甘露論その1 かんろだいの理

 更新日/2019(平成31→5.1栄和改元)年.10.29日

 (れんだいこのショートメッセージ)
 お道教義の核心に甘露台(かんろだい)教理がある。ここがみき教義の白眉である故深く考察せねばならない。概略を云えば、「元の理」で諭されている人間宿しこみとその後の成人の「理あい」を見事に表象して居り、その思案は汲めども尽きることがない。驚くべき英知が秘儀化されていると云うべきだろう。

 残念ながら現在、甘露台が据え置かれているところは天理教本部神殿の垣根で囲われた中にあり全体像が見えない。据え置きの周囲の全景が分からないので思案も及ばない。推測するのに、甘露台を陽根としてその台地を陰とする交合の図になっているのではなかろうか、と拝察しうる。道人外の者がこれを見れば淫乱邪宗の極みであり、道人がこれを見れば生命始まりの図としての表象に畏敬するという具合の舞台になっているのではなかろうか。

 本稿では、1・甘露台とは何か。2・その具体的形状はどのようなものであるのか。3・「甘露台つとめ」とはどのようなものか。4・「甘露台信仰」の意義、について見てまいりたい。
 
第60部 ぢば定め、かんろだい建設
第69部 伊蔵伏せ込み、かんろだいの没収と迫害毎日つとめ


【「甘露台(かんろだい)」とは何か】

 天理教インターネット運営委員会による 「かんろだい」の説明によれば次のように述べている。

 「かんろだいは『ぢば』の標識として、その上に据えられる台で、『ぢば』以外の場所に据えることはできません。六角形をした大小13の部分を積み重ねて作られていますが、その全体の姿や、それぞれの形・寸法などは、人問創造と人間の心が改まり本来の姿に戻っていく過程を表現しています」。
 「現在では、天理教教会本部神殿の中央にあり、人間創造の元の地点である『ぢば』に、その標識として据えられており、道人の礼拝の目標となっている。教祖が教えられた寸法通りの13段のかんろだいが初めて造られてのは昭和9年(1934)のこと。木製で雛形かんろだいと呼ばれている。『かんろだいは雨打たれし』と教えられ、真上の屋根はくりぬかれている」。

 甘露台は日本語のひらがなで「かんろだい」と読む。「甘露」(かんろ)とはインドのサンスクリット語の「アミルタ」(amrta)の漢訳で、この「アミルタ」が「阿弥陀」の語源になっている。そういう訳で阿弥陀様は別名を甘露王如来とも呼ばれている。ちなみに、このアミルタ神話を辿るとヒンズーまで遡り、ヒンズーの神はインドラで、インドラとは正義であり、光明である。その反対がアシュラであり、破壊を意味し、暗黒である。このインドラの軍勢とアシュラの軍勢が戦い、勝利を手にしてみても、次の日には殺した筈の兵隊が再び攻めてくるので、いくら戦争をしてもかなわない。よく調べてみると、アミルタという蜜を、戦死した者の口に含ませると生き返る。アミルタは生命の薬であり、その蜜を盗んでインドラの戦死者に飲ませてアシュラの軍勢を負かして勝利をおさめたという神話がある。死者をも生き返らせる生命の寿命霊薬が「アミルタ」という訳である。それが中国語に翻訳された時、「甘露」となった。「甘露」とは、そういう語源を持つ神々(諸天)の常用する飲料で、これを飲むと不老不死になり、死者をも蘇らせるという霊薬を云う。その味は密のように甘い、と云われる。これが仏教にも取り入れられて、不死、永遠の生を意味する涅槃の妙薬とされている。

 甘露台とは、「天の与えたる直食(ぢきもつ)の甘露を受ける台」であり、その直食(ぢきもつ)を頂くと、いつも十八才の心で、病まず弱らずの無病息災のお陰と百十五才定命自由自在のめずらしい守護が約束されている。この世の陽気暮らし世界への立て替えの芯になるものでもあった。

 史実的には、教祖の望んだ「甘露台」は二段積みの普請状態で警察に破壊された。それが完成した暁には、台の上に五升入りの平鉢を乗せて、その中に麦粉を備える。やがて天の与えとして「甘露」が下がり、道人はその直食(ぢきもつ)を授かることにより115歳まで生きられる、とお諭しされていたと伝えられている。

 「甘露台」は「ぢば」に据え置かれる。「ぢば」とは、「元始まり話」による人間創造宿しこみの場所であり、人間世界を創め出した元なる神のお鎮まり下さる所とも解されている。ここに「甘露台」を据え置くという意味は、「人間を初めかけた証拠」の記念碑的意味と、その「元一日」の「親里」を訪ね有り難味に感応せよと云うことにあるように思われる。

 教祖ご在世の頃の道人・高井直吉氏によれば、「甘露台」は、教祖から伺うところによれば、「
肝心要の命のつなぎ場所のかんろふだいという」とのことである。つまり、単なる象徴でもなく「命のつなぎ場所」となる神秘的な磁場作用のある場所ということになる。よって、「ぢば、かんろだい」に直面するということは、親神様に心を真直ぐに向け、「元始まりの理」を聞き分け、「元一日」に立ち戻ることを意味する。ここで行う「甘露台づとめ」は、新たに生命を鼓舞する最高の儀式と云うことになる。よって、甘露台は最高の礼拝対象となる。

 してみれば、「ぢば−甘露台」は、いのちの根源に関わるとともに、時間・空間に限定されない精神的中心をも表す象徴でもある。宗教学者・松本氏は、完成された「甘露台」は「異次元世界への通路」であり、その理想の世界は「新しい人間の誕生を示している」、「新しい次元の生命への飛躍的発展」、「異次元の存在様式が、この世に出現することだ」と解釈して、次のように述べている。

 「この異次元とは、我々の世界が三次元の世界(タテ・ヨコ・高さから成る立方体の世界)ですので、四次元、またそれ以上の次元の世界のことです。一般に二次元(平面)の世界から見ると、奇跡としか考えられないようなこと、例えば、上下の移動などは、三次元の世界では当たり前の事です。それと同じように三次元の世界では全く思いもよらぬ不思議な事も、四次元の世界から見れば何でもないことなのです。二次元世界が三次元世界に接触するとすれば、それは平面の上下二方向においてです。そこから類推すると、三次元世界が四次元世界にふれるのは、立方体の六面、六方向と言えるかも知れません。とすれば異次元の力は、“六”の角度から我々の世界に入りこんでくることになります。六角の段を積み重ねたかんろだいは、今日的に考えれば、異次元の世界への通路、つまり人間の常識を遥かに超えた神の働き、天のエネルギーを受けるアンテナのようなものと言えるのではないでしょうか。また、そうであればこそ、『肝心要の命のつなぎ場所』であり、不思議なたすけの根源たりうるのであります」。

(私論.私見)

 上述のような理解もあろうが、れんだいこは次のように考える。「甘露台」とは、みき教理の核を為す「元の理」を表象した六角の台柱であり、ここに「元の理」が見事に具現されている。この台を人間宿し込みのぢばに据えて、これを取り囲むようにして神楽づとめを為すことにより、不思議な感応と効能が現われる。甘露台の上部に据えられた平鉢は天から授かる「ぢきもつ」であり、これを授かることにより人は病まず弱らず115歳の定命まで生きられることになる。このような教義体系の形の芯を為すものである。即ち、「元の理が文の芯、甘露台は形の芯、かんろ台つとめはその精華」であろう。

 2012.3.24日 れんだいこ拝
 第四首 天理市のルーツをさかのぼるを参照する。

 フランスの哲学者ルネ・ゲノンという説によると、本来の「伝統」とは、「世界の中心」(ぢば)に発る「始原の原理」(元の理)への回帰を目的とする超歴史的な精神性を伝えるものでなければならない。それは永遠性の復活と、唯一無二の原初の秩序を目指すものである。原初の伝統を受け継ぐ象徴として「聖杯」(平鉢)があり、その中に満たされるのは「不死の飲み物」(甘露)である。甘露とは古来より言い伝えられてきた言葉で、仏典にも伝えられ、ヒンドゥ教では「ソーマ」と呼び、いずれも「不死の飲み物」という意味がある。世界の精神的中心」としての聖地(ぢば)には、必ず天の水(甘露水)を受ける容器、即ち「聖杯」(平鉢)が準備されている。さらに「世界の中心」を表象するものとして「聖石=オンファロス」(石の甘露台)がある。その材質は、もともと御影石(花崗岩)であり、御影石は昔から「神の石」といわれてきた。ほとんどすべての民族には聖石(オンファロス)という象徴物がある。ギリシャ語のオンファロスは、「へそ」を意味すると同時に、中心となる車軸をはめる穴(こしき、ハブ)、さらにはあらゆるものの中心を示す意味がある。ゲノンが直観的に把握した「伝統」の意味を展開すると、時空を超えて彼のいう永遠の理が「ぢば・かんろだい」にそのまま具象化されていることに驚きの念を禁じ得ない。

 甘露台には「元の理」の象徴として、その形質の中に親神様の思召しのすべてが凝縮されている。甘露台には人間の想像を絶する力が潜んでいる。松本滋氏の表現を借りれば、ピラミッド・パワーどころではない「甘露台パワー」が潜在していることになる。

【かんろだい普請の挫折考】
 明治6年、教祖が、飯降伊蔵に命じ、甘露台の雛型をつくらせている。高さ六尺、直径三寸の棒の上下に直径約一尺二寸厚さ三寸の板をつけたものであった。明治8年、ぢば定め後、初めて甘露台が「ぢば」に据えられ、この頃身上になっていたこかんの平癒を祈願して、こかん身上の「お願いつとめ」をしている。明治14年5月、甘露台の石普請が行われる。(二段までで石工がいなくなる) 明治15年5月12日、奈良警察署長、上村行業が警官を率いてきて、二段出来ていた甘露台を没収する。 

【御神楽歌、お筆先に於けるかんろだいの記述】
 ここで、「かんろだい教理、天の与え食物(じきもつ)論」教理を確認しておく。 

 
御神楽歌、お筆先には次のように記されている。
 あしきをはらうて 助けせきこむ
 一列すまして 甘露台
すわりつとめ地歌
 ほこりさい すきやかはろた 事ならば
 あとハめづらし 助けするぞや
三号98
 しんぢつの 心次第の この助け
 病まず死なずに よハりなきよふ
三号99
 この助け 百十五才 ぢよみよと 
 さだめつけたい 神の一ぢよ
三号100
 今迄ハ 証拠ためしと ゆへあれど
 甘露ふ台も 何のことやら
三号108
 面白や 多くの人が 集まりて
 天の与えと 云うて来るぞや
四号12
 この世うの 人間始め 親なるに
 天の与えは あると聞けども
八号78
 この話し 何のことやら 一寸知れん
 月日食物(じきもつ)やろう と云うのや
八号79
 この話し どういうことであろうなら
 甘露う台に 平鉢を載せ
八号80
 この先は あっちこっちに 身にさわり
 月日出入り すると思えよ
八号81
 きたるなら 我が身さわりと 引き合わせ
 同じ事なら 早く掃除を
八号82
 掃除した ところを歩き 立ち止り
 その所より 甘露台を
八号83
 したるなら それよりつとめ 手を揃い
 早く掛かれよ 心勇むで
八号84
 こればかり 何処訪ねても ないほどに
 これ日本の 真の柱や
八号85
 これさい確か 見えて来た 事ならば
 どんなものでも 怖るものなし
八号86
 何云うも 真実なるの 証拠うが
 見えんことには 後の模様を
八号87
 どのような 高いところの 者やとて
 自由よう次第に 話しするなり
八号88
 どの様な 事を教えて かかるのも
 元なる親で なくばいかんで
八号96
 今迄も 何を教へて 来るのも
 皆なこの通り 始めかけたで
八号97
 人間を 始めた親が もう一人
 どこにあるなら 尋ねいてみよ
八号98
 この世の 知らぬことをば 段々と
 言ふてあれども これが誠や
八号99
 日々に 知らぬことをや ないことを
 これ教へるが 月日楽しみ
八号100
 この世の 人間始め 親なるに
 天のあたへは あると聞けども
八号101
 この話 何のことやら 一寸しれん
 月日じき物 やろと言ふのや
八号102
 この話 どう言うことで あろうなら
 甘露台に 平鉢をのせ
八号103
 この先は ああちこふちに 身に障り
 月日て入りを すると思へよ
八号104
 来るなら 我が身さわりと 引合わせ
 同じことなら 早くそうじを
八号105
 どの様な 高い所の 者やとて
 自由自在に 話しするなり
八号111
 月日より 飛び出た事を 聞いたなら
 甘露台を はやく出すよふ
九号18
 甘露台 据えるところを しいかりと
 ぢばのところへ 心づもりを
九号19
 これさいか たしか定めて をいたなら
 どんな事でも 危なきはない
九号20
 これからは 何の話しを するならば
 甘露う台の 話し一条
九号44
 今なるの 甘露台と 云うのはな
 一寸(ちょっと)の品型 までのことやで
九号45
 これからは 段々しかと 云うて聞かす
 甘露台の 模様ばかりを
九号46
 この台を 少し掘り込み さし渡し
 三尺にして 六角にせよ
九号47
 今までに いろいろ話し 説いたるは
 この台据える 模様ばかりで
九号48
 これさいか しっかり据えて おいたなら
 何も恐みも 危なきもない
九号49
 月日より 指図ばかりで したことを
 これ止めたなら 我が身止まるで
九号50
 これを見て まこと真実 結構と
 これは月日の 教えなるかよ
九号51
 この台が でけたち次第 つとめする
 どんなことでも かなわんでなし
九号52
 この台も いつどうせいと 云わんでな
 でけたちたなら つとめするぞや
九号53
 これさいか つとめに掛かり 出たならば
 何かなわんと 云うでないぞや
九号54
 これを見よ 確かに月日 食物の
 与えしっかり 確か渡する
九号55
 どのような ことでも確か 真実の
 証拠なければ 危うきいこと
九号56
 これからは どのよな事も 段々と
 細かしく説く これ背くなよ
九号57
 この話し 何を云うやと 思うなよ
 甘露う台の 模様一条
九号58
 この台も 段々と つみあけて 
 またそのゆへハ 二尺四寸に
九号59
 その上へ 平鉢載せて おいたなら
 それより確か 食物をやろ
九号60
 食物を 誰に与える ことならば
 この世始めた 親に渡する
九号61
 天よりに 与えを貰う その親の
 心を誰か 知りた者なし
九号62
 月日より 確かに心 見定めて
 それより渡す 食物のこと
九号63
 月日には これを渡して おいたなら
 後は親より 心次第に
九号64
 どのような 難しくなる 病でも
 つとめ一条で 皆な助かるで
十号20
 つとめでも どういうつとめ するならば
 甘露台の つとめ一条
十号21
 この台を どういうことに 思うかな
 これ日本の 親であるぞや
十号22
 これさいか まこと真実 思うなら
 月日見分けて 皆な引き受ける
十号23
 つとめさい ちがハんよふに なあたなら
 天のあたえも ちがう事なし
10.34
 この度の 甘露台と 言ふのもな
 これも今迄 知らんことやで
十号77
 どのような ことを云うのも 皆な月日
 知らんことをば 教えたいから
十号78
 この屋敷 甘露う台を 据えるのは
 人間始め 掛けた証拠う
十号79
 今までは 何の道やら 知れなんだ
 今日から先 道が変わるで
十七号1
 この道は どういうことに 思うかな
 甘露う台の 一条のこと
十七号2
 この台を どういうことに 思うている
 これは日本の 一の宝や
十七号3
 これをばな 何と思うて 皆なの者
 この元なるを 誰も知るまい
十七号4
 このたびは この元なるを 真実に
 どうぞ世界へ 皆な教えたい
十七号5
 この元は いざなぎぃと いざなみの
 身の内よりの ほん真ん中や
十七号6
 そのとこで 世界中の 人間は
 皆なそのぢばで 始め掛けたで
十七号7
 そのぢばは 世界一列 どこまでも
 これは日本の 故郷なるぞや
十七号8
 人間を 始めかけたる しよこふに
 甘露ふ台を 据えて置くぞや
十七号9
 この台が 皆な揃いさい したならば
 どんな事をが かなハんでなし
十七号10
 今までは この世始めた 人間の
 元なるぢばは 誰も知らんで
十七号34
 このたびは この真実を 世界中へ
 どうぞしっかり 教えたいから 
十七号35
 それ故に 甘露台を 始めたは
 本元なるの 所なるのや
十七号36
 こんな事 始め掛けると 云うのもな
 世界中を 救けたいから
十七号37
 それをばな 何も知らざる 子供にな
 取り払われた この残念わな
十七号38
 この道ハ どふゆうことに 思うかな
 月日残念 いちじよのこと
十七号57
 この残念 何の言と 思うかな
 甘露台が 一の残念
十七号58
 お指図は次の通り。
 「面々年々のあたゑ、薄きは天のあたゑなれど、いつまでも続くは天のあたゑという」。(M21.9.18日)
 「にん/\の理によってあたえだけはある。どれだけ思えども、あたえだけの事」。(M23.12.17日)
 「欲しいと言うてあたゑはあろうまい。心にたんのう持たねばなろうまい。(M24.5.20日)
 「あたゑというは、どうしてくれこうしてくれと言わいでも、皆出来て来る。天よりの理で出来て来る」。(M26.11.28日)。
 「渡世商売という〜〜〜、一時には良いように思う。(中略)数々商法中にせいでもよいものもある。よう聞き分け。せいでもあたゑ、ならん事すれば理を添えて後へ返える」(M31.6.29日)
 「あたえは天にある、理にあたえる」。(M32.8.22日)

【甘露台の形状について】
 甘露台は下図のような形状をしている(「神一条にようこそ」「かんろ台について」より転載)。「天理と刻限」の資料の項のかんろだいの形状についてでは、「横から見た図」、「上から見た図」、「ホゾの図」が記載されている。
 
 これを概略すれば、甘露台は六角の段を十三段積み上げたもので、その積み上げ方は先ず二段、ついで十段、更に一段と、合わせて十三段重ねて、その総高さは8尺2寸(約2.4メートル)、その上に5升入りの平鉢を乗せ、この平鉢に天からの甘露が降り注ぎ、これが授けられるという仕組みになっている。

 宗教学者・松本滋氏(聖心女子大教授・谿郷分教会長)は、「考えてみれば、世にも不思議な台であります」と述べている。
 
 
 甘露台について、稿本教祖伝(129頁)に次のように簡潔に説明されている。
 「かんろだいは、人間創造の証拠として元のぢばに据え、人間創造と成人の理を現わし、六角の台を、先ず二段、ついで十段、更に一段と、合わせて十三段重ねて、その総高さは八尺二寸、その上に五升入りの平鉢をのせ、天のあたえたるぢきもつを受ける台である」。

 これをもう少し確認しておく。(「かんろだいの理」その他参照)

 甘露台の構造は、人間創造(宿し込み)とその成人の理を現わしており、寸法、形状、段数につき六角、六寸、一尺二寸(六の倍数)、三尺、八寸などと定められ、それにはそれぞれ理由があり、成人の段階を表す「お諭し」の含意が込められている。但し、その悟り方は一様ではなく、銘々の思案するところに任されている。


 甘露台の柱は男性性器、下の二段の受け台は女性性器を象徴している。この二つが上下がホゾで組み合わされ、陰陽「二つ一つ」に合わさっている姿は、夫婦による人間宿し込みを象徴している。この赤裸々性の裡に哲理を見出すのがみき教義の特質でもある。それは生命の発生過程を象らせており、教祖の透徹した生命誕生譚である「元の理」に由来している。

 甘露台の下の二段の台が六角形になっている意味については、「元始まり」の話による「六台はじまりの理」と伝えられている。その理は、十柱の神の中で中心的な理をあらわす月日親神のくにとこたち(水)、をもたり(火)、男女のひながたのいざなぎ(男雛型)、いざなみ(女雛型)、男女一の道具のつきよみ(男一の道具)、くにさづち(女一の道具)の六柱がまさに台の神であるという意味が教えられている。それらの神の守護により、ない人間、ない世界が始められたとして、その理を表象している。お道では、特に人間の創造に関係の深い六通りの神のはたらきを「六台はじまり」と呼ぶ。

 易学では六は水を表し根源を示す数といわれている。科学的には、すべての生物の細胞、水の分子は六角形を基本としていることが分かっている。六角形というのは、いのちの根元である水の結晶の基本的な形でもあると云う。「水の結晶は、自然や身心から発する波動の変化に応じて、結晶の形が千変万化することが、世界で初めて江本勝氏によって実証されている」とある。[写真]氷の結晶(上は精製水の結晶、下は愛の気を送った水が美しく変化した結晶・撮影は、いずれも江本勝氏による)

 第一段目の一番下の基盤台の差渡しは三尺、厚みは八寸八分の六角形をしている。「この台を少し掘り込み差し渡し、三尺にして六角にせよ」(九号47)。この差し渡しというのは辺から辺であって角から角ではない。差渡しの三尺というのは、元一日の日の三日三夜にわたっていざなみの胎内に宿し込まれた理を寓意している。その後いざなみは三年三月の間、ぢばに留まっていたとも教えられており、これをも寓意している。又は、火、水、風を表象しているとも云われている。

 厚みの八寸というのは、八方の方位と神の揃うた理及び八方広がりを寓意している。あるいは、八千八度の生まれ変わりと進化を寓意している。

 第二段目の台は差し渡し二尺四寸、厚み八寸の六角形をしている。二尺四寸と云うのは、人間が産まれる時二寸に四寸の穴より出て、二尺に四尺の穴に帰る「二四の理」を寓意している。 

 三段目から十二段目までは差し渡し一尺二寸、厚みが六寸の六角形をしている。真ん中の十段がすべて一尺二寸というのは「十二」の数を意味し、この数は一年十二ヶ月、一日が旧暦では十二刻、空間的には天の黄道十二宮、十二方位を表し、全体的な秩序と完全性を表している。六角を二倍すると十二という数になる。六と六を合わせると天地の理、二つ一つの理になる。をもたりのみことの頭が十二ある理によるとも云われている。厚み六寸は、ない人間ない世界をこしらへた際の六台の理を表象している。

 この上に石数十個が積み上げられている。この十個は充分たっぷりという理による。そして一番最上段、十三段目は笠石で、差し渡し二尺四寸、厚み六寸の六角形をしている。

 また、十二段に積み上げられる柱状の台は上下がホゾで組み合わされ、陰陽「二つ一つ」になっている。各段の上面中央には、五分の深さの丸い穴が、直径三寸で刻まれてあり、又、それぞれの段の下面には、それに見合った寸法のホゾ、つまり、三寸の直径で五分の出っ張りがあって、下段の穴に組み合わされ、十三段が上下ぴたりと結合するという構造になっている。「考えてみれば、世にも不思議な台であります」と松本滋氏は解説されている。

 甘露台十三段の全長は八尺二寸となっている。これは、十三は十分身につく理、八尺は八方広まる理、二寸は月日二神の理を寓意している。

 甘露台の最上段に五升入りの六角の平鉢を乗せて、その中に五穀の司と云われる大麦を五升入れて置く。この台に向かい、神楽づとめを行うと平鉢に天からの甘露(霊水)が降り注ぎ、神楽づとめで願をかければ、天より晴天の夜「甘露)」が下がり、道人はその「甘露)」をコンロで熱し手臼(うす)で挽いて粉にした「ぢきもつ」(寿命薬)を授かることにより115歳まで死なず弱らず生きられる、この者達が、世の陽気暮らし世界への立て替えの芯になる、とお諭しされていたと伝えられている。このことが、お筆先に次のように記されている。

【仏説「五輪の塔」考】
 五輪とは、地.水.火.風.空を指す。これを五大と云う。地は四角で表し、下腹までの下半身を指す。水は円で腹を指す。火は三角で、心臓を指す。風は半円形で、顔を表す。空は頭。こういう五輪の塔をつくり、ここに識という精神作用を加え、六大と言う。これが生き物の実態と見なされている。「お道」の「これで六大しかと治まる」の言葉は、この仏教的教理を引き継いでおり、身体の世界も意識の世界も治まるというぐあいに理解している。

【「甘露台つとめ」について】
 「甘露台つとめ」とは、「人間創造宿しこみの場所であり、人間世界を創め出した元なる神のお鎮まり下さる所」である「ぢば」、そこに据えられた甘露台を芯にして、これを取り囲んで行う神楽であり、人間宿しこみの「元一日の日」を追体験することにより、親神の思いを継承し、そのご守護を戴く有り難い重要な天理教の最高儀式である。「甘露台つとめ」では、「元始まり話の理」に合わせてそれぞれ役割の違いを持つ十人衆が象徴的な神楽面を付け、それぞれの機能を助け合いながら各自の働きを踊りつとめで象徴する。これを小鼓、摺り鉦、太鼓、拍子木、ちゃんぽん、笛(以上、男鳴り物)、琴、三味線、胡弓(以上、女鳴り物)の9つの楽器が伴奏する。これに「み神楽歌」に合わせて踊るつとめが加わり、合わせて「甘露台つとめ」と云う。

 「甘露台つとめ」では、親神の十全の守護が身振り手振りで表される。つまり、親神が混沌とした泥海の中から人間を創造された不思議な働きの理を今に再現し、自由自在(じゅうようぢざい)の守護のエイトスをここに顕現する。甘露台を取り囲んでつとめるので「甘露台つとめ」とも呼ばれる。

【甘露台信仰の意義について】
 よろづ(萬づ)助けに向かう道人は、「甘露台つとめ」を通じて、人間宿しこみの「元一日の日」を追体験する。これにより、「元始まりの理」にこもる親神の思いを継承する。「甘露台つとめ」は、そのご守護を戴く有り難い重要な儀式となっている。

 「甘露台つとめ」では、親神の十全の守護が身振り手振りで表される。つまり、親神が混沌とした泥海の中から人間を創造された不思議な働きの理を今に再現し、自由自在(じゅうようぢざい)の守護のエイトスをここに顕現する。甘露台を取り囲んでつとめるので甘露台づとめとも呼ばれる。

 「甘露台つとめ」は、道人に「元一日の理」を思い出させ、目覚めさせ、その英気を授け、人類の陽気ぐらし創りへと向かう際の目標(めどう)としての意義を持ち、これら一切の士気を鼓舞する作用を持つ。

【「おさしづに観る甘露台信仰の意義」について】
 1936(昭和11)年の「みちのとも」1月号P24〜25で、次のお指図が披瀝されている。
 「どうも案じることばかりや。十人の者なら九人の者まで逃げ、残る一分は真実やで。さあさあ今芽へ出る。さあ実がのる。この実が正味でさあさあ西も東も北も南も、大風、大雨になる。さあさああちらへ逃げ、こちらへ逃げ、逃げるところもないという。さあ杭に例えて話する。幾百本の杭を打ち込めども、さあこちらで五本あちら八本、こちらでもあちらでも抜け、抜けたる杭は流れてしまう。抜けた残りはさぁ揺りこむで。揺りこむ揺りこむほどに、これが伏せこみのこふきとなる。

 さあさああちらの岡が亡くなる。こちらの国が亡くなる。あちら残りこちら残り、残るところは有りや。何故に残りたいと云う。あれは大和の国山辺郡の元庄屋敷という所にかんろうだいと云うものある。いづれは日の本創め人間の創め、元々の地場の証拠に伏せてあるかんろうだいなり。あのかんろうだいを唱えたら、悪事災難逃れること、かんろうだいと一言なりと云うたなら、その難を逃れる」。
 概要「かんろうだいというは、真実見定めの験しを拵えたもので、金と銀と鉛としょうもないかねとを吹き分ける」。

【仮甘露台について】
 教祖みきは、「甘露台つとめ」を通して親神の思惑に立ち帰り、改めて悟ることにより自ずと生命の勇みを貰う作用を期待していたと思われる。「甘露台つとめ」こそがみき教義の完結系であり、1875(明治8)年、教祖78歳の時、ぢば定め、続いて甘露台普請に取り掛かっていたところ、1882(明治15)年、教祖85歳の時、当時二段までできていた甘露台の石が奈良警察によって取り払い没収されるという事件が起こり、以降、教祖の存命中には甘露台が据えられることなく終わった。 

 つとめの地歌は、初め「いちれつすますかんろだい」と教えられていたが、甘露台取り払い事情の後に「いちれつすまして……」と変えられている。二段まで出来ていた石を没収された後のぢばには、直径三、四寸の票石が高さ一尺ぐいに積み重ねられていた。この間、道人は、取締りの警官の目を盗んで門から飛び込んで行き、「人々は綺麗に洗い浄めた小石をもってきては、積んである石の一つを頂いて戻り、痛む所、悩む所をさすって、数々の珍しい守護を頂いた」(「教祖伝」239頁)。その石を頂いて患部をさすると、どんな病気も鮮やかにご守護頂いたという話が残っている。
 明治21年、板張りの二段甘露台が据えられる。「仮甘露台」について、次のようなお指図がある。
 「さあさあ天理教会やと云うてこちらにも始め出した。応法世界の道、これは一寸の始め出し。神一条の道は、これから始め掛け。元一つの理というは、今の一時と思うなよ。今までに伝えた話、かんろ台と云うて口説き口説き詰めたる。さあさあこれよりは速やか(に神一条の)道から、今の間にかんろ台を建てにゃならん、建てんならんという道が今にあると云う」(明治22.4.18日)。

 明治22.4.18日午後10時、お指図
 「今までに伝えた話、かんろだいと言うて口説き口説き詰めたる。さあ/\これよりは速やか道から、今んまにかんろだいを建てにゃならん、建てんならんという道が今にあるという」。

 明治24.2.17日、お指図
 (同時、かんろだいの雛形破損に付、木にて新調仕りますや、又は修復致して宜しう御座りますや願)
 「さあさぁつくらいにして置くがよい。つくらいでよいで。さあ/\つくらいにして置くがよい。つくらいでよいで」。

 1997(明治30)年、仮甘露台が設置されることになり今日へと至っている。そういう意味では、教祖みきが思念した「甘露台つとめ」は未完のまま終り、「仮甘露台つとめ」が行われていることになる。但し、教祖みきが今日の「仮甘露台つとめ」を了としたと云うことであれば、仮ではなく本勤めとなるであろう。

 明治30.7.14日、お指図は次の通り。
 「ぢば証拠人間始めた一つの事情、かんろうだい一つの証拠雛型を拵え。今一時影だけのもの云うて居るだけでならんから、万分の一を以って、世界ほんの一寸細道を付けかけた。(中略)天理教会と言うて、国々所々印を下ろしたる。年限経つばかりでは楽しみないから、一時道を初め掛けたる。神一条の道からは、万分の一の道を付けたのやで」。

 昭和9年10月、現在の木製十三段の雛型かんろだいが据えられる。
 「真座のまなか、ぢばにお鎮り頂きました親神様の御前に眞柱中山正善慎んで申上げます。只今仮の御座所で申上げました通り、立教百年祭を御迎へする仕度として親神様の御守護の下に神殿の改築と礼拝殿の増築をさせて頂きました。とりわけ神殿は親神様の思召しに則り、芯を土台に四方正面に形造り、ひながたではありますが、木製の甘露台をも造らせて頂きました。従って今後は陽気神楽のつとめを始め、一切の神事をお言葉に則り勤行(ごんぎょう)させて頂きたく存じて居りますが、然し成人への道すがら中で御座いますので、御思召にかなはぬ点も沢山ある事と存じます。何とぞ私共子供の心をおくみ下さいまして、今日からはこの甘露台にお鎮りの上、子供等がまごころこめて御願ひ申上げる事柄を御聞き取り下され、ろくぢにふみならす親神様の御心を畏(かしこ)み、尚も世界たすけの為に勇ましく働かせて頂く私共の堅い決心を御受け下さいまして、一列一体の道を早くおつけ下さいますよう一同に代って慎んで申上げます」。
 (田川虎雄『祭文のてびき』30頁参照、「甘露台の歴史」より)
 なお、後に、本来、甘露の食物を「お供え」として信者に払い下げする予定であったと思われるが、甘露台が取り壊されてより不可能となった。そういう事情から仮に洗米を小袋に包んで手渡す儀式が執り行われるようになった。「をびや許し」の場合には「をびや御供え」が別に用意されている。教祖の時代は、お指図の中で、「何もお供え効くのやない。心の理が効くのや」と諭されている。教祖後になると、本部がその一手販売権を握ることになった。
 宮家 準(國學院大學神道文化学部教授)「民俗宗教における柱の信仰と儀礼」の「7.天理教のかんろだい」は次のように記している。
 「かんろだいは本部神殿中央の一段低い所の「ぢば」に設定された神域の中心に立てられ、その周囲が礼拝所となっている。またこの中央神域の上方の屋根には6尺四方のくりぬきがあって空が見とおされ、雨水が直接入るようになっている。その位置はみきが指示して以来不動である。かんろだいは正六角形の立方体を13 段積み重ねたもので、台座とも思える1段目は径3尺厚さ8寸、2段目は径2尺4寸、厚み8寸、3段目から12 段目までの10 個はいずれも径1尺2寸、厚さ6寸となっている。そして13 段目は2段目と同じく径2尺4寸だが厚さは6寸である。全体の高さは8尺2寸である。なお各段の上中心に深さ5分、直径3寸の丸い穴、下部中央には同じ寸法のほぞがつくられていて、上段の立方体が下段のそれにはめこむようになっている。(図11「天理教本部のかんろだい」参照)なお材質はみきは当初石造りを指示し、その試みもなされたが、現状は檜である。教義のうえでは、この台の上に5升入りの平鉢をのせ、台の下でつとめ衆が「かんろだいのつとめ」を陽気につとめると、天の親神天理王命から115 才までの定命を保つ「かんろ」が授けられるとしている。ちなみに天理教では神殿の四方に配された教団の建造物のすべてをかんろだいの礼拝所とし、全国の各教会の神殿も「ぢば」の方向にむけて建てられている」。
 「かんろだいのつとめ」は真柱(教主)が選んだ真柱夫妻を含む、男・女各五人の教団幹部によって、かんろだいの周囲の神域で行なわれる。なお「かんろだいのつとめ」が実施されるのは、毎年、元旦祭(1月1日)、春の大祭(教祖の命日、1月26 日)、秋の大祭(立教の日、10 月26 日)、教祖誕生祭(4月18 日)、毎月26 日の月次祭である。つとめ衆の10 人は図12「かんろだいのつとめの配置図」に示すように親神(日月親神とも)・天理王命を示す「かんろだい」の八方(男女8人)と東側に男女各1人のように配される。そして、北と南の人は獅子面、西北の男性は天狗面をつけ背に鯱、東南の女性は女面で亀を背におう。他は男性は男面、女性は女面をかぶる。服装は男性は紋付で黒袴、女性は紋付で帯をしめている。そしてこの10 人は、神楽歌の地唄、鳴物にあわせて、それぞれ独自の特徴的な所作を行なう。その基本は天理教の経典「こうき(泥海古記とも)」に記載の、人類誕生と陽気ぐらしの起源を演じることによって、始源の陽気ぐらしの生活に立ちかえって再出発をはかるというものである。(中略)かんろだいのつとめにあたっては、10 人のつとめ衆のうち8人はかんろだいの周囲、2人の男女は東側(本来は中央だが、台があるのでここに位置する)でこの神話を演じている。まず親神が鯱(男)@と亀(女)Aに男女の道具を与える。次いでこの二神の尾にむすばれたB・C・D・Eの四人の神が陽気ぐらしに必要な道具をととのえる。そのうえで親神の日の性格が東のいざなぎ、月の性格が西のいざなみの身体に入る。その際いざなぎは種、いざなみは苗代を示し、そのまじわりで数多くの子供が生まれ、その子供は飲み食い、息、引き出し、切るなどの道具衆の神々の助けで陽気ぐらしを行なっていることが演じられている。そしてこの陽気気づとめが楽しくなされると、それを祝がれた親神、天理王命が天から甘露の法雨をそそがれるとしているのである」。

【甘露台石普請考】
 何故、甘露台は石でなければいけないのか?。それは「石の永遠の理」による。石には太古から神が宿ると云われいる。神社に磐座があり、世界各地に霊石、聖石といわれる石が保存されているのはこれによる。いのちの母なる地球(ガイア)では、川は血管、地表は皮膚、海の満干は呼吸、森は毛皮、そして岩石は骨に当たる。人体でも骨格(バックボーン)がなければ起立することができない。石は意志に通じると悟ることもできる。

【甘露台逸話考】
 「『甘露台は、月日の眼みたいなものやで。皆世界の子どもの心が写ってある』とは、清水の母が、教祖様からお聞きしたと言っていました」。
 (「甘露台は 」、「復元」第十四号 「教祖様にお目にかゝつた頃」清水由松より。※清水の母とは、清水与之助の妻”はる”の事)
 「次の話は、教祖ご在世中の、明治19年の話である。大阪府南河内郡赤坂村(金剛山の下)の東條為次郎は、生まれ子が、乳も呑まず、段々痩せ細っていくのを見て、ある日、天理に赴き、”かんろだい”の”ぢば”にお願いした。すると、ある人が出て来て、あんたは河内から子の患いについてお詣りに来た人か、ときいた。はい、そうです、と答えると、その人は、神さまがお呼びだから、こちらへおいで、と御休息所においでの教祖のところへ連れていった。(当時の信者たちは教祖を神さまと呼んでいた) そのとき、教祖の仰せには、『神は育たんような子は授けてないで』とおっしゃったという。教祖が御休息所にお入りになってからは、誰も彼もすぐ教祖の前に出て、お伺いできなくなったようである。だが、教祖は、誰が今どういうことで”かんろだい”の”ぢば”にお願いに来ているか、ご存知であったらしい。また、そのころになると、教祖は、『甘露台へ行ってお願いしなさいや。私はここから添い願いをしてあげる』 とおっしゃったといわれる。

 明治18年、神戸花隈の松田くにがいろいろの病気にかかり、夫の常蔵が、今は教祖にお願いするより道はないと、途中は船や人力車に乗せて天理へ運び、それから、常蔵が女房のくにを背負って、教祖のおいでになる御休息所の縁側へ連れていき、くにをおろして、神さま助けて下さい、と願ったという。そのとき、『
遠いところ、よう連れて来たなあ。亭主であればこそなあ』と労(いた)わられ、いろいろお言葉を下され、『私はたすけんで。甘露台へ行ってお願いしてや。私はここからお願いさせてもらう』、とおっしゃったという」。
 (「添い願い」、昭和56年9月発行「ムック天理第五号ーぢばの光」(道友社刊)〜「神の世界に生きた人びと」高野友治より )

【バチカン市国のサンピエトロ寺院大聖堂について】
 イタリアのローマ。ここにカトリックの総本山である「バチカン市国」がある。面積13万2千坪の世界で一番小さな国である。人口は八百人足らず。そのカトリックの大本山の中心にサンピエトロ寺院がある。ローマ法王が挨拶される映像をテレビなどで見ることがあるところである。その寺院の両脇に円柱で囲まれた廊下がある。全長は211メートルの円柱回廊が大聖堂の両脇にある。このサンピエトロ寺院は六万人が入るほどの世界一の大聖堂で、ルネッサンス時代に120年かけて建築されている。ミケランジェロ・ブラマンテなど様々な優秀な方々が造り上げた彫刻・壁画天井が素晴らしい芸術品となっている。その大聖堂の中心に一段下りていく場所がある。そこはローマ法王だけが入ってミサをする場所で、西暦六、七十年頃に、聖ペトロがローマに布教に来た際に、当時の暴君・ネロ皇帝に逆さまに磔(はりつけ)にされて亡くなった場所である。代々の法王の柩もそこに納められている。その墓の上にサンピエトロ寺院が建てられている。
 (吉岡孝之近愛会長「大きな心の器で節を受ける 」の「世界一の大聖堂」その他参照)





(私論.私見)