く御礼申し上げて、大阪へもどり、2,3日経った朝のこと、ふと気が付くと、綿帽子をかぶったような頭に、クサが、すっきりと浮き上がっている。あれ程、ジクジクしていたクサも、教祖に貼って頂いた紙に付いて浮き上がり、ちょうど帽子を脱ぐようにして、頭の地肌には既に薄皮が出来ていて見事に御守護頂いた」。
 兵神真明講周旋方の本田せい
 稿本天理教教祖伝逸話篇「199、一つやで」。
 「兵神真明講(兵神の前身)周旋方の本田せい(45歳)は、明治15年、二度目のおぢば帰りをした。その時、持病の脹満で、又、お腹が大きくなりかけていた。それをごらんになった教祖は、『おせいさん、おせいさん、あんた、そのお腹かかえているのは、辛かろうな。けど、この世のほこりやないで。前々生から負うてるで。神様がきっと救けて下さるで。心変えなさんなや。なんでもと思うて、この紐放しなさんなや。あんた、前々生のことは何んにも知らんのやから、ゆるして下さいとお願いして、神様にお礼申していたらよいのやで』とお言葉を下された。それから、せいは、三代積み重ねたほこりを思うと、一日としてジッとしていられなかった。そのお腹をかかえて、毎日おたすけに廻わった。せいは、どんな寒中でも、水行をしてからおたすけにやらせて頂いた。だんだん人が集まるようになると、神酒徳利に水を入れて、神前に供え、これによって又、ふしぎなたすけを続々とお見せ頂いた。

 こうして、数年間、熱心におたすけに東奔西走していたが、明治19年秋、49才の時、又々脹満が悪化して、一命も危ないという容態になって来た。そして、苦しいので、起こせとか、寝させとか言いつづけた。それで、その頃の講元、端田久吉が、おぢばへ帰り、仲田儀三郎の取次ぎで、教祖に、お目にかかり、事の由を申し上げると、教祖は、『寝させ起こせは、聞き違いやで。講社から起こせ、ということやで。死ぬのやない。早よう去んで、しっかりとおつとめしなされ』と仰せ下された。そこで、端田等は急いで神戸へもどり、夜昼六座、三日三夜のお願い勤めをした。が、三日目が来ても、効しは見えない。そこで、更に、三日三夜のお願い勤めをしたが、ますます悪くなり、六日目からは、歯を食いしばってしまって、28日間死人同様寝通してしまった。その間毎日、お神水を頂かせ、金米糖の御供三粒を、行平で炊いて、竹の管で日に三度ずつ頂かせていた。医者に頼んでも、今度は死ぬ、と言って診に来てもくれない。然るに、その28日間、毎日々々、小便が出て出て仕方がない。日に二十数度も出た。こうして、28日目の朝、妹の灘谷すゑが、着物を着替えさせようとすると、あの大きかった太鼓腹が、すっかり引っ込んでいた。余りの事に、すゑは、エッと驚きの声をあげた。その声で、せいは初めて目を開いて、あたりを見廻わした。そこで、すゑが、おばん聞こえるか、と言うと、せいは、勿体ない、勿体ない、と、初めてものを言った。その日、お粥の薄いのを炊いて食べさせると、二口食べて、ああ、おいしいよ。勿体ないよ、と言い、次で、梅干で二杯食べ、次にはトロロも食べて、日一日と力づいて来た。が赤ん坊と同じで、すっかり出流れで、物忘れして仕方がない。そこで、約一ヵ月後、周旋方の片岡吉五郎が、代参でおぢばへ帰って、教祖に、このことを申し上げると、教祖は、『無理ない、無理ない。一つやで。これが、生きて出直しやで。未だ年は若い。一つやで。何も分からん。二つ三つにならな、ほんまの事分からんで』と仰せ下された。せいは、すっかり何も彼も忘れて、着物を縫うたら寸法が違う、三味線も弾けん、という程であったが、二年、三年と経つうちに、だんだんものが分かり出し、四年目ぐらいから、元通りにして頂いた。こうして、49才から79才まで三十年間、第二の人生をお与え頂き、なお一段と、たすけ一条に丹精させて頂いたのである」。

 註 夜昼六座とは、坐り勤めとてをどり前半・後半の一座を、夜三度昼三度繰り返して勤めるのである。これを三日三夜というと、このお願い勤めに出させて頂く者は、三昼夜ほとんど不眠不休であった。
 高井直吉
 高井直吉の伝聞が次の様に語られている。せっかく参詣に来たが、折悪しく巡査が入口のところへ立って見張りをしているので、入るわけにいかぬ。さりとて、遠路はるばる来たのだから、目的も果たさずすごすご引き揚げる気にもなれない。当時の信仰者たちは毎度のことで、そんなことには慣れきっている。藁を積んだすすきの陰に隠れたりしながら、じっと根気よく、巡査の立ち去るのを待っている。ところが、意地悪くなかなか去ろうとしない。こうなったら根競べである。暇と根とで辛抱していたら、必ず乗ぜられる隙がでてくる。僅かな隙を見つけたら、こことばかり、これに乗じてお屋敷に飛び込む。

 当時は、2段まで出来た「かんろだい」が没収された後に、小石を積んで有って、その側に手洗鉢が置いてあった。ぐずぐずしてはいられない。飛び込むや否や、手を洗って参拝しようとして、手洗鉢に手を入れたところで、巡査に発見されて追われる。そうなれば、参拝する間はおろか、手洗鉢から抜いた手を拭う暇もない。濡れ手のままで一目散に飛んで逃げる。ようやく追手を逃れ、やれやれと我にかえって、フト気付いてみると、相当ひどく患っていた眼疾が、嘘の様に平癒している。眼疾をお助け頂きたいと思って、参拝にやって来たことは事実だが、まだ、何のお願いも申し上げていない。にも関わらず、こちらの心をちゃんと見抜き見透されて、ご守護をくだされていた。こんな事実は、当時にあっては、決して珍しいことではなかった、との話である。
 鴻田忠三郎
 同じくこの頃のこと、鴻田忠三郎をめぐっての次のような話しが伝えられている。3.24日(陰暦2.16日)、突然一人の巡査が巡回にやって来た。折悪しく鴻田忠三郎が、入口の間で「お筆先」を写していたばかりでなく、他に泉田藤吉や数名の信者たちも居合わせた。巡査は、「貴様たちはなぜ来ているのか」と咎めた。参拝してはならぬ、させてもならぬというのが、この頃の状況であった。「私どもは親神様のお陰でご守護を頂いた者共で、御礼に参詣して参りました処、只今参詣はならぬと承り戻ろうとして居ります」と、お屋敷の人々に迷惑の掛らぬようにとの配慮を込めて、巧みに言い逃れた。すると巡査は、今度は鴻田に向かって、「貴様は何をしているか」と尋ねた。「私はこの家と懇意の者で、かねがね老母の書かれたものがあると聞いて居りました。農事通信委員でもありますからその中に、良いことが書いてあらば、その筋へ上申しようと、借りて写しております」と答えた。この答えは決して、その場限りの言い逃れではなく、彼が農事通信委員であったことは事実であり、その職責を利用して、既に3月15日付をもって大蔵省に建白書を提出していたことも事実であった。

 彼は若いころから、非常に進歩的な人で、穀物の改良品種を作っては、その種子を人々に頒布していたが、そういう経験を買われて、明治維新早々大阪府で綿糖共進会が開かれた際、大阪府三大区から人選されて これに臨み、農事集談会に会員として加わった。その際、農事通信委員を命ぜられ、その後東京において第二回博覧会が開催された際にも、農事集談会に会員として加わった。こうした経歴を買われて、米どころである新潟県の勧農教員に雇われて、2年間これを勤めて帰国し、明治15年3月 この道に入信したのである。

 入信後、教祖の教えに感銘すればするほど、 この有り難い教えが弾圧されることにたまらない矛盾を感じ、何とか当局に正しい認識を与えたいと種々苦心の末、この建白書となったのである。従って、この建白書には、まず先述するような略歴を記し、続いて、最近触れた教祖の教えが、世の人々の心を正しきに導いて、珍しい「おたすけ」 を現わしてくださるばかりでなく、肥え、はえ出、みのり、虫払いなど、 農耕にまで実効をお見せくださる結構な教えでありながら、当局から不当な弾圧を受けている。この教えの有り難さを知って慕い寄る者は、十六、 七カ国にまたがって日毎続いているが、皆当局を恐れて、この真相を上申する者もいない。これはまことに矛盾したことで、自分は幸い農事通信委員という職責を許されているが、その職責の上から考えても、万民を導きたすけて、農作の増進を図るをもって目的とする、この教えを広めることは、世を裨益し、皇国のためになることを強く確信するというような内容を持つもので、自分の立場を利用して、何とか当局の理解を得たいという真情溢れるものである。

 こうした事実を、この時の警官が知っている筈もないが、おめも恐れもせず、事実を語っている彼の答弁にたいして、 これ以上は追及できないと見たか、「戸主を呼べ」と言った。参詣人を入れてはならぬとの達しに反し、参詣者を入れた責任を問おうとしたのであろう が、この時、ちょうど真之亮は、奈良裁判所へ出かけていて留守であったので、その旨答えると、「戸主が帰ったら、この本と手続書とを持参して警察へ出頭せよと申せ」と言い残して引き揚げた。ご守護とは申せ、よくぞこの時、巡査がそのまま「お筆先」を没収して持ち帰らなかったことよと感謝すると同時にヒヤリとする場面である。

 奈良から帰って、この事を聞 いた真之亮は、驚きもし安堵もしたが、また、明日の問題に当惑した。言われるままに、「お筆先」を持参して没収でもされたら、それまでである。どんなことがあっても、これだけは持参できない。そこで、この本は、おまさとおさとが焼いてしまったということに口を合わそうと、相談一決して翌日、手続書だけを持って出頭した。まず最初に、蒔村という署長は、 鴻田の写していた本を持参したかと尋ねた。いきなり、一番痛いところをつかれて、「留守番の女たちの話によりますと、あの時、ご巡回の巡査が、天輪王命に属する書類は焼き捨てるようにとの仰せでありましたとかで、 叔母のおまさと同居人のおさとの両名が話し合って、焼却した由に御座い ます」と答えると、署長の側にいた清水巡査が立ち上がって、「署長、家宅捜索に参りましょうか」と言った。

 真之亮はひやっとしたが、署長が「それには 及ばぬ」と言ってくれたので、安堵の胸を撫で降ろした。続いて署長は、「あの時、お前の家に来ていた者は、何処の者で、名は何というか」と尋ねたので、これに対しては、「私は不在でしたので存じません」と答えた。留守居の人に、留守中の出来事は詳しく聞いている筈であるから、知らない筈はない。参拝の人たちに迷惑の及ばないようにと、心を遣っている様子がよくわかる。が、これが為に、「自分の家に来ていた者が誰ともわからぬと申すは、不都合ではないか」と叱責され、その夜、一夜留置された。こうして留置を受けたにせよ、大事な「お筆先」を事なく守り得たことは、何より有り難いご守護であった。
 飯降伊蔵
 この頃のこと、既に「伏せこみ」していた伊蔵に対して、教祖は或る日次のようなお諭しをしている。
 「伊蔵さん、あんたな、あとになったら、役の上で人の上に立たねばならなくなりますで。そやけど、心は人の一番下に置くのやで」。
 「心が上がれば、心濁る。心濁れば、神の働きが薄くなるのやで」。
 中川徳蔵
 昭和54.10月発行、高野友治著作集第6巻「神の出現とその周辺」(道友社)57-58pより。
 「明治15年頃の話しであろうか。大阪の道修(どしょう)町に慈悲深い薬問屋の主人がいた。いつも一日の商売が終って、金の勘定をするときに、二銭銅貨を別に積んでおいて、それを翌日、自分の家の前を通る乞食に恵んでいたという。後には、この薬問屋が店を開ける頃には、たくさんの人々が店先に並んでいたという。主人は前日の収入の中の二銭銅貨を一人に一枚ずつ渡していた。ところが、この主人が商用で、船に乗って四国か九州に行ったときであろうか、船がひっくりかえって、この主人はただ一人、人の住まない島にたどりつき、辛うじて一命をとりとめた。だが食うものがない。着物は乾かして着たものであろうが、とにかく食糧がなかった。ところが夜が明けて波打ち際に魚が打ち上げられていた。それをいただいて飢えを凌ぐことができた。翌朝もまた飢えを凌ぐだけの魚が上っていた。毎朝きまったように魚が上っていて、その日その日を凌いでいる間に、救いの船が来てくれて大阪へ帰ることができた。その後でこの人は天理教に入信し、教祖のところへお詣りに行き、教祖にお会いしたら、教祖がおっしゃったという。『いつもは、私の子供を助けて下されて有難う。神は心からお礼を申しますで』。そして、『この間は、そのお礼を一寸さしてもらいましたなァ』。これが神の世界なんだろう。この話しは中川徳蔵がよく語っていた話しだと天地組の古い信者から聞いた。中川徳蔵は若い頃、道修町の薬屋の番頭をつとめていたと聞く」。(「いつも子供をたすけて下されて有難う」。
【「五十、六十は、まだ子供や」のお諭し】
 「年齢について(その二)」( 昭和45年4月発行「史料掛報」第131号、「おぢば参謁記(十)」白藤義治郎より)。
 ※昨年の9.28日に「年齢について」という御話を紹介させて頂きましたが、その大元の逸話と思われる御話がありましたので紹介させて頂きます。この御話は昨年12.21日に「神明派講元○○平四郎さんの失敗談」という逸話で登場された平四郎さんのお連れの方の逸話であります。
 「明治15年、後期兵庫真明組が真明講社第1号と神明講社第2組として呱々(ここ)の声を挙げた直後の或る日のこと、神明派の講元、○○平四郎氏が、或る人を伴うて御地場に参詣した。その時、御教祖は門屋と勤場所との伝いの縁側に御出坐しになって居た。二人は、御目に掛って、おねぎらいの御言葉を賜ってから、○○氏の連れ人は、そこで御教祖の肩を揉ませて頂いた。その際、御教祖が、その人に向って、『あんた、どちらです』とお尋ねになった。私は兵庫でおかす(おます?)、と御返事申上げると、更に御教祖から『お幾つになられますか』とお尋ねになった。その人は年齢を問われて、恐縮して、エー神さん、私はもう年寄りに成りました、とのみ申し上げて、わざと年齢を申上げなかったところ、重ねて『お幾つになられますか』と尋ねられて、もう六十です、と御答えした。すると御教祖は、『神様はな、五十、六十はまだ子供やと仰りますでな』と御諭しになった」。

 (当時の国内社会事情)
 1882(明治15).1.1日、旧刑法(皇室に対する罪〈不敬罪〉、兇徒聚集罪、官吏侮辱罪)、治罪法施行される。集会条例改正追加(支部の禁止、他社との通信連絡禁止、集会への警察官の臨監)される。4.16日、立憲改進党が結成される。8月、皇典研究所設立。日本銀行が設立される。福島事件起る。自由民権運動が広がる。朝鮮とアメリカ、通商和親条約を締結。国会開設の詔が頒布される。刑法・治罪法施行。
 1870(明治3)年制定の中国の儒教思想による老人と子供を尊ぶ法律の新律綱領の改定律令が制定される。地方違式かい違条例も公布される。その後、1882(明治15)年、フランス刑法を基にした新刑法が公布され、改定律令は廃止されることになる。第四編の違警罪(いけいざい)と諸布告による警察の裁判権乱用が恥じ乗ることになる。新刑法では、犯罪は重罪、軽罪、違警罪の三つに分けられ、違警罪には宗教活動取締まりも含められた。重罪、軽罪はそれぞれ裁判所を設けられたが、違警罪裁判については太政官第80号布告で、「当分の内」ということで裁判所を設けず、警察署、警察分署で警官が扱うことになった。裁判は弾劾式ではなく糾問式で代言人(弁護士)などは入れなかった。故に警官の下した判決に誰も対抗できなかった。
 コレラが流行し全国で死者3万余発生。
 自由党総理の板垣退助が岐阜で遭難、襲撃される。
 ルソー著・中江兆民訳『民約訳解』。
 (田中正造履歴)
 1882(明治15)年、42歳の時、立憲改進党に入党。

 (宗教界の動き)
 1882(明治15).1月、内務省の政教分離政策で、教導と神官の兼職が禁止(官国幣社以上の神官の教導職兼補を廃止)され、神官は葬儀に携わらぬものとなる。府県社以下の神社は当分従前通り。国家神道と、神徳布教、人心救済の教法、行法にその価値存在をかけた教派神道とに二大別され一般宗教と区別された。これにより、神社は祭祀儀礼を中心とし、独自の教説を有する教団は教派神道として独立することになった。神官層は神職と教導職の完全分離と神祇官の再興運動(1896年参照)を起こした。
 神道事務局内の直轄教会が府県社以下の神官を教導職として傘下に置いたまま分立し、神社神道と教派神道の区別が鮮明になっていった。また、この頃から、神道○○派ではなく○○教と呼ぶことが 多くなる。
 3月、宮様は総裁を免ぜられ、その折、総裁の宮は教導職に皇道の隆盛に尽くすよう論され「令旨」を御親筆され、その後、教導職の嘆願により、再び神道総裁に就任した。
 5.15日、神道本局より、神道神宮派、同出雲大社派、同扶桑派、同實行派、同大成派、同神習派が、続いて御嶽派が別派特立を差許され神道6派が独立する。その間、麹町区飯田町に皇典講究所が開設され総裁の宮は兼務されることとなった。
 5月、天理教弾圧。
 7.10日、内務省達乙第42号別紙戊第3号で、「禁厭、祈祷等を行なって病人の治療、投薬を妨げる者がいれば、そのことを当該省に報告すること」。
 9月、神道御岳教独立する。芳村正秉、神習教を設立。「神道大教の教史」に次のように記されている。
 「昭和15年、宗教団体法施行さるるに当り、当時大会議を開き教名変更の重大審議の結果、創立以来の大教宣布の由緒を以て「神道」より「神道大教」へと改名した。かつては、教派神道の中心的組織体であったが、事務局・本局時代にそれぞれの教団が特立、独立して行き(現)第十代板倉信之助となり、歴代管長に培われた教えと本教の道統を引き継ぎ現在に至っている。(神社新報 『神道いろは』より転載)」。

 (当時の対外事情)

 (当時の海外事情)
 1882年、ドイツ・オーストリア・イタリアが三国同盟を結ぶ。
 コッホが結核菌を発見する。「種の起源」のダーウィン没。
 アメリカ初の発電所建設される。





(私論.私見)