【この頃の逸話】 |
当時を物語る逸話が次のように伝えられている。 |
この頃の逸話と思われる「天理教教祖中山みきの口伝等紹介」の「正直のこころ(その一)」を転載しておく。
「教祖御在世の時分は、その筋の圧制極めて甚だしく、御神楽勤めをすることも堅く禁じられていたのでありますから、常に秘密にこれを執行していたのでありますが、一日(あるひ)の事、遠国から帰って来た数名の信徒が初代管長公(初代真柱/中山真之亮)のお屋敷、即ち中山家のお座敷に集って、一心不乱にお勤めをさせて頂いている最中、巡査が来たと云う通知(しらせ)がありましたので、ソラコソ大変と、一同が驚き遽(あわ)て、手に/\面や楽器を持って、吾れ先にと逃げ出し、初代管長公だけ御一人その場に居残り、何食わぬ顔していられましたが、巡査はツカ/\と入り来り、その光る眼で四辺(あたり)を見廻し、腹の底から出た尖り声で、『禁制に背いて又つとめをしているな』と、嚇(おど)すように咎めた。前管長公は沈着(おちつ)いた物謂(ものい)いで、イエ、決して……御覧の通り、誰もおりませぬ、と静かに答えられた。巡査は一足前に進んで、真之亮、偽りを申すな、その方が何と申しても、彼所(あそこ)に確かな証人が居るッ、と座敷の一隅(かたすみ)を指さした。管長公は何心なく巡査の手首の向いている方に目を注がれると南無三宝、今しもつとめに用いていた鼓が一個置忘れてあった。若年ながら胆(きも)のすわった管長公はビクともせずして莞爾一笑(にっこりわらい)、アハヽヽヽあの鼓ですか。あれは妹[管長公夫人玉惠子の方、当時猶(まだ)12、3の令嬢であった]が稽古屋から持って帰り、ポン/\鳴らしていましたが、置き放しにして、何処かへ行ったのです、と平気な返答。管長公のこの当意即妙の挨拶に、作り事とは知りながら、巡査は返す言葉がないので、管長公を尻目に懸け、そのまま教祖の御居間に進入した。
教祖は例(いつも)の如く、端座瞑目、神様との御霊交(おはなし)に余念なくいらせられた。巡査は立ったまま、婆ァさん、今日は誰も来ていないのか、と尋ねたが、教祖は閉じたる眼を開かれて莞爾(にこやか)に、『ヲヽ御苦労様、イエ、五六人の子供等が、今がた彼所(あちら)で、つとめをしておりました……』。これを聞くが否や、巡査は後から随(つ)いて来られた管長公を見返って、眼からは雷光(いなずま)、口からは雷鳴(かみなり)、コラ真之亮、貴様、よくも己(おれ)を欺(だま)したな、今、婆ァさんは何と言った。貴様等がつとめをしていたと、明かに申したでないか。さすがの管長公も教祖の御前、この上陳述(いいわけ)の言葉もなければ、只教祖のお顔を見上ぐるのみ、堅く口を結んでいられると、教祖はうなずき給いつつ、『コレ真之亮、今巡査さんの言わしゃるところによれば、お前は何か嘘を言うたと見える、何故嘘を言わしゃる。わしはお前等に何を教えている。人は正直でなければならぬ、正直でなければ人ではない、正直のもとは嘘を言わぬにあると、あれほどねんごろに言い聞かせてあるでないか。イヤ、言い聞かせたばかりじゃない、私はこれまでお前等(まえたち)に、只の一度でも不正直なことして見せたことがあるか、嘘を言うて聞かせたことがあるか、お前は神様のお子じゃないか、私の孫じゃないか、何故人様に嘘を言うたのじゃ、サア、タッタ今この所で懺悔さっしゃい』、教祖は常のやさしさにひきかえ、厳然たる口調にて教戒された。
管長公は眼に涙を浮べて、うや/\しく両手をつかれ、巡査殿、実は只今七、八名の信者等と一緒につとめをいたしておりました。貴下(あなた)のお目に触れゝば、禁制を犯した科(とが)で、一同が拘引されるは必定、信徒の人々の中には、百里二百里の海山隔てた、遠方より参った者もありまする。それらの者に憂き目を見するも気の毒と存じ、身を隠させたに相違ござりませぬ。しかし、勧めてつとめをさせましたのも、この私、逃がしましたのも、この私、他の人々に科はござりませぬ。何卒私だけを御拘引下されまするよう、と従容(しょうよう)として言い出した。この教祖の厳重なる訓戒と、この管長公の柔順なる服従を見て、さすが法律の外何も知らざる巡査も胸を打たれて、物柔かに管長公に向い『以後心得違いのなきよう』と、簡単に説諭して立ち去った」。(つづく)
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辻忠作 |
明治14.15年頃の次のような逸話が伝えられている。辻忠作に対し、お屋敷の者が「お前さんが来るから教祖が警察に引っ張って行かれるのや。もう来てくれるな」と云ったのに対し、気色ばんで「教祖が来てくれるなと仰るなら来んけど、おまはんが云うのやったら、わしは意地でも、子も孫も連れてくる」と云った。
明治15年には、お屋敷の玄関口に「参詣人お断り」の張り紙が出されていたが、忠作は毎朝早く参拝し、農事に励んだ後の夕刻また参り、夜遅くまで勤める。息子由松は、「秋の忙しいときでも、昼は精一杯働いておいて、夜は寝しな過ぎても、今宵参らな、お話が聞かれんと言うて、遅うても参る。又、暑かろうが寒かろうが、雨が降ろうが何が降ろうが、闇の夜でも提灯持たずに暗がりの道を、毎日毎夜、通いました‐‐‐」と伝えている。お屋敷に信者が来ると、自分から飛び出していって神様の話を取り次いだとも言われている。 |
土佐卯之助 |
稿本天理教教祖伝逸話篇「99、大阪で婚礼が」。
「明治15年3月のある日、土佐卯之助は、助け一条の信仰に対する養父母の猛烈な反対に苦しみ抜いた揚句、親神様のお鎮まり下さるお社を背負うて、他に何一つ持たず、妻にも知らせず、忽然として、撫養の地から姿を消し、大阪の三軒屋で布教をはじめた。家に残して来た妻まさのことを思い出すと、堪らない寂しさを感じることもあったが、おぢばに近くなったのが嬉しく、おぢばへ帰って教祖にお目にかかるのを、何よりの楽しみにしていた。教祖のお膝許に少しでも長く置いて頂くことが、この上もない喜びであったので、思わずも滞在を続けて、その日も暖かい春の日射しを背に受けて、お屋敷で草引きをしていた。すると、いつの間にか教祖が背後にお立ちになって、ニッコリほほえみながら、『早よう大阪へおかえり。大阪では婚礼があるから』と仰せられた。土佐は、はい、とお受けしたが、一向に思い当る人はない。謎のような教祖のお言葉を、頭の中で繰り返しながら大阪の下宿へかえった。すると、新しい女下駄が一足脱いである。妻のまさが来ていたのである。まさは、夫の胸に狂気のようにすがり付き、何も言わずに顔を埋めて泣き入るのであった。やがて、顔をあげたまさは、「私と、もう一度撫養へかえって下さい。お道のために、どんな苦労でもいといません。今までは、私が余りに弱すぎました。今は覚悟が出来ております。両親へは私からよく頼んで、必ずあなたが信心出来るよう、道を開きます、と泣いて頼んだ。今、国へかえればどうなるか、よく分かっていたので、情に流れてはならぬ、と土佐は、一言も返事をしなかった。その時、土佐の脳裡にひらめいたのは、おぢばで聞いた教祖のお言葉である。土佐家への復縁などは、思うてもみなかったが、よく考えてみると、大阪で嫁をもらう花婿とは、この自分であったかと、初めて教祖のお言葉の真意を悟らせて頂くことが出来た。自分が、国を出て反対攻撃を避けようとした考え方は、根本から間違っていた。もう一度、国へかえって、死ぬ程の苦労も喜んでさせてもらおう。誠真実を尽し切って、それで倒れても本望である、とようやく決心が定まった」。 |
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山田こいそ |
稿本天理教教祖伝逸話篇「101、道寄りせずに」。
「明治15年春のこと。出産も近い山田こいそが、おぢばへ帰って来た時、教祖は、『今度はためしやから、お産しておぢばへ帰る時は、大豆越(こいその生家山中宅のこと)へもどこへも、道寄りせずに、ここへ直ぐ来るのや。ここがほんとの親里やで』とお聞かせ下された。それから程なく、5.10日(陰暦3.23日)午前8時、家の人達が田圃に出た留守中、山田こいそは、急に産気づいて、どうする暇もなく、自分の前掛けを取り外して畳の上に敷いて、お産をした。ところが、丸々とした女の子と、胎盤、俗にえなというもののみで、何一つよごれものはなく、不思議と綺麗な安産で、昼食に家人が帰宅した時には、綺麗な産着を着せて寝かせてあった。お言葉通り、山田夫婦は、出産の翌々日真っ直ぐおぢばへ帰らせて頂いた。この日は、前日に大雨が降って、道はぬかるんでいたので、子供は伊八郎が抱き、こいそは高下駄をはいて、大豆越の近くを通ったが、山中宅へも寄らず、三里余りを歩かして頂いたが、下りもの一つなく、身体には障らず、常のままの不思議なおぢば帰りだった。教祖は、『もう、こいそはん来る時分やなあ』とお待ち下されていて、大層お喜びになり、赤児をみずからお抱きになった。そして、『名をつけてあげよ』と仰せられ、『この子の成人するにつれて道も結構になるばかりや。栄えるばかりやで。それで、いくすえ栄えるというので、いくゑと名付けておくで』と御命名下された」。 |
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梅谷タネ |
稿本天理教教祖伝逸話篇「107、クサはむさいもの」。
「明治15年、梅谷タネが、おぢばに帰らせて頂いた時のこと。当時、赤ん坊であった長女タカ(後の春野タカ)を抱いて、教祖にお目通りさせて頂いた。この赤ん坊の頭には、膿を持ったクサが一面に出来ていた。教祖は、早速、『どれ、どれ』と仰せになりながら、その赤ん坊を、みずからの手にお抱き下され、そのクサをごらんになって、『かわいそうに』と仰せ下され、自分のお座りになっている座布団の下から、皺を伸ばすために敷いておられた紙切れを取り出して、少しずつ指でちぎっては唾をつけて、一つ一つベタベタと頭にお貼り下された。そして、『おタネさん、クサは、むさいものやなあ』と仰せられた。タネは、ハッとして、むさくるしい心を使ってはいけない。いつも綺麗な心で、人様に喜んで頂くようにさせて頂こう、と深く悟るところがあった。それで、教祖に厚く御礼申し上げて、大阪へもどり、2,3日経った朝のこと、ふと気が付くと、綿帽子をかぶったような頭に、クサが、すっきりと浮き上がっている。あれ程、ジクジクしていたクサも、教祖に貼って頂いた紙に付いて浮き上がり、ちょうど帽子を脱ぐようにして、頭の地肌には既に薄皮が出来ていて見事に御守護頂いた」。 |
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兵神真明講周旋方の本田せい |
稿本天理教教祖伝逸話篇「199、一つやで」。
「兵神真明講(兵神の前身)周旋方の本田せい(45歳)は、明治15年、二度目のおぢば帰りをした。その時、持病の脹満で、又、お腹が大きくなりかけていた。それをごらんになった教祖は、『おせいさん、おせいさん、あんた、そのお腹かかえているのは、辛かろうな。けど、この世のほこりやないで。前々生から負うてるで。神様がきっと救けて下さるで。心変えなさんなや。なんでもと思うて、この紐放しなさんなや。あんた、前々生のことは何んにも知らんのやから、ゆるして下さいとお願いして、神様にお礼申していたらよいのやで』とお言葉を下された。それから、せいは、三代積み重ねたほこりを思うと、一日としてジッとしていられなかった。そのお腹をかかえて、毎日おたすけに廻わった。せいは、どんな寒中でも、水行をしてからおたすけにやらせて頂いた。だんだん人が集まるようになると、神酒徳利に水を入れて、神前に供え、これによって又、ふしぎなたすけを続々とお見せ頂いた。
こうして、数年間、熱心におたすけに東奔西走していたが、明治19年秋、49才の時、又々脹満が悪化して、一命も危ないという容態になって来た。そして、苦しいので、起こせとか、寝させとか言いつづけた。それで、その頃の講元、端田久吉が、おぢばへ帰り、仲田儀三郎の取次ぎで、教祖に、お目にかかり、事の由を申し上げると、教祖は、『寝させ起こせは、聞き違いやで。講社から起こせ、ということやで。死ぬのやない。早よう去んで、しっかりとおつとめしなされ』と仰せ下された。そこで、端田等は急いで神戸へもどり、夜昼六座、三日三夜のお願い勤めをした。が、三日目が来ても、効しは見えない。そこで、更に、三日三夜のお願い勤めをしたが、ますます悪くなり、六日目からは、歯を食いしばってしまって、28日間死人同様寝通してしまった。その間毎日、お神水を頂かせ、金米糖の御供三粒を、行平で炊いて、竹の管で日に三度ずつ頂かせていた。医者に頼んでも、今度は死ぬ、と言って診に来てもくれない。然るに、その28日間、毎日々々、小便が出て出て仕方がない。日に二十数度も出た。こうして、28日目の朝、妹の灘谷すゑが、着物を着替えさせようとすると、あの大きかった太鼓腹が、すっかり引っ込んでいた。余りの事に、すゑは、エッと驚きの声をあげた。その声で、せいは初めて目を開いて、あたりを見廻わした。そこで、すゑが、おばん聞こえるか、と言うと、せいは、勿体ない、勿体ない、と、初めてものを言った。その日、お粥の薄いのを炊いて食べさせると、二口食べて、ああ、おいしいよ。勿体ないよ、と言い、次で、梅干で二杯食べ、次にはトロロも食べて、日一日と力づいて来た。が赤ん坊と同じで、すっかり出流れで、物忘れして仕方がない。そこで、約一ヵ月後、周旋方の片岡吉五郎が、代参でおぢばへ帰って、教祖に、このことを申し上げると、教祖は、『無理ない、無理ない。一つやで。これが、生きて出直しやで。未だ年は若い。一つやで。何も分からん。二つ三つにならな、ほんまの事分からんで』と仰せ下された。せいは、すっかり何も彼も忘れて、着物を縫うたら寸法が違う、三味線も弾けん、という程であったが、二年、三年と経つうちに、だんだんものが分かり出し、四年目ぐらいから、元通りにして頂いた。こうして、49才から79才まで三十年間、第二の人生をお与え頂き、なお一段と、たすけ一条に丹精させて頂いたのである」。
註 夜昼六座とは、坐り勤めとてをどり前半・後半の一座を、夜三度昼三度繰り返して勤めるのである。これを三日三夜というと、このお願い勤めに出させて頂く者は、三昼夜ほとんど不眠不休であった。 |
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高井直吉 |
高井直吉の伝聞が次の様に語られている。せっかく参詣に来たが、折悪しく巡査が入口のところへ立って見張りをしているので、入るわけにいかぬ。さりとて、遠路はるばる来たのだから、目的も果たさずすごすご引き揚げる気にもなれない。当時の信仰者たちは毎度のことで、そんなことには慣れきっている。藁を積んだすすきの陰に隠れたりしながら、じっと根気よく、巡査の立ち去るのを待っている。ところが、意地悪くなかなか去ろうとしない。こうなったら根競べである。暇と根とで辛抱していたら、必ず乗ぜられる隙がでてくる。僅かな隙を見つけたら、こことばかり、これに乗じてお屋敷に飛び込む。
当時は、2段まで出来た「かんろだい」が没収された後に、小石を積んで有って、その側に手洗鉢が置いてあった。ぐずぐずしてはいられない。飛び込むや否や、手を洗って参拝しようとして、手洗鉢に手を入れたところで、巡査に発見されて追われる。そうなれば、参拝する間はおろか、手洗鉢から抜いた手を拭う暇もない。濡れ手のままで一目散に飛んで逃げる。ようやく追手を逃れ、やれやれと我にかえって、フト気付いてみると、相当ひどく患っていた眼疾が、嘘の様に平癒している。眼疾をお助け頂きたいと思って、参拝にやって来たことは事実だが、まだ、何のお願いも申し上げていない。にも関わらず、こちらの心をちゃんと見抜き見透されて、ご守護をくだされていた。こんな事実は、当時にあっては、決して珍しいことではなかった、との話である。 |
鴻田忠三郎 |
同じくこの頃のこと、鴻田忠三郎をめぐっての次のような話しが伝えられている。3.24日(陰暦2.16日)、突然一人の巡査が巡回にやって来た。折悪しく鴻田忠三郎が、入口の間で「お筆先」を写していたばかりでなく、他に泉田藤吉や数名の信者たちも居合わせた。巡査は、「貴様たちはなぜ来ているのか」と咎めた。参拝してはならぬ、させてもならぬというのが、この頃の状況であった。「私どもは親神様のお陰でご守護を頂いた者共で、御礼に参詣して参りました処、只今参詣はならぬと承り戻ろうとして居ります」と、お屋敷の人々に迷惑の掛らぬようにとの配慮を込めて、巧みに言い逃れた。すると巡査は、今度は鴻田に向かって、「貴様は何をしているか」と尋ねた。「私はこの家と懇意の者で、かねがね老母の書かれたものがあると聞いて居りました。農事通信委員でもありますからその中に、良いことが書いてあらば、その筋へ上申しようと、借りて写しております」と答えた。この答えは決して、その場限りの言い逃れではなく、彼が農事通信委員であったことは事実であり、その職責を利用して、既に3月15日付をもって大蔵省に建白書を提出していたことも事実であった。
彼は若いころから、非常に進歩的な人で、穀物の改良品種を作っては、その種子を人々に頒布していたが、そういう経験を買われて、明治維新早々大阪府で綿糖共進会が開かれた際、大阪府三大区から人選されて
これに臨み、農事集談会に会員として加わった。その際、農事通信委員を命ぜられ、その後東京において第二回博覧会が開催された際にも、農事集談会に会員として加わった。こうした経歴を買われて、米どころである新潟県の勧農教員に雇われて、2年間これを勤めて帰国し、明治15年3月
この道に入信したのである。
入信後、教祖の教えに感銘すればするほど、 この有り難い教えが弾圧されることにたまらない矛盾を感じ、何とか当局に正しい認識を与えたいと種々苦心の末、この建白書となったのである。従って、この建白書には、まず先述するような略歴を記し、続いて、最近触れた教祖の教えが、世の人々の心を正しきに導いて、珍しい「おたすけ」 を現わしてくださるばかりでなく、肥え、はえ出、みのり、虫払いなど、 農耕にまで実効をお見せくださる結構な教えでありながら、当局から不当な弾圧を受けている。この教えの有り難さを知って慕い寄る者は、十六、 七カ国にまたがって日毎続いているが、皆当局を恐れて、この真相を上申する者もいない。これはまことに矛盾したことで、自分は幸い農事通信委員という職責を許されているが、その職責の上から考えても、万民を導きたすけて、農作の増進を図るをもって目的とする、この教えを広めることは、世を裨益し、皇国のためになることを強く確信するというような内容を持つもので、自分の立場を利用して、何とか当局の理解を得たいという真情溢れるものである。
こうした事実を、この時の警官が知っている筈もないが、おめも恐れもせず、事実を語っている彼の答弁にたいして、 これ以上は追及できないと見たか、「戸主を呼べ」と言った。参詣人を入れてはならぬとの達しに反し、参詣者を入れた責任を問おうとしたのであろう
が、この時、ちょうど真之亮は、奈良裁判所へ出かけていて留守であったので、その旨答えると、「戸主が帰ったら、この本と手続書とを持参して警察へ出頭せよと申せ」と言い残して引き揚げた。ご守護とは申せ、よくぞこの時、巡査がそのまま「お筆先」を没収して持ち帰らなかったことよと感謝すると同時にヒヤリとする場面である。
奈良から帰って、この事を聞
いた真之亮は、驚きもし安堵もしたが、また、明日の問題に当惑した。言われるままに、「お筆先」を持参して没収でもされたら、それまでである。どんなことがあっても、これだけは持参できない。そこで、この本は、おまさとおさとが焼いてしまったということに口を合わそうと、相談一決して翌日、手続書だけを持って出頭した。まず最初に、蒔村という署長は、
鴻田の写していた本を持参したかと尋ねた。いきなり、一番痛いところをつかれて、「留守番の女たちの話によりますと、あの時、ご巡回の巡査が、天輪王命に属する書類は焼き捨てるようにとの仰せでありましたとかで、
叔母のおまさと同居人のおさとの両名が話し合って、焼却した由に御座い
ます」と答えると、署長の側にいた清水巡査が立ち上がって、「署長、家宅捜索に参りましょうか」と言った。
真之亮はひやっとしたが、署長が「それには
及ばぬ」と言ってくれたので、安堵の胸を撫で降ろした。続いて署長は、「あの時、お前の家に来ていた者は、何処の者で、名は何というか」と尋ねたので、これに対しては、「私は不在でしたので存じません」と答えた。留守居の人に、留守中の出来事は詳しく聞いている筈であるから、知らない筈はない。参拝の人たちに迷惑の及ばないようにと、心を遣っている様子がよくわかる。が、これが為に、「自分の家に来ていた者が誰ともわからぬと申すは、不都合ではないか」と叱責され、その夜、一夜留置された。こうして留置を受けたにせよ、大事な「お筆先」を事なく守り得たことは、何より有り難いご守護であった。 |
飯降伊蔵 |
この頃のこと、既に「伏せこみ」していた伊蔵に対して、教祖は或る日次のようなお諭しをしている。
「伊蔵さん、あんたな、あとになったら、役の上で人の上に立たねばならなくなりますで。そやけど、心は人の一番下に置くのやで」。 |
「心が上がれば、心濁る。心濁れば、神の働きが薄くなるのやで」。 |
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中川徳蔵 |
昭和54.10月発行、高野友治著作集第6巻「神の出現とその周辺」(道友社)57-58pより。
「明治15年頃の話しであろうか。大阪の道修(どしょう)町に慈悲深い薬問屋の主人がいた。いつも一日の商売が終って、金の勘定をするときに、二銭銅貨を別に積んでおいて、それを翌日、自分の家の前を通る乞食に恵んでいたという。後には、この薬問屋が店を開ける頃には、たくさんの人々が店先に並んでいたという。主人は前日の収入の中の二銭銅貨を一人に一枚ずつ渡していた。ところが、この主人が商用で、船に乗って四国か九州に行ったときであろうか、船がひっくりかえって、この主人はただ一人、人の住まない島にたどりつき、辛うじて一命をとりとめた。だが食うものがない。着物は乾かして着たものであろうが、とにかく食糧がなかった。ところが夜が明けて波打ち際に魚が打ち上げられていた。それをいただいて飢えを凌ぐことができた。翌朝もまた飢えを凌ぐだけの魚が上っていた。毎朝きまったように魚が上っていて、その日その日を凌いでいる間に、救いの船が来てくれて大阪へ帰ることができた。その後でこの人は天理教に入信し、教祖のところへお詣りに行き、教祖にお会いしたら、教祖がおっしゃったという。『いつもは、私の子供を助けて下されて有難う。神は心からお礼を申しますで』。そして、『この間は、そのお礼を一寸さしてもらいましたなァ』。これが神の世界なんだろう。この話しは中川徳蔵がよく語っていた話しだと天地組の古い信者から聞いた。中川徳蔵は若い頃、道修町の薬屋の番頭をつとめていたと聞く」。(「いつも子供をたすけて下されて有難う」。 |
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【「五十、六十は、まだ子供や」のお諭し】 |
「年齢について(その二)」( 昭和45年4月発行「史料掛報」第131号、「おぢば参謁記(十)」白藤義治郎より)。
※昨年の9.28日に「年齢について」という御話を紹介させて頂きましたが、その大元の逸話と思われる御話がありましたので紹介させて頂きます。この御話は昨年12.21日に「神明派講元○○平四郎さんの失敗談」という逸話で登場された平四郎さんのお連れの方の逸話であります。 |
「明治15年、後期兵庫真明組が真明講社第1号と神明講社第2組として呱々(ここ)の声を挙げた直後の或る日のこと、神明派の講元、○○平四郎氏が、或る人を伴うて御地場に参詣した。その時、御教祖は門屋と勤場所との伝いの縁側に御出坐しになって居た。二人は、御目に掛って、おねぎらいの御言葉を賜ってから、○○氏の連れ人は、そこで御教祖の肩を揉ませて頂いた。その際、御教祖が、その人に向って、『あんた、どちらです』とお尋ねになった。私は兵庫でおかす(おます?)、と御返事申上げると、更に御教祖から『お幾つになられますか』とお尋ねになった。その人は年齢を問われて、恐縮して、エー神さん、私はもう年寄りに成りました、とのみ申し上げて、わざと年齢を申上げなかったところ、重ねて『お幾つになられますか』と尋ねられて、もう六十です、と御答えした。すると御教祖は、『神様はな、五十、六十はまだ子供やと仰りますでな』と御諭しになった」。 |
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